第197回 リスペクトレコード代表 高橋研一氏インタビュー【前半】

インタビュー リレーインタビュー

高橋研一氏

今回の「Musicman’s RELAY」はMUSIC CAMP, Inc.代表 宮田信さんからのご紹介で、リスペクトレコード代表 高橋研一さんのご登場です。尾崎豊の日比谷野音でのライブに衝撃受けた高橋さんは、未経験で音楽業界へ飛び込み、アナーキーのロードマネージャーを皮切りに、麻田浩さんの元でSIONのマネージャーなどを務めた後、ソニー・ミュージック・エンターテイメントへ入社。ネーネーズの制作や、真心ブラザーズ、スチャダラパー、杏子、聖飢魔Ⅱなど数多くの所属アーティストの宣伝に携わります。

ソニー退社後の1995年にリスペクトレコードを設立。スラック・キー・ギタリスト山内雄喜やソウル・フラワー・モノノケ・サミット、また沖縄の登川誠仁や琉球交響楽団、そしてヨーロッパのアーティストや純邦楽など、多くの話題作を送り出し、その丁寧な制作姿勢はコアな音楽ファンから支持されてきました。今回は、ご自身のキャリアから音楽制作に対する信念までじっくり伺いました。

(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦 取材日:2022年9月15日)

 

ラジオから流れる音楽に夢中になった少年時代

──前回ご登場頂いたMUSIC CAMPの宮田信さんとはどのようなご関係なんでしょうか?

高橋:宮田さんがBMGにいらっしゃったときに、ジョージ・ウィンストンがプロデュースするDANCING CATというハワイアンのレーベルを担当されていて、僕も1995年にリスペクトレコードを作ってから、ハワイのスラック・キー・ギタリストの山内雄喜さんのアルバムを出していたので、「ハワイ」というキーワードから知り合いました。その後、宮田さんはMUSIC CAMPを作られて事務所が近かったので、ちょくちょくお目にかかったりしていましたね。

──それは、インディーズレーベルをやっている者同士として。

高橋:そうですね。今回久しぶりに宮田さんに連絡をとったのは、スペイン語の対訳をできる方を探したかったからです。ご存じのように宮田さんはチカーノ音楽をやっていらっしゃるので、それでスペイン語の対訳者をご存知かと思って連絡をとりました。

──わかりました。ここからは高橋さんご自身の話を伺いたいのですが、お生まれはどちらですか?

高橋:生まれは滋賀県の石山というところです。

──その石山にはいくつまでいらっしゃったんですか?

高橋:滋賀にいたのは小学校に入る前までで、本当に幼少の頃です。

──それはお父さんのお仕事の関係で引っ越されて?

高橋:そうです。親父が大阪検察庁とか奈良検察庁に勤める国家公務員で転勤が多かったものですから、小学校からは大阪の吹田市というところで過ごしました。

──吹田にはいつまでいたんですか?

高橋:吹田は中学までいました。中学からは奈良で生駒中学に通っていました。

──今に繋がるような音楽的な家庭環境はありましたか?

高橋:あんまりなかったんですが、覚えているのは小学生の頃に電蓄というレコードプレイヤーを買ってもらって、当時流行っていた『黒ネコのタンゴ』のシングルレコードばかり聴いていました。その後、小学校のときにグループサウンズがすごく好きになって、テンプターズやタイガーズとか、よく聴いていましたね。

中学に入ったあたりからはFM大阪で毎週土曜日の13時からやっていた『歌謡ベストテン』と、14時からの『ポップスベストテン』をよく聴いていました。その『ポップスベストテン』でエルトン・ジョンの『ダニエル』が流れてきて、歌詞はなにもわからないんですけど「なんていい曲なんだろう」と思ったり、そこで聴いたスティービー・ワンダーやポール・マッカトニー&ウィングス、カーペンターズ、ミッシェル・ポルナレフとかは本当によく覚えていますね。

──洋楽少年だったんですか?

高橋:いや、『歌謡ベストテン』で聴いたアグネス・チャンの『草原の輝き』とか、あれはあれで印象的でしたし、洋楽、歌謡曲と壁を作らず、2時間続けて番組を聴いていました。当時ちょうどエアチェックがはやり始めたのでカセットに録って聴いていましたね。

──当時のFMラジオは貴重な情報源でしたよね。

高橋:そうですね。その後、東京もそうですけど段々と深夜放送が盛んになってきたので『ヤングタウン』や『ヒットでヒット バチョンといこう!』とか聴いていましたし、あと片岡義男さんの『きまぐれ飛行船』や、城達也さんの『ジェットストリーム』をウトウトしながらイヤホンで聴いていると「海外へ行きたいな」という想いが募りました(笑)。ですから歌謡曲もポップスも『ジェットストリーム』に流れてくるいわゆるイージーリスニングも聴いていましたし、とにかくなんでも聴いていましたね。そして、高校に入ってからはFM大阪で18時からやっていた『ビート・オン・プラザ』という、アルバムを1枚丸々特集する番組をよく聴きました。

──アルバムを1枚全部かける?

高橋:ほぼ1枚かかります。話も入らずノーカットで。だから『ビート・オン・プラザ』を聴いてエアチェックするとアルバムを買わなくて済んじゃうという。

──それは夢のような番組ですね。

高橋:ええ。今に繋がることで言うと、高校のときにちょうど喜納昌吉とチャンプルーズが出てきて、FM大阪の番組で『ハイサイおじさん』を聴いたときは、当時流行っていたパンクムーブメントと同じように、えらい勢いのある音楽が沖縄にあるんだなと衝撃を受けました。でもワールドミュージック自体は高校時代とか大学でもほとんど聴いていなくて、ジャクソン・ブラウンやニール・ヤング、ボブ・ディランとか、そういったシンガーソングライターをよく聴いていて、そっちまではいっていなかったです。

──私も高橋さんとほぼ同じ世代なのですが、当時のラジオってイタリアンポップスとかフレンチポップスとか、そういうものも混じってかかっていたじゃないですか?今よりよっぽど多様性がありましたよね。

高橋:確かにたくさんかかっていたんでしょうけど、当時はあまりそっちに心が振れなかったんですよね。自分が18歳のときにボブ・ディランが来日して、当時僕は大阪でしたから、松下電器体育館へ観に行きましたが、このディランの初来日公演は今でも忘れられないですね。アレンジを全く変えていたので、『ミスター・タンブリン・マン』にしても、なんの曲をやっているのかさっぱりわからなかったんですけどね(笑)。そのあと武道館のライブ盤が出ましたが、本当に擦り切れるぐらい聴きました。

 

上京後に観たARBや白竜のライブに圧倒される

──高校はどちらに行かれたんですか?

高橋:天理高校へ行きました。天理高校というのは天理教なんですが、当時僕はジョン・レノンが大好きで、アルバム『ジョンの魂』の『ゴッド』という曲の「俺は宗教を信じない、信じるのは自分とヨーコだけ」という歌詞に影響されて、「宗教なんか信じちゃダメだな」って高校時代は精神的反抗をしていました(笑)。

──(笑)。存じ上げないのでお聞きしますが、天理高校やPL学園とかは信者だから行くわけではないんですか?

高橋:実は天理高校に入るには基本的に天理教の教会の方の推薦がいるんです。正直申し上げますと内申書があまりよくなかったものですから、公立と天理高校を受けて両方通ったんですが、中学の先生から「公立に行くんだったら天理高校へ行ったほうがいいぞ」とアドバイスされました。内申書は悪いし「どうしようか」というときに母方の祖母が天理教の方と面識があったので、推薦状を書いてもらって天理高校に入学したんです。

──同級生や先輩には熱心な信者の方もいらっしゃるわけですよね。

高橋:どっちかに分かれましたね。宗教の授業を一緒にサボって、単位を落として夏に追試を受けに行った友だちもいましたしね。

──そんなに体質的にはピッタリはきていなかったんですね。

高橋:というよりも、当時ボブ・ディランを聴いたりジャクソン・ブラウンを聴いたりしていて、特に宗教を信じようということもなく自分が信じるんだったらボブ・ディランだなって、そっちのほうでしたから。

──精神がロックというか、自由だったということですね。

高橋:あんまりひとつのもの、価値観にとらわれるというのは嫌でした。

──その後、大学はどちらに進まれたんですか?

高橋:明治学院大学です。高校で天理教の授業を受けて、大学ではキリスト教の授業を受けて(笑)。

──(笑)。大学入学とともに上京されて?

高橋:10代の頃は親に対して「うっとうしいな」という思いもあって、東京へ行きたかったんです。その頃、家は奈良だったんですが、丸の内線の茗荷谷というところに奈良県の県人寮がありまして、寮費が6万円だったんですが、それで朝夕2食つくし、親父が「6万だけは出すから、あとは自分でやれ」というので、残りのお金はアルバイトでかせいで、結局その寮に4年間いました。

──寮生活は楽しかったですか?

高橋:そうですね。今はもうないと思いますけど、男子寮だったので女子大との合コンなんかもあって、寮の黒板に「何月何日、東京○○大学との合コンあり、希望者は名前を書け」みたいなね。それで面白かったのは、いわゆるお嬢様大学というところはすぐに合コンの希望者が埋まるんですけど・・・そうじゃない女子大になると、みんなあまり行きたがらないんですよ。そういうところに僕は1年生、2年生のときに「行くやついないからお前行ってこい」と先輩に言われて行ったりしました(笑)。

──(笑)。親元を離れ東京にやってきて、カルチャーショックはありましたか?

高橋:ライブをよく観に行くようになりましたね。ちょうどARBやモッズ、ルースターズとか、そういったバンドが出てきた時期ですのでよく観にいきましたし、あとゴールデンウィークになると、内田裕也さん主催のジャパンロックフェスが野音でありまして、それも観に行きました。

──その頃で印象に残っているアーティストは誰ですか?

高橋:ARBは石橋凌さん、田中一郎さんを含めて熱かったですね。ARBは戦争中の赤紙のことを歌った『赤いラブレター』というプロテストソングを歌っていたり、きちっとした主張があって、「この人たちは本当に言いたいこと、表現したいことがあってやっているんだな」と感じていました。ですから、後楽園ホールでボクシングのリングを使ったコンサートとか、ARBは色々なところに観に行きました。

あと白竜のライブを初めて観たときには、彼の声の伸びやかさと力強さに圧倒されました。当時の彼は地に足がついたプロテストソングを歌っていたので「これが本当のロックなんじゃないかな」と感銘を受けて、よく観に行きました。

──確かにしっかりとしたメッセージを打ち出していたアーティストが多かったですよね。

高橋:もちろん今でも日本のロックってありますけど、当時の日本のロックと今の日本のロックはちょっと違うような気がします。大学の学祭でも遠藤ミチロウさんのスターリンが来て、なにを歌っているのか、全然歌詞は聞き取れないんですけど、ヤバい雰囲気を含めて強力でした(笑)。

──音楽が変わったというか、やっている人間が変わったからなんじゃないですかね。

高橋:表現すべき、根底にあるものが当時と今は違うんでしょうね。ですから面白い時代でしたね。あんなにライブハウスへ行ったことってなかったですから。

──そんなにしょっちゅう行っていたんですか?

高橋:当時、屋根裏は昼の部と夜の部があって、昼の部は600〜700円で入れたので、大学の授業をサボっては入り浸っていました。お客さんはあまりいなかったですが。

──それは1人で行っていたんですか?

高橋:はい。例えば、僕がいくら「白竜はすごい」と言っても白竜を毎回観たいという友だちはいないので、やっぱり1人で行くことが多かったですね。ARBも熱心なファンが友だちでいましたが、じゃあわざわざ千葉まで行くかとなると「そこまでは・・・」という感じでしたので。とにかく当時の石橋さんにしても白竜にしても圧倒的で、もうライブが終わるたびに打ちのめされていました。

 

尾崎豊の日比谷野音“伝説のダイブ”を目撃〜アナーキーのロードマネージャーとして音楽業界へ

──当時アルバイトはしていたんですか?

高橋:していました。寮費以外は自分で稼がないとライブにも行けませんから(笑)。茗荷谷にあるバンビというレストランの皿洗いとか、あとは調理補助をやっていました。そうすると賄いも食べられるので。寮も日曜日はまったくご飯がないので、日曜日にバイトを入れるとそこで食べられますからね。それでちょうど茗荷谷に貸しレコード屋さんもあったものですから、よくレコードを借りましたね。そこで、佐野元春さんのアルバムとか新しい出会いがありました。

──そして、大学を出ていよいよ就職となるわけですが、ここでソニーミュージックに入られたんですか?

高橋:いや、違います。スマッシュが日比谷野音でやっていたコンサートでアトミックカフェという反核のコンサートがあって、そこには浜田省吾さんや、のちに一緒に仕事をするSION、あと尾崎豊さんが出ていて、有名な話ですが、尾崎さんが照明のやぐらから落ちて足を骨折して、まったく立てないにもかかわらず、寝ころびながら声だけメチャクチャ出ている姿に感動したんです。

──あのライブを実際に観ていたんですね。

高橋:はい。それで「これはもう尾崎のスタッフになるしかない!」と思って、飛び込みでマザーエンタープライズの福田(信)さんのところに会いに行ったら(笑)、「お前面白いから明日から来い」って言われたんです。でも、そこが自分の情けないところなんですが「俺はなにもわからないし、いきなり明日から尾崎のスタッフってできるのかな?」ってビビッちゃって、結局行かなかったんです。その後、いろいろ考えて、しばらくして福田さんに「この間はすみませんでした!」と会いに行ったら「おお、お前か。でも尾崎のスタッフもう決まっちゃったぞ」って。

──躊躇しているうちにタイミングを逃しちゃったんですね。

高橋:でも「音楽の仕事をしたいか?」と福田さんに聞かれたので「したいです」と言ったら「別の事務所を紹介してやるからそこに行ってこい」と言われて、紹介してもらったのが小林千恵さんという方がやっていらしたミュージック・プランターズという、当時『大阪で生まれた女』でヒットしたBOROさんやアナーキーとかがいた事務所でした。

それで「何をするんですか?」と聞いたら「アナーキーのロードマネージャーをしろ」と言われて、いきなりアナーキーのロードマネージャーになったんです。実はアナーキーって聴いてこなかったんですが、彼らは1枚目のアルバムで天皇陛下のことを「何が日本の象徴だ」と歌って発禁になったというのは知っていました。

アナーキーのロードマネージャーになってからは、とにかくライブがある日は楽器車を運転してメンバーをピックアップし、楽器を積んでライブハウスへ行き、楽器を降ろして組み立てて、ライブが終わったらライブの清算をしてメンバーを送り届けてという。

──過酷な仕事ですね。

高橋:アナーキーは売れていましたから、新宿ロフトは3デイズとかで忙しかったですね。それでとにかくダイブがすごいんですよ。僕はライブが始まったら上司に「お前はステージと客席の間に立ってストッパーやれ」と言われるんです(笑)。

──(笑)。

高橋:僕の上を人が飛んでいったりね、面白かったですね(笑)。あとアナーキーは内田裕也さんのフェスティバルに出ていたので、そこで憧れていたARBの石橋凌さんやシーナ&ザ・ロケッツの鮎川誠さんにお会いできたんですが、間近で見ると皆さん本当に恰好いいんですよ。とにかくオーラがあって。

──いきなり現場に入ることになっちゃったんですね。

高橋:何も現場の勉強をしていなかったんですけどね。その後、アナーキーはメンバーの1人がロフトでちょっと傷害事件を起こしちゃって解散しちゃうんです。それで僕も仕事がなくなって、アナーキーはビクターからレコードを出していましたから、小林さんがビクターを紹介してくれて入ることになります。

──最初レコードメーカーはビクターだったんですか。

高橋:そうです。

──高橋さんはすごく行動力がありますよね。一観客として尾崎豊のライブを観ただけで福田さんに直訴して仕事を紹介してもらうわけですから。

高橋:でも、そのあとビビっちゃって、すぐに行けなかった自分もいるわけです(笑)。もし翌日から行っていたら、また人生が変わっていましたね。

──ビクターではどのようなお仕事をされていたんですか?

高橋:それまでとはガラッと変わって、制作宣伝四部というアニメーションのセクションに配属されました。当時、荻野目洋子さんや酒井法子さんなど、色々なアイドルの方がアニメソングを歌っていて、毎週土日になるとデパートの屋上とかで行われていたイベントやサイン会、握手会に駆り出されていました。例えば、札幌でやるんだったら、ビクターの札幌営業所に「マイクは何本必要だから用意してくれ」と手配書を出すんですが、そういった作業はロードマネージャーをやっていたので大体わかりましたし、それはそれで仕事を一生懸命やったんですが、やはり「アニメーションの仕事をやるためにこの業界に入ったのかな・・・」という疑問はずっとあったんです。

それで、先ほどお話した日比谷野音で観て感動したSIONが、その頃『新宿の片隅で』という自主制作盤を出して、それを新宿紀伊国屋の中にあった帝都無線さんで買って聴いて非常に感動したものですから「SIONのスタッフができたらいいな」と思ったんです。そうしたらちょうどシンコーミュージックさんの中にあったアニメショップに井口さんという方がいらして、その井口さんにSIONの話をちらっとしたら「SIONの事務所代表の麻田浩さんを知っているよ」というので紹介してもらったんです。

──麻田さんはSIONのマネージメントをしていましたよね。

高橋:それで僕は麻田さんのところに就職しました。結局、麻田さんのところには4年間いたんですが、麻田さんとの出会いはすごく大きかったです。SIONのマネージャーももちろんやりましたが、当時、麻田さんがパイド・パイパー・ハウスの長門(芳郎)さんと組んで、マリア・マルダーやピーター・ケイス、エリック・アンダーソンとか、いろいろなシンガーソングライターの招聘をやっていたんですね。僕はエリック・アンダーソンというのはまったく聞いたこともなかったんですが、麻田さんにレコードを貸してもらって聴いたら、とても繊細な歌声で「これは素晴らしいな」と思いました。

それで渋谷のライブインというライブハウスで、麻田さんと長門さんが呼んだピーター・ケースやピーター・ゴールウェイとかいろいろなアーティストを間近で見ることができて、すごくいい経験をさせていただきました。あと麻田さんから「お前タジ・マハール ちゃんと聴いたことないのか?」というのでタジ・マハールを貸していただいたり、とにかくいろいろな音楽を教えてもらいましたね。あと、僕が30歳で麻田事務所を辞めるときに、SIONは僕のために曲まで作ってくれて、それはCDにもなっています。『夢を見るには』という曲で「お前の空がいつでも晴れていたらいいな」と歌われています。今聴いても涙が出ます。

麻田さんのところでは先ほどお話した長門さんとも出会うことができましたし、あと麻田さんが当時やっていたコレクターズや、ピチカート・ファイヴの小西(康陽)さんとか高浪(敬太郎)さん、その流れからオリジナル・ラブの田島(貴男)さんとか、いろいろな人たちと出会うことができましたし、本当に面白かったです。

──ソニーの前にそういうストーリーがあったんですね。

高橋:麻田さんという人は、お金がなくても自分がやりたいと思ったらやる人でしたから、その精神は僕も引き継いでいるといったらおこがましいですけど(笑)、そういう麻田さんの姿を見てきたから今があると思います。

 

ソニーでネーネーズの制作や所属アーティストの宣伝を担当

──麻田さんのところをお辞めになった理由は?

高橋:正直に話すと、当時の給料では生活が大変だったんですよね。やっぱり貧すれば鈍するという言葉があるように、次第にしんどくなって。それで当時、麻田事務所にDER ZIBETというバンドがいて、彼らのレコード会社だったSixty Recordsの伊藤さんという人が、ソニーに移られたんですが、僕自身がいろいろ悩んで「麻田事務所を辞めようと思っている」と言ったら「じゃあソニーに来ないか」と誘ってくれて、それで30のときにソニーに入ったんです。当時はまだソニーが上場する前だったので、わりとその辺の採用は緩かったんでしょうね。それでソニーが上場するときに、今までの雇用形態もなくなるからと社員になりました。

──そういう経緯だったんですね。

高橋:そこで以前このリレーインタビューにも出ていた藪ちゃん(薮下晃正)とも出会ったんです。

──セクションはどこにいたんですか?

高橋:スタッフルームサードというところです。ソニーがスタッフルームサードを作った理由というのは、ソニー本体ではやらないようなアーティストをやって、新しいアーティストを育てていこうという目標があって、それで藪ちゃんと一緒にチエコ・ビューティーやピアニカ前田さんが参加してくれたアルバムを作るんですが、そこに僕がソニーに入ってすぐの頃に出会った、ネーネーズという沖縄のグループを収録しました。

藪ちゃんとはそのアルバムのショーケースライブをやり「ネーネーズをぜひソニーでやりたい」とスタッフルームサードの上長にも相談し、そのまた上の稲垣(博司)さんにもお願いして、ソニーでネーネーズをやらせてもらえることになりました。それで途中から丸山(茂雄)さんがエピックからいらっしゃって、スタッフルームサードは他のレーベルと合体してキューンソニーになります。

──92年頃ですか?

高橋:その辺りだったと思います。それでネーネーズをやりつつ、それ以外に宣伝として真心ブラザーズやスチャダラパー、杏子さん、聖飢魔Ⅱと、とにかくいろいろな所属のアーティストをやりました。

──では、薮下さんと仕事で絡むことも多かった?

高橋:そうですね。藪ちゃんが『今夜はブギーバック』をヒットさせたとき、僕は宣伝をやっていました。小沢健二さんが所属していた東芝EMIで宣伝を担当していた小泉さんという女性の方と相談して、業界紙の『オリコン』に「『今夜はブギーバック』よろしくお願いします」ってコメントとともに石坂(敬一)さんの写真をバーンと載せて、その翌週は同じコメントとともに丸山さんの写真をバーンと出す広告を打ったりしました。でも、あんなにヒットするとは思わなかったです。

──薮下さんもそうおっしゃっていました。

高橋:ただ、あの時代はまだまだ自由でしたからね。例えば、ニッポン放送『オールナイトニッポン』へプロモーションに行って、プロモーションから家に帰ってきたら明け方の4時とか5時。でも朝の10時には出社しなきゃいけないというので、労働時間も8時間なんてあってないようなものでした。とにかく若かったから『オールナイトニッポン』に立ち会って1曲かけてもらったら「ああ、うれしいな」みたいな感じでした。

──確かに自由な時代でしたね。

高橋:人事異動の季節になるとよくやったいたずらがあって、あの当時は携帯とかあまりなかったもんですから、みんな外から電話して「なにか電話ありますか?」なんて聞くわけですよ。そうすると、僕なんかがよくやったのは、同僚の伝言帳に勝手に「人事部○○さんより、人事異動の件で至急電話ください」って書いておくんですよ(笑)。

──(笑)。

高橋:そうやってメモを書いておくと、デスクの女性はそのまま言うわけです。冷静に(笑)。そうすると、いきなりブルーになって今日はこれから打ち合わせあるにもかかわらず途中で切り上げて帰ってきて「俺、人事異動のことなんか聞いてないんですけど」っていきなり上長に詰め寄ってね。「俺もそんな人事異動のことは聞いてないけど」「でも伝言帳に書いてあるんです」「誰だ!これ書いたのは」みたいな。僕だけじゃなくてみんなそういうことやっていました。

──みなさん人が悪いですね(笑)。

高橋:その代わり僕もやられましたけどね(笑)。伝言帳に「新宿警察より、心当たりがあるなら至急電話くれ」と書かれていたりとかね。本当によく働き、よく飲んでいました。

『今夜はブギーバック』が出た94年にネーネーズはロサンゼルスで録音をするんですが、そのレコーディングにはライ・クーダー、デヴィッド・リンドレー、ドラムのジム・ケルトナー、それからロス・ロボスのデイヴィッド・イダルゴも来てくれましたし、ジャクソン・ブラウンのベーシストのボブ・グローブも来てくれたんですよ。それは麻田さんに相談して実現したんです。

──それは麻田さんの人脈で?

高橋:そうですね。今では考えられないですね。もちろんお金はソニーが出したんですが、当時はまだ制作費がそれなりに使えましたし、それなりに売れましたから。

 

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第197回 リスペクトレコード代表 高橋研一氏インタビュー【後半】

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