第196回 MUSIC CAMP, Inc.代表 宮田信氏インタビュー【前半】

インタビュー リレーインタビュー

宮田信氏

今回の「Musicman’s RELAY」はPヴァイン 井上厚さんからのご紹介で、MUSIC CAMP, Inc.代表 宮田信さんのご登場です。10代後半、アメリカ発の映画やTVドラマを通じてチカーノ文化を知り、大学4年時にはイースト・ロサンゼルスに1年間滞在。帰国後、六本木WAVEを経て入社したBMGビクターでは、レーベル「ウィンダム・ヒル」やワールドミュージックのディレクターとしてご活躍されます。

その後、1999年、チカーノ音楽を中心にした自身の会社MUSIC CAMP, Inc.を設立。ケッツァルなど現行アーティスト作品から旧譜まで500を超えるタイトルをリリース。現在は代官山のライブハウス「晴れたら空に豆まいて」の企画にも参加し、2018年には自身の活動を追った短編記録映画『アワ・マン・イン・トーキョー~ザ・バラッド・オブ・シン・ミヤタ』も話題となりました。また、11月に大注目のアーティスト、ボビー・オローサの来日公演を迎えた宮田さんに話を伺いました。

(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦 取材日:2022年8月19日)

 

少年時代に感じた「日本の中のアメリカ」

──前回ご登場頂いたPヴァイン 井上厚さんとは、どのようなご関係なんでしょうか。

宮田:井上さんはP-VINEにお勤めの前に、芽瑠璃堂というレコード店でずっと番頭さんみたいなことをなさっていて、井上さんが店頭に立っているときに僕はしょっちゅう芽瑠璃堂にブルースやラテンのレコードを買いに行っていたんです。

その頃は軽くお話するぐらいで、特に深い付き合いはなかったんですが、私が六本木WAVEのワールドミュージックコーナーにいたときに、P-VINEさんはワールドミュージックなどの作品を熱心にリリースされていて、その担当者として井上さんと仲良くなりました。その後、私がBMGビクターに行った後も共通の友だちがたくさんいたので、よく遊んだりしていましたね。

──結構長い付き合いなんですね。

宮田:もう長いですね。

──レコード屋さんとお客さんという関係が最初ですか?

宮田:最初はそうですね。1980年代の前半だったと思いますから、もう40年近くになりますね(笑)。

──わかりました。ここから先は宮田さんご自身のことをいろいろお伺いしたいのですが、お生まれはどちらですか?

宮田:調布の富士見町というところで、駅で言うと調布駅と西調布駅の中間あたりです。調布インターチェンジとか調布飛行場のすぐそばですね。

──今のお仕事に繋がるような背景のご家庭だったんでしょうか?

宮田:いや、家庭はそうでもないと思いますけどね。父親は出版社に勤めていたんですが、薬剤師の免許を持っているのになぜか編集者という、ちょっと変わったキャリアの人で、母親が薬屋をやっていました。むしろ影響があったのは、実家の周りには調布飛行場があって、そこは当時米軍の基地だったので、自転車で遊びに行くと、フェンスの向こう側にはアメリカ人がいっぱいいたんですよね。それを子どもの頃、日々見ていたんですが、子供心に我々よりすごくいい生活をしている感じは分かりましたし、学校にもそういう友だちが何人かいて、遊びに行くと見たこともないようなミニカーとか、冷蔵庫を開けるとこれまた見たこともないようなクッキーとか入っていて「アメリカってすごい国だな」って思いましたね。

──米軍キャンプ関係者のご家庭ですね?

宮田:そうです。東京オリンピックのときに代々木にあった米軍宿舎が選手村になるにあたり、その米軍宿舎を全部調布飛行場の横に移したんです。そこは関東村と呼ばれていて、1964年から1975年ぐらいまでありました。

──まさにフェンスの向こうはアメリカ、ですね。

宮田:それがのちにメキシコ系アメリカ人の音楽を感じるひとつのきっかけにはなったと思います。

──立川とか福生とかに近い雰囲気だったんですか?

宮田:あそこまで人も多くなかったんですが、似た雰囲気は明らかにありましたね。あと父親がクラシック音楽の強烈なファンだったので、毎日時間があれば家の中にクラシック音楽が流れていました。僕はそれがすごく嫌だったんですが、メロディの感覚に関してはすごく影響を受けたと思います。

──宮田さんはどんな少年だったんですか?

宮田:今とあまり変わらないですね。自転車とかに乗って地元をいつもうろうろしていました(笑)。

──今もお生まれになったお家にいらっしゃるんですか?

宮田:そうです。両親が亡くなったので去年30年ぶりに実家に戻ってきたんです。まあ、それまでもその周辺にはいたんですけれども。

──音楽にのめり込むきっかけは何だったんですか?

宮田:先ほど少しお話しましたが、うちは薬屋をやっていて、昔の薬屋って製薬会社の若い営業マンが結構マメに来ていたんです。そうすると若い営業マンがみんな、いわゆるフォークソングが好きで週末になると家に飲みに来て、フォークソングをギターで歌うんですね。それを見て「俺もギターをやってみよう」と中学1年ぐらいからギターを弾き始めました。その頃はまだGS(グループ・サウンズの残り香があったので、GSの譜面がギター雑誌に掲載されていたりして、そういうのをコピーしたり、あとフォークソングも演奏していました。

それで父親がクラシック好きでしたからFMのエアチェックをしていたので、家に『FMファン』がいつもあって、そこにはジャズの記事も随分載っていたので読んでいるうちに中学生ぐらいから黒人文化にすごく興味を持ち出して、当時はレコード会社もお金がありましたから「モントレー・ジャズフェスティバル」の中継とかがラジオでやっていたりして、それを全部カセットテープに録音して聴いたりしていました。

──ちょっとマニアックな少年ですね。

宮田:マニアックでしたね。フォークソングを歌っていたのに、1年後ぐらいにはブルース好きの少年になっちゃっていたという(笑)。

──普通はそこからロックとか行く感じですよね。

宮田:あの頃はクリームとか、そういうUKロック系のブルースなんかも随分聴いたんですが、やはりB.B.キングを聴いちゃったら「B.B.キングの方がすごいな」と思って、そこからは完全に黒人音楽にのめり込んでいっちゃったんですね。

──レコード屋にも行くようになりましたか?

宮田:通い出しましたね。あの頃はトリオとかレコード会社もすごくマメにマニアックなブルースのレコードを国内盤で出していたので、普通に駅前のレコード屋さんでそういう作品が手に入ったんですよね。だから、非常に恵まれていた70年代、80年代だったと思います。

──ある意味、昔のほうが音楽文化は豊かでしたよね。いろいろなジャンルが普通にAMでも聴けましたし。どこからこんなドメスティックになっちゃったのかな?と思いますよね。

宮田:本当ですよね。そこが問題だと思うんですけれども。

──私たちが子どもの頃は、イタリアのポップスもフレンチポップも、普通にラジオのヒッチャートとかに混じってかかっていましたよね。

宮田:サンレモ音楽祭とかもテレビでやっていましたし(笑)、僕は中学生のときは学校から帰ってくるとNHK-FMの『軽音楽をあなたに』を聴いていましたから。ロックもソウルもフュージョンも全部ああいうところから教えてもらいましたね。

 

ビジュアライズされたものの中から自分の好きな音楽を探す

──高校に行くと、音楽好きがもっとエスカレートするんですか?

宮田:そうですね。近所にジャズを教えている学校があったので、高1になったらそこに通うようになって、週1回ジャズギターを勉強していました。

──ジョー・パスとかウェス・モンゴメリーとか。

宮田:ウェス・モンゴメリーは僕にとってすごいアイドルで、高校にいつもカセットデッキを持って行って、休み時間ずっと聴いてました(笑)。ウェス・モンゴメリーのアドリブとか、いまでも口ずさめるぐらいすごく好きですね。

ジャスを習ってよかったのが、ジャズの演奏を知るということと同時に、アメリカンポップスをカバーでやっているじゃないですか?ですからアメリカ音楽についても知識を得ていくという。レコードにはしっかりしたライナーもついていましたし、そういう意味では本当に恵まれている時代を過ごしたと思います。

──ちなみに野球やサッカーとかスポーツにはあまり興味がなかったですか?

宮田:なかったですね。オートバイは好きだったので17、18ぐらいで免許を取って乗りまくっていましたけど。地元の調布は暴走族のメッカだったので、僕の友だちや同級生も随分入っていたりしましたが(笑)、僕はアメリカの文化に憧れていたので、暴走族は格好悪いと思っていたんです(笑)。

──(笑)。

宮田:当時はよくテレビ東京とかでアメリカの70年代の映画がたくさん流れていて、ちょっと悪いやつらが町を外れてオフロードバイクに乗って砂漠を走るシーンとかたくさんあって、僕はそういうシーンがすごく好きだったんですよ(笑)。それでオフロードバイクにハマっちゃったんですよね。

──ああ、そっちにいったんですね(笑)。

宮田:あとはそういう映画で、ストリップのシーンとかに流れてくるファンキーなオルガンの演奏とかあるじゃないですか?そういう音楽に子どもの頃すごくハマっちゃって、それで高校生の途中ぐらいからオルガンジャズみたいものをよく聴くようになりました。

──映像がきっかけになることが多かったんですね。

宮田:そうなんですよね。ビジュアライズされたものの中から自分の好きな音楽を探していったという感じはあります。それは今でもやっていて、自分でレコードを売る立場になっても、意識的に伝えていることですね。

──ちなみに高校時代にバンドを組んだりはしていたんですか?

宮田:善福寺川ブルースバンドっていうバンドをやっていました。高校が善福寺川の横にあったので(笑)。そのバンドでは憂歌団のカバーや、あとジャズのスタンダードを文化祭で演奏したりしていました。

──高校卒業後は、大学に進学されたんですか?

宮田:横浜にある大学のスペイン語学科に進みました。

──なぜスペイン語学科を選ばれたんですか?

宮田:高校1年生のときに、父親にアメリカへ連れていってもらったんですが、タクシーに乗ると褐色の肌をした黒人とも白人とも違う人が運転手さんだったり、また、色々な労働者として働いている姿を見て、「この人たちはなんなんだろう?」と興味を思って調べたら、あの人たちはいわゆる「チカーノ」と言われているメキシコ系アメリカ人なんだと知ったんですね。

それで10代の終わりの頃に、テレビで『白バイ野郎ジョン&パンチ』というドラマがやっていて、主人公が白人のジョンと、チカーノのパンチというコンビで、そのパンチのキャラクターが僕は非常に好きだったんですね。彼がメインの話のときには、彼が住んでいる街が出てくるんですが、我々のイメージするカリフォルニアとはちょっと違う、影があるんだけどなんか温かいカルチャーに高校生の頃すごく気になっていたんです。

──私も『白バイ野郎ジョン&パンチ』を観ていましたが、そういう見方はしてなかったです(笑)。

宮田:普通はそうですよね(笑)。パンチを演じるエリック・エストラーダは、プエルトリコ系の人なんですが、メキシコ系アメリカ人を特集した『ナショナルジオグラフィック』とかを自分で買って一生懸命読んだりして「こんな文化があるんだ」ということに気がついて、それで大学はスペイン語学科に行ったんです。

──なるほど。

宮田:ただ、ホントのスペイン自体には全く興味がなくて(笑)、アメリカの中のチカーノたちのことを知りたいなという思いからだったんです。あと日系人の人たちのことにも興味があって、日系ペルー人や日系ブラジル人とか、そういう文化にも興味がありました。

──要するにそのときに抱いたチカーノの文化や音楽への興味が、今もずっと続いているわけですね。

宮田:ずっと続いてちゃっているんです。やはり、チカーノという扉を開けてみると、そこには膨大な知らない世界があった、というカルチャーショックを若い頃にすごく感じて、熱心に追いかけてしまったがゆえに、今も続いているんだと思います。

変な話、1980年代前半ぐらいから、日本にいながらずっとチカーノ文化をひたすら見ていましたし、一時期は向こうに住んだり、コロナの前とかは年に4回ぐらい定期的に通いつつ、ずっと見続けているので、もう離れられなくなっちゃったんですよね(笑)。

──取り憑かれたのか、取り込まれたのか(笑)。

宮田:ええ。それはなぜかというのは、自分でもよくわからないです。ちょっと後付けっぽい言葉になっちゃいますが、やはり2つの文化を持っているというところが面白かったんだと思います。アメリカで生まれて育っている、でも自分のルーツはメキシコであり、おじいさん・おばあさんや、お父さん・お母さんはメキシコからやってきたみたいな。そういう2つの文化があり、2つの言語を操ることができるということにすごく魅力を感じていました。

音楽的に言えばラテン音楽もできるけど、ブラックミュージックもできるし、普通にロックもできるみたいな、自由にいろいろな方向に行けて、そこに自分の個性を反映させることができる。また、音楽を作るときに、自分たちの住んでいた街、文化、家族みたいなものをモチベーションとして反映させることができたり、実は持っているものがすごく豊富なんです。ですから、伝統を大切にしつつ、バリオと呼ばれるチカーノが暮らす地域からは新しいものがどんどん生まれていますし、非常に多重な音楽文化が常に動いているので、「これからどうなっていくのか」と興味が尽きないんです。

 

イーストLAのチカーノ・コミュニティに1年滞在

──大学在学中もアメリカへ行かれたんですか?

宮田:大学3年生のときに2回目のアメリカ旅行に行って、ロサンゼルス着いたら、一直線にチカーノが住んでいるイースト・ロサンゼルスに向かいました。最初は怖かったんですが、街中を車でさまよっている間に、壁画があったり、文字がスペイン語になったり、それからレストランの匂いも違ったりして、アメリカの中で自分たちの文化を隠さず生きている姿が格好いいと思ったんですよね。

──怖さもありながら、胸はメチャクチャ踊った?

宮田:踊っていました。「うわあ、この中に入りたいな」「一員になりたいな」っていう気持ちでしたね(笑)。

──(笑)。やはりメキシコとも違う雰囲気なんですか?

宮田:そうですね。メキシコにも何度も行っていますが、やはりミックスしたものが好きなんです。音楽もミックスしたものがすごく好きなので。「混じったもの」ということの力強さってあるじゃないですか?

あと当時、下北沢にあるフラッシュ・ディスク・ランチという中古レコード屋さんでバイトをしていて、僕はあそこの初代アルバイトなんですが、アメリカへ買い付けに行ったオーナーが色々なレコードを持って帰ってきてくれるので、それを随分聴いて、イメージを膨らませていたんですよね。中古レコードがすごく好きだったというのもチカーノにハマるキッカケのひとつになっているかもしれないですね。

──イーストLAにはどのくらいいたんですか?

宮田:1年間です。

──宮田さんについて描かれた短編ドキュメンタリー映画『アワ・マン・イン・トーキョー~ザ・バラッド・オブ・シン・ミヤタ』(以下『アワ・マン・イン・トーキョー』)に出てきた男性2人のカップルのところに?

宮田:ええ。ゲイのカップルが住んでいる家にお世話になって。それからイーストLAというのは日系人の移民が来て最初に住めた街なので、1918年に移住してきた日系人がたまたまバックヤードというか庭に小さな家を持っていたので、そこに住んでいた時期もありました。

──ちなみにあのカップル2人と今も付き合いはあるんですか?

宮田:1人は亡くなってしまったんですが、『アワ・マン・イン・トーキョー』の撮影をしたときに、その息子とは会いました。なぜ彼らがアメリカにやってきたのかというと、当時メキシコというのは男性優位主義が強かったんです。

──マッチョなイメージですよね。

宮田:だから、小さな町ではゲイでいるとものすごくいじめられて、家族の人もいじめられるので「もうここにはいられない」とアメリカに逃げてきたという。

──自由を求めてやってきたと。

宮田:そうですね。だから移民コミュニティのなかにゲイの人のコミュニティーもあるんですが、それって外から見えないんですよね。でも、彼らと知り合ったがゆえに「こういうのがあるんだ」と分かったんですよね。すごく面白い経験をさせてもらいました。

──そこにはタダで居候させてもらったんですか?

宮田:タダですね。掃除と食器を洗う係をやっていましたけど。彼らはゲイであることを隠しつつ教会の重要なメンバーでもあったので、週に1回とか2回カトリックの教会に行って、ミーティングをしたり、色々な催しものをやったりしていたんですが、そういうのにも参加させてもらっていました。

──学校にも行ったんですか?

宮田:行っていました。始めは英語の学校に行っていて、途中から市立大学に移って。

──そこで大体の英語はものにしたんですね。

宮田:まあ適当な英語ですね。適当な英語と適当なスペイン語を。

──その1年間の経験が今に至るすべてとも言えるわけですよね。

宮田:やはりあそこで浴びた音楽と、アンダーグラウンドなものを知ったのはすごく大きいですよね。

──そこに行かなければ味わえない。

宮田:いやもう絶対にわからないと思います。メキシコに行っても味わえないし、普通にアメリカにホームステイをして住んでも味わえない。

──普通のアメリカ人は一切来ない世界なんですか?

宮田:全然来ないです。

──そんなところになぜ日本の大学生がいるんだという感じですよね。

宮田:そう思われたところはあると思います。逆にああいう映画(『アワ・マン・イン・トーキョー』)が作られたのもそういうところからだと思います。

──コミュニティには割とすんなり受け入れられたんですか?

宮田:興味を持って付き合ってくれた人もいれば、差別的なことでからかう人も正直いましたし、そんなに簡単ではないです。そんな中、今でも付き合っている家族がいるんですが、その家族には随分お世話になりました。

──その家族とはどうやって出会われたんですか?

宮田:公園で知り合って友だちになった人たちに、色々なパーティーへ招待されるようになったんですが、そのパーティで知り合いました。それで「今日、家に泊まりに来いよ」と言われて泊めてもらって、朝起きたら床に何十人と寝ているんですよ。なぜかというと、その人の家はエルサルバドル系の家で、エルサルバドルから不法で入ってきた人たちを助けていたんです。例えば、親戚や他の知り合いのところに行く間、泊めさせてあげるという。メキシコ系だけでなく移民してきたラティーノたちの社会にある多様性を知りました。

──不法移民の避難所みたいな。

宮田:そうですね。それで不法移民の人たちとずいぶん一緒に遊びました。それこそエルサルバドルでは激しい内戦があって、住んでいる若者はゲリラに入れられるか、政府軍に入れられるか、どっちかしか選択肢がなかったんです。もう外にいるだけで連れて行かれちゃうそうで、アメリカに逃げざるを得ないと。そんな苦しみを自分の祖国に置きつつ、彼らはアメリカで毎日働くわけです。特に女の人がすごくよく働くんですが、彼女たちは月曜日の朝に金持ちの家に行って、ずっと泊まり込みで働き、金曜日の夜に家に帰ってきます。それで土日は家族みんなで集まって、パーティというかずっと飲んだり食ったりするような時間を過ごすんですが、そういう集まりにも随分付き合わせてもらいました。

──それは、実際に住まないと絶対に味わえない体験ですよね。

宮田:味わえないですよね(笑)。いわゆる日本のニュースで流れているような、不法にやってきてフェンスを越えて色々な問題が起きているみたいな単純なことではなくて、その人たちの生活がどういうものなのかというところまで、全部見れちゃったんです。

 

六本木WAVEで働くために西武百貨店入社

──さきほどお金持ちの家で働くとおっしゃっていましたが、イーストLA全体として、階層はあるんですか?

宮田:ありますね。やはりアメリカで生まれ育ったチカーノ、メキシコ系アメリカ人たちで成功している人ももちろんいますから、裕福な人たちもいます。80年代は特に内戦が多かったので、メキシコ、中米からの不法移民の人がすごく増えたんですが、そういう人たちはアメリカで成功した親戚とかを頼ってどんどん来るんです。

だから町全体が混沌としていました。でも、そういう人のために、例えば、街の中に居酒屋さんや小さな酒屋さんがあったり、よろず屋さんみたいなスーパーがあったり、そういった小さなビジネスがたくさんあって、そこでは移民たち向けの大衆音楽が流れていたりするんです。

──ライブバーみたいなのもあるんですか?

宮田:その頃は行けてないですが、ありますね。あとホテルの1階とかがラウンジになっていて、お客さんを集めてライブをやっていました。アメリカ人向けの施設だったのがラティーノの娯楽施設に変わっていくみたいな、変容していく時期でもあったので、すごく面白かったです。独特の活気がありました。

──イーストLAに滞在された1年間、日本人は周りに1人もいなかったんですか?

宮田:いなかったですし、あえて日本人とは遊ばなかったんですよね。ただ日系人の1世の人の家にいられたというのもすごくラッキーで、日系1世の英語と日本語のちゃんぽんになっている会話とかも聞けましたし、そういう人たち向けの食堂なんかも少し残っていて、1ドルのことを「100円」って言うような、そういう人たちの生活も垣間見ることができたのはよかったですね。

──そして1年後、日本に戻られるわけですが、そのままアメリカにいようとは考えなかったんですか?

宮田:本当はそのままいたかったんですが、お金の問題もありますし、親も「一応日本の大学出たほうがいいんじゃないか」と心配していましたから戻りました。

──日本に帰ってきて、どうでしたか?

宮田:まさにバブル景気が始まった頃だったので、浮かれた大学生がたくさんいて。

──チカーノと生活をしていて、日本に戻ってきたら、大学生は合コンしたり、テニスサークルで「冬はスキー行きましょう」とかやっていたわけですね。

宮田:そうですね。だからすごく反発がありました。

──なるほど。

宮田:ただ、反発しながらも大学卒業後はなぜか西武百貨店に入っちゃったという(笑)。

──(笑)。なぜ西武百貨店に入社したんですか?

宮田:単純に六本木WAVEに入りたいから、西武百貨店に入ったんです。

──それだけのことだったんですか。

宮田:ええ。1年間、ロサンゼルスでラテン、チカーノたちと一緒に過ごして、とんでもない経験をしたんですが、そんなことを言ったって当時は全然理解してもらえなかったんです。ただ、あの頃って海外から帰ってくると「ちょっと面白い人間だ」と思われるところもあったので西武百貨店に入れてもらえて(笑)、渋谷店の家庭外商部に配属されました。当時はまさにバブルのど真ん中で、それこそ先輩たちのお客さんがサザビーズで絵画とかをどんどんオークションで落としていくんです。僕はチカーノ文化にハマる一方で、そうした世界を同時に見られたのは、貴重な経験だったと思います。

──その後、六本木WAVEに行くきっかけはなんだったんですか?

宮田:のちにWAVEの社長になった方がその頃、西武百貨店にいてWAVE渋谷店の店長をやっていたんですが、その人と仲良くなって「どうしてもWAVEに行きたいんですけど」と相談したら「じゃあ話をしてやるよ」と言ってくれて、その人の助けもあって六本木WAVEに行くことができたんです。

──やはり六本木WAVEへ行ったら楽しかったですか?

宮田:そうですね。六本木WAVEのワールドミュージックコーナーの、本当に下っ端からやらせてもらったんですが、毎日世界中からレコードやCDが届くんですよ。チカーノというのはひとつのきっかけになりましたが、ラテンの世界で言えばサルサやブラジル音楽、それからあの頃はワールドミュージックコーナーにブルースも置かれていて、要するにロック、ポップス、あとサントラ以外のジャンルはすべてワールドミュージックコーナーにあるような状況だったんです。そういうところにいられたのはすごく刺激的で、日々新しい音楽に出会えたのはすごくよかったですね。

──あの頃の六本木WAVEって、音楽業界の人たちがたくさん通っていましたよね。

宮田:もうクリエイターの人たちがいっぱい来ていましたね。それで六本木WAVEに行って2年くらい経った頃にたまたま新聞にBMGビクターの社員募集が掲載してあって応募してみたら、ラッキーなことに受かったんですよ。

 

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第196回 MUSIC CAMP, Inc.代表 宮田信氏インタビュー【後半】

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