第213回 株式会社パワープレイミュージック 代表取締役 鶴田武志氏【前半】

インタビュー リレーインタビュー

鶴田武志氏

今回の「Musicman’s RELAY」は株式会社10969 代表取締役社長 後藤吉隆さんのご紹介で、株式会社パワープレイミュージック 代表取締役 鶴田武志さんのご登場です。

鹿児島で格闘技に打ち込む少年時代を過ごした鶴田さんは、コンサートの手伝いから音楽業界入りし、九州のコンサートプロモーターBEAの社員に。そこでコンサート制作やプロモーター業務のイロハを学びます。

その後、マネージメントに興味を持ち、上京。スタジオファインでプロダクション業務を始め、2000年にUVERworldの前身バンドと運命の出会いを果たします。以後、UVERworldとともに走り続け、日本有数のライブバンドへ成長させました。また、長年、日本音楽制作者連盟の理事としても活躍する鶴田さんに、ご自身のキャリアから音楽業界の課題まで話を伺いました。

(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也、榎本幹朗、長縄健志 取材日:2024年2月15日)

 

ひたすら格闘技に打ち込んだ少年時代

──前回ご登場頂いた株式会社10969 後藤さんとはいつ頃出会われたんですか?

鶴田:出会いはまったく覚えてないんですよ(笑)。恐らく、後藤さんがワンオクをやり始めたときぐらいだったと思います。僕もUVERworldをやって数年ぐらいのときで、福岡で対バンをしたのが最初でした。アミューズさんとも仲良くしていたので、それ以前から後藤さんの存在も知っていましたが、そのときまでお会いしたことがなかったんですよね。

──ということは、もう20年近いお付き合いですね。

鶴田:そうですね。とはいえ、しょっちゅうお会いするという感じでもなかったんですが、後藤さんも独立されて、以前よりもお会いする機会は多くなり、最近はよく情報交換しています。2人とも48歳と同い年ですし、わりかし早い段階から業界にいたり、共通点も多いんですよね。

──この先は鶴田さん自身のことをいろいろ伺いたいのですが、ご出身はどちらですか?

鶴田:鹿児島です。今、実家は市内なんですが、鹿児島の中で転々としていました。

──お父さんは何をなさっていたんですか?

鶴田:警察官です。

──「お父さんが警察官」と、このリレーインタビューで聞いたのは、あいみょんの事務所の丸野(孝允)さん以来2人目ですね。

鶴田:ああ、丸ちゃんもそうですね。親がしっかりしていると、僕とか丸ちゃんみたいになるんですよ(笑)。

──(笑)。

鶴田:父は警察官で、しかも刑事だったので、とても厳しい人でした。確か、丸ちゃんはサッカーをやっていたと思うんですが、僕もサッカーをやりたかったんですけどやらせてもらえず、ずっと格闘技をやっていました。

──どんな格闘技をやっていたんですか?

鶴田:柔道をやり、キックボクシング、その後、総合という流れでやっていました。

── 格闘技の世界の人になっていたかもわからないですね。

鶴田:いや、やっていたからこそ止めたんですよ。やっぱり上には上がいるというのと、僕の時代の格闘技って、まだプロスポーツ化されていないときだったので。キックボクシングとかはかろうじてプロがありましたけど、ものすごくマイナーで、それでご飯を食べるとかそういう時代じゃないんですよね。ちょうど前田日明のリングスが立ち上がったとき、僕が18、19とかなので。

──ご兄弟は?

鶴田:弟がいます。弟は現役の警察官です。ちなみに父の兄弟は5人ぐらいいるんですけど、全員自衛隊なんですよ。

──そういう家系なんですね。

鶴田:ええ。父も最初は自衛隊だったんですけど、辞めて警察官になっているので。

──では、家庭内によく音楽が流れていたとか、芸能やエンターテインメントに親しむような雰囲気は一切なかった?

鶴田:まったくない上に鹿児島だったので、当時テレビも民放2局しかなかったんですよ。ですから、そういう情報はほぼなかったですし、厳しい家庭で育ち、格闘技をやっていてという、思いっきり横道に逸れた幼少期でしたね(笑)。

──テレビとかはあまり見せてもらえないみたいな?

鶴田:そういう雰囲気じゃなかったですね。本当に毎日道場へ行ってみたいな生活をしていました。

──では、今の鶴田さんの姿を見て、お父さんは何かおっしゃっていましたか?

鶴田:今はもう全然応援してくれていますし、納得してくれているんですが、東京に出ていくときは結構ビックリしていましたね。

 

コンサートの手伝いから音楽業界入り

──では、小学校、中学校時代はもう硬派な少年で。

鶴田:そうですね。格闘技と悪いことばっかりです(笑)。

──(笑)。76年生まれの方の聴いていた音楽ってどの辺になるんですか?

鶴田:僕は、音楽をほぼ聴いていないんですよ。多分、友だちが聴いていた影響でユニコーンとBOOMを聴いていたくらいですかね。あと洋楽ですがスティングを聴いていたぐらいで。当然、テレビから流れてくるドラマの主題歌とかは耳にしていましたけど、自分から音楽を求めるということはほぼなかったですし、当然自分で音楽をやろうとかそういうこともなかったです。

──音楽と関わりたいとも思っていなかった?

鶴田:まったく思っていませんでした。

──このシリーズでは200人以上インタビューしてきましたが、そこまで音楽と「関係なかった」と言った人は初めてかもしれないです(笑)。高校も鹿児島ですか?

鶴田:鹿児島です。中学の終わりぐらいからサッカーもやらせてもらえるようになったので、その喜びから高校では部活でサッカーばかりやっていたんですが、途中でほぼ高校に行かなくなっちゃって、夜の街に繰り出すようになりました(笑)。

──(笑)。卒業はできたんですか?

鶴田:卒業はできましたし、今は名前が変わっているんですけど、鹿児島経済大学という地元の大学に進学しました。大学は5年間在籍したんですが、最初の2週間で行かなくなりましたけど。

──大学は卒業せず?

鶴田:卒業していないです。多分中退扱いになっているんじゃないですかね。それで学校も行かずにフラフラしているときに、近所の知り合いのお姉さんがコンサート業界で仕事をしていて、「フラフラしているんだったら手伝いなさいよ」と言われて、いつの間にかこの業界で仕事するようになりました。当時、僕が一声かけたら地元の遊び仲間たちがたくさん集まったので、すごく便利だったんですよね(笑)。まだバブルの時代なので、コンサートもホールでアルバイト50人とか必要な時代だったんですよ。

──そういうときに鶴田さんはパッと人を集められたと(笑)。

鶴田:そうです。本当にフラーッとこの業界に入って、鹿児島でそういう仕事を2年ぐらいやっていました。

──その頃は少しライブや興行に興味が出てきましたか?

鶴田:少しずつ興味を持ち始めているときですね。でも、当時はみんなでバイトして、終わって飲みに行くというのが楽しい時期だったんですけどね。

──基本的には単なるバイトだと思っていたと。

鶴田:そうですね。ただ、元気のいい人たちが集まっているアルバイトなので(笑)、結構目立っていたと思います。昔のコンサートスタッフって結構荒っぽい人たちが多かったじゃないですか? そういう人たちにステージに立っているときにケチョンケチョンに言われるんですけど、僕らもみんな言い返していましたからね(笑)。だから「鹿児島へ行くときは気をつけろ」とコンサートスタッフの間でもちょっと噂になっていたりとかして。

──「鹿児島のやつらは手強いぞ」と(笑)。

鶴田:「元気もいいし、面白いやつらがいる」みたいな感じです(笑)。そういうことをやっているうちに、福岡のコンサート会社、キョードー西日本さんやBEAと仕事をするようになって、あるときにキョードー西日本さんから「社員にならないか?」と声をかけて頂いたんです。それで「まあ、いいかな」とそのお話を受けて、福岡に研修で2週間ぐらい行ったんですが、そのとき金髪のロン毛で、社員になる段階で「じゃあ髪切ってスーツを着てもらおうかな」と言われて「それだったらちょっと無理です」と(笑)。

──(笑)。

鶴田:「そういうのはちょっとやってないんで」って結局断ったんです(笑)。そうしたら、もう一つのBEAから「こっちおいでよ」と誘われて、BEAは僕みたいな格好のやつばかりだったので、「こっちだったらいいか」とフラフラと入ることになりました(笑)。

 

音楽業界は権利商売であると気づく

──BEAでは何年仕事をされていたんですか?

鶴田:BEA では21から4年ぐらいプロモーターをやっていました。

──そのときに担当していたアーティストは誰ですか?

鶴田:アミューズさんのSIAM SHADE、CASCADE。あとフラワーカンパニーズとかですね。当時、九州でのツアーって福岡だけじゃなくて、各県回っていたので、ずっとついて回っていました。その4年間でだいぶ人脈ができたと思います。やっぱり夜は飲みに行きまくっていたので。

──いわゆる地方のプロモーターとしての基本はそこで学んだと。

鶴田:そうですね。叩き込まれたと思います。

──その後、東京に出てくるきっかけはなんだったんですか?

鶴田:仕事をしていく中で、イベンターという仕事が合わないなと思ったんです。あと、少しずつ東京のプロダクションの人たちと話をしたり、業界自体の様子を見ていると、「これって権利商売なんじゃないかな」と思ったんです。

そんなときに、drug store cowboyというバンドの子たちから「一緒にやってほしい」と言われ、これはチャンスだなと思い、BEAの社長をだまくらかしたというか(笑)、「プロダクションを作りたい」と説得したら「やってみろ」と。それで東京に出てきたんです。

──まだBEAとは繋がっていたんですね。

鶴田:BEAとは繋がりつつプロダクションを作って、上京したのが25のときですね。

──東京に出てきたのが1991年ということは、音楽業界もまだメチャクチャ元気なときですよね。

鶴田:すごく元気でバブルなときでしたね。そこから2、3年、drug store cowboyと一緒にやってはいたんですが、バンド自体が解散することになり、僕もちょっと疲れて、一旦何もせずに東京でフラフラしていたんです。まあ、毎晩飲み歩いていただけなんですけど(笑)。

──(笑)。毎晩飲み歩きつつも、次を模索するわけですよね?

鶴田:そうですね。でも、そもそも音楽自体がそんなに好きでもないので「違うことでもやろうかな」と思っていたんですが、結局違うこともそんな簡単に見つかるわけでもなく(笑)。それで、当時drug store cowboyが使っていたスタジオファインのエンジニアがライブのPAとかもしていて、スタジオファインの副社長だったんですよ。で、その人と社長から「プロダクションを作ろうと思っているんだけど、手伝ってくれない?」という話があり、「社員とかにはなりたくないので手伝うだけなら」と手伝い始めたんです。

──じゃあスタジオ業務とは関係なく。

鶴田:まったく関係ないです。

──スタジオファインにおけるプロダクション業務の最初のアーティストは誰だったんですか?

鶴田:ASIA Sunriseというアーティストです。あと僕がライブ制作もできることを知っている人がいっぱいいたので「やってくれない?」と頼まれて、色々なアーティストのライブ制作もやっていたんですが、その合間にUVERworldを見つけたんです。

 

UVERworld TAKUYA∞は「努力の人」

──UVERworldを見つけたのは何年ですか?

鶴田:確か2000年頃だったと思います。ですから、スタジオファインでプロダクション業務を始めてからUVERworldと出会うまでって、そんなに時間が空いてないんですよね。

──出会いのきっかけはなんだったんですか?

鶴田:先ほどお話したエンジニアがインディー界では有名なエンジニアで、インディーズの子たちがその人に録ってもらいたいと、わざわざスタジオファインまで録りに来ていたんですよ。特にミクスチャー界隈では有名な方で、その中の1組がUVERworldだったんです。

──UVERworldは、そのエンジニアさんのお客さんだった?

鶴田:そうです。で、「なんかすごくいいバンドがいるんだけど、ちょっと聴いてくれない?」と言われてスタジオに行って初聴きしたんです。

──それはまだUVERworldという名前になる前ですか?

鶴田: SOUND極ROADという悪そうな名前の時代です。まあ、ヤンチャだったんですよ(笑)。

──最初から「こいつらすごいな」って思われました?

鶴田:ええ。「これ、すごいじゃん」という話になりましたから。なんか全然違いましたね。それで「うちでやろう」と。

──サウンドはある程度完成されていた?

鶴田:サウンドは完成されていたけど、しっちゃかめっちゃかな構成がメチャクチャ面白かったんですよね。

──TAKUYA∞さんはパフォーマーとしてすごいですよね。

鶴田:TAKUYA∞も最初からあんな感じでした。やはりTAKUYA∞は出会ったときから光っていたので「これはもういける」と瞬間で思いましたね。でも、彼って本当に努力の人なんですよ。出会った頃からデビュー3年目、4年目ぐらいまでは本当に喉が弱くて、それは彼自身もわかっているので、一時期ライブ前とか筆談しているくらいでした。喉使いたくないから。

──オペラ歌手みたいですね。

鶴田:そのぐらい繊細な喉をしていて、最初のワンマンライブなんて10曲歌えたかなというぐらいだったんですよ。

──今の姿からは想像できないですね。そこから鍛えたわけですか?

鶴田:はい。TAKUYA∞自身がすごく勉強して、ありとあらゆることを試していったんですよね。その過程で声を潰して潰して潰して、今に至っているんです。言い出すと細かいことがいっぱいあるんですが、すべて彼の努力ですね。多分、TAKUYA∞が喉の使い方とか本気で語ったら、とてつもない情報量だと思います。

──論文が書けるぐらい?

鶴田:未だに努力を続けていますからね。食事もグルテンフリーにしたり医学的にもたくさん勉強したりしているので、本当に努力の人なんです。

──あの喉の強さは生まれつきじゃないんですね。

鶴田:違います。信じられないでしょうけど。デビュー当時は「これじゃライブツアーができない・・・どうしよう?」と思っていたぐらいですから。もちろんパフォーマンスとかは天性のものなんですが、それ以外はすべて努力の人ですね。お酒も飲まないですし、本当に毎日10キロ走っていますしね。

──完全にアスリートですね。それであの壮絶なステージを毎日のようにやるわけでしょう?

鶴田:そうです。コロナ禍は毎日2回公演やっていましたからね。週10本とかライブをやっていたので(笑)。しかも、削らないでフルでやっていますからね。

──すごい。それについて行くバンドもスタッフも大変ですね。

鶴田:みんなついていくのが大変ですよ。今はバンド全体が身体作りのために走っていますし、彼らは「100歳までやる」と本気で言っているので、体調管理から体づくりまで、バンド一丸となってやっています。

 

日本初の試みが多いUVERworldのライブ〜歌詞同期、ザイロバンド etc.

──UVERworldのライブをSMEの社長が観に来て、その日のうちに契約したという逸話がありますが、あれって本当のことなんですか?

鶴田:本当です。そのときの社長は村松(俊亮)さんなんですが、僕はUVERworldを見つけてすぐに「これはとっととデビューさせたほうがいいな」と思ったので、いろいろなところと話をしていたんです。その中で実はヴァージンが一番初めに手を上げていたんですよ。で、村松さんにも話をしていたんですが、観るタイミングがなくて「もうヴァージンに決めようかな」と思っていたときに、村松さんが大阪でのライブを観に来てくれて、ライブが終わった瞬間に「ちょっと今日の夜飯食える?」という話になり、みんなで行ったら「うちでやらせてくれ」という話になったんです。

──よっぽど強烈な印象だったんでしょうね。

鶴田:村松さんの嗅覚は非常に鋭いですからね。ただ当時、そこまで反応したのはまだ村松さんだけでしたね。音楽的にはまだとっちらかっていましたし、彼らのようなミクスチャーバンドってまだあまりいないときだったんですよ。ですから、ソニー社内でも「売れるの?」みたいな意見もあったようです。

──村松さん以外はそこまで評価は高くなかった?

鶴田:高くなかったです。ですからディレクターを決めるのも難航して、唯一手を挙げてくれた人がやってくれたんです。その方はもうソニーにはいないのですが、洋楽好きな人だったんですよね。そんなスタートでした。

──でも1stアルバム「Timeless」から「すごいな」って思いましたけどね。

鶴田:ありがとうございます。「Timeless」はソニーパワーが本当にうまくハマったと思いますし、時代とうまいことマッチしたんですよね。ちょうどORANGE RANGEが売れたぐらいのときで、ミクスチャーな音楽が流行り始めていたときだったんです。また、アニメのタイアップが決まったり、運があったのかなという気はします。

──しかも、音楽にさほど興味がなかった鶴田さんがいきなりUVERworldとくっついて(笑)。

鶴田:(笑)。もちろん最初は音楽に全く興味がなかったんですけど、ライブを作っていくうちに、ライブの演出とかそっちのほうにはすごく興味が湧いていったんですよね。

──別の取材でも「ライブの感激が一番」とおっしゃっていましたね。

鶴田:やはりそれが一番ですね。またUVERworldが大きくなっていくにつれて、自分がやりたかった演出をできるようになったんですよね。実はUVERworldって、日本初が結構多いんですよ。自分からはほとんど言っていないですけど(笑)。

──例えば?

鶴田:3Dのミュージックビデオを作ったりしたのも多分UVERworldが最初ですし、今や定番になったライブ時にリストバンドと同期させるザイロバンドも、日本に最初に持ってきたのは僕です。あと、ライブで歌詞を同期させる演出も、多分僕が最初じゃないかなと思います。

──歌詞の同期はわかりやすくていいですよね。あの音響の中で歌詞ってなかなか聞き取れないですし。

鶴田:音数が少ないシンプルな演奏だったらいいんですが、UVERworldのような音楽になってくると、どうしても歌詞が聞き取れないところが出てきます。でも、UVERworldの歌詞ってとてもメッセージ性があってすばらしいものだと自負しているので、それを同時に伝えるにはどうしたらいいか考えた結果が歌詞の同期だったんです。

──あれも鶴田さんの発案なんですね。

鶴田:ただ歌詞を出したりする人はいましたが、UVERworldのように映像とマッチングさせてというのは多分なかったと思いますし、そのハシリだと思います。PVを作っている会社とかに「こういうのを作れない?」とアイデアを出して、試行錯誤しつつ実現させました。

 

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第213回 株式会社パワープレイミュージック 代表取締役 鶴田武志氏【後半】

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