株式会社ハンズオン・エンタテインメント代表取締役社長 中本敦氏インタビュー【前半】
今回の「Musicman’s RELAY」は、前回ご登場いただいた株式会社ロッキング・オン・ホールディングス/ロッキング・オン・ジャパン代表取締役社長 海津亮さんのご紹介で株式会社ハンズオン・エンタテインメント代表取締役社長 中本敦さんが登場。
専門学校卒業後、株式会社キャピタルヴィレッジでリゾートコンサートなどの企画制作を経て、アメリカを放浪後、株式会社ハンズ(現ハンズオン・エンタテインメント)に入社。THEE MICHELLE GUN ELEPHANTなどロックバンドを中心にコンサート制作に携わってきた。
その後、一度音楽業界を離れ大阪で飲食業に関わるも、色々な縁もあって再びハンズオン・エンタテインメントに復帰。ケツメイシ、KARA、緑黄色社会などのコンサートツアーをプロデュース。2025年4月に代表取締役社長に就任。ミッシェルとの解散までの熱狂、ライジングサンからのフェス文化の隆興、コンサート制作において音楽業界が直面する課題など語ってもらった。
(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也、Musicman編集長 榎本幹朗)
ユーミンのコンサート制作から30年超の付き合いに
──まず、紹介者の海津亮さんとのご関係からお聞かせください。
中本:海津さんとの出会いは1992年冬、苗場で行われたユーミンのコンサートでした。僕が専門学校を出て、キャピタルヴィレッジという会社に就職をしたんですけど、そこが苗場プリンスホテルで行っているユーミンの「SURF&SNOW(サーフ アンド スノー)」の主催をやっていまして、その時はアルバイトでしたが、業界の初めての現場がその苗場だったんです。
ユーミンの現場は皆さんスーツなんですけど、その中でもスーツをビシッと着て、髪もしっかり整えたクールな大人がいて、「いったい、この人は何者なんだ?」と思ったんですけど、それが海津さんとの最初の出会いですね。
──それ以降も関係は続いていたんですか?
中本:それからユーミンの現場では会っていたんですけど、頻度が多かったわけではないんですよ。でも毎年顔を合わせていましたし、海津さんがロッキング・オン社に行ってからはフェスの主催者と、こちらはアーティストをフェスに連れていく制作側になって。30年を超えるお付き合いになりますね。今でも定期的に食事に行ってます。
八王子で過ごした少年時代
──では、ここからは中本さんご自身のルーツからお聞かせください。ご出身はどちらですか?
中本:東京の八王子です。高校を卒業するまで八王子にいました。八王子の中でも高尾山で有名な高尾に近い方ですね。冬は寒いんですけど夏は暑くて、暑い寒いのニュースは絶対八王子の駅前からですからね(笑)。
──ご家族の構成は?
中本:家族構成は両親と弟1人、双子の妹で、弟が2つ下で妹が6つ違い。4人兄弟の長男として育ちました。父親は大手出版社に勤めていて、家にはジャズのアナログ盤がたくさんありましたね。父がレコードでジャズを聴いていたのは覚えていますが、父からは音楽の影響というより活字の影響の方が強かったかもしれません。
──どんな少年でしたか?
中本:小学校の頃はプラモデルに夢中でした。ガンプラが好きで、シャア専用ザクが入荷するという情報を聞いて、ゲットするためスーパーに開店前に並んだり(笑)。家に帰って塗装して組み立てるのが楽しかったですね。
あとはファミコンが出た頃で、友達とプラモデルの店に行ったり、ファミコンの新しいソフトが出たら借りて遊んだりとか、小学校の時は普通に地元で遊んでいました。
──ごくごく普通の少年時代を過ごされていたんですね。スポーツはされていましたか?
中本:スポーツは中途半端でしたがやっていました。小学校の頃は近所で少年野球チームに入って、ポジションはキャッチャーでした。中学でサッカー部に入りましたが「なんだ、補欠か」とすぐに行かなくなって(笑)。2年生の時の担任が柔道部の顧問だったんですが、部員が入ってこないから「サッカー部さぼってるなら柔道部に来い」って言われて、気づいたら兼務させられました。それで中学2、3年生は柔道もやっていましたね。
──高校は地元に進学したんですか?
中本:忌野清志郎さんや三浦友和さんも出身の都立日野高校に進学しました。「トランジスタ・ラジオ」や「僕の好きな先生」(RCサクセションの楽曲)の舞台なった学校です。同級生には某有名芸人がいます。
──高校時代はどんな生徒でしたか?
中本:高校に入って3年間、全く勉強はしませんでしたね。テストは一夜漬けで赤点の常連でしたから。正直もうほとんど大学に行く気がないというか、学校にも真面目に行ってなかったので。
それでも、学園祭でバンドをやるとモテるらしいという情報をちゃんとキャッチして(笑)、高校に入ってバンド活動を始めたんです。部活にギター部というのがあって、みんなでアコースティックギターを持って、スタンダードなギターの練習曲や歌謡曲のコピーをやるんですけど、それは表の顔で、裏ではそこに集まったメンバーでバンドをやっていたんですよ。
そこに高1で入って、部活ではなんとなくアコースティックギターを弾きに行って、休みの日はそこで組んだバンドで学園祭に向けてコピーバンドをしたり。
──家ではどんな音楽を聴いていたんですか?
中本:BO GUMBOSとか有頂天、どんとさんやケラさんのような個性的なフロントマンがすごく好きで。あとはブルーハーツのヒロトさん。洋楽だとデヴィッド・ボウイや、デュランデュラン、ボーイ・ジョージ(カルチャー・クラブ)とか、80年代ブリティッシュ・ニューウェーブのスタイルが好きで、その辺をよく聴いていました。小林克也さんのベストヒットUSAは毎週観てましたね。
──音楽以外の趣味は?
中本:バイクにも興味があって、当時はマフラーやハンドルの改造をみんなしたがる年頃で自分もしていました。休みの日は甲州街道を走ったり、友達と湘南までツーリングに行ったり。バンドとバイクの両輪でモテると思っていたですが(笑)。
──今もバイク乗られているんですか?
中本:何年も乗っていないです。コロナ前に沖縄へ行った時に久しぶりにレンタルバイクに乗って、やっぱり気持ち良かったですね。
歌舞伎町の飲み屋で働く日々からキャピタルヴィレッジへ入社
──高校卒業後の進路は?
中本:本当にギリギリで卒業できましたが、大学に行ける頭はなかったですし、塗装屋でアルバイトをしていたんですけど、もうこのまま塗装屋に就職しようかなと思っていた時に、母親が新宿にある東放学園音響専門学校という専門学校のパンフレットを持ってきてくれて、もう少し学生できるならとそこに入学しました。
──東放学園では何を専攻されたんですか?
中本:レコーディング科とPA科があるんですけど、選択制で入学するときに決めることができて、レコーディング科を選択したんですよ。で、実際にやってみたところ数ヶ月で全く自分に向いてないことに気づきまして(笑)。そこから学校には行かなくなって、もうバイトの日々です。
──何のバイトしていたんですか?
中本:主に新宿歌舞伎町の飲み屋ですね。その頃住んでいたのが笹塚で、多少の親の仕送りもあるわけですけど、一人暮らしなので生活できるようにバイトしなきゃいけなかったので、歌舞伎町の飲み屋を2、3軒掛け持ちしていました。
──どんなお店だったんですか?
中本:もう閉まっちゃったんですけど、当時歌舞伎町のど真ん中の雑居ビルの地下に結構有名なMusic Barがあって、リクエストカードを書いてマスターに渡すとレコードをかけてくれるお店でした。壁一面レコードで、ウッドベースや古い楽器が置いてあったり、大人のお客さんが多かったです。そこは1年以上働いていました。
あと新宿二丁目のソッチ系ではないんですけど、著名や将棋の棋士や作家さんがよく集まるスナックでも働いていましたね。新宿はゴールデン街もあって当時は文化人も多かったじゃないですか。バイト先で知り合う人たちの感覚が面白いなと思って新宿でバイトを楽しんでいましたね。
──では、就活もなにもせずそのまま飲み屋で働いていた。
中本:いえ、専門学校で知り合った友達が2年も終わりの頃になって就職しなくちゃみたいな話をしてきた時に、「中本は就職どうすんの?」と聞かれて。学校には行ってなかったんですけど、「そうだよな・・・」と思って久しぶりに学校に行ったら、求人ボードに張ってあったキャピタルヴィレッジのリゾートコンサート企画制作の求人をたまたま見つけて、これ楽しそうだなと(笑)。
──そこからキャピタルヴィレッジに無事入社できたわけですね。
中本:はい。小さい会社でしたが、社長の荒木(伸泰)さんに社会人のイロハを教わりました。
アメリカ放浪、23歳の誕生日はニューヨークで
──その後、キャピタルヴィビレッジでは何をやっていたんですか?
中本:キャピタルヴィレッジには2年半くらいいたんですけど、リゾートコンサートが多かったので、苗場をはじめ、全国のプリンスホテルとか、あと観音崎の京急ホテル、それから茅ヶ崎のビーチとか、色々な環境でコンサートの制作や運営をやっていました。
あとは、荒木さんがブレッド&バターのマネージメントの会社もやっていてブレバタの現場も手伝うようになりました、ブレバタのお二人にも本当にお世話になりました。
──その後、退職されてハンズオン・エンタテインメントに?
中本:22歳でキャピタルヴィレッジを退職したんですけど、20歳頃に知り合った友達が何人かアメリカに行っていて。彼らを見て、自分の中で漠然とアメリカに行ってみたいという想いがあったんです。
それでアメリカに行きたいからという理由でキャピタルヴィレッジを辞めたんですよ。退職金とブレバタのメンバーからも餞別をもらって40万円くらいは工面できて、それを持ってニューヨークに行きました。
──それは急な方向転換ですね(笑)。アメリカでのあてはあったんですか?
中本:ニューヨークに友達の家があったので、そこに住めることだけは決まっていたんです。でも、手持ち40万で航空券を払ったら、もう半分ぐらいしか残らない。スーツケース一個持ってニューヨークのイーストビレッジのアパートに転がり込んで、ひたすらニューヨークを1ヶ月ぐらい歩き倒してました。それでお金が尽きそうになってくると、友達がバイトしていたイーストビレッジの居酒屋があるんですけど、そこでお小遣い稼ぎに皿洗いをやりましたね。
──それは・・・違法就労ですね(笑)。
中本:(笑)。たまにクラブとかに遊びに行ったりしていましたけど、当時はクラブも大箱があって、ザ・トンネルとか有名で、面白かったんですよ。ガラージやクラシックハウスとか、クラブミュージックが流行っててマンハッタンにはレコード屋さんがいっぱいあったので、買わないでずっと視聴するような生活をしていたら23歳の誕生日をニューヨークで迎えていました。
──今振り返って、その時にニューヨークに行ったことは大きな財産になっていますか?
中本:すごく大きいと思います。今もニューヨークは大好きで、コロナ前には年に1回はコンサートやミュージカルの視察でニューヨークに行っていました。その時はニューヨークには1ヶ月半ぐらいいたんですけど、友達も「そろそろ出て行かねえかな・・・」みたいな雰囲気になっていたので、次はノースカロライナ州のシャーロットっていうところにも友達がいたので、そこに移動して友達の家に転がり込んで。で、このシャーロットは郊外の学生寮だったんですよ。だから何にもすることはなくて昼間からピザ食べてビール飲んでテレビ見て・・・夜は外国人の集まりに行って、何話しているかわからない中でずっとダラダラして過ごしていました。
──シャーロットは大きな街なんですか?
中本:シャーロット大きいですね。アメリカでも大都市の一つだと思います。その次にはロサンゼルスの北東のパサデナに移動するんですよ。そこに知り合いの先輩のお姉さんご夫婦がいて、この家に今度はお世話になりまして。そこには2週間ぐらいいたかな。車を借りてロスからサンディエゴまでドライブしたり。
そのお姉さん夫婦と一緒にご飯食べてたら来週ハワイに行くって言うんですよ。それで「一緒に行く?」って言われて、「行く行く」と今度はハワイに行きました。ハワイに1週間ぐらい滞在して、そこでもドライブしたりカヤック乗ったりしてました。そしてギリギリ観光ビザの期間で帰国しました。
──それだけの行動力というか、やっぱり若い時にやんなきゃできないですよね。
中本:そういう意味で考えてみると、携帯もなければインターネットもない時代でしたから。ニューヨークのケネディ空港に着いたら友達が迎えに来てくれるという手紙を頼りに向かうしかないみたいな(笑)。
──素晴らしい経験ですね。やっぱりカルチャーショックはあった?
中本:ありましたね。ニューヨークは多国籍な街で、アジア人もいれば、ラテン系も欧米人もいる。僕が住んでいたイーストビレッジって特にそういった雰囲気で、ストリート1本変わるだけで、国が変わるくらいでした。タクシー乗ったらドライバーはターバン巻いたインドの人で、ラジオからコーランが流れてました。
あとはアメリカンチャイニーズの友達ができて、チャイナタウンでも遊んでました、いろんな国の人たちと交流を持って本当に自由な時間でしたね。
──帰国後はどうされたんですか?
中本:また新宿の飲み屋でバイトを始めました。そうしたら母親から「雲母社の大竹さんという人から電話があって連絡が欲しいって言っていたから、折り返しなさい」と言われて。大竹さんは、雲母社でユーミンのマネージメントをやりつつ、ハンズの役員でもあるんですが、キャピタル時代に苗場のユーミンでお世話になったので面識がありました。
雲母社に電話をしたら大竹さんから、「今、何やってる?」と。僕が「アメリカから帰ってきて、バイトしています。」そしたら「だったら業界に戻って仕事やらない?」という話になり、またアメリカに行きたいと思っていたのですが、ちょうどハンズが人の入れ替え時期というか、人が辞めて足りない状況になっていると。それで人材を探しているから、一度話を聞きに来てと言われて。アメリカへ行くにも、そんなにすぐお金が貯まるわけでもないし、業界にはまだ興味があったので大竹さんと会って、色々と話を聞いて上で、チャレンジしたいなと思い、ハンズに入りました。
当時のハンズは、Mr.Childrenやシャ乱Qなど、大物アーティストがいっぱいいて、それはそれでミーハー的にすごいなと思ったのが記憶にあります。それが、アメリカから帰ってきて半年後くらいです。
後半は11月19日公開予定!
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「Musicman大学」は世界の音楽業界の最新トピックスを解説。講師は『音楽が未来を連れてくる』の著者、Musicman編集長・榎本幹朗。「Talk&Songs」は月間500組ものアーティストニュースを担当するKentaが選ぶ、今聴くべき楽曲と業界人必聴のバズった曲を解説。
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