第222回 株式会社エル・ディー・アンド・ケイ 取締役副社長 「TOKYO CALLING」隊長 菅原隆文氏【前半】

今回の「Musicman’s RELAY」は、コロムビア・クリエイティブ株式会社 佐々木健さんのご紹介で、株式会社エル・ディー・アンド・ケイ(LD&K)取締役副社長の菅原隆文さんが登場。
日本最大級のライブサーキット「TOKYO CALLING」の仕掛け人としても知られる菅原さんは、音楽業界のデジタル化を早期から推進し、現在は日本音楽の海外展開にも情熱を注いでいる。LD&Kでの30年近いキャリアの中で培った経験と、音楽への純粋な愛情を語ってもらった。
(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也、Musicman編集長 榎本幹朗)
師弟関係から尊重し合える関係に
──前回にご登場いただいた佐々木健さんとのご関係は?
菅原:彼は僕のことを一番よく知っている人間の一人で、そんな彼からリレーインタビューが回ってきたというのは、すごく嬉しいですね。LD&Kに入社した時からすごく優秀で、学生時代に自分でレーベルをやっていた経験もあったので、最初からとても頼りになる存在でした。
──現在の関係性はいかがですか?
菅原:今は同志というか、ライバルじゃないですけど、彼は自分より優れている所もたくさん持っているので尊重し合える関係ですね。僕がやっている「TOKYO CALLING」でも彼にお願いして、たくさん協力してもらっています。たまにはゆっくり話したいんですけど、現場でしか会えないんで、一度ゆっくりと食事でもしたいと思います。
プリンスとの出会い、そしてパンクへの転換
──では、ここからは菅原さんご自身のお話しを聞かせてください。ご出身はどちらですか?
菅原:生まれは名古屋の星ヶ丘で、東京でいうと世田谷みたいな新興住宅地でした。東山線で名古屋駅から栄があってその先にあるんですが、今は結構おしゃれな街として知られていますが、当時はただの田舎で住みやすい街でしたね。
──どんなご家庭でしたか?
菅原:今思えば、すごく平和な子供時代だったと思います。本当に良い家族で、親戚にも嫌な人が一人もいないんですよ。父方のおばあさんは会津の出身で、すごく武士的な人だったんですけど、すごくいい人ばかりで、いざこざも一切ないし(自分が)基本的に性善説なのは家族の影響が大きいと思います。
音楽的な部分で言うと、父がサラリーマンで学生時代にジャズ・ピアノをやっていました。プロではないんですけど家でよく弾いていて、車の中でも絶対にジャズがかかっていたので、子どもの時はジャズがすごく嫌いで(笑)。今はジャズも好きになったんですが、ヘレン・メリルとかビル・エヴァンスとか、そういうモダンジャズばかりで・・・子どもだったらジャズじゃなくてピンク・レディーとか聞きたいじゃないですか(笑)。
──強制的にアカデミックな音楽をお聴きになっていたと。ご自身もピアノ経験は?
菅原:小さい頃にピアノをやらされたんですが、嫌すぎて先生の手を噛んじゃったみたいで破門になったと聞かされて(笑)。そこで音楽的な才能が無いことに気づきましたね。
──(笑)。学生時代はどんな少年でしたか?
菅原:スポーツは得意じゃないし、子どもの時は勉強ばかりしていたんです。新興住宅地で不良がほとんどいなかったので、すごく平和な少年時代でした。ただ、高校に入ってからは勉強を全くしなくなりましたね。中学校までは勉強しかしていなかったんですけど、高校に入るとみんな賢いじゃないですか。勉強では勝てないなと思って、バンドも始めてフィールドを変えようと思ったんです。
──音楽に目覚めたきっかけは?
菅原:ちょうど1983〜85年ぐらいがベストテン全盛の頃で、子どもにとってはテレビくらいしか音楽の情報が入ってこない時代でした。「ザ・ベストテン」でチェッカーズを見て、歌謡曲じゃない何かが始まっているのは感じていました。
そして中1、中2ぐらいの時にマイケル・ジャクソンが出てきて、映画『パープル・レイン』が出た時に、プリンスに衝撃を受けて。映画の内容は今見ると薄く感じるけど、「パープル・レイン」の楽曲の素晴らしさにスポッとハマって、中学校時代はプリンスのブート盤を40枚ぐらい集めていました。
──すごい情熱ですね。
菅原:「1999」を聞いた時は、シンセサイザーの使い方とか、リズムの作り方とか、すべてが新しくて本当に未来の音楽だと思いましたね。学校から帰ったら、まずプリンスを聞くという生活でした。
もちろんCDも買っていたんですけど、中3の時に「アラウンド・ザ・ワールド・イン・ア・デイ」が出て、全部シングルカットされて、12インチを全部買っていました。高1の時にはプリンスの「パレード」が出て、今聞くとめちゃくちゃいいんだけど、当時は「パープル・レイン」のファンク・ロックから、ソウル・ミュージックに変わった感じで受け付けなくなっていったんです。
その頃、友達から「セックス・ピストルズというバンドがいるらしいよ」と聞いて、セックス・ピストルズとかクラッシュといったパンクも聞くようになって。当時は83年とかなので、パンク自体のムーブメントは終わっていて、レコード屋さんに行くとニューウェーブというコーナーになっていたんですよね。そこから入っているので、何が「ニュー」で、何が「ニュー」じゃないかわからない(笑)。
──そういった情報も当時は手探りで。
菅原:そうです。名古屋のレコード屋をそこら中探して、一枚だけあったのを買って、それがピストルズの「マイウェイ」の12インチシングルだったんです。家に帰って聴いてみたら、フランク・シナトラの「マイ・ウェイ」で、パンクってこんな感じなのかなと思った途中で「ガガガガ!」と鳴って、これはやばい、めちゃくちゃかっこいい!と(笑)。でもプリンスとセックス・ピストルズを両方聞いていて、この二つを両方追っているのはどちらに対しても失礼だと思って、どっちかに決めようと思って。
──ある意味すごく純粋に音楽を聴いていたんですね(笑)。
菅原:(笑)。なんか浮気している感じがして僕はプリンスを切ったんです。それ以降、プリンスを聞くのをやめようと思って何十枚もレコードを売ったんですが、最後まで「パープル・レイン」のアルバムとシングルの7インチだけは手放せませんでした。
東京進出とバンド活動、そしてテイチクへ
──高校卒業後はどちらに?
菅原:法政大学に進学しました。大学時代はとにかくバンドをやって、アルバイトをして、他のことはあまりした覚えがないです。
──アルバイトは音楽に関係あるものですか?
菅原:特に関係なく日雇いのバイトをしていました。「猫の手」というアルバイト派遣会社で、「今日は新宿に何時に」と言われて、そこに行くとトラックで、どこに行くかわからない、ミステリーツアーみたいな感じでした。
──どんな仕事を?
菅原:道路工事もあったし、多かったのは大手企業とかの壁にある旗を取り替える仕事でしたね。あとは表参道のイルミネーションを取り外したり、みなとみらいのイルミネーションを取り付けたり。
──そういった力仕事となると給与は良かったんですか?
菅原:当時にしてはめちゃくちゃ良かったと思います。8時間やって1万2千円とかで、残業になると時給で2千円つくんですよ。当時にしてはそこそこ稼いでいたと思います。
──バンド活動の方は?
菅原:高校時代の友達で今堀氏というのがいるんですけど、彼とずっと一緒にバンドをやっていて、大学に入ってから彼のバンドのドラムがいなくなったから、サポートドラムとして手伝うようになったんです。それで大学サークルのバンドのリーダーが松村さんという方なんですけど、本当にいい人で、ギターは上手いし、作曲もすごくいいし、いろんな所に呼ばれて、めちゃくちゃ楽しかったです。
──バンド活動はそのまま続けていたんですか?
菅原:松村さんが大学4年生の時に、そのまま就職しちゃって今は地方の銀行の支店長をやっています。大学にも本当に音楽が上手い人っているわけじゃないですか。そういう人がさっとバンドを辞めて一般企業に入ってしまって、すごく寂しい気持ちになりましたね。そのままバンドをやってほしかったし、音楽業界に行ってほしいなって思っていました。
その後は学園祭でコピーバンドをやって、イエモンをやってくれと言われたらイエモンをやるし、ジュディマリをやってくれと言われたらジュディマリをやるし、尾崎豊をやってくれと言われたら尾崎豊をやるし、みたいな感じでしたね。
──就職活動はどうだったんですか?
菅原:ずっと子供の頃から人の言うことが聞けないので、本当に働きたくないと思っていて(笑)。でも、どうしてもやるんだったら音楽関係でレコード会社ぐらいしかないのかなと、レコード会社に行こうと決めました。それで公認会計士の勉強もしていたので、経理でもいいかと思って経理の募集があったテイチクに入社しました。
──入社は1995年?
菅原:95年です。とりあえず入ってから段々と音楽に関われるかなと思ったら、当然ですが3、4年経ってもずっと経理の業務で(笑)。今でもバランスシートとか損益計算書とか作れますし、資金繰りに関しても全部わかっているので、減価償却とか資産表は一発で見ればわかります。
あとテイチクは当時、分社化していて制作会社が3つぐらいあったんですよ。そこにお金を送る仕事をしていたので、そこの人間とも仲良くなるし、500人ぐらいいた社員全員と友達になろうと思って、いろいろ動き回って経理なのにめちゃくちゃ顔が広い状況でした。
──レコード会社で顔の広い経理というのはあまり聞いたことが無いです(笑)。
菅原:でも、99年にリストラに(笑)。
──ええ!?まだ4年目の若手ですよね?
菅原:組合の副支部長もやっていて、組合員でなおかつ管理部門で、恐らく早期退職で全部ゼロってわけにはいかなかったので僕だけが20代で選ばれました。まあ、言うことを聞かなかったからですね(笑)。
──出る杭は打たれてしまった状況ですね。
菅原:でも辞めるって言ったら、みんなが「あそこがいいよ、ここがいいよ」って仕事を紹介してくれるんですよ。20代で経理もできるし、音楽のこともわかるということで、いろんな選択肢があった中で、成長のために一番キツそうなところで働こうと思って芸能系の事務所に行きました。
そこで初めて現場に出てマネージャーをやったんですが、想像以上にキツくて、寝られない状況が半年続いてこれは違うな・・・と。そもそも音楽の仕事じゃなかったので、音楽に関わる仕事に戻りたかった気持ちになり再度転職を考えていました。
──そこからLD&Kへの転職に繋がる?
菅原:テイチクに’elseというバンドがいたんですけど、マネジメントをLD&Kがやっていたんですよ。その繋がりで代表の大谷(秀政)とも知り合ったんです。たまたまマネージャーを探しているということで、自然な流れでLD&Kに入ることになりました。
LD&Kでの多彩な業務経験
──LD&Kで最初に手がけた仕事は?
菅原:最初はRoboshop Maniaという、男性2人組の渋谷系バンドのマネジメントについていました。インディーズで1万枚ぐらいアルバムが売れていたのですが、解散しちゃったんですよね。一人は今、音楽プロデューサーでアイドルなども手掛けていて、もう一人は俳優座で演出家をやっていたり、相当優秀な人たちですね。その後、Cymbalsを担当して、現場マネージャーとして、いろいろとアーティストマネジメントを学びました。
──当時のLD&Kの状況は?
菅原:僕が入った時には4組のマネジメントアーティストがいました。大谷がもともと全部やっていたんですが、それが回らなくなったので現場マネージャーを探していて僕に声がかかった感じですね。
──現場の仕事というのはどんな感じだったんですか?
菅原:当時、メーカーさんがいる時のマネージメントのやり方がよくわからなくて、結構自由に動いていたら「そこに行くな」「勝手にするな」とメーカーさんに怒られるんです。窓口があるからそこを崩さないでくれという感じで、仕事をしても怒られるような状況でした。
じゃあ何をしたらいいのかなという時に、『Musicman』を読んでいたら「音プロ(広告音楽製作会社)」って書いてあったので、「これだ!」と思って上から順に全部電話したんです。
──お役に立っていたようで嬉しい話ですね。
菅原:大変助けられました。それで音プロと呼ばれるところに全部営業して回って。そこでCM音楽の仕事を始めて、ナレーションやCMの歌い手を、うちのアーティストだけじゃなくて、周りのアーティストのエージェントをするみたいなことを始めました。年間200本ぐらいやっていましたね。
──それが今でも続いている仕事に?
菅原:今でも会社のホームページに載っています。僕が始めたもので、それこそ新入社員だった佐々木(健)を全現場に連れてCMの仕事を全部覚えさせたんです。今は担当がちょっとお休みに入っちゃって、僕が兼務でやっているんですけど、1ヶ月で20本ぐらい問い合わせが来るんですよ。
──電通とかの広告代理店からですか?
菅原:そうです。当時、音楽業界の人間がCMの世界に営業に行くのは珍しかったんですよね。だから結構面白がってもらえました。タイアップを受けるだけじゃなくて、タイアップを取りに行くんですが、「こういう歌い手がいます」とか「ナチュラルな声の人がいます」とか提案していって、だんだん仕事が増えていきました。
──大谷さんとの関係性についてお聞かせください。
菅原:同じ会社でやっているので、基本的に音楽って最初は赤字の事業になりやすいんです。投資としても結果が出るのに半年〜1年くらいかかるので、黒字が安定していないと好き勝手にできないので、大谷にはすごく感謝というか、リスペクトもあるし、面白がってくれる有能な財務大臣もいて、僕は好き勝手やっていられるんですよね。
──音楽面でのアドバイスも?
菅原:僕が相談したら助言はもちろんくれますし、「これどうしたらいいと思う?」みたいなのはちょいちょい相談しています。全然違うタイプの人間なんですが30年近く一緒にやっているんで、そういった意味で言うと貴重なビジネスパートナーというか、最高の社長だと思います。
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