第195回 Pヴァイン 井上厚氏インタビュー【前半】

インタビュー リレーインタビュー

井上厚氏

今回の「Musicman’s RELAY」はクレイジーケンバンド 横山剣さんからのご紹介で、Pヴァイン 井上厚さんのご登場です。『美術手帖』に掲載された赤瀬川原平の千円札、そして零円札の作品に衝撃を受けた井上さんは、美学校の赤瀬川原平「絵文字工房」へ入学。

その後、イベント企画会社を経て、客としてヘビーユーザーだった芽瑠璃堂/VIVID SOUNDへ入社。阿佐ヶ谷バレルハウス経営ののち加わったPヴァインでは、ソウルやラテンを皮切りに、幻の名盤解放同盟の一連の作品や、クレイジーケンバンドなど個性的なアーティスト・作品に関わっていきます。現在はイラストレーターの故・河村要助の作品管理や湯村輝彦の作品など美術系のお仕事もされている井上さんにじっくりお話を伺いました。

(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦 取材日:2022年7月21日)

 

 「売れないけど大好きです」クレイジーケンバンド 横山剣との出会い

──前回ご登場頂いたクレイジーケンバンド 横山剣さんと出会うきっかけは何だったんですか?

井上:私はメジャーがやるような音楽があまり好きではなくて、しかもPヴァインはあまりお金のないインディーズですから、許される限りその中でできる面白いことをずっとやってきたつもりです。その中で話題になり割と売れたのが根本敬、湯浅学、船橋英雄がやっていた「幻の名盤解放同盟」の関連作品なんですね。

歌謡曲が大量生産されていた60年代、70年代ってとにかくシングル盤がたくさん発売されて、中には全く売れなかった、しかし稀にとんでもない作品があるわけですよ。そういった作品って当時ワゴンセールでシングル3枚100円、かたや美空ひばりとか有名どころは1枚2,000円で売られていて、同盟は「そういう差別はしたくないな」との思想で、安いシングルを買い集めていたんです。それと同じようなことを私もやっていたんですが、彼らはより特殊なものを、ものすごい量を買い集めていて、そういった作品の数々を聴かされて「これはすごい!」と。要するになんでもありなんですよ、ラテンもあるし、ブルースもあるし。

──昔の歌謡曲って幅が広かったですよね。

井上:なにか海外で流行ればすぐにパッと取り入れちゃってね。また、その取り入れ方が安易で独特で面白いですし、1発もヒットせず終わった人がいっぱいいるんですよ。そういったシングル盤を僕らだけで聴いていてもしょうがないですし、このまま埋もれさせるのはもったいないので、まとめてCDアルバムにしようと考えました。今は割とできると思うんですけど、当時の日本はレーベルをまたぐ制作は厳しかったので、コロムビアだったらコロムビア、ビクターだったらビクターの作品だけを15曲から20曲くらい選曲したんです。それで僕が各レコード会社に「リリースさせて欲しい」と挨拶に行ったんですが、まず言われるのが「なんでこんなの出すんだ」と(笑)。

──(笑)。

井上:コロムビアなんか古い社員の方が呼ばれるんです。それで「こんなのを出そうとしている人がいるんだけど信じられる?」って当時の担当者に聞いて「うわ、懐かしいな。全然売れませんでしたわ、これ」とか言って、「こんなの出して大丈夫?売れるの・・・?」とか心配されるので、「そちらで1,000枚なり盤を作っていただければ、うちで買い取りますし、ジャケットはこちらで作りますから」とお願いして、ビクター編やクラウン編など、メジャーごとに『幻の名盤解放歌集』というCDを出したんですよ。結果その方が各会社の雰囲気が味わえて良かったですね。

──反響はあったんですか?

井上:結構反響はありましたね。『TVブロス』が「これはすごい。とんでもないものが出た。なにを考えているんだ?」って確か6ページくらいの特集を組んでくれたりしました(笑)。あと、コロムビア編にタイトルにもした、『スナッキーで踊ろう』という曲があって、これは60年代終わりのプリマハムかなんかの業界初のCMタイアップソングで「おおおお、スナッキー」って民謡歌手である海道はじめさんに歌わせているすごい曲なんですが、NHKが中野で麦とろの定食屋をやっている海道さんのところまで探して取材に行った、なんてこともありました(笑)。で、その『幻の名盤解放歌集』を剣さんが「面白い」ってずっと聴いていたんですよ。

──剣さんは『幻の名盤解放歌集』を一ファンとして聴いていた?

井上:そう、ファンとして聴いていたんですよね。あと僕がもうひとつやっていたのが、Pファンクで、ジョージ・クリントンが好きでやっていたんですけど、剣さんはPファンクも好きだったんですよ。

当時、剣さんはソロアルバム(『クレイジーケンの世界』)を1枚出して、クレイジーケンバンドの1st(『Punch! Punch! Punch!』)を自主制作で出していたんでんですね。剣さんが「多分この2つ(幻の名盤解放同盟とPファンク)をやっているPヴァインの担当者は絶対に俺の音楽を気に入るはずだ」と思ったらしいんですね。それで剣さんと僕の間に入った友人からも「絶対に気に入るよ」と教えてもらって、剣さんの音楽を聴いたんです。それがあまりにも自分にバシッとくる音楽だったんで「これは売れない」と思ったんですよ(笑)。

──(笑)。

井上:剣さんは今でも僕に会うたびに「イノウエさんは売れないって言った」とか言うんですけど(笑)、僕は「売れないかもしれないけど大好きです」って言ったんですよ。

──好きだけど売れないって・・・(笑)。

井上:で、会議室に日暮社長(日暮泰文氏)と社員7、8人が集まった中で剣さんの音楽をプレゼンするんですよ、“東洋一のサウンド・マシーン”とか能書きを書いて。そうしたら全員反対ですよ。見事に、木っ端みじんに(笑)。幻の名盤解放歌集の時と同じです。「これ、お前の趣味だろ?」って言われて「悔しいなあ」と思ったんですが、勝手に出すわけにもいかないので、ひとまず、こちらのお金は使わずに配給という形でお手伝いしようということになったんです。

──なるほど。

井上:「配給だったらできます」と提案したら、剣さんも萩野さん(萩野知明氏 / ダブルジョイレコーズ. 代表取締役)も「最初はそれでいいです」と。それで打ち合わせが終わって、会社を出るときに、当時は社長室があってそのドアが開いていたんですよ。そこで僕が「帰ります」ってあいさつをしたら「ああ」とか言っていてうなずかれただけだったんですよね。そうしたら剣さんが「あの社長(日暮さん)をいつかここまで出してやる!」って言ったんですよね。すごいなあと思いましたね。

 

強引に制作したライブ盤『青山246深夜族の夜』

──横山さんらしいというか面白い話ですね。

井上:「今は部屋の奥で首を振るだけだけど、絶対にここまで出すんだ、あの人を」って。

──引きずり出してやると。

井上:ええ。否が応でも出てくるように頑張ろうと。それで一緒に始めたら2ndアルバムの『Goldfish Bowl』を業界の方々が「これは面白い」と気に入ってくださったんですよね。その辺からライセンスにして、次の小西康陽さんが絡まれた『ショック療法』が物凄く評判がいいので、もう原盤も持ったほうがいいんじゃないかということで剣さんに提案したら「望むところです」と。

──そのときには、もう社長さんは剣さんにあいさつを?

井上:いや、まだ全部は出てこない(笑)。

──(笑)。

井上:なかなか腰の重い人でしたから。2000年に発売したライブ盤『青山246深夜族の夜』というのがあるんですが、あれはうちの原盤でお金を出しているんですけど「また勝手なことをする」みたいなことを社長に言われてかなりの低予算になってしまったのです。この『青山246深夜族の夜』には作家の野坂昭如さんが参加しているんですよね。

──なぜ野坂さんが参加することになったんですか?

井上:もともと僕は野坂さんの小説や歌われている『マリリン・モンロー・ノー・リターン』や『ヴァージン・ブルース』とかが大好きで、さきほどの『幻の名盤解放歌集』で復刻したんですよ。それで曲を作った桜井順(a.k.a.能吉利人)さんにあいさつに行ったら、「野坂さんが阿佐ヶ谷で定期の講演会をやるし歌もあるから来なさいよ」と言われて、そこでお会いしてからは色々気にしてくださるようになったんですが、野坂さんと剣さん(クレイジーケンバンド)って「合うな」と思ったんですよね。お二方とも漢気があるというか。案の定、剣さんは野坂さんことが大好きで、野坂さんに剣さんの曲を聴かせたら「これはいいね。歌詞もいいし、声もいいし、歌詞も良く聞こえていい面白い」とか言われて、「じゃあもう一緒にやりましょう」と言って強引にセッティングしたんです(笑)。

──素晴らしいひらめきですね(笑)。

井上:それで青山スパイラル地下のCAYで『青山246深夜族の夜』という、朝までのライブに野坂さんにも出演してもらったんですが、このライブ盤が徐々に売れたんですよ。そうしたら社長に呼ばれて「次からもしっかりうちで行こう」って。

──(笑)。

井上:Pヴァインはもともとブルースの会社で、社長もブルースが専門で、ソウルやラテンを強くしたいというので僕は入れてもらったんです。それでソウル、ラテンはいっぱいやったんですけど、そこからドリニダード・トバコのインド系の人が歌うインディアン・カリプソやら中国の毛沢東を歌ったハードロックやラップやらインドネシアのレゲエもどきやら台湾の山地音楽やら福建省の鳴り物だらけのハチキレ新年音楽やらスリランカのダンス大衆音楽やらとかとんでもない方向に行き出したのでもう手がつけられないというか「赤字にならなきゃいいから好きにやれ」と言われていた頃なんですよね、剣さんと出会ったのは。社長の寛大な気持ちがその結果だったのですかね。

──それ以来、もう20年以上のお付き合いですね。

井上:ええ。その後、クレイジーケンバンドが売れ出して、もううちでは販売網に限界があるので、販売をビクターにお願いすることになり『まっぴらロック』というのを作ったんですが、その際に「うちとちゃんと契約しませんか?」って剣さんにお願いして、彼は悩んだ末にハンコを押してくれたんです。そのハンコを押す時に「よろしくお願いします」と社長が出てきたんです。

──やっと登場ですね(笑)。

井上:やっと出てきましたね(笑)。それで社長が剣さんに「次アルバムを作るまでに契約できたので、会社からなにかプレゼントします」って言ったんです。そうしたら剣さんが「韓国に幻の名盤解放同盟と井上さんと行きたい」と言い出したんです(笑)。でも、剣さんになにかあるとマズいので「萩野さんも行こうよ」って言ったんですけど「ここは同盟と井上さんで」って(笑)。

それで、確か3月頃だったと思うんですけど、剣さんと成田で待ち合わせして韓国へ行ったんですが、剣さんはトランクを1個持って来て、開けたら長靴が入っていただけなんですよ(笑)。「剣さん、これだけ?」って聞いたら「韓国、雪降っているらしいもん」って(笑)。「長靴なんか向こうで買えばいいじゃん」と思ったんですけど、改めてすごい人だなと思いましたね。

──やっぱりクレイジーなんですね(笑)。

井上:理解できなかったですね、あれは。

──今もその関係は続いていると。

井上:そうですね。剣さんがメジャーに行ってもいい関係は続いているというか、僕は剣さんのアルバムが全部好きですし、一生聴いていようと思っていますから。あと僕は写真をよく撮るんですが、ずっと剣さんたちを撮影していたですよ。剣さんって知らないカメラマンがライブを撮ったりするのが嫌なんですよね。カメラマンってどうしてもいい写真を撮ろうとしてステージ前で立っちゃって、そうすると前方のお客さんが見えないじゃないですか? あとステージに登って写真を撮ったりもするし、剣さんはそれが嫌で、お客さん第一ですから。しかも「知っている人じゃないと嫌」って言うんですよ。

──つまり井上さんが専属カメラマンということですか?

井上:いやずっと付録的カメラマンだったんですよ。しかしクレイジーケンバンドのアルバム『777』とか、あのころのジャケット写真とかは確か僕が撮った写真もあります。

──ジャケ写まで撮るとはもうプロですね。

井上:いやいや、全然プロじゃないですよ。ただ好きで撮っているだけで。やっぱり剣さんって杓子定規の人ではないから、写真も上手い下手ではなくて「なんかいい」という感じを大事にするんです(笑)。僕の写真は剣さんたちのことが好きだからなにか魂が入るのかなとは思うんですけれどもね。

──好きな人を撮る写真って確かにいいですよね。

井上:でも、調子こいて他のアーティストを撮るとボロボロですよ(笑)。

 

修学旅行の積立金でレッド・ツェッペリン来日公演を観に行く

──ここからは井上さんご自身のことを伺いたいのですが、ご出身はどちらですか?

井上:生まれは愛媛県の山の中です。

──今の仕事に繋がるような環境のご家庭だったんですか?

井上:いや全然。ただラジオはよく聴いていましたし、親父がSP盤とか持っていて、それを喜んで聴いていましたから、基本その影響かなとは思うんですけれども。

──お父さんはどんな仕事をされていたんですか?

井上:親父は農協の所長をやっていて、田舎だと電化製品って農協が管理していたんですよね。今は家電量販店とかに買いに行くと思いますが、昭和30年代の田舎はそういう伝手がなくて農協が全部管理していて「テレビが欲しい」となると農協が手配したんですよ。確か修理も親父がやっていました。

──農協はそういう窓口でもあったと。

井上:だから、うちはいち早く色々な電化製品がありました。親父はステレオも持っていましたし、それで兄貴はグループサウンズとか聴いたりしていて。田舎だからレコード屋もないので、宇和島まで行って買っていましたね。今でもつくづく思うのは、四国4県って音楽不毛なんですよね。一番ダメというのもあれですけど、まあライブも人が入らない、ものも売れないで。

──でもSuperflyは四国ですよね。

井上:それはたまには誰か出ますよ(笑)。彼女は愛媛ですし、あとサニーデイ・サービスの曽我部恵一さんが高松かな。でも、広島なんて数えきれないぐらいいるでしょう?まさか柑橘類がジャマしてるとは思えないし。

──四国って昔、橋がなかったですし、ちょっと遅れている部分はあったんでしょうかね。

井上:そうですね。それで高校のときに親父の仕事の関係で四国の山の中から松山へ引っ越すことになったんです。当然、僕も松山に行けると喜んでいたんですが、そうしたら「お前は宇和島に行け」って言われたんです。「宇和島の高校を受けろ」と。

──松山よりは田舎ですよね。

井上:それまで住んでいたところよりは全然、月とスッポンですけどね。それで「なんか買ってやるから宇和島で下宿しろ」って言われて、ラジカセを買ってもらって、兄貴がビートルズのカセットを何本かくれたんです。高校も面白くなかったですから、それを毎日聴いていました。

──学校は面白くなかった?

井上:入ったのが進学校で、しかもなぜか一番優秀なクラスに入れてもらったんですけど、そのクラスでケツくらいだったんですよ(笑)。ですから中学のときは偉そうなことを言っていたのが、高校に入った途端、進学校だから勉強ができるやつが偉いというか。

──上には上がいると。

井上:それが本当に嫌で嫌で。毎日下宿に帰ってはカセットを聴いて。その下宿は割と大きなところで、宇和島にあったビクターの支社の人が3人ぐらい下宿していて、彼らはちゃんとしたステレオを持っているんですよ。で、仲良くなったら「ビートルズでもなんでも聴かせてやるぞ」って、ガンガン聴かせてくれるんです。しかも、その人がいないときは「部屋に入って勝手に聴いていいから」って言ってくれて。

──最高な環境じゃないですか(笑)。

井上:それでしょちゅう聴いていたら「うるせえ!」って下宿から追い出されて(笑)、「もう宇和島も学校も嫌だ。松山に引っ越したい」って親父にわがままを言ったんです。

──結局、転校したんですか?

井上:ええ。「転校させろ」と言って。ちょうどその頃『ニューミュージックマガジン』(現『ミュージックマガジン』)に出会ったんです。それまでビートルズとか、いろいろな音楽を聴いていたんですが、『ニューミュージックマガジン』には様々な音楽の情報が載っていて「ああ、そういうことなのか」と自分の中で整理することができたんです。

──教科書ができたんですね。

井上:もう「これは『蛍雪時代』なんかよりいい本だ」と思いましたね。そうしたら同じクラスに『ニューミュージックマガジン』を読んでいた石山君というのがいて仲良くなったんです。当時、学校では修学旅行の積み立てをしていたんですけど、家には「修学旅行へ行く」と言って、学校には「都合で行けない」と言ったら金を返してくれたんですよ(笑)。

──(笑)。そのお金を何に使ったんですか?

井上:ちょうど広島でレッド・ツェッペリンのコンサートがあったので石山君と「これは修学旅行に行っているバーイじゃないぞ。広島に行こう」と。学校には「親から積立金を預かってくるように言われています」みたいな感じに言って、それで松山から広島まで2人で観に行ったんですが、コンサートは1日で終わるじゃないですか? 金はあるけど、他に何をしたらいいのかわからないんですよ(笑)。

でも、コンサートが終わって広島をプラプラしていたら補導されるしなあとか言って。そうしたら高知から来た同い歳のやつと仲良くなって、その3人で呉まで電車で行って、呉の公園で寝て、朝起きて喫茶店に入って「パチンコにでも行くか」って行ったらやっぱり補導されて、結局強制送還されました(笑)。それで親父にバレてどつかれて、学校は1週間停学になって。金はほとんど使ってなかったんですよね。「もったいないな、お好み焼きも食わなかったし・・・」と思いましたよ。

──当然、お金は親に強制没収されて?

井上:没収されて、小遣いもしばらくナシです。ただ、そのときに観たレッド・ツェッペリンは「すげえなあ」と思いましたね。田舎もんの僕らにとっては衝撃的でした。

──チケットは結構簡単に入手できたんですか?

井上:ちょうどワーナーパイオニアができた頃で、手のマークがついた「ロックエイジ」という帯がついていて、それを切って何枚か送るとチケットが当たるんですよ。で、広島のツェッペリンのコンサートなんてあまり行く人がいなかったのか、3枚ぐらいチケットが当たったんです。あのツェッペリンのコンサートで人生が若干狂ったかなと思いますね。

 

赤瀬川原平「零円札」の衝撃から美学校入学

──高校卒業後はどうされたんですか?

井上:仲のいい友だちは東京の美大に行くために絵の勉強をずっとしていて、別の仲いいやつも絵を描いていて、僕も絵は嫌いじゃなかったので、親に「デッサンを習って東京の美大に行かせてくれ」って言ったんですよ。そうしたら「絵なんかやってどうするんだ、馬鹿!」とか言われて、「お前、広島のときと同じようなことするんだろ!」って(笑)。

──(笑)。でも76年頃に美学校に行ったそうですね。美学校に行くきっかけはなんだったんですか?

井上:友達が読んでいた『美術手帖』に赤瀬川原平さんの千円札の作品が載っていたんですよ。確か組み立てで「偽物」って書いてある。衝撃でしたね。結局、それをコピーして使ったやつがいて、原平さんは裁判にかけられるんですよね。

──有名な「千円札裁判」ですね。

井上:そうしたら原平さんは、今度は「零円札」というのを作ったんです。これには打ちのめされましたね。零円ですよ? 零円札を作るのに、いくらお金がかかるのかという話ですよ。100枚出しても零円なんですから(笑)。もう正に概念芸術。原平さんはそれ以降もトマソンだとか路上観察とか、やたら意味のある?無駄なことにのめりこんでいくんですが、その基本がこの零円札で、僕は「この人に会わなきゃいけない」と思ったんです。ピカソだ、なんだやっている場合じゃないと。

それで東京に出てきて、原平さんが教えている美学校へ行って「来年から入りたいです」と言ったら「断っておきますけど、うちは美大を受けるための予備校じゃありませんから」と言われて(笑)。僕がまだ若かったからそう言われたんですよね。だから「そんなこと考えていません」と言ったら「じゃあいいですよ」と言われて。

──赤瀬川原平さんは美学校でどういったことを教えていらっしゃったんですか?

井上:なにを教えるかって別に・・・(笑)。原平さんが面白いと思うことというか、千円札裁判や秋山祐徳太子についての話を聞いたり、試験では千円札を見ないで描くって言うのもありましたね。原平さんが好きな宮武外骨の画像を見たり。土曜日の13時から21時くらいまでが授業なんですけど、1部が終わって2部になると、焼酎を飲みながらスライドを見たりするんです。ですから、いろいろ教えてもらったような、もらってなかったような。

──酒飲みながら授業ですか?

井上:もう、夜は片手に焼酎で大人の授業ですよ。原平さんは天文も好きだったから、その影響で僕も好きになりましたし、カメラも原平さんは大好きでした。僕が先輩のニコンを借りて写真を撮っていたら「いいカメラ持っているね」と原平さんに言われて「ニコンですよ」って言ったら「カメラってライカとその他ですよ、でもニコンはいいですね」と言われたんです(笑)。「だから“その他のカメラ”か」と(笑)。

──ライカじゃないとダメなんですか?(笑)

井上:いや、ダメとは言わない。あの人は絶対否定しないんですよね。それで1年間、原平さんのところに通って、次の年も通おうと思って行ったら、原平さんに「教えることは同じだから卒業ですよ」って言われたんです。「バレちゃうから」と(笑)。親には「どこか早く大学へ行け」と言われたんですが、まだ余裕があるはずだと思って「もう1年美学校に行く」と言って、隣のシルクスクリーン工房というところに入ったら、そこに末井昭さんがいたんです。

──白夜書房の末井昭さんですか?

井上:そうです。白夜書房の名物編集長で、『投稿写真』や『パチンコ必勝ガイド』の成功で、大きな自社ビルを建てた“お母さんが愛人とダイナマイトで爆発した”末井昭さんです。彼は強烈な人なんですけど、すごく優しい人で、末井さんの家に泊りに行ったときに「井上くん、音楽はなにを聴いているの?」って聞かれて「ブルースです」と答えたら「じゃあ、これも好きなんじゃない?」って『SOUL ON CHICAGO SOUND VOL.II』というチェスのシングル盤のコンピレーションアルバム(ジャケ・デザインは湯村輝彦さん)を聴かせてくれて、これに衝撃を受けたんです。「こんな全身に来るすごい音楽があったのか!」と思って、それからはソウルにのめり込みました。

──どんな曲が入っていたんですか?

井上:いわゆる濃いディープ・ソウルですよね。俗に言うサザン・ソウルというか。

──いわゆるダンスミュージックっぽくないやつですね。

井上:もうバラードっぽいのばかりで。売れなかった無名のシンガーのシングル盤とかを集めたアルバムで、それはもう衝撃的でしたね。それで美学校が終わって「何しようかな」と思っていたら、田舎でお世話になった先輩がアップル企画というパルコと西武系の企画をやる会社にいて、「暇だったら手伝ってくれ」ということでイベントとかを手伝っていたんですが、その先輩が会社を辞めることになり、自然と「井上くん、入らない?」と言われて入社しました。仕事はパルコの企画が多かったので、ファッションショーの手伝いもやりました。

──美学校の学生からいきなりパルコ担当ですか。

井上:そうですね。池袋パルコとかの各フロアで景気がいいのかイベントがあるんですよ。4階は4階でみんなを集めてゲームして、来た人にプレゼントをあげるみたいな。その会社の社長と大橋巨泉事務所が仲良かったので、司会でキャシー中島に来てもらって、その両端にテニスのコスチュームを着た若いキャンペーンガールに立ってもらうんですが、僕とパルコの担当でその人選もしたり(笑)。ほとんどパルコの担当が見るんですけど「もう1人は井上ちゃんの好みでいいよ」とか言われて(笑)。

──(笑)。

井上:そういった仕事をしていたので、当時、パルコが日本各地にバンバンできていましたから、地方のパルコにも行って仕事をしていました。

──いきなり超メジャーな感じですね(笑)。

井上:「え、俺でいいの?」みたいな(笑)。ひどかったのは大分パルコに行ったときに、フロアで水着ショーをやりたいということで、東京からモデルを連れて来るのは大変だから福岡のモデルに来てもらって、僕とパルコの担当者で選ぶことになったんですよ。

──水着審査ですね。

井上:そう、水着審査です。それで4人ぐらい選んで。音楽は業者に頼むとお金をとられるので、自分で選曲したんですよ。さっき話したメロウグルーヴじゃないディープ・ソウルみたいな全然流行の音楽じゃないやつを(笑)。そうしたら福岡のモデルが「なにこれ?こんなんじゃ踊れない」とか言うので、「東京では踊っているんだよ!」って言ったら「やりまーす」って(笑)。単純だなって思いましたね。「東京でも踊ってねーよ」っていうか(笑)。

──「東京で流行っている」は魔法の言葉ですね(笑)。

井上:本当に(笑)。その会社には3年、4年ぐらいいたんですが、取材でアメリカに行かせてくれたんですよ。当時、僕は大リーグが好きで、大リーグのフェアをパルコでやろうと企画したり、あとBMX、バイシクルモトクロスの企画と、SF映画が好きだったので、西海岸のSF映画コレクターにコレクションを借りての展示とか、そういった企画が通ったんです。だから1か月取材に行っていいということになったんです。

ただ「もうこの仕事を辞めよう」と思っていた頃で、1か月アメリカで遊んで戻ってきて辞めようと思っていたんです(笑)。それで、一応形だけは取材して、休みの日はずっとレコードを買っていました。そんな感じだったら社長が「明日送る資料はどれだ?」と言われたんですが、レコードしかなくて「お前なにやってんだ」って言われて。

──ちょっと、高校のときの修学旅行に似ていますね。

井上:そうですね(笑)。それで「すみません。日本に帰ったら辞めます」と言ったんですが、「ちょっとは仕事やってよ」と説得されて、大リーグのグッズをいっぱい買って送ったり、マングースというレーベルのBMXを2台買って、それも送って。

──軍資金はいっぱいあったんですか?

井上:それは会社が出してくれるので。レコードは自分で出していましたけどね。当時はまだ「メイド・イン・USA」への憧れが強くて、要するに「アメリカのものだったらなんでもいいや」みたいな発想で、仕事をしているふりをして、古着とかアメリカのものをバンバン買っちゃっていたんですよね。

──ちょうど『POPEYE』とか出始めた年代ですよね。

井上:そうです。僕もあの頃、もうちょっとそっち方面をちゃんと仕事をしておけば、立派な古着屋でもできたんじゃないかと思うんですけれども(笑)。それで社長から「まあなんだかんだで頑張ったから、最後の2日間はハワイでのんびりしよう」と言われて、ハワイに行ったんですが「ハワイのあそこを曲がったところにいいレコード屋がある」って(笑)。

──心はずっと音楽だったんですね。

 

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第195回 Pヴァイン 井上厚氏インタビュー【後半】

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