第195回 Pヴァイン 井上厚氏インタビュー【後半】

インタビュー リレーインタビュー

井上厚氏

今回の「Musicman’s RELAY」はクレイジーケンバンド 横山剣さんからのご紹介で、Pヴァイン 井上厚さんのご登場です。『美術手帖』に掲載された赤瀬川原平の千円札、そして零円札の作品に衝撃を受けた井上さんは、美学校の赤瀬川原平「絵文字工房」へ入学。

その後、イベント企画会社を経て、客としてヘビーユーザーだった芽瑠璃堂/VIVID SOUNDへ入社。阿佐ヶ谷バレルハウス経営ののち加わったPヴァインでは、ソウルやラテンを皮切りに、幻の名盤解放同盟の一連の作品や、クレイジーケンバンドなど個性的なアーティスト・作品に関わっていきます。現在はイラストレーターの故・河村要助の作品管理や湯村輝彦の作品など美術系のお仕事もされている井上さんにじっくりお話を伺いました。

(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦 取材日:2022年7月21日)

 

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第195回 Pヴァイン 井上厚氏インタビュー【前半】

 

芽瑠璃堂のヘビーユーザーから社員に〜中村とうよう氏との出会い

──次の仕事は決まっていたんですか?

井上:いえ、何も決まってなかったです。それで当時、吉祥寺の芽瑠璃堂というレコード屋に鬼のように通って、給料のほとんどでレコードを買っていたんですが、「会社を辞めるから今までみたいにレコード買えなくなります」と店長の長野さん(長野和夫氏)に言ったら「じゃあ、うちに来ない?」って誘われたんです。

──すでに長野さんとは結構仲が良かったんですか?

井上:そうですね。客としてかなりの金を落としていましたから。もうお店に行くとキープしてあるんですよね。ドカンと箱に。「はい、井上ちゃんの取っておいたから」って言われて、もう買うしかないんですよ(笑)。

──勝手に取り置きされちゃって(笑)。

井上:ええビニールの押し売り。だから「それももう買えなくなります、会社辞めるから」って言ったら「じゃあウチ来ない?」って言われて。

──いきなり転職決定ですか。

井上:しかも、好きなレコードに囲まれて(笑)。それで入って3年ぐらいしたら渋谷店の店長をやるようになって、そこにPヴァインの日暮さんや高地明さんが「来月Pヴァインではこれを出すからよろしく」ってよく挨拶に来られていたんです。

──芽瑠璃堂のVIVID SOUNDとPヴァインってなんとなく立ち位置が似ていますよね。

井上:そうですね。PヴァインとVIVID SOUNDってライバル会社だったんですよね。最初の頃Pヴァインはブルース、VIVID SOUNDはソウルと暗黙のうちに分けていたんですが、途中からはそういったことも関係なくなって。それで僕は中村とうようさんが憧れだったので、店でもブルース、ソウルだけではなくて、インドネシアやラテンやアフリカ音楽なども取り扱うようになり、とうようさんご自身もお店によく来るようになって、仲良くさせて頂いたんですね。それで芽瑠璃堂には6年ぐらいいましたから「もういいかな」と思って「辞めます」と、とうようさんと日暮さんに報告したら、日暮さんに「Pヴァインに来ないか」って言われたんです。

ただ、僕はVIVID SOUNDを喧嘩して辞めるわけじゃないので、「いきなりライバル会社に行くのはちょっとどうかな・・・」と思ったんです。ちょうどその頃、阿佐ヶ谷に割と新しいバレルハウスというブルースやソウルが流れる飲み屋にメタ・カンパニーの高沢さんやティアホアナの石田さんとよく通っていたんですね。そこはサラリーマン夫婦が遊びでやっているような店で、ブルースやソウルのサンプル盤を持って行って「芽瑠璃堂(VIVID SOUND)辞めます」って言ったら「ちょうど俺も店辞めようと思っていたんだけど、ここやらない?」と言われたんですよ(笑)。

──なんか、面白いように話が繋がっていきますね(笑)。

井上:なんかポンポンと。すごく腰が軽いので。普通そういう話があっても「待てよ」って考えるんでしょうけど、他に選択肢もなかったし、まあ頑張ってみて嫌になったら辞めればいいやと思って。

──ここまで話を伺っていて、あまり先のことを考えていないなと…(笑)。

井上:そうなんです(笑)。しかも、そのときはもう子どもいたんですよ。それなのにVIVID SOUNDを辞めて。そうしたら、とうようさんが「井上、お前、子どもも奥さんもいて、芽瑠璃堂(VIVID)辞めてどうするんだ?」と心配してくれたんです。

あと、僕は芽瑠璃堂の広告でイラストを描いたり、VIVIDのジャケットを作ったりしていたんですけど、「お前のイラストは確かに面白いけど、売れるほどじゃないぞ」とも言われたので、「イラストを描いて、夜は阿佐ヶ谷で飲み屋があるんですけど、そこをやろうと思うんです」って言ったら「絵のことは手伝ってあげる。飲み屋もちょっと様子を見に行くからちゃんと仕事しろよ」って励まされて、それからとうようさんにはイラストの仕事をいっぱいいただきました。とうようさんが地方新聞に連載する音楽記事の挿絵を「全部井上にやらせろ」って。天下の中村とうようが言うからみなさん言うことを聞いて(笑)。バレルハウスにも、とうようさんが秘蔵のファニア・オールスターズ来日時のTV(モーニングショー)出演のビデオとか持ってきてくれたりしましたね。

──バレルハウスは給料をもらっていたんですか?

井上:いやいや、店を居抜きで買って自分でやっていたんですよ。芽瑠璃堂(VIVID)の退職金をほとんど使って。

──自分で買っちゃったんですか。

井上:営業権を買ったんです。

──バレルハウスは大きな店だったんですか?

井上:いや、こじんまりとした店ですよ。僕はいろいろな音楽が好きだったんですけど、中でも当時はラテン音楽が好きだったので、店はサルサ中心で行こうと、するとイラストレーターの河村要助さんが「日本初のサルサ(ラテン)飲み屋だね」ってすごく気に入ってくださって、仲良くなったんです。

それでラテン音楽が聴かれる地域、プエルトリコとかキューバとかジャマイカもそうですけど、あの辺はさとうきびで作るラム酒がメインで飲まれていて、プエルトリコはロンリコというラムなんですよ。キューバはハバナクラブ、マイヤーズはジャマイカなんですけど、レゲエは少し控えようと思って。河村さんのご意見で、「ラスタマンがお店に来ちゃって、葉っぱ吸われたら困っちゃうでしょここはロンリコで行きなさい(笑)」と。そうしたら知り合いのキリンシーグラムの人がドカンとロンリコを提供してくれたんですよ。「ロンリコなんてメインにするのは日本で始めてだ」って言って看板までロンリコで作っていただきましたね。

──河村要助さんはもともと芽瑠璃堂のお客さんだったんですか?

井上:そうです。芽瑠璃堂はラテン(サルサ)も置いていましたから。

──錚々たるお客さんたちですね。

井上:あとイラストレーターの湯村輝彦さんの使いもいらっしゃっていましたけど、あの人はスウィート・ソウルですね。

 

良いと思った音楽をボディーブローのように提供し続けるPヴァイン

──バレルハウスはどのくらいやっていたんですか?

井上:バレルハウスは2年で辞めました。もうやってられないって(笑)。客が来ないと酒ばっかり飲んじゃうんですよ、来ればいいんですけど。

──(笑)。一晩中やっているお店だったんですか?

井上:いや、18時から2時ぐらいまでです。開店まではイラストを描いたりしていました。で、バレルハウスをやっているときも、日暮さんからは「バレルハウスは夜だろ?昼Pヴァイン来てよ」って言われて時間も経っているし「じゃあ週2、3回行きます」と言って、週に2、3回11時から17時までPヴァインでソウル系の調査/企画、結局2年間お手伝いしていたんです。

それでいよいよ体が持たなくなったので日暮さんに「バレルハウス止めます」って言ったら「そっか。Pヴァインも来月、1週間休むから」って言われたんですよ。それで「どうしたんですか?」って聞いたら「社員旅行で5日間セブ島に行く」って言うから「いいな」って言ったら「井上くん、社員になれば連れていってあげるよ」って(笑)。「じゃあ、社員になります!」って即決しました(笑)。

──セブ島行きたさに(笑)。

井上:まあ、日暮さんが何かきっかけを作ってくれたんでしょうね。それでPヴァインに入社しました。

──ちなみにバレルハウスはまた誰かに譲渡したんですか?

井上:譲渡というかそのまま。僕が体を悪くして、僕が面倒見ていたバンドのやつから「何か仕事はないか?」って言われて「じゃあ、ここをやれよ」と。それで半年やらせてみたらちゃんとやっていたので、居抜きで全部引き渡して。レコードも4,000枚ぐらいあったんですけど、持って帰ってもしょうがないので「しばらく置いておく」って、そのままですね。

──レコードごとあげちゃった?

井上:店はまだあるんですけど、今さら取り返せないですね(笑)。

──Pヴァインという会社は、いままでのリリースなどを見るとユニークで面白いというか、みんなが目を向けないような音楽に目を向けて来ましたよね。

井上:そうですね。もともと日暮さんがブルースから始められた会社ですけれども、私が入ってからはラテンやソウル、そして邦楽も始めました。

──社員の方も、井上さんのような音楽好きが集まっている?

井上:やっぱりそういう人たちが集まってきますよね。メジャーもいいんですが、どうしても「ザ・音楽業界」みたいな感じで、僕自身そういうのは苦手ですし。僕らがやっている仕事って、今後も過去もようするに「隙間産業」ですよね(笑)。

──(笑)。

井上:「その間になにがあるんだろう?」って。決してこぼれたものではないんですけれども。それでいっぱい売るというよりも、ちゃんとわかる人に届けることを大切にするというか。

──ニッチなマーケットに向けての、好きもの同士の世界という感じですね(笑)。そういうファンに支えられたレーベルって意外と不況に強いんですよね。PヴァインにしろVIVID SOUNDにしろ。

井上:じゃあバブルのときにはどうだったのか?と言われても、僕らにはバブルはなかったですからね(笑)。

──沈みもしなかったけど大きく浮き上がりもしなかった(笑)。

井上:そう。剣さんなんかがいい例で、好きで続けていると、いずれ売れてくるバンドってあるんですよね。音楽って結局「どう宣伝するか?」みたいなところもあって、テレビCMでバンバン流したら否が応でも「みんな知っているから買おう」みたいなことになるんですが、僕らはそういうことはしませんし、僕らが良いと思った音楽を地道にボディーブローのように提供し続けることで、ある瞬間でフッと飛び出るときが来たりするんですね。もちろん、そうならないものもありますし、出すぎちゃうとメジャーに持ってかれちゃうんですけどね(笑)。

──(笑)。

井上:だから、出過ぎない程度にやらないといけない(笑)。もちろんミュージシャンはお金持ちになりたいでしょうし、他の仕事をやりつつ音楽をやっている人もいて、メジャーに行ったらそれだけ多くお金が入ってくる可能性はありますから、みんなそっちを目指すのかもしれませんけど、そのためにはまず世に作品を出さないと始まらないわけで、その部分を担っているのが僕らなんですよね。

僕らは特殊というか、「Pヴァインはこうじゃなきゃいけない」みたいな基準はないので、それぞれのディレクターが気に入れば「手伝ってあげるよ」という感じなんです。そういうインディーズはいくらでもありますけど、僕らは昔からずっとやり続けていますし、常にアーティストのためを思ってやっているつもりですけれどね。

──素晴らしいポリシーだと思います。Pヴァインは着実に発展してきていますよね。

井上:結局Pヴァインも大きくなって、その後、M&Aでスペースシャワーが買ったんですよね。その頃のPヴァインって一番大きくて、社員も30、40人ぐらいいましたからね。

──社員がそんなにいたんですか。

井上:ええ。赤坂のビルをひとつ。そんなに大きなビルじゃないんですけれども、そこに軽く30人ぐらいはいたと思います。

──そして、現在はまた独立されているんですよね。

井上:そうですね。いろいろありましたが元の形に戻って、今後はよりPヴァインらしいことができるのではないかと思っています。

 

河村要助と湯村輝彦のことを今の人たちにもっと知ってもらいたい

──Pヴァインは2020年に河村要助さんの原画等約3,000点を取得されたそうですね。

井上:よくご存知ですね。河村さんはご病気になって、入院されていたんですが、身寄りがいないので、藤田正さん、岡本郁生さん、宮田信さん、そしてウイリー・ナガサキさんとで病院へ行って、ずっと面倒を見ていたんです。それで河村さんはマンションと家を持っていたんですが、身寄りもいないから、女性の弁護士が成年後見人としてついたんですが、リクルートG7で「河村要助の真実」という展覧会を藤田さんと岡本さんとリクルートの人とかが、その弁護士さんを通さずに準備しちゃって、開催の前日に弁護士に「なんで私を通さないんだ。こんなの許可しない」と言われちゃったんですよ。

──中止になっちゃったんですか?

井上:結局、話し合いのすえ数日遅れて開催することになり、その後、河村さんが亡くなられて、マンションを片付けるわけですが、大量のイラストがあるんですね。これ絵画だったら値段がつくんですけど、通常イラストというのは値段がつかないんです。ただ、河村さんにはたくさんファンもいるし、成年後見人の弁護士から引き継いだ相続弁護人が「これは売れる」と踏んで、そのマンションにイラストを全部並べて一般公開し、まとめてオークションとなったんです。僕らはそれを全部買い取ろうと言っていたんですけど「保管はどうしよう?」と。

──保管ってなかなか難しい問題ですよね。

井上:買うのは問題なかったんですけど、やはり保管って大変なんです。誰かの家に預けるってわけにもいきませんし、月5万くらいの安いアパートを借りるにしても年間60万ですからね(笑)。それで展覧会をやって毎年60万稼がなきゃいけないわけで、それはちょっとキツいということになり、Pヴァインに相談したら「お手伝いします」と言ってくれたので、Pヴァインの近くのアパートを一部屋借りて、そこに作品を入れることにしたんです。

──でも作品がまとめて保管できて良かったですよね。河村さんも喜んでいるんじゃないですか?

井上:だったらいいですけどね。河村さんには本当に良くしてもらいましたからね。河村さんとは最初ラテン繋がりで仲良くなって、Pヴァインに入ってラテンをやるようになり、河村さんにアルバムでの絵を描いてもらったときに「井上くんは絵を描いているんだっけ?」って聞かれて、「少し描いていますよ」って絵を見せたら「井上くんは右利きだよね? これ左足で描いているの?」って言われたんですよ。

──なかなか酷いことを言いますね(笑)。

井上:右利きにとって左足って一番使いづらいところじゃないですか?(笑) それで「え、ああ…」って言ったら「だよねえ。じゃないとあんな絵描けないよね」って。

──追い打ちですね(笑)。

井上:それで「はい、もう絵やめます」って(笑)。グラフィックデザイナーの佐藤卓さんってご存知ですか? 佐藤卓さんって河村さんの芸大の後輩で、僕らが河村さんのイラストを買い取ったというのですごく応援してくれていて、河村さんの展覧会をやったときも来てもらったりしていたんです。卓さんも河村さんに面倒を見てもらったらしくて、卓さんが学生のときに、河村さんから「君、絵を見せてごらん」って言われたらしいんです。それで見せたら「君は絵が下手だねえ」って言われたらしいです(笑)。

──井上さんと同じじゃないですか(笑)。

井上:それで「僕のを見てみな」って言われて見たら、やっぱりメチャクチャうまかったらしいんですよ。河村さんってヘタウマとして有名ですが、基本がものすごいんですよ。だから卓さんはそのことをきっかけに「絵描きを辞めてデザイナーになろう」と思ったらしいです(笑)。

──河村さんの一言が、佐藤卓さんのその後の人生を変えたんですね。

井上:またそんな河村要助さんのセンスがあるんだか単なる嫌味なイジワル発言なのかで感激したのは、90年代終わり頃か?サルサのルベーン・ブラディスかが誰か来日した時、ハイチのコンパの雄(ミニと言うレーベルのスター達)=ミニ・オールスターズも来日していてPヴァインでは日暮社長と担当の太田典子さんがミニ・オールスターズ、河村さんと私がそのサルサのアーティストへの取材で同じタクシーで向かいました。タクシーの中で河村さんは本当は知っているのに「日暮さんと太田さんは何の取材?」って。「ハイチのミニ・オールスターズです」って太田さんが答えると「井上くん、ミニ・オールスターズってなんだか小さいんだか大きいんだかワケ分かんなくてヤだね」って。言われた2人は「・・・・・」。

あと、河村さんの前には、湯村輝彦さんに仲良くしていただきましたね、今でもですが。モーメンツ等のソウルを担当していた時期に監修をお願いしていて「なかなかマスターも来ないのでアメリカのレーベルに探しに行きます」って言ったら、湯村さんから「じゃあジョージ・カーに会ってこい」とか「シルヴィアに会ってこい」とか言われて(笑)。湯村さんはうちの雑誌でもずっと連載していたので、2日に1回はフラミンゴ・スタジオへ朝寄ってから会社に来る時期もありましたね。

実は湯村さんとはここ2、3年ぐらい、湯村さんのイラストが毎日描いてある年間スケジュール帳を作ろうと話していたんです。『ミュージックマガジン』が本秀康さんのイラスト、レコ助君で作っていますが、マガジンの場合は毎日ミュージシャンの誕生日が書いてあるんですよね。「1月22日サム・クック」とかって。だから僕らは「亡くなった日」はどうかなと考えたんですよ。

やはり、命日にはその人の音楽を聴こうかという気になりますしね。あとジョン・レノンとかそうですが、生まれた日はよく覚えていないですが、亡くなった日ってすごく鮮明に覚えていますし「じゃあ『マザー』でも聴こうか」みたいな。だから「亡くなった日はどうですか?」と湯村さんに提案したら「いいね」となって、「じゃあ僕は命日を調べます」と言ったんですけど、どう考えてもミュージシャンだけで365日埋めるのは無理なんですよ(笑)。

──(笑)。

井上:画家とかタレントとかもう政治家とか、あらゆる有名人を網羅していかないと無理で、ただ、そのほうが幅も広がるし、いいだろうということになったんです。それでほとんど完成した一昨年に志村けんさんとか、コロナでたくさんの方々が亡くなられてしまって「こんな本を出している場合じゃないだろう」と。

──それはタイミングが悪いですね・・・。

井上:そうなんですよ。テキストは安田謙一さんが、暗くならないような素晴らしい文章を全部書いて、「自殺した」とか「ピストルで撃たれた」といった表現はキツいので死因は触れなかったり、そういう細かい配慮をしつつ作業していたんですが、「コロナ禍では不謹慎だから、もうちょっと様子を見よう」としていたら、湯村さんも「暗くなっちゃう」とテンションがだんだん下がってきちゃったんですよ。当初『命日日記』というタイトルにしていたんですが、これも「名前がよくない」と言って、安田さんが「星になった人たちだから『スター図鑑』にしよう」と。そうしたら湯村さんも「それはいい!俄然やる気が出た!」と言うので、この前打ち合わせをして、今400人描き終わったところです。

──400人分はすごいですね。

井上:どうしても「この日は誰もいないね」ってこともあるんですが、そういう日は休みでいいし、逆に重複する日もあって、そういうときはもうダブっても入れちゃおうと。だから1月1日から12月31日まで1日1人が原則ですが、2人の日もあるんですよ。

──井上さんも希望を出されたんですか?

井上:ええ。湯村さんには「赤瀬川原平さん、河村要助さんそして中村とうようさんは入れてください」とリクエストしたんですが、それがもう涙が出るぐらいに愛のある絵なんですよね。

──素晴らしいですね。刊行は来年の正月くらいですか?

井上:もうちょい先かもしれません。それで、この前、卓さんと話したときに「今、ヘタウマというのがいない」と言う話になったんですよ。「やっぱり湯村輝彦と河村要助、この2人だろ」と。幸い河村要助さんの絵の原画はうちにありますし、展覧会をどこかでやろうと今動いています。狙いは新国立東京美術館で、大ヘタウマ展をやりたいんですけどね(笑)。

──井上さんは今、美術に関するプロデューサー的な役割もなさっているんですね。

井上:いつのまにか(笑)。河村さんや湯村さんが、今の人たちにもっと知られるように、なにか力になれればなと思っているんですけれどもね。

 

「行こう」という気持ちと、あきらめないことが大事

──音楽の方では、現在どのようなお仕事が多いですか?

井上:今はアナログ化の仕事が多いですね。90年代ぐらいからCDになりはじめて、一時アナログはほとんどなくなったじゃないですか? そのCDでしかリリースされたなかった作品をアナログにしたりしています。アナログは海外でも売れるんですよね。

──結構若い人もアナログを買っていますよね。

井上:そうなんですよね。この前リリースされた山下達郎のアルバムも、アナログがすごく売れたみたいですけど、あの辺を買う人はわかるんです。でももっと若いアーティストのアナログを若い女の子が買っているというのが不思議なんですよね。ちゃんと聴いているのかなとか。余計なお世話ですけど(笑)。でも、アナログって温かくてやっぱりいいですから、是非聴いてみてねって思いますね。

──実際にPヴァインの売上においてアナログの占める割合は大きいですか?

井上:アナログでの再リリースとか割合は大きいですね。でもそれだけではダメで、新録も続けていく義務があるというか、レコード会社ですから過去のものばかり出すのではなく、新しいアーティストもどんどんリリースしていきたいですね。

──それはアナログ、CD両方出すということですか?

井上:ええ。両方出してあげるという形になります。アナログの方が圧倒的に売れるということでもないんですが、アナログは単価が高いですし。買い取りが多い。

──買い取りなんですか?

井上:基本買い取りですがやはり返品はあります。昨今の円の事情もあり海外も増えてきましたね。国内もそうですが、個人で買うんだったら定価で買ってくれるわけじゃないですか。だからアナログ、CD、配信とうまくバランスがとれたらいいなと思いますね。僕はCDを買うけど、あなたはアナログ、僕は配信だけみたいな感じで、それぞれ選択肢があった方がいいと思います。

──時計で言えば、アナログは機械式時計で、CDはクォーツ時計というんですか? その先のストリーミングとかになるとApple Watchとかそういうところまでいくとなると、CDってちょっと中途半端ですよね。

井上:そうですね。でもジャケがあるじゃないですか?ジャケが大きいアナログと、ジャケのない配信の中間=CDがあってもいいのかなと思いますね。結局僕らも家でちゃんと聴こうと思ったら、この歳ですからアナログなんですよね。やっぱり体に優しいし、アナログの音っていうのは毛穴から刺激なく入ってきますからね。耳に加えて(笑)。

──(笑)。

井上:で、長くても片面20分と集中して聴くにはいい時間なんですが、なにか作業しているときは逆にCDなんですよね。60分放っておけばタイマー変わりにもいいですしね。そういう聴き分けもできるし、あとはカセットも面白いんですよね。

──カセットが売れるというのがちょっとわからなかったりするんですけれども。

井上:まだ東南アジアはカセットですし、韓国のポンチャックとか、アメリカのほうに行くとギャングスタラップ、あの辺はカセットなんですよ。カセットを買って、パッケージはポーンと捨てて即デッキに入れてね。ギャングスタラップなんてジャケをすぐに捨てられちゃうから安易なジャケで、本当に人の殺人現場のようなジャケがあるんです。湯村さんところのフラミンゴスタジオのRICKYさん監修でそういうジャケを集めて本にする予定なんですけど(笑)。

──ジャケット集を出すんですか?

井上:ええ。もう途中までできているので。ギャングスタラップのカセットは、もう見ているだけでもすごくオドロオドロしくて怖くて?楽しいですよ。

──最後になりますが、ミュージックマンは音楽の仕事がしたい人や、業界に来たい人が多く見ているんですが、そういう人たちになにかアドバイスはありますか?

井上:毎年うちにも学生バイトが来るんですよ。やっぱりここでバイトをしているくらいですから、みんなうちに入るか、どこか別の音楽関係の会社を受けたいんですよね。そういった学生から「音楽業界で働きたい」とか相談もくるんですけど、紹介だけはしないようにしているんです。紹介するといいときはいいんですが、ダメな場合お互いにとって辛いじゃないですか?(笑)

──確かに、どちらも辛いですよね。

井上:だから「いろいろ受けて、勝手にやったほうがいいよ」って言って逃げます。もちろんメジャーを受けるのもいいんですが、音楽業界って勿論レコード会社だけじゃないから、とも言いますね。まだみんな若いからレコード会社周辺しか見えていないんだろうけれども、実際には違いますからね。例えば、ライブの仕事とか録音スタジオやそれこそ事務所、他にもたくさんあるので、とりあえずは「行こう」という気持ちと、あきらめないことが大事だと思います。

──音楽に関わる仕事ってたくさんありますしね。

井上:そうですね。「音楽の仕事がしたい」という若い人は、まだ「音楽の仕事=レコード会社」だと思っているかも。しかも、なりたいのは制作で、それ以外はやりたくないと思っている。でも実際に入ったら当たり前ですが最初は商品チェックとかに回されたりするわけでね。

あと「レコード会社が変わってもできる仕事はやっておいたほうがいいんじゃない?」ってよく言うんですよ。例えば、ディレクターをやっちゃうと、後々キツいんですよね。「あの人はユニバーサルで○○をやっていた」なんて人は限られるし、じゃあ営業はといっても、今、営業って外を回らないでしょう? だから僕は「法務か経理だ」って断言はしませんが言ってあげているんですよ(笑)。

──経理をやっておけと(笑)。

井上:そう(笑)。法務か経理。そうしたら別にワーナーからソニーに行ってもいいし、とにかくどこでも行ける(笑)。たまたま名刺がソニーだったというだけで。それこそ音楽業界以外でも通用する。

──ミュージックマンの求人、結構法務も多いんですよ。しかもみなさん即戦力を探していらっしゃるんです。

井上:法務多いでしょう?だから、今受けているんだという学生にも「法務でいけ」と言っているんですけど、音楽にとってもこれからもっと必要な部分ですし、基本的なことを覚えておけば絶対に役に立つと思いますけどね。特にデジタルに強い法務とかだったら引っ張りだこだと思います。

──レコード会社や制作ばかり見ないで、音楽業界を広い視野で見ることは大切ですよね。

井上:そう思います。要するに僕らみたいなスタッフサイドって替えなんかいくらでもいるし、やはり基本はアーティストだと思うんです。アーティストがちゃんといないと僕らは仕事できないじゃないですか? ですから、その「基本はアーティスト」という気持ちを忘れずに、色々なことにチャレンジしていったらいいと思いますね。

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