第169回 LUNA SEA / X JAPAN SUGIZO 氏【前半】

インタビュー リレーインタビュー

SUGIZO
Photo by Keiko Tanabe
今回の「Musicman’s RELAY」は立川直樹さんのご紹介で、LUNA SEA / X JAPANのSUGIZOさんの登場です。オーケストラプレイヤーのご両親のもと、幼い頃からバイオリンの英才教育を受けたSUGIZOさんはロックとの出会いをきっかけに、多くのアーティストやジャンルから影響を受け、表現者としてのその美意識を磨き上げていきます。その後、奇跡的な出会いから結成したLUNA SEAは、2000年の終幕を挟みつつ、昨年30周年を迎えました。同時にソロアーティストとして、また2009年に加入したX JAPANのギタリストとしても活動するSUGIZOさんに、自身を形作った先人たちのお話から、積極的に取り組まれている環境保護活動や社会活動について、そしてLUNA SEAのニューアルバム「CROSS」までお話を伺いました。

(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)

 

美の師匠・立川直樹という存在

──前回ご登場いただいた立川直樹さんは、SUGIZOさんにとってどのような存在なのでしょうか?

SUGIZO:今思うと、子どものときにすごく好きだったミュージシャンや、あらゆる美学の仕掛け人が立川さんだったんですね。僕は中1のときにYMOやRCサクセション、そして一風堂に傾倒して人生が変わったんですが、その次に踏み込んだのがジャパンでした。そのジャパンに日本で色々と手ほどきをしていたのが立川さんで、デヴィッド・シルヴィアンの美学の元ネタはかなりの部分で立川さんでした。その次に僕はデヴィッド・ボウイにものすごくハマるんですが、ボウイの美学の日本の中心人物も立川さんでしたし、もう少し大きくなってから好きになったピンク・フロイドもまさに立川さんなんですよね。

更に、僕はデビューをして数年経ってから、世界屈指の日本のコンテンポラリーダンス・カンパニー「H. ART CHAOS」と知り合いまして、そのカンパニーのために音楽を書いたり、ステージを一緒にやるようになるんですが、そのカンパニーのプロデューサーも実は立川さんだったんです。大変おこがましいですが、その美意識、音楽、表現の方向性が非常に近かった…いや、近かったというよりも、僕が立川さんの美意識に影響を受けてこういう風に育ったんだと認識しています。

──立川さんはSUGIZOさんにとって美の先生ですか?

SUGIZO:そうですね。初めてご本人にお会いしたときに「この人が僕の美の師なんだ」と痛感しました。それが10年ぐらい前です。もともとLUNA SEAの事務所の社長が立川さんととても古いお付き合いがあって、いつも「SUGIちゃんは立川さんと絶対に合うから会ってくれ」と言われ続けていまして、ようやくお会いしたらすぐに意気投合しました。

──立川さんはインタビューで、SUGIZOさんに初めて会ったときに怒られたとおっしゃっていました(笑)。

SUGIZO:立川さんは話を大きくして「SUGIZOに説教されたんだよ」っていつもおっしゃるんですが、そんな失礼なことはしていないと思います(笑)。

──(笑)。立川さんに「もう一度音楽をやってください」とお願いされたそうですね。

SUGIZO:ええ。立川さんには「音楽をやらないと駄目です」という話をしたり、「あと10年現役でいてください、100(歳)までやってください」とお願いしました。立川さんはご承知のように、音楽はもちろんのこと、アートや建築、食に至るまで、あらゆる美意識がトップレベルなんですが、本当は立川さんのようなプロデューサーがもっと出てこないといけないんですよね。ですから「後継者をもっと育ててください!」といつも言うんですが、あのレベルの方はまず出てこないですよね。

──SUGIZOさんは後継者たり得るんじゃないですか?

SUGIZO:とんでもないです。僕は音楽で精いっぱいです(苦笑)。ただ、立川さんの美意識や精神性を継承した僕の世代、さらに次の世代が、美しいものをきちんと守っていかなければいけないですし、さらに進化させていかなければいけないと思います。ダサいものはダサいんだ、チープなものはチープなんだと伝えていかなくてはいけませんし、もっと美意識のレベルを上げないといけない。

もちろん新しい世代から面白いアーティストもどんどん出てきていますし、そういった才能たちが世の中をどんどん変えていって、非常に面白い時代になっていくと思うのですが、例えばそういう世代が「僕の新しい曲を聴いてください!」と、スマホで聴かせてくるような、そういう寂しい時代にもなってきている。それは音楽に対して失礼じゃないかということを新しい世代の人達に知ってもらわなければいけないと思います。

テクノロジーの進化は良き方向に使いつつ、同時に古き良き本質は絶対に忘れてはいけない。その本質が僕より20歳下だと、大分危うい状況なので、正直そこに関しての焦燥感があります。ですから、立川さんの世代、そこから20歳違う僕の世代、さらに20歳違う世代に、本当にいいものをきちんと継承していかなくてはいけないんだといつも立川さんと話しています。

 

オーケストラプレイヤーの両親のもとに生まれて

──ここからはSUGIZOさんご自身のことをお伺いしていきたいのですが、ご両親がともにオーケストラの演奏家だったそうですね。どのようなご家庭だったんでしょうか?

SUGIZO:恐らく、オーケストラプレイヤーとして一流の両親だったと思います。2人ともエリートで、音大を卒業して一発で東京都交響楽団に採用されました。父親がトランペットで母親がチェロです。多分挫折を知らなかったはずなんですよね。特に父親が本当に音楽の虫で、ことクラシック音楽に関してはすごく厳格な人でした。例に漏れず僕は物心ついたころから英才教育を受けていて、3歳からバイオリンをやらされていたので、自分では自覚とか欲求とか全くないまま、いつの間にか楽器を弾いていました。

──親の跡を継ぐのが当然のように育てられた?

SUGIZO:ええ。両親は音楽家、オーケストラプレイヤーとしては一流だったと思いますが、人としては果たしてどうだったのか…。決して不幸ではなかったですが、幸せを感じたことのない子どもでしたし、とにかく厳しい親でした。

──そんなに厳しかったのですか…。

SUGIZO:とにかく父の教え方は厳しくて、小学校に入った頃ぐらいには、1日に2時間から3時間のキツイ稽古が毎日あって、嫌で嫌で仕方なかったです。同じ間違いを繰り返したらすぐに手が出るので、僕はボロボロと泣きながら練習していました。ですから僕にとって楽器の稽古は恐怖でしかなかったですし、音楽というものはやらされるものだと思っていました。

──なぜバイオリンをやることになったんでしょうか?

SUGIZO:それはわからないですね。多分両親のコンプレックスからなんでしょうね。やはりバイオリンって、オーケストラではコンサートマスターですし、プロとして競争率が一番高いポピュラーな楽器ですから。

──その辛い状況はいつまで続いたんですか?

SUGIZO:中学生ぐらいで自分の意識を持ち始めて、さきほど申し上げたようにロックにハマり、自分のやりたいことが見えてきたので、反抗して練習を何か月もやめたりするようになりました。

──いわゆるロックの曲を弾いてみたり?

SUGIZO:いや、そういう発想にいかなかったですね。すぐに「違う楽器をやりたい」と思うようになりました。最終的にギターに行きついたのは、高校2年生ぐらいですが、ロックにハマって以降、あらゆる音楽ジャンルを聴き、知識を吸収していました。

──いわゆるポピュラーミュージックを聴くのは許されていたんですか?

SUGIZO:ギリギリですね。父親がオーディオマニアで、父親のオーディオシステムで聴かせてくれたりしましたし、レコードをカセットテープに録音する手ほどきもしてくれましたので、100パーセントNGではなかったです。それでも当時のロックバンドとかをテレビで観ていると、親父が急に怒鳴ってきてテレビを消されたり、一触即発の状況が3年間ぐらい続きました。

そういった父親の行動は自身の好みの押し付けでしかないので、僕は「それは賛成できない」「僕はそれをやりたくない」と主張するようになりました。意識とか美学を人に教えるのはいいと思うんですが、自分の好みややり方を押しつけるのは、いかなる状況でもナンセンスな行為だと今でも思っています。そこで父親とは段々揉めるようになり、中3ぐらいからは口を聞かなくなりました。

その後、両親の関係がすごく悪化して、結局、僕が高校生のときに離婚して父親が家を出ていくんです。今、父親とは仲は悪くないですけど、彼にも新しい家族がいますし、数年に1回会うくらいの関係なんですが、意識としては10代の頃と全く変わらなくて、僕と父親の関係は中学生の頃で止まっている感覚です。逆に母親とは良い関係で、父親が出て行ってからは、母親と僕と妹で頑張ってきた感じです。

──なんだか身につまされる話ですね。

SUGIZO:物心ついた頃から、母と姑の関係が非常に悪くて、怒鳴りあったり、取っ組み合いをしていました。ですから小学生の頃から、家庭が安心できる、癒される、愛情に満ちている状況になったこともないですし、親からハグされる、「愛している」と言われるといった経験が一度もなくて、僕にとっての家庭は胃がキリキリと痛くなる場所でした。そこで僕は母と姑の関係を一生懸命取り持って仲良くさせようとしたり、母と父の関係もずっと曖昧だったので、僕ら兄妹が一生懸命取り持つみたいな、家庭の調整役を担っていたと思います。ですから、心から「家庭が落ち着く」という気持ちに一度もなったことがない、そういう子どもでした。

──壮絶な状況ですね…。

SUGIZO:今思うと、よく道を踏み外さずにやってこられたなと思います。逆に、やってこられた理由もわかっていて、絶対に自分一人の時間を作ってきたんです。僕は小学校2年生ぐらいから宇宙や考古学にハマって、子ども用の小さい辞典みたいな書物をずっと読んでいたので、話が合う子がほどんといなくて、本当の意味での友達というのは、今思うと1人もいなかったかもしれません。テレビも普通にありましたが本を読んだり、絵を描いたり、粘土やプラモデルを作るといった一人で自分のイマジネーションを広げる行為が好きな子どもでしたし、その自分の時間だけが幸せでしたね。

「SUGIZO 聖誕半世紀祭」

「SUGIZO 聖誕半世紀祭」Photo by Keiko Tanabe

 

「やっとゼロ地点に立てた」~LUNA SEAの5人が集う

──緊張感のあるご家庭で過ごす一方で、「将来音楽でやっていこう」という決意はされていたんですか?

SUGIZO:はい。高校で今の仲間と知り合うんですね。

──よくぞ、そんな仲間たちが同じ地域にいましたよね。

SUGIZO:そうですよね。真矢が同じ高校の同じ学年、J、INORANは一級下で同じ学区内の違う高校でした。この出会いは奇跡に近いと思いますし、ものすごく恵まれた話なんですが、今思うと世界的にいいバンドって、そういうことが多くないですか?

──ビートルズもローリング・ストーンズもそうですよね。

SUGIZO:あとU2もそうですね。だからロックバンドって結局そういうものなんじゃないかな?って今は思います。色々なオーディションをして、一流のメンバーが集まれば、魔法のようなことが起きるのかというと、決してそういうわけじゃないんだなと。すごいメンバーを集めたとしても、優秀なプロデューサーがいたとしてもね。だからロックバンドって奇跡なんだと思っています。

──若い頃にも「これは奇跡だ」と思っていましたか?

SUGIZO:はい。この5人が集まったときに思いました。もちろん、地元のライブハウスでやっている、高校生に毛の生えたレベルなんですが、その中で、本気でやっている奴らはどんどんと固まってくるんです。そして、この5人が集結したときに、僕は「やっとゼロ地点に立てた」と思いました。RYUICHIが加わってこの5人が集まったのは1989年5月、僕が19歳の頃なんですが、それまではゼロ地点に到達するために、ずっともがいていたんでしょうね。そして、5人が揃ったときに「これが自分の人生のゼロ地点だ」と強く感じました。

──ロックバンドというのはそういうものなんですね。

SUGIZO:今思うと。だからロックバンドとは意図できないものであり、人がコントロールして生まれるものじゃないんだなっていうことですよね。

──「ここがゼロ地点だ」というのは、自分を俯瞰して見ることができるから感じる感覚のような気がします。

SUGIZO:そうかもしれませんね。物事の真っただ中で奮闘をしている自分と、それを上から冷静に見ている自分が常にいる感じはずっとありますね。

──LUNA SEAは大変個性的なメンバーの集合体だと思うのですが、その中で最もアーティスティックな性格がSUGIZOさんでしょうか? プロデューサーであり、サウンドのまとめ役でもあるでしょうし。

SUGIZO:どうでしょうかね。それぞれがまとめ役ではあるのですが、音やコンテンツ作りは僕が中心になることが多いですね。

──その役割というのは、バンド結成当初から変わっていないんでしょうか?

SUGIZO:近年はどんどんこっちに集約してきていますね。昔はもっと分業でした。でも結成当時から、アートワークは僕が担っていました。

──人間って年を重ねていくと、よりその人らしくなっていくというパターンが多いですよね。

SUGIZO:全く同感です。結局、自分の得意じゃないことは、どんどんやる必要がなくなるじゃないですか? バンドもそうで、どんどん得意なことをやるようになるんです。だから、僕はチケットがいつ発売されるのかを全然知りません。いつから発券だとか、いつから発表だとか、そういうことはRYUICHIやJがちゃんとしていますし、僕はもう作る方ばかりで、稼ぐ方は苦手みたいな感じです(笑)。

──要するに、お互いに得意なやつに任せようみたいな。

SUGIZO:そうですね。得意じゃない人が無理してやることはもう必要ないんです。20代の若いころに、できないことも一生懸命学ぼう、吸収しようと思うことは間違っていないと思いますが、50ぐらいになってできないものは、もうできないです。ですから、できないことを無理して今からやろうとも思わなくて、それよりは人よりも抜きんでたことをもっと磨いたほうがいいじゃないですか。

──得意なことをより伸ばすべきと。おっしゃる通りですね。同感です。

SUGIZO:40ぐらいからそういう気持ちになりました。それまではできないことを一生懸命にできるようになろうと努力をしましたけどね。できることって死ぬほどやっていても辛くないじゃないですか? でも、できないことを頑張っていると、それは辛いですよね。だから僕は、死ぬほど忙しくて常に体はガタガタですけど、音楽に携わっている今の自分のスタンス自体は決して辛くはないんですよね。

 

 LUNA SEAは「本能的な音楽」と「頭を使う音楽」の融合

──LUNA SEAがデビューした頃のロックバンドを取り囲む状況はどのような感じだったのでしょうか?

SUGIZO:僕らのようなロックバンドの勢いがものすごく出始めた時期でしたね。LUNA SEAが結成をしたほぼ同じ時期にXがデビューしたんです。Xは確か89年4月にメジャーデビューをしていて、僕らの結成は5月。その時期はいわゆるインディーズシーンの勢い、クオリティ、革新性がものすごかった時代で、僕らの系譜のさらに上ですと、DEAD ENDやGASTUNK、Xがいて、僕らの世代では、ちょっと上ですがD’ERLANGERやZI:KILLといった強力なバンドがいました。それはもともとメタルのシーンだったはずなんですが、僕らの周りはメタルよりもニューウェーヴやパンクといろいろな要素が融合していたんです。

──ビジュアル系という言い方はなかった?

SUGIZO:全く、そういう言葉はなかったです。とにかく色々なバンドがいましたが、自分やLUNA SEAはどことも違った感じがしました。例えば周囲に、僕がメチャクチャ影響を受けていたフランク・ザッパに精通した人はいなかったですし、キング・クリムゾン通も、マイルス・デイヴィス通も、ジャコ・パストリアス通も当然いなかったわけで、かろうじてジャパンやデヴィッド・ボウイの影響を持つ仲間がいたかもしれないくらいでした。僕の根幹はYMOとクラシックですし、僕の血となり肉となっている前述したような音楽や美意識を共有できる自分たちのシーンの人間は、ほぼいなかったと言っていいですね。

──そう考えるとSUGIZOさんやLUNA SEAの存在は特異ですよね。

SUGIZO:今思うとLUNA SEAがやったことは非常に革新的だったと思います。もともとLUNA SEAが始まったときに、その音楽の根幹はハードコアやダークなニューウェーヴだったんです。それ以降はかなり構築されたツインギターのアレンジを試していくのですが、僕が参加した頃は2人のギタリストがずっと歪んだノイズを鳴らしているような、そういう野蛮な音だったんです。が、その中になにか美意識があったんですね。僕はその美意識を磨きつつ、当時、大好きだったキング・クリムゾンの要素を入れ始めたんです。当時ハマっていたクリムゾンは80年代の「ディシプリン」期で、ロバート・フリップとエイドリアン・ブリューの2人は、実はボウイつながりでもあり、ブリューはザッパつながりでもあるわけですが、そういうプログレッシヴ・ロックやジャズ、現代音楽的なアプローチをハードコア、ニューウェーヴの中に掛け合わせていきました。

──そういう試みをしたバンドってほとんどいないですよね。

SUGIZO:少なくとも周辺にはいないですね。そこで僕らの音楽のスタイルがかなり見えてきました。要はニューウェーヴやハードコアのような本能的な音楽と、ジャズ、現代音楽、プログレッシヴ・ロックのような、頭を使う音楽を融合していったんですね。本来、パンクシーンは当時のプログレやアート・ロックを否定したところから始まっているじゃないですか。絶対に相反するものだったはずなんですが、それを僕らは一つにし始めたんです。

また、当時「アメリカはアメリカ、UKはUK」だったんです。アメリカン・ロックと、UKのニューウェーヴ。それは一つになり得なかったんですが、それも融合し始めました。一瞬、ガンズ・アンド・ローゼズみたいなリフがあったと思いきや、ピンク・フロイドのようなフレーズが入るというか。ですから僕ら流に好きなものをごっちゃにしていったんですよね。そこでジャズで使うようなコードワーク、ボイシング、スケール等を入れ始めたので、段々とどこにもないような音楽が育っていき、ルックスはデヴィッド・ボウイやバウハウスといった、グラムやニューウェーヴ、ゴスに影響を受けていますから、すごく派手な化粧をするわけです。ですから、派手なメイキャップとコスチュームを身に纏ったクリムゾンとハードコアみたいなバンドがLUNA SEAなんです。

──そういう複雑な音楽性で、メジャーにいくというのはすごいことですよね。

SUGIZO:しかも、それをポップにするということですよね。ポップな仮面をかぶせると言いますか。当時はライブハウス側からは全く理解されなくて「君たちはなにをやっているのかわからない」とよく言われました。当時のライブハウスの店長ってエアロスミスのようなアメリカン・ロックしかわからない人が多かったですから、最初から「そんな奴にわかってもらってたまるか」と思ってやっていましたね(笑)。

──(笑)。

SUGIZO:例えば、ザッパは亡くなった今でも、彼が何者だったのか一言で言い表せないじゃないですか? 本人は恐らく作曲家だと思ってほしかったんだと思うんですが、一流の作曲家、編曲家、作詞家、ギタリスト、ステージパフォーマーでプロデューサー。音楽性はロック、R&B、ブルース、ジャズ、現代音楽、後期はシンクラヴィアを駆使した電子音楽も。でも、そういった多様な面を一つにすることを僕らは自分たちのシーンの中でやりたかったんです。それが20~21歳のときの気持ちでした。今思うと、険しい道でしたけど間違ってなかったかなと思っています。

──20歳そこそこで、そこまで考えられていたのはすごいです。

SUGIZO:ただ、僕としては「20歳のうちにファーストアルバムを作りたい」という強い願望があったので、それが叶えられなかったときには、すごくヘコみました。結局ファーストアルバムを作ったのは21歳のときだったので(笑)。

──目標が達成できなかった(笑)。

SUGIZO:「できなかったなあ!」みたいなね(笑)。

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第169回 LUNA SEA / X JAPAN SUGIZO 氏【後半】

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