第146回 中川 悠介 氏 アソビシステム株式会社 代表取締役社長

インタビュー リレーインタビュー

中川 悠介 氏
中川 悠介 氏

中川 悠介 氏 アソビシステム株式会社 代表取締役社長

今回の「Musicman’s RELAY」は株式会社エンジン 谷口和弘さんからのご紹介で、アソビシステム株式会社 代表取締役社長 中川悠介さんのご登場です。学生時代からイベント運営に携わった中川さんは2007年にアソビシステム設立後、原宿を拠点にファッション・音楽・ライフスタイルといった「HARAJUKU CULTURE」を国内外に発信。原宿のアイコン=きゃりーぱみゅぱみゅを中田ヤスタカらとともにアーティストデビューさせ、ワールドツアーを成功に導きました。現在も自主イベント『HARAJUKU KAWAii!!』など、“アソビシステムらしさ”を存分に発揮される中川さんにじっくりお話を伺いました。

2017年6月19日 掲載
(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)

プロフィール
中川 悠介(なかがわ・ゆうすけ)
アソビシステム株式会社 代表取締役社長


1981年、東京生まれ。
イベント運営を経て、07年にアソビシステムを設立。「青文字系カルチャー」の生みの親であり、原宿を拠点に地域と密着しながら、ファッション・音楽・ライフスタイルといった、原宿の街が生み出す“HARAJUKU CULTURE”を、国内はもとより世界に向けて発信し続けている。自主イベント『HARAJUKU KAWAii!!』を2011年〜全国各地で開催し、近年は、KAWAIIのアイコン・きゃりーぱみゅぱみゅのワールドツアーを成功させた。新プロジェクト「もしもしにっぽん」を発表し、日本のポップカルチャーを世界へ向け発信すると同時に、国内におけるインバウンド施策も精力的に行っている。


 

  1. 和光という自由な環境で育った少年時代
  2. 忙しいのは全然苦じゃない〜サークル&イベントの日々
  3. ルールの中にいながら、そのルールに乗っ取らない場所を探す〜「美容師ナイト」
  4. 長年抱いていた「プロデュース」への想い〜アソビシステム設立
  5. 自分たちのゴールやレールを設定しない
  6. 感覚的じゃないと上手くいかない〜きゃりーぱみゅぱみゅと中田ヤスタカの出会い
  7. 「看板」と仕事をするのではなく「人」と仕事をする時代
  8. アソビシステムじゃないとできないことをやる

 

1. 和光という自由な環境で育った少年時代

−− 前回ご登場頂いた株式会社エンジン 代表の谷口和弘さんとはどのようなきっかけで知り合われたんですか?

中川:最初は歯医者さんに紹介してもらったんですよ。

−− 歯医者さん、ですか?

中川:共通の歯医者さんの知り合いがいて、その人主催の飲み会でお会いしたのが初めてですね。もちろん谷口さんのお名前は以前から存じ上げていました。谷口さんって「めっちゃ爽やかな人」というイメージですよね。

−− 背が高いしカッコイイですよね。

中川:「もっとギラギラしているのかな?」と思ったら、すごく爽やかな人で話しやすかったので色々な話をしました。

−− お仕事というよりプライベートのお付き合いの方が多いですか?

中川:そうですね。もちろんナオト・インティライミさんのライブで一緒だったり、フェスとか色々な場所でお会いすることは多いですけどね。最初はそういう感じでしたね。

−− サッカーで繋がったというわけでもないですよね?

中川:そうですね。みんなサッカーですもんね。サッカーできないと駄目なのかなと思うようなときもあります(笑)。僕はサッカーできないですから。

−− これからは仕事上でもっと接点が生まれたらいいですよね。

中川:そうですね。作っていきたいですね。

−− ここからは中川さんご自身のことをお聞きしたいんですが、お生まれが世田谷区世田谷だそうですね。どのようなご家庭だったんですか。

中川:家では母親が英語教室をやっていて。僕は英語喋れないですけど(笑)。親父は飛行機のパイロットだったんですが、自分が小さい頃に両親は離婚しちゃったんですよね。ただ、小さい頃はたまに飛行機にタダで乗れたりしていましたね。

−− お母さんは英語の先生ですし、インテリなご一家ですね。

中川:と思いつつそうでもないんですよね。そんな意識ないです(笑)。

−− ご兄弟は?

中川:弟がいます。うちの会社にいるんですけど。

−− 中川さんはどんな少年だったんですか?

中川:僕は幼稚園から中学まで、和光というとても自由な学校に通っていたんですよ。

−− 宿題がない、成績表がない学校ですよね。

中川:教科書もないです。本当に自由でしたね。僕は人生で給食って食べたことないんですよ。あと制服もなかったですし、和光ってラジオ体操もしないんですよね。だからラジオ体操ってものを知らなくて、都立高校の入学式で怒られたり(笑)、そのくらいちょっと常識がないというか自由な感じでした。

−− 和光出身のミュージシャンも多いですよね。

中川:そうですね。OKAMOTO’SとかTHE BAWDIESとかそうですし、デザイナーも多いです。それで中学は小田急線の鶴川まで通っていて、中学生にしては遅い帰り時間でしたから、ほとんど家にいなかったですね。年が離れていた弟とは全然遊ばず、ほぼ学校の友達と過ごしていました。

−− 部活動はされていたんですか?

中川:中学は卓球部でした…って言うのも初めてくらいなんですけど、卓球部やりながら、ギターとかバンドの真似事をやっていました。

−− そこまで本気でのめり込んでいるわけでもなく。

中川:全然。ただ中学校の卒業ライブとかみんなでやりましたね。向ヶ丘遊園の小さいライブハウスを借りて。

 

2. 忙しいのは全然苦じゃない〜サークル&イベントの日々

−− 高校は和光に行かなかったんですか?

中川:和光には行かずに、祐天寺にある都立目黒高校へ行きました。高校時代もちょっとバンドやっていましたが、イベントごとが大好きだったので、学校行事も積極的に参加しました。文化祭を頑張ってやったりとか、卒業のときも生徒会長じゃなかったですけど答辞を読んだり。不良でもなかったですし、楽しく学校生活を送っていました。

−− 中川さんは学生の頃から、みんなが盛り上がっているのが好きだったんですね。

中川:そうですね。すごく好きでしたね。体育祭のときは応援団をやったり。そういうのは積極的にやっていました。

−− そして大学は東洋大学へ進まれますね。

中川:はい。大学にはちゃんと通っていたんですが、とにかくサークル活動とイベントをたくさんやっていました。東洋大学のテニスサークル連盟に加入していた真面目なサークルだったので、大会に出たりしながら、同時にクラブイベントをやり始めていました。

−− 結構しっかりしたテニスサークルだったんですね。

中川:チャラい感じではなかったんです。テニスは真面目にやっていましたし、仲間意識の強いサークルで、その当時で120〜130人いたのかな。僕は3年生でそのサークルの会長をやりました。

−− そういうリーダー的な資質は当時から?

中川:幹事とかイベントで人をまとめるのは、全然苦にならないタイプです。僕はそのテニスサークルと「5iVESTAR(ファイブスター)」という同年代の美容学生、服飾学生を中心としたファッションショーをやっていたんですよ。当時ファッションショー自体そんなになかったんですが、僕は原宿・青文字系に特化していて、いわゆる山野美容学校とか日本美容専門学校、文化服装学院の子たちをサークルみたいに組ませて、それぞれに15分間ずつ渡すんですよ。で、その15分間のために好きな音楽を決めて、好きなモデル選んで、好きな服を作って演出して、ファッションショーを作るんですね。

−− 15分ずつのショーを?

中川:そうです。その間に芸能人とかを呼んで、チケットを売るための客寄せみたいなコーナーを作ったり、そういったイベントを新宿でスタートさせて、どんどん展開していきました。同時にクラブイベントをやりつつ、アパレルショップで真面目にバイトしているという。ほぼこの4つで大学時代は回っていましたね。それで忙しくて勉強していなかったので1単位逃して留年したんですよ。たった1単位ですよ?(笑)

−− 1単位はちょっとキツイですね…。

中川:あの留年は痛かったですね。でも忙しいのは全然苦じゃなくて、むしろ暇なのが苦手だったんですよね。変な話、テニスラケットをリュックに背負ってクラブへ行っていましたからね(笑)。

−− (笑)。手帳が真っ黒じゃないと気が済まない?

中川:そうなんですよ。僕は人と会っているのがすごく好きなんです。人に興味があるタイプなので。別に自分が演奏するとか、DJするとかってことに興味があったんじゃなくて「人を集めるためにはイベントをやらなきゃいけないな」と思ってやっていただけなんですよね。

−− 1人の時間がなくてもさほど気にならない?

中川:全然ない方が良いですね。1人旅とか僕は信じられないですね(笑)。

−− 信じられない!(笑)

中川:1人で考えてアイディアが浮かぶ人と、逆に、こうお話をしていて、そこからなんかアイディアが浮かぶ人っていると思うんですが、僕は完全に後者です。人と話している方が自分のアイディアが浮かびやすいタイプですね。1人でいざ考えようとなると「何考えようかな」ってなっちゃうんですよね。

 

3. ルールの中にいながら、そのルールに乗っ取らない場所を探す〜「美容師ナイト」

中川 悠介 氏 アソビシステム株式会社 代表取締役社長

−− 中川さんが手掛けたイベントで最初にメジャーになったのは「美容師ナイト」ですか?

中川:何をもってメジャーなのか分からないですけどね。

−− 月曜日はクラブの使用料が安く、火曜日は美容師さんがお休み、だからそこでイベントをやろうと。

中川:あと金曜日・土曜日というメインのときってやっぱり大御所の方がいっぱいイベントをやっていて、貸してもらえなかったんですよね。例えば、DJの師匠についてレコード持ちをして、その人のもとでずっと下積みをして、少しずつ回させてもらうみたいなことって大事だと思いますし、否定はしないんですが、僕はそういうのが苦手で。

−− 自分には向いていない方法だと。

中川:ええ。なんか「自分たちのやりたいことをやっていきたい」と思っていたので。そういうときに月曜日ってやっている人もいなかったですし、先輩もいなかったし、人さえ入れば会場も貸してくれたので、それがきっかけですね。

−− なるほど。「美容師ナイト」って全くもって会社員には向いてないイベントですよね(笑)。

中川:すいません(笑)。でもクラブカルチャーがすごく好きで、クラブから出てきたアーティストや、その空間自体に興味があったんですよね。僕は音楽じゃなくて空間やそこに集う人への興味からクラブカルチャーに入ったんです。

−− この「美容師ナイト」というのは、やはりお客さんも出演者も美容師の方が多かったんですか?

中川:最初は多かったですね。ほぼ美容師でやっていました。

−− 美容師って基本的にみなさんお洒落ですし、音楽やファッションに興味がある人も当然多いでしょう?

中川:そうなんですよ。そこでDJとして才能を発揮する人もいれば、やっぱり友達も多いから周りの美容師やアパレルの店員さん、編集さんとかスタイリストとか色んな人たちが集まってきて、その様子が雑誌に載ったりすると、学生が集まって来るみたいな感じでしたね。

−− 良い循環ですよね。そうするとファッションメーカーや化粧品メーカーとか、タイアップの話とかも来たんじゃないですか?

中川:当時は厳しかったですね。僕らはまだ学生でしたし、当時パラパラとか、イベサー系のイベントには、スポンサーを引っ張ってくる会社をやっている先輩たちがいて、お金を引っ張れていたんですよね。僕たちのほうは、そういう人は誰もいなかったですし、個人でやっていたのでお金は引っ張れなかったです。

−− 純粋にクラブカルチャーが好きでやっていたというか。

中川:単純にそれですね。とはいえ色々な方がクラブにはいましたし、当時のクラブは敷居が高かったですけどね。イベントやらしてもらうことに対してのハードルはちゃんとありましたから、そこを崩していきたいなと思っていました。

−− ヒエラルキーがあった?

中川:すごくありましたね。なんか常にそうなんけど、僕たちがやろうとしたときに業界の色々な先輩たちがいて、ルールはあると思うんですよね。で、その部分を壊そうと思っているんじゃなくて、そのルールの中にいながら、そのルールに乗っ取らない場所を常に探そうという気持ちが自分の中にあるんです。

−− 隙間を探すと。

中川:絶対そこに自分たちのチャンスがあると思っているので。それは常に思っていましたね。

−− あんまり混んでいる車両には乗りたくないタイプですか。

中川:そうそう(笑)。むしろ自分で混んでいる車両を作りたいタイプですね。

 

4. 長年抱いていた「プロデュース」への想い〜アソビシステム設立

−− そして大学卒業となるわけですが、就職活動はされたんですか?

中川:一応。リクナビで登録したのはレコード会社とか広告代理店、テレビ局とか。あと高級ブランドメーカー。ここだけは説明会に行きましたね。まあ何かやってみようかなって一瞬思ったんですよ。

−− 選考へ進んだ企業はあったんですか?

中川:説明会だけで、あとは書類を出すにも至らなかったですね。リクナビでお気に入りポチって登録して「受けてみたいな」と思ったんですけど、「…通るはずねえな」って思っていたんで(笑)。

−− (笑)。では、どの段階で、自分たちでやって行こうと思ったんですか?

中川:明確には分からないですけど、高校のときから、みんなで集まってイベントをやっているときに屋号みたいなものを作っていたんですよね。イベントプロデュース集団じゃないですが、デザインができる先輩にロゴを作ってもらったりして。そのときに美容学校へ行くやつがいたり、アパレルで働くやつがいたり、色々な奴がいたので、漠然と地下にクラブを作って、1階にカフェを作って、2階に美容室を作って、みんなで将来何かやりたいよねって話は結構していました。

さっきも言いましたが、僕は音楽をやったり、デザインしたりとかそういうタイプじゃなかったので何となく漠然と「プロデュース」というところに行きたいなと思っていました。だから人の才能を引き出したり、人と人をくっつけてみたいなところに興味を持ちだしたときに、「そういうのって自分でやっていかないといけないのかな」と意識し出しましたね。

−− 正解ですね。

中川:何となくですけどね。で、大学に入ってサークルもやってイベントもファッションショーもバイトもして、「自分で作っていった方が楽しいのかな」って思ったんですよね。もちろん、やりたいことをやっている楽しさもあるんですが、自分が作った空間で笑っている人を見たり、知り合った人を他の人に紹介するのも好きなんですよ。人と人が繋がるのが好きで、例えば、もし共通の友人がいたら嬉しくなったり、人と人の間に入るのが好きだったんですよね。

−− そしてアソビシステムを設立されるわけですが、どういったいきさつだったんですか?

中川:実はその前に先輩と一緒に会社やっていたんです。それは大学4年ぐらいのときに作った会社で、「5iVESTAR(ファイブスター)」を全国で拡大したんですね。今までクラブとか安い場所でやっていたのを大きいライブハウスにして、イベンターを入れてやったんですが、大失敗しまして、その会社が苦しくなっちゃったので解散して、その後、2007年にアソビシステムを作りました。実は今年10周年なんですよ

−− もう10年やってらっしゃるんですね。

中川:会社を作ったときは資本金も10万円ですし、登記も自宅で、口座も作れなかったです。世田谷信用金庫に祖母の知り合いがいたので、頼んで会社の通帳を作ってもらって、みたいな。そんなレベルでスタートしました。借金も5000万くらいはあったのかな。

−− それは最初の会社で作った借金ですか?

中川:そうですね。26ぐらいのときの借金です。それをもう1人の人と分けて背負って。僕はこの業界で仕事を続けたかったので、少しずつでも返していこうと思って、アソビシステムに切り替えたんですよね。

−− 全部返されたんですか?

中川:返しました。

−− 偉い!つまりアソビシステムは完全にマイナスからのスタートで、全然、順風満帆の門出じゃなかったわけですね。

中川:大変でしたね。やっていることは派手に見えると思うんですが、もともとビジネスするのは苦手で、自分でもお金儲けが上手い方だと全然思っていないです。やりたいことと、カルチャーを守ることと、お金のバランスって難しいな…って常に思っています。

−− 自分の感性を大事にしつつ、お金を稼ぐ大変さってありますよね。

中川:そうですね。ずっと、背に腹はかえられない、せめぎ合いで生きてきたような気がします。

 

5. 自分たちのゴールやレールを設定しない

−− マネージメントを始めるきっかけもイベントですか?

中川:そうですね。読者モデルの子たちがファッションショーに出ていて、その子たちを何となくマネージメントし始めたって感じですね。

−− モデルのマネージメントが先だったんですね。

中川:イベントに出てもらっていたので。芸能界も当時、そういう子たちに注目していなかったんですよね。そこを自分たちでやっていったんです。

−− いわゆる原宿カルチャーに繋がる部分ですね。

中川:原宿って今までも竹の子族とか色々なムーブメントがあったと思うんですが、僕たちは今の原宿カルチャーを作っているというか、そこを大事にしている感じですね。そこに紐付くイベントをやっているうちに、モデルの子たちをマネージメントし始めたと。

−− すでにそこにきゃりーぱみゅぱみゅさんはいたんですか?

中川:いや、きゃりーと出会う前ですね。きゃりーは今年デビュー5周年なので、彼女に会うまではそこから3、4年あります。

−− マネージメントをやり始めた頃ってどんな感じだったんですか?

中川:今も日々失敗だらけですけど、当時もっと自分が丸くなっていれば会社を伸ばしていた部分もいっぱいあるなって思ったりしますね。

−− 当時は尖っていた?

中川:尖っていたというよりは、こだわりが強かったんだと思います。大手とか名刺が嫌いで。今でも名刺で仕事をする人とか大っ嫌いなんですけど、大手の名刺だからって強気に来る人っているじゃないですか? そういうのがすごく嫌で、しょっちゅうケンカしていました。

ただ、1個大きいイベントをやったときに、自分たちのカルチャーの限界が分かったというか、人を集めるとか協賛を集めるとか、自分たちの規模を越えたイベントになっちゃったことがあって、内側ですごく揉めたんですよ。自分たちの大事なことは個々で守りたい、みたいなところがすごくあって。

−− なるほど…。

中川:そのときに自分たちのコンテンツのパワーの弱さも感じると同時に、自分たちがやっているカルチャーというのは、自分たちが背伸びをしちゃいけないなとすごく思ったんですよね。自分たちの分かる範囲でやらないといけないなと。

−− その当時はどのくらいの数のイベントをやっていたんですか?

中川:クラブイベントを月10本くらいやっていました。

−− 3日に1本って凄いですね。

中川:マックスでそのぐらいはやっていましたね。あと同じ日に2つとか。

−− スタッフは何人いたんですか?

中川:2、3人ですね。その代わりボランティアスタッフがいて、手伝ってもらっていました。

−− ちゃんと利益は出たんですか?

中川:ええ。当時は日銭が出てきたので、それを少しずつ積み重ねていって。

−− 「これはいけるんじゃないか?」と思ったのはいつ頃ですか?

中川:ずっと「これはいける」と思ってやり続けていたんですよね。なんか常にゴールを決めないようにしているんですよ。ゴールって決めちゃうと、そこが、その数字がゴールになっちゃうので良くないなと思っています。

「ノミの原理」ってあるじゃないですか? ノミってプラカップを被せたらその高さまで跳べるけど、もうちょっと大きいカップを被せると、もっと跳べるようになるみたいな。それと同じで自分たちのゴールとかレールを決めちゃいけないなって思っていたんです。常に先を見ていたつもりですけど、1歩前で満足しないようにと意識していました。イベントをどんどん増やせ増やせとやっていましたし、僕はブレーキとかバックがない感じなんですよね。常に前にしか進まないというスタンスです。

 

6. 感覚的じゃないと上手くいかない〜きゃりーぱみゅぱみゅと中田ヤスタカの出会い

中川 悠介 氏 アソビシステム株式会社 代表取締役社長

−− きゃりーさんとはどうやって出会ったんですか?

中川:彼女はもともとアソビでやっているイベントに出ていたんですよ。当時、雑誌の読者モデルとして小さく写っている子だったんですが、「ブログとかSNSがすごく面白い」と聞いていたので「会ってみたいな」と思って。その後、たまたまイベントで会って話してみたらすごく良い子だったんですよね。当時、読者モデルは遅刻もするし、連絡を返すのも遅いってイメージだったんけど、彼女は連絡も速いし時間もきちんと守る。すごく真面目な子だなと思いました。会ったとき、彼女は17歳でした。

−− 中田ヤスタカさんの存在はすでにご存じだったんですか?

中川:中田とはずっと「美容師ナイト」を一緒にやっていましたし、中田が「クラブイベントをやろう」と言い出して、それに乗っかってイベントを始めたんですよね。それで中田はきゃりーを中心に昼の14時から始まって19時には終わる、酒もタバコもないクラブイベントを作って、そこで仲良くなっていったんですよね。

−− 「美容師ナイト」の時代というのは、中田さんも今のようにブレイクしていない時代ですよね。

中川:Perfumeの『ポリリズム』以前ですね。僕のファッションショーイベントってお洒落な人たちが集まっていたんですけど、彼のユニットCAPSULEを聴いている人が多くて、ファッションショーの音楽にもCAPSULEが結構使われていて、そんな頃にたまたまクラブで中田と出会ったんですよね。最初「美容師かな?」と思って話しかけて、当時のmixiでやり取りしたら「CAPSULEというユニットで音楽やっている」と(笑)。そこから仲良くなって、結構一緒に遊んでいましたね。

−− 中川さんから見て、中田さんはどんな方ですか?

中川:彼は言っていることがブレないんですよね。「言っていることをきちんと実現していかないとな」と思える人って、実はあんまりいないじゃないですか? 中田はまさにそういう人で、そこは大きかったですね。中田は自分のやりたいことを、傲慢にじゃなくて、理論的に伝えられる人なんですよ。

−− 中田さんはきゃりーさんを見事にアーティストにしましたよね。

中川:まあ半分ノリですけどね。よくインタビューできゃりーの成功について訊かれるんですよ。そこで本当は「実はこう思っていて、こう戦略を立てて、実行したんですよ」みたいなことを言うのが理想だと思うんですけど、全然そんな感覚はなくて、とりあえず、きゃりーと中田をくっつけて色々ワイワイやったみたいなイメージなんです。

−− 計画的な感じではなかった?

中川:感覚的じゃないと上手くいかないと思っていたんですよね。今の時代って、情報がすごく多いじゃないですか。昔って新聞の朝刊に出るとか、週刊誌は何日情報解禁でとか、そこに向かって色々な情報が集まるみたいな感じだったと思うんですけど、今ってYahoo!ニュースは毎日何回も変わるし、下手したらSNSで1個呟いたらそれがニュースになってしまうじゃないですか。

−− ニュースがどんどん手元に届きます。

中川:そうなんですよ。どこに情報があるか分からないってことは、イコール考えすぎるんじゃなくて、自然に自分たちが良いと思うことをやっていくことが重要な気がしていて、きゃりーがその良い例ですね。自分が見ていても彼女はやっぱり夢があるなと思いますし、当時、服飾の専門学校に行こうとしていたのを止めて、「1年やって駄目だったら専門学校行かせてあげるから」と説得したんですよ。親御さんも心配するし。彼女はご両親とも仲が良いし、本当に良い子なんですよね。

−− ちゃんとしたご家庭の子なんですね。

中川:そうだと思います。それと中田との出会いも大きかったですね。

−− 中田さんと出会って、きゃりーさんの快進撃が始まるわけですよね。

中川:そうですね。すごく嬉しかったですけど、毎日が勉強でしたね。とは言え彼女のこの先の人生を考えたら、ここでしっかりやらないと、と思いました。だから必死でした。

−− 売れるとこれまでの世界と変わるわけじゃないですか。イベントの規模も、声をかけてくる人の種類も。それに戸惑うことはありませんでしたか?

中川:戸惑うことはありましたけど、楽しかったのでめちゃめちゃ頑張れましたね。「夜中の2時に打ち合わせしよう!」って言って集まったりしていましたから。

 

7. 「看板」と仕事をするのではなく「人」と仕事をする時代

−− きゃりーさんの海外公演とか経験のないことばかりなのに成功させたことがすごいですよね。

中川:でも未経験が1番強いと思うんですよね。アソビシステムが10周年を迎えて、これからどう大きくなっていくかというときに、1番邪魔なのは「経験」だと思っているんです。やっぱり「未経験」だからこそ次のステップに踏み出せるようになりますし、そこはすごく大きいなと思うんですよ。もちろん経験がなかったからこそ色々な人に相談しましたし、そこでアドバイスをもらったわけですが、試行錯誤しながら自分たちのものにしていくことが重要だったと思いますね。

−− 「やったことのないことをやる」ということ自体が楽しいことですよね。

中川:本当にそうですね。だって普通の女の子が世の中に知ってもらえて売れていくんですから。当時よく青山一丁目のワーナーにきゃりーと打ち合わせに行っていたんですけど、彼女と「青山一丁目を歩けなくなるまで頑張ろうよ」みたいなことを話していたんですよ。

−− でもあっという間に歩けなくなったわけですよね?

中川:そうですね(笑)。でも、彼女は今でも電車に乗ったりしていますよ。原宿もプラプラしているし、その感覚が今っぽくて良いんでしょうね。

−− 急に偉そうになられても困りますしね。

中川:そうそう。そこは重要です。

−− きゃりーさんの活躍の中でも1番期待されているのがやはり海外での活動ですよね。

中川:元々、原宿を中心にイベントをやっていて、海外の人は原宿のポップカルチャー的要素に注目していて真似しようとしていると感じていたんですよ。実際に原宿に外国人が来たりとかしていますしね。日本人って海外に憧れていた時代が長かったと思うんですが、それが変わってきたのかなと思いますね。僕らより上の世代は、音楽ならロンドン、ファッションならパリ・ミラノ・ニューヨークみたいなイメージがあったと思うんですけど、僕は海外への憧れとかはあんまりないんですよ。

−− 世代的にそうなんでしょうか。

中川:世代はありますね。クールジャパン会議をやっていると特にそう思うんですよ。今の若い子たちは海外への憧れみたいなものがそもそもあるのかなって。

−− むしろ最近はブロンドのきれいな女性がランドセル背負っていたり、日本のキャラクターグッズを持っていたりしますよね。

中川:そういうのってすごく嬉しいじゃないですか。最初、なんできゃりーが海外にいけると思ったかと言うと、彼女は原宿のアイコンだったんですよ。アイドルじゃなくてアイコン。だから彼女を売っていく上で、海外で売りたいと思ったわけじゃなくて、日本以外でも可能性はあるんじゃないかと思いました。

それで『PONPONPON』という曲のPVに、増田セバスチャンというアートディレクターを入れたんですよ。彼は天才的な色彩感覚がある人なので、彼にセットを作ってもらって、彼女の頭の中の、おもちゃ箱じゃないですけど、そういうイメージを表現しました。当時、宣伝費が全然なかったので、曲を知ってもらうためにYouTubeにフル尺流したんですよ。当時フル尺を流すってあんまりなかったんですけど、そのPVがものすごく当たって、海外ではケイティ・ペリーがTwitterでつぶやいてくれたり、リンキン・パークがつぶやいてくれたりして、世界中にそのPVが広がっていったんです。

−− 楽曲作りや映像、ファッションのプロデュースに中川さんは関わっているんですか?

中川:口は出してないですね。これは彼女の魅力でもあると思うんですが、中田ヤスタカという大きな軸があって、その上にきゃりーが乗って音楽ができるじゃないですか? それをスタイリストさんや映像監督、マネージャーもそうだと思うんですけど、みんなきゃりーを中心に魅力を引き出し合っている感じなんですよね。大人がやらせているものでもないし、作り込んでいるものでもないし、みんなで一緒に作り出しているものだと思うんですよね。

−− では「次の曲はこんなイメージにして」とかそういうのは一切ない?

中川:話はしますけど、中田ヤスタカの音楽をどう料理していくか、きゃりーのアイデアをどう作っていくか、みたいなのがベーシックなところにあるんだと思います。そういう意味では社長っぽくないと思いますね(笑)。

−− 中川さんの周りには、いつの間にか人が集まってきている感じがしますね。

中川:狙ってはないんですけどね。ワーナーも色々な方を見つけてきてくれて、ちゃんと共存共栄できていると思います。竜馬さん(unBORDE レーベルヘッド 鈴木竜馬さん)もリレーインタビューで仰ってましたけど、僕も、100万枚売れるアーティストを1人出すんじゃなくて、10万枚売れるアーティストを10人出したいと、そんな発想を持っていました。

−− 鈴木さんもunBORDEをきっかけに駆け上がってきましたよね。

中川:結局、人との出会いですよね。最近思うんですけど、「このレーベルと仕事したいじゃなくて、この人と仕事したい」「このメディアはこの人がいるから信用できる」みたいな時代になってきているのかなと。看板じゃなくなってきているように思いますね。

 

8. アソビシステムじゃないとできないことをやる

−− 中川さんは「日本のポップカルチャーを世界にもっと広めたい」というお考えなんでしょうか?

中川:そうですね。きゃりーのワールドツアーとか、「もしもしニッポンプロジェクト」とかで色々な国に行くことが多いんですが、日本の作っているクリエイティビティとか、ポップカルチャーをこんなに「いい!」って言ってくれている人たちが世界中にいるんだから、もっとチャンスはあるし、攻めていった方がいいなと思いますね。きゃりーで言えば、シアトルもシカゴもサンフランシスコもロスもニューヨークも全て2,000人クラスの箱で回れて、その光景には感動しますよね。

今だったらBABYMETALやONE OK ROCKもできると思いますけど、当時はいなかったんですよね。やっぱり楽しかったですね。シカゴのライブハウスが満杯になっているのを見て、しかも日本人がいないのを見ると感動します。

−− そこでは日本語は全く障害になっていなかった?

中川:もちろん理解はしてないと思うんですけど、きゃりーが日本語でMCしたら「イェーイ!」ってなっているので問題ないですね。でも、外タレのライブを観に行って、英語のMCはよく分からないけど「イェーイ!」って言うじゃないですか? だから無理に海外仕様にする必要はないんじゃないですかね。仮にそれを中田がしたいというならすればいいと思うし、僕らがそれについて何か言うつもりはないし、という感覚ですね。

−− きゃりーさんに続く海外向けの戦略は考えてらっしゃるんですか?

中川:中田ヤスタカのサウンドも世界でいけると思っているので、そこはもっと積極的に伸ばしていきたいと思っています。今年1月に中田ヤスタカ名義で『Crazy Crazy』というチャーリーXCXというロンドンのアーティストときゃりーとコラボした曲を出したんですが、そういうことができていくと、色々な可能性が広がってくるのかなと思っています。あとは音楽だけじゃなくファッションだったりポップカルチャー全体で「もしもしニッポンプロジェクト」を海外にもっと持って行きたいなと思っています。

−− 「もしもしニッポンプロジェクト」は具体的にどのようなことをされているんですか?

中川:音楽・ファッション・フードなど日本のポップカルチャーを世界に向けて発信するプロジェクトで、「MOSHI MOSHI NIPPON FESTIVAL」などのイベントと、ウェブメディアと、前までテレビもやっていました。原宿で観光案内所もやっています。

−− 今もクラブイベントはやられているんですか?

中川:やっています。昨年、風営法が変わったこともあるので、今後も積極的にやっていきたいですね。

−− 「スーパー浮世絵 江戸の秘密展」というアート展も手がけているそうですが、純和風のもののプロデュースもやっていこうと思っているんでしょうか?

中川:もちろんやっていこうと思っています。これは仕事論じゃないですけど、面白いことをしているだけでは駄目で、アソビシステムじゃないとできないことをやってないと自分たちの価値がなくなると思っているんです。「アソビシステムだからできた」というストーリーがないとやっちゃいけないなと思っています。9. 「エンタメ業界で働きたい!」と思ってくれる若者を増やしていく
−− 今後のアソビシステムとしての展望をお聞かせ下さい。

中川:プラットフォームを作れる会社になっていきたいですね。プラットフォームって抽象的な表現ですが、自分たちが何かを生み出していくことができるパワーをきちんと可視化していかないと続いていかないと思っています。

音楽業界や芸能界の稼ぎ方が変わってきましたけど、変わってから新しいことをするんじゃなくて、今までの歴史ややってきたことを尊重しつつも、マネタイズのポイント、ビジネスのポイントの視点を変えていくことがすごく重要なんじゃないかなと感じています。「CDが100万枚売れないから」という発想ではなくて、「売れないのが当たり前」と視点を変えていかないといけないなと思っています。

あと、エンタメ業界って人が集まってくるべきところだと思うんですね。でも、今エンタメ業界で働きたい人が増えていない気がしていて、「働きたい!」と思ってくれる若者を増やしていくことが重要なんじゃないかなとすごく感じています。ITやスタートアップ系の集まりとか、そこにはやる気のある若者がいっぱいいて、人が集まってきているのとは対照的なんですよね。

−− アソビシステムですら働きたいと思う人が減っていると感じてらっしゃるんですか?

中川:そうですね。大学とか専門学校に講義をしに行ったときに、エンタメコンテンツに興味はあるし、エンタメコンテンツを利用してスタートアップしようとかITをやろうと考える人はすごく多いんですけど、エンタメ業界自体で何かをしていこう、という人は少なくなっていると感じていて、そこを伸ばさないとまずいと思っています。

−− 人手不足は音楽業界だけの話ではないですが、これはすごく深刻な問題ですよね。

中川:音楽はかっこよくなきゃいけないし、自分たちが魅力を出していかなきゃいけないし、働きやすさとか、そういうのも考えていくタイミングなのかなと思っています。音楽業界の今を暗いイメージで思っている方って結構多いと思うんですね。CDが売れなくなったとか。

−− 斜陽産業とか言われちゃってますよね。

中川:でも、だからこそチャンスなんじゃないかなと思っています。僕らは100万枚売れた時代を経験してない、今の時代を生きているので、5万枚でも売れれば儲かる方法なんていくらでもあるんじゃないかなと思っているんですね。仕組みを変えていくこと、音楽もCDにしなくてもいいし、CDにしてもいいし、売れなくてもいいし、広告つけてもいいし、色々な方法論があって、そこには著作権という難しい問題もあると思うんですが、そんなことよりも、今後そのアーティストが売れていくか、有名になっていくかの方が重要なんじゃないかなと思っています。

−− 注目している技術などありますか?

中川:仮想通貨は、エンタメと全く関係ない技術だと思っていましたが、近づいてきている感じがしますね。

日本って1つの産業が強いじゃないですか。音楽もそうだったと思うんですよ。CDの売上でいったら世界のトップにいるし、内需で食べていた時代から外に取りに行くという思考に変わってきたと思うんですが、これだけ情報過多で、色んなことが生まれてきて、1つのことでガッツリ稼ぐ発想も大事ですが、そうじゃない人も生まれてくるんじゃないかなと思っていて、それなら5万人のファンのコミュニティをいくつか作れればいいのかなと。そして、業界じゃなくて横で切っていくことが重要なんじゃないかなと考えています。例えば、音楽もそうですし、好きなファッションとか食とか、今までは縦の展開だったものが、横の展開にしていくと。

自分たちにそれができるのかわからないですが、少しずつ世の中が変化してきている中で、自分たちがどういう立ち位置にいるかがすごく重要で、僕が思っている今後のアソビシステムは「昭和くさいIT企業」でいいと思っているんですよ。

−− 「昭和くさい」ですか?

中川:ええ。ちゃんと人間がいる会社で、人と人とが繋がっていて、自分たちの想いがあってやっていくんですけど、でもどこかで新しいITと組んで、みたいなことになっていったらすごくいいなと思っています。あと、今は一攫千金を狙える時代じゃないと思うんですよね。地方創生とかクールジャパンとか、色んなことがあるんですが、そこにちょっとずつチャンスがあるから、常に色々なところと話していくことが大切だと思っています。

−− 本日はお忙しい中、ありがとうございました。中川さんの益々のご活躍をお祈りしております。

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