第145回 谷口 和弘 氏 株式会社エンジン 代表取締役

インタビュー リレーインタビュー

谷口 和弘 氏
谷口 和弘 氏

谷口 和弘 氏 株式会社エンジン 代表取締役

今回の「Musicman’s RELAY」はユニバーサルミュージック 藤倉 尚さんからのご紹介で、株式会社エンジン 代表取締役 谷口和弘さんにお話を伺います。「音楽業界で働く」という志を胸に上京し、OORONG-SHAでマニピュレーターとしてのキャリアをスタートさせた谷口さん。その後、マネージメントの資質を見抜かれ、Mr.Childrenのマネージャーに転身。またMr.Childrenの仕事と並行して、ナオト・インティライミをデビューから今日までサポートし、現在は株式会社エンジンの代表としてご活躍中です。そんな谷口さんにご自身のキャリアから、Mr.Childrenやナオト・インティライミ、そして株式会社エンジンの今後までじっくりお話を伺いました。

2017年4月4日 掲載
(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)

プロフィール
谷口 和弘(たにぐち・かずひろ)
株式会社エンジン 代表取締役


1976年12月10日 三重県生まれ
1997年 株式会社 OORONG-SHA 入社
1999年 Mr.Children マネージャー
2014年 株式会社エンジン 設立

 

  1. サッカーに打ち込んだ少年時代
  2. 音楽業界を目指しMr.Children「ALIVE」を聴きながら上京
  3. OORONG-SHAでマニピュレーター修行 〜 Mr.Childrenとの出会い
  4. 「ここは人生踏ん張りどころ」マネージメント業務への決意
  5. Mr.Childrenマネージャーとしての重圧と喜び
  6. “サッカーの上手いやつ”として現れたナオト・インティライミ
  7. 自分で全責任を負って何かをやれる環境作り〜株式会社エンジン設立
  8. 一日でも長くアーティスト活動を続けられるように寄り添っていく

 

1. サッカーに打ち込んだ少年時代

−− 前回ご登場頂いたユニバーサルミュージック 藤倉尚さんと出会われるきっかけは何だったんでしょうか?

谷口:ナオト・インティライミというアーティストを自分がやることになったときに、当時は着うたブームで、そういったものにユニバーサルさんがすごく強いというイメージを自分が持っていたので「ユニバーサルさんとお仕事したい」と思っていたんです。それで、ユニバーサルさんに繋がる方がいたので、当時の社長の小池一彦さんをご紹介いただきました。

そして、小池社長にお会いしたんですが、小池社長が「このアーティスト(ナオト・インティライミ)にうってつけの男がいるから、ちょっと会ってみたら?」ということで、小池さんのほうから藤倉さんをご紹介いただいて、赤坂BLITZでナオトがライブをやるときに藤倉さんをお誘いしたらお忙しい中、来て下さって、ナオトのライブの力みたいなものを感じていただけたみたいで、お名刺の裏に「是非一緒にやりましょう」みたいなことを書き置きしてくださったんです。そこから色々話しあいながら、ナオトのプロジェクトを一緒に進めていきました。

−− それは何年くらいのことですか?

谷口:2009年くらいだったと思います。

−− そのときはもうナオトさんのマネージャーをされていたんですか?

谷口:そうですね。このエンジンという会社を立ち上げる前はOORONG-SHAでMr.Childrenとナオトの担当マネージャーをやっていました。でも、まだデビューも決まらない、これからどうしていこうかという時期にまずは藤倉さんにご相談しました。

−− 今も関係は続いていらっしゃるんですよね。

谷口:今もすごくお世話になっています。当時は確か執行役員だったのが、いつの間にか専務、副社長になって社長と、すごい勢いで階段を駆け上がられて。ナオトを押してくれている方が社長になられたので、非常に嬉しく思いました。

−− ここからは谷口さんご自身についてお伺いしたいのですが、1976年12月生まれと…本当にお若いですよね。40歳になったばかりですか。

谷口:はい、そうです。

−− 今までこのインタビューにご登場いただいた方の中で、マネージメントサイドとしてはもしかしたら最年少かもしれません。

谷口:すいません(笑)。

−− いえいえ!(笑)凄いなと思いまして。ご出身は三重県と伺っております。

谷口:生まれは大阪だったんですが、小学校のときに両親が三重県に移り住んだんです。

−− 三重のどちらですか?

谷口:三重の名張という奈良県との県境です。本当になにもないところですね。山と川しかない、本当に田舎です。

−− 三重というと伊勢神宮と、鈴鹿サーキットと。

谷口:四日市とか、あっちのほうは色々あるんですけど、こっちの奈良寄りのほうは全然何もないんですよ。

−− 山の中ですか?

谷口:いや、新興住宅地と言いますか、三重といっても大阪まで電車で1時間くらいで行けるようなところだったんです。なので、大阪から移り住んできた家族がたくさん住んでいる住宅団地みたいなところでした。田舎といっても家はたくさんある、けど、その他には何もないようなところで育ちましたね。

−− どのようなご家庭だったんですか?

谷口:姉一人と両親との4人家族で、父親もサラリーマンでごく平凡な家庭でしたね。音楽とも全く無縁の家庭だったと思います。

−− 現在のお仕事との接点は見出しにくいですか?

谷口:そうですね。ずっと小さいときからサッカーをやっていたので音楽は全然でしたね。

−− さほど興味も無かった?

谷口:いや、興味があったといえばあったんですよね。サッカーの試合には学校の先生が車で連れて行ってくれるんですよ。そこで先生が聴いていたのがBOφWYで「カッコイイ!」と思って、小学校の4、5年生くらいからBOφWYが大好きになって、で、BOφWYをずっと聴いていたのを覚えていますね。あと、小学校のときはチェッカーズですね。好きでよく聴いていましたね。

 

2. 音楽業界を目指しMr.Children「ALIVE」を聴きながら上京

−− 谷口さんはサッカーを何年くらいされていたんですか?

谷口:サッカーは、小学校低学年から始めて高校の途中までやっていましたね。

−− かなり本格的に。

谷口:どうだったんでしょう。でも一生懸命はやっていましたね。

−− サッカー一筋で小中高と過ごされていて、音楽との本格的な接点はいつ頃あったんですか?

谷口:高校時代に友達と麻雀して遊んでいたんですが、麻雀って4人でしかできないから人が余ると順番待ちするじゃないですか? そのときにたまたま遊びに行った奴の家にギターが置いてあって、で、なんとなく麻雀の順番待ちしてるやつがギターを弾いて待つという流れがあって、「もっと練習したいよね」と。それで麻雀に集まっている仲間と一緒に楽器を始めることになって、サッカーはそこでやめてしまいました。

それで、別に上手くもないけどみんなで楽器をさわりながらバンドの真似事をやっていくうちに「音楽の仕事もいいな」と…すごく安直ですよね。将来の展望も何もあったもんじゃないです(笑)。ただ、そういう仕事がかっこよくも見えていたんだと思うんです。かといってミュージシャンになる腕前ももちろんないですし、機械が好きだったので「エンジニアっていう仕事があるぞ」と知って、大学行くほど勉強したくもないしという本当に安易な気持ちで「専門学校へ行こう」と。それで大阪にあるキャットミュージックカレッジ専門学校の音響科に行くことにしたんですよ。

−− 学校の学科としてはエンジニアを目指していたんですか?

谷口:そうです。で、就職活動もしてみたんですが、スタジオは結局どこも受からず、三重の実家にいながら半年くらいバイトしていました。でも音楽の仕事をしたいという思いはずっとあったので、就職先は何も決まってないのに「バイトで100万円貯めたら東京に出よう」と決めました。今考えたら本当に大馬鹿野郎なんですけどね(笑)。で、一生懸命バイトして半年くらいで100万貯めて、仕事は決まっていないけど、とにかく音楽業界に潜り込んで上を目指そうと。親も説得し、強引に東京へ出たのが1997年の9月頃です。

−− …結構最近ですね(笑)。

谷口: 20年前ですか。そのとき面白かったのがお金もあまりないから無駄遣いはできなくて、引っ越しもお金かけられないからと親父が自分の会社のライトバンを借りてきてくれて、義理の兄にあたる姉の旦那さんと自分との3人で少ない家財道具を積んで東京に向けて走ったんです。

−− 住むところはもう決めていたんですか?

谷口:住むところだけは決めていました。幼馴染みがもう東京に出ていたので、彼の家の近く、東武東上線の東武練馬駅にあるボロいアパートで…(笑)それで、その当時96年、97年頃はMr.Childrenがすごく流行っている時期で、僕もカセットテープにMr.Childrenのベストみたいなのを作っていたんです。で、当時『ALIVE』という曲が大好きで、引越のとき朝方の5時くらいだったかな、義理の兄貴と運転を変わって、親父と兄貴は後ろで寝ているから、カセットデッキにそっとミスチルのベストテープを入れてMr.Childrenの『ALIVE』を聴きながら東京に入ったんです。

−− おお! かっこいい話ですね。

谷口:今言えばすごくかっこいい話になるんですけどね。それだけMr.Childrenって影響力も大きいし、みんなが大好きだったバンドだったんですよね。自分もご多分に漏れず本当に大好きで、まさかその後Mr.Childrenと仕事するなんて思ってもいなかったわけで。それで上京してきてから2か月くらいなにもしていませんでした(笑)。本当に東京でぶらぶらしていて。で、「このままお金無くなるのもな」と思って、「楽器運びのバイトをしよう」というところで、ある会社のバイトの面接を決めたんですが、その日の夕方に母親から電話かかってきて、「ウーロビートっていうところから電話があって、面接したいって言っているから、あんたちょっと電話してみなさい」と。

−− ウーロビートってOORONG-SHAの子会社の?

谷口:そうです。まだ三重にいる頃にウーロビートの求人広告が「サウンド&レコーディング・マガジン」に載っていたんです。それで「何か可能性があるかもしれない」と思いながら応募したんですが、3か月くらい音沙汰なかったんですよ。

−− それが、今頃連絡が来たと。

谷口:「あれ、あそこだ…」と思って。それでとりあえず電話したら、たまたまなんですがその楽器運びの方の面接2時間前くらいに、ウーロビートの面接に行くことになって、面接したらその場で採用が決まっちゃったんです。それで楽器運びのバイトの方にお電話して「他が決まってしまったので申し訳ないです」と謝って、結局ウーロビートに入ることになりました。

−− すごいタイミングですね。

谷口:当時、面接をしてくれた場所に、Mr.ChildrenやMy Little Loverの賞状があって「このウーロビートって会社なにしている会社なんだろう?」と思っていたんですが、お世話になることが決まった後に「実はうちの会社は小林武史が社長で、こういうアーティストがいて…」と説明されてびっくりしたんです。

−− そんなにすんなり採用が決まった理由はなんだったんですか?

谷口:分かりません。後で聞いたら「元気が良かった」と言っていたような記憶はあります(笑)。

−− なにか技術的なことは?

谷口:全くです。基本的にはマニピュレーターやエンジニアさんの機材を運ぶバイトでしたから、何も考えずに面接を受けて、受かって。今思うとただの馬鹿ですよね。自分の息子がそうしたいって言ったら「絶対やめとけ」って言うような無謀な感じです(笑)。

 

3. OORONG-SHAでマニピュレーター修行 〜 Mr.Childrenとの出会い

谷口 和弘 氏 株式会社エンジン 代表取締役

−− 結局、東京に出てきてわずか3か月後にはウーロビートにいたわけですね。

谷口:そうですね。バイトでしたけど。一番最初の仕事は、桑田佳祐さんのプライベートスタジオに角谷さん(ウーロビート所属のマニピュレーター)が行くので、機材運びを手伝ったことだったと思います。

−− ウーロビートでの仕事初日は桑田さんだったんですか。

谷口:田舎から出てきた右も左も分からないような男がいきなり桑田佳祐さんのスタジオにいる、という不思議な感じをすごく覚えていますね。こんなことがあるんだなと思いました。

−− その機材運びはレコーディングやコンサートツアーなど全てですか?

谷口:はい。ウーロビートはマニピュレーターとエンジニアがいた会社だったので、スタジオやLIVE会場に運んでセッティングしたら自分たちは出て、終わったらバラシに行って倉庫に戻すというようなバイトでした。ただ、マニピュレーターの方の仕事だけは後ろについて色々手伝っていましたね。当時コンピューターで音楽を録るはしりの時期で、サンプリングCDをサンプラーに落とし込む仕事、みたいなものを角谷さんの後ろでずっとやっていました。

−− その頃にはエンジニアの夢というのは大分薄れていたんですか?

谷口:マニピュレーターの方の後ろにつくようになって「あ、こういう仕事もあるんだ」と思ったんです。あと、この先、エンジニアとマニピュレーターの境がなくなっていくんじゃないかなとどこかで思っていたので、「こういう環境にいるんだったらコンピューターで音楽を録る勉強をしよう」と思って、角谷さんの後ろにつかせてもらって、色々勉強し始めました。

−− 「谷口さんはすごくスタジオ周りに詳しいから、元々ミュージシャンなんじゃないか?」と聞いていたんですが、そういうことだったんですね。

谷口:ええ。スタジオ作業をずっと見せていただいていたので。そんなキャリアのスタートでしたが、当時はお金も時間も本当になかったですね(笑)。機材を運んで、ずっと待機していて、終わったら夜中にバラして、家に帰る時間もないので倉庫で寝泊まりしたり。そんな毎日でした。

−− 24時間コースですね。

谷口:言われたらすぐに機材を取りに行かなくてはいけなかったですから。それで、楽器運びからマニピュレーターみたいな仕事をやり始めた頃、寺岡呼人さんとMr.Childrenのメンバーが遊びでサッカーをやっていて、当時のMr.Childrenのチーフマネージャーの人に「谷口、サッカーやっていたんだったら、助っ人で来てよ」と呼ばれて行ったんですよ。それでサッカー経験者だったので「お前使えるね」となって、「サッカーあるときはおいでよ」と言われたんです。

そこで呼人さんとお話させてもらう機会があって「何やっているの?」と言われたので「楽器運びをしながら徐々にマニピュレーターのお仕事させてもらっています」と答えたら、呼人さんが「じゃあ一回プリプロ一緒にやってみる?」と何もできない自分に声かけてくれたんです。で、分からないながらに機材を持って、呼人さんとゆずが『ゆずえん』というアルバムを録音していた音響ハウスに行って、ゆずのレコーディングにマニピュレーターとして参加しました。

といってもまだヨンパチ(SONY「PCM-3348」)がまわっている時代ですし、コンピューターはサブ的に切ったり貼ったりするだけのものだったので、そんなに高度な何かが必要でもなかったんですが、でも呼人さんのおかげで当時勢いのあるゆずや、他にも藤木直人さんのデビュー曲のプリプロだったりに参加させてもらいながら、何となくマニピュレーターの現場にも出られるようになっていきました。ちょうどその頃にMr.Childrenも『Q』というアルバムをつくり始めるんですが、当時、桜井が山形にスタジオを持っていたんですよ。

−− 山形ですか?

谷口:はい。桜井のお母様の出身が山形だった関係で、桜井も子どもの頃に山形へよく行っていたらしく、第二の故郷みたいな感じだったんです。それで、山形で合宿するぞとなったんですが、セッション的な感じで曲作りをするから、一線級のマニピュレーターさんを1週間や2週間ロックしてやるというほどのものでもないし、なんとなく音が録れるやつがいたらいいな、くらいの感じだったようで、「谷口ってそういうことやっているんでしょう?」という感じで合宿レコーディングに投入されるんですね。何にもできない自分が(笑)。当時、桜井もProToolsを使えたんですが、自分はまぁミスるわ、ミスるわ(笑)。桜井に「俺がやったほうが早いんじゃないの?」とか言われながら(笑)、2週間の合宿を何回かやったのかな…それでメンバーと寝食を共にして。

−− そこで信頼関係が生まれたと。

谷口:信頼されていたかどうかは分からないですけどね(笑)。

 

4. 「ここは人生踏ん張りどころ」マネージメント業務への決意

−− マニピュレーターからマネージメントに移るきっかけは何だったんですか?

谷口:実は当時のチーフマネージャーの方が「マニピュレーターもいいけど、谷口は絶対マネージメントに向いていると思う」とすごく誘ってくれたんですが、「有り難いお話ですけど、もう少しマニピュレーターで頑張っていきたい」と言い続けていたんです。小林さんからも「お前マニピュレーターやりたいんだったら、俺の作業をちょっとやってみるか?」と言われ、小林さんの自宅に行ってプリプロを一緒にやらせてもらったりして「まだまだだけど、何とかなるかもな」みたいな感じだったんです。それで小林さんがニューヨークへMr.Children『Q』のレコーディングに行くときに「勉強しろ」とまだ何もできない自分を連れて行ってくださったんです。1ヶ月ずつくらい合計3回、3ヶ月間くらいニューヨークレコーディングに付き合わせてもらいました。

−− そんなにニューヨークへ行っていたんですか。

谷口:行って帰っての繰り返しだったんですが、その裏ではずっと「マネージャーをやってみなよ」と言われていて。当時、OORONG-SHAが自社でコンサート制作を始めたいというタイミングで、「マネージメント的な人間がいてくれると本当に助かるけど」という、最後の口説き文句のようなものがあって、それでニューヨーク3回目のレコーディングのときに「本当にどうするか決めてほしい」と。すごく信頼している方だったので「そこまで言ってくれるんだったら自分には何かあるのかな」と思いましたし、当時の浅はかな考えですが、例えば、新人をやるときとか、自分がProToolsで音を録って、マネージメントしたら、コストが浮くなとか、色んなことを考えたんですよ。

−− それは便利ですね。

谷口:今までの経験も活かしつつ、マネージャーみたいなものもやれないかな、と勝手な考えですが、そういうことを思っていました。それでレコーディング最終日の前日に、誘ってくれている方の部屋へ行って「マネージャーをやらせていただきたいと思います」と伝えました。

−− それはおいくつのときですか?

谷口:23、4とかですかね。それで、翌日、小林さんに報告したら、小林さんにすごく怒られたんです。要は「マニピュレーターとして育てようと思って、ニューヨークのレコーディングに何回も連れてきたお前が、何をいまさらマネージャーをやりたいんだ」と(笑)。

−− 確かにそうですよね。

谷口:それでもう怒られて(笑)。「何考えているんだ、あいつは」という。でも自分で決めたことですし、「もう人生決めた」と強く思っていましたから。

−− 誘ってくれたマネージャーの方が「俺が誘ったんだよ」と言ってくれれば…。

谷口:そうなんですよ。結局「誘われた」とは言えずに、Mr.Childrenのメンバーも「あいつ、ついにマネージャーをやりたいと言い出したぞ」と。それで「苦しいところから逃げて、楽しそうなところに行ったんだろう、お前は」というレッテルをバチーンと貼られて(笑)。その後「Mr.Children Concert Tour Q 2000-2001」というツアーを回るときに、初めてアシスタント・マネージャーみたいな、現場の一番下っ端のマネージャーとしてツアーに付いていったんですが、夜、メンバーと一緒にお酒を飲むたびにメンバーからずっと怒られるという。

−− いじり甲斐のある奴だった?

谷口:そうです。酔っ払ってきて、何か文句言いたいなと思ったら「こいつがいた!」みたいな(笑)。

−− 大変ですね…めげたりしなかったですか?

谷口:めげていましたし、がっつり凹んでいましたけど、自分で決めたことですし、もう後がないというのも実際のところでしたしね。「ここは人生踏ん張りどころだ」と地道に頑張りました。

−− ようやく認めてもらえるようになったのはいつ頃だったんですか?

谷口:どれくらいかかったかなあ・・・本当に時間をかけて少しずつですよね。ずっと地道にメンバーに付いて仕事をして。その当時にMr.Childrenのチーフマネージャーをやっていた人がレミオロメンに専念することになって、Mr.Childrenをどうしようかとなったときに、そこで初めて「谷口で良いんじゃないの?」と。「谷口“が”良いんじゃないの?」じゃなくて、「谷口“で”良いんじゃないの?」という、フワッとした感じですよね(笑)。

−− (笑)。でもそのときまでは、肩書きをつけるとすれば、ロードマネージャーみたいな感じだったわけですよね。

谷口:ええ。チーフ・マネージャーの方と自分と、2人でやっていたんですよ。レコード会社であるトイズファクトリーのみなさんにも助けてもらいながら、現場アシスタント・マネージャーみたいな、よく分からない立ち位置で。でも、前ほど怒られなくもなってはいて、それで何となく「谷口“で”良いんじゃないの?」となったんです。

 

5. Mr.Childrenマネージャーとしての重圧と喜び

谷口 和弘 氏 株式会社エンジン 代表取締役

−− ミスチルのマネージャーというと、3〜4人いそうなイメージですけどね。

谷口:当時はチーフと僕の2人、それとトイズの方が助けてくれていたんですが、チーフが抜けて自分がやることになったときは、本当に1人でした。でも、そんなに経験もないタイアップの話とかくると、小林さんに話を上げる前に自分がどういう話かを訊いて、小林さんが判断するという流れだったので、打ち合わせに行くと、クライアントさんや代理店の方々は「Mr.Childrenの話だから」と10人くらい居並ぶ中、私は1人で(笑)。

−− (笑)。

谷口:20代中盤の若造が1人で話を訊いて「舐められたらいかん!」と思っていましたから超偉そうにしましたね、無理に。そうじゃないと、その場にいられないくらいの緊張感があったんですよ。

−− 谷口さんご自身もその頃は今とは違う雰囲気でしたか?

谷口:全然違うと思います。人前でも余裕がなかったですから。

−− 今はすごく温和な印象ですけど。

谷口:本当に格好付けていました。「自分が舐められたらMr.Childrenが舐められる!」みたいな想いでいました。

−− 気負っていた?

谷口:思いっきり気負っていましたね。もう、嫌な奴だったと思います、本当に。「この若造、何も分かってないのに偉そうに」と思われていたんじゃないでしょうか。相手に余裕を与えないくらい厳しい顔をしながら話を訊いて、「これですぐに納得しちゃいかんな」と思いながら、とりあえず「分かりました。小林に確認します」みたいな感じですよね。向こうからしたら「だったら最初から小林さんを出せよ」と思っていると思うんですが、でも一応話を訊いて。それで、打ち合わせが終わったらハイエースに乗って、メンバーの家に行って、引っ越しの手伝いをやっている。

−− すごいギャップですね(笑)。

谷口:当時、自分1人で言っていたのは「タイアップから引っ越しまで」(笑)。偉そうな顔をして、代理店の方たちと打ち合わせをしながら、終わったら急いでハイエース運転して、タンスを運ぶという(笑)。その姿を代理店の人に見られたら「なんだあいつ」と思われるだろうと(笑)。本当にそんな感じでしたね。

−− 1人2役どころか3役4役って感じですね。

谷口:できてなかったところはまわりのみんなが補完してくれましたから、とりあえず形は整っていたと思うんですが、当時、他の方にしてもらっていることとかに思いを巡らす余裕すらないくらい視野が狭いというか…そんな感じでしたね。

−− 背負っているものが大きいから大変ですよね。Mr.Childrenのマネージャーとして、印象に残る出来事は何ですか? 例えば、悔しい思いとか、嬉しい思いとか。

谷口:嬉しい思いは、メンバーは絶対に覚えてないと思うんですが、2005年にMr.Childrenの「I ♥ U」というドームツアーがあったんですが、ドームなので公演はいわゆる5大都市だけなんですね。そのとき、夢番地さんが主催されている「SETSTOCK」という広島の夏フェスがあって、そちらにお誘いいただいたときに、ツアーとしては広島には行けないので、自分としては「出た方が良いだろう」という思いを小林さんに何となく伝えていたんです。それで、小林さんは「へー、そういうイベントがあるんだ。それで、出た方が良いと思っているんだね」と。

「ドームツアーですから、中国・四国地方に顔は出せない。だから、ここで大きなイベントに出ておくのは良いと思うんですよね」と、何気ない意見ですよね。それで、レコーディング中に小林さんが「谷口がこんなこと言っていたよ」とそのことをメンバーに話したようで、メンバーも「じゃあ出ようか」とその場で決まったみたいなんです。それで、私がスタジオに入っていったら、「さっきの話、メンバーにしておいたから。あの広島のイベントだよ」と。メンバーも「出ようよ。お前は出た方が良いと思うんでしょう?」と言ってくれたときに、何か1つ認められたのかなと思いましたね。メンバーと小林さんも含め、もう絶対に覚えていない何気ないワンシーンでしょうけど、自分にとっては、何か自分が言ったことに対してメンバーが「お前が言うなら良いんじゃないの?」って言ってくれたことが本当に嬉しくて、嬉しくて。

−− そういう何気ないワンシーンって鮮明に覚えているものですよね。

谷口:今でもその当時の光景が思い出されるくらい、自分にとってはものすごく嬉しい出来事でしたね。年月かけて、ここまで来たなという感じはありました。メンバーは何気なく言ったんだと思いますし、本当は軽い冗談だったのかもしれないですしね(笑)。

−− いやいや、そんなことないでしょう(笑)。

谷口:自分がMr.Childrenのマネージャーをやることになったときに、歳は2つ上ですが同時期にトイズファクトリーに入った、今、執行役員の友永賢治さんという方がいて、2人で一緒にMr.Childrenをやり始めたんですが、そのときに「みんなが遺してきたものじゃない何かを自分たちでもきちんと作りたいよね」と話し合っていました。当時、シングルがなかなか100万枚売れなくなっていた時代でしたし、自分たちも100万枚というのを経験してないから、「100万枚売ってみよう」と目標を立てました。

それで、100万枚売るにはどうしたら良いんだろうと色々考えて、タイアップを4つ付けて、「四次元 Four Dimensions」という4曲それぞれをA面扱いとしたシングルを出したら、100万枚を超えたんです。自分と友永さんはそれが嬉しくて、これをどのタイミングでメンバーに発表しようかと思って、当時、アミューズさんがやられた「THE 夢人島 Fes.」という、桑田佳祐さんや福山雅治さんが出たイベントがあって、それにMr.Childrenが呼ばれたんですが、会場が浜松だったのでバスで行ったんですよ。その帰りのバスの中で友永さんと「『四次元』100万枚超えましたー!」と言ったら、みんな「エーッ!」ってなってくれるかなと思ったら、「へー」という反応で(笑)。

−− 反応が薄い(笑)。

谷口:もう300万枚とか売っている人たちだから、そうかと(笑)。もちろん喜んではくれていましたが、私と友永さんほどの喜びはなく「へー」と。

−− そのときに「この人たちは300万枚売った人なんだ」と(笑)。

谷口:改めてすごいなと思いましたね。もうひとつ2人でやりたいと思っていたのは返り咲きの1位獲得で、それはドラマ『14才の母』の主題歌になった『しるし』で達成しました。タイアップを取るところからはじまって、すごく良い曲でしたからプロデューサーと一緒になって、この曲の生かし方を一生懸命考えて、メンバーも『しるし』という曲を売ることにすごく協力してくれて、年始1発目、チャート1位に返り咲いたんです。これもまたすごく嬉しくて、年始にスタジオかどこかで集まって、レコーディングを始めるとなったときに、また喜んで発表に言ったら、「へー」と言われたという(笑)。そりゃ何回も返り咲いているわと…(笑)。

−− (笑)。

谷口:そうやって、昔のことには追いつけないですけれど、1つずつ自分たちがやりたいなと思ったことを、メンバーの協力もあって、積み上げていくことができたなと思います。

−− 何をすればメンバーは腰を抜かすほど驚くんですかね。

谷口:今300万枚売ったらさすがに「オーッ」となると思いますけどね。いやー、なかなか手強い相手だなと思います。

 

6. “サッカーの上手いやつ”として現れたナオト・インティライミ

−− 現在、谷口さんはMr.Childrenとナオト・インティライミさんのマネージャーをされているそうですが、ナオトさんとはどうやって知り合われたんですか?

谷口:ナオトともこれまたサッカーで知り合っているんですよ。

−− 人生の節目節目にサッカーが出てきますね。

谷口:そうなんです。桜井が元Jリーガーとかが集まるような草サッカーチームに所属していて、そこにナオトがやってきたんです。そもそもナオトは柏レイソルのジュニアユースでプレーしていたりサッカーを一所懸命やっていたんですね。それで桜井が「気のいい面白いあんちゃんだから」と、当時、私たちがOORONG-SHAでやっていたサッカーチームにナオトを連れてきたんです。

−− サッカー要員として連れてきた?

谷口:「サッカーの上手いやつ」だと。ミュージシャンとも何とも言われずに来ていて。それで一緒にサッカーをやりながら喋っていました。それで、ある日どこかから「1人アーティストを紹介したいんだけど、マネージメントを考えてくれないか?」と言われて、資料を見せられたら「あれ? こいつって…サッカーやっている?」と訊いたら、「あー、やっています、やっています」と。それで「俺、こいつ知っている!」と。

−− (笑)。

谷口:「彼とはサッカーを通じて仲良いよ」となって、ナオトと改めて会うことになったんです。それで、2人で会って話してみたら、気も合って、ずいぶん話し込みました。その当時、ナオトは他社さまの育成契約でやっていたんですが、その契約も切れそうみたいなときで、「俺がお前のことを何とかするわ」と。ただ、当時歌っていた歌というものに対して「これは売れる!」と思ったわけではなくて、「とにかく人の良い奴だから、こいつを助けてやりたい」という思いだったんです。

−− 初対面のサッカーのとき、ナオトさんは自分が歌をやっていると言わなかったんですか?

谷口:言わなかったんですよ。それで、彼の歌っている曲を聴かせてもらったんですが、当時は彼も1人でやっていたから、誰の意見も訊くことなく、自分できちっと曲を書いて、アレンジするから、簡単に言うと曲がくどいんですよ。あれもこれも詰め込んでいて、「なかなか暑苦しい感じになっているな」というのが率直な感想でした。また、OORONG-SHAの成り立ちとして、アーティストをやるとなると、小林さんの決済が必要だと。でも、スタッフを雇うのは、ある程度現場の裁量に任されるから、ナオトは最初、マネージャーみたいなことをやりながら、でもアーティスト活動もやって良いよ、みたいなところから始めようと提案したんです。

−− え、そんな形で始めようとしていたんですか?

谷口:そうしないとあいつの生活を助けてやれないなと思ったんですよね。要は、自分の裁量で人を雇うとしたら、マネージャー的な動きをさせないことには給料を出せなかったんです。ナオトも「いやー、アーティストやりたいんですけどね」と言いつつ、「アーティストもやって良いというお話だったら…やってみます」と言っていたんです。それで始めようとしていたくらいに、桜井から電話がかかってきて、「次のツアーなんだけど、コーラスをナオトにやらせたいんだけど」と言うんですよ。

−− これまた凄いタイミングですね。

谷口:「あらー」と思って、それで「実はこういう話をナオトとしていて…」と言ったら、桜井が「それは丁度良い。ナオトにやらせよう」と。それで「ナオトのことは面倒見てやってね」と言われて、それで、桜井もこう言っているしということで、マネージャーという話は一瞬あったけれど、ずっとツアーを回るならちゃんとしたアーティストとして回ろうよということになって、小林さんも「桜井がそう言って、ツアーに帯同するんだったら、アーティストとしてやってみれば」というので、始めさせてもらったんですね。

−− なるほど。

谷口:小林さんもそのときはただ「ミスチルのコーラスのお兄ちゃん」と思っていたと思います。そこで、OORONG-SHAでは初めて小林さんがプロデュースしないアーティストが偶然のように生まれたんですね。「お前の考えるようにやれば」と小林さんからも言われました。

その後、藤倉さんと出会い、ヒット曲と言われるものはまだないですけれども、一般の方々に認知もされ、ある程度大きなところでライブもできるようになっていきました。そこからだんだんと自分の裁量でもっと色んなことを決めて動かしていきたいと思い始めたんですね。下についている子たちの責任も含めて、自分で見ながらやりたいなと。

 

7. 自分で全責任を負って何かをやれる環境作り〜株式会社エンジン設立

谷口 和弘 氏 株式会社エンジン 代表取締役

−− 自分で責任を負って仕事をしたいという想いから独立を考え始めたと。

谷口:そうですね。ナオトのプロジェクトを立ち上げて約5年、Mr.Childrenに携わらせてもらってからは10数年という時間を経て、大小良いも悪いもさまざまな経験を積み重ねてきた中で、「こういう想いで自分は今の立場から離れて、新たに別の形で自分はやっていこうと思います」ということをナオト、Mr.Childrenのメンバーに相談させてもらったんですが、「それなら一緒にやってみようよ」という方向になって。自分としては3〜4人でどこか小さな場所を借りて、というくらいのイメージでいたので、ちょっとそこまでの想像は出来ていなかったのですが…。

−− Mr.Childrenも来てくれるとは思ってもいなかった?

谷口:全く思っていなかったですね。やはり、小林さんとメンバーの今まで積み上げてきた歴史があまりにも大きいですし、Mr.ChildrenがOORONG-SHAや小林武史さんのプロデュースを外れるということ自体がもう想像できませんでしたし。世間のみなさんもそんな感じだったと思うんですよね。ただ、メンバーも「もう一度、一から自分たちでやってみたい」と思っていたタイミングと、自分が話をしたタイミングが偶然合ったんじゃないかな…、と今となれば思います。

もちろん自分たちの意思だけで決められるような物事ではありませんので、小林さんともお話させていただいたんですが、「彼らがそうやって新しいことにチャレンジしていきたい気持ちは分かる」と仰ってくれたんですね。「分かった。やってみたら良いんじゃないか」と。だから、あんまりもめたとかどうこうは一切無くて、それが2014年の年始で、5月にエンジンを設立したんですが、それまでに小林さんと何度か話し合いを重ねて、お互いにとってのいい形を見出していきました。

−− 外から拝見すると、OORONG-SHAからのれん分けしたようなイメージに見えました。

谷口:そうですね。実際喧嘩別れをしたわけでもないですし、話し合いを重ねていく中でそういうふうにするのが良いですよね、というコンセンサスもあって、あのような形になりました。自分としても、ただただ自分で全責任を負って、何かをやれる環境で頑張っていきたい、というような思いからだったので、こういった流れでの会社設立が出来たことは非常にありがたかったですね。

−− そうやって理解してもらった上で会社を設立できたのは本当に良かったですよね。

谷口:他の事務所だったらなかなかそんな上手くは行かないと思うので、それに関しても本当に感謝しています。このオフィスも、もともとはOORONG-SHAの映像部が入っていたんですね。そこに小林さんの計らいで入らせてもらったんです。「最初は会社に信用もないだろうから」と。OORONG-SHAもすぐそこなので、いつでも行き来できますし。

−− 今でも小林さんとの交流は結構あるんですか?

谷口:ええ。熊本地震があったときに、地震の一週間後くらいでしょうかMr.Childrenのツアーで宮崎から佐賀への移動日が1日あったので、自分はツアースタッフを何人か連れて、ボランティアセンターへ行って、瓦礫の撤去のお手伝いをさせてもらったんですよ。それが終わった頃に、小林さんが熊本に来てap bankの活動で炊き出しをやっているというから、小林さんに電話して「手伝いに行きますよ」と言ったら、「本当?じゃあ、おいでよ」と。それで小林さんが炊き出しをしているベースへ行って、小林さんがタマネギの皮を剥き、私がその横でタマネギを切るみたいなことを2人横並びでやっていました(笑)。

−− いいですね。

谷口:それで一緒にカレーを作って、小林さんが「炊き出し行ってくるわ」と言うから、「俺らも最後まで手伝いますよ」と2人で避難されている方々の所に行って、一緒にカレーを配って。

小林さんはやっぱり色々と経験されている方ですし、そういうお話を訊かせてもらうのは本当に勉強になります。あと、「小林さんも当時OORONG-SHAでこんなことに悩んでいたんだろうな」ということを今でこそ分かるようになってきましたし、また、そういったことに関して小林さんと話をしたら面白いんだろうなと思いますね。

 

8. 一日でも長くアーティスト活動を続けられるように寄り添っていく

−− 「エンジン」という社名にはどういった意味が込められているんですか?

谷口:みんなサッカーが好きなので、試合前にチーム一丸となって円陣を組むという「円陣」と、それを組むのが縁のある人々だなと思っていて、縁のある人と書いて「縁人」。そしてそれらが回って動力=「エンジン」として動いていくという、3つの意味が込められています。

名前を決めるとき、最初にパッと「エンジン」という名前が出てきて、みんな「いいね!」となったんですが、最初にそれが出て来たものですから「…いや本当にこれで良いのか?」という気分にもなって、2〜3ヶ月あーでもない、こーでもない色々考えて、やっぱりエンジンに戻ってきたんです(笑)。

−− 独立されて、例えば精神的に何か変わったことはありますか?

谷口:やはりプレッシャーは大きいです。あと、代表になると、内側だけでなく、とにかく色々なものを見なくてはいけないんだなという大変さは感じます。人との付き合い方も色々と変わりますしね。もしかしたら、まだ大変さすらも分かっていないのかもしれません。今はただ我武者羅にという感じですね。

−− やはり人と会う機会は増えましたか?

谷口:はい。積極的に色々な方々にご挨拶するようにしています。新しい会社をこんな若造がやっているものですから、業界の先輩方にも知っていただかないといけないなと思っていますし、「こういう男がやっているんです」というのを分かっていただきたいんですよね。何と言いますか…「あそこの会社ってMr.Childrenがいるけど、一体どういう会社なの?」という、不気味なものにはなりたくないと思っているんです。

−− このインタビューが良い機会になれば。

谷口:そうですね。色々な方々にご挨拶させていただいて、ありがたいことに「お食事いかがですか?」とお誘いしていただけることも多いです。そういう機会は結構増えましたね。

−− 谷口さんの当面の目標というのは何でしょうか?

谷口:当面の目標は会社をちゃんと続けていくということだと思います。本当にそれに尽きると思います。

−− Mr.Childrenやナオト・インティライミさんに対してはどうですか?

谷口: 「1日でも長くMr.Childrenでいられるようにする」ということだと思いますし、「ナオト・インティライミでいられるようにする」ということかと思います。大きな何かというよりは、日々の中で、とにかく彼らが生涯現役でいられることを念頭に置いて仕事をしていきたいと思っています。

−− 活動を続けられるような状況を作っていく。

谷口:時には大きく、また、時には細かい動きをしてみたりしていかなければと思っています。これは小林さんに教えて貰ったマネージメントの極意みたいなものです。小林さんが極意と思って話されたか分からないですが(笑)、数年前に「マネージメントをやっていく上で、Mr.Childrenが大きくなってくると、もう永遠に緩急をつけていくしかないんだよ」と仰ったんです。

ずっと、大きいことばかりをやってもダメ、ファンに近づいていくことだけをやってもダメで、時にはファンから離れる。そして小さなことをやってみる。そうしたらまた大きいことをやる。この緩急をうまいことをつけてやっていくというのが、マネージメントの仕事だと。多分、小林さんはマネージメントというかプロデュースという意味で仰っていたと思うんですが、それを言われたときに、すごく納得できたんです。それを胸に日々仕事をして、1日でも長くMr.Children、ナオト・インティライミでいられるように、会社としても体制を整えていくというのが目標ですね。

−− 今後、新しいアーティストを手がけられる予定はありますか?

谷口:やってみたいなとは思いますが、自分が、というよりも、ウチの若い社員が1つのアーティストと一緒になって、ブレイクスルーしていくという体験をしてもらいたいなという思いはありますので、その手伝いができたらいいですね。もう、特定のアーティストにどっぷりハマってというのはなかなかできないと思いますし。

−− 近年、アーティストの寿命がすごく延びているじゃないですか? Mr.Childrenも50、60になっても、偉大なバンドであり続けるだろうと私は思っています。

谷口:ありがとうございます。ただ、彼らも「これからどうやっていこうか」と日々悩んでいますし、ストレスもあります。みなさんからは「ミスチルは安泰でずっと続いていくだろう」と思われがちですが、彼らなりの葛藤はやっぱりたくさんあるんです。僕らとしても、大きな存在である彼らに甘えるばかりになるのではなく、プロとして、パートナーとして、彼らが抱えるそういうものにきちんと寄り添って考えていけたらと思っています。

−− 本日はお忙しい中、ありがとうございました。谷口さんの益々のご活躍をお祈りしております。

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