第220回 「OSAKA GIGANTIC MUSIC FESTIVAL(ジャイガ)」プロデューサー キョードー関西 執行役員 川上慎介氏【前半】

今回の「Musicman’s RELAY」はHEADLINE代表取締役・岸本優二さんのご紹介で、「OSAKA GIGANTIC MUSIC FESTIVAL(通称:ジャイガ)」のプロデューサーである、キョードー関西・執行役員 川上慎介さんの登場です。
高校時代からバンド活動に没頭し、大学卒業後の2005年にキョードー大阪に入社。2017年に音楽フェス・ジャイガを立ち上げた川上氏に音楽との出会いから現在のキャリア、そして関西の音楽シーンの未来まで、幅広く語っていただいた。
(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也、Musicman編集長 榎本幹朗)
関西の音楽シーンは人と人との繋がりが強い
──ご紹介いただいた岸本さんとのご関係は?
川上:岸本さんのことは「ゆーじさん」って呼んでいるんですけど、実は僕が大学生の時にやっていたバンドが、当時ゆ−じさんが店長をしていた大阪市福島にある「2nd LINE」というライブハウスに出演していたんです。多分、ゆーじさんは覚えてないと思いますけどね(笑)。その後、僕はキョードー大阪に入って、再び仕事でご一緒するようになりました。
今は「OSAKA GIGANTIC MUSIC FESTIVAL(通称:ジャイガ)」というフェスをやっているんですけど、そこの舞台制作も手伝ってもらったりしています。キョードーとしても、「SUMMER SONIC」や「RADIO CRAZY」などの大きなイベントでも常にご一緒している関係ですね。
──前々回のFM802の今江(元紀)さん、前回の岸本さんとの繋がりから、関西の音楽シーンでは色々な業界の方が繋がっているんですね。
川上:そうですね。特に関西の音楽シーンはそういった人と人との繋がりが特に強いと思います。ゆーじさんは若いバンドをすごく応援されていて、「KANSAI LOVERS」という関西のバンドにスポットを当てて全国に発信していこう、というイベントを20年ぐらい続けていて尊敬している先輩の一人になりますね。
バンド活動から音楽業界へ
──わかりました。では、ここからは川上さんご自身のお話しを。ご出身は関西の方ですか?
川上:生まれは岡山なんですが、両親の仕事の関係ですぐに大阪に来て、ずっと大阪で育ちました。具体的には交野市という、奈良と京都が近い場所になりますね。枚方のちょっと下のあたりで、生駒に接している場所なのですぐに奈良に行けるんです。そこで小・中・高と過ごして、大学も京都の大学に進みました。
──ご家庭では今のお仕事に繋がるような環境はありましたか?
川上:両親の影響というのは全くなかったですね。父は高校の体育教師でサッカー部の監督をやっていて、母はいろんな仕事をしていたんですが、僕が社会人になってから看護師になったんです。驚くことに50代から学校に行って、今は看護師として働いています。若い学生に混じって実習をしたり、かなり大変な道のりだったと思いますが、新しいことに挑戦する姿勢は母から学んだ部分があるかもしれません。
──素晴らしいチャレンジ精神ですね。学生時代に何か打ち込んでいたことなどは?
川上:父がサッカー部の監督をやっていたので、気づいたらサッカーチームに入れさせられて高校までずっとサッカーをやっていました。でも音楽にも興味が出てきて、高校2年くらいからバンドも始めて、徐々にサッカーよりバンド活動が中心になっていきましたね。あと弟が一人いるんですが、僕と全く逆で技術職に就いています。車やバイクが好きで、自分とは違い細かい修理なども得意ですね。
──同じ親から生まれたのに、見事に文系と理系に分かれましたね(笑)。バンドを始めた時にはどんな音楽を聴いていたんですか?
川上:Hi-STANDARD、BACK DROP BOMB、SKA SKA CLUBとかPOTSHOT、そこに加えて当時インディーズレーベルのLimited Records所属のバンドにはかなり影響を受けましたね。
──バンドの担当は?
川上:ギターを少しやっていたんですが、あまり上手ではなかったのでボーカルを担当していました。当時流行っていたスカパンクの影響で、ボーカル、ギター、ベース、ドラム、それにホーンセクション2人を加えた6人編成で。
──大所帯ですね。そのバンドはいつまで続いたんですか?
川上:高校時代に組んだバンドは大学2回生くらいまで続いたんですけど、その後解散して、また新しいバンドを組んだりしていました。当時は大きなフェスに出たいと思って頑張っていましたが、「どうやったらフェスに出られるんだろう?」と思っていましたね。今は大きなフェスでもオーディションを開催していますが、当時はそういったものがほとんど無かったので・・・。
バンド活動を続けている内に音楽業界の裏方、特にライブの会社が好きだったので、いざ就職活動を始める時にそういう方面に進みたいと思うようになりましたが、まさか自分がイベントを運営する側になるとは当時は思ってもみませんでしたね(笑)。
母の一言からキョードー大阪に入社
──大学はどんな学部を専攻していたんですか?
川上:経済学部で。ただ、バンド活動が忙しくて卒業はギリギリでした・・・。普通は3回生の後半くらいで就職先が決まりますが、僕は4回生のギリギリまでかかったので内定が決まってからも学校に通っていました。卒業論文を書かなくてもいいゼミに入ったので何とか助かったって感じです。
──それは運が良かったですね(笑)。就職活動はどうされたんですか?
川上:音楽関係の仕事がしたくて就活をしていたので、実は別の会社に内々定をもらっていたんです。でも9月頃に、母が新聞の求人欄でキョードー大阪の募集を見つけて「あんた、この会社に興味あるって言ってたよね」と新聞の切り抜きを持ってきてくれたんです。母の勧めもあって受けてみたら、まさかそこを通ることになって「すみません」と他社を断って、キョードー大阪に入社することになりました。今思えば、母の一言がなければ全く違う人生を歩んでいたかもしれません。
──お母さんからのナイスパスで(笑)。採用試験はどんな感じでしたか?
川上:現在の採用とは異なるんですが、僕が入社した時ですと最初は原稿用紙に志望動機を書いて送るんです。それが今の書類選考みたいな形でした。その後の筆記試験は全然ダメだった感覚があったんですが、おそらく、僕を推してくれる上司の方がいてくれたおかげで採用をいただけました。当時は僕を含めて同期が6人くらい入社したんですが、現在残っているのは僕だけです。
──入社時の雰囲気はどんな感じだったんですか?
川上:現在のキョードー関西グループはいくつか会社があるのですが、当時は部署がたくさんありました。最初に担当したのはソニーのレーベル「DefSTAR Records」に所属していた平川地一丁目という兄弟ユニットと、芸人のバナナマンのお笑いライブでした。
バナナマンは東京ではすでに人気がありましたが、大阪では当時そこまで知られていなかったのでご飯を一緒に食べていた時に「大阪の畑を荒らして大丈夫か?」みたいなことを言われたのを覚えています(笑)。その後、以前リレーインタビューに出ていた鶴田(武志)さんと出会ってUVERworldのイベンターとして担当するようになりました。
キョードーはすごく柔軟な会社
──順調な出だしですね。入社は2005年になるんですか?
川上:そうです。UVERworldがちょうどメジャーデビューした時、僕も入社1年目でメンバーとも年齢が近かったこともあって、最初は現場の担当をさせてもらっていましたね。あれから20年近くずっと一緒にやっています。
──長いお付き合いになるんですね。
川上:そうですね!ずっとお世話になっています。アーティストとして本当にプロフェッショナルですね。
──初めからバンド系を担当していたんですか?
川上:実は最初に配属されたのは「SUMMER SONIC」をやっている洋楽の部署で、入社が決まってから実際に入るまでの半年くらい、大学生のアルバイトという形で働いていました。
当時の代表から「週3でも良いから来た方が良いよ」と言われて、単位もギリギリの中で大学に通いながら、10時から18時までキョードーで働き、休みの日には大学に行って授業を受けていたんですが、いざ正式配属になったときに突然部署が変わり、お笑いとJ-ROCK・J-POPを担当する部署に行くことになって(笑)。
──(笑)。キョードー大阪は主に邦楽が中心になるんですか?
川上:現在は主に邦楽中心の部署で働いていますが、洋楽も担当しています。「SUMMER SONIC」の大阪はクリエイティブマンさんと一緒に制作していますね。
あとキョードーは堅そうな会社に見えて、すごく柔軟な会社なんですよ。責任も大きくのっかりますが、提案すれば色々なことができる環境があって、僕自身がフェスをやっているほかにも、食フェスをやっている人や、新人イベントをやっている人、展覧会をやっている人・・・さらには演劇チームもあったり。
──毎日が文化祭の出し物を作っているような感じですね。川上さんご自身はどういった仕事がメインになるんですか?
川上:僕自身は洋楽の担当はほとんどなくて、邦楽のバンドを担当することが多いですね。以前はアイドルなども担当していましたし、典型的なコンサートプロモーターの仕事になると思います。
年間でいうと200本くらいのライブやイベントに関わっていて、会社全体では年間4500本ほどのイベントを手掛けています。(取材当日から)明日からも4日連続でイベントがあって、ずっと現場に出ているような状況ですね。
──お仕事の内容的に仕方の無いことですが、なかなかハードなスケジュールですね・・・。
川上:ただ入社当時と違って今はたくさんのスタッフもいるので、少しずつ休みながらやれるようになってきました。若い頃はとにかく現場に出ることが多かったですが、仕事を考える時間も必要ですからね。すべての現場に行ってしまうと、新しいアイデアを考える時間がなくなってしまうので、今はバランスを取りながら仕事をしています。
段々と時間も取れるようになったので、2017年に「WEST GIGANTIC CITYLAND(後の「OSAKA GIGANTIC MUSIC FESTIVAL」)も立ち上げることに繋がりました。
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第220回 「OSAKA GIGANTIC MUSIC FESTIVAL(ジャイガ)」プロデューサー キョードー関西 執行役員 川上慎介氏【後半】
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