第194回 クレイジーケンバンド 横山剣氏インタビュー【前半】

インタビュー リレーインタビュー

横山剣氏

今回の「Musicman’s RELAY」はローソンエンタテインメント 小松正人さんからのご紹介で、クレイジーケンバンド 横山剣さんのご登場です。横浜でまさに“クレイジー”な少年時代を過ごした横山さんは、音楽やモータースポーツに熱中。頭に湧き上がる音楽を次々と録音していきます。

やがてレーサーへの憧れとともに作曲家を志し、クールスのボーカル&作曲家としてデビュー。ダックテイルズやCK’S等を経て、“東洋一のサウンドマシーン”クレイジーケンバンドを結成します。今回はダブルジョイレコード代表の萩野知明さんにも加わって頂き、現在も衰え知らずの創作力を見せつけている横山さんに、その数奇なキャリアや曲作りの源泉についてたっぷり伺いました。

(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦 取材日:2022年7月4日)

 

ちょっと変なことをすると人はどういう反応をするんだろう?

──横山剣さんは横浜のご出身と伺っていますが、横浜のどのあたりですか?

横山:中区の本牧です。

──どのようなご家庭だったんでしょうか?

横山:父親はテレビのタイトルテロップとかを書く美術の仕事をやっていまして、最初はNHKにいたんですが辞めてTBSへ行って、その後、TBSから独立して赤坂に自分の会社を起こしました。その関係で、家は横浜ですけど、赤坂にはよく行っていました。

──ご兄弟は?

横山:父親は私の母親の前に奥さんがいて、その奥さんとの間に僕の腹違いの姉がいて、私の母親と離婚したあとに、若いきれいな奥さんと結婚して、そこに腹違いの妹がいて・・・他にもいるかもしれませんが、詳しいことはよくわからないです(笑)。一番上のお姉さんと会ったことがないんですよね。妹とはいまだに仲がいいんですけど。

──お父さん、モテるんですね。

横山:なんかモテましたね。プレイボーイでした(笑)。

──ということはお母さんと2人の時間が長かった?

横山:そうですね。父親が帰ってこないときも多かったので。離婚する前も朝帰りとか何日も帰ってこないとか。嘘じゃなくて、実際に明け方まで仕事をしていたときもありましたけど、そんな感じで父親と過ごした時間はあまり多くなかったですね。

ただ、母親と離婚をしたあとに事業がうまくいって、海外旅行へ連れて行ってくれたんですよ。ロスやハワイ、ラスベガス、サンフランシスコとか、10日間のすごい弾丸旅行で(笑)。それが11歳のときです。1ドル360円の頃。そのすぐあとに父親は韓国・ソウルの明洞に現地法人を作ったので、韓国まで会いに行ったりもしましたね。それが少年時代の海外旅行の想い出です。

──ずっと横浜の本牧に住んでいたんですか?

横山:はい、0歳から本牧の隣の本郷町で、3歳から本牧、5歳ぐらいから日吉に引っ越し、そのあと12歳で横浜ドリームランドという遊園地の横の団地に引っ越しました。そのときに母親が横山という人と再婚して、苗字が田寺から高田を経て横山に変わったのが中1ですね。それで横浜市立大正中学という中学に通うようになりました。

──横山さんはどんな少年だったんですか?

横山:今は「クレイジーケン」というあだ名なんですけど、小学校当時は「キ○ガイ田寺」というあだ名で(笑)。

──(笑)。

横山:のちにダックテイルズというバンドに入るんですが、僕が入る前の初代ダックテイルズのメンバーの坪井さん(リッキー坪井)という人が、僕が本牧から日吉に引っ越して最初に出会った人で、その人が「キ○ガイ田寺」というあだ名をつけたんです。

──なんでまた「キ○ガイ田寺」になっちゃったんですか?

横山:近所に肥溜めがあって、表面が堅そうに見えたから「これ、乗って大丈夫じゃないか?」と思って、乗ってみたらズブズブズブって(笑)。当時僕は5歳、坪井さんは1個上の6歳で、一緒に数名いたんですけど、みんな逃げちゃって、それでうんこまみれで家に帰ってきたんです。

──肥溜めの底に足はついたんですか?

横山:足はつかないですね。底なし沼みたいにどんどん吸い込まれていく感じで。結局、木につかまってなんとか這い上がれたんですけど。

──危機一髪ですね。一歩間違えたらそこで…。

横山:そうなんです。なので日吉にはいい思い出がなくて。第一印象がそれだったので(笑)。

──武勇伝・・・とはちょっと違いますね。

横山:違いますねえ。もう本当に屈辱的なエピソードで。

──そのあと大変でしょう?お風呂で洗ったり。

横山:そうなんですよ。もうなにをやってもなかなか臭いが抜けないし、母親には怒られるしで踏んだり蹴ったりでした。そんなことから始まり、あと「エンピツの芯を食った」とか、あることないこと色々言われて(笑)。確かにおちんちん丸出しで歩いたりとか、そういうのが好きな子供だったんですけど(笑)。

──(笑)。

横山:目立ちたいとかじゃなくて「ちょっと変なことをすると人はどういう反応をするんだろう?」みたいな実験ですね。それでちょっと頭のおかしい人のフリをして反応が見たかったんです。でも「それが平気でできるってやっぱり頭おかしいよ」って言われて、ついたあだ名が「キ○ガイ田寺」になったんです。

ほかにもエピソードはいろいろあるんですけど、「トーテムポール事件」といって、小学5年生のときに6年生を送る会みたいなのがあって、校長先生が朝礼台でしゃべっている横で、僕がおしゃべりしていたのかなにかで先生に注意されて立たされたんです。それで「なんで俺こんなところに立ってなきゃいけないのか」と思っていたときに校長先生が「このトーテムポールは6年生の人たちが一生懸命作ってくれました」って話していて、「よし、これを全部抜いちゃえ。そうすれば気が晴れる」と思って全部抜いて(笑)。

──校長の横で!?

横山:横で(笑)。

──ひどいですね(笑)。

横山:あと野球が苦手だったんですが、なぜか奇跡的にホームランを打っちゃったときがあったんですよ。でも、そのことに頭にきて、塁を回らないでそのまま家に帰っちゃったり(笑)。

──なんでホームランを打って頭にきたんですか?

横山:野球をやるたびにいつも「お前、なにやってんだよ!」って怒られていたんですよね。そもそも、なぜ怒られているのかもわからないんですけど、球持って追いかけられて「アウト!いまのダブルプレイ」とか(笑)。

──(笑)。ルールがよくわかっていない?

横山:そう、ルールがわからない。それで野球をやると必ず嫌な目に会っていたんですけど、そのときはたまたま上手くいったので、仕返しとばかりにホームランを打ったあとにさっさと帰っちゃいました。

 

鍵盤を見ていたら弾ける気がした~作曲に熱中する日々

──そんな風変わりな少年が、音楽をやりたいと思ってやったら、レコードから聞き取った和音をいきなり弾けたそうですね。なぜそんなことができたんですか?

横山:なんでですかね?レクリエーション会があって、僕は当時好きだった尾崎紀世彦の『また逢う日まで』を歌おうと思って、クラシックピアノがすごく上手な女の子に伴奏を頼んだんです。それでレコードをかけて「この音をとってくれる?」と頼んだら「譜面がないととれない」っていうんですよ。「なんで?だってこの音はこれとこれとこれでしょう?」って弾いたら「なんでわかるの?」って(笑)。「だってその音してるじゃん」と言ったら「わからない」と言われて、すごく驚いたんですよね。

──わからないことがわからない。

横山:そう、わからないことがこっちにはわからない。「だってどう聴いてもこの音を構成しているのはこれとこれとこれじゃん」って。なんか合っていたらしいんですけど。

──実はクラシック系の人ってそういうのが多いですよね。

横山:そうですね。ジャズピアノの人だともうちょっと感覚的な感じがしますね。僕も鍵盤を見ていたら弾ける感じして、実際に弾けたみたいな。なんで弾けるのかいまだにわからないですけど。

──そのあと練習したとかは特にないんですか?

横山:人前でやるときは多少やりましたけどね。「CRAZY鍵盤ショー」というのをやっているんですが、そういうときは1回、2回やりますけど。今日もラジオを収録したときに鍵盤を弾いたんですが、なんで弾けるのかって、手が勝手に動くのでわからないんです。

──要するに・・・天才なんじゃないですかね?そんな人はあまりいないですよ。

横山:その分、小5から全然進歩してない(笑)。うちのメンバーだと、ベースの(洞口)信也くんがそういう人で、信也くんは譜面をほとんど読まないんですけど、やっぱり勝手に手が動くタイプなんです。

──耳で聴いたら手が動く。

横山:そうですね。自己流でやるのが得意なんです。ギターの小野瀬さんの場合は聴いたものをその場で譜面にできるという。そういうメンバーがいるので理解してもらえるんですよね。

──3人が揃うとセッションで簡単に曲が成り立ちますね。実際にそうやって曲ができあがったりするんですか?

横山:そうですね。曲はもう頭の中にあるので、あとはアウトプットするだけなんですが、頭の中にあるものが100だとすると、どうしても自分の鍵盤では70ぐらいしか表現できなかったりするんです。なので、頭の中のイメージに最も近い、別の音楽を持ってきて「これの、この部分!」とか「この和音構成でお願いします」とか言ってやったりしています。

──すごいなあ。本当に頭の中でアレンジもほぼ完結しているってことですよね。

横山:ある程度は完成していますね。もちろん、完成してないときはしてないときでヘッドアレンジというか、空白になった部分をバンドで埋めるというのもありますけど、大概の場合アレンジは埋まっちゃっています。

──音楽って面白いなと思ったのも小学校のときですか?

横山:いや、もっと幼少から頭の中ではなんとなく音が鳴っていて、その中で覚えていたやつをCKBの曲のしたのも2曲あるんですが、“証拠物件”として実際に録音として残すようになったのは小学5年生くらいですね。

──証拠物件(笑)。

横山:楽器はおもちゃの鍵盤だったり、あとは音楽室のピアノや団地の集会所のピアノ、あと途中で親戚と一緒に住むようになってからは、そこの応接間にあったピアノを弾いて、カセットに録音して。いとこがギターを弾いていたので、音をとってギターで伴奏をつけてくれたりはするんですが、なんかスケールが違うというか「いや、その音じゃない」みたいなことが結構あったんですよね。それって、今で言うメジャー7やテンションコードとか、当時はもちろん名前もわからなかったですけど、そういうコードでやりたかったので「ルートは合っているんだけどなんか違う」とか文句ばかり言っていたら「じゃあ勝手にやれ!」って喧嘩になって(笑)。

──もうそこからずっと中毒のように作曲をしまくって。

横山:そうですね。作曲が大好きでしたね。前田憲男とプレイボーイズ『円楽のプレイボーイ講座12章』というレコードがあるんですが、僕はあのアルバムの恰好いい、ジャジーなプレザントが大好きで、本来あるメロディーを無視して、そこに勝手にメロディを乗っけて録音したりしていました。あのアルバムの雰囲気が、当時の僕が作りたいサウンドに一番近かったんですよね。

 

音楽家兼レーサーの三保敬太郎に憧れて

──すでに小学生のときに、フロントマンとしてステージに立つ側じゃなく、三保敬太郎みたいな存在になりたかったそうですね。

横山:そう、三保敬太郎になりたかったんです。実は音楽家になりたいというよりレーサーになりたくて、でも作曲もできるので、そのどちらも併せ持っていた三保敬太郎に憧れたんです。

──なるほど。

横山:僕は子供のくせに『11PM』を観るのが好きで(笑)、テーマ音楽はてっきり洋楽だと思っていたんですけど、三保敬太郎の曲だとわかって、しかもレーサーとしてシンガポールやマカオとかで走っていると分かって「格好いいな」と。実は、もともと母親がレーサーの追っかけまではいかないですけれど、レーサーが大好きな人だったんですよね。

──レーサーが好き?

横山:もちろんレースも好きですけど、最初はレーサーからなんですね。母親が「一緒にレーサーを見に行こう」と言って、飯倉のキャンティやホテルオークラのカフェの入口で待ち伏せしたりしていたんですよ。「生沢徹とかいるかな?」って。

──生沢徹、そのお名前久しぶりに聞きました(笑)。

横山:生沢徹、福澤幸雄、川合稔・・・そういうレーサーのインタビューとかが入っているレコードを買うと、バックがジャズだったりして、『11PM』の三保敬太郎的な要素が全部入っている感じがしたんです。まあ当時のレーサーって頑張ってなれるようなものでないですし、もう雲の上の存在というか、素直にスターとして憧れていました。

──あふれ出るメロディと車のサウンドは常に横山さんの頭の中にあったわけですね。

横山:そうですね。実は昨日も筑波サーキットでレースをやってきたんですが、自分も50代後半になってようやく音楽とレースを両立する男になれたという。

──その後、中学に行っても音楽と車に熱中していくわけですよね。

横山:音楽と車、バイクが好きで。小学校6年まで日吉の小学校にいたんですけど、中1から戸塚区に引っ越すタイミングで「変身しよう」と思って、髪の毛をスポーツ刈りにして柔道部に入ったんですね。

──引っ越したタイミングで過去を消したわけですね。

横山:消したんですけど、中2ぐらいからだんだんおかしくなってきたというか、中学でおかしいやつらといっぱい出会って(笑)、それで「毒瓦斯」(読み:どくガス)というチャリンコ暴走族を作って、そのチャリンコ暴走族のメンバーから選抜で「ライナーズ」ってバンドを組んだんですよ。

僕はチャリンコ暴走族ではリーダーなんですけど、バンドではボーヤというんですか、楽器を磨いたり運んだりお手伝いする担当で(笑)、「ドラム叩きたいな」と思って、バンドが休憩している間に叩かせてもらったりとかしたんですけど、ドラムには3人も候補がいたので番が回ってこなくて。

──レギュラーの座をつかめず。

横山:「もうやることないな」と思っていたら、ある日「歌を歌わない?」と言われたんですよ。そのバンドってギターのやつが歌っていたんですけど、今ひとつ歌が永ちゃん(矢沢永吉)とかジョニー(大倉)のようにならなくて、それで「ボーカルやれ」と言われ、仕方なくやったんですけど恥ずかしくて、下向いて小声で「君はファンキモンキーベイベー・・・」って(笑)。さすがにそれじゃダメだということで、みんなで横須賀のドブ板に行って、スイングトップと、キャッツアイというサングラスを買ってきたんですよ。それを身につけたらスイッチが入って、ロックンローラーとして歌えるようになったんです。

──コスプレしたら歌えるようになった。

横山:はい。頭にはポマードつけて。それが中2です。

──横山さんのボーカリストデビューは中2だったんですね。

横山:ただそれ以前に、小学校5年のときに中古レコードの屋台の実演販売というのをやっているんですよ。

──なんですか、それは(笑)。

横山:そういうおじさんがいたんですよ(笑)。僕はその屋台のすぐ横の、小谷君という同級生のお父さんがやっている植木屋さんを手伝っていたんですが、どうしてもおじさんの実演販売が気になって、休憩時間にそこばかり行っちゃうんです。

──実演販売というのは寅さんみたいなやつですか?

横山:そうです。いわゆる啖呵売ですよね。「虎は死して皮を留め人は死して名を残す」みたいなことを言ったり「三島のお仙、四谷からチャラチャラ流れる御茶ノ水、粋な姐ちゃん立小便ときた」みたいに言っているのを全部暗記して、ある日おじさんが油断した隙にバッとマイクをとってやったら「手伝え」と言われて(笑)、実演販売を手伝うようになったんです。それで、おじさんに「植木屋にちゃんと筋を通して、詫びを入れてこい」と言われて、小谷君のお父さんに「すみません、こういうことなのであっちに移籍します」と筋を通して、実演販売のほうに移籍しました。

──漫画のようですね(笑)。

横山:(笑)。実演販売のお給金はほとんどないんですが、段ボールいっぱいのレコードをもらえるという。これはお金よりうれしかったですね。

 

「この曲を使ってもらえませんか?」作曲家を目指し堀越学園入学

──高校はどちらに行かれたんですか?

横山:堀越学園に行ったんですけど、最初は高校に行かないで専門学校に行くか就職しようと思ったんですよ。でも中3のときにCMソングの作家になりたいなと急に思って、三ツ矢サイダーに電話して「曲を書かせてもらえませんか?」ってお願いしたら「いや、そんなこと言われましても」と言われて。

──言われた方も困っちゃいますよね(笑)。

横山:「こういうのはどこが担当しているんですか?」って聞いたら「多分、広告代理店じゃないでしょうかね」と。それで母親に「広告代理店ってなに?」って聞いたら「電通とか博報堂」と言ったので、今度は電通に電話して「曲使ってほしいんですけど、どうやったらそこに就職できますか?」って言ったら、また「そんなこと言われましても」って(笑)。

──(笑)。

横山:中卒では電通に入れないってことがわからなかったので(笑)。それで別れた実父がビクターレコードと取引があったので、ビクターに行けばなんとかなるかなと思って父親に連絡して「ビクターの人を紹介してほしい」と言ったら、「小松さんという人がいるから、そこを尋ねなさい」と言われて、それでデモテープを持って行って「この曲を使ってもらえませんか?」と言ったら、曲がいいとか悪いとかいう以前に「録音状態が悪すぎて、曲がわからない」って(笑)。ラインとかじゃなくて、テレコとテレコでピンポンダビングしていたので(笑)。それで「こんなのでも聴きなさい」っていろいろなレコードをもらったんです。

──とんでもない行動力ですね。思っていてもいきなりそこには行かないですよ。

横山:まあ、そうですよね。普通、俳優やタレント、歌手、バンドとかだったらオーディションというのがあるんですけど、作曲家のオーディションというのは、オーディションの情報誌を見ても『平凡』とかを見ても、どこにも載ってない。じゃあこれはもう直接電話するしかないと思ったんですよ。

──そこでビビったりしなかった?

横山:恥ずかしかったですけど、清水の舞台から飛び降りるような気持ちで行って。ビクターに関しては実父の知り合いで、子どものときに何度か会った覚えのある人だったので、その人に会うまではよかったんです。でも、その人は自分の部下の新田さんという人を私に押し付けてそのままどっか行っちゃった(笑)、そこからはアウェーな感じになったんですけどね。それで新田さんに「ダメだ」と言われている最中に、近くで堀越の制服を着た岩崎宏美さんが色紙にサインをしていたんです。その姿を見て「あ、堀越学園に入るという手があるな」と思ったんですよね。「堀越に行けば色々と仕事のあっせんをしてくれるに違いない」と勝手に思い込んだんですよ。

──堀越に入れば作曲家への道が開けると。

横山:新田さんが、歌手でタレントの紅屋おかめという女の子の入学願書を取りに堀越へ行くことになっていて、「お前も一緒に来る?」と言われたので「行きます」と。それで中野坂上で待ち合わせして願書を一緒に取りに行き、担当の先生に紹介されたので「堀越に入りたいのでよろしくお願いします」と言ったら「どこのプロダクションなの?」って(笑)。

──(笑)。

横山:「いや、自分1人で、フリーで作曲をやっています」って言ったら、「それじゃダメなんだよ。労働大臣のハンコがあるか、どこかの事務所の所属じゃないと」「あ、一応ビクターの紹介です」「いや、だから紹介じゃなくて」みたいに、なにを言ってもダメで「芸能コースには入れない」と言われたんです。そこで「他にどういうコースがあるんですか?」といったらAコースは大学進学の普通科、Bコースは就職って言うので「じゃあ就職コース」って言ったら「就職コースは簿記がある」と言われて「数字関係は全然ダメなんです」と(笑)。「だったらAコースを受験してみては?」と言われて、それで願書出して、受験してギリギリ入ったんです。同じ中学から3人ぐらい受けて僕だけ受かって。

──当時、学校の勉強は結構できたんですか?

横山:できなかったんですけど、毒瓦斯のメンバーで、夜遊びするために塾に入ったんですね(笑)。塾が終わったらゲームセンターに行くために。

──動機が不純ですね(笑)。

横山:そこはバカ同士「あいつにだけは負けなくない」「あんなバカには負けないぞ!」とみんな言っていたら、どんどん成績が上がっちゃって、1人は逗子開成というところに行ったんです。すごいバカだったのに。

──いやー、面白い話ですね。

横山:それで僕もあきらめていた高校進学が実現して。大概ツッパリって中卒、行っても高専がいいところなんですけど、僕らはなかなかの進学率でしたね。

──あいつには負けたくないと張り合って(笑)。

横山:そうなんです(笑)。その塾の中に三井さんという掃き溜めに鶴みたいな女の子がいで、その子が僕が作った曲を譜面にして、学校の音楽の先生に渡したら「これは本当に横山が作ったのか?嘘に決まっているだろう。あいつにこんな曲が作れるわけない」って(笑)。それって僕にとってはすごい褒め言葉で、けなされているのに「ありがとうございます!」って思いましたね(笑)。

──三井さんのおかげですね(笑)。

横山:本当に。それはうれしかったですね。ちなみにその塾はドリーム学習塾というんですけど、ドリームランド周辺にすべての街があって、スーパードリームというスーパーマーケットや、ドリーム銀座という商店街、ドリーム名画座、ドリーム小児科、ドリーム交通、ドリーム観光、ドリームオート、それで住んでいる団地はドリームハイツって言うんです(笑)。有名な所ではサイプレス上野とロベルト吉野というヒップホップの2人組がドリームハイツ出身なんですけど、とにかくなんでもドリームがつくんですよ(笑)。

──(笑)。ちなみに堀越の同級生ってどんなかたがいらっしゃったんですか?

横山:荒川務さんや浅野ゆう子さん、あと真田広之さんも同級生ですね。先輩には林寛子さん、岡田奈々さん、岩崎宏美さん、片平なぎささんがいて、下の中等部には藤谷美和子さんがいました。堀越って芸能コースは長髪OKとか自由だったんですけど、普通科はまったく自由がなくて、なんのために入ったのかわからなくなっちゃったので、1年だけ行って転校することにして、本牧のガソリンスタンドに就職したんです。

──それは定時制に編入したということですか?

横山:そうです。横浜市立港高校の定時制に編入したんですが、ガソリンスタンドが終わる時間と定時制の始業時間が合わなくて、どっちを選ぶのか迷ったすえにガソリンスタンドを選んだんですけど(笑)。その後、個人で古着の行商を始めたんですが、販売の拠点が原宿方面だったんで神宮前に引っ越して、やっぱり大学に行きたいから高校ぐらい出ておかなきゃなと思って、都立青山高校の夜学に通っていました。

バイクで通学してたんですが、通学途中にクールスのリーダーが経営してるお店がありました。そこの店長とは顔見知りだったんですが、ある日、リーダーに呼び止められて「クールスのスタッフをやれ」と。そう言われても、学校があるのでやんわりお断りしたら「学校なんて行ったってしょうがないだろ」と。この一言で、翌日からスタッフとしてクールスのツアーに帯同しました。学校には休学届を出して、結局、休学のまま終わっちゃいました。

 

フロントマンと作曲家の夢が両方叶ったクールス時代

──クールスのスタッフをやるきっかけは何だったんですか?

横山:実は堀越学園時代のクラスメイトの先輩がクールスのお店「CHOPPER」の店長だったんです。それで当時、古着を大量に持っていたので「CHOPPERで古着を買い取ってくれるかな」と思ったんですよね。当時、買いすぎた古着を売ってしたりしていたので。

──その大量の古着はどこで買ったんですか?

横山:ロサンゼルスですね。友だちがお父さんとロスへ引っ越して「泊りに来いよ」って言ってくれたので、17歳のときにロスへ行って、大量に買い込んだんですよ。別に売るつもりじゃなくて、あまりにも安いのでどんどん買ったら段ボールだらけになっちゃって、その処分に困っていたんです。

──それを売りさばきに行った先がCHOPPER。

横山:シカゴとかいろいろなところに行ったんですが、CHOPPERって古着が全然なかったんです。そうしたら店の奥から佐藤秀光さんというクールスの2代目リーダーが出てきたので、自分の着てたTシャツの袖を指差して「ここにサインしてもらえますか?」ってお願いしたのが最初です。

──そのときクールスのことはご存知だったんですか?

横山:はい。それからCHOPPERをうろちょろするようになったんですが、当時、本牧から神宮前のキディランドのそばのアパートに引っ越して、そこからCHOPPERの前を通ってバイクで都立青山高校に行っていたんですけど、通るたびに店長さんに「おい!」って呼び止められて「牛乳買ってこい」とか「セブンスター買ってこい」とか、小間使いというかパシリをやらされて、段々と親しくなっていったんです。

そうしたらあるとき「リーダーがお前のことを呼んでるぞ」って言うので「なんだろう?」と思ったら「クールスのツアーで1人欠員が出たから明日からお前来い」って言うんですよ(笑)。それで「学校があるんで無理です」って言ったら「学校なんか行ってる場合じゃねえだろ!」って言われて「それもそうだな」と思って、翌日からクールスのツアーで高知、徳島、福岡、鹿児島、熊本に行きました。

──なぜ横山さんが選ばれたんですか?

横山:なんか萩野くん(萩野知明/現ダブルジョイレコーズ 代表取締役)が言ったらしいんですけど。

萩野:僕が先にクールスのスタッフだったんですが、そのとき1人だけだったので「誰かいないかな」って自分的には探していたんです。そうしたら「ちょうどいいやつがいた」みたいな(笑)。

──(笑)。横山さんと萩野さんはそこからのお付き合いなんですね。

横山:そうですね。本当は佐藤隆さんというキーボードの人がゲストプレイヤーで一緒にツアーを回るはずだったんですけど、その人が外れることになって、あご・あし・まくらが1人分浮いたので「じゃあボーヤを1人増やそう」ということになり、僕がボーヤになって。だから萩野くんは僕の上司にあたるんです。

──その後、クールズで歌うようになったきっかけは何だったんですか?

横山:秀光さんが洋服屋さんの近くにbe-bopというライブハウスを始めたんですが、そこをうやむやなうちに手伝うことになって(笑)、そうこうしているうちに「従業員でバンドをやれ」と言われて、萩野くんはギターで僕はボーカル、あと従業員でバンドをやるようになったんですね。

その後、クールスからピッピさん(水口晴幸)が脱退してメンバーが5人なっちゃったんですけど、2年後にやっぱりツインボーカルを復活させようという話が出て、あとベースのキイチさんもやめちゃったので、まず萩野くんがベースで入って、そのあとボーカルで僕が入ってという感じです。だからスタッフから人事異動のようにメンバーになりました。

──実は、私は当時のクールスを観ているんですが、横山さんはリードボーカルなのに、なんでスタッフワークとかいろいろ動き回っているんだろう? と思っていたんですよ(笑)。

横山:(笑)。スタッフ兼メンバー、まあ弟子みたいな感じですよね。しかも他のメンバーとは10ぐらい歳が離れていたので、もう大人と子どもみたいな感じでした。それで、自分が作った『シンデレラ・リバティ』という曲でクールスデビューさせてもらったんですが、実は同時期にポリスターから「ソロでやれ」と言われてたんです。

それでソロとクールスとどっちをとろうかと考えたときに、いきなりソロでやってコケたらダメだなと思ったのと、あと僕は作曲ありきだったので、バンドに入れば自分が作った曲を自分以外のメンバーが歌ってくれるんじゃないかという淡い期待もあってバンドを選んだんです。結果、メンバーのフランクさん(飯田和男)や村さん(村山一海)が僕の作った曲を歌ってくれたときは、自分が歌った以上に「作曲家になれた」と思いましたし、フロントマンという立場と作曲家という夢が両方叶ったんです。

──クールスのボーカル兼作詞作曲担当ですね。

横山:クールスのメインの作曲はギターのジェームスさん(ジェームス藤木)が担当していて、ジェームスさんは僕の作曲のお師匠さんにあたる方なんですが、「どんどん曲を書け」と言ってくれて、僕も書いたし萩野くんも何曲か書きましたし、ある時期から割とみんなで曲を書いたり詞を書いたりしていましたね。

 

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第194回 クレイジーケンバンド 横山剣氏インタビュー【後半】

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