第192回 ソニー・ミュージックエンタテインメント REDエージェント部 兼 株式会社次世代 制作本部 次世代ロック研究開発室制作部 チームプロデューサー 薮下晃正氏インタビュー【前半】

インタビュー リレーインタビュー

薮下晃正氏

今回の「Musicman’s RELAY」はメロディフェア 加藤信之さんからのご紹介で、ソニー・ミュージックエンタテインメント REDエージェント部 兼 株式会社次世代 制作本部 次世代ロック研究開発室制作部 チーフプロデューサー 薮下晃正さんのご登場です。

学生時代に音楽や映画などカルチャーに目覚めた薮下さんは、編集プロダクションを経てソニーミュージックに入社。宣伝やタイアップを担当後、制作へ。キューンソニー(現キューンミュージック)ではスチャダラパーと小沢健二による「今夜はブギー・バック」、真心ブラザーズ「サマーヌード」などのヒット曲を送り出します。

また、音楽出版社アンティノスミュージックでは、他社の制作も精力的に行い、ソニー・ミュージックアソシエイテッドレコーズでは、ゆらゆら帝国やミドリ、女王蜂、凛として時雨、フジファブリックなどを手がけ、当時クラブ色の強かった同レーベルに「ロック」という新たなレーベルカラー加えることににも成功します。

現在はYOASOBIを輩出したREDや次世代に籍を置き新人アーティストの発掘・育成・制作・エージェント業務を行う薮下さんに、ご自身のキャリアから、変わりゆく音楽業界の現状と今後までうかがいました。

(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦 取材日:2022年4月26日)

 

音楽や映画の情報に飢えていた福島時代

──前回ご登場頂いたメロディフェア 加藤信之さんは、薮下さんを「音楽業界で最もお世話になっている兄貴分」とおっしゃっていましたが、加藤さんとはどのように知り合ったんですか?

薮下:僕はもともとレーベルでスチャダラパーをずっと担当していたんですが、彼らをマネジメントしていたSCHOOL PRODUCTIONという会社が諸事情で運営していけなくなったときに登場したのが加藤くんでした。彼はもともとメンバーとも交流があり、音楽プロダクションの中のインディーズレーベルを運営していたんですが、「ぜひスチャダラパーのマネジメントをやりたい」ということになり、相談に乗っていたんですよ。

──加藤さんがスチャダラパーをマネジメントする前から相談に乗っていた?

薮下:そうですね。作家事務所にいて自身が「これからどうしていったらいいのか?」みたいな相談を受けて、実際にスチャダラパーをマネジメントしていく大変さもあると思うので、これまでの経緯をいろいろ話して・・・その結果、彼がマネジメントをやっていくことになり、今に至るわけです。そういう意味では、彼のマネジメント人生における最初期に立ち会ったというか、単に相談に乗っただけなんですけど、それからすごく公私ともに懇意にしています。

──加藤さんは「薮下さんを頼りにしている」とおっしゃっていました。

薮下:単に歳が少し上なだけです(笑)。彼は、マネージャー不在になりかけたスチャダラパーを引き受けてくれた恩人でもありますし、若くバイタリティーもあったので、いろいろ業界の相談に乗ってあげただけなんですけどね。

──お話を伺って、加藤さんは理路整然としていてすごく頭のいい人だなと思いました。

薮下:彼はマネージャー向きだと思います。きちんとお金にするタイプというか、メンバーと真摯に向き合い「これをやっちゃったら事務所として運営していけない」と話し合える人間ですよね。90年代の頃って大抵アーティストの要求に応えすぎちゃって、ビジネスとして立ち行かなくなるところが結構あったと思うんです。でも、加藤君はその辺を正面からちゃんと対峙して、アーティストと自分たちがイーブンでできる環境をしっかり作っているタイプだと思います。そんなめちゃくちゃ信頼してる加藤君なんで僕が関わった大根監督の映画『モテキ』や話題になったsixの本山(敬一)さんのTOKYO CULTURE STORY/BEAMS40周年記念動画「今夜はブギー・バック」の時も色々手伝ってもらいました。

──ここからは薮下さんご自身のことをお伺いしたいのですが、お生まれはどちらですか?

薮下:生まれたのは宮城県の女川なんですが、育ったのは千葉と福島と神奈川なんです。なぜかというと父親が港湾工事を担う大手ゼネコンの社員だったので、電源地帯を転々としていたんです。ですから女川に行って、1回千葉に戻ったけど、そのあとに福島に行って、僕はそこで高校を卒業しました。その後、僕が大学で東京に行ったときに父は東海村に単身赴任して、その後、東京勤務になったので東京に家族全員が戻ってきて、という感じでしたね。ですから「出身はどこ?」と聞かれると非常に困るんです(笑)。

──なるほど(笑)。どのようなご家庭でしたか?

薮下:父は普通に建設会社の営業マンですし、母も専業主婦だったので特別なことはないです。

──家中に音楽が溢れていたとか、そういう雰囲気ではなかった?

薮下:まったくないですね。

──薮下さんはどういうお子さんだったんでしょうか?学生時代に部活とかなさっていましたか?

薮下:足がちょっと速かったので陸上とかやらされていましたけど、そこまでスポーツにのめりこむこともなかったですね。そのかわり映画がすごく好きで「映画監督になりたい」と小学校の卒業文集に書いていました。あと映画にまつわる文学や音楽にハマって「音楽も60年代、70年代のものが格好いいな」みたいな。アメリカン・ニューシネマとかそういう時代でしたから。ただ、当時の東北の田舎は文化不毛の地というか、僕の住んでいた小さな町の駅前には本屋さんが1軒しかなかったんです。しかもその本屋さんにロック雑誌とか『POPEYE』って1冊ぐらいしか置いてなかったんですよね(笑)。

──(笑)。

薮下:『rockin’on』1冊、『POPEYE』1冊みたいな。だから誰かが買っちゃったら買えないんですよ。今みたいにネットもなく情報に飢えていたので、情報を得るために電車で、1、2時間ぐらいかけて、いわきや仙台に行って雑誌やレコードとかを色々仕入れて帰ってくるみたいな奴がクラスに大体1人ぐらいいるんですよ。そういう奴からどんどん情報を貰って、カセットにダビングしたり、マイナーな映画の自主上映とかあれば観に行くような生活でしたね。

──音楽を聴くのにも苦労する地域だったと。

薮下:そうですね、地元にはレコード屋も無かったので。自分がハブになっていた部分もあって、僕が『rockin’on』や『宝島』『DOLL』とかの影響を受けて、スターリンとかパンクのレコードを通販とかで買うと友だちもそれを聴くわけですよ。そうするとスターリンがクラスやその地域で局地的に流行る。3コードで簡単だからバンドでコピーし易いし、アグレッシブで直情的な歌詞が子ども心を刺激するんじゃないですか?だから、3つ違いのウチの弟たちは、そういった音楽に影響を受けて、みんなバンドをやっていましたね。

──薮下さんが近隣の情報源になってたということですよね。

薮下:ソース元になったというのはあると思います。当時はダビング文化だったのでレコードを買うってなかなかハードルが高かったですから。YMOとかもそうですけど、クラスで誰かが持っているとみんながダビングして流行る、みたいな感じでしたね。

──ちなみにご自分でバンドとかやったりしましたか?

薮下:高校・大学のときはパンクバンドでギターとかやっていましたけど、パワーコードをかき鳴らすくらいで、全然上手くないです。

──プロになろうとかそういう発想はなかった?

薮下:不思議とミュージシャンそのものに憧れはなかったですね。パンクバンドをやる分には楽しかったですけど、いわゆるメジャーの音楽シーンにそんなに興味がなかったです。

──ではバンドをやって女子にモテたとか…。

薮下:ないですねえ(笑)。むしろ不良まではいかないけど、学校がつまらなくてしょうがなかったので、趣味が合う友だちとかとつるんで、授業も受けずにとっとと帰るというか。

 

「もっとストリートの新しい音楽をやるべきだ」言いたいことを言ったら受かったソニーミュージックの中途採用試験

──大学はどちらに行かれたんですか?

薮下:神奈川の割と実家の近くの大学です。あの頃の大学は、入ったらみんなテニスやスキーのサークルみたいなノリでしたが、そこには馴染めず、でも大学くらいになると面白い奴がいっぱいいましたし、特に付属から来た奴の中にはファッション関係、マスコミ関係、バンド関係、パンク関係にも通じた早熟な面白いやつが多くて、そういった奴らと仲良くなり、ほとんど授業には出ないけど、学食でたむろしているみたいな大学生活でした。

──在学中、アルバイトはなにかしていましたか?

薮下:もともと文章を書くのが好きだったので、大学の友だちがマガジンハウスでバイトしていたのもあって、その流れでエディターのアシスタントをやるようになり、原稿を書いたり、イベントの企画書を書いたりしていました。大学3年・4年の頃にはそこそこのお金になっていましたね。

──バイト代が良かった?

薮下:いや、最初は全然少なかったんですが、『POPEYE』のフリーの編集者が立ち上げた編集プロダクションを手伝っていたら、代理店関係のプレゼン用の企画書が通ったらギャランティくれるみたいになったんですよね。当時はバブルだったので西武百貨店やI&Sとか代理店が孫請けで編集プロダクションの雑誌系ライターに企画を振っていたんですが、その編プロで音楽に明るいのが僕しかいなかったんですよ。

当時、ボ・ガンボスやスカパラ、ピチカート・ファイヴみたいな、個性的で洒落たバンドが出て来て、僕はその辺が好きだったのもあって、音楽系の企画書をたくさん書いて提案したらことごとく通ったんです。そうするとグロスの予算の中でイベント制作をして、その売上のパーセンテージでくれたので、結構な額になったんですよ。大学生にしては「こんなにもらっていいのかな?」ってぐらい貰っていたと思います。

──大学ではもうバンドはやっていなかったんですか?

薮下:バンドは学祭でハードコアとかサイコビリーのコピー・バンドをやるくらいでしたね。大学になってからは、どちらかといえば客としてライブを観に行っていました。まさに『宝島』全盛期みたいな時代で、「イカ天」とかそういう時代ですね。ラフィンノーズやブルーハーツ、ブレイク前のBOØWYとか。

──そして大学卒業となるわけですが、就職活動はされたんですか?

薮下:いや結局、就職活動はほとんどやらなかったんですよね、興味が無さ過ぎて、面倒臭くて(笑)。もともと文章を書きたいとか編集志向がありましたし、編プロで結構稼げていたので「フリーの物書きでやっていくのもいいな」と漠然と思っていました。

──当時はご実家住まいですよね。

薮下:そうです。だから家賃もかからないので成立するじゃないですか?それで、その編プロにいると西武の人とかから個人的に仕事を頼まれるようになって、池袋演劇祭のトークショーの台本を作ったり、あと池袋WAVEや六本木WAVEでそれこそボ・ガンボスやピチカート・ファイヴの音楽イベントをやったり、そこそこ仕事になったんですよね。池袋西武美術館が一瞬閉まるときに、跡地でメンバーも知り合いだったメジャーデビュー前のスカパラのライブとか色々やったんです。

ただ、その編プロで僕は一番下っ端だったんですが生意気だったので、先輩たちと人間関係がうまくいかなくなってきて。もともと縦社会で居心地の悪いところもあったので、揉めたタイミングで辞めたんです。そうしたら、友だちの編集者や先輩が、その編プロから「悪い噂が流されてる」とこっそり教えてくれて、直接言われたことはないですが、いろいろな人にそう言われて「そこまでして競合する人脈で仕事するのも癪だな」と思って好きな音楽関係の仕事をやろうかなと。

──編集の世界でもそんな妨害があるんですね。

薮下:今考えればフリーランスにとってクライアント競合するのは当たり前に気分が悪いですよね。それで「次どうすっかな」と家でぼーっとしていると親から「早く働いてくれ」と言われ(笑)、その2、3か月後くらいに、たまたま『宝島』にソニーミュージックの求人募集が載ったんです。それで暇だし履歴書を送ってみたんですよ。

──それは部署限定の募集だったんですか?

薮下:実は入社してみて知るのですが、破竹の勢いの某元祖ヴィジュアル系バンドが所属しているレーベル&マネジメントの求人だったんです。僕はそんなことも知らずに、適当に応募したわりには最終面接まで残って、そのまま入っちゃったという感じですね。

──そのタイミングで何人入ったんですか?

薮下:1人か2人だったのかな?多分その部署だけの募集なので。当時ソニーミュージックにはSMEとエピックの2つがあって、さらに独立系の小レーベルが4つぐらい立ち上がっていたんですが、その中の1つに偶然入っちゃったんです。

──まさに無欲の勝利ですね。

薮下:まったくなにも考えてなかったですからね(笑)。しかも、そんなに長く続けるつもりもなかったので「まあバイトぐらいでいいかな」と思って。

──なぜ選ばれたと思いますか?

薮下:編集をやっていたので、宣伝的には即戦力ということで「紙媒体やってくれ」みたいな話になったんですよ。

──バイトでのキャリアが活きたということですね。

薮下:多少。やっぱり宣伝経験者が欲しかったんでしょうね。でも、すごく生意気で、面接でも結構言いたいことを言ったんですけどね。

──なんて言ったんですか?

薮下:若気の至りというか(笑)、当時、黎明期にあったヒップホップをはじめとするクラブ・ミュージックに超ハマっていて「もっとストリートの新しい音楽をやるべきだ」とか、あと「ローリング・ストーンズが来日しているけど、どう思う?」と聞かれて「もう年寄りじゃないですか?」みたいなことを平気で言って(笑)。当時ストーンズはCBSだったからそんなこと聞かれたんですけど、まあひねくれもんというか、反抗的だったんですよね。その姿勢は今でもあまり変わってないですけど。本当は昔からストーンズ、大好きなんですけどね(笑)

──パンクの精神ですね。

薮下:若かったので「新しいことをやりたい」という気持ちに凝り固まってて(笑)、僕らの時代のときはやはりYMO世代なのでアルファレコードやロックでいえばEMIのエクスプレス、ビクターのインビテーション、ジャパンレコードとか格好いいなと思ってましたからソニーミュージックはエピック以外そんなに知らなかったんです。

──面接では正直に言いたいこと言ったんですね。

薮下:そう、言いたいことを言ったら偶然受かったという感じですね。

──悪く言われると入れちゃう(笑)。

薮下:もしかしたらそういう異端児を面白がるってことはあったのかもしれませんね。

──それは大賀典雄さんもおっしゃっていました。テープレコーダーを「まったく使えない」と文句言いに行ったら、「そこまで言うなら入れ」と言われて入っちゃったと。

薮下:それに近いかもしれませんね。僕は「まだ知られていない新しい、面白いものを売りたい」「自分が興味のあるものを売りたい」という気持ちが強くて、「売れる、売れない」という感覚を実はそこまで重視していなかったですね、当時は(笑)。

──(笑)。

薮下:ミュート・ビートやじゃがたら、S-KENさん、トマトスの東京ソイソースとか東京ロッカーズとかあの辺に影響を受けちゃっているので。あとアナーキー、スターリンからその後のジャパコアといったパンク、大学時代にはヒップホップをはじめとするクラブ・ミュージック、DJ文化あたりにもハマっていますから、いわゆる当時のメジャー路線とはちょっと違ってたんですよね。

 

制作希望なのにタイアップ班へ異動〜キューンソニーが発足

──入社当時のソニーミュージックに薮下さんのような音楽的趣向の人っていらっしゃいましたか?

薮下:勿論、当時も今もいると思いますが、既に独立してる人も多いですね。出入りの激しい業界でもありますし、そういう人はフリーランスになったり、自分でマネジメントを始めたり。ちなみに僕が最初に入ったレーベルの人間で今も会社に残っているのは僕ぐらいだったりします。

──薮下さんが一番最初に辞めてしまいそうな雰囲気ですけどね。

薮下:それはずっと言われてます(笑)。それで僕が2年目のときに独立系小レーベル4つを集めてレコード会社にする案が立ち上がるんです。それはエピックにいた丸山(茂雄)さんが始めるんですが、いきなり僕らはその他3レーベルと一緒になったんですね。

──それがキューンソニーですか?

薮下:そうです。「4レーベルが1つになる」という発令が出て、丸山さんの挨拶があるというので社員が集められて「そういうことで今日からお前ら全員一緒だ」と言われ「文句があるやつは来い」と言うから、僕、丸さんに文句を言いに行ったんですよ。「それぞれが切磋琢磨してたのに勝手に1つにまとめるなんて」って(笑)。そうしたら「お前、変わってるな」って丸山さんに気に入ってもらって、以降、新人や移籍アーティスト等面白そうな案件を「これはお前向きだろう」ってよく振られるようになったんです。ですからそういった意味では丸山さんは恩人ですよね。

──文句を言うと道が拓けるというのがすごい話ですね。

薮下:理解ある上司に「意見があるなら言いに来い」って折角言われてるのに、言いに行かないのは野暮じゃないですか?(笑)

──キューンの船出はどうだったんですか?

薮下:おそらく移籍、解散等で想定していた大きな売上の柱がいなくなっちゃったりで、立ち上がりは結構大変だったと思います。

──薮下さんはキューンでまずなにをなさったんですか?

薮下:あれだけ「制作をやりたい」と言っていたのに、しばらくしたら販促4課という当時としては珍しい即席のタイアップセクションみたいなところの担当になります。当時タイアップ担当ってレコード会社にまだいなくて、僕と女性2人だけで販促4課という。多分紙媒体をやっていた経験があるから入れられたと思うんですが。

キューンの初期はショートドレッドみたいな頭で、古着のジャージにサンダルで会社に行って「そんな恰好で会社に来るな!」と先輩にすごく怒られて(笑)、さらに「代理店を回るから襟付きのシャツ着ろ」ってしょっちゅう言われてる本当にダメな若者でした(笑)。

──(笑)。ネクタイは要求されなかった?

薮下:ネクタイはさすがに言われなかったですね。「襟付きは最低限着ろ」って。まあ、僕がネクタイ持ってると思わなかったんじゃないですか(笑)。

──ちなみにどんなタイアップを決めたんですか?

薮下:真心ブラザーズでゲームのタイアップ一つ決めたかな?何せほとんど決まらなかったですね。レーベル自体も新人しかいなかったし、それどころか世の中的にはまだ「レーベル名、これなんて読むの?」みたいな認知度でしたし、一緒にやっていた女の子は大金星でドラマ挿入歌を決めていましたが、僕はダメでしたね。

──タイアップの仕事は何年やったんですか?

薮下:タイアップは1年ぐらいで、「お前は制作に向いている」と上司から言われて晴れて制作になりました。ただ、タイアップも、代理店やクライアント、音プロの人たちと仲良くなれて結果的にはいい経験になったと思います。メーカーのプロデューサーやディレクターって自分でタイアップを決める人って割と少ないんですよ。やはりそこはタイアップセクションに託すんですが、僕は「今夜はブギー・バック」もそうですけど、自分でタイアップを決めてることが割と多くて。やはり代理店やクライアントの中にも、そういう音楽が好きな人がいて、そういう人たちと直接コネクションができたのはよかったなと思います。

 

スチャダラパーや真心ブラザーズの成功要因は「タイミングと曲」

──制作ディレクターとして最初の仕事はなんだったんですか?

薮下:一番最初だと、小レーベルのときに宣伝なのに勝手にポッカのCMソング決めてリリースさせてもらったレゲエのチエコ・ビューティなんですけどね(笑)。それで現在、リスペクトレコードをやられている高橋(研一)さんがその当時の先輩で、高橋さんがネーネーズを立ち上げたいと。ただ、僕も高橋さんもお互いに宣伝で制作をやらせてもらえないから「コンピを作ろうか」という話になり、そこで当時、トレンドになりつつあったワールドミュージックに焦点をあてた、沖縄のネーネーズやレゲエ/ラップのチエコ・ビューティ等をセレクトして出した企画コンピ「エキゾチカ慕情」が、制作としての最初のキャリアですかね。それでキューンで制作になってからも、一番下っ端だったので、次第に担当が不在のアーティストを任されるようになります。

──担当が不在っていうのは?

薮下:たまたまスチャダラパーとか真心ブラザーズの担当が不在になったんですよね。

──いなくなった理由はなんなんですか?

薮下:単純に会社の人事異動ですね。当時そこまで大きい売り上げを出せていなかったということも、もしかしたらあったかもしれませんが。それでスチャダラパーのメンバーたちとは世代も近いし面識がありましたし、すごく可能性があると思っていたので、スチャダラパーと、あと高木完を引き受けました。高木完とスチャダラパーってメジャーフォースという丸山さんが作った僕も大好きだったインディーズレーベルから出てきたんですが、当時、社内にヒップホップに興味がある人も少なかったので、一番下っ端の僕が「完ちゃんとスチャダラパー、好きなので是非やりたいです」と手を挙げてやることになったんですよ。

──薮下さん以外、誰も手を挙げなかった?

薮下:どうなんでしょう?世代が近かったからハモれただけで、もしかしたら他にも手を挙げた人もいたかもしれませんね。詳細は覚えてませんが同じく真心ブラザースもそうでしたね。「手伝ってほしい」とメンバーの桜井くんから相談されて。

──薮下さんが彼らのピンチを救ったんですね。

薮下:そんなことはないと思います。僕も当時こんなに長くソニーミュージックにいるつもりもなかったですし、メンバーとも話して、どうせ売れてないんだからってもう自由にやったんですよね。彼らとは同世代でしたし「売れてないし、一か八か好きにやろうぜ!」みたいな感じだったんです。

──スチャダラパーや真心ブラザーズを成功させた要因はなんだったんですか?

薮下:やはりタイミングとヒットポテンシャルのある曲を作れたことかなと思います。スチャダラにとっては「今夜はブギー・バック」ですし。「今夜はブギー・バック」は当初1993年12月の年内に完パケ予定が、小沢健二くんが一度書いた歌詞を反故にし、新しく書き始めた歌詞が難航して終わらなくて、年明け三が日に再びレコーディングしたんですよ。徹夜で完パケして、翌日、朝一でパルコの宣伝部の友だちのところに持っていって、それでP’PARCOのタイアップも決まるみたいなスケジュールだったんですけど、本当に「やってやろう!」という強い気持がみんなどこかにあったんじゃないかと思います。

小沢くんもちょうどフリッパーズ・ギターの後に1stアルバム(「犬は吠えるがキャラバンは進む」)を出したばかりの、方向性もそこまで大きく定まってない頃で、スチャダラパーとやることで大きな化学変化が起きたんですよね。しかも「今夜はブギー・バック」は曲がいいということで、社内でも自然発生的に同僚たちが推してくれたのも嬉しかったですね。

──いい時期にお互い出会い、名曲ができたと。

薮下:ええ。そういう経験があったので、真心をやるときは意図的にその経験が参考になったところがあったんじゃないかと思います。真心って当時は「THE 真心ブラザーズ」と、THEがアルファベットで真心が漢字、ブラザーズはカタカナみたいな、どうデザインしてもカッコよくならない(笑)、バンドの立ち位置が不明瞭なバンドだったので、自分が引き受けたときに、それまでのフォーク、ニューミュージックみたいな路線を1回封印して、当時メンバーが傾倒していたオルタナティヴなロックで一発衝撃的なアルバムを作ろうと話し合いました。

それでグループ名からTHEをとって「真心ブラザーズ」とシンプルに改名して、デザイナーもC.T.P.P. 信藤 三雄さんにお願いして「KING OF ROCK」というアルバムを作ります。それはアナログ16CHの一発録りで、ビースティ・ボーイズとかレイジ・アゲインスト・ザ・マシーンとかあの辺のイメージではあるんですが、それまでは少し不明瞭だった真心ブラザースという存在が「もしかしたら渋谷系的なセンスがあるんじゃないの?」とすごく驚きをもって受け止められたんです。

「KING OF ROCK」発売後、ミュージシャンや若い子たちが「真心、格好いい」と言ってくれて、事務所の契約もちゃんと現在まで存続していますし(笑)。そして、今でいうバズっている状態のうちにヒット曲を狙ってみようと考えました。実は「今夜はブギー・バック」での経験から、売れる曲というのは源流であるレコード会社の宣伝やデスクの子とかが好きな曲なんじゃないかというイメージをもっていたんですよね。まだ今みたいにアナリティクスとか見れない時代ですし、いくら僕らがいいと思っていても、そういった子たちが盛り上がってくれないと売れないじゃないかと。

──レコード会社の中でも一般のファンに近い若い人たち?

薮下:そうですね。当時、プロモーションとは“情熱の伝達ゲーム”とか言われてましたし、そういった形で内側の人に訴求しないと売れないんじゃないかなという思いがあって、「KING OF ROCK」のあとは逆に思い切りポップな曲を作ろうと「レコード会社の宣伝の女子とかが好きな、ポップな曲ってどんなのかな?」と考えた結論が「ユーミンや山下達郎みたいな曲」だったんですよ。それで、ああいうシティポップっぽいコード進行の曲で、なおかつ明確に夏の季節感もありながらラブソング、しかも夜の海の曲ってあんまりないよね?みたいなことで作ったのが「サマーヌード」で、あれはまさに意図的に作った曲なんです。

──「サマーヌード」はヒットを狙いすまして作ったと。

薮下:「日清サマーヌードル」というカップラーメンのCMの話がきたので作りはじめたので、そのCMには新商品「サマーヌードル」から来た「サマーヌード」というキーワードがあらかじめ決まっていて、これをタイトルに使わないといけなかったんです。ですから「サマーヌード」という曲名はすでに決まっていました。

実はそれまでの真心ブラザーズって2人の共作がなかったんですよね。彼らって大学のサークルの先輩後輩なので、当時はYO-KINGの曲はYO-KINGが1人で作る、桜井くんの曲は桜井くんが1人で作る、とデュオなのにお互いの曲に干渉しないんです。でも「桜井くんのメロっていいな」と僕は思っていたので、桜井くんの曲をYO-KINGに歌わせようと、彼らには「クライアントの意向で共作が望ましい」とか適当な理由をつけて説得しました(笑)。

──(笑)。

薮下:それで歌詞はメンバーと3人で話し合いながら作りましたがメロディに関しては「桜井くんの曲で歌ってよね」とYO-KINGにお願いして、結果「サマーヌード」になります。案の定いい曲ができましたし、今も聴き継がれていますよね。それで「サマーヌード」をきっかけに、彼らはグッとフックアップされて、数字も動員も軒並み増えていきました。

 

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