第78回 大賀 典雄 氏 ソニー株式会社 相談役

インタビュー リレーインタビュー

大賀 典雄 氏
大賀 典雄 氏

ソニー株式会社 相談役 / 東京フィルハーモニー交響楽団会長兼理事長 / 東京文化会館館長 / 軽井沢大賀ホール名誉館長 

今回の「Musicman’s RELAY」は渡辺貞夫さんからのご紹介で、ソニー株式会社 相談役/東京フィルハーモニー交響楽団会長兼理事長/東京文化会館館長/軽井沢大賀ホール名誉館長の大賀典雄さんです。ベルリン国立芸術大学へ留学し、音楽家としてご活躍中に、ソニー株式会社より発売されたテープレコーダーにクレームを付けたことがきっかけでソニーへ入社。入社後は経営者としての能力を発揮され、52歳という若さで代表取締役社長に就任。その後、CD開発のプロジェクトリーダーとして世界で初めてCDプレイヤー、ソフトをリリースし、現在のソニーだけでなく、世界の音楽産業の礎も築かれました。今回のインタビューでは、日本人では数少ない、家族のような付き合いをされたというカラヤン氏との想い出や、現在も行われている指揮者の活動、2004年に莫大な退職慰労金を全て寄付し設立した軽井沢大賀ホールについてなど、様々なお話をお伺いしました。

[2009年2月26日 / 品川区北品川 ソニー株式会社 大賀相談役室にて]

プロフィール
大賀 典雄(おおが・のりお) 
ソニー株式会社 相談役 / 東京フィルハーモニー交響楽団会長兼理事長 / 東京文化会館館長 / 軽井沢大賀ホール名誉館長


1930年生 静岡県出身。
1953年 東京芸術大学卒業後、ベルリン国立芸術大学へ留学
1957年 ベルリン国立芸術大学卒業
1959年 ソニー株式会社へ入社 第二製造部長に就任
1964年 ソニー株式会社 取締役に就任
1970年 CBS・ソニー(現 (株)ソニー・ミュージックエンタテインメント)社長に就任
1980年 CBS・ソニー(現 (株)ソニー・ミュージックエンタテインメント)会長に就任
1982年 ソニー株式会社 社長に就任 世界初のCDプレーヤー、CDソフトを発売
1988年 米国ソニー 会長に就任
1995年 ソニー株式会社 会長に就任
2000年 ソニー株式会社 取締役会議長に就任
2003年 ソニー株式会社 名誉会長に就任
2006年 ソニー株式会社 相談役に就任

 

    1. “78”という数字で思い浮かべること
    2. ヘルベルト・フォン・カラヤンとの深い関係
    3. 音楽家でありながらパイロット
    4. 軽井沢大賀ホール設立
    5. 指揮者としての大賀典雄氏

 

1. “78”という数字で思い浮かべること

−−今回は渡辺貞夫さんからのご紹介なのですが、渡辺さんの印象をお聞かせ下さい。

大賀:ナベサダさんと普段は呼んでいるんだけど、彼はまず良い人ですね。本当に気持ちの良い人で、ナベサダさんと話しているとこちらまで楽しくなります。色んな音楽家がいるけれどあんなナイスガイはちょっといないんじゃないかと思いますね。

−−とても若々しいですしね。

大賀:ところでこれまでに何名このインタビューに出演しているのですか?

−−大賀さんのご出演で78回目となります。

大賀:“78回”と聞いて何を思い浮かべますか? 昔、LPが発売される前にSPがレコードと呼ばれた時代があって、その回転数が78回転だったんです。レコードが78回転から33回転(正しくは33 1/3回転)になったのが1948年。1968年に私たちが音楽会社(当時のCBSソニーレコード、現 SME(株))を始めたときは33回転のLPだったわけですが、ビジネスを始めて改めて音質について考えてみると「ああ、こりゃいかんな」と思ったんです。なぜ悪いかと言うと、外側は音がいいのですが、内側になるにしたがって音が悪くなっていくんです。回転速度が一定のために線速度が外側はよいが、内周は落ちてしまい、音が急速に悪くなってしまいます。未だにLPファンがいるんですが、彼らは外側の、ほんの幅が2センチか3センチのところを聴いて「やっぱりアナログは音がいい」と言って喜んでいるんじゃないかとおもうんですが。(笑)。

−−(笑)。

大賀::そんなとき、PCM技術の研究も進み、フィリップス社と私どもがデジタル・ディスクの開発を始めたわけです。CDは線速度が一定です。ディスクの中心から信号を読み取っており、速度の制御もサンプリング周波数でコントロールしているわけです。またLPはアナログでしたが、CDは完璧にデジタルサウンドになりました。あのときソニーの創立者の井深さんが、「デジタルにしたら音なんて絶対悪くなる」って言うんですよ。私は「サンプリング周波数が、可聴周波数の外にあれば大丈夫です、人間の可聴域は16KHzだが、CDは44.1KHz。はるかに高い」と言って説明しても、最後まで「音が良くなるわけがない」と言っていましてね(笑)。

−−(笑)。井深さんはそんなふうに仰っていたんですか。

大賀:一方盛田さんは話を聞いたとたんに「CDの方が原理が優れているぞ」と言って理解したのに、井深さんはデジタルと聞いただけで「音がいいわけがない」と(笑)。

−−ヘルベルト・フォン・カラヤンもCDを開発するときに大きなサポートをしてくれたそうですね。

大賀:カラヤンは非常に感受性が強く創意的な人で、私どもがCDを開発していると聞いたときから「これはレコードインダストリ―の救世主みたいなものだ」と言ってくれたんです。実験段階からその音質を理解していました。それで発売するちょうど一年くらい前に、カラヤンが主宰しているザルツブルグの復活祭音楽祭の期間中に、当地のORF(オーストリア公共放送局)の第一スタジオを自ら借りてくださり、そこでヨーロッパの音楽評論家など、音にうるさいオピニオンリーダーをカラヤンの名前で招待し、CDの音を聴かせて、「これでレコードインダストリは究極の音を得たことになる」という挨拶をカラヤン自身がしたんですね。カラヤンは普段は頼んだってしゃべろうとしないのに、そういうときになると「私がしゃべるから」と言ってくるんです。

 その後、CD発売の4ヶ月くらい前にギリシャのアテネ郊外でレコードインダストリの大会があったので、そこでソニーとフィリップスの2社が「レコードインダストリはCDによって大きく変わるだろう」ということ発表したのです。そうしたらレコードインダストリは全員反対だったんですよ。要するにLPレコードというものでこれだけの音楽産業が成り立っているときに、余計なことをするなということでした。それで我々はしょうがないから独自で世界に広める方法を考えることにしたんです。

−−世界で最初に発売されたCDはビリー・ジョエル『ニューヨーク52番街』だったそうですね。

大賀:ビリー・ジョエルはCBSソニーの合弁相手、CBSのアーティストで、ニューヨークのロングアイランドに住んでいたんです。その先に私の友人のマイケル・シュルホフ(元Sony America社長)の別荘があり、ちょうどそこに行く機会がありましたし、「ロングアイランドに来たら必ず寄ってくれ」と言われていたので彼の家に行ったんですね。そうしたらベートーベンのソナタを一生懸命弾いているんですよ。弾いているのは全部ベートーベンで、自分の指の訓練のために何回も何回も繰り返しているんです。ベートーベンは彼の練習曲なんです。しかし、ひとたびステージに出ると正にビリー・ジョエルなんですね。本当にめずらしい人です。今でもビリーがコンサートで日本に来ると楽屋で「お久しぶりです」って挨拶をしてくれます(笑)。

 

2.ヘルベルト・フォン・カラヤンとの深い関係

−−大賀さんはカラヤンさんととても深い関係でいらっしゃったそうですが。

大賀:この部屋に飾ってあるのは全て(3作品)カラヤンの奥さんが画いた絵なんですよ。カラヤンが亡くなったとき私は横にいてすぐ目の前に彼の頭があったんです。

−−正に臨終のときに傍にいらっしゃったんですね。

大賀:それはもう驚きました。そのときにマイケル・シュルホフも連れて行っていまして、彼がその様子を見て「大変だ!ハート・アタックだ!」って言ったんです。うちの家内もいたのですが、彼女はベッドの上で座っていたカラヤンが何か落としてそれを拾うんだと思ったらしいんですね。カラヤンの奥さんはシャワー室に入っていたので「大変だ!大変だ!」ってドンドンドンドンドアを叩いて。そしたら彼女はガウンを羽織って慌てて出てきて「ヘルベルト!ヘルベルト!」と呼んだんですが応えず・・・。これまでいろいろな経験をしましたが、あれほど驚いたことはありません。人の命とはなんと儚いものかと…。

−−そうだったんですか…。

大賀 典雄2

大賀:その後近所の墓地に埋葬したんですけど、いまや日本人の女の子がたくさんきてお墓の土を取っていっちゃうんで教会の方が困っているとききました。(笑)。

−−今もですか? ファンの方が?

大賀:いえ、修学旅行気分でしょうか。甲子園の土と同じ感覚なんですよね。そのたびに土を補充して元に戻しているそうですけど犯人は全部日本の女の子だって言うから(笑)。

−−困ったものですね。でも、それはカラヤンさんがかっこいいということもあるんですよね。

大賀:カラヤンという人は本当に魅力的な人だったし、あらためてCDを聴いてみても、指揮者として素晴らしいなと思いますね。実は私はカラヤンの前で1回も指揮をしたことないんですよ。

−−カラヤンさんはどういう方だったんですか?

大賀:カラヤンの家は大きいし、食堂だって広いのに食卓は小さくて部屋の隅にあるんです。要するに彼はたくさんの人とわいわいするのが好きではないんですよ。むかし東京文化会館で音楽会をやったときも外にいっぱいファンが待っている、それをカラヤンはステージの一番後ろにある小さな緊急用のドアから逃げ出して帰ってしまうんです。また、日本に滞在するときはいつもホテルオークラの最上階のスイートに泊まっていたのですが、そこにあるテーブルに座れる人数しか呼ばない、それ以上の人は一切入らないようにと言っていたんです。

−−大賀さんはカラヤンさんと家族のようなお付き合いをされていたんですね。

大賀:カラヤンはいつも私に手紙を送るときに「Dear my co-pilot Norio(親愛なる副操縦士 典雄へ)」と書いてくるんですよ。私も「Dear my captain」と書いていたのですが。彼もジェット機を操縦するんです。カラヤンの所に着くと「今日は何を操縦してきた?」とまず初めに質問するんですよ。「今日は東京からハンブグルまでエアラインで来てハンブルグにファルコン(ソニーの社有機)を待たせておいてそれで来た」と答えると、彼もファルコンの双発を持っていたんですが、我々のは三発だったので「三発はどうだ? いよいよ自分も買おうと思ってる」と言って目を輝かせていました。

 

3. 音楽家でありながらパイロット

−−しかしお2人ともジェット機のパイロットというのがすごいですよね。音楽家でありながらジェット機を操縦される方は大賀さんとカラヤンさん以外にいらっしゃるんでしょうか?

大賀:いや、それはいないんじゃないでしょうか(笑)。

−−ジェット機はいつごろから乗り始められられたんですか?

大賀 典雄3

大賀:この会社の役員になる前なので30代の前半からですかね。

−−それはアメリカで免許を取られたのですか?

大賀:いえ。私が自慢できるのは全部日本で試験を受けたということなんです。アメリカの試験官は「これができたらここまではいいよ。次はこれをやろう」というやり方なんですが、日本の試験官というのは省略するということを知らないので、免許取得は日本が一番難しいんです。ファルコンの三発の試験を釧路の飛行場で受けたときは、いきなり一万フィートまで急上昇し、万一そこで機体のガラスでも割れて中の気圧が外気と同じように低くなったら、という想定で、今度は千フィートまで急降下で降りてこなきゃいけないんです。試験をやってるのを知らない人が見ていたら「飛行機が墜落してる!」って思ったんじゃないでしょうか。

−−そう思ってもおかしくないですよね。

大賀:そういう過酷な試験をファルコンの双発と三発、それとサイテーションというジェット機の双発の3つの試験を受けたんですね。その他に、どんなに曇って視界がない日でも飛ぶためには計器飛行証明という免許が必要なんです。その免許を取るためには双発以上の試験を受けなきゃいけないんですが、計器飛行証明の免許を持たないと実際には何の役にも立たないんです。

−−試験を受けるには飛行時間何百時間以上とか必要なんですか?

大賀:何百時間操縦しないと試験を受けてはいけないなんてどこにも書いてないですよ。できればいいんですよ(笑)。だけど、相当飛んでなきゃできませんからね(笑)。

−−(笑)。

大賀:その上やっかいなのが、ジェット機にはレーダーが付いていて、それが非常に強い電波を出すんですね。レーダーを使うには郵政省(現在は総務省管轄)の試験を受けなきゃいけないんです。その試験を受けて初めて飛ぶことができるんですね。よくあれだけ多くの免許を取ったものだなと思います(笑)。

−−取得には長い時間がかかったんですか?

大賀:そうですね。最後の試験を受けたのが60歳を過ぎていましたから。

−−でも、お仕事や指揮者としての活動に加えてのことですものね。

大賀:私は普段夜中の2時頃起きるんですよ。2時から4時までの間に集中して色んな書物を読んだりするんです。これが一番頭にスムーズに入ると自分で信じているだけで、本当はどうなのかはわかりませんが(笑)。

−−それが何十年来の習慣なんですか?

大賀:もう習慣になっていて、不思議と2時になると今でも目が覚めちゃうんです。

−−免許は全部でいくつ取得されたのですか?

大賀:免許は7つ持ってるんです。

−−それはやはり夜中2時に起きて2時間毎日みっちり勉強して取られたんですか?

大賀:ええ。教官はみんな分厚い本を4冊ぐらいもってきて「これだけ読んでおいてください」って言うんですよ(笑)。やはり自分の人生の中で一番頭を使ったのが飛行機の試験でしたね(笑)。

−−(笑)。

大賀:あとは一級小型船舶操縦士の免許を持っているんです。

−−ええ!船舶ですか? それもまた大変な労力のかかることですよね。

大賀:一級船舶がないとヨットに乗って伊豆七島に行くのに、下田と大島を結ぶ線より外に出られないんですよ。ある意味ではこれが一番時間がかかりましたね。一級船舶の資格を取るために4週間ぐらい毎週土日に朝早くから夜遅くまで。それをやらないと試験を受ける資格がないんですよ。

−−ヨットも操縦されるんですね。

大賀:ヨットで西伊豆に行くためには絶対それをもってないと下田の沖で捕まってしまいます(笑)。それでCBSソニーの中にヨット部を作ったんですよ。考えてみたら本当に遊んでばかりいました(笑)。

 

4. 軽井沢大賀ホール設立

−−話は変わりますが、軽井沢の大賀ホールについて伺いたいのですが、作って一番よかったと思われていることはなんですか?

大賀:作ってよかったなと思っているのは軽井沢の町であって(笑)。ソニーが退職金に16億くれると言ったら、全く欲のないうちの家内が「軽井沢町に寄付してホールを建てるのに使ったら」と言うんですよ。

−−奥様はなぜ軽井沢に寄付しようと仰ったのでしょうか?

大賀:戦時中、軽井沢にレオ・シロタという有名なユダヤ人のピアノの先生が疎開していて、家内が疎開先の長野県の諏訪湖のほとりからその先生のところに通っていたんです。当時は汽車の切符は30キロ制限というのがあって、30キロ行くと、降りて並んでまた切符を買い直さなきゃいけないという時代だったのでそれはとても大変で。あるときなんて汽車が行ってしまうとそこら辺の宿に行って「泊めてください」とお願いしたりしたそうです。しかし泊めてもらうにはお米を持って行かないと泊めてくれなかった時代で、そういう青春の大変な時間を軽井沢にお世話になったけど、軽井沢には満足な音楽堂もないから「あそこにホールを建てるお金を寄付しましょうよ」と。

−−ホールは5角形で平行壁面がない作りだそうですね。

大賀:シューボックススタイル(長方形タイプ)にしてしまうと平行壁面ができて音が消し合ったり、増幅されたりして音が悪くなるんです。東京芸術大学に講堂ができたときにオープニングの式典があったんですよ。そのときに学長が話し終わったら誰かがすっと立って「今仰ったことがひと言もわからないんですけど」と言ったんです。私も本当に平行壁面というのはこんなに音を悪くするものかと思って。ウィーンの楽友協会のホールは平行壁面ですが、あれは立地の事情から平行壁面で作らざるを得なかったんです。だから両側に彫像をずっと置いていったわけです。他にも上から大きなシャンデリアをおろしたり、正面はパイプオルガンのパイプで音を反射させているのですが、そういうことができればいいけれど、ただのシューボックススタイルだと音が悪くなるに決まってると。

−−大賀さんは学生の頃から音響にお詳しかったそうで、ソニーの製品にクレームをつけたことがきっかけでソニーに入社されたそうですね。

大賀:クレームをつけたのはテープレコーダーで、テープレコーダーというものは音楽家にとってみると一種の鏡なんですよ。バレリーナは鏡の前で自分の踊りを見ることができますが、音楽は時間的な芸術ですからテープレコーダー以外に自分の音がどういう表現がされているかわからないわけです。そうしたらソニーがテープレコーダーを作ることに成功したというんですね。そのテープレコーダーは私が通っていた芸術大学の1年の授業料が3千円の時代に、16万8千円もしたんです。それでそのテープレコーダーを大学に「買ってほしい」とお願いしたら、「文部省(現 文部科学省)に言って予算をもらってこよう」と文部省にかけあってくれて、入手できたんですが、すごく音が悪かったんですよ(笑)。

大賀 典雄4

−−(笑)。それはオープンリールのテープレコーダーですか?

大賀:そうです。大きな10インチのテープレコーダーを当時ソニーが作っていたわけです。

−−みなさんは普通に喜んだと思いますが、大賀さんの耳は納得できなかったんですね。

大賀:もう全然。こんなに音が悪くちゃ勉強にも使えないじゃないかと直接言ったら、井深さんが「面白い男がきた」ということになったわけです。

−−井深さんに直接文句を言いに行ったんですね。その頃のソニーはどんな時代ですか?

大賀::このビルの向いの土地が昔、ソニーの本社ビルがあったところです。私がソニーを訪ねた当時は本当に小さなところでやっていたんです。そのうちお金ができて、三井物産が財閥解体で色々な会社に分けられて、第一物産と言われた頃の本社があったところをソニーが買って、そこに本社を移したんです。私は、ソニーがその土地を買って本社が出来上がるのも全部見てきたんですよね。昔、このあたりはビルが1つもなかったんですよ。本当に東京という街は年中何か作っているんですよね。

−−どんどん変わりますよね。僕が小さい頃にはどこからでも東京タワーだけは見えましたけど、今はどこにあるのかわからないですからね。

大賀:昨年の12月に東京タワーができてから50年ということで有名な照明デザイナーの石井幹子さんが東京タワーを新しくライトアップしたんです。今までの光源じゃ電気代が大変だということで、新しい光源に変えて。そうしたら瞬時に色が変わるようになってね。その新しい東京タワーのライトアップを見るイベントを東京タワーが主催して、貿易センタービルの最上階に我々を招待して一斉にライトを付けて。本当に新しい光源は消費電力が桁違いに少ないし、色がきれいですしね。彼女はレインボーブリッジも手掛けているんですよね。

 

5.指揮者としての大賀典雄氏

−−大賀さんは今も指揮を続けておられるんですよね、5月に軽井沢大賀ホールで東京フィルハーモニーのコンサートもなさると伺っています。お体のほうもずいぶん回復なさって。

大賀:いやいや、わからないですよ(笑)。ただ、ハワイでのソニーオープンは、始めたのが私のときだったので毎年その時期にはハワイに行っています。

−−ハワイではゴルフもおやりになるんですか?

大賀:いやいや、最近はもう全然。今や打ったって家内のほうが遠くに飛ぶんですから。(笑)。

−−(笑)。

大賀:家内は物欲はないけどゴルフだけは一生懸命やりますね。一昨日かな? 家にいないなと思ったら朝早くからゴルフに出かけていましたよ(笑)。

−−オーケストラを指揮されるときの醍醐味はなんでしょうか?

大賀:醍醐味はほんとうにみんなが一緒に演奏することですね。オーケストラというのは弦楽器が4種類、あとは管楽器がたくさんあるんですよ。そうしたら管楽器には息をさせなければいけない。息をさせるときはみんながばらばらにするんじゃなくて全員で息をして、次にいくことが大切だと言うんだけど、最近の若い指揮者は息をさせないんですよね。カラヤンは息をさせる箇所を全部楽譜に書き込んでいましたよ。

−−あれだけ大勢の人たちを統率するわけですから指揮者も大変ですよね・・・。

大賀:(机の上に置かれたMusicmanを手に取り)この本はどういったものなんですか?

−−音楽業界のタウンページのような書籍で、レコーディングスタジオの情報なども載っています。ちなみに乃木坂のソニーのスタジオも掲載されてます。

大賀:こんなにたくさんレコーディングスタジオがあるんですか?

大賀 典雄5

−−はい(笑)。でも乃木坂のソニースタジオは世界で一番すごいスタジオですよね。

大賀:アナログとデジタル双方に対応出来る機材を備えたスタジオなので、そういう意味ではアナログの良さも残ったスタジオですよね。

−−最後のアナログの最高級スタジオですよね。

大賀:(机の上のICレコーダーを見て)今はこの大きさのレコーダーで録音できてしまうんですね。

−−この大きさで何時間も録音できて、音質はCD並だそうです。

大賀:世の中次から次へ新しいものが出てきますね。

−−我々の世代でもなかなかついていけないぐらい目新しいものが出てきますね。あと安くなったんですよね。

大賀:あまりにも小さなところに強引に押し込んだ最近の機械は非常に人工的な音なので、もう少し満足に音の圧縮ができたらいいのになと思いますけどね。

−−本日はお忙しい中ありがとうございました。東京フィルハーモニーの軽井沢のコンサートのご成功もお祈りしております。

(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)

 「“78”と聞いて何を思い浮かべましたか?」インタビューが始まり、大賀さんから突然の問いかけでした。思いもよらない始まり方にとても驚きましたが、淡々と音響の理論やCDの原理を話されている姿はとても楽しそうで、当時、CDの開発に情熱を傾けていた頃と変わらない、同じような気持ちで現在もいらっしゃるのだろうと感じられました。CDの開発や、ホールの寄付、カラヤンとの信頼関係など常に偉業を成し遂げながらも慢心することがない大賀さんは、失礼ながら、お年とは思えない好奇心を今も衰えることなくお持ちになっており、短いながらも和やかにインタビューを終えることが出来ました。5月には軽井沢春の音楽祭で指揮するコンサートを控えており、これからも様々な形でご活躍が期待されます。

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