第82回 石坂 敬一 氏 ユニバーサル ミュージック合同会社 最高経営責任者 兼 会長

インタビュー リレーインタビュー

石坂 敬一 氏
石坂 敬一 氏

ユニバーサル ミュージック合同会社 最高経営責任者 兼 会長 / 社団法人日本レコード協会 会長 

今回の「Musicman’s RELAY」は日野皓正さんからのご紹介で、ユニバーサルミュージック合同会社 最高経営責任者 兼 会長 / 社団法人日本レコード協会会長の石坂敬一さんのご登場です。慶應義塾大学を卒業後、東芝音楽工業(現:EMIミュージック・ジャパン)へ入社。学生時代に培った膨大な洋楽の知識を発揮し洋楽ディレクターとしてビートルズ、T・レックス、ピンク・フロイドなど数々のヒット作を手掛ける。そして、各メーカーが手探りで洋楽を売り出していた時代に邦題をつけることで「日本の洋楽」を定着させ、”プログレッシヴ・ロック”という言葉を生み出すなど現在の洋楽シーンの礎を築かれました。さらにユニバーサル ミュージックの代表に就任されてからは、音楽配信をプロモーションに活用した新人アーティストの売り出しや「オトナ」を対象としたCD市場の開拓など、斬新なアイディアで同社をマーケットシェア第1位に導きました。そんな石坂さんにこれまでの半生や、大きく変わりつつある音楽業界について伺いました。

[2009年7月7日 / 港区赤坂 ユニバーサル ミュージック合同会社にて]

プロフィール
石坂 敬一(いしざか・けいいち) 
ユニバーサル ミュージック合同会社 最高経営責任者 兼 会長 / 社団法人日本レコード協会 会長


昭和20年 8月25日生

昭和43年 慶應義塾大学経済部 卒業
昭和43年 東芝音楽工業 (現EMIミュージック・ジャパン) 入社 洋楽ディレクターとして、ビートルズ、ピンク・フロイド、レノン&ヨーコ、Tレックス、エルトン・ジョン、ジェフ・ベックなどを担当
昭和56年 同社 邦楽本部において、BOOWY、松任谷由実、長渕剛、矢沢永吉を担当
平成 3年 常務取締役 就任
平成 6年 ポリグラム株式会社 入社、 代表取締役社長 就任  (現 ユニバーサル ミュージック合同会社)
平成11年 ユニバーサル ミュージック株式会社 入社 代表取締役社長 就任  (現 ユニバーサル ミュージック合同会社)
平成13年 同社 代表取締役社長兼CEO 就任
平成18年 同社 代表取締役会長兼CEO 就任
平成21年 ユニバーサル ミュージック合同会社 最高経営責任者兼会長 就任

【公職】
社団法人日本レコード協会 理事 (平成11年 4月 〜)
社団法人日本レコード協会 副会長 (平成12年 4月 〜)
社団法人日本レコード協会 会長 (平成19年 7月 1日 〜)

 

    1. 音楽業界に縁のある石坂家
    2. 愛読書はビルボード〜洋楽にのめり込んでいった中学時代
    3. まるで洋楽ディレクターのようだった高校時代
    4. 東芝EMIへ入社〜邦題がヒットの鍵
    5. 「プログレッシヴ・ロック」誕生
    6. ジョン・レノンの死をきっかけに邦楽へ
    7. ユニバーサル ミュージック代表に就任
    8. 背中がゾクゾクするような良い音楽を作ることが必要

 

1.音楽業界に縁のある石坂家

−−まず、前回ご登場いただいた日野皓正さんとのご関係をお伺いしたいのですが。

石坂:だいぶ前に私と映画評論家の今野雄二さんと日野さんで食事をしたときに意気投合しまして、日野さんに「東芝EMIへ移籍してくれ」とお願いしたんです。その後も折を見てお会いしていますので、音楽だけのお付き合いというわけではないんです。

−−日野さんとはお住まいがご近所だそうですね。近所のお好み焼き屋さんに行くと石坂さんにお会いになると日野さんもおっしゃっていました。

石坂:そうですね、お会いします。日野さんはとても雰囲気がある方ですよね。

−−オーラをすごく感じました。

石坂:音楽家で外観がかっこいいということは重要な要素で、日野さんはトランペッターとして世界で最もかっこいいんじゃないかと思います。それにいつまでも歳をとらないですよね。

−−お歳を聞いてびっくりしたというか、本当にお若いという印象でした。

石坂:若くしてカリスマ性を身につけていたし、それに努力してなさそうな感じがいいですよね。

−−そうですね。日野さんは自然体ですよね。

石坂:ニューヨークにいらっしゃるときにベジタリアンが流行っていたらしく、ベジタリアンになってみたらトランペットの音が小さくなってしまったので、また肉を食べるようになったというエピソードもいいんですよね(笑)。

−−(笑)。20年以上前にお酒を絶たれたとも伺いました。

石坂:そうでしょうね、私は絶たないですけど(笑)。

−−(笑)。ではここからは石坂さんご自身についてお伺いしたいのですが、ご出身は東京と伺っております。

石坂:埼玉県熊谷の籠原というところに本家の屋敷がありまして、4歳頃までそこにいました。その後、幼稚園に入る前くらいに東京に出てきました。

−−東京のどちらにお住まいだったのですか?

石坂:渋谷区の美竹町というところで、今で言う青山5丁目くらいでしょうか。当時都電病院と呼んだんですが、正確には東京交通局病院のすぐそばです。

−−現在の「こどもの城」のあたりですね。東京での小学生時代はいかがでしたか?

石坂:戦後の復興初期だったので教科書とかはあんまり良くなかったんですよ。ですから参考書をたくさん買って、中学受験をするためにがんばりました。

−−勉強に励まれたんですね。

石坂:小学校4年生くらいからですけどね。あとは背が高くないと損をすると言われていたので、ミルクをたくさん飲みました。

−−(笑)。充分成果が出ていますよね。

石坂:この年代の人としてはそうですね。

−−ご兄弟はお姉さんがいらっしゃると伺いましたが。

石坂:4歳離れた姉と二人姉弟です。

−−一緒に遊ばれた記憶はありますか?

石坂:いえ。あの当時は「男女七歳にして席を同じうせず」でしたから。

−−その後は慶応中学に合格されましたが、当時もやはり難関だったんでしょうか?

石坂:学校のレベルはよくわからないんですが、同じ小学校から10人くらいが慶応中学を受験して、受かったのは僕だけでした。

−−秀才でいらしたんですね。ちなみにお父様は何のお仕事をなさっていたんですか?

石坂:私の父は元々東芝ですね。東芝は日本ビクターと日本コロムビアの2大レコード会社を持っていたんですが、戦後GHQの指令によって財閥解体が行われ、日本勧業銀行が間に入り、日立が日本コロムビアを買い、松下が日本ビクターを買ったために東芝から両方離れました。その後、東芝のトップだった石坂泰三さんが「弔い合戦をやる」ということで、面子にかけてレコード会社を作ることになったんです。それでEMIというイギリスの国策的レコード会社と東芝が技術提携して、東京芝浦電気音楽事業部という部署ができたのが、昭和27年か28年頃です。戦前から戦後、東芝からビクターに行っていた父が東芝に戻って事業部長をやっていました。

−−そうだったんですか。では石坂家は代々、東芝と関係が深いのですね。

石坂:代々と言っても石坂泰三さんからですけどね。東京芝浦電気音楽事業部が後の東芝音楽工業、東芝EMIの前身ですね。

 

2. 愛読書はビルボード〜洋楽にのめり込んでいった中学時代

−−中学校に入られてからは学校の雰囲気もがらっと変わったかと思いますが、中・高校生時代はどのような学生生活を送られたんですか?

石坂:当時はやはり親の職業から子供の憧れも決まっていたと思います。私の場合、中学・高校時代の憧れはアメリカ、イギリスそれから邦画も含めて映画全般と音楽。あと強いて言えばイギリスの歴史に興味がありました。役者では中村錦之助が好きでしたね。あとは片岡千恵蔵、京マチ子、千原しのぶなんかが好きでした。

−−時代劇ですね。

石坂:年中、東映の映画を観てました。片岡千恵蔵の『日輪』は神武天皇あたりの日本の誕生記ですが、これは面白かったですね。他には新東宝の『明治天皇と日露大戦争』という作品を観て、「いつか俺も勝つぞ!」と興奮したのを覚えています。

−−(笑)。

石坂:あとは英語に力を入れていた中学校だったので、ワシントン・ハイツに米軍の将校ハウスがたくさんあったんですが、中学1年のときにそこの一軒にアルバイトへ行ったんです。

−−それはどういうアルバイトだったのですか?

石坂:ベビーシッターで、2才と4才の子供を預かっていました。そこのお母さんが何でもくれるんですよ。「いらない!」と言っていたんですが、コカ・コーラ、バブルガム、チーズやポテトチップなど、どれも珍しいものばかりでした。

−−当時、普通では手に入らないものばかりですね。やはり将校ハウスの中はアメリカだったんですね。

石坂:もう1950年代のアメリカン・ドリームそのものですね。私の家がまだ氷冷蔵庫だったときに、とても大きな電気冷蔵庫を使っていましたからね。テレビもゼニスのリモコンテレビだったのでびっくりしましたね。

石坂 敬一1

−−石坂さんのお宅も決して貧しい環境ではなかったかと思いますが、それでも圧倒的な違いだったんですね。

石坂:電気製品が全く違っていましたね。東芝の有名な電気釜が出た直後ぐらいの頃を想像してもらえればわかりやすいかもしれませんが、電気洗濯機もでかいし、とにかく何でもでかいんですね。さらに目の前でお母さんとお父さんが年中キスするもんだから、何にも免疫が無い僕は思わず目を背けちゃってましたね(笑)。

−−そりゃそうですよね(笑)。では多感な少年時代にそのアルバイトというのは影響が大きかったのではないでしょうか?

石坂:多感でしたけど、ロマンチックな影響というのは全然受けなかったですよ。ただ「いいな」とか、「やっぱりアメリカは戦争が強いわけだ」と思ったくらいでね。1950年代は戦争に負けた日本は当然苦しかったですし、国全体が「さあ、立ち上がるぞ!」というまだ手前で、アメリカが一人勝ちでしたからね。

−−音楽との最初の出会いは何だったんですか?

石坂:エルヴィス・プレスリーですね。確か姉が『ラヴ・ミー・テンダー』を買ってきたんです。それからポール・アンカの『ダイアナ』、リッキー・ネルソンの『ロンサム・タウン』と、アメリカのポップスのコレクションから始まったんです。

−−FENも聴かれていましたか?

石坂:ええ。FENは英語のヒアリングのためにもなりましたし、中学2年くらいから聴いていました。毎週土曜日の8時からFENの810キロサイクルでビルボードのトップ20を放送していたんです。ビルボードで調べたりするのが好きで、銀座のイエナ(Jena)洋書店で取り寄せていました。

−−音楽評論家の方が買うなら分かりますけど、中学生がビルボードを取り寄せていたというのはすごいですね。当時は高価なものだったんですよね?

石坂:高いですよ。毎週買っていたわけではないですが、月に1回くらいで大体わかりますよね。ロイド・プライスの『スタッガー・リー』なんてFENで聴いているだけじゃタイトルもよく分からないし「(何とか)リーってこれか!」と調べていました。

−−その頃にはすでに洋楽に没頭されていたんですね。

石坂:中学時代はとにかく「英語を勉強しなくちゃ」という思いが強かったですね。学校内で英語の名前をつけていて、僕はテッドと呼ばれていました。

−−テッドですか?!

石坂:テッド石坂ですよ。他にはポールがいたりしたんですが、日本人同士でその名前で呼び合うのは鳥肌が立ちますよね(笑)。

−−(笑)。テッドという呼び名は中学卒業後も残ったんですか?

石坂:いえ、中学だけですね。残らなくて良かったですよ(笑)。

 

3. まるで洋楽ディレクターのようだった高校時代

−−他に熱中されていたことはありますか?

石坂:映画に熱中していましたね、特にフランス映画をよく観ていたんですが、中学生の終わりくらいに『太陽がいっぱい』や『怪傑ゾロ』を観て、「国際社会でがんばると、こういうところに行けるんだ」と思いましたね。

−−「このヨットに乗ってやる!」という感じですよね。

石坂 敬一2

石坂:そうですね。あとはイタリアの『自転車泥棒』とか『ベン・ハー』。史劇はだいたいカーク・ダグラスか『エル・シド』のチャールトン・ヘストン。とにかくヨーロッパ、アメリカ映画は山のように観ましたね。特に好きだったのは『ヘラクレス』のスティーヴ・リーブスでファンレターを書きました。

−−ちなみに運動は得意だったんですか?

石坂:相撲が強かったですね。幼稚園、小学校通して相撲が強くて、野球が下手でした。

−−相撲とは意外です。体も大きかったのですか?

石坂:クラスで3番目くらいです。それで柔道もやっていたので、組めば投げるというルールのあるスポーツでは強かったと思います。私がファンだった力士は鏡里なんです。小学校2年の時に時津風部屋の鏡里にファンレターで「将来は鏡里関のようになりたい」と書いて送ったんです。

−−(笑)。返事は来たんですか?

石坂:「君の体格を教えて下さい」と返ってきましたよ(笑)。

−−(笑)。今もお相撲は見られますか?

石坂:もちろん見ますけど、朝青龍や日馬富士、白鳳はみんな立派だと思いますよ。強い奴が褒められるべきなのに、朝青龍ばっかり叩かれてかわいそうですよ。

−−資料にも相撲については書かれていなかったし、石坂さんと相撲というイメージが結びつかなくて意外でした。

石坂:会社に入ってからも相撲を取っていましたね。

−−それはすごいですね(笑)。最近もでしょうか?

石坂:最後に激突したのが10年前で、東芝EMIの中曾根さん(現:(株)EMIミュージック・ジャパン監査役 中曾根純也氏)とやったら、中曾根さんが意外と強かったんですよ。あと、日レ商(日本レコード商業組合)の前理事長の矢島さんとはキャピトル東京ホテルの絨毯の厚いメインロビーでやって、読売新聞の武藤さんも強かったですが、僕の敵じゃなかったですね(笑)。

−−念のためにお聞きしますが、取っ組み合いの喧嘩ではないですよね?

石坂:もちろん!(笑) ルールのある相撲ですよ。裸でやるわけではなくておふざけの範囲ですが、相撲が好きな人は結構多いんですよ。

−−話を戻しまして、高校時代はどのような学生生活を送られたんでしょうか?

石坂:高校時代は“歴史の石坂”と呼ばれたくらい歴史が得意でした。

−−それは日本史、世界史どちらですか?

石坂:どちらも得意でしたが、余計にイギリスにはまっていったんですね。アイヴァンホー、ランスロット、ネルソン提督、獅子心王リチャード、アーサー王伝説、マクベスなどを年中夢見ていました。

−−年頃になってくるわけですが、「女の子にモテたい」という思いはもうありましたか?

石坂:男子校だったからそういう気持ちはもの凄くありましたね。だけどいざ女の子の目の前に出ると黙っちゃうという感じでしたね。

−−女の子にモテるために楽器を始めたりはしなかったんでしょうか?

石坂:ギターはやっていましたけど下手だなと感じていて、それより音楽を聴いてそこから拡大解釈していろんなことを想像するほうが好きでした。

−−例えば、どのようなことを考えられていたんですか?

石坂:イギリスのジョン・レイトンの『霧の中のジョニー』を聴いて、「やっぱりイギリスは寒い国だから、日本人のセンチメントや情緒に繋がるいい歌が多いな」と思って、「だからイギリスの歌がアメリカで全然当たらないのもわかる。イギリスの歌なら日本のほうが合うかな」というようなことを考えていましたね。アメリカはその頃ビーチ・ボーイズ『サーフィン・サファリ』とか、チャビー・チェッカーの『The Twist』、ジョイ・ディーとスター・ライターズの『Peppermint Twist』、ザ・ロネッツの『Be My Baby』といった曲がヒットしていました。

−−びっくりするほどアーティストの名前や曲名がスラスラ出てきますね。

石坂:高校時代はやっぱりマニアックな友人がいて、新宿の国分という中古レコード屋さんに行くんです。そこには米軍のお古の45回転盤が100円で売ってたので母にお金を貰って、一枚一枚見ているのも面倒くさいから箱ごと買っていたらリッチー・ヴァレンスが手に入ったりね。その当時、輸入物をたくさん捉えていたのは銀座のイエナと原宿のキディランド、あとヤマハがありましたがこちらは楽譜になっていくんですよね。

−−キディランドで輸入レコードを扱っていたんですか?

石坂:ええ。僕はキディランドでボブ・ディランのデビュー盤を買いましたから。現在の色んな雑誌を見ると「60年代初頭に日本でも大ヒット」みたいに勘違いしているものがありますが、例えば、リトル・リチャードやチャック・ベリー、ラリー・ウィリアムズ、ファッツ・ドミノなどは、日本でリアルタイムで人気になったことはないんです。ビートルズが『ロックンロール・ミュージック』をやったからと言って、チャック・ベリーのオリジナルが日本でも流行ったなんて嘘ですよ。こういうような間違ったことはたまに否定しておかないと。

−−なんだか洋楽ディレクターのような高校生ですね。

石坂:いや、ディレクターよりも詳しかったと思います(笑)。

 

4. 東芝EMIへ入社〜邦題がヒットの鍵

−−音楽をビジネスとしてお考えになるのは大学に入られてからでしょうか?

石坂:そうですね、大学2年くらいから将来についてみんな話し出しますから。条件として「得意なことを生かせる」、「国際舞台がある」、「一定の知名度がある」企業がいいかなと考えていたんですが、結局、ビートルズ担当で東芝EMIの花形ディレクターだった高嶋弘之さんという方が「おいでよ」と言って下さったので、「はい」と即答しました。

−−高嶋さんと既に面識がおありだったのですね。

石坂:レコードが欲しくてしょっちゅう遊びに行っていましたから。

−−高嶋弘之さんは高嶋忠夫さんの弟さんですよね?

石坂:その通りです。その高嶋ディレクターの下に邦楽の新田さん(現:(株)ドリーミュージック・取締役エグゼクティブプロデューサー 新田和長氏)がいて、洋楽を僕がやることになったんです。新田さんのほうはオフコースと甲斐バンドなどを担当して、私はビートルズとT・レックス、ピンク・フロイドという感じですね。

−−お互いにライバル視されていたんでしょうか?

石坂:まあ同い年ということもありますしね。同い年で新田さんが早稲田、私が慶応ということでみんなが面白がって競り合いにするんです。新田さんは本当に魅力的な男ですよ。

−−東芝EMIに入社なされたのが1968年で最初から洋楽ディレクターだったのですか?

石坂:そうです、ビートルズ担当ディレクターの水原健二さんのアシスタントとしてブリティッシュ・ロック、ブリティッシュ・ポップの担当として、まずヤードバーズを出したんです。

−−入社の際に書かれた論文がすごかったとお聞きしましたが。

石坂:『ティップ・トゥ・スルー・ザ・チューリップス』という珍しい詞のレコードがアメリカで1位になって、これはヒッピーのアンセムになったことがあるんですね。それで「ugly is beautiful, beautiful is ugly」のような反語がヒッピー世代のシンボリックワードになったんです。それを受けて「醜は美、美は醜なり」とはどういうことだろうか、それをアンディ・ウォーホルの言葉を使ったり、色んなヒッピーの言葉を引用したりして「醜は美、美は醜なり」が一番具現、表現されている芸術とはポップアートだ、それをやるにはこういうビジュアル・プロダクツとこういう音楽を併せて聴いて、自分なりの解釈をすべきで正解はない・・・というようなことを書いたんですよ。

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−−それは「すごい奴が入ってくる」となりますよね。

石坂:入社の翌々日に読んだ人から「本当の意味を教えてほしい」と電話があって(笑)。そういう傾向のものは諏訪優、金坂健二、横尾忠則などが新宿プレイマップとかに随分書いていて、あの頃流行っていたということもあります。

−−入社した瞬間から注目の新人だったわけですね。

石坂:僕がブリティッシュ・ロックに対してあまりに詳しいんで、みんなびっくりしていましたね。

−−石坂さんのお仕事で何より驚かされたのが、『原子心母』に代表されるような鮮烈な邦題です。洋楽の売り方というものがみんなわからなかったところに売り方の見本を見せてくれたと思います。

石坂:例えば、映画『太陽がいっぱい』が原題のまま『プレイン・ソレイユ』だったら日本ではよくわからない。「いっぱいの太陽」だとロマンティシズムが消えちゃいますが、それが『太陽がいっぱい』だからいいんです。暗喩がありますしね。同様にジョン・フォードの『駅馬車』も『ステージ・コーチ』のままではもしかしたら日本では当たらなかったかもしれない。音楽も同様で、T・レックスの『電気の武者』は最初「電気の武士」としてみたんですが、「武士」はなんとなく響きが良くなかったので『電気の武者』にしてみたら「これだ!」となったわけです。やはり日本語を大事にすべきだと考えていました。

−−確かに邦題の持つイメージはとても大きいですね。

石坂:ヴァニティ・フェアの『ヒッチン・ア・ライド』がフォノグラム(旧:日本フォノグラム、現:ユニバーサル ミュージック)では当たらなかったんですが、その後、私が『夜明けのヒッチ・ハイク』というタイトルにして出したんです。そうしたら上手いことに「夜明け」特集でも「ヒッチ・ハイク」特集でもかかるようになったりと、やはり言葉の効用は大きいと思いましたね。

 

5.「プログレッシヴ・ロック」誕生

−−それは学生の頃からずっと音楽を聴いて色々考えられていたことが役に立ったということですね。

石坂:そうですね、『原子心母』は「パストラル」のイメージが非常に強いんです。その「パストラル」をどう捉えるかで、『原子心母』という直訳が合うか合わないかの感覚的判断ができます。また、ジャケットの内側のすごく広大なモノクロ写真からもインスピレーションを得ましたし、’70年頃にヒプノシス(※イギリスのアートワーク集団)に会っていたということも大きいと思います。とにかくイメージとして広大無辺というか宇宙ではないんですが、限りない大きさがあれにはありました。だから「これは『原子心母』しかない!」と思っていました。ちなみに『原子心母』のイニシャルは800枚だったんですよ。

−−たったそれだけだったのですか?

石坂:まだピンク・フロイドは売れてなかったですからね。『原子心母』が売れ出してから、その前に出した『ウマグマ』も『モア』も『神秘』とつけた『A Saucerful of Secrets』も全部動き出して、同じ流れに乗ってキング・クリムゾンも本来あるべきセールスまで行きました。マクドナルド・アンド・ジャイルズなんてあの頃一番売れたんじゃないでしょうか? それでムーディー・ブルースも邦題をつけるようになって、そこで私と渋谷陽一さんでプログレを流行らせようとしたんです。

−−「プログレッシヴ・ロック」と名付けたのも石坂さんなんですよね。

石坂:日本語ではそうですね。エドガー・ヴァレーズの「音楽は音の有機物なり」という発言をもとに、「ピンク・フロイドはプログレッシヴ・ロックの道なり」とつけました。

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−−最初にピンク・フロイドを聴かれたときは売れると思われましたか?

石坂:単純に私が好きだったんですね、好きなタイプというか。ただ、売れるかどうかというのはわからなかったです。800枚のイニシャルだと宣伝費はないですよね。だけど足を使ってやるプロモーションにおいては、牛が使ってあるジャケットは印象的でした。それをビブロス(※赤坂の高級ディスコ)で張ってもらって、ムゲン(※赤坂の大衆ディスコ)に行ったり、六本木の色んなところにも持って行ったりしていました。

−−当時の深夜放送でよくピンク・フロイドがかかっていたのを覚えています。

石坂:それはかけないと朝の五時まで私が局のスタジオから帰らなかったからです。その頃の仕事としてイチ押しのアーティストがいる時期は、週に2回は朝5時までラジオ局に張りついていましたね。

−−あの当時は洋楽に勢いがありましたよね。

石坂:日本向きの曲を選ぶゆとりがあったんでしょうね。クリフ・リチャードの『しあわせの朝』なんて、オリジナルはヴァニティ・フェアなんですよ。アメリカではあまり当たらなかったんですが、すごく綺麗な歌で「しあわせ」を平仮名にして曲調とも合っていたからとにかく当たりました。ソニーミュージックの洋楽担当だった堤光生さんは、マウンテンの『Flowers Of Evil』を『悪の華』とボードレールの詩集と同じ邦題にして、読んでいると頭が痛くなるような、もの凄く広大な解説を独自につけてバカ売れですよ。そうしたらコロムビアの清水美樹夫さんという優秀な方がいて、彼はユーライア・ヒープの『Look At Yourself』に『対自核』とつけたんですが、これもイメージが湧く邦題ですよね。

−−皆さん競うように邦題をつけていましたね。

石坂:当時はアメリカものとイギリスものが中心でしたが、他にはヨーロッパもの、映画もの、それから誰かが見つけてきた日本の感覚にぴったりだけど本国でも知られていないような洋楽までありました。だから国際資本がしっかりしてきて世界同時発売とか統一規格でやるようになってから日本人に合う洋楽という感覚は無くなってしまいました。これはもったいないことですよ。

−−また日本人に合う洋楽を展開するというような時代は来ないんでしょうか?

石坂:まあ30年くらいは無理なんじゃないでしょうか? もしくはこの業界が変わり過ぎて永遠に来ないかもしれないですね。

 

6. ジョン・レノンの死をきっかけに邦楽へ

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−−数々のビッグネームとの親交があると思うのですが、特に覚えてらっしゃるエピソードはありますか?

石坂:たくさんありますね。ピンク・フロイドが最初に来日したのが1971年で、そのとき私は入社2年半だったんですが、ニック・メイスンが原宿の骨董屋に行きたいと言い出したので連れて行くことにしました。車が無かったので自分の車で行ったのですが、今考えると恐ろしいことに保険がかかっているかどうかもわからない車にニック・メイスンとロジャー・ウォーターズを乗せて行ってね(笑)。夜はビブロスにリック・ライトも加えた3人をセキュリティも無い状態で案内して、交際費というものが無かったから自費で全部出したんです。その後、試しに交際費として精算してみたら経費がおりたんですけどね(笑)。

 それと(忌野)清志郎と六本木にあるザ・ゴールデン・カップスのデイヴ平尾さんの店に飲みに行ったときに、平尾さんが「清志郎は俺のおっかけだった」と教えてくれて、『長い髪の少女』を一緒に歌ったことが何度もあるらしくて、そのときも平尾さんに促されて清志郎は『長い髪の少女』を歌ったんですが、完璧にブルースしてましたよ。

−−それは是非聴いてみたかったですね。清志郎さんが亡くなられたときは葬儀委員長もされたそうですね。

石坂:ええ。私の中での清志郎はハウリン・ウルフと並ぶブルース・ボイスですよ。本当に良い声だったから、惜しいですよね。

−−本当ですね。

石坂:あとはかつて観に行ったスパイダースが1965年にビートルズの『チケット・トゥ・ライド(涙の乗車券)』をイギリスの発売日に合わせて演奏していたんです。どうやって発売日にそんなことができるんだろうと思っていたところ、先日堺正章さんがテレビで仰っていたんですが、ムッシュかまやつさんがイギリスの知り合いから音だけを入手していたらしいんです。でも発売前だから歌詞カードも何にもないし、英語ももごもご言ってよくわかんないからそっくりショーでやって、後で歌詞を見たらむちゃくちゃだったとご本人が仰っていました(笑)。

−−(笑)。ジョン・レノンが亡くなって洋楽に踏ん切りがついたと伺いましたが。

石坂:そうですね。ジョン・レノンはやはり私のアイドルでありヒーローですね。マッカートニーよりレノンでした。それまでは自分がジョン・レノン化することを憧れていたけど、もうやめようと考えました。

−−邦楽に移られて、まず何から着手されたんですか?

石坂:邦楽の戦力を補強するために色んな人に来てもらおうということで、忌野清志郎とRCサクセション、BOφWY、それから矢沢永吉さんなどたくさん来てもらったんです。また、すでにスーパースターだったユーミンもさらに売ろうということで、冬に売る戦略を立てたんです。つまり人間が一番お金を持っている時期の12月の年末セールに向けてリリースすることを提言して、『VOYAGER』から冬にリリースするようになったんです。

−−確かにユーミン=冬というイメージが定着しましたよね。

石坂:結果的にすごい売れました。なんと言っても作品が良かったですしね。夏はライブをやってレコードは冬に出す、これで彼女は圧倒的な存在になりましたね。それから長渕剛ですね。長渕の場合はマネージャーの森田さんとも一緒に考えて、ライブで一番人気のある歌をもう一度やろうと、『巡恋歌』と『乾杯』を再録音してリリースしました。私は、そのアーティストがスーパーヒットを持っていたら、10年後に絶対パート2をやるべき、あるいは再録音すべきだと考えています。『乾杯』(‘88年)は初期の『乾杯』(‘80年)よりも遙かに売れて120万枚のヒット、『巡恋歌’92』は初期の青春の『巡恋歌』版から見ると男の『巡恋歌』になって、これもミリオン。両方ともチャート1位を獲りました。

−−他に印象に残っているアーティストはいらっしゃいますか?

石坂:BOφWYの成功ですね。つまりビートルズに影響を受けない日本のロックの誕生です。BOφWYの出現までは、やはり何らかでビートルズの幻影を引っ張っている、あるいはビートルズをリスペクトしているバンドが多かったですが、ビートルズを断ち切った最初の成功者がBOφWYでしたね。

 

7.ユニバーサル ミュージック代表に就任

−−その当時、誰もがいずれ石坂さんが東芝EMIのトップになると予想していたと思うのですが。

石坂:私はレコード会社を考えるのに経営力、これは数字ですね。あとは人事とA&R、この3つは持っていなくてはいけないというのが主義で、そういう意味ではトップのポジションにならないとなかなかこれらは発揮できない。だからサラリーマンになる以上トップになろうとは思っていましたが、違う会社の社長になっちゃいましたから(笑)。

−−そうですよね(笑)。当時はやはり意外でした。

石坂:でもそれはわからないですよね。自分の会社やオーナー経営者ではなくて雇われですからね。

−−その後の色々なことを考えますとその時のご決断というのは結果として正しかったのではないでしょうか?

石坂:うーん、まあツキですね。ツキがないとノーマン・チェンが私に声はかけてこないと思います。私が契約したのが48才、1994年の6月で実際に入ったのは11月ですけど、外資がすごいなと思うのは入社して3日目くらいに「12月のあなたの責任はこれだけだから」と数字を言われるんですよ。やっぱりちゃんとやらなくちゃまずいんだと思って(笑)。

−−それはいきなり厳しいですね。

石坂:それでなんと言っても優秀な相棒が必要だということで翌年、鈴木伸子さん(ユニバーサルミュージック合同会社副会長兼CFO)を面接して入ってもらったらこれが百人力でしたね。鈴木伸子さんの面接はあるヘッドハント会社の人を仲介にしてホテルオークラのバー、ハイランダーでやったんですけど、「私、歌は唄えないんですけどいいでしょうか?」と切り出されて、「この人は面白いことを聞くな」と思ってね。

−−(笑)。

石坂:「みなさん歌手をやっていた方々ですか?」とかトンチンカンなこと言うので(笑)。とにかく気が合いました。彼女はCFOの概念を日本に導入した一人ですね。

−−鈴木さんのような優秀な方が相棒だと石坂さんも心強かったんじゃないですか?

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石坂:そうですね。経営者としての私の考え方は、自分より優秀な人を集めるということです。自分より優秀な人を束ねてドライブさせること。音楽産業界というのははっきり言うと若者志向の業界で華やかで楽しい、遠心力が効く、外に行っても楽しい、外に行きたい。だからこそレコード産業の場合は求心力を持たないと駄目だと理屈で思うんです。それからある種の統制的なマネージメントを強くして牽引する。でないと優秀な人ほど遠心力が効いて色んな人から引っ張られて吹っ飛んでいってしまいます。そしてやはり右手に数字、左手にA&R、極端に分ければもうこの二つの要素ですね。数字が成り立っていてA&Rが成り立っている。つまりヒットが出て、いいアーティストがたくさんいればあとはなんとかなるんです。

−−業界第6位(ポリグラム時代)から1位になられた経緯をお聞かせ下さい。

石坂:これは一に邦楽強化、二に邦楽強化です。邦楽強化とは何をするのかと言うと、アーティスト・ロスターの時代性を考慮した上での強化と、それを総合できる優秀な人材が少なくとも2人は要ります。私は一専門分野を確固として持ったスーパージェネラリストがビジネスマンの究極の姿だと思います。一専門分野とはその分野では誰にも負けないという分野を持った人材で、スーパージェネラリストとはある程度でいいんですが、経理も経営企画も将来の予見もでき、過去のいきさつ・慣行・実績も持っているというような人材のことです。安岡正篤が「先輩は後輩を偉くするためにがんばれ」と言っていたんですが、こんなに分かり易くて素晴らしい言葉は無いですよ。この言葉が貴重な重みを持っているということは、現実はそうじゃないということでしょう。

−−ここ数年、レコードメーカー各社が苦労している中で、ユニバーサルは確実に成長を続けているイメージがあります。

石坂:なかなか大変は大変ですが、前年度のパフォーマンスを維持すれば業界全体のレベルが量的に下がっているので、マーケットシェアは自ずと上がりますよね。それからデジタルは素晴らしいけれど価格が安すぎることとイリーガル・コピーの蔓延を誘発します。ですからパッケージは会社経営において売上確保、利益確保に絶対に必須です。これをコンバインしなくてはいけない。そのための戦略はレコード協会会長として考えたんですが、一つは共生戦略、もう一つは棲み分けの戦略です。

 ティーンには「楽曲のつまみ食い」という習慣が生活に入っています。デジタルの着うたでチェックして、本当に良いと着うたフルを買う。さらにもっと良いとパッケージ・シングルの購入に繋がると。つまり、着うたで当たるとパッケージ・アルバムまで連なっていくんですね。また一方、パッケージ・アルバムに何の異存もないのが40代以上の人です。2,500円〜3,000円は不況であろうとも好きなものを買う値段としては決して高いわけではない。さらに簡単な操作で再生できて、ジャケットや歌詞カードもあるので保有感もある。ですから長渕剛、永英明、稲垣潤一、中森明菜などはすごい売れるんですよ。でも、ヒットソングとティーンは着うたの試し聴きですから、これはこれで大事ですし、BIGBANGや福山雅治のようなビジュアルも大切なアーティストは着うたでもパッケージでも両方いけます。つまり、そういう状況の中で、我々は共生と棲み分けでやっていこうと考えています。経験的に分かってきたこととしては、アングロサクソンが「あれかこれか」文化なのに対して、日本文化は「あれもこれも」文化なんですね。この差が状況の相違を生んでいるんでしょうね。

 

8.背中がゾクゾクするような良い音楽を作ることが必要

−−この度の人事で会長職になられるということですが、現場を離れてしまうのでしょうか?

石坂:そうですね、やはり後輩を偉くすることが仕事ですから。私は8月で64歳になりますので、10年経つと74歳ですし、どうなっているかわからないということもあります。

石坂 敬一7

−−いや、石坂さんは十分お若いと思いますが。ちなみに今まで忙しくて出来なかった個人的にやってみたいことはありますか?

石坂:日産のGT-Rを買おうかなと。

−−スポーツカーがお好きなんですか?

石坂:いや、あまり好きではなかったんですが、あと10年で人生を終えようというときに何をしようかなと考えた結果ですかね。あとはお酒をもっと飲む。

−−(笑)。本当にお酒がお好きなんですね。血液検査の数値は問題ないのですか?

石坂:いえ、問題無視です(笑)。

−−(笑)。例えば今後、ご自分で新たな事業を始められるという考えはありますか?

石坂:それはありませんね。大きな組織に入ってサラリーマンでやっていくのが自分に向いていると思います。何か新たに事業をやることとギャンブルには何の関心も無いですよ。

−−近年の音楽業界についてはどう思われますか?

石坂:これは誰もが言うかと思いますが、やはりもっと魅力のある作品を生み出す努力をしなくては駄目だと思います。例えば、ローリングストーン誌が選ぶ過去50年間のベスト500曲の8割5分は50、60、70年代の曲です。もちろん選出する人が一定の年齢にきているということもありますけどね。やはり心に沁みる国民歌というのはもっと出るべきで、それは作品の質でしょう。今は非常に技術的な楽曲が多いと思うのですが、もっと詞先の楽曲が必要だと思います。私は「レコード会社のトップは詞の行間についても一家言持て」と考えていて、さらには天下の出来事にも一家言持つべきで、少なくとも当たった後からでもいいから「ここがいいから売れたのかな」くらいは分析しなくてはならないと思います。

−−昔は作詞家、作曲家ですごい先生方がたくさんいらっしゃいました。

石坂:そうですね、私が最もすごいと思う作詞家がなかにし礼さん、他にも阿久悠さん、松本隆さん、作曲家にしても筒美京平さん、吉田正さんなどみなさんすごいですよね。プロデューサーではビーイングの全盛時代を作った長戸大幸さんやエイベックスを作った松浦勝人さん、東芝EMIの歌謡全盛を作った草野浩二さん、この方はシンコーミュージックの草野昌一さんの弟さんですね。あるいは山口百恵を始め数限り無いヒットを作った酒井政利さん、このような方々がレコード会社にいてヒットを連発したわけです。

 こういうプロデューサーは皆、詞に一家言を持っていますし、作品に口を出しますよね、違う言い方をすると少なくともレコード会社のディレクターは1,000曲以上の曲のポイントを押さえているべきだと思います。私の世代で言えば「ここはニール・セダカの『恋の日記』の2コーラス目の感じにしよう」というようなことが言えることが大切でしょうね。例えば1971年のクラウンのヒットで美川憲一の『お金をちょうだい』という曲があるんですが、今の時勢にぴったりなんですよ。でも、こういうトピックスに誰もチャレンジしないですよね。

−−”ロックの石坂”というイメージが強かったのですが、歌謡曲にも詳しいのですね?

石坂:自然に入っていることが多いですね。昔はラジオ局にずっと張りついていましたから。

−−昔と違って今は歌謡曲のヒットというのは少なくなっていますよね。

石坂:これはレコード会社のトップが真剣に考えるべきでしょうね。やはりジャンルを捨て過ぎたと言えると思います。現在ではクール・ファイブ、マヒナスターズのようなムード歌謡がなくなってしまいましたよね。最後のムード歌謡のヒットは多分『東京砂漠』でしょうか。当時はレキントギターとかラテン・パーカッションが入ったり、サウンドも豊富だったんですが、いつの間にか消滅してしまいましたね。

 博報堂や電通が「今年のカラーはこれ」と決めるように、レコード会社も何社か集まって「今年はどういうリズムでいこう」など、何か仕掛けたほうがいいと思います。これはちょっと古いセンスを押しつけているような気もしますが、何も起こらないなら押しつけたほうがいいとも思いますしね。今はどの曲も打ち込みでやるから、どれも同じになってしまって、音楽に幅と温もりがなくなってしまったと本当に思います。それから人の音楽を聴かないですよね。聴かないから絡み合うとか刺激し合うということもないのではないでしょうか。

−−今、ユニバーサルの若い制作ディレクターやA&Rを見ていかがですか?

石坂:重役会議で音楽をかけないレコード会社は滅ぶと言っていて、必要なら遠慮せずに音楽を聴けと言っていますし、随分たくさん聴いていると思いますよ。

−−これからの音楽業界はどのように変化すると思われますか?

石坂:今後、レコード会社の色々な形での競争がより激化すると思います。アメリカはメジャーが4社しかないんですね、あとはインディーズ。日本ではメジャーが今20社くらいありますが、これがこれからどういう風になっていくのかですよね。ただ自動車業界を見てみてもアメリカは依然ビッグ3なのに対して、日本では乗用車を作っているところだけでも9社くらいはあるので、そういう意味では日本は世界と違う展開の仕方で好ましいとも感じていますし、ガラパゴス現象は”あり”なのかなとも思います。それにしてもマーケットがシュリンクしているのが止まらない限り競争は激化しますよね。だから背中がゾクゾクするような良い音楽を作ることが何より必要だと思います。

−− 本日はお忙しい中ありがとうございました。石坂さんの益々のご活躍と、ユニバーサルミュージックの更なるご発展をお祈りしております。

(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)

今回のインタビューでは石坂さんの音楽の知識の深さにとにかく驚かされました。さらにその時代背景までも詳しく、まるで音楽史の生き字引のような方でした。とくに、洋楽ディレクター時代のお話は聞き応えのある内容でつい聞き入ってしまうほど。これまでも的確な判断力と柔軟かつ大胆な発想で数々の実績を残されてきた石坂さん。今後はその手腕でユニバーサルだけではなく音楽業界全体を盛り上げてくださることを期待しています。