第215回 株式会社テレビ朝日コンテンツ編成局 第1制作部 兼 ビジネスプロデュース局 イベントプロデュースセンター 利根川広毅氏【前半】
今回の「Musicman’s RELAY」はダダミュージック 代表取締役副社長 須藤敏文さんのご紹介で、株式会社テレビ朝日コンテンツ編成局 第1制作部 兼 ビジネスプロデュース局 イベントプロデュースセンター 利根川広毅さんのご登場です。番組制作会社を経て、フリーランスとして数多くの⾳楽番組演出を担当した利根川さんは、2013年に⽇本テレビへ⼊社。「Music Lovers」「LIVE MONSTER」「バズリズム」「THE MUSIC DAY」「ベストアーティスト」など数多くのレギュラー番組や特別番組を演出、プロデュースします。
その後、2018年9⽉にテレビ朝⽇へ⼊社。現在は「ミュージックステーション」「EIGHT JAM」の演出、プロデュースとともに、「METROCK」や「テレビ朝日ドリームフェスティバル」といったイベントのプロデュース、キャスティングも手掛ける利根川さんに話を伺いました。
(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也、Musicman編集長 榎本幹朗)
1977年生まれの音楽業界人はすごく多い
──前回ご登場頂いたダダミュージック 須藤敏文さんとはいつ頃出会われたんですか?
利根川:須藤さんと最初に出会ったのは10数年前です。僕はもともと日本テレビにいたんですが、当時「Music Lovers」というレギュラー番組があって、そこに布袋寅泰さんがゲストで出られたときの担当ディレクターが僕だったんです。「Music Lovers」は5人ほどのディレクターで回していて、それぞれの回を受け持つんですが、偶然、布袋さん回の担当になって、もともと布袋さんが大好きでしたから一生懸命やったんです。
──大好きだった布袋さんの担当がたまたま当たったと。
利根川:そうなんです。そのときのマネージャーが須藤さんで、その後、何度かお会いしていく中で、付き合いが長くなった頃に、布袋さんにタイアップ曲を書いていただくことになりました。
──それは何のタイアップだったんですか?
利根川:日本テレビの夏の特番「THE MUSIC DAY」です。自分が番組の総合演出を担当すると決まり、新しい企画をいくつも考える中で、「これを機会にテーマ曲を一から作ろう」と、自分のアイドルでもある布袋さんが思い浮かび、企画書を持って布袋さんの事務所へ行きました。そこで待ち受けていたのが須藤さんで、「急に書いてと言われても・・・」みたいな話になるかと思っていたんですが、須藤さんは企画書を見て、開口一番「これ、面白いと思う」と言ってくれました。
──最初から好意的だったんですね。
利根川:予想外の返答で(笑)。それで実際に書いてくださることになったんですが、その当時から布袋さんはロンドンで制作をやっていたので、この曲もロンドンで制作したいとおっしゃって、それは素敵な話なのでお願いしたら「制作の現場を見にロンドンへ来なよ」と誘ってくださったんです。
──やりましたね(笑)。
利根川:(笑)。こうなったら自分でカメラを回して密着しようと思って、ロンドンにお邪魔させてもらって。ロンドンに2泊4日ぐらい行ったのかな?それが2017年ですね。それでロンドンへ向かっている途中にメールを開いたら、須藤さんから「布袋が『ご飯どうですか?』と言っています」みたいなメッセージが届いて、着いた日の夜に布袋さんと食事をすることになったんです。
もちろんそれまで出演者としてお会いすることはありましたが、食事をするみたいなプライベートなお付き合いはなかったですし、雑談することもなかったと思うのですごく緊張しました。その食事会が終わり、布袋さんをお見送りした後、「もうちょっと飲みましょう」と須藤さんがロンドンでよく行くクラフトビールのお店に連れていってくれて、そこで初めてゆっくり2人で飲んで、すごく盛り上がったんですよね。
──そこで友だちになったと。
利根川:「お互い業界に知り合いは多いけど、あまり同い年の友だちはいないよね」と。仕事柄、知り合いはどんどん増えますけど、「なんでも話せる気さくな仲間ってあまりいない」とお互いに打ち明けあっているうちに友だちになったんですよね。で、日本でも相変わらず一緒に飲むようになり、大体のアーティストはレコード会社さんを通して仕事をするんですが、布袋さんに関しては須藤さんに直接連絡して、常に「なんか面白いことをやろうよ」と話し合う関係です。お互いにいろいろ恥ずかしいところも見せ合っているような・・・(笑)。そういう僕と須藤さんとの関係から「こいつも絶対合うな」という人を紹介し合ったりして、今は定期的に1977年生まれ、同い年の4、5人で飲んだりしています。
小さい頃から「人の逆をいきたい」と思っていた
──ここからは利根川さんご本人のことをお伺いしたいのですが、ご出身は千葉県とうかがっています。
利根川:生まれたのは横浜市の上大岡なんですけど、1歳から千葉県なので出身でいうと千葉なのかなという感じです。
──千葉のどちらですか?
利根川:佐倉市です。BUMP OF CHICKENや長嶋茂雄さんの地元です。バンプは隣町の中学に通っていて、歳も僕の2個下ですから、まさに同世代の地元のスターです。
──どのようなご家庭だったのでしょうか?
利根川:ごく普通の家庭だと思います。父親は金属系の商社に勤めていて、母親とは社内恋愛で結婚したそうです。父の勤めていた会社は天王洲アイルにあったので、千葉の佐倉から2時間以上かけて通っていて、しかも最寄りの京成佐倉駅からも徒歩25分かかるような住宅地に家があったので、毎日大変だったと思います。
──自然には恵まれた環境ですか?
利根川:自然にしか恵まれていないです。
──(笑)。
利根川:「自分の家が都会なのか田舎なのか」というのは、子どもの頃はわからないじゃないですか? でも、街へ出て行くような歳になると「なんでうちはこんなに遠いんだ」とすごく思っていました。
──ご兄弟は?
利根川:2つ上に兄がいて自分は次男です。兄は日本通運に勤めていて、建設やプラント事業に携わっているようです。まあ、僕以外はみんな普通にしっかりしているというか・・・自分もしっかりしなくてはいけないのかもしれませんが(笑)。
──いや、十分しっかりしてらっしゃるかと(笑)。家の中に、音楽やエンターテインメントを楽しむ雰囲気はありましたか?
利根川:そんなになかったかもしれません。ただ、母が来生たかおさんのファンだったので、僕の中には来生たかおさんの曲がすごく入っているんですよ。
──ずっと来生たかおさんの曲がかかっていた?
利根川:かかっていました。母が運転する車でも常にかかっていましたし。ですから中森明菜さんの曲とか、来生たかおさんの曲だとすぐに気付けます。父は広く音楽を聴いていましたが、特別音楽が好きという感じでもなかったですね。
僕らの世代はちょうどCDの創世記の後で、小学生のときに兄と一緒の子ども部屋に親がCDラジカセを買ってくれたんですが、僕はまだ小学校3、4年生だったので自分でCDは買えず、兄がレンタルで借りてきたCDとか、親に買ってもらったCDを聴いていました。でも、最初は何を聴いたらいいかよくわからないから、兄は音楽の授業で知ったであろうヴィヴァルディの「四季」とか聴いていたり(笑)。
──(笑)。
利根川:朝ラジカセのタイマーで目覚めるとヴィヴァルディの「四季」が爆音でかかっていて(笑)。その後、兄や友だちから情報を得て、BOØWYとかを聴くようになったんですよね。ちょうど解散直前ぐらいの時期だと思います。
──須藤さんに似ていますね。
利根川:そうなんです。須藤くんとは「最初に好きになったバンドがBOØWY」という繋がりもありますね。当時は「ザ・ベストテン」もやっていましたし、それこそ「ミュージックステーション」に出ている人たちの曲をレンタルCD屋で借りてカセットテープにダビングして、みたいなことをやり始めて。
──自分で音楽をやろうとは思わなかったですか?
利根川:音楽をやりたいとかそういう感じはなくて、単純にテレビ、漫画、スポーツとか、子どもの頃にかじるものの1つに音楽があった感じです。ですから音楽が好きで、かじりついて聴いていたかといったら、そこまでの記憶もないですね。
──ちなみにスポーツや勉強の方はどうでしたか?
利根川:勉強はちょっとだけ人よりできました。あまり勉強をしなかったんですが、母いわく「すごく頭がいい子だった」と(笑)。おしゃべりばかりして、要は国語力があったみたいなんですが、暗記や自分で努力する勉強を全然しないので、もうしゃべりだけで生きてきたというか・・・(笑)。うちの母からはよく「ご飯を出しても全然食べない。ちょっと食べたら『今日こういうことがあったんだよ』とずっとしゃべり続けて、家族みんな食べ終わっても1人だけ最後までしゃべり倒して、みんな食べ終わっていなくなったらやっと食べる」みたいな子だったとよく言われます。
──(笑)。
利根川:ファミコンが出てきた時代ですし、あと漫画にハマったりする子が多いじゃないですか? その中で自分は外でサッカーしたり、自転車でどこかに行ったり、夜中に釣りしに行ったり、そういう遊びの方が好きでした。
──アウトドア派ですね。
利根川:天邪鬼と言いますか、小さい頃から「人の逆をいきたい」みたいなところがあって、兄はゲームがすごく好きで「ドラクエ」の新作が出たら一早くクリアとかしているんですが、僕はそういうのに全く興味がなかったんですよね。でも、話についていけないのは嫌なので、兄が「ドラクエ4」を攻略したら「攻略法を全部教えて」と頼んで、最短でクリアして一応「ドラクエ4」だけは知るみたいな(笑)。
──何か楽器はなさっていたんですか?
利根川:中学生の頃からギターを始めました。エレアコを買って、当時のJ-POPや洋楽をいろいろ弾き語りがしたいとコード本を見ながら練習していました。
──それは布袋さんに憧れてみたいな感じですか?
利根川:布袋さんには憧れたんですけど、エレキギターを全然弾ける気がしなくて、まずはアコギから入ろうと。当時、仲のいい友だちが尾崎豊を崇拝していたんですが、僕が中2ぐらいのときに尾崎豊が亡くなってしまって。そうしたらみんな尾崎豊を偲んで尾崎豊を歌うみたいな空気があったんですよね。
そこから、日本のロックにハマり、高校に入ってから洋ロックやパンクにハマり、どんどん音楽を深掘りしていきました。そんな中、高校の後半ぐらいから大学にかけてHIP HOP、R&Bブームがやってくるんです。そうしたら段々と「これからはクラブミュージックだ」と思いバイト先の先輩にギターを売って、ターンテーブルとミキサーを買って、大学からはひたすらDJを目指すみたいな感じでしたね。
──バイトは何かしていたんですか?
利根川:最初はファミレスで、大学2年ぐらいから本八幡駅近くのカラオケボックスで深夜バイトですね。21時から5時まで週2、3バイトする生活で大学の授業をサボって昼まで寝て、夕方から活動みたいなことが多かったです。
──結局卒業はできたんですか?
利根川:ギリギリできました。でも、いまだに卒業できていない夢を見るんですよ(笑)。
──脂汗かいて起きるみたいな(笑)。
利根川:大学1年目は頑張って単位を取ったんですが、2年から3年にかけてほとんど遊んでいて単位がまったく足りず、2年から3年はギリギリ上がれたんですが、卒業する間際に単位が足りなくて、大学4年が一番必死に学校へ通うみたいになって(笑)。それで単位が足りなかったから追試を受けたんですが、そこで単位を取れないと卒業できないところまで追い込まれて、とってつけたように勉強してなんとか卒業しました。なので、再試験の結果が貼りだされているけど自分の名前が無い!という夢を見ます(笑)
「この仕事、僕もやりたい」親戚のツテで音楽番組の制作会社へ入社
──就職活動はしたんですか?
利根川:一応しました。カラオケでバイトをしつつ、渋谷のレコード屋を回ってアナログ盤を買い漁る生活をずっとしていて、クラブへ遊びに行ったり、自分たちでイベントをやってそこでDJをしたりとか、夜遊びをする中で知り合いも増えて、段々と「音楽と関わっているのって楽しい、カッコイイ」と思うようになったんです。でも、自分レベルのDJでは生活できなさそうでしたし、作曲もやってみたいけどそんなセンスもないな、みたいな。でも俺は大物になれる気がする。そんなことしか考えていない、アホな学生生活を送っていましたね(笑)。
──(笑)。
利根川:そういうことしか考えていない奴が「就職どうするの?」となったら、「ヒット曲に携われるかもしれないと」とレコード会社を受けようと思うんです。でも、当時はレコード会社の募集が全然なくて、唯一エイベックスだけが募集していました。globeとか浜崎あゆみさんを始めヒット曲が続出している時代だったので。
──小室ファミリーの絶頂期ですよね。
利根川:覚えているのは筆記試験会場がなぜかZepp Tokyoで、その次に「自己PRしてください」みたいな選考があったんですが、会場がベルファーレだったんです。
その頃には「自分みたいなやつが入れる会社なのか?」と思い始めていたんですが、僕は普通のスーツを着てマジメ君を装って会場へ行ったら、金髪やドレッドの男、ギャルみたいな子がたくさん居て。で、順々に自己PRを1分か1分半やるんですが、急にギターを弾きだすやつとか、デカいラジカセを担いでHIPHOPダンスをするやつとか、あと一升瓶の日本酒を一気飲みするやつとか、そういうのを目の当たりにして、「これは無理だわ・・・」と。
もちろん普通にスピーチする人とかもいるんですが、見ていると「スピーチしたら絶対に落ちるな」と思うんです。審査員は一升瓶とかを見て笑っていたり、突っこんだりしていて、雰囲気として「エイベックスはエンターテインメントの会社だから、こういう試験をやるんだ」って感じだったんですよね。それでリクルートスーツを着たままスピーチして、帰るときには当時付き合っていた彼女に「絶対に落ちた」って言いました(笑)。
──(笑)。ちなみにそのときに受かった人って知り合いにいますか?
利根川:います(笑)。今は別のレコード会社でA&Rとして活躍している人で、「あの自己PRなにやったの?」と訊いたら、なんかふざけたことを言っていましたね。「そんなので受かるのか」って(笑)。
──エイベックスに落ちて、その後どうしたんですか?
利根川:結局エイベックス以外、就職試験をどこも受けていなかったんです。音楽関係の仕事がしたかったんですが、音楽関係の仕事ってレコード会社以外になにがあるかわからなかったというか、ちゃんと業界のことを調べもしないで、勝手に想像で就職活動していたんですよ。で、エイベックスに落ちたので就職浪人したほうがいいんじゃないかと思ったんですが、浪人したって来年行ける保証はないじゃないですか?だから友だちとかには「留学するかも」と適当なことを言っていたんです(笑)。
──就職が決まっていないとは言いづらかった?(笑)
利根川:そうですね。就職が決まっていないことをどう格好つけて人に言おうかみたいな。「決まらなくてヤバいんだよね」と言いたくないから、「決まらなかったら留学でもしようかなと思って」と。
──余裕をかましていたんですね。
利根川:余裕をかましていたんですけど、親に言ったら「誰が金を出すんだ!」「できるわけねえだろ!」と当然一蹴されました(笑)。「あれ、留学ってそんなに簡単にできないのか」「裕福な家庭の話なのか」と思いながら、とりあえずフリーターだなと思っていたら、うちの母が心配して「音楽の仕事をやりたいんだったら、1回私のいとこに会いに行きなさい」って言うんですよ。そのいとこというのが、まさかのNHK理事だったんです。
──めちゃくちゃ偉い人じゃないですか。
利根川:全然知らなかったんですけど、そういえば昔「いとこのヤスお兄ちゃんがテレビに映る」って母が言うので、大相撲のテレビ中継を観たら、そのいとこが貴乃花か若乃花に優勝カップを渡しているんですよ。
──すごいじゃないですか。
利根川:で、「私から言ってあるから話を聞いてきなさい」と言われて、母のいとこに会いに行ったんです。そうしたらNHKの20何階みたいなところで、扉が開いたら秘書がいて・・・とにかくすごい部屋でした。それでいろいろと話を聞かれたので、ちょっと格好つけて「音楽関係の仕事をやりたいです」と言ったら、「実は人と約束しているから移動しよう」とNHKエンタープライズというNHKの関連会社に連れていかれて、そこにはNHKエンタープライズの常務だった益弘(泰男)さんという人と、もう1人、派手なジャケットを着て金縁の眼鏡をかけた金髪の人がいたんですよ。
──ずいぶん派手な人ですね(笑)。
利根川:一風変わった派手なおじさんがいて、母のいとこがその人たちに「実はこいつが音楽業界で働きたいらしいんだ」と。ただ、すでにNHKエンタープライズの採用試験は終わっていたので、益弘さんが福家(菊雄)さんという、その派手なおじさんを紹介してくれたんです。
福家さんはNHKのOBで、紅白歌合戦が視聴率78パーセントとか獲っていた時代の演出家だったんです。それだけの実績を残していたらNHKで偉くなるじゃないですか?でもNHKで偉くなったら監督とかディレクターができなくなっちゃうので、現場をやりたいがために独立して、ブレーンボックスという音楽番組とコンサートの制作会社を作ったんです。
──すばらしいところを紹介してくれたんですね。
利根川:福家さんから「本当に音楽に興味があるのか?」と訊かれて「あります、やりたいです」と言って。ブレーンボックスは音楽を作っている会社ではないけれど、音楽家が作ったものを世の中に届けるのをお手伝いする会社だと聞いて、「なるほど、そういう仕事もあるんだ」と。で、就職するかどうかは置いておいて、1回バイトしにこいって言うんですよ。「そうしたら現場を見られるから、どうせ大学4年で暇だろう?」ってことなんですけど、「いや逆に授業いっぱい抱えているから暇じゃないんですけど・・・」と思いつつ(笑)、1週間ぐらいバイトをすることになったんです。
それでテレビのスタジオに入っていったら、それは演歌の番組だったんですけど、結構な人数のバンドがいて、カメラがいっぱいあって、テレビで観たことがある演歌歌手の人たちが来て、すごくキラキラした世界だったんです。そこで福家さんがなにをしているのか見ていたんですけど、「おい五木、歌が下手になったんちゃうか?」と五木ひろしさんに駄目だししていて。
──五木ひろしさんを呼び捨てですか(笑)。
利根川:それで今度はカメラマンに「お前もっとこうしろ」と言ったり、「照明はもっとあっちや」とか言いつつ、バンドの指揮をしているアレンジャーの先生に「ここ、音がぶつかっているから、一小節ベース休みや」とか「ここのアレンジ直しておいて」と指示を出しているんですよ。
──演奏の中身までチェックを入れていたんですね。
利根川:これはあとで知るんですが、福家さんは学生時代ジャズのクラリネットをずっとやっていた方なんです。だからコードも譜面も分かって、耳がよくて、映像のセンスもあって、しゃべりもうまいですから演者やスタッフを乗せたり笑わせたり、なんでもできるすごい人でした。結果テレビのディレクター、音楽番組のディレクターというのはこういう感じなんだと、福家さんを見て知ったんです。そのときに「この仕事、僕もやりたい」と強く思いました。
もちろん、福家さんには絶対に勝てる気がしないんですけど、こんな仕事があるんだと興味が湧いて、バイトにも興味津々で通うようになりましたし、バイトを続ければ4月に新入社員が入ってきたときに、ある程度リードした状態でこの会社に入れると思ったんですよね。それで改めて「お前どうする?」と言われたときに「働かせてください」とお願いして、正式に就職することになりました。それで4月1日だか2日だかに会社へ行くわけじゃないですか?そうしたら「同期は誰もいないから」と言われて(笑)。
──同期をリードできる予定だったのに(笑)。
利根川:僕1人しか採用されていなかったんです。
積極的に仕事をして2年目にはディレクターの最速出世
──ブレーンボックスに入って、最初の仕事はなんだったんですか?
利根川:NHK BSの「ザ少年倶楽部」というジュニアがたくさん出る番組と、「BEAT MOTION』という日曜日の夕方に放送していた2つの音楽番組のADとして入ったのが最初です。そこには演出家とディレクターが4人ぐらいいたんですが、そのうちの半分は違う制作会社で、2社で番組を作っていたんです。で、ブレーンボックス側のディレクター2人は両方とも社員じゃなくてフリーランスの人で、そのうちの1人の方が僕の師匠みたいな人で、すごくかわいがってもらいました。
──ちなみに福家さんは今も現役なんですか?
利根川:現役らしいです。福家さん、うちの父と同い年なんですけどね。
──お母さんの伝手からすごく良い環境に行けたのはラッキーでしたね。
利根川:ものすごくラッキーだったんですが、初任給で手当もなしですから、そこから家賃を払ったら生活費は微々たるものでした。でも、アホみたいに遊んでいましたし、金もないのに女の子におごっちゃうみたいな生活をしていたので、2か月ぐらいでお金がなくなって・・・(笑)。
──制作会社にADで入っても給料は低いし大変だしで、辞めていっちゃう人多いじゃないですか? そんな中で、なぜ利根川さんは続けられたんですか?
利根川:もうそれしかできなくなっていた、というのもあります。あと、ブレーンボックスにいてよかったなと思うところもたくさんあって、福家さんというすごい人を知れたのも貴重でしたし、働き始めたときに「先輩たちをすぐ追い抜けるな」と根拠のない自信が湧いたんですよ。
──負けず嫌いの性格がでてきたと。
利根川:そうですね。自分はまだ右も左もわかっていないポンコツのADなのに「これは追い抜けるな」と確信したといいますか、ここにいれば早く上に行けると思ったんです。この仕事ってポジションが増えていくわけではなくて、限られた席を取っていかないといけないじゃないですか?
──椅子取りゲームですよね。
利根川:自分がいたBSの番組って地上波のゴールデンに比べたらスタッフも少ないんですが、それでもディレクターはディレクターですし、ADはADなんです。でも、「追い抜いて早くディレクターにいけるな」と思ったから、積極的に仕事をして「自分の方ができますよ」とアピールして、2年目の途中ぐらいからディレクターをやらせてもらいました。
──2年でディレクターってメチャクチャ早いですよね。
利根川:当時、最速出世だと言われていましたね。でも、入ったときに色々教えてくれた先輩のチーフADが僕のADになるという現象が起きて、めちゃくちゃやりづらかったですけど(笑)。
──まさに実力の世界ですね。
利根川:完全に実力主義でした。これが地上波ゴールデンの大きな番組とかだったらあんなに早くチャンスは訪れなかったと思います。でも、あの時の先輩方が、若いやつにチャンスを与えてやれみたいな感じでどんどん仕事をやらせてくれた結果、そこから数年間、たくさん場数を踏めましたし、いろいろなアーティストさんとお仕事させてもらったりするうちに、NHKの中で指名いただけるようになってきたんです。