第215回 株式会社ダダミュージック 代表取締役副社長 須藤敏文氏【前半】

インタビュー リレーインタビュー

須藤敏文氏

今回の「Musicman’s RELAY」はTYMS PROJECT 代表取締役社長 青木しんさんのご紹介で、ダダミュージック 代表取締役副社長 須藤敏文さんのご登場です。

仕事の傍らでバンド活動もするお父さんの影響で、子供の頃から音楽好きだった須藤さんは、BOØWYの影響でギターを始め、バンド結成。JR北海道へ就職後も続けていたバンドSOULSBERRYでメジャーデビューを果たすも結果が出ず、職人の道へ。その後、IRc2 CORPORATION 糟谷銑司氏の誘いから布袋寅泰のディレクターに就任します。

布袋寅泰の独立、ダダミュージック設立、現在もマネージメントとして布袋寅泰の全アーティスト活動を支える須藤さんにじっくり話を伺いました。

(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也、Musicman編集長 榎本幹朗 取材日:2024年4月11日)

 

父親のライブ姿に衝撃を受ける

──前回ご登場頂いたTYMS PROJECTの青木しんさんとは、いつ頃出会われたんですか?

須藤:青木さんと初めて会ったのは、2019年に布袋のアルバム制作を進めている中で吉井和哉さんにご参加いただけないかと、青木さんのオフィスに伺ったときですね。

──そんなに昔ではないんですね。

須藤:そうですね。日本以外にもフランスや中国、イタリア、アメリカ等の海外アーティストも含めてコラボレーションするアルバムを作るというテーマだったのですが、日本でのコラボレーションは是非、吉井さんにお願いしたいということで、ご相談させていただいたのが最初に会ったタイミングです。

その後、布袋が作曲、吉井さんが作詞という形で楽曲が完成し、ミュージックビデオの撮影やプロモーション等で何度か会うようになりました。マネジメントの代表をされている方で、同年代の知り合いがそれまでほとんどいなかったんですよね。

──須藤さんたちの世代って意外といないんですか?

須藤:僕の周りには年配の方々が多かったので、同じような仕事をしている同年代の人と会えたのがすごくうれしかったんです。しかも、お互いキャリアアーティストを抱えているという共通点もあり、「たまにご飯を食べましょう」という感じで(笑)。ですから、僕にとって青木さんは初めて同じようなポジションで会話ができる仲間みたいな感じですね。

──なるほど。

須藤:今回の取材のお話もちょうど大阪で一緒に食事をしていたときに「見つけた」と言われて(笑)。「実はこの前Musicmanのリレーインタビューの取材を受けて、次の人を紹介しなきゃならないんだ。よろしく」って。

──そういうことだったんですね(笑)。では、業界の中で貴重な同年代のお友だちだと。須藤さんの世代も、みなさんそろそろ偉くなってらっしゃいますね。

須藤:テレビ局でもラジオ局でも、僕らの世代はだんだんと責任のある立場になってきているんでしょうね。

──ここから先は須藤さんご自身のことを伺いたいんですが、お生まれはどちらですか?

須藤:出身は北海道の小樽市で、東京に出て来るまではずっと小樽で生活していました。

──小樽って素敵な町ですよね。海も近いですし。

須藤:小樽がすごくいいなと思うのは、期間は短いですけど夏は海水浴へ気軽に行けますし、近くの山にスキー場があるので、冬はスキーにすぐに行けるんですよね。ですから、アクセスの悪さを感じたことがないんです。東京に出て来て、海水浴やスキーに行くのに、車に乗って1時間とか2時間かけて行くのがまず信じられなかったですね。「僕はいいところに住んでいたんだな」と思いました(笑)。

──ご両親はどのようなお仕事をなさっていたんですか?

須藤:父は国鉄、今のJRで働いていて、母は色々とパートをしていました。

──ご兄弟は?

須藤:僕が長男で弟が2人います。

──今の仕事につながるような環境はご家庭の中にありましたか?

須藤:父が音楽好きな人で、レコードプレイヤーでいつも「ダイアナ」を聴いていたんです。

──ポール・アンカの「ダイアナ」ですか?

須藤:そうです。当時は国鉄職員で、国鉄にはバンドサークルみたいなのがあって、父はそこに参加していたんです。それで僕が4、5歳のときに公民館みたいなところで父のバンドが出演するイベントがあったんです。そのとき父はキーボードを弾いていたんですが、ステージ横からドライアイスの煙が出てきて、綺麗な照明の中で演奏する姿が、その当時の僕にはメチャクチャ衝撃で、初めて父のことを「格好いい!」と思ったんですよ。

──結構しっかりしたステージだったんですね。

須藤:僕の記憶ではそうですね。煙があって、ライティングがあって、その中でバンド演奏をしている姿を見て「うわあ、すごい!」と。テレビの中の光景を生で観ている感じになったことが、音楽を好きになるきっかけだったんでしょうね。小学1年生のときに「欲しいものは?」と訊かれて「ラジカセを買ってほしい」と。そのラジカセでテレビの前で歌番組を録音して、それを聴くみたいな。そういう小学生でした。

──小学校のときにはすでに音楽に目覚めたんですね。

須藤:その頃には音楽が好きでしたね。

 

布袋寅泰に憧れてギターを始めた中学時代

──どんな性格の少年だったんですか?

須藤:通信簿にはよく「落ち着きがない」と書かれていました。だから落ち着いていなかったんだと思います(笑)。小5ぐらいまで書かれ続けていましたからね。

──それは元気で活発な子、ということですよね。

須藤:だと思います。小学生の頃はずっと少年野球を続けていて、キャプテンを任されて選手宣誓をやったり。あと体育委員長になって、運動会のときはみんなの前で体操のお兄さんをやったり、生徒会もやりました。

──女の子にはモテました?

須藤:うーん…モテましたね(笑)。

──(笑)。

須藤:自分で言うのもなんですけど(笑)、小学校のときにバレンタインチョコを17〜18個もらったんです。でも、小学生の頃ってスポーツができれば、ある程度人気者になるじゃないですか? だからモテたかどうかはわからないですけど、目立っていたと思います。

──小樽ですから、当然スキーとかはお上手だったんですか?

須藤:スキーは小学校1年生、2年生の冬休みに毎日習いに行っていたんですよ。

──毎日スキーへ行けるんですか?

須藤:はい。家から15〜20分ぐらいのところにあるスキー場へ親が車で送ってくれて。で、級もどんどん上がり、小学校2年生のときにもう取れる級がなくなって3年生からは行かなくなりました。ですから、運動神経はそこそこよかったんだと思います。

──ちなみに最近もスキーはなさっているんですか?

須藤:4、5年前に田舎に帰ったときに行きましたけど、動画をとってSNSに公開したら旧友から「すごく昭和の滑り」とコメントを書かれて(笑)。

──(笑)。

須藤:僕のようなエッジの使い方というのを今はしないらしいんですよ。今のカービングスキーって「こんな楽なんだ」と思うぐらいよく曲がるじゃないですか? 僕らの時代って長いスキー板を履くことが格好いいみたいな時代でしたけど、最近はコンパクトでその違いにビックリしましたね。

──その後、中学では何か部活に入っていましたか?

須藤:野球部に入って、センターを守っていました。引き続き割とやんちゃな中学生だったと思います。

──まだバンドはやっていなかったんですか?

須藤:バンドはやっていなかったのですが、いとこの影響でBOØWYを聴きはじめたのがきっかけで中3でギターを弾き始めました。

──運命的な出会いですね。

須藤:BOØWYを初めて聴いたのが小6とかで、恐らくBOØWYが解散した年だと思うんですが、いとこからカセットテープをもらって、最初は誰かわからないで聴いていたんです。その後、中2の夏に再びいとこの家に行ったら今度はBOØWYのライブビデオが流れていて「聴いていた音楽はこの人たちだったんだ」「かっけえな、これは」と。それでギターをやりたくなったんですがお金がなくて買えず、中3のときに友だちが「須藤にあげるよ」ってすごく安いストラトキャスターをくれたんですよ。

──ギターをくれるなんていい友だちですね。

須藤:いいやつです(笑)。それでギターを弾き始めたのが一番最初です。

──つまり布袋さんに憧れてギターを始めたんですね。すごい話だ。

須藤:ギターを持つ前にBOØWYの存在を知って、布袋寅泰という人がギターを弾いているんだということがわかって、自分でコンサートのチケットを買って初めて観に行ったライブは布袋寅泰のライブでした。それが15歳のときかな。

──本当ですか!?(笑) それは小樽で観たんですか?

須藤:札幌ですね。友だちとバスに乗って札幌まで行って「布袋ー!」って叫んでました(笑)。

──ちなみに布袋さんにその話はしましたか?

須藤:しています(笑)。

──どんな反応でしたか。

須藤:すごく喜んでくれましたね。ちなみにコブクロの小渕(健太郎)さん、布袋バンドでギターを弾いてくれている黒田晃年さんと僕の3人が同い年の生まれなんですが、全員が初めて観たライブは布袋さんのライブなんです。ですから打ち上げとかで布袋さんと僕ら3人で飲むと、それぞれの思い出を語り合って、それを布袋さんが横で黙って聞いているという(笑)。

──すごいですね(笑)。

須藤:本当に不思議なものですよね。そうやって影響を受けた人と今一緒に仕事したり、同じステージに立っているというのは。

──運命的な話ですね。

須藤:布袋寅泰というギタリストに憧れて、ライブを観に行って、ギターを持って。それで高校に入ってバンドを始めたんです。

 

ライブ2回目でヤマハ主催イベントの地区大会優勝

──高校で始めたバンドはコピーバンドだったんですか?

須藤:いえ、コピーを1度もしないでオリジナルをやることにしたんです。

──最初から自分たちで曲を作りたいという気持ちがあった?

須藤:ありました。僕はその当時、曲を作れなかったのですが、菅原龍平というものすごい才能を持った仲間がいたんです。彼は自身のライブ活動やリリースもしていますが、ウルフルズのプロデューサーやアーティストのツアーサポートなどをしています。

── 一流の方々とお仕事をなさっていますね。

須藤:ええ。その彼と5人組のバンドを組むことになり、高2のときにヤマハが主催していた「ティーンズミュージックフェスティバル」というイベントに出たら、小樽地区大会で優勝しちゃったんですよ。それが2回目のライブだったんですけどね。

──2回目のライブでいきなり優勝ですか。

須藤:オリジナル曲を2曲やって、その後、札幌で開催される北海道大会に出ることになったんです。その北海道大会で3回目のライブですから、当然ヘタクソなんですが、そこで特別賞をもらったんです。その後、田舎のラジオ番組にゲストで呼ばれたり、「札幌のヤマハのスタジオでレコーディングしてみないか?」と誘われて通い出して、「プロになるな」と勝手に思い始めるわけですよ(笑)。

──(笑)。

須藤:それで、高校3年になると生意気にも「ヤマハはなんか違う」「俺らの求めているものじゃない」と思い始めるんです。

──系統が違うと。

須藤:その当時、アレンジャーさんが来たり、ディレクターが付いたりして「なに、この人たち勝手にいろいろやってくれてるの?」みたいな感じなわけですよ(笑)。当時ヤマハに対して「ロックじゃない」みたいな勝手な印象もあって(笑)。

──当時のヤマハのイメージとしてフォークとかポップスとか、そういう感じでしたよね。

須藤:たまたまティーンズミュージックフェスティバルに出ただけで、「別にヤマハでなくても・・・」と思い始めて。他のどこからも声を掛けられてもいないのに(笑)。そんなこともあってヤマハのスタジオへは行かなくなったんです。

──でも、その間も地元のライブハウスでライブをしていたんですよね?

須藤:ライブはやっていましたし、自分たちで1発録りしたカセットテープを800本くらい売っていました。

──高校卒業後は進学されたんですか?

須藤:はい。札幌商工会議所付属専門学校へ進みました。

──それは簿記とかを勉強する学校ですか?

須藤:そうです。僕はミュージシャンになりたくて、親には「進学はしない」と言ったんですが、親から「資格だけは取っておきなさい」と言われて・・・それならば資格をいっぱい取れるところに行こうと思い、商工会議所付属専門学校のビジネス情報学科に入ったんです。当時Windows95が発売されたタイミングで、パソコンが一家に一台じゃないですけど、これからどんどん普及するだろうという時代でした。ですからPCの勉強もできるし、簿記やビジネス全般の資格も取れるという事で、その学校を選びました。

──それって今の仕事に役立っているんじゃないですか?

須藤:すごく役に立っていますね。表計算やタイピングもやりましたし、秘書検定も受けました。あと、計算能力検定という電卓をいかに早く打って正確に答えを出せるかという検定とか、そのときに結構資格を取ったんです。事務所の仕事だと特に簿記は役に立ちましたね。

──親の言うことも聞いてみるものですね(笑)。

須藤:本当ですよね(笑)。知らないより簿記は知っていたほうがいいですよね。

 

運転手候補としてJR北海道へ入社

──その後、就職活動はされたんですか?

須藤:しました。音楽を続けるなら休みが取れる会社じゃないと駄目だなと思い、そうなると公務員になるか、割と大きな会社に行くかしかないと考えました。

──休みがきっちり決まっている会社ですね。

須藤:ええ。公務員は試験勉強を何もしていなかったので諦めて、通っていた専門学校にJR北海道の特別推薦枠の募集があったんです。それでJRの入社試験を受けて合格しました。

──特別推薦枠とはいえよく合格しましたね。

須藤:団塊の世代の方々が退職されると運転士がどんどん不足してしまうので、それを見越して運転士を養成するために「ドライバーコース」というのが設立された最初の年で、そこに各専門学校から選ばれた人たちが入ったわけです。

──須藤さんは電車の運転士さんとして入ったんですか?

須藤:そうです。でも、運転士になる前に辞めたんですけどね。

──教習は受けたんですよね?

須藤:教習は受けました。車の免許で言うと仮免を取る手前ぐらいで辞めた感じですかね。ですから信号や回路の勉強、どのくらいのカーブだったら制限速度は時速何キロとか、そういう勉強もしました。あと入社して運転士になると決まっていたのですが、会社としてはいろいろな部署を経験した上で運転士になってもらいたいという意向があり、駅員業務も4か月ぐらいやりました。

──結局、JR北海道にはどのぐらい在籍したんですか?

須藤:すごく短いですよ。入った年の年末までなので9か月ですね。

──このインタビューシリーズでは200人以上やってきましたけど、電車を運転できる人は初めてです(笑)。

須藤:実際に運転はしてないですけどね(笑)。

──JR北海道に勤めているときもバンド活動はされていたんですか?

須藤:やっていました。すでに高校時代のバンドは解散して、僕はSOULSBERRYというバンドを組んでいたのですが、元バンド仲間の菅原がthe autumn stoneというバンドで、布袋寅泰プロデュースで先にデビューしていたんです。それで彼らが小樽でライブをするときに対バンで僕らも出たんです。そうしたら「こっちのバンドもいいじゃないか」と言ってくれる人が現れて、結果、僕らもIRc2(IRc2 CORPORATION)とアーティスト契約するんです。デビューは決まっていなかったんですが、「もうちょっと北海道で頑張って」と言われて、バンドに専念したくなりJR北海道を退職しました。

──二足のわらじを止めて。

須藤:そうですね。JR北海道を辞めてからは地元の楽器屋でバイトを始めました。

──まさかヤマハですか(笑)?

須藤:いや(笑)、そこは個人経営している楽器店ですね。小樽でバンドをやっている人はそこで楽器を買う、みたいな店で。

──ちなみにサカナクションも小樽ですよね?

須藤:サカナクションは僕らの後輩になりますね。実は山口(一郎)さんのお姉さんとは小学校が一緒だったんですよ(笑)。隣の席で授業を受けてました。

──そうなんですね(笑)。

須藤:それで楽器屋でバイトして、その店はライブハウスも持っていたので、そこでPAや照明もやったりしていました。演歌歌手の営業があればPAの機材設備を持って行って、オペをしたり。そういう仕事を1年半ぐらいやっていましたね。

 

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