ビートルズからボブ・マーリー、そして沖縄音楽に魅せられて〜元東芝EMI 洋楽ディレクター 三好伸一氏インタビュー

インタビュー フォーカス

三好伸一氏

大学在学中4年間、東芝音楽工業でアルバイトをし、大好きなビートルズに関わりたくてそのまま入社した三好伸一さん。4代目ビートルズ担当を経て、出会ったボブ・マーリーでレゲエに開眼。その後、日本フォノグラムでは喜納昌吉&チャンプルーズを担当。ファイブディーでは宮沢和史のヨーロッパツアーや南米ツアーを成功に導きます。現在は沖縄へ移住し、沖縄のアーティストの制作に関わる三好さんに、沖縄で話をうかがいました。

(インタビュアー:Musicman共同発行人 山浦正彦 取材日:2024年6月30日)

プロフィール

三好伸一(みよし しんいち)


1950年香川県高松出身、中2で東京の進学校に転出。早稲田大学に入学後、1970年に結婚、同年から東芝音楽工業でアルバイトを始め、大好きなビートルズに関わりたくて、1974年そのまま入社。洋楽部でキャリアをスタートし、4代目ビートルズ担当を皮切りに、ボブ・マーリー、ローリング・ストーンズ、クイーン、松田聖子など大物アーティストたちを担当する。その後、日本フォノグラムで喜納昌吉&チャンプルーズ、ファイブディーでは宮沢和史のワールドツアーを成功に導く。2006年に沖縄宜野湾市へ移住。イクマあきらの「ダイナミック琉球」など、沖縄で音楽制作に関わっている。妻は訳詞家の山本安見氏。

ビートルズに憧れて東芝音楽工業でアルバイト→入社〜ビートルズの4代目担当者に

ーー三好さんのキャリアのスタートは東芝音楽工業からですね。

三好:僕は早稲田大学 理工学部の出身なんですが、学生時代に「どうせアルバイトをやるのなら、ビートルズに関係する仕事がいい」と思って、選んだのが東芝EMIの前身である東芝音楽工業だったんです。そこでアルバイトを始めたのが音楽業界でのスタートでした。

ーーアルバイトではどんな仕事をしていたんですか?

三好:レコード会社はサンプル盤を地方のラジオ局とかメディアに渡すために送るんですが、その梱包をする作業が最初の仕事でした。それを大学1年生から4年間ずっとやっていました。

ーー大学4年間、ずっと東芝でバイトしていたんですね。

三好:僕は学生時代に結婚したので、給料が少なくても食べていくために働かないといけませんでしたし、足りないお金は彼女の親からの仕送りなどで補っていました。

ーーその彼女というのが安見さん(妻で訳詞家の山本安見氏)ですか?

三好:ええ、そうです。彼女は小さい頃から父親の仕事の関係で香港に住んでいて、英語をしゃべっていました。

妻で訳詞家の山本安見氏と三好氏

ーーそして4年間のバイトのあと正社員になったんですか?

三好:そうですね。僕はビートルズに憧れて東芝を選んだのですが、ビートルズの担当は最初が高嶋(弘之)さんで、その次が水原(健二)さんという人がやっていたんですが、その人が会社を辞めて、石坂(敬一)さんになったんですよ。で、石坂さんも僕が東芝に入る直前に邦楽をやりたくなって担当を下りたので、僕が入社したらそのままビートルズ担当になったんです。

ーーみんなが羨むような流れですよね。

三好:ラッキーなことに僕が4代目のビートルズ担当になりました。その後、ビートルズが解散して、ビートルズの代わりになるアーティストを探していたときに出会ったのがボブ・マーリーだったんです。だから、大元はビートルズなんですよね。

ーー三好さんにとってもビートルズの存在は大きかったですか?

三好:大きかったですね。もし、ビートルズがいなかったら今みたいな音楽スタイルにはならなかったわけじゃないですか? ビートルズが出てくる前というのはフランク・シナトラとかそんな感じで、歌い手で1人いて、プロの作家がいて、オーケストラがバックにいたわけでね。ビートルズは作詞も作曲もやって、アレンジもやって、演奏もして、歌って。だから爆発的に当たったんですよね。

ーー音楽もファッションも全てが新しかったですよね。

三好:彼らのロングヘアがジャマイカにも影響を与えて、ジャマイカでもみんなロングヘアにしようとしたら髪の毛が縮れているから、ドレッドロックスになっちゃったわけでね。僕はドレッドロックスに憧れて、友だちの美容院へ行って、「こういう髪型にしたい」とボブ・マーリーの写真を見せたら、その友だちは長い菜箸を買ってきて、パーマをかけた髪に菜箸をくるくる回して留めたんですよね(笑)。

ーーあの時代、普通の美容師がドレッドロックスを見てもわけわからないですよね。

三好:そうなんです。「こんな髪型初めて見る」って。それで菜箸を抜いたら、フランスの貴公子みたいになってしまって(笑)。それで「これは違います」と。そうしたら次ははんだごてを買ってきて、それでつぶしたらやっとドレッドロックス風になったんです。

ーーでも、それだと髪の毛が壊れちゃうんじゃないですか?

三好:壊すとああなるんですよ(笑)。で、ドレッドロックスをやっていたんですが、日本人は直毛ですから無理がありますよね。ジャマイカの人は縮れているからああなるわけでね。

ーーでも、一応ドレッドロックスにはなったんですよね?

三好:ええ。「やった!」と思ったんですが、いざ会社に行こうと思ったら勇気がなくて。

ーー(笑)。

三好:常識外れの僕も「この髪型では会社に行けないな」と思ったんですよ。会社の裏にイーグルという喫茶店があったのですが、プロモーションをしたいメディアの方々を呼んで、コーヒーを飲みながら話したり、1日の半分ぐらいをそこですごしていました。

ーー会社に行かずに喫茶店で仕事していたんですか?(笑)

三好:そう、会社のすぐ裏だから(笑)。会社の黒板には「外出」と書いて、基本その喫茶店にいました。

ーー自由な人ですね(笑)。

三好:当時のレコード会社は景気も良かったですし、会社内にはメディアの人とゆっくり話せる部屋もなかったので・・・。当時、新しい会社のスタイルがレコード会社でした。例えば、タクシー券とか束でくれるんですよね。そこに値段を書いて運転手に渡すとお金が払われるんですが、バカなやつがいて、そのタクシー券で秋田へ行ったやつがいたんです(笑)。それで大騒ぎになって、会社からはすごく叱られてね。タクシー券に関してはそこからちょっと厳しくなりましたけどね。

ーー秋田はやり過ぎですけど、昔、レコード会社の社員は普通にタクシーで移動していましたよね。

三好:僕はその頃、大岡山に家があって、毎日タクシー券で帰っていたんですが、それができなくなってしまった(笑)。あの頃のレコード会社は、会社という組織ではなかったんですよね。ましてやネクタイをするとか、そういうのもなかったですしね。

ーー思えば良い時代でしたね!(笑)

左よりミック・ジャガー、ポール・マッカートニー(提供:三好伸一氏)

ボブ・マーリーをきっかけにレゲエ一色に

ーー三好さんと言えばボブ・マーリーの担当というイメージなんですが、ボブ・マーリーと直接会ったのは来日公演ですか?

三好:そうです。彼と最初に会ったのは新宿厚生年金会館です。来日公演の初日がその会場でした。そのあとに中野サンプラザで2日間。東芝が日曜日のFM TOKYOに持っていた番組の収録を2日目に行いました。最後は渋谷公会堂で3回公演だったのかな。そのうち2回は通常コンサートだったけど、1回は追加公演だったと思います。とにかく彼らを呼ぶのは大変で、呼ぶプロモーターがなかなかいないというか、ジャマイカからミュージシャンを呼ぶとのはハンディキャップがあるわけですよ。ガンジャ(=マリファナ)があるから。それで捕まっちゃったら終わりじゃないですか?

ーー恐くてなかなか呼べないですよね。

三好:だからなかなか来られなかったんですよね。もちろん今もそうだと思うんですが、昔は今以上にシビアでしたからね。とにかく、その問題が一番大きくて日本公演ができなかったんですが、H.I.P.の林(博通)さんがジミー・クリフの招聘に成功したんですよ。それで、ジミー・クリフがすごくいいコンサートをやってくれて、その結果ボブ・マーリーも呼べることになったんです。

ーーボブ・マーリーもH.I.P.の林さんが呼んだんですか?

三好:そうです。ボブ・マーリーが来日するとき、僕はロンドンに出張に行っていて、2日間ぐらい遅れて日本に帰ってきたので、羽田に迎えに行けなかったんですよね。それで最初に会ったのが新宿厚生年金の楽屋だったわけです。

ボブ・マーリー(提供:三好伸一氏)

ーーライブに合わせてプロモーションもやったんですか?

三好:やりました。昔レコード会社は宣伝用によくグッズを作ったんですが、最初、宣伝の人たちがヤシの木のポスターとか、とにかく南国っぽいのポスター作りたいと言ったんです。でも、僕はそれではインパクトが薄いと思って作ったのが、赤と黄色と緑のラスタカラーで「BMW」と書いてあるポスターだったんです。「BMW」はボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズの略と同時に有名なドイツ車の名前でもあります。それの大きいポスターと小さいポスター、あと黒いネクタイにラスターカラーが入ったやつとバッジを作りました。

ーーどれも格好いいですね。

三好:ありがとうございます。

ーー三好さんはレゲエ好きが高じて、自分の家の近くにお店を作りましたよね?

三好:ボブ・マーリーが亡くなって3年ぐらい経ってから「ナッティ・ドレッド」という輸入レコードの専門店を作りました。ナッティは「いかした」って意味ですから、ナッティ・ドレッドは「いかしたドレッドロック野郎」という意味です。ただ、店を中途半端な場所に作っちゃったものだから大変でしたね。本当は吉祥寺駅の近くに作ればよかったんですが、家賃が高いじゃないですか? それで家に近いほうがいいやと思って、家の近くに作ったんですが、お客さんは吉祥寺から店まで歩いて来るか、もしくはバスで来るしかなかったんですよ。

ーーあまり商売を考えていなかった?(笑)

三好:そうなんです(笑)。とにかく店を作りたかっただけなんですよ。だから5年しかもたなかった。おまけにタワーレコードができちゃったから小さな輸入レコード店など必要なくなっちゃった。

ーーあの頃の三好さんは本当にレゲエ一色って感じでしたよね。

三好:そうですね。ナッティ・ドレッドでは、夜、僕が帰ったあと、そのスペースを練習スタジオとして活用して、スタッフがクール・ランニングスというバンドを作ったんです。

ちょっと話は戻るんですが、僕が朝日コートという外国人用の将校ハウスみたいなところに引っ越したときに、隣に5歳の黒人とのハーフの男の子が、日本人のお母さんと2人で暮らしていたんですよ。お父さんは米軍の人でアメリカに帰ってしまったので、母子2人で暮らしていて、その彼と僕は知り合いになったのね。その子がのちのP. Jなんです。

ーーそんな小さいときからの知り合いなんですね。

三好:P. Jは5才でした。それでクール・ランニングスでレコーディングしようとしたときに、クール・ランニングスにはボーカルがいなかったので、13才になっていたP. Jに歌ってもらったんです。単純に「英語で歌えるから」という理由だったんですが、歌わせたらすごく上手かった。歌うのは初めてなのにね。

ーー彼はすごくいい声をしていましたよね。

三好:契約したときが13歳だったんですが、ちょうど声変わりのときにデビューしちゃったんですよね。だから、そのときは成功しなかったんだけど、ラジオに出たり、コマーシャルに出たりとかはしていましたね。

ボブ・マーリーの生地を訪ねにジャマイカへ

ボブ・マーリー(提供:三好伸一氏)

ーー三好さんはジャマイカへ行ったことはあるんですか?

三好:1度だけ行きました。ジャマイカに行ったのは地下鉄サリン事件があった頃ですね。日本に帰ってきたときに地下鉄サリン事件が起こったので、よく覚えています。その頃、日本からジャマイカへ行く人なんてほとんどいないですし、治安も最悪なので、現地では日本大使館の人が案内役としてつくんですよね。

ーー危険だからですか?

三好:そうです。毎日、多くの人がピストルによって殺されていました。僕についた人は若い女性の大使館スタッフだったんですが、彼女がエスコートしてくれて観光したり、ボブ・マーリーのタフ・ゴング・スタジオへ行ったりね。僕は彼の生まれた場所へ行きたかったんですよ。

ーートレンチタウンですか?

三好:いや、トレンチタウンじゃなくて、セント・アンというキングストンから北上したところにある小さな田舎町でボブは生まれました。今もそこにお墓があるんです。セント・アンにはキングストンからバスに乗っていったんですが、一本道で周りには何もなくて、ときどき木の上に掘っ立て小屋が見えるんですよ。

ーーツリーハウスですか?

三好:そう。そこに人が住んでいるんですよね(笑)。そういった光景を眺めながらずっと行くとセント・アンというところに着くんです。多分車で3時間ぐらいだったかな? それでボブ・マーリーのお墓へ行きました。お墓には石が置いてあるんですが、「ボブ・マーリーはこの石に座って『カヤ』という曲を書いたんだよ」ってアテンドの人に言われてね。昔は公然と言えなかったけど、その墓の周りってガンジャ畑で、そこに家があるんですよ。ジャマイカって何もないけど、ガンジャだけはたくさんあるんですよね(笑)。

ーーそもそも『カヤ』ってそういう意味ですよね。

三好:そう、カヤはガンジャっていう意味です。

ーーわかりやすい話ですね(笑)。

三好:そこにボブ・マーリーの家族がいてね。彼のお父さんは裕福なイギリスの白人だったんですが、お母さんは西アフリカのマリから奴隷として連れてこられたアフリカ人の子孫でね。そのお母さんとジャマイカに仕事で来ていたイギリス人のマーリーさんが結婚してボブ・マーリーが生まれた。だから彼はハーフなんです。

ーーなるほど。ボブ・マーリーは襲撃されたあと、一時期イギリスへ亡命していましたよね。

三好: 1976年ね。当時のジャマイカは与党と野党が争っていて、片方がアメリカスタイルの政治をやりたい、片方はロシア風の政治をやりたいとぶつかって戦闘になってね。ヤクザの喧嘩と同じでトップがやり合うんじゃなくて、血を流したのは現場の人たちで、彼らが拳銃を持ち込んで、お互い撃ち合いをしたわけだよね。それでたくさんの人が亡くなったんですが、その中にミュージシャンが多かったんです。

なぜ、ミュージシャンが多かったかというと、当時って誰もメディアを信用していなくて、レゲエシンガーというかシンガーが昨日起こったこととかを「こんなことがあったんだぜ」と即興で歌う歌を聴いて、みんな真実を知ったわけです。だから政治家って歌に対して恐怖心があるんですよね。で、シンガーたちは何を一番歌いたかったかというと、ソ連とかロシアとかアメリカの話じゃなくて「アフリカに帰りたい」と歌っていたんです。「バック・トゥ・アフリカ」って。ボブ・マーリーも「バック・トゥ・アフリカ」って歌っているのに、撃たれちゃうんだよね。

ーーなぜ撃たれたんだろうという感じはありますけどね。

三好:それだけ影響力が大きいからですよね。もし彼が、与党を支持すると野党が負ける、野党を支持すると与党が負けるわけじゃないですか? それを恐れたどっちかの下っ端がやったんですよね。

ーー悲しい話ですね。

(提供:三好伸一氏)

三好:先日公開された映画『ボブ・マーリー:ONE LOVE』の中で、僕が腑に落ちなかったのは、犯人が名乗り出るんだよね。犯人がボブ・マーリーに「あのときやったのは私です」と言う、そういうシーンが出てくる。それでボブ・マーリーは「気にするな」って言うんだけど、実際はそうじゃなかったと思います。

ーー僕も観ましたが、あそこはおかしな感じがしました。

三好:あそこだけ合わないでしょう? 自分を撃った人間を許すなんてことはないんだから。多分その撃った犯人は、与党と野党の下っ端のチンピラですでに暗殺されたかで行方不明なんですよ。でも、あの映画では出てきて謝っているから「変だなあ」と思って。僕は矛盾していると思う。

音楽関係の映画ってそう感じることが結構あって、僕はクイーンの映画(映画『ボヘミアン・ラプソディ』)も腑に落ちない点があるんですよ。あの映画って、1985年のライブ・エイドが中心になっているでしょう? あれの直前ってクイーンが何をしていたかというと日本公演をしていて、僕がアテンドしていたんですよ。日本公演をやっている最中の彼らはみんなハッピーで、フレディ・マーキュリーもある日本人の女性と一緒に毎日遊び歩いていて、僕はほかのメンバーたちと遊び歩いていたんです。で、映画の中では彼がエイズだとそのとき知っていたとなっているけど、知っているわけないじゃん。みんなすごく楽しそうに遊び回って、滅茶苦茶買い物していたんだから(笑)。

ーーあの頃の来日アーティストってすごく買い物しましたよね。僕が担当したフェイセズとロッド・スチュワートもそんな感じでした。

三好:あの頃はそうでしたよね。みんな泊まるのはホテルオークラでしょう?

ーーオークラでしたね。

三好:ジョン・レノンもヨーコと一緒にオークラの最上階に泊っていて、そこに荷物を置いたまま軽井沢に夏休みで1か月行っていました。僕もクイーンのときにオークラの最上階へ行ったことあるんですが、バーッと広い通路があって、フロアには7部屋あるんですよ。当時、フレディ・マーキュリーにはクリスタルという芸名の付き人がいたんですが、「クリスタル、今どこ?」「こっちだよ」とかって、フレディがかくれんぼしていたりね(笑)。

移籍した日本フォノグラムで喜納昌吉&チャンプルーズを担当

ーー三好さんは東芝EMI内でレーベルを作りましたよね。

三好:ええ。洋楽部内にプラネットアースというレーベルを作って、最初に契約したのがマレーシアのシーラ・マジッドという女性シンガー。

ーーシーラ・マジッドはどうやって見つけたんですか?

三好:彼女の「Sinaran」というシングル盤を聴いたときに「この曲はめちゃくちゃ当たる」と思ったんですよね。それで歌っている人を調べたらEMIマレーシアのミュージシャンだったんですよ。それで、僕はクアラルンプールまで行って、向こうのEMIの部長に会って「シーラ・マジッドと契約をしたい」と。そうしたら、当時は日本よりもマレーシアのレコード産業が遅れているわけじゃないですか? 例えば、イギリスのEMIが「日本のミュージシャンと契約したい」ってなかなか言わないのと同じように、日本のEMIから来た人間がシングル盤1枚しか出していない新人シンガーと契約をしたいと言うなんて「おかしい」と(笑)。

ーー警戒されちゃったんですね(笑)。

三好:もちろん、その後できちんと説明したら大歓迎されて、僕に付き人まで付けてくれて、マラッカまでドライブして、そこの高級ホテルに泊まったり大接待されたんですよ。それでシーラ・マジッドに会ったんですが、そこにはシーラ・マジッドの旦那さんで、プロデューサーのロスラン・アジズという人がいたんですよ。僕はそのプロデューサーと意気投合して、シーラ・マジッドは日本デビューしました。当時、結構当たったんですよ。

ーー仕事自体は順調だったのに、なぜ東芝を辞めたんですか?

三好:ペットショップボーイズというグループがその原因です。NMEというイギリスの音楽誌の評論家2人がミュージシャンになったグループで、全然歌えないやつらなんだけど、そいつらがデビューして当たっちゃったんだよね。実際に彼らは音痴で、ちゃんと歌えない。それでも曲はヒットした。それに僕は呆れたというか頭きちゃってね。「EMIの洋楽にはもうロックはないな」って。

ーー(笑)。

三好:僕が憧れたビートルズが今やペットショップボーイズになっちゃったって。このとき「もう辞めてやろう」と。あと石坂さんから「(洋楽を)邦楽みたいな感じでやれ」って言われたのも嫌でしたし、ウルフルズと揉めたのも理由の1つです。僕はアマチュア時代のウルフルズを観てすごく気に入って、数社競合がいたんですが、東芝EMIが契約できたんです。それで、プラネットアースからデビューするんですが、リーダーのトータス松本君と僕がアルバムのジャケットをどうするかで揉めて、まあ、いろいろな理由が重なってですが、結果、会社を辞めちゃったんです。それで僕が辞めたからウルフルズは東芝の邦楽に移籍しました。そこで「バンザイ」とかで大ヒットを放ち、有名アーティストとなりました。

ーーその後、三好さんは日本フォノグラムへ行かれますね。最初に手掛けたアーティストは誰ですか?

三好:実は、THE BOOMと契約したかったんですができなくて、選んだのがディアマンテスと中村一義。あと喜納昌吉&チャンプルーズですね。喜納昌吉&チャンプルーズはデビューからフォノグラムで、最初は三浦光紀さんがやっていたんですよ。

僕はフォノグラムに行く前からチャンプルーズとは知り合いで、どうしてチャンプルーズと出会ったかというと、これにもボブ・マーリーが関係してくるんです。僕はボブ・マーリーの存在をもっと多くの人たちに知ってもらいたくて、「影響力のある人たちに彼らの演奏を見せたら口コミで広がるに違いない」と思ったんです。つまり「こういうバンド、ミュージシャンがいてすごいよ」と言わせるにはスポークスマンが必要だと。

ーーその白羽の矢を立てたのが喜納昌吉さん?

三好:そうです。当時、僕が入手したボブ・マーリーの唯一の映像があって。それはロンドンのレインボーシアターというところでやった1時間ほどのライブだったの。それを東芝の視聴室に持ち込んで、喜納さんにそのライブ映像を観てもらったんです。

ーーその映像を観る前、喜納さんはボブ・マーリーのことを知っていたんですか?

三好:いや、喜納さんは知らなかったです。知らないから呼んだわけで。そうしたらボブ・マーリーのことをすごく気に入ってくれてね。そこで僕は喜納さんと仲良くなったんです。

ーーちなみに三好さんが喜納昌吉さんの存在を知るきっかけはなんだったんですか?

三好:それは久保田麻琴ですね。まこっちゃんは細野(晴臣)さんとかと「ハイサイおじさん」を一緒に演奏していたから、僕はそこでチャンプルーズの存在を知ったんです。

ーー喜納昌吉をやったことで、沖縄との関係もできたわけですか?

三好:そう。彼らとの仕事は非常に大きかったですね。

松田聖子「あなたに逢いたくて」の大ヒット

ーー日本フォノグラムには何年いたんですか?

三好:4年ちょっといたのかな。最後は松田聖子の担当だったんですよ。彼女がソニーから移籍してきたんですが、例の如く、僕は興味がなくてね(笑)。そもそも歌謡曲が嫌いで東芝を辞めたのに、またかとそのときは思いました。当時、僕以外の担当がいたんだけど、松田聖子のマネージメントから駄目出しされちゃって、フォノグラムは小さい会社ですから、会社から「お前やってくれ」と言われてね。

ーー代わりの人がいなかったと。

三好:そう。ただ松田聖子で魅力的だったのは、当時、彼女はロサンゼルスに住んでいて、レコーディングをロサンゼルスでやろうとしていたので、レコード会社の担当者も英語をしゃべれる人を求めたんです。僕は「やった。ロスへ行けるんだ」と(笑)。で、ロサンゼルスのホテルに滞在して、ホテルから北ハリウッドのレコーディングスタジオまで行って、レコーディングをしました。そこで作ったのが「あなたに逢いたくて」です。松田聖子にはたくさんヒットがありますが、100万枚を突破したのはその1枚だけです。

ーー「あなたに逢いたくて」はビッグヒットでしたよね。

三好:彼女にとっては最大のヒットです。曲もよかったけど、作詞は松田聖子本人なんですよね。

ーーロサンゼルスだとバックミュージシャンは名うてのスタジオミュージシャンだったりするわけですか?

三好:そうですね。メインボーカルもロサンゼルスで録音して、その重たいマスターテープを持って松田聖子と一緒に日本へ帰ってきて、コーラスのレコーディングをしてまた帰ってね。今はデータでやりとりできますけど、当時は重たいテープを担いで行ったり来たりしていました。

ーー松田聖子ってその頃からセルフプロデュースに完全に舵を切った印象があります。

三好:本格的に作詞を始めましたからね。その辺から、単なるシンガーじゃなくて全部自分でやるようになったと思います。おまけに彼女には詞を書く才能もあったんですよね。僕よりもピッチとか正確でしたしね。僕なんか洋楽出だから、そのあたりはコンプレックスで、いつもバレないかビクビクしていたんですが(笑)、彼女はすごくちゃんとやっていましたし、本当に才能のあるアーティストでした。

ーー結果、三好さんが関わった松田聖子のプロジェクトは大成功したんですね。

三好:大成功でしたね。でも成功した陰には、夏目雅子の映像を使ったCMも大きかったと思います。CMのコンセプトと「あなたに逢いたくて」という言葉がピッタリ合うからというので曲が使われて、それが大ヒットに繋がりました。

宮沢和史とヨーロッパや南米をツアー

2002年ブエノスアイレスにて 中央:宮沢和史、その左:アルフレッド・カセーロ、左端:三好氏(提供:三好伸一氏)

ーーその後、三好さんはファイブ・ディーで宮沢和史さんと仕事をしますね。

三好:先ほども話しましたが、僕が邦楽で一番最初にやりたいと思ったグループがTHE BOOMだったんです。でも、THE BOOMはソニーのミュージシャンでできなかった。で、しばらくして、マネージャーの佐藤剛さんのところへ「宮沢くんのソロをやりたい」と言いに行って、ファイブ・ディーで仕事をすることになったんです。当時、彼は自分の家に個人のスタジオを作って、そのスタジオでMIYAZAWA名義のソロアルバムのレコーディングをして、それを佐藤剛さんのところからディストリビューションして発売しました。

ーー宮沢さんも沖縄音楽やブラジル音楽など、どんどん世界を拡げていきましたよね。

三好:そうですね。宮沢君が一番最初に南米と関わりがあったのがブラジルで、ブラジル・リオデジャネイロのスラム街で宮沢君がライブをやったんですよね。そこでは毎週1回、大きなライブイベントがあって、宮沢君は三線を持って歌ったんですけど、その姿を見て改めて「すごいミュージシャンだな」と思いました。

その後、宮沢君は「THE BOOMじゃないバンドを作ろう」というので、新しいバンドを作って、そのバンドでヨーロッパ公演をやりました。ポルトガルからスタートして、フランスへ行き、フランスからブルガリアに行って。

ーー当時、宮沢さんはヨーロッパで認知されていたんですか?

三好:全然。というか日本のバンドがまだヨーロッパに行っていない時代ですよ。僕は洋楽出身だから、そういう関係で無理やり行ったんです(笑)。その後、ブルガリアからスイス経由でポーランドへ行き、首都のワルシャワともう1か所でライブをやりました。そこからモスクワへ飛んで、モスクワでもコンサートやりました。

ーーなぜモスクワまで足を伸ばしたんですか?

三好:伊豆の下田で開催された、日本とロシアの通好条約締結150周年記念のイベントに宮沢君が出ることになって、そこにロシアからもバンドが来たんです。そのロシアのバンドのリーダーが女性で、その女性と僕は仲良くなり、その女性を通して何回かモスクワへ行っていたんですね。その流れで宮沢君もモスクワでライブすることになったんですが、そのコンサートは、日本でもニュース放送されたぐらい話題になりました。

ーー素晴らしい。宮沢さんが日本人アーティストの海外ツアーの先例を作ったんですね。

三好:あの時代によくやったと思います。それで帰国して彼のプライベートスタジオで、海外ニュースを見ていたら「海外で宮沢の曲がヒットしている」という話になったんですよ。

「島唄」が繋いだ縁と沖縄移住

アルフレッド・カセーロがアルゼンチンで受賞した「Shimauta」の年間優秀曲のトロフィーと宮沢和史(提供:三好伸一氏)

ーー海外でヒットしている曲とは「島唄」ですか?

三好:そうです。正確にはアルゼンチンのアルフレッド・カセーロという人が「島唄」をカバーして、それがアルゼンチンで当たっていたんです。それで僕と宮沢君たちとでブエノスアイレスに行くんです。アルフレッド・カセーロという人は日本で言うとビートたけしみたいな人で、コントや劇をやり、歌も歌う多芸な人だったんです。その彼がソロアルバムを作ったんですが、アルバムを発売しようと思ったときにちょうど「島唄」を聴いちゃって、「この曲をやりたい!」と。それで発売を遅らせて「島唄」を追加収録し、アルバムを出したんです。ただ、「島唄」を歌うにしても、アルゼンチンだから三線とかないじゃないですか? それで三線を至急探して見つけたのがクラウディア大城というアルゼンチン出身の沖縄県系二世の歌手だったんです。

ーーアルゼンチンにも沖縄からの日系移民がいたんですね。

三好:そう。彼女が三線を演奏したんです。クラウディアは20歳の、健康美にあふれた黒髪の美しい女性で、僕はすばらしいなと思いました。実は彼女も今、沖縄に住んでいるんですが、そのクラウディア大城と宮沢くんとカセーロで、アルゼンチンのブエノスアイレスにある日本庭園でライブをやることになったんです。その日本庭園には池に赤い太鼓橋がかかっていて、その太鼓橋の真ん中をステージにして、池の周りの芝生にお客さん入れてやったら、満員になって、大成功しました。

ーーそれは宮沢さんのライブに、2人が参加するようなライブだったんですか?

三好:主役は宮沢君です。それで宮沢君とカセーロはすごく仲良くなって、ウルグアイとアルゼンチンの国境にある川にカセーロが持っている船があったんですが、一緒にその船に乗って1日旅をする映像とか残っていますよ。

ーークルーズ旅行とは豪華ですね。

三好:どうしてクルーズに行ったかというと、ちょうどその日が18時に日が沈む満月の日だったんです。カセーロはそれをよく知っていて、クルーズに出て、月が昇っていく瞬間をじっと眺めました。すごくきれいでしたね。

その後も宮沢君はバンドで南米ツアーをするんですが、それはアルゼンチンのブエノスアイレスからスタートして、ブラジルで大都市を巡り、ホンジュラス、ニカラグア、メキシコへ行き、メキシコからキューバへ行って、キューバで一番最後にやろうとした会場が、後にローリング・ストーンズがそこでライブをやるんですが、海岸にあるステージだったんですよ。ローリング・ストーンズはそこで30万人のコンサートを実現しました。

ーー素晴らしいシチュエーションですね。

三好:そこが最後の目的地でね。実はその海岸の隣にはアメリカ大使館があって、キューバの連中がアメリカ大使館に文句を言うためにその広場が作られたそうで(笑)、そこにあるステージが無料で使えるということを聞いて「絶対そこでやろう」と盛り上がったんです。でも、ライブ予定日にハリケーンが来る予報が出て、事前に中止になっちゃったんですよね。

ーーハリケーンが来る恐れがあるから?

三好:そうです。でも、当日、ハリケーンのコースが少しずれて、全然平気だったんですよね(笑)。雨は多少降っていましたけど晴れているし、風もないですしね。ハリケーン自体はそのままメキシコ半島の先っちょにあるカンクンへ上陸して、カンクンが大被害になったんだけど、キューバは被害が特になかったんです。

ーー中止にしなくてもよかったかもしれないですね。

三好:結果的にはね。僕にとっては最悪なコンサートですよ(笑)。

ーーその後、三好さんがファイブディーを辞めて、沖縄に移住されますが、移住したのは何年ですか?

三好:沖縄に移住したのが2006年なので、もう20年弱になりますね。一旦音楽の仕事を辞めて沖縄へ来たんですが、やはり次第に音楽の仕事がしたくなって、東京にいるときに知り合ったイクマあきらの事務所で仕事を始めたんです。

ーー僕はイクマあきらさんの「ダイナミック琉球」が大好きです。名曲ですよね。

三好:彼はすごく才能ありますよね。で、もう1人、伊禮俊一という伊是名島のシンガーソングライターが事務所には所属していて、彼が作った曲が結構ポップな曲で、彼は三線を弾くんですが民謡じゃなくて、すごく気に入ったんです。

ーー現在はイクマあきらさんと伊禮俊一さんと仕事をしているんですか?

三好:そうでした。しかし、その後イクマさんと喧嘩をしてしまい、そこで音楽の仕事は終焉を迎えました。美浜という人気スポットがあるんですが、映画館とか前は観覧車があったところにイベントをやるエリアがあったんです。そこで野外イベントを週に1回やる日があって、イクマあきらや伊禮君が歌っていたので、そのPAをやったりしました。

ーーPAもやっていたんですか?

三好:だって誰もいませんから(笑)。マイクやスピーカーのケーブルを引いたり、なんでもやりましたよ。

ーーやっぱりいくつになっても三好さんは音楽の仕事が好きなんですね(笑)。

インタビュアー プロフィール

山浦正彦(やまうら まさひこ)
Musicman共同発行人 / マグネット 代表取締役


1947年福岡県久留米市生まれ。山口大学工学部卒。70年ビクター入社するもすぐに創設のワーナーパイオニア 洋楽部に転籍、ツェッペリン、イエス、EL&P、ディープパープル、ドゥービーブラザーズ等担当、77年退社。78年、早々とパンク化し六本木に「S-KENスタジオ」を創設、「東京ロッカーズ」と名乗って活動。84年 マグネットとしてマグネットスタジオ開設。その後、音楽に関して「何でも自分でやってみる」気になり、マネージメント、音楽制作、出版、レーベル(Zabadak、P-Model等)を立ち上げて「Musicman」の発案に繋げた(エフ・ビー・コミュニケーションズと共同制作)。