ヒットの法則はビートルズが教えてくれた ビートルズ初代担当ディレクター / プロデューサー 髙嶋弘之氏インタビュー

インタビュー フォーカス

髙嶋弘之氏
髙嶋弘之氏

ジョン・レノンとポール・マッカートニーのツインヴォーカルを2台のヴァイオリンに、ジョージ・ハリスンとリンゴ・スターをピアノとチェロに置き換えた注目の女性カルテット「1966カルテット」がイギリスへ渡り、アビーロード・スタジオでレコーディング、キャバーン・クラブでライブを敢行した。アビーロード・スタジオで録音されたアルバム「アビーロード・ソナタ」のリリースも待たれる中、彼女たちのプロデューサーであり、ビートルズ初代担当ディレクター、そしてフォーククルセダース、由紀さおりなど、数多くのヒット曲を送り出してきた髙嶋弘之さんにお話を伺った。

PROFILE
髙嶋弘之(たかしま・ひろゆき)


1934年生まれ
1957年 早稲田大学第一文学部演劇専攻卒
1959年 東京芝浦電気(株)レコード事業部入社 洋楽ディレクター
1970年 (株)キャニオン・レコード取締役制作部長
1976年 同社退社
     ポリグラム・グル―プ(現ユニバーサル)のチャペル・インターソング
     (音楽出版社)社長に就任
1981年 (株)ロンドン・レコード(ポリグラム・グループ)代表取締役副社長
1984年 ポリドール(株) (現ユニバーサル)常務取締役制作・宣伝本部長
1986年 同社退社 (株)エイティーン設立
2005年 KTRrecordsを設立
2010年 ショパン協会国際連盟のワルシャワ会議で理事に就任。
2010年 ビートルズを演奏する1966カルテット(vn vn vc pf)をデビューさせる。
現在  髙嶋音楽事務所(株式会社エイティーン)代表取締役社長

  1. 2度目のアビーロード・スタジオ訪問〜「1966カルテット」のロンドンレコーディング
  2. ビートルズの初代担当ディレクターとしてあの手この手
  3. 邦題は最大のキャッチ・コピーである
  4. マスメディアを巻き込んだ「演出術」〜由紀さおり「夜明けのスキャット」がヒットするまで
  5. これからも音楽を聴いている人を喜ばせたい

 

2度目のアビーロード・スタジオ訪問〜「1966カルテット」のロンドンレコーディング

——まず、今回のインタビューのお話を伺ったときに、「高嶋さんってあの”高嶋弘之”さん?」と思ったんですよ。

髙嶋:「まだ生きているのか?」って(笑)。

——いやいや(笑)。まだ現役でやられていたことを知って驚きました。今おいくつなんでしょうか?

髙嶋:今年の5月で80歳になります。

——すごい…80歳で今手掛けられている1966カルテットをロンドンまで連れて行ってレコーディングされたんですね。

髙嶋:ええ。1966カルテットの今度のレコーディングは、ビートルズの聖地アビーロード・スタジオでしよう、とコロンビアに働きかけたら、運がいいことにOKが出たんですよ。それで僕は「今回は『アビーロード』そのものをやったらいい」と言ったら、岡野さんが「今までの2枚(『ノルウェーの森〜ザ・ビートルズ・クラシックス』『Help!〜ザ・ビートルズ・クラシックス』)に比べたら作品が地味だ」と。ビートルズはどの作品もいいんですが、「アビーロード」が地味だというのは一般論的には分かるんです。やはり「イエスタデイ」や「ヘイ・ジュード」の方がポピュラーですからね。

——高嶋さんはアビーロード・スタジオに行ったのは今回が初めてなんですか?

髙嶋:実は2度目なんですよ。1966年にビートルズが来日した年に、ビートルズで売上をあげたからということで、東芝が行かせてくれたんですよ。そのときはまず、サンレモ音楽祭に行って、ミラノのヴォーチェ・デル・パドローネ、イタリアのEMIですね。そこに行きまして、それからロンドンのEMI、ドイツのエレクトローラ、そして、最後フランスのパテ・マルコニーに寄って帰ってきました。

それでロンドンに行った時アビーロード・スタジオに行ったんですよ。そのときはマンフレッド・マンが録音していました。この間ジョージ・マーティンさんに会ったときに、「マンフレッド・マンを担当されていませんでしたか?」と聞いたら「ずいぶん昔にね」と言われました。でも、当時プロデューサーは全く裏の人間だから、国際部長がジョージ・マーティンさんがいたことを気にもかけなかったわけですよ。本当はその時お会いするチャンスだったんですね。

——ジョージ・マーティンは今でもお元気なんですか?

髙嶋:もう88歳で、アビーロード・スタジオの階段を降りるときは新田(新田和長氏)と一緒に体を支えました。とても紳士ですよ。イギリス紳士ですね。そして、息子さんのジャイルズ・マーティンはポール・マッカートニーのプロデューサーなんですよね。

アビイ・ロード・スタジオの本の日本版(「アビイ・ロード・スタジオ 世界一のスタジオ、音楽革命の聖地」)は持っていたんですが、その英語版が向こうで売っていたので買いまして、ジョージ・マーティンさんが序文を書かれているんですが、そこにサインをもらいました。

これを読んでびっくりしたのが、アビーロード・スタジオはビートルズで有名になったというより、「威風堂々」とかを書いたエドワード・エルガーがここで録音しているんですよ。あとは伝説のチェリストのジャクリーヌ・デュプレとか、アビーロード・スタジオは非常に歴史的なスタジオなんですね。

——1966カルテットはキャバーン・クラブでライブをしたそうですね。

髙嶋:ええ。当初は「人が入らなかったらどうしよう」と思っていたんですよ。何人か日本人の夫婦が来てくれたんですが、日本人ばかりでもしょうがないですし、「どうやって外国人を集めようかな…と思っていたら、幸い天気にも恵まれまして、客がかなり入ったんですよ。それで、キャバーン・クラブはビートルズの曲ばかりじゃないですけど、ビートルズのそっくりバンドが出て歌うことが多いわけですが、彼女たちの演奏はインストで良い意味のカラオケなんですよ。だからみんなが大合唱になって、大変盛り上がりました。

ただ、これは僕の失敗なんですが、今回のアルバムの売り物が、「アビーロード・ソナタ」という曲で、これは20分のソナタ(第一楽章 第二楽章 第三楽章、第四楽章)の中にビートルズの「アビーロード」の収録曲が11曲入った曲で、これを演奏したんですが、非常にクラシカルにできているので、お客さんは一緒に歌えないわけですよ。ちょっと高尚過ぎて。だからここを、押せ押せのビートルズ曲でやればもっと受けたと思うんですけどね。

でも、音楽が分かっている人は「すごいグループだな」と思ったと思います。それで、アビーロードの例の横断歩道で1966カルテットにビートルズと同じような服を着せて、ポール役の子には裸足で歩かせて(笑)、ジャケット写真を撮りました。これが結構似ているんですよ。

——彼女たちにやらせたんですか?

髙嶋:そうです。ビートルズのときは木々が緑いっぱいですけど、今回は枯葉でした。僕は、それはそれでいいって言ったんですよ。あれから50年経っているんですからね。なにも一緒のことはない、と。ジャケットがこれですからすぐ分かりますよ、「アビーロードだ」って。タイトルは「アビーロード・ソナタ」、これは本当に自信作です。

 

ビートルズの初代担当ディレクターとしてあの手この手

ビートルズ初代担当ディレクター / プロデューサー 髙嶋弘之氏

——高嶋さんは東芝に入られて、洋楽が最初ですよね。

髙嶋:そうですね。入社当初、僕はロジャー・ウィリアムスというピアニストをものすごく売りました。当時カーメン・キャバレロが人気だったので、ジュリアード音楽院を出たクラシックのピアニストのロジャー・ウォーリアムスをムードピアニストとして、売りまくりました。

——会社の中でも高嶋さんは何か他の社員の方とキャラクター違ったんじゃないですか? 新人ディレクターとして入って来られたわけですけども。

髙嶋:僕が入ったときの洋楽ディレクターって図書館の担当者みたいなもんだったんですよ。どういうカタログがあるのか理解していて、それを整理して出すだけとか。

——だいたいそんなもんですよね。でも、高嶋さんは何か違いますよね。

髙嶋:つい最近までニューヨークのフジサンケイ・グループの社長をやっていた法亢堯次は早稲田の同級で、彼がニッポン放送にいたので遊びに行ったら高崎一郎さんを紹介してくれて、高崎さんが僕の担当していた曲をかけてくれたんですよ。そのときに「やはり人間関係が重要だな」と思いました。当時、東芝の宣伝は洋楽も邦楽も担当が一緒で、どうしても邦楽の比重が多かったんですよ。ですから、「これは自分で切り開いていかないと売れないな」と思いました。ただ予算もありませんから、その方法として人間関係を構築していくと。それで各放送局でも人脈を広めていったんです。

あと、評論家ではなく高崎さんだとか、放送局で知り合った人たちにライナーノーツを書かしたんですよ。そりゃ自分でライナーノーツを書いた作品ならかけますよね(笑)。それから、放送局がネタとして使えるようにガリ版で「東芝洋楽ニュース」というのを作ったりね。とにかく宣伝にものすごく力を入れました。

——洋楽は宣伝しかないですからね。

髙嶋:そうなんですよ。もちろん企画もありますけどね。だからタイトルとどう宣伝するかですね。

——高嶋さんというとやはりビートルズですよね。

髙嶋:そもそも、当時の日本にはイギリスもののマーケットがなかったんですよね。それで、福田一郎先生が東芝に来て「ビートルズは絶対日本じゃ売れないよ」と言うんですよ。僕は評論家の先生が売れるとか売れないとか言っても別に驚かないんです。ただ困るなと思ったのは、放送局の人がビートルズをかけようとしているときに、福田先生が「お前こんなもんかけてんのか! これ日本じゃ売れないよ」とか言って、ディレクターは先生と喧嘩するのが嫌だから、かけるのを止めるのが恐いなと思ったんです。

——なるほど。

髙嶋:それで、みんなの前で「先生ちょっとこちらへ」と言って裏へお連れして、「先生、僕は福田先生のことが大好きです。でもね、ビートルズの波は間違いなく押し寄せてくるんです。僕の大好きな福田先生がその波に飲み込まれて、『評論家 福田一郎』が波の藻屑と消えるのを見るのは忍びない」と言ったんですよ(笑)。「先生もう一度お渡ししますからよく聞いてください」と。そうしたら、しばらくして福田先生が僕のところへ来て、「高嶋、売れるぜ、あれは!」って(笑)。

——(笑)。

髙嶋:あと宣伝にお金をかけられませんから、当時の常務のテーブルに、東芝の若手社員をわっと座らせて、みんな髪の毛は今の僕ぐらいの長さだったんですが、前髪をビートルズのようにして、「東芝全社員ビートルズ・カット」っていう記事を女性自身の記者に書いてもらったりね。当時「マッシュルーム・カット」なんて言葉を知らないですからね。それでビートルズ・カット。

——確か、東芝の人たちは襟無しのスーツを着て宣伝されたりもしていましたよね。

髙嶋:襟無しのスーツは西銀座デパートの2階、今はレストラン街になっていますが、そこにあった京橋テーラーに飛び込んで、「ビートルズっていうのがイギリスから来て、ものすごい波になる」「私は洋服の件で全部任されているんです」と。任されてないけど(笑)。

——言ったもの勝ちですね(笑)。

髙嶋:「あなたたちにこの権利を譲るから、そのスーツを全国で発売してほしい」と。それでスーツにビートルズ4人の写真を印刷して貼ってくれる代わりに、レコードに広告出すからとお願いしました。レコードに広告出すといってもまだ一枚もリリースしていないんですけどね(笑)。で、「抱きしめたい」のスリーブにノーブル・キャッスルという服の広告を掲載して、売り出したんですよ。あと、襟無しのスーツをセールスマンに着せて銀座4丁目を行進させたりね。

そしたら中には失礼だけれども、若くして毛の薄いのもいるんですよ。それがビートルズの格好してね(笑)。お笑いですよ。

——あのビートルズも最初はそんな感じだったんですね。

髙嶋:あとビートルズでやったのはレコードコンサートです。家に良いステレオがない当時、レコードコンサートって客が集まったんですよ。今風に言うと「キュー」ですが、「俺が合図をしたらそこでキャーッと言って」と何人かに指示するんです。それで「シー・ラブズ・ユー」のファルセットのところでキューを出すと「キャーッ!」とやるわけですよ(笑)。するとそのうち、全員が「キャーッ!」って叫ぶ様になると。

そうやってレコードコンサートの人数を増やし、女子高生のファンを作っていました。僕は一番ローリング・ストーンズを恐れていたんですよ。彼らは骨太、こっちは女子対象に売っていましたから「ビートルズ甘っちょろい」なんて言われたらえらいことです。とにかくローリング・ストーンズとプレスリー、この2つは徹底的に消そうと思っていました。プレスリーはプレスリーでまだ残り火が強かったですしね(笑)。

 

邦題は最大のキャッチ・コピーである

——あの頃はヒットの要因の何割かは邦題にありましたよね。

髙嶋:そうですね。映画だってそうじゃないですか? 今の人がちょっと気の毒なのは、アメリカとかで上映された情報がすぐ入ってくるんですよ。昔は2ヶ月かかりました。だからどうとでもできたんです。僕は日本語タイトルをきちっと付けたほうがいいと思います。もちろん、全部日本語タイトルにしろとは言わないですよ。僕の後にビートルズを担当した水原健二が、「While My Guitar Gently Weeps」に日本語タイトルを付けていないんですよ。それで未だにいじめているんですけどね(笑)。

——(笑)。

髙嶋:「俺だったら『ギターは泣いてる』だよ。それか『むせび泣くギター』だよ」って。そうしたらカバーはいっぱい出ていたはずだと言うんですよ。なによりアナウンサー泣かせですよ、「While My Guitar Gently Weeps」なんて。

——その長さだと番宣で曲のタイトルがのりにくいですしね。

髙嶋:そうですよ。「I Want to Hold Your Hand」を「抱きしめたい」にしたのは、今で言うところのオールディーズ、当時はオールディーズという言葉がなかったですが、そういった音楽とビートルズの違いを鮮明にしたかったからなんです。あと、アダモの「雪が降る」、原題は「Tombe la neige」=「雪よ降れ」なんですが、僕は非常に新しいシャンソンというか、フレンチポップスの時代が来たなと思って、それで淡々と「雪が降る」にしたんですよ。これは僕の傑作のつもりなんですけどね(笑)。

https://www.youtube.com/watch?v=Ds3R0Zxh26g

もっとインチキなのが、エルヴィス・プレスリーの「この胸のときめきを」。これはピノ・ドナッジオが作って、サンレモ音楽祭で歌った曲なんですね。当時、カンツォーネの邦題にいいタイトルがついていたんですよ。「ほほにかかる涙」とか「花咲く丘に涙して」とか。僕はその雰囲気をパクって「この胸のときめきを」とつけたんですよ(笑)。

——(笑)。

髙嶋:辞書をひいたかどうか(笑)。一応ひいたと思いますが、あの流れで「この胸のときめきを」にしたんです。ところがピノ・ドナッジオはそんなにヒットしなくて、ダスティ・スプリングフィールドの英語バージョンがヒットしたんです。しかもダスティ・スプリングフィールドも同じ邦題を使ってヒットしたので、プレスリーのときも当然同じ邦題。今でこそ「プレスリーのタイトルは俺が付けたんだ」とか言っていますけど(笑)、そういう経緯だったんです。

——やはり邦題をつけると、曲がグッと身近になりますよね。

髙嶋:やっぱりタイトルは最大のキャッチ・コピーですよ。

——洋楽から邦楽に移ったのは自分のご意志ですか? それとも会社から言われてなんですか?

髙嶋:それは自分の意志ですね。ひとつはビートルズの後、東芝の制作陣がヒット曲をたくさん作れなかったんですよ。僕は洋楽を聴いていましたから、「今の東芝の邦楽は、日本の若者たちには受けないな」と思ったんです。そうしたら僕の同僚で、ベンチャーズを担当していた安海勲がワイルド・ワンズを出したんですよ。それを見て「洋楽の担当者でもやっていいんだな」と。

——邦楽では最初に何を手掛けられたんですか?

髙嶋:黛ジュンです。これは騙されて出したんですよ。

——えっ?

ビートルズ初代担当ディレクター / プロデューサー 髙嶋弘之氏

髙嶋:ラジオ関東(現 ラジオ日本)の大谷さんからある日、ちょっと局に来てくれ、と電話があって出かけていったら、彼は先約の人と、喫茶店で話し合っていたんですね。そばの席で待ってて、と言われるままに待っていたら、聞こえるともなく、「どうだいあの子は? 泉ちゃん」、「いやぁ、各社ひっぱりだこなんですよ。ビートルズが歌えて、美空ひばりが歌えるという10年に一人という逸材ですからねぇ。どのレコード会社にしようかと目下考え中です。」そこで僕は、「大谷さん、その子、僕にやらせてよ!」大谷さん「聞いての通り、各社ひっぱりだこだから、高嶋ちゃんに任せたけど、編成会議では落っこちてしまったじゃねぇ」「大谷さん、僕の力、知らないね。僕が引き受けたからには、東芝でバッチリやりますよ!」「ほんと?! 泉ちゃん、高嶋ちゃんで決めようか?!」

大谷、泉の二人は、ビクターからデビューしたけど、成功してなかった渡辺順子を、もう一度売り直そうとしていたんだけど、どの社にも断られていたんですね。後は、東芝の高嶋を乗せるしかない。これにまんまと乗ったのが私と言う訳。二人の決めようか、の声が終わるやいなや、待機していた、渡辺順子が現れました。僕にとっての、最初の日本人歌手は、「声も聴かない、顔も見ないで決めたんです」

黛ジュンという名前は、知的なイメージを出そうという事で、「恋のハレルヤ」の編曲者、中島安敏が、当時「題名のない音楽会」の名司会で有名な作曲家、黛敏郎さんを「尊敬している」という事にして、黛。本名の順子をちょっとバタくさくして、ジュン。編成会議では、浅輪常務から「誰だ! とんびみたいな名前を付けたのは」と怒られましたけど、黛と鳶は、字がちょっと似てますからねぇ。4弾目の「天使の誘惑」では、レコード大賞を獲りました。

そして、カレッジ・ポップス、いわゆるカレッジ・フォークですね。ニッポン放送の「ヴァイタリスフォークビレッジ」という番組がやっていた頃、実はアメリカのフォークソングブームは下火になっていたんですよ。でも、こういう番組が流れ、スポンサーがついているということは、一応需要はあるんだなと思ったんです。それで僕は聴くフォークから、自ら歌う、演奏するフォークの時代が来たのかなと思って、編成会議で「カレッジ・フォークを出そう」と言ったんですよ。そうしたら営業が「高嶋、フォークブームは終わっているよ」と。それはアメリカのフォークブームが終わったということなんですね。

——でも、日本は違うと。

髙嶋:そう。それで翌月の企画会議で再度「学生たちの歌を出しましょう」と言ったんです。「当分赤字だと思いますが、将来の東芝のために、絶対に役に立ちます。学生たちはほとんど自分たちでやりますから、ソロの場合は1曲3,000円、グループの場合は5,000円でやってください。ただこれはと思ったものは、僕がちょっとスタジオミュージシャンを使ってやるかもしれません。その際は東芝のスタジオは使わせてください」とお願いしました。そうしたら制作部長の浅輪常務が「そんなに遠慮しなくていい。キミの言うスタッフをつけていいからやりなさい」と言ってくれたんです。

——それで学生の中からアーティストを発掘していったんですね。

髙嶋:ある日、夜10時頃から麻布十番のスナックみたいなところで飲んでいたんですよ。そしたら女子大生みたいなのが4〜5人入ってきて、そこにあったギターで歌い出したんですよ。僕は飛んでいって「あなたたちはどんなレコード買っている?」と訊いたら「今はレコードで買いたいのありませんよ」「今歌っていたじゃない?」「いや、これはみんな仲間が作っていたり、歌ったりしているものなんです」と言うんですね。それで何曲も何曲も歌ってくれた中に、ザ・パニック・メンの「想い出の小径」があって、このメンバーに都倉俊一がいたんですね。

あと、新田和長。ある日、確か宣伝の益川さんが、東芝の本社時代に親しかったという新田さんを僕に紹介してくれたんです。その時一緒に来たのが息子の新田和長。当時彼は、早稲田のフォーク・ソング同好会のメンバーで、自分たちの作品の売り込みだったんです。

そこは適当にご挨拶して、益川さんと新田のお父さんには帰ってもらったんです。その後一人になった新田を怒鳴り上げました。「ふざけるな、この野郎。本社の偉い人を連れて来たからといって、俺が驚くと思っているのか。誰が何と言おうと俺がダメなものはレコード出さねえよ。出直してこい!」と言ってやりました。すると新田は、「今日はこれで失礼します」と(笑)。

——一喝ですね(笑)。

髙嶋:後日「高嶋さん、今日は1人で参りました」と(笑)。それで出したのが「海は恋してる」ですよ。

——ザ・リガニーズですね。

髙嶋:そう、ザ・リガニーズ。大ヒットですよ。このB面は「マリアンヌ」というアメリカのフォークソングの日本語バージョンを彼らが作ったんですよ。「花ちゃん、花ちゃん、結婚すべか♪」と、東北弁の太郎と花ちゃんが結婚する話なんですが、途中からコンガを入れたんですが、間違えてコンガを入れてない方のテープを工場に送っちゃったんですよ。それでレコードができて新田が「高嶋さん、コンガ入ってないじゃないですか」と言うんですよ。それで僕は「新田、俺はこのクソ忙しいときにこの曲を50回聴いた。で、コンガはない方がいい」とね(笑)。

 

マスメディアを巻き込んだ「演出術」〜由紀さおり「夜明けのスキャット」がヒットするまで

ビートルズ初代担当ディレクター / プロデューサー 髙嶋弘之氏

——その後、邦楽で印象に残っているお仕事は何ですか?

髙嶋:由紀さおりの「夜明けのスキャット」ですね。実はあの曲は、いずみたくさんが作曲したTBSラジオの「夜のバラード」という詩を朗読する番組のテーマ曲だったんですよ。でもインストを入れたら由紀さおりの作品にならないじゃないですか。それで僕が「夜明けのスキャット」とタイトルをつけて、山上路夫さんに詞を発注したんですよ。

——「夜明けのスキャット」は高嶋さんがつけたんですか。

髙嶋:そうです。普通タイトルは作詞家が付けるんですが、最初から「タイトルは『夜明けのスキャット』で」とお願いしました。それで編成会議にかけたんですが、由紀さおりはデビューしたての20歳で、歌は上手いけれどもまだ実績はないし、しかもワンコーラスは、ずっと「ルルル〜」歌っているだけの曲ですから、「いくら高嶋ちゃんの曲でも今回は無理だな」となったんですよ。

僕はよく人に「レコードが発売する前に『売れる』と言う人は50%正しい」って言うんです。そして「『売れない』と言う人も50%正しい」と。つまり出てみないとわからないんだから、会議で「売れる」なんて言っちゃダメなんです。だから僕は「今回は自信ない」って言うんです。そしてここから嘘ですよ。ビクターの友達のディレクターにこれを聴かしたら、「東芝の編成会議で落ちたら俺のとこで出さしてくれ」って言われてるので、落とされたらビクターから出ることになります。それでビクターから出てヒットしても、それは僕の責任じゃないですからね。今一度駄目だと言った人は、一応お名前を控えさせて貰ってもいいですか?って言うんですよ。

——巧妙ですね(笑)。

髙嶋:そうしたら、「待て!待て!」ですよ。まあ、そういう作品だから宣伝予算ないんですね。それでどうしたと思います? 社内で「お前、金使いすぎだ」って言われないところをうまく使ったんですが、なんだと思いますか?

——うーん、何ですかね…。

髙嶋:それは電話代ですよ。飲み食いしたら「何でお前こんなに飲み食いするんだ」って言われますけど、電話代はチェックされません。それで僕は全国の放送局の仲間に電話して、「今ちょっと面白い人と代わるから」といずみたくさんに代わってもらうんですよ。「いずみたくです。今度高嶋ちゃんとちょっと変わった作品を作りましたから聞いて下さい」って(笑)。そりゃディレクターは驚きますよね。で、もう一度僕に代わって「テープ送りますか?」って訊ねると、みんな当然YESですよね。でも、そこであえてテープを送らないんです。

そこで送ったってすぐにポイですよ。だって当時は沢田研二やショーケン、小川知子とかいっぱいいるときに、「由紀さおり? 誰?」って感じですよ。そこで釣り糸を垂れて、引きが来るのじっと待っているんです。「高嶋さん! テープ送るって言っているのにどうなっているの?」って言ってくるのをね。そうしたら「いや、申し訳ない。僕も全くどうなっているか分からないんだけど、テープをコピーした途端に宣伝の連中が右から左へ持ってってね。なんか東京中で話題になっているみたい」と言うんです(笑)。

——駆け引きがすごいですね(笑)。

髙嶋:それで「送ります」と言って、ようやく送るんです。あと「帰って来たヨッパライ」でニッポン放送をたくさん儲けさせた貸しがありましたから、始まったばかりの「オールナイトニッポン」で曲がたくさんかかるように手を打つ傍らで、東京放送の三浦さんという方に「これ、TBS『夜のバラード』のテーマですから、他社でかからなくて困っているんです。なんとかしてください」とお願いしたら、三浦さんが関係者たちに「みんな高嶋を男にしてやろうじゃないか!」と呼びかけてくれて(笑)、そうしたらTBSで滅茶苦茶かかる。もちろんニッポン放送のオールナイトニッポンでもかかる(笑)。

——(笑)。

髙嶋:新人の初回プレスは大体8000枚、由紀さおりは5000枚の予定だったんですが、発売日の出荷は20万枚。トータルで110万枚売れました。

ヒットを作りたくないと言ったら嘘になりますが、僕は自分の好きな曲にはのめり込むんです。僕は関西人ですから「あそこの店旨いよ、食えよ!」というタイプなんです。もし時間があったら1億人ひとりひとりに「他の曲聞かないで、まずこれを聞いて!」と言いたいですよ。でも、それは無理な話ですから、マス媒体にのっけて話題にするんです。そのへんは、僕、演出家なんですよ。

——確かに「演出家」と言われるとすごくしっくりきますね。

髙嶋:僕の持論に「ヒット曲=ビフテキ論」というのがあるんです。例えば、僕がある人に2000円のステーキをごちそうします。それが月曜日で、火曜日に3,000円、水曜日に4000円、木曜日に5000円のステーキをごちそうして、それで土曜日くらいに「今日はすごいよ。2万円くらいするステーキの店知っているから、そこ行こうか」と。「でもすごく美味しいラーメン屋も知ってんだ。どっちがいいかな」って言うと、みんな「ラーメンにして下さい」って絶対言います。

これがヒット曲なんです。つまりどんなに美味しいとしても、同じ手は絶対に使っちゃいけないんです。僕はそれをビートルズから学びました。ビートルズは「ラヴ・ミー・ドゥ」から「プリーズ・プリーズ・ミー」「フロム・ミー・トゥ・ユー」「シー・ラヴズ・ユー」、「抱きしめたい」、この5曲はいかにもビートルズという感じですが、その後全く違う「イエスタディ」が出てきましたね。でも根底は全てビートルズ。そこがやっぱりすごいところです。キャラクターはキッチリ残してありますから。

 

これからも音楽を聴いている人を喜ばせたい

ビートルズ初代担当ディレクター / プロデューサー 髙嶋弘之氏

——洋楽、そして邦楽で大活躍された高嶋さんが今はクラシックを手掛けられていますが、それはなぜですか?

髙嶋:日本のクラシックはコチコチだから、隙があると僕は見たんですよ。あと、もし僕がロックグループを組んだとすると、まず楽器車が要りますよね。「出演料タダでもいいです」と言ったって、メンバー分の電車賃がかかります。でも、クラシックはピアニスト1人でOKです。

——そうですね。

髙嶋:ロックだと、やっぱりアンプだとか、とにかく色んなものが要ります。

——PAだ、照明だ。

髙嶋:そうそう。クラシックだとホールの照明でOKですからね。

——ホールにピアノもありますしね。

髙嶋:ええ。それでクラシックをちょっと面白くできたらいいなと思って、今やっています。日本人はクラシックが好きなくせに、「いやー」って拒否反応を示す人が多いから、それを取り除くために「ギンザ・クラシックス」というコンサート・シリーズを作ったんですよ。それが今、娘(高嶋ちさ子)がやっている「ギンザめざましクラシックス」につながっているんです。もう二百何十回やっていますからね。全国へ行くときは、ギンザを取って「めざましクラシックス」です。フジテレビと組んでね。あいつらは僕のおかげって忘れていますよ、本当に(笑)。

——(笑)。

髙嶋:まあ、娘ですからね(笑)。僕が最初、銀座でやったときは少なくとも3種類の楽器で演奏しました。いくらピアノがいいと言ったって、ピアノを2時間聴いていたら飽きますからね。それからクラシックは長い。ツィゴイネルワイゼンだって僕は5分にしました。親しみやすい選曲にして、コンサート中に出演者が喋る。この3つがコンセプトです。

——あと毎月Hakuju Hallで「寄席CLASSIC」とイベントもやってらっしゃいますが、スポンサーもなしで、全部自前でやっていらっしゃるそうですね。

髙嶋:大損していますよ、もう(笑)。以前から落語と音楽の組み合わせはみんなやっているんです。ただ「寄席CLASSIC」みたいなタイトルをつけてないだけなんです。だから、これは僕が発明したんじゃなくて、世の流れを敏感にすくい取っているだけなんですね。僕にとってやっていることは昔から変わらないんですよ。

——高嶋さんはどうしてそんなお元気なんですかね。

髙嶋:僕は音楽や芸能がとにかく大好きなんですよ。それと、やはりサービス精神ですよね。人をどう楽しませるか、そこですよ。やはり音楽を聴いている人を喜ばせたい、原動力はそれしかないですよ。

——最後に今の若い音楽業界人にメッセージを頂きたいのですが。

髙嶋:今は音楽をダウンロードして、ヘッドフォンとかで聴く時代なのかもしれませんが、やはりスピーカーでも聴ける音楽を作ろうと言いたいですね。それからいいメロディーですよね。これは音楽の原点ですから。今はリズムが強調された音楽が主流ですし、それはそれで全然悪いとは思っていないんです。でも、そのことでメロディーが失われるのは悲しいんじゃないかと思いますね。

——優しく厳しいお言葉ですね。

髙嶋:僕なんか、この年で未だにいい曲を聴いたら「生きていて良かった」と思いますものね。今後もそういう音楽を提供していきたいですし、若い人たちには「いい音楽が生まれるよう共に頑張りましょう」と言いたいですね。

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