第90回 新田 和長 氏 株式会社ドリーミュージック 取締役 エグゼクティブプロデューサー

インタビュー リレーインタビュー

新田 和長 氏
新田 和長 氏

株式会社ドリーミュージック 取締役 エグゼクティブプロデューサー / 元日本レコード協会副会長

今回の「Musicman’s RELAY」は都倉俊一さんからのご紹介で、株式会社ドリーミュージック 取締役 エグゼクティブプロデューサー / 元日本レコード協会副会長 / 元音楽産業・文化振財団理事の新田和長さんのご登場です。早稲田大学在学中に「ザ・リガニーズ」を結成し東芝音楽工業(現EMIミュージック・ジャパン)よりレコードデビュー。ビートルズのディレクターであった高島弘之さんに誘われ、同大学卒業後に東芝音楽工業へ入社し、69年以降はオフコース、赤い鳥、RCサクセション、トワ・エ・モワ、加藤和彦、北山修、はじだのりひこなどを手がけ、チューリップ、甲斐バンド、長渕剛、寺尾聡、稲垣潤一、加山雄三など、プロデューサーとして大ヒット作品を次々と世に送り出しました。84年にEMIより独立し、ファンハウスを設立。ここでも多くのヒット作を手がけ、98年にはBMGジャパン取締役・RCAアリオラジャパン社長、99年にはBMGファンハウス代表取締役副社長・ファンハウス社長を歴任し、2001年にドリーミュージックを設立。現在もプロデューサーとして平原綾香などを手がけ第一線でご活躍されている新田さんの波瀾万丈な半生を伺いました。

[2010年9月29日 / 渋谷区神宮前 株式会社ドリーミュージックにて]

プロフィール
新田 和長(にった・かずなが)
株式会社ドリーミュージック 取締役 エグゼクティブプロデューサー / 元日本レコード協会副会長 / 元音楽産業・文化振財団理事


早稲田大学在学中に「ザ・リガニーズ」を結成し、『海は恋してる』等を発表。 1969年東芝音楽工業(株)(現・EMIミュージック・ジャパン)に入社。プロデューサーとして、赤い鳥、オフコース、トワ・エ・モワ、RCサクセション、はしだのりひことクライマックス、加藤和彦、北山修、サディスティック・ミカ・バンド、チューリップ、甲斐バンド、長渕剛、かまやつひろし、加山雄三、寺尾聡、稲垣潤一など数々のアーティストを担当。
1984年(株)ファンハウスを設立し、代表取締役社長に就任。オフコース、稲垣潤一、舘ひろし、小林明子、岡村孝子、小田和正、永井真理子、辛島美登里、シングライクトーキング、S.E.N.S.、大事MANブラザーズバンド、ACCESS、斉藤和義、THE YELLOW MONKEY等を輩出。
1998年(株)BMGジャパン取締役、RCAアリオラジャパン社長兼務、1999年(株)BMGファンハウス代表取締役副社長を経て、2001年(株)ドリーミュージックを設立、代表取締役社長兼CEOに就任。現在、取締役エグゼクティブプロデューサー。 日本レコード協会理事、同副会長、音楽産業・文化振興財団理事などを歴任。

 

  1. フォークとリバプール・サウンドの洗礼
  2. 国際競争力のある音楽を作ろう
  3. 新しい才能たちとの出会い〜オフコース、赤い鳥、RCサクセション
  4. 歴史の瞬間と渦の中で〜「目利き」であることの重要性
  5. 加藤和彦氏との音楽的な日々
  6. 東芝EMIでの葛藤〜38才でファンハウスを設立
  7. ファンハウスの急成長とバブル崩壊
  8. A&Rは僕らの命であり全てである
  9. 若い世代にも刺激を与えるようなプロフェッショナルな音楽
  10. 世界で売れる新しいスターを作りたい

 

1. フォークとリバプール・サウンドの洗礼

−−最初に前回ご登場いただいた都倉俊一さんとの出会いや印象などをお伺いしたいのですが。

新田:実は今日、都倉俊一さんの『This is my Song』というレコードを持ってきたんですよ。これ(ジャケット)が若き日の都倉さんです。彼は学習院でザ・パニック・メン、僕は早稲田大学でザ・リガニーズというバンドを組んでいて、東芝のレーベルメイトだったんですが、このレコードは僕と都倉さんがプロデューサーで、都倉さんが全部英語で歌っているんです。

−−このジャケットは有名ですよね。セールス的にはどうだったんですか?

新田:痛いところを突かれましたね(笑)。彼がずっとアーティスト活動をしていくとさえ決めていれば売れていったと思うんです。でも、彼はどんどん作曲家の方に行ってしまいましたからね。

−−都倉さんご本人は「人前に出るのは得意じゃない」とおっしゃっていました。

新田:僕はシンガーソングライターばかり担当していたので、都倉さんのような職業作曲家に頼む機会がなかったんですね。ですから、都倉さんが作曲家になって以降は一緒に仕事することはあまりなかったんです。でも、都倉さんもバンドをやっていましたから、プロの職業作曲家のわりにはバンド的な音作りをされました。例えば、ピンク・レディーのときだって自分をピンク・レディーというユニットの一員であるかのような音作りをしたじゃないですか。場当たり的なサウンドではなくて、バンドの一員としての一貫性のあるサウンドをね。

 つまり都倉さんはコンポーザーに近いんですよ。コンポーザーはキーまで決めて、「これはB♭じゃないと成り立たない」というようなこだわりを持って音楽の響きを作っていくんです。彼のようなバンドのアンサンブルがわかって音が作れる存在というのはすごく貴重ですよね。昔はスコアが書ける人だけがプロデューサーだったじゃないですか? そのうちヘッド・アレンジができるとか、例えば同じフェンダーのギターでも、テレキャスとストラトの音の違いがわからないとプロデュースができない時代が来たように、プロデューサーに要求される要件って時代ごとにあるわけです。そういった角度から見ても、彼は当時としては珍しいバンド出身の作曲家で、それまでのいわゆる職業作家とはちょっと違うサウンド・ポリシーを持っていたんです。

−−都倉さんは新しいタイプの作曲家だったんですね。

新田:そうですね。そして、彼もやっぱり世界に出たいと思っていました。だから僕はすごく共鳴したんですね。「いつかそんな時代が来るといいね」と一種の盟友でしたね。今でも時々会うんですが、ずっと同志的な感覚があります。今、都倉さんは作曲家協会の常務理事ですよね。

−−8月にはJASRACの会長にも就任されました。

新田:物作りの真髄がわかっている人がJASRACの会長に就かれたというのは嬉しいですね。このインタビューが都倉さんからのご指名というのもすごく嬉しいです。

−−都倉さんは音楽に対してとても熱意のある方ですよね。

新田:ええ。2人で音楽を作っていた頃もスタジオが空いている土日に籠もっていましたし、土日は休もうなんてサラリーマン的な気持ちは全然ありませんでしたから。

−−ここからは新田さんご自身について伺っていきたいと思います。ご出身は横浜と伺っておりますが、どのような家庭環境で幼少期を過ごされたんでしょうか?

新田:僕は東横線の妙蓮寺幼稚園、菊名小学校の出身で、それから芝中・芝高という受験校で学び、早稲田大学に進学しました。普通の人と違うのは小学校4年ぐらいからずっとボーイスカウトをやっていたことくらいですかね。そういえば僕は小学校5年までは姓が新田じゃなくて葉室だったんですよ。これは父方の姓なんですが、京都の公家なんです。本家は奈良の春日大社の宮司・葉室頼昭さんですね。僕の先祖は学生のときに教科書にも出てきてた『保元平治物語・葉室時長』とか『新古今和歌集』の選者で、いわゆる文学系だったんです。

−−代々、芸術に関わるお仕事だったということですね。

新田:そして、僕は大学時代に早稲田のフォークソング・クラブに所属したことで音楽の道に入っていくわけです。

−−音楽と直接関わり合いを持ったのは、大学に入ってからですか?

新田:そうですね。自分が音楽の道に入ったのはやっぱり欧米から新しい音楽がたくさん入ってきた時代だったからだと思います。フォークソングは当時アメリカでは「コンテンポラリー・フォーク」と呼ばれていて、日本では中村とうようさんが「モダン・フォーク」と訳されていました。’58年のキングストン・トリオ以降、’62年のブラザース・フォー、その後のボブ・ディランなど、アメリカからフォークの流れが来て、それからイギリスからはリバプール・サウンドが来たわけです。ビートルズを筆頭にローリング・ストーンズ、キンクス、ホリーズ、アニマルズ・・・といっぱい入ってきた。ああいったロックっぽい音とアメリカから入ってきたギターのアンサンブルのフォークと、この2つの間で僕の血が騒ぐわけです。

 大学では11月になると早稲田祭があるんですが、僕らはフォークのコンサートをやるんですね。他のクラブはダンスパーティーをやっていたんですが、フォークソング・クラブがダンスパーティーをやるわけにはいかないのでコンサートをやるわけです。それで会場の大隈講堂を満席にするためにチケットをたくさん売らないといけませんから、成城から森山良子さん、慶応からモダン・フォーク・フェローズ、成蹊からはフォー・セインツと各大学の有名バンドに出演をお願いしていました。

−−一種のプロモーターですね(笑)。

新田:そうですね。そうやって出演してもらったバンドにギャラを払っていると、クラブのお金がなくなるんですよ。だから「他へ出て稼げるバンドを作ろう」と僕たちが作ったのがザ・リガニーズなんです。僕らはビートルズに象徴されるリバプール系の音とアメリカのモダン・フォークの流れと両方とも取り入れた音楽を作りたいと思っていたんですが、それはすでに加山雄三さんがやっていたことなんですよ。それで「やっぱり加山さんは凄いな」と彼を目標にして、僕らは『海は恋してる』を仕上げたんです。「ついでに間奏にセリフ入れちゃおう」みたいな感じにね(笑)。

−−あの曲は加山さんがモデルだったんですか(笑)。

新田:ええ。面白い話があって、加山さんと最初に会ったときに、加山さんのマネージャーが僕に話してくださったんですが、「ある日加山が『俺いつこんな曲作ったっけなぁ?』って、新田さんたちの曲をラジオで聴きながら言ったんですよ」と言われて(笑)。僕らも加山さんを意識して作っていましたが、聴いた加山さんも自分の曲だと思ったという(笑)。本人がそう思うんだから、やっぱり似ているんですよね。

 

2. 国際競争力のある音楽を作ろう

新田 和長2

−−大学卒業後は東芝EMI(現 EMIミュージック・ジャパン)へ入社されますが、どういった経緯で入社されたんですか?

新田:当時、ビートルズを担当していた高嶋弘之さんは時代を読む目があって、「これからは学生がレコード会社の力を借りないで自分たちで作った音楽が時代を作る」と言っていたんですよ。そして「そういう音楽の新しい作り方や発想、人脈が業界に入って来るだろう」と考えていたんですね。ザ・フォーク・クルセダーズ の『帰って来たヨッパライ』なんか顕著な例ですよね。スタジオは自宅、アイデアは自分たちで、プロの手なんか何も借りないで作った作品がミリオンヒットになって時代を変えたわけです。それに現フジパシフィック社長の上原徹君も成蹊大学でフォー・セインツですよね。成城大には森山良子さんがいたし、慶応大にはモダン・フォーク・フェローズと、各大学にスター・バンドがいて、ほとんどが自分たちで音楽を制作していました。

 それで高嶋さんが「無試験でいいから、新田は東芝に入れ」と誘ってくれたんですよ。ありがたいお話だったんですが、僕は早稲田で「輸出マーケティング」というゼミを専攻していたので、商社に就職するつもりだったんですね。それで高嶋さんに丁重にお断りしたんです。すると高嶋さんが「商社に行って何をやるんだ?」と訊いてきたんですね。当時、”国際競争力”という言葉が流行っていたので「国際競争力のある日本の優秀な製品を世界に輸出します」と言ったんです。そうしたら「その製品とは何だ?」っておっしゃるので、「例えば、カメラや車、テレビとか、そういった物を世界に輸出するんです」と答えたんですよ。そこで高嶋さんは「レコード会社に入って、国際競争力のある音楽を作って、日本の音楽を世界に出したらいいじゃないか」と言われて、僕はその言葉に結構グラっときて「なるほど!そういう手もあるな」と思ってしまったんですよね(笑)。当時はまだソフトとかハードという言葉はなかったんですが、「そのうち芸術とか文化とか姿形のないものを輸出する時代が来るよ」と、また凄い言葉で畳み込まれて僕は「参りました。お世話になります」って感じでしたね(笑)。

−−そういえば加山さんも東芝のアーティストでしたよね?

新田:東芝EMIに私が入社できた理由は高嶋さんの計らいですが、「東芝いいな」と思った理由は、やっぱりビートルズと加山さんがいたからというのが大きいです。加山さんは’70年から’75年の途中までの間、色々なトラブルに見舞われて「冬の時代」と言われてました。それで僕が東芝EMIに入社して、加山さんのレコードがなかなか出ないので先輩の担当ディレクターに「加山さんのレコードは出ないんですか? 早く作ってください」ってお願いしていたんですが、「今の加山さんの状況では作れないし、誰が買うんだ?」と冷たかったんです。でも加山さんの本当のファンというのは、加山さんが厳しいときでも相変わらず応援してくれているはずですし、こういうときこそ力を出してもらっていい作品を作ってもらいたい。第一、東芝EMIは加山さんにたくさんお世話になったじゃないかって気持ちが強かったんです。

−−東芝EMIにとって加山さんは恩人であると。

新田:でもお願いしても加山さんのレコードをなかなか作ってもらえないので、ある日、邦楽本部長の加藤郁夫さんに「僕を加山雄三さんの制作担当にして下さい」と直訴するわけです。そうしたら一言「本気か」とだけ言われて、それから1週間後に加山さんを紹介してくれました。僕は今でもそのときのことをよく覚えていますが、僕は一番お気に入りの紺のスーツを着て、グレーのシルバーメタっぽいネクタイをしていったら、加山さんも紺のスーツで、えんじのネクタイをされていて、僕は直立不動で自己紹介したら、加山さんも直立不動で「加山です」と映画そのままでね。僕はとにかく緊張しました。

−−私たちも加山さんとは「Musicman’s RELAY」でお会いしまして、さすがに緊張しました。小学生のとき「大人になったら若大将になろう!」と思っていましたから(笑)。

新田:僕の息子の名前は「雄一」というんですが、これは『若大将シリーズ』の「田沼雄一」からいただいたんです(笑)。それくらい僕は加山さんが好きだったんですよ。加山さんにお会いしたときに「何か1つでもコンプレックスってありますか?」と訊いたんです。そうしたら加山さんは「僕はコンプレックスだらけです」と言うんです。加山さんはスポーツ万能で、英語も堪能ですから「コンプレックスなんかない」と僕は思っていたので驚きました。それからすごく謙虚に「今から僕の家に行きませんか?」とおっしゃって、そのまま加山さんの家へ行って、二百何十台あったHOゲージという鉄道模型の線路を庭のほうまでずっと繋げて走らせて、大の大人二人でポイントの切換とかやったりしたんですよ(笑)。

−−(笑)。初対面で新田さんを「気が合う男だ」と加山さんは思われたんですかね?

新田:加山さんは僕に最大の接待をしてくれたんだと思うんですよ。だから一番大事なHOゲージで、本気で遊んでくれたんだと。遊ぶということによって僕に対して面接を課したのかもしれないですけどね。でも、ここで一緒になって遊ぶことで「音楽作っていこうぜ」と気持ちを合わせたのかもしれません。

−−ちなみに加山さんのどの作品を新田さんは手がけられたんですか?

新田:アルバムですと『海 その愛』、『加山雄三通り』、シングルは『ぼくの妹に』、『母よ』、『光進丸』、『サライ』などですね。

 

3. 新しい才能たちとの出会い〜オフコース、赤い鳥、RCサクセション

新田 和長3

−−それにしても新田さんの出会いの1つ1つが日本の音楽業界の歴史の話になりますね。

新田:僕は先輩たちに恵まれていたなと思いますね。1つは高嶋さんという人に出会えたことです。学生時代に知り合って、先ほど申し上げたとおり、勧められて東芝に入社しんたんですが、当の高嶋さんは私が入社してものの半年で東芝を退社されたんですよね。それで高嶋さんが担当していたザ・フォーク・クルセダーズなどが僕の担当になったんですよ。これは高嶋さんが残してくれた遺産ですよね。

 それともう1つは、安海勲さんとの出会いです。当時、東芝には洋楽の課長が2人いて、1人が高嶋さんで「高嶋ビートルズ」と言われていました。もう1人が安海さんで、ベンチャーズを担当していたので「安海ベンチャーズ」と言われていたんです。それで、2人とも洋楽担当だけど「新しい邦楽を作りたい」ということで、高嶋さんはザ・フォーク・クルセダーズや由紀さおり、安海さんはザ・ワイルドワンズやトワ・エ・モワを担当していました。安海さんは会社を辞めはしませんでしたが、ある日いきなり「お前、ザ・ワイルドワンズを担当しろ」と言われて、「いつからですか?」と訊くと「今日からだ。今日の録音からお前だ」とすごい乱暴でね(笑)。それでしばらくしたら「トワ・エ・モワもお前担当」と。そうやって出来たばっかりのスターを後輩にくれちゃう気前の良い上司で、スタートとしては大変恵まれていました。ですが「自分でアーティストを発掘したい」という気持ちも当然ありました。

 その頃、TBSラジオでヤマハ提供の『ライトミュージック』というコンテストがあって、そこでの準優勝がオフコース、優勝が赤い鳥だったんですね。準優勝のオフコースはジョニー・ソマーズの『ワンボーイ』と、ビートルズの『イン・マイ・ライフ』の2曲を演奏したんですが、選曲のセンスも良いし、ギターとハーモニーも良いしで「絶対に契約したい」と思いましたし、優勝した赤い鳥は『竹田の子守唄』とストロークが早くてコーラスの難しいピーター、ポール&マリーの『ジェーン・ジェーン』を演奏したんですが、「こんなのが日本にいるんだ・・・」と思うほど上手かったのでこっちも契約したい。結局、自分でどっちの契約を獲りたいのか分からなくなってしまって、僕は両方ともにアプローチしたんです。最終的にオフコースは小田和正君と何回も会って契約できたんですが、赤い鳥は村井邦彦さんが契約されたので駄目でした。そのときから僕は村井さんとの関わり合いができるわけですね。

−−その頃はまだアルファレコードはありませんでしたよね。

新田:そうですね。アルファアンドアソシエイツという音楽出版社がありました。赤い鳥は関西で活動をしていて、その5人を東京に連れてきて生活の面倒を見るというのは、マネージメントの力が必要ですから、新入社員の僕は彼らを東京に引っ張ってこられなかったんです。でも、村井さんは赤い鳥のためだけにバードコーポレーションというプロダクションをわざわざ作ったんですよ。そのときに僕は村井さんの力を目の当たりにしました。その後、村井さんは赤い鳥をコロムビアと契約させたんですが、さっぱり売れなかったんです。それで村井さんから「どうして売れないと思う?」と相談されたので、「うちに来たら売れますよ」と東芝に誘ったんです(笑)。村井さんも僕の言葉を本気で受け止めてくれて、赤い鳥とコロムビアとの契約を解消して東芝に連れてきてくれました(笑)。

−−結果的には赤い鳥も東芝にもってきちゃったわけですね。

新田:それで僕は録音のとき、メンバーの並び方もマイクの位置も全部指定して「この通りにして録りますから」と村井さんに言ったら「新田くんに任せるよ」と。ここが村井さんのすごいところで「任す」と言ったら本当に任せちゃう。でも「一個だけ条件がある」と言うので、何だろうと思ったら「イントロ8小節の後半4小節には、チェロを入れたい」って言ったんですよね。僕は「村井さん、さすがだな」と思ったんですが、録音の日に村井さんが来ないんですよ。まあ、そういうことはよくあるんですけどね(笑)。その代わりに「村井の弟子です」と言って現れたのが瀬尾一三くんです。それが僕と瀬尾一三君との出会いですね。

−−新田さんはその他にどのような方を発掘されたんですか?

新田:僕はRCサクセションとも契約したんですが、彼らとは僕が開催したオーディションで出会ったんです。東芝のスタジオが開いている日曜日に「自信のあるバンドは集まって下さい」と、テレビ東京やニッポン放送「オールナイトニッポン」でたくさん告知してもらって、約30バンドが集まったんです。その中にRCサクセションがいたんですが、彼らは結構遅い時間に来たので順番が終わりの方だったんですよね(笑)。彼らが出てくるまで大したバンドがいなくて「駄目かなあ」と思っていたんですが、終わりの方でRCサクセションが出てきて『泥だらけの海』『宝くじは買わない』『ぼくの好きな先生』と3曲やったんです。もうぶっとんでね(笑)。当時の日本はフォークかせいぜい品の良いロックが多かったですから、彼らのリズム&ブルース系の演奏がすごく新鮮でした。「なんだかこれはすごいなあ」と思って、そのときはRCサクセション1組だけ採用したんです。

 それでレコーディングすることになったんですが、彼らは僕に何の連絡もなくトランペット奏者2人とエレキベースを連れてきたんですよ。当時はレコード会社が強い時代ですから、普通は事前に「連れてっていいか?」と訊くものなんですけどね(笑)。それでこっちがポカーンとしているうちに「新田さん、ベースはラインで録って下さい」と仕切っていてね(笑)。「やるな!こいつら」みたいな(笑)。こんな高校生いるんだなと(笑)。もう彼らの言うままにスタジオジャックされた感じでした。

−−彼らはまだ高校生だったんですか?

新田:ええ。レコーディングのときだけじゃなくて、レーベル原稿のときもすごかったんですが、清志郎君から電話がかかってきて「自分の名前を変えたい」と言うんですよ。でも、レーベル原稿は打っちゃったし、テスト盤ももうできちゃっているので断ったんですが「どうしても変えたい」と言うので、「分かった。じゃあ何て名前に変えるの?」と訊いたら「いまわのきよしろう」と。聞き取れなくて「え? もう一回言って? どういう字?」、そうしたら「”忌まわしい”の『忌』ですよ」と言われてね(笑)。

 

4. 歴史の瞬間と渦の中で〜「目利き」であることの重要性

新田 和長4

−−長渕剛さんも新田さんが手がけられていますよね。長渕さんとはどのように出会われたんですか?

新田:ヤマハさんがつま恋で「ポピュラーソング・コンテスト」をやるようになって、毎年、各レコード会社が新人発掘に行くんですが、あるときにヤマハの友人で、ザ・サベージのリーダーをやっていた奥島吉雄さんから電話があって「決勝のつま恋に出られない人の中にも、僕はいい人がいると思う。ただ、ダンボール2箱分あって、すごい量なんだけど一緒に聴く気あるか?」と言うので、「それ面白いな」とエピキュラスの試聴室で、2日間2人で缶詰になって朝から晩までダンボールの中から封筒を広げて、写真を見て、自己紹介文を読んで、カセットを聴き続けたんですよ。

−−それはかなり大変な作業ですよね・・・。

新田:これは大変でした。1日目が終わって「明日はもうちょっと効率良くやらないか?」という話になったんです。それで「いい音楽をやる奴はルックスもいいんじゃないのか?」と思って、「まずは写真で選ばないか?」って言ったんですよ(笑)。つまり写真でピンときたら音を聴くことにしたんですね。そうしたら長渕くんの写真があって「これ、いいじゃないか」と音も聴いてみたらすごくよかったんです。それでプロフィールを読んだら「私は吉田拓郎が好きで、できたらユイに入りたい」と書いてあって、「確かに彼はユイの方がいいよね。ヤマハじゃなかなか難しいかな」と奥島さんに言ったら、「出版原盤をユイに半分あげてもいいからやろう」ということでやることになったです。その後、後藤由多加さんに連絡して、長渕くんはユイに行くことが決まりました。

−−では、そのダンボールから長渕さんを発掘していなかったら、長渕さんはデビューしていなかったかもしれないんですね。

新田:デビューしていなかったかどうかは分からないですが、少なくともあの時期にデビューはしていないでしょうし、ユイには行ってないかもしれないですね。でもこういう話をすると僕が彼の恩人みたいな感じがするかもしれませんが、全然そういうことじゃないんですよね。つまり「才能のある人って探せば一杯いるんじゃないかな?」ってことなんです。紙一重なんじゃないかなと。

−−でも、紙一重で見つけたアーティストをこれだけたくさん当てる新田さんも凄いですよ。都倉さんは「一流のシェフの舌はごまかせない」と仰っていました。「味の違いが分からないシェフはいくら修行しようともその違いは分からない。だからレコード会社は本当の意味で音の違いの分かる人間が上に立たなくては駄目だ」と。

新田:100%同感ですね。能を大成させた世阿弥っているじゃないですか? あの人は「目利き」という言い方をしているんですが、それと同じことですよ。世の中には目利きと目利きじゃない人がいて、やはりクリエイティブな仕事に携わっている人に要求されるのは都倉さん流に言うところの一流のシェフ、つまりソースを舐めただけで分かるということでしょうね。世阿弥の言うところの目利き、それですよね。

−−その感覚って訓練によって得られるものではなくて、生まれながらのものなんでしょうか?

新田:今回取材を受けるにあたって、その辺のことはしっかり考えておかないといけないなと思っていて、結局答えの出ないまま今日になってしまったんですが、例えば、大河ドラマ『龍馬伝』を観ていると、そこでは坂本龍馬や高杉晋作、木戸孝允、西郷隆盛、大久保利通とのちの明治新政府で活躍する人たちの多くがまとまって動いているじゃないですか? また「松下村塾」といっても実際に機能しているのは一年半しかなくて、その短い間であれだけの人たちを輩出した。つまり歴史の瞬間とか渦って確実にあって、そういう中に僕も居させてもらったのかなと思うんですよ。例えば、都倉俊一さんとの出会い。大学は違ったけど同じ時代にバンドをやっていて、そのときから知っているわけじゃないですか? 僕が会社に入ってからもお互いに仲良しで「世界に出よう!」と一緒にレコードを作っている。つまり都倉さんや高嶋さん、村井さんのような人たちが身近なところに居たってことなんですよね。それが一番大きかったんじゃないでしょうか。

−−確かに新田さんの周りにはいつの間にか錚々たる人たちが集まっている感じがしますね。

新田:そうですね。あと僕にとって重要な存在だったのが加藤和彦君です。フォークルが『帰ってきたヨッパライ』を発売したのが’67年の12月。それで1年間だけの限定活動ということで約束通り’68年12月の渋谷公会堂で解散公演を行ったんですが、僕はまだ学生でしたけど高嶋さんの手伝いみたいな形でそこに行っていましたし、京都のAFLとか学生のフォーク団体に呼ばれて、京都まで演奏に行き、僕らも彼らを東京に呼んだりして、’68年の「バイタリス・フォーク・ヴィレッジ」ではフォークルと同じステージに立ったりしたんです。ですから加藤君のことは学生時代からよく知っていました。

 それで僕が安海さんからトワ・エ・モワの担当を引き継いだときに「少しフォーク路線に持っていかないと”ヒデとロザンナ”みたいになってしまうな」と思って、加藤君と北山修君に曲を発注したわけです。それでできあがったのが『初恋の人に似ている』で、これはとてもいい曲なんですよ。そこで「フォークルは解散したけれど作家としてコンビを組ませれば今後もいい作品が生まれる」ということが確認できて、やがて『あの素晴らしい愛をもう一度』に繋がっていくんです。

−−そして、サディスティック・ミカ・バンドですか。

新田:そうですね。当時、ポール・マッカートニーとリンダはウィングスを結成して、ジョン・レノンはオノ・ヨーコとプラスティック・オノ・バンドを作って、何となく夫婦で音楽活動をするという世界的な風潮があったんですよ。それで加藤君も「ミカとバンドを組みたい」と僕のところに相談があって、それで東芝に「EXPRESS」とは一味違う「DOUGHNUT」というレーベルを作り、そこをちょっと治外法権的にしてミカ・バンドを結成したんです。それでしばらく国内で活動していたんですが、加藤君が「世界に出たい」と言い出して「世界で活躍したいんだったら、世界で活躍しているプロデューサーに頼んだ方がいいんじゃないか?」と話し合い、クリス・トーマスの名前が挙がったんです。クリス・トーマスはビートルズの『ホワイト・アルバム』でジョージ・マーティンのお手伝いをして、そのあとピンク・フロイドやブライアン・フェリー、セックス・ピストルズのプロデュースで有名ですが、加藤君と僕、高中正義、高橋幸宏でロンドンへ行って、1泊4ポンドくらいの安いホテルに泊まりつつ交渉したんです。

−−ずいぶん安いホテルに泊まったんですね。意外です。

新田:そのときはハングリーですもの。音楽ってそういう状態の方がいいものができるんですよね。それでロンドンでは部屋にシャワーもないような、朝は紅茶にパン一切れみたいな生活をしつつ、交渉して話をまとめたんです。そうしたらクリス・トーマスに「最低2ヶ月間レコーディングにかかる」と言われて、彼を2ヶ月もホテルに泊めたりしたら、それだけで制作費がなくなってしまうので、帰国してケン・コーポレーションへ行って1ヶ月20万円くらいの家を見つけてね。

 それでクリス・トーマスが東芝の1スタに入ったんですが、初日に左右のスピーカーの音をそれぞれ聴き比べて「(左右の)音質が違う」と言い始めたんですよ。そして「この会社にアルテックの同型は幾つある?」と訊かれて「30くらいある」と答えたら、「じゃあ、その中で一番いい組み合わせを作る」と・・・(笑)。それだけで2日間潰れました。その後、何年も経ってからこのときのことを振り返って「あれって脅かしだったのかな?」と思ったことがあるんですよ。

−−つまりクリス・トーマスの「ハッタリ」だったと・・・?

新田:そう言ってしまうと嘘臭いですけど、そこまで正確に揃ってなくてもいいのに、ほんのちょっとした差を指摘して、しかも2日もかけて最善の組み合わせになったかどうかも分からないんですよ?(笑) だからそれは皆を暗示にかけていくと言いますか、「あいつはすごいんだ」と人を引っ張っていく演出みたいなものだったのかもしれないなと思ったんです。

−−それにしてもスピーカーの組み合わせを決めるのに2日間って、今の制作環境じゃありえないですよね・・・それまでもミカ・バンドのスタジオワークは長い方だったんですか?

新田:その一年くらい前に『家をつくるなら』とかサディスティック・ミカ・バンドで録音したんですが、会社って12月末になると年末年始の休みに入ってしまうでしょう? 僕たちはそこを使って録音したんですよ。そうすると今で言うところのスタジオのロックアウトが出来る。しかも片付けずにそのまま帰れて、翌日もすぐに作業できるので、ずっと暮れから作業していたんですよ。ところがコンビニもない時代でしたから、食べるものがなくなって店も閉まっているので「大晦日だけは録音やめよう」と。でもそこに赤い鳥のメンバーとか瀬尾一三君が差し入れを持ってきてくれるんですよ。チューリップとかあの時代はみんな仲良かったんです。高中正義も「今日飯を食えるところはどこだろう?」と調べてくれて、「熱海しかないな」ってなると僕とミキサーの蜂屋量夫、瀬尾一三と高中正義で新幹線に乗って、大晦日、元旦に熱海に行ったりね。バカバカしいことなんですが、そういうノリですよね。人が休んでいるときに録音できる。録音=仕事ではなくて「録音させてもらえる」という気分なんですね。だから人が休んでスタジオを使わないなんて聞くと嬉しくて仕方がなかったですよ。

 

5. 加藤和彦氏との音楽的な日々

新田 和長5

−−加藤和彦さんの音楽的な凄さはどこにあるとお考えですか?

新田:加藤君のアコースティックギターには、あの人しか出せない音色があるんですよ。すごく巧いんです。それから彼が洋楽、例えば、サイモン&ガーファンクルの『ボクサー』を聴いて、スリーフィンガーの裏で鳴っている打楽器の音に気がついて、それを『あの素晴らしい愛をもう一度』で応用しちゃったりとかアイディア、イマジネーション溢れる人でした。『あの素晴らしい愛をもう一度』のあの音は加藤君の家にあったインドの椅子をニッポン放送の1スタでつのだ☆ひろに叩いてもらったんですけどね(笑)。

 実は僕は加藤君の家に住んでいた時期があったんです。加藤君は目黒のトンネルの手前の狭い部屋に住んでいたんですが、ある日ミカが加藤君に「ロールス買って」と言い出して、ミカも茶目っ気があるというか無理だと思っているんだけど、そういうことを言うんですよ。加藤君も「買ったらビックリするだろうな」とロールスを買っちゃって、そうしたら背が高くて普通の駐車場に入りきらないので、昔の麻布プリンスホテルのすぐそばに当時で家賃45万円の一軒家を借りたんです (笑)。

−−ただロールスを駐めるためだけにですか!?

新田:そうです。今だと家賃250〜300万くらいかな? その家、8部屋あったんですよ。それで「新田さん、泊まってよ。部屋あるし二人じゃつまらないし。横浜帰るのも大変でしょう?」って。当時、僕の給料が4万円、実際には残業がたくさんあったから10万円くらいあったんです。だからとりあえず4万円渡して・・・それでも家賃の10分の1に満たないわけなんですが、居候するようになったんです。

−−そこで加藤さんのギタープレイを間近で観られていたわけですね。

新田:そうですね。当時、ストーンズが『悲しみのアンジー』を出すと加藤君がすぐにギターを手に取って「新田さん、出だしの”ェ”アンジーっていうところが格好いいよね」なんて言いながら、そっくりに弾き出す。そういう姿を間近で観ていると「本当に才能あるな」って思うんですよね。あと彼はE♭の押さえ方が人とは違うので、僕もギターを持ちながら「何その押さえ方?」って訊いたら、「E♭を早く押さえようと思ったら、Cの持ち方を3フレット平行移動して1弦だけミュートしたらいいじゃん」って、彼はそういうことをやるわけですよ(笑)。加藤君とのこういった時間は本当に勉強になりましたね。彼は大の音楽好きですし、潔癖といいますか、妥協を許しませんからね。

 ただ、「そういつまでもアーティストのところに下宿していてもな」と思っていたんですよ。それで風邪をひいて寝込んでいたときに加藤君とミカたちと不動産情報を見ていて砧の新築マンションを見つけたんですね。それで「これならローンを組んで買えそうだな」と思ったので見に行こうとしたら、ミカが「熱あるんだからわたしが運転していく」とロールスを運転して(笑)、麻布から世田谷まで行こうとしたんです。そうしたら加藤君も「俺も行くわ」と結局3人でそのマンションを見に行ったんですよ。

−−ロールスロイスに乗って砧までマンション見に行ったんですね・・・(笑)。

新田:そうしたら「ロールスで加藤和彦夫妻が来た!」と不動産屋が僕のことを全然相手にしてくれない・・・彼らが買うと勘違いしてね(笑)。それで「二人は付き添いで僕が買うんです!」と意地になっちゃって、「絶対今日買っていく」と(笑)。それで僕が4階の部屋を買ったら加藤君たちが「新田君がこっち来たら、あの家で二人寂しくなるから、僕たちもこっち来ようかな?」って、一階の東南の角部屋、3,500万円の一番広い部屋を買っちゃって・・・(笑)。

−−衝動買いですか?(笑)。

新田:そう、衝動買い(笑)。それでまた1階と4階で交流は続きました。そのマンションには吉田拓郎が2ヶ月間居候したり、浅田美代子さんと結婚するときは僕が仲人をやったり色々ありましたね。

−−吉田拓郎さんが新田さんの家に居候していたんですか?

新田:ええ。昔、拓郎が「オールナイトニッポン」で離婚宣言したじゃないですか?「僕は週刊誌の記事そのものを信じない。だからこうやってダイレクトにみんなに語りかけている」と。僕はそれを家に帰る車の中で聞いていたんですが、実は翌日にかまやつひろしさんの『我がよき友よ』に続く曲のデモテープを拓郎から受け取る予定だったんですよ。でも、今からニッポン放送に行ってテープをもらっておかないと、今晩から雲隠れでテープをもらえないと思ったんです。かまやつさんも『我がよき友よ』でチャート1位を獲って、次の新曲も首尾よく出したかったですしね。

 それでニッポン放送に行ったら、すでにマスコミがたくさん来ていました。拓郎も番組が終わってからどこに行くか話し合っていて、結局「新田の家だったら分からないだろう」とそのときスタジオにいた山本コータロー、南こうせつ、ユイの後藤由多加さんとかみんなが僕のマンションに集合して、ビールを飲みながら「さてこれからどうしようか?」と相談して、拓郎が「とりあえず今日はここに泊まろう」と(笑)。それから二ヶ月間、拓郎は僕の家にいたんですよ。

−−なし崩し的な居候ですね(笑)。その二ヶ月間、拓郎さんは新田さんの家で何をされていたんですか?

新田:「新田は忙しいだろうし、子どもの風呂への入れ方知らないだろうから、俺が入れてやる」って拓郎が子どもを風呂に入れてくれていました(笑)。あと僕の女房は「拓郎のために料理を覚えた」って今でも言ってますよ。僕は仕事で夜あまり帰ることがなかったんですが、拓郎はずっと家にいるから三食食べるじゃないですか? だから本を買ってきて料理をたくさん覚えたそうです(笑)。それで拓郎は一日中家にいて「新田さん、今日は早く帰って来いよ。暇だから一緒に飲もうよ」って会社に電話をかけてきて、僕も仕事があるんですが「一日中一人はかわいそうかな」と思って帰ると、家の中では拓郎のソロ・ライブですよ(笑)。そのときの音源は今でも家にありますよ。

−−ちゃんと録音されていたんですか(笑)。

新田:あとで聴いたら面白いかなと思って(笑)。それしかやることがなかったですしね。

 

6. 東芝EMIでの葛藤〜38才でファンハウスを設立

新田 和長6

−−そして新田さんは‘84年にファンハウスを設立されますね。

新田:僕は東芝EMIに入って、1、2年経ったときにすでに会社を辞めたかったんです。辞表も書いたんですが、それを高宮昇さんという社長に止められたんです。どうして辞めたかったかというと、東芝EMIという会社は東芝電機の子会社であるという資本関係はやむを得ないけれど、志や心の有り様は東芝の下である必要はないじゃないか? ということなんです。ソフトはハードの下だなんてありえないし、現に当時ですらソニー本体とCBSソニーは上下の差なく共同で事業をやっていたじゃないですか。然るに東芝というのは親会社の敷居が高すぎて、子会社が下から見るような目線だったんです。それが僕は我慢できなかった。僕は音楽が電機より下だなんて思っていませんから。

 ところが役員とか総務部長は結構東芝から出向して来るんですが、「タイムカードを押してない」とかくだらない理由で注意されるわけですよ(笑)。僕らは時間労働者ではないですし、残業代が欲しくてやっているわけじゃない。例えば、朝普通に会社へ来て、徹夜して、そのまま次の日も会社にいるなんてしょっちゅうあることじゃないですか? つまり我々はタイムカードの形に合っていない働き方なわけです。でも、総務部長から「タイムカードを押さない新田には給料払わない」って言われて、僕は「こんな馬鹿な奴と一緒に仕事したくないし、この会社は合わない」と思ったんです。僕はとにかく現場主義ですから、どうしてもアーティスト側というか作る側の発想になってしまうんですよ。

−−いわゆる一般的な会社とレコード会社は本来かなり違う風土ですから、合うはずがありませんよね。

新田:僕の部下に武藤敏史君がいて、彼はその頃オフコースや寺尾聰を担当していたんですが、寺尾聰の『ルビーの指輪』とアルバム『リフレクションズ』で年間で55億円売ったんですね。それからオフコースで35億円を売り上げて、両方合わせると90億円ですよね。たった一人の男が90億円ですからね。でも、その武藤君のその年の年俸がいくらかというと350万円だったわけです。それはいくらなんでもおかしいと思って「他の部の古参ディレクターたちが年功序列で600万近い給料をもらっているのに、その半分はないじゃないですか」ということを僕は言うわけです。

 武藤君が他の会社にいけば少なくとも今の倍はとれる。まだその頃はフリーという時代じゃなかったですが、フリーになればそれ以上にとれると。僕は「いずれプロデューサーは印税制にしなきゃいけない」と思っていたんですが、そう言っても中々意見が通らない。「本来レコード会社はこうでなくては・・・」という思いが僕にはありましたし、それをあまりに外れていくのはよくないですから「(現場を)ちゃんとしてください」と言っていただけなんですけどね。とにかくそういうことがずっとあって、辞めたいと思うこともしょっちゅうだったんですが、辞めなかった理由はただ一つ、高宮昇さんが社長のうちは僕らは今の仕事を全うしようとしていたんです。

−−それは高宮社長に対する恩義ですか?

新田:恩義もありますし、僕は高宮さん自体が好きだったんです。親会社の東芝電気から子会社の植民地に来られる方たちは高等弁務官の様でしたが高宮さんは帰化人でした。「この人がいるからやろう」と思わせる人の象徴が高宮さんだったわけです。それから大賀さんが38歳でCBSソニーをお作りになったから僕も38歳までに会社を作らないと遅い感じがしたんですね。それも大きかったです。

−−ファンハウス設立は38歳くらいのときですか。お若いですね。でも設立という言葉を使われましたが、どちらかというと東芝から独立されたという感じがしますよね。

新田:そうですね。僕の部は第二制作部といって、制作のディレクター、プロデューサー、録音のエンジニア、宣伝マン、営業、そこまで入ったユニットでした。これがまとまって独立しました。ファンハウスの設立は’84年の4月1日なんですが、僕らは3月31日まで東芝EMIで仕事をして、1日でファンハウスに移りました。これはもう徹底していました。

 僕は1月5日に多久社長に30名のまとまった辞表を提出したんです。その時多久社長に「今から申し上げる話は長い目でみれば悪い話じゃありませんから冷静に聞いていただきたい」と言いました。30枚の辞表に多久社長もびっくりしていましたが、僕は「前から部長会で申し上げてきましたが、もう1社作るべきだという考えでいます。それはソニーがEPICソニーをつくったのと同じ理由です」と。部長会では始終ソニーの話をしていましたので、ある日「ここまでソニーの話をするんだったらいっそのこと、何故CBSソニーが日本一のレコード会社になったか、その理由を研究しましょう」と提案したんです。

−−それは興味深い研究ですね。新田さんはどのような結論を出されたんですか?

新田:理由はいくつかあるんですが、1つは「経営の継続性」で、創業時に盛田昭夫さんと大賀典雄さん、小澤敏雄さんがいて、小澤さんは総務部長から社長、会長というふうに肩書きはシフトしましたが、盛田、大賀、小澤というこの体制は一本化されていて、揺らいでいないんですね。加えて「経営と資本の一致」。つまりオーナー会社みたいになっているところが重要で、何年かおきで人が変わってしまう東芝EMIと全然違う所ですと。しかしこれは東芝電気の考えるところですから、いかんともしがたいわけですね。2つ目はCBSソニーは異業種からたくさん人を採用したこと。そして、「WHY?」という疑問形が沢山ある会社だったということです。業界の慣習をただ踏襲していく会社ではなくて、お店との付き合い、決済の仕方も「おかしいじゃないか?」と常に疑問を持っていました。そして3つ目、これが一番肝心なことなんですが「10年目でEPICソニーを作った」。自分の発意で作った会社ですから資本は子会社です。でも経営の主体が別ですから勝負ができる。フェアなコンペティションを展開できるんですよ。切磋琢磨することによってそれぞれのレーベルのカラーを出せます。

−−なるほど。だから新田さんは「もう1社作りましょう」と提案されたんですね。

新田:そうです。僕は分社化を提案して「いいね」という話にはなったんです。それで「僕にやらせてください」と言ったら、「君らはこの会社の採算部門だからダメだ」と断られてしまったんです。そういったやりとりをしているうちに1年過ぎて、「これ以上待てない」と思って辞表を出したわけです。そのときも多久社長はすぐに返事をくれませんでしたが、僕は株主にプレスは東芝の工場でやるし、販売も東芝のディストリビューションでやるから、東芝はプレスを通じて製造差益で稼ぎ、販売を通じて販売手数料でも稼いでもらいたいと言ったんです。つまり分社化していった方が東芝にとっても絶対良いんだということを僕は説いていて、東芝電気もEMIも両株主は理解を示してくれていましたから、多久社長に対して僕も株主も痺れを切らしていました。

 2月に入り、多久社長が「100%東芝の資本で作るんだったらOK」とおっしゃいました。僕は「資本だけは自分で持ちたい」とお願いしたんですが、「それだけは絶対ダメだ」と。それで最後に妥協して、資本は50、50で持つことになりました。つまり多久社長は「東芝EMIの発意でファンハウスを作る」と説明したかったんですね。僕たちが発意したものだと、僕たちは造反になるし経営側も責任を問われる。そのためには東芝EMIも出資する会社じゃなきゃ困るってことだったんですね。

 今考えれば、多久社長は当然のことをおっしゃったと思います。当時の僕は、十年もお世話になった前の社長に対する恩義を忘れて心変わりをしていく大勢の人達の生き様・・・そもそも会社の仕組みが我慢できなかったのだと思います。経営と資本の一致を貫けるオーナー経営の会社の方が向いているのです。

−−新田さんも組織の中で相当苦労されたんですね・・・。勝負する時はやっぱり今しかないって思う何かがあったわけですよね。もしかすると大失敗に終わる可能性もあったわけですから。

新田:いや、失敗するなんて思ってないですからね(笑)。

−−でも本当に実現したことがすごいですよね。

新田:それは小田和正君の協力も大きかったんです。彼は「1年間どこのレコード会社とも契約しないで新田に全てを任す」って白紙の委任状をくれたんです。本当に会社を作れるなら新田の会社とやる。そのかわり1年たっても会社を作れないときは自分に権利を返してくれとね。

 

7. ファンハウスの急成長とバブル崩壊

新田 和長7

−−ファンハウスのオフィスは最初小さかったですよね。確か赤坂のニューオータニそばのビルで。

新田:そうですね。そのときはこう考えたんですよ。「東芝EMIという名前で商売させてもらってきた集団が急に裏路地のどこかもわからないようなところでは商売できないんじゃないか」と。「狭くてもいいから自分たちの会社の居所はわかりやすくしなきゃいけない」とね。どちらかといえば自分たちのためよりはお客さんのためにわかりやすいところ、というのでニューオータニのあたりに借りたんです。その後、そこがすぐに手狭になって新宿1丁目のタケビルに移転しました。

−−その後、恵比寿に自社ビルを持つまでになるんですから凄いですよね。

新田:ファンハウスの売上が170億を越える少し前に銀行が「ビルを作ってくれ」「土地を買ってくれ」と言ってきたんです。それで僕らは伊藤忠が持っている恵比寿の312坪を買ったわけです。当時の僕らのメインバンク第一勧銀の勧めだったんですが、伊藤忠のメインバンクも第一勧銀だったんです。そのときの一坪の価格が2,250万円です。それでも足りないと伊藤忠が言ったんです。なぜかと言うと、伊藤忠が買ったときの簿価だからです。その後の固定資産税などを含めるとそれでも損なんだと。なので、売り立て方式と言って、建てる建物にいくらか載せて欲しいと。最終的には、一坪あたり2,250万円×312坪の70億じゃなくて、実際には80億を超えました。

−−それは土地代だけですか?

新田:そうです。そこに建物を建てれば当然100億は越えますよね。銀行の言い分は、「昭和23年に創業した東京通信工業、今のソニーも最初は小さい土地を買ってそこに本社を建てたんです。まともな会社というのは土地を買うんです。それが経営基盤であり、資金調達力であり、含み資産なんです」とこうくるわけです(笑)。「確かにそうだな」と思いまして・・・でもこれって地価が上がり続けるという前提の話しなんですよね(笑)。

 例えば、売上が100億円の会社において、健全な経営という意味で言ったら、10%、2ケタの利益が出る会社は健全な会社ですよね。つまり10%=10億円。それで「ファンハウスさんは同族会社ですから、その半分以上の6億5千万円が税金です」と。その当時の公定歩合が6.5%で、これは数字の綾なんですが「思い切って銀行から100億円借りちゃうんですよ。100億円の金利って今6億5千万円じゃないですか。同じ6億5千万円を払うのでも、税金として消えていく方がいいのか、土地として残る方がいいのか。まして、建物を建てれば減価償却できるんです。そうやってまともな会社は大きくなってきたんです。新田さん、やってください!」と言われ、「やりましょう」と答えてしまいました(笑)。

−−(笑)。

新田:決めたのは私なので、銀行を恨んだりはしていないです。銀行だって騙したわけではないですから。

−−予測ができなかっただけですからね。

新田:当時の大蔵省だって日本銀行だって、誰もバブルがあんな形で弾けるなんて思っていませんでしたからね。バブルの最中にはバブルだということがなかなかわからないんですよ。あの頃の僕らの感覚から言うと、能力のある人とか、努力している会社は何かに投資したんですよね。じっとしていることができなかった。でも、失敗した人の方がその後、色々考えるんですよね。僕もなぜファンハウスはもっとこうならなかったかな・・・と色んなことを考えられる。理由は色々ありますが、やはり一番大きいのは恵比寿に土地を買ったことですよ(笑)。結局、僕はあのビルを13億5千万円で売ったんです。

−−そんなに安くなってしまったんですか・・・?!

新田:安いですよね(笑)。だったら何もしないでバブルがはじけてから買った方が絶対にいいじゃないですか。タイミングが悪かったんですよね。

−−売上のピークを迎えるのが、あと数年遅ければ充分地価が下がった後の値段で買えたということですよね。

新田:2年ぐらい後ですね。でも僕はそういう星のもとなんですよ(笑)。

−−(笑)。成功するまでのスピードが急激すぎたのかもしれないですね。例えあれが自社ビルじゃなくて収益用のビルとして借りたとしても同じことですよね。

新田:同じことですね。僕の誇りはあのビルが生産設備だったこと、要するに本業に必要な投資をしたということです。アーティストがツアーから戻ってきたら疲れているだろうと思って、体を休める部屋や機械を置きましたし、スタッフが太陽になかなか当たれないと思ったら太陽の当たる場所も作りました。ただそれだけのことなんです。

−−後にも先にもレコード会社のオフィスであそこまでかっこいい所はないと今でも思っています。

新田:でも、僕はあの大きな講堂を銀行団の債権者集会に使いましたけどね(笑)。

−−(笑)。

新田:ありとあらゆる銀行と付き合いがありましたから。でも僕の誇りは誰からも逃げなかったことです。全部自分で返しましたよ。ずっとサブメインでいてくれた日本興業銀行の東京支店長で、現みずほコーポレート銀行会長の齋藤宏さんという方が「こんなにきれいにやってきた会社のどこが悪いんだ」と応援してくださって、他の銀行を引っ張ってくださった。僕は売れるものは全部売って、親の土地まで売りましたから。ゴルフの会員券はもちろん、換金できるものは全て売って、役員にも社員にも1円も負担させずに全て自分で返しました。これは代表者責任ですからね。その責任を果たしたんです。

−−憧れの加山雄三さんも通った道ですね。

新田:そうですね(笑)。加山さんは会社を経営していたわけじゃないですけどね。

 

8. A&Rは僕らの命であり全てである

新田 和長8

−−紆余曲折があり、’01年にはドリーミュージックを設立されますね。これはどういった経緯で設立まで至ったのでしょうか?

新田:まず、ファンハウスの結末からお話しますと、法的に言うとBMGとの合併なんですよ。BMGへの営業譲渡があったその一年後に合併したんですが、それで僕はBMGファンハウスの代表取締役副社長になりました。社長は田代(秀彦)さんで。それから企業内分社の中ではファンハウスとRCAの社長でした。ただ、外国人と一緒にやっていた4年半は面白くなくて、田代さんと会長のマイケル・スメリーさんに「小田和正のベストを’01年6月末までに出して、ザ・イエロー・モンキーのベストも出しますから、そしたら辞めさせてください」と申し出て、’01年8月にドリーミュージックを設立しました。

−−そこでまた会社を作れてしまうことがすごいですよね。資本は色々なところから集められたわけですよね。

新田:そのときはスクエアの社長だった武市(智行)さんと組んだわけです。

−−武市さんと出会われたきっかけは?

新田:ヘッドハンティング会社の社長の紹介です。今ドリーミュージックにいる森田(徹)君という取締役も元スクエアの役員なんです。

−−そこで意気投合されたということなんですね。

新田:「ファンハウスはいい会社だったのに惜しいな」という話になったんです。「でも、ビルを建てたとしても、僕がいたらどうとでもできた」と武市さんが言うんです。いわゆる財務や資本政策については武市さんの方がはるかにプロですから、僕は武市さんを申し訳なかったが頼り過ぎたと思う。

−−武市さんは今ドリーミュージックにはいらっしゃらないんですよね?

新田:はい、残念ですが。’01年の設立から’05年まで一緒にやっていました。その頃に経営が苦しくなって、依田巽さんに助けていただきました。20億円ほど出資していただきました。お金・人・才能、といった大事なもの全てを満たすということは難しいことです。創業以来出資してくださった既存の株主、自分が声をかけたアーティスト、社員に対する創業者責任を僕は選んだわけです。

−−そのときにファンハウスからいたディレクターの方たちが会社を去られたということですね。ファンハウスを作るときに経営のプロフェッショナルのような人がパートナーとしていらっしゃったら状況は大きく変わっていたかもしれませんね。

新田:本当にそうですね。でも、いたとしても僕は調子に乗っていたかもしれません(笑)。

−−(笑)。

新田:レコード会社のリーダーは会社を作ることに夢中になっちゃいけないんですよ。音楽を作ること、スターを作ることに夢中にならないといけない。やはりトップが余計なことをやっているチームはダメです。A&Rが僕らの命であり全てなんですよ。アーティストが100人いても1,000人いてもスターがいないと意味がない。作品も10万楽曲を管理していてもヒットがなかったら意味がない。そういう意味で「A&R」は「スターとヒット」なんですね。僕らの仕事はスターとヒットを作り続けるだけなので、特にトップがほんの数年でもそれ以外のことをやってはいけなかった。バブルだったとかバブルじゃないとかそういうことは関係ないですよ。

−−となると、今の肩書きが新田さんには一番居心地がいいのかもしれませんね。

新田:そうですね。俯瞰して見たときにレコード会社のやることはもうないのかもしれない・・・という言い方も含めて、もしあるとしたらスターとヒット作りしかないわけですから。それは360度とよく言われているようなマルチな商売とか、もっとプロダクション領域の新しいビジネスをやるレコード会社、総合音楽会社、と色々言い方はあるんですが基本はスターとヒット作りしかない。そこをもっと強化したほうがいいという意味では、自分はプロデューサーが一番いいんじゃないかなと思います。

 

9. 若い世代にも刺激を与えるようなプロフェッショナルな音楽

新田 和長9

−−都倉さんや村井さんはこのインタビューで「アマチュアの時代が続きすぎた。これからはプロの作詞家や作曲家が作品作りに関わるべきだ」というような原点回帰的なことをおっしゃっていました。

新田:それは永遠のテーマなんですよ。学生時代に僕らザ・リガニーズが高嶋ディレクターの元で『海は恋してる』という曲を出すときに、テスト盤ができたから取りにくるように言われてEMIに行ったときにレーベルを見たら「EXPRESS」と書いてあって、僕はショックを受けて「高嶋さん、約束が違うじゃないですか、キャピトルだったじゃないですか」と言ったんです。そしたら逆に怒られたんですよ。「キャピトルを使ってたら出す度にキャピトルにレーベル使用料を払わないといけないから会社は損をする。だから新しいレーベルを作ったんだ。キャピトルを有名にしたのはナット・キング・コールやビーチボーイズや向こうの宣伝マンだ。新田君はこの会社に入ってくるんでしょう? EXPRESSを有名にするのが君の仕事だ」と言われたんですよ。そう言われたらしょうがないですよね。「僕はキャピトル好きだったのになぁ」なんて思いながら(笑)、そのとき「よし! EXPRESSを有名にしていこう」と思ったんです。

 次にEXPRESSに入ってみて、「高嶋さん、一年間で新人何人出したか自分でわかってますか?」と、その当時課長だった高嶋さんに対して偉そうに食ってかかったんです。「46人も出してますよ。1年間に46人も新人出して一人一人の名前も覚えてられないでしょう。これは無責任過ぎませんか。会社やEXPRESSの信用を落としますよ」と抗議しました。そしたら高嶋さんは「善し悪しを判断するのはマーケットだ。レコード会社がいい音楽か、悪い音楽か全てを判断できると思うか? 一般の人が聴いて、一般の人が評価して、社会現象を見て、プロが後から追いかけていったわけじゃないか。だから僕たちは出すだけでいいんだ。生命力のあるものが残る」と言ったんです。

−−それは凄い発言ですね。そう思っている部分があっても、なかなか言えるもんじゃありませんよ。

新田:実はインディーズの仕事はそれに近いところがあって、僕らはある時期に「もうコツコツ作る時期は終わった」と言われるようになるわけです。「アマチュアが作ってくるテープを聴いて良ければ紹介してやればいい」と。それから、僕らはいいと思ってデビューさせて、1年して売れないと契約解消したほうがいいんじゃないか、という話がよく出るようになってきてしまった。そこで、メジャーレコード会社というのは何なのだろうと考えるわけです。「プロフェッショナルがいいと判断して採用したら成功するまでやり続けるのがレコード会社のミッションじゃないか?」という考え方と、「いつまでもこだわっちゃ駄目だ、高い予算を使うのも問題がある、マーケティングが重要で善し悪しを判断するのは素人ですよ」という二つの考え方ですよね。この議論って多分昔からあるんです。だから、今までがアマチュアの時代で、明日からプロの時代がくるという言い方には、僕はちょっと賛成できないですね。

 昔はいいメロディーがあった。残る作品がたくさんあった。今の作品はたいしたメロディーがない、残らないって言いますけど、それはどうかな? と思うんです。それは言っている人が歳をとっているだけで、今の若い人たちが50代、60代になったときは10代、20代のときに聴いていた曲をちゃんと覚えていますよ、と僕は言いたいですね。誰かが「○○以降いい曲がなくなった」と言うと、みんな真似して「いいメロディーないよね」って言う。それはおかしいと思うんですよ。

−−今、音楽業界は大変な時代を迎えているわけですよね。これをどう乗り越えていけばいいでしょうか?

新田:何度も言いますが、やはりスターとヒットですね。それを作るために必要なことは何でもやる。これは原点回帰とか、初心とかそういうものではなくて、色んな経験をしてきたので、昔じゃできなかったこと、自分にしかできないことをやる。でも、これには自分一人でやることとチームでやることの2つのことがあるんです。やはりチームでやらないと時間とかスケールがついていかない。今はそれをどうしようかと考えているところです。最近は一人でコツコツやりすぎた面もありますので(笑)。でも、1回コツコツやらないと全体が見えないんですよね。

 世の中には色んな職業があると思いますが、ある時期に強い影響を受けるのはスターだったりアーティストだと思うんですよ。ジョン・レノンなんて、リアルタイムで経験していなかった人たちまでが「素晴らしい」と言うわけじゃないですか。たった一人の人間、もしくは一つのバンドの出現で人生が変わったり、国が変わったり、時代が変わる、ボブ・ディランなんか本当にそうですよね。ああいう渦とか時代って僕はあると思うんです。

 また、芸術の世界では年齢は必ずしもネックにはなっていないのに、どうして音楽の世界だけは若い人に譲っちゃうんだろうと思っているんです。若くないとできないことはいっぱいありますし、若い人から教わることもいっぱいあります。でも、僕たちだからできること、僕たちから教えられることもたくさんあります。やっぱりプロフェッショナルじゃないと作れない音楽、色んな経験してきた人だから作れる、もしかしたら若い世代に刺激を与えられるような音楽、それを作っていきたいなと思うんです。都倉さんや村井さんもそういうことを言いたかったんじゃないかな。

−−スターを作るということはスターを見つけるということに近いですか?

新田:僕が好きなのは「もともとスターの要素がある人を検証すること」だけなんです。創り上げるとか育成するというのが好きではなくて、よくレコード会社は発掘するとか、育成するとか言うじゃないですか。そうは思わないんですね。優秀な人は自分で育ちます。だからアーティストに僕の方が発掘してもらったって感謝しているんですよ。形からしたら僕が産みの親かもしれない。もちろん創り上げるスターもありますが、本人の持ってる力を思いっきり後押しするというやり方もあるように、僕のやり方はたぶん後者なんですよ。黒の人を白にすることは僕にはできないし興味ないですね。

 

10. 世界で売れる新しいスターを作りたい

−−現在の音楽業界でここだけは納得いかないこととかありますか?

新田:レコード会社が昔の力もないですし、これから先やっていける力もない。だから僕は今のレコード会社は原則嫌ですね。その中でもトイズファクトリーの社長の稲葉貢一さんはちゃんと手作りでできていますよね。目がきちんと行き届いている。レコード会社は今後プロダクション化していかないと駄目ですね。今のレコード会社はアーティストのことが見えていないですから。昔のレコード会社はアーティスト寄りの人がいたんですよ。だからマネージメントとも組めた。でも、今は割と商社的と言いますかね。

−−アーティストに投資して、当たったところから大きくリターンをもらう、アーティストが投資先のようなイメージですよね。

新田:アーティストと人生も夢も共有できるような人がもっと増えないと駄目ですよね。

−−でも、そうしにくい時代になっているんでしょうね。ディレクターも1年契約とかで、ヒットが出なかったら1年後に再契約してもらえるかわからないみたいな人はたくさんいますよね。その中で結果を残せと言われても、よっぽど能力があるか、運がないと大変だろうなと思います。

新田:どこの会社でもそうだと思いますが、音楽業界全体の低迷から社員の数を減らしたり、契約社員で採用することで人件費を抑える傾向になってきていますよね。短期間の契約だと、入れ替わりも激しくなるので、例えば正社員と契約社員がお昼を別々に取っていたりと、社員間で垣根ができてしまうし、スキルも継承されていかない。僕は人が財産だと考えていますのでそれぞれの特性を生かした、少数の目利きで、かつ幅広い年代から構成される制作、宣伝、営業の垣根を超えたチームが今の時代に合っていると思います。そういった仕組みを作ることができれば、そんなに長い時間をかけずに面白いことができると思いますし、そんなユニットが増えれば業界はもっと変わると思います。

−−今はそういった動きがなかなか出てこないですよね。

新田:どこの会社もリーダーシップやガバナビリティ、色とかそういうのが出しにくいんですよね。あんまり「うちの会社は・・・」って言ってしまうと、後で辻褄が合わなくなるみたいな感じが業界中にあって「余計なことは言わない」という風潮になっちゃったような気がします。でも、バカもやらないと面白くないじゃないですか?

−−業界内がひっそりしてますよね。このリレーインタビューにご出演いただいた方にこれからの音楽業界について伺うんですが、みなさん「それがわかれば苦労はしない」というようなことをおっしゃるんですよ。

新田:真面目な答えなら一つだけあるじゃないですか。やはり世界ですよ。

−−国際競争力のあるアーティスト、楽曲ということですか?

新田:堅く言えば国際競争力ですけど、魅力的ということですよね。宇多田ヒカルさんが、2つのレーベル、2つの路線を持ったことはどうかと思いましたけども、海外で成功するといいなと思っていました。彼女はその頃、日本人アーティストの中で一番海外で認めてもらえる可能性があったアーティストですから。そして彼女が成功して一度道筋ができると、それ以降日本人はとても上手にやるでしょう? ‘60年代頃に比べたらお寿司屋さんも世界中にあるし、日本の食やファッションはわずか3〜40年で海外に広がってきている。音楽も来年とは言いませんが一触即発のところまできていると思うんですね。すごく近づいてきたなと。誰か一人が成功したらその後は早いですよ。そうなったときに慌てないように準備しておくということが一番大事なんじゃないでしょうか。そのときにちゃんとビジネスができるようにね。

−−韓国のアーティストなんかは外に対する意識が強いですよね。

新田:ええ。いわゆる「K-POP」を見ていると、素晴らしいアジア戦略以外にも、実はアメリカとものすごく繋がっています。日本の「J-POP」だけが世界の流れから外れているように僕には感じます。

−−ドメスティックな方向に行ってますよね。音楽もガラパゴス化と言いますか。

新田:そうでしょう? 僕は今「プラチナム」という女の子三人組をやっているんですが、いつもそういう話をしていて、今「K-POP」を研究しているんです。それでこれからはレコーディングもマスタリングもアメリカと連携してやっていこうと思っているんです。その方が絶対に面白い音ができるだろうと思っています。

 それから分配の仕方ですね。もう少し若くて優秀な人達が食えるようにしてあげないと、と考えています。アーティストって自分で詞や曲を書く場合は著作権者になるじゃないですか? それからレコード会社は原盤を持てば著作隣接権者になる。でも、その間にいるクリエイターたちって本当に恵まれてないじゃないですか? これを何とかしない限りはいい音楽は生まれてこないと思います。関わった人たちがリーズナブルに生きられる、成り立つ仕組みを構築することが、今一番興味のあることの一つです。

−−そういったクリエイターたちの力も音楽にとっては大きいですからね。

新田:これは小田和正君が僕に時々言っていたことなんですが『ラブストーリーは突然に』のイントロって38秒間あるんですね。当時「イントロは短くしろ」って営業はよく言っていたんです。「短い方が売れる」とか「ラジオにかかる」とね。でも僕たちはラジオにかかるために音楽を作っているわけじゃないから、良い音楽を作っているんだからとさほど気にしませんでしたが、あのイントロは小田君がもういいと言うのに、ギターの佐橋佳幸君がスタジオに何時間も籠もって考えてくれたんだそうです。それで小田君が「新田さん、あの曲ってイントロで決まったと思わない?」と言うんですね。つまり、佐橋君のような人に何万円といった演奏料じゃなくて、もっと正当に評価できる仕組みが必要なんだと。「それができないと日本の音楽界はフェアじゃない」と極めて真っ当なことを言っていました。

 若くて優秀な人が食べられないとか、将来に対して不安を禁じ得ないとかそういった風潮がこれ以上続くのはまずいと思います。スポーツの世界と同様に「実力があれば上に行ける」という実感がないとみんな頑張れないじゃないですか? そういう新しいビジネスモデル、分配の仕組みを改善しないと日本の音楽業界に未来はないですよ。優秀な若い人材が入ってこない。

−−今や「頭がいい奴は音楽なんてやらない」みたいな時代になっていますからね・・・。

新田:本当にその通りです。だから誰か一人が大儲けする仕組みはよくない。ブッダの教えの「自利利他」じゃないですが、自分が儲かるのは相手が儲かった後くらいの心持ちでレコード会社をやらないと・・・と思っています。でも、こんなに世の中で音楽を必要としているのに、音楽がよくかかっているのに、現状レコード会社の売上げが下がる一方ということは、既存のレコード会社の形態が時代から要らないと言われているわけですから、しっかりと考え直さなければいけません。約10年前にレコード会社、レコード業界という言い方を「エンターテイメント」と言い換えて何か変わったような錯覚のままきた業界の雰囲気がまずいんじゃないかと思います。だから、今こそ本当の改革をやって、頭のいい人や本当に頑張っている人が報われる業界にしないと絶対に伸びません。

−−そういう意味では音楽業界もリーダー不在ですよね。

新田:いや、リーダーじゃなくて良いんですよ。坂本龍馬のような下級武士でいいんです。幕府が薩長に負けるような状況を作らなければ復活は無理ですよ。天才でも変人でも発想のある人が新しい方程式で、必要なら同盟を組んで、新しいスターを作って、世界で認められるようになればいっぺんに変わるような気がします。一つの例があれば十分ですからね。「世界で売れるってこんなにすごいことなんだ!」という日が来たらと思います。だって車がそうじゃないですか? トヨタだって日本だけだったらあり得ないわけですからね。でも「言うのは簡単だけどやるのは難しいんだから、お前がやってみろ」と言われるんでしょうし(笑)、きっと運とタイミングも必要だとは思いますが、何よりも「日本の車はいつか世界の道を走ると信じた人たちがいたように、世界で売るぞ」と強く思って作品を作り続けていなければ、そういうことは絶対に起きませんからね。

−−本日はお忙しい中ありがとうございました。新田さんの益々のご活躍をお祈りしております。

(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)

今回のインタビューは、過去最高となる5時間におよぶロングインタビューとなりました。新田さんには学生時代から現在に至るまで、本当にたくさんのことを語っていただいたのですが、そのどれもが聞き応えのある内容で、長時間ながらも中身の濃いインタビューでした。インタビュー当日には、ご自身が所有されているレコードを数枚ご持参いただき、制作秘話についても語っていただいたのですが、その姿が本当に楽しそうで「音楽が好き」という気持ちが強く伝わってきました。多くのビッグアーティストを手がけてきた正に目利きの新田さん。その手腕で今後も素晴らしい音楽を作ってくださることを期待しています!

オススメ