第47回 林 博通 氏 株式会社H.I.P.(Hayashi International Promotion) 代表取締役社長

インタビュー リレーインタビュー

林 博通 氏
林 博通 氏

株式会社H.I.P.(Hayashi International Promotion) 代表取締役社長

鈴木伸子氏の紹介で、今回ご登場頂いたのは(株)H.I.P.(Hayashi International Promotion) 代表取締役社長 林 博通氏です。バークリー音楽大学卒業後、フィラデルフィアでセッションミュージシャンとして活動され、帰国後伝説のQUEEN来日や、日本のフェスのさきがけであるJapan Jamなど数々のコンサートを手掛けられた林氏。ミュージシャン時代のお話やご自身が考えられるエンターテイメント・ビジネスについてじっくり語って頂きました。

プロフィール
林 博通(はやし・ひろみち) 
株式会社H.I.P.(Hayashi International Promotion)
代表取締役社長


1946年 3月19日生。香川県出身
1973-1974年 Berklee College of Music 卒業
1974年 夏 帰国後、渡辺プロダクショングループ ワールドレジャーに契約入社
1974年 QUEENの初来日公演を手掛ける
1976年 QUEENの2度目の来日公演を手掛ける
1978年 バンプラニングに入社 Japan Jamを2度手掛ける
1980年 バンプロダクション設立
1985年 会社名称をH.I.P. (Hayashi International Promotion)に改正
現在に至る

<今まで手掛けた主なアーティスト>
▼洋楽
Frank Sinatra, Diana Ross, Luciano Pavarotti, Beach Boys, Cyndi Lauper, Mariah Carey,Lenny Kravitz, Cheap Trick, Julio Iglesias, Chuck Berry, Sheryl Crow, Jamiroquai,blur, Manic Street Preachers, R.E.M., Weezer, Paul Weller, BECK, DIDO, Gipsy Kings,DOGSTAR, Christina Aguilera, Mary.J.Blige, Stacie Oricco, 他多数
▼ 邦楽
B’z, 平井堅、CHEMISTRY、倉木麻衣、ZARD、bird、KEMURI、愛内里菜、他
▼ SHOW
RIVERDANCE 日本ツアー

 

  1. 本場のジャズを求めて
  2. 熱狂のQUEEN初来日
  3. プロモート業務は天職!
  4. プロモーターにとって大切なこと〜信用とマーケティング力
  5. 林氏が持ち込んだ新しいエンターテイメント・ビジネス
  6. H.I.P.の目指す未来

 

1. 本場のジャズを求めて

--ユニバーサル・ミュージック CFOの鈴木伸子さんからご紹介頂いたんですが、どのようなお知り合いなのですか?

林:鈴木さんとは業界のパーティーで知り合ったんですが、彼女は非常に頭が良いけれど音楽業界に入って間もなかったので、相談相手になったんです。例えば「こういう人を紹介して欲しい」とか「こういう問題が起きたらどう解決したらいいか?」というような相談にのっていましたね。この何年間は月に1回か2ヶ月に1度くらい、何人かを交えてレストランで食事をしながら色々な話をしています。

--鈴木さんはとても頭の回転が早いお方という印象を受けました。

林:「地頭」というかIQがとても高い人ですからね。やはりCFOは彼女のような頭のいい人がやるべきですよ。

--ここからは林さんご自身のお話を伺いたいのですが、ご出身はどちらですか?

林:香川県です。

--どのようなお子さんだったのですか?

林:四国には中学までいたんですが、本当にワルだったものですから四国の高校には行けなかったんです。

--暴れん坊だったんですね。

林:暴れん坊でしたね。本当にワルかったと思います。はっきりいって勉強は良くできたんですが、高校が「林は危ない奴だから手に負えない」といった感じだったので、結局地元の高校には行きませんでした。

--四国の高校へは行かずにその後どうされたんですか?

林:それで15歳の時に東京に出てきて、東京の高校に入ったんですね。それで大学は2年までいて、音楽が好きでJAZZを演っていたので22歳の時にバークリー音楽大学に行ったんです。

--楽器は何をなさっていたんですか?

林:ドラムです。

--その当時、日本の若者がバークリーに行くというのは珍しいことだったのですか?

林:今と違って珍しかったですね。私がバークリーに入ったのは’69年ですが、その頃はドルの持ち出しができないときでしたしね。

--まだ1ドル360円の時代ですね。

林:そうです。月謝を申請するには大蔵大臣の許可をもらわなくてはならないので、学校の証明書を付けて手紙を書かなくてはいけないんですよ。それで月謝は幾らです、とドルを割り当ててもらうわけです。だから家から送ってもらうお金もギリギリで生活が苦しかったので、皿洗いとかバイトをしてどうにか生活していました。

--その頃バークリーには林さん以外に日本人はいらしたのですか?

林:いましたよ。一年遅れでミッキー吉野君も来ました。彼はジャズというよりも、ロック的というかホンキートンクみたいな感じだったですけどね。

--林さんより前にバークリーに行かれた方は渡辺貞夫さんとかですかね。

林:そうですね。あと、佐藤允彦さんや荒川康男さんとかいらっしゃいました。

--ちなみに’69年頃のアメリカというとフラワー・パワー真っ盛りですよね。

林:そうですね。私はハワイ経由でアメリカに行ったんですが、天国でしたね(笑)。あまりにもよかったからハワイに長居してしまって、しかも500ドルしか持っていなかったので、ロスまで行ったらもう財布が空っぽになってましたね。仕方がないのでバイトをしました。

--一直線にボストンへ向かわれたわけではないんですね(笑)。

林:ボストンへ行くのに1年かかりましたよ(笑)。

--その間はご両親が援助をしてくれていたのですか?

林:多少ありましたけど、それは最低限の援助であって、色々な仕事を見つけて働いていましたね。まだ20歳と若かったし、憧れのアメリカで何もかもが新しい経験でしたから色々やりましたね。

--やはり憧れからアメリカに行かれたわけですか?

林:そりゃそうですよ。あと、本場のジャズがありますからね。日本でも20歳くらいからキャバレーあたりでバンドマンをやっていたんですが、本当に勉強をしたのはバークリーに入ってからです。練習だけで1日6〜8時間していました。

--毎日8時間練習ですか!

林:それぐらいはしていましたね。平均6時間はしていたと思います。6時間練習すると昨日の自分のテクニックレベルに達して、そこから2時間くらい新しいものにチャレンジするわけです。テクニックというのは頭と筋肉との組み合わせですから、ドラマーもトランペッターもピアニストもリズムを全部分解し、それを組み合わせて、スムーズに出るようになるかならないかなんですよ。

--そのためにはひたすら練習しかないと。

林:そうです。演奏がエモーショナルだとか、インプロヴィゼーションというのはスキルの後にくるものです。

--特にドラムとかピアノは肉体的な要素が大きいですよね。

林:大きいですね。ジャズのトップの人たちの若い頃からの鍛錬というのは凄いものだと思います。自分が毎日練習し続けてもトップのレベルには達しないなと思いましたし、これは自分の才能のなさだと思うんですが、引き出しを作るしかないんですね。対してトップの人たちは、練習したものが歩き方1つにしても、喋り方1つにしても全てに出てくるわけです。ローランド・カークと話をしたことがあるんですが、彼の音楽と喋っている感じが全く同じなんですよ。つまり彼は喋っているようにサックスが自由自在に操れるわけです。もちろん彼はジニアスなんですが、生まれながらのジニアスもそれを磨かなければ真のジニアスにはなれないですし、もともとジニアスを持っていない人はどんなに磨いても無理なわけです。

--バークリー卒業後はどうされたんですか?

林:’73年5月にバークリーを卒業したんですが、アメリカの大学を卒業すると1年間有効のトレーニー・ビザみたいなものをくれるんですね。その時私はどうしてもフィラデルフィアへ行きたかったので、卒業後にフィラデルフィアへ行って、フィリー・ジョー・ジョーンズを訪ねたんですよ。

--フィリー・ジョー・ジョーンズは有名なんですよね。

林:そうですよ。もう亡くなりましたがマイルス・デイビスの黄金時代を支えた名ドラマーです。あとアート・ペッパーの名盤『ミーツ・ザ・リズムセクション』でもポール・チェンバースやウィントン・ケリーとリズムセクションを組んだアメリカ最高のミュージシャンです。

--どのようないきさつでフィリー・ジョー・ジョーンズを訪ねることになったんですか?

林:私がバークリーを卒業する年にグローバー・ワシントンJrがたまたまボストンのジャズクラブ「ジャズ・ワークショップ」に来たんですよ。グローバーはフィラデルフィアの人で、フィリー・ジョーがフィラデルフィアに戻っているという話を聞いたんですね。実はフィリー・ジョーは’67、8年から’72年までヨーロッパでずっと活動をしていたんです。それは何故かと言えば、アメリカでも’50年代まではジャズマンといえば黒人のステータスだったんですが、’60年代の半ばくらいから陰りが見え始めて、ジャズマンはプライドが高いですから、アーティストとして見てもらえるヨーロッパに行くようになったんですね。それでフィリー・ジョーのみならずハンク・モブリーやデクスター・ゴードンやソニー・クラークといった人たちがみんなヨーロッパに逃げるわけですよ。オーネット(・コールマン)もそうですけど、彼はイモだからね。

--(笑)。

林:マイルスもそういって言っていましたからね。フィラデルフィアではフィリー・ジョーと私は同じアパートメントで、私が3階、彼が2階に住んでいたんですが、ニューヨークからフィラデルフィアまで1時間ちょっとですから、よくニューヨークからマイルスが遊びに来ていたんです。それでマイルスとも色々話をしたんですが、マイルスは「アバンギャルドなんて才能のない奴の音楽だ」と言ってました。「昔ビ・バップをやっていてバラードが吹ければ、何でもできる」とも言ってましたね。その頃のマイルスはペダルを踏んでエレクトリック・トランペットを吹いていたんですが、「俺が一杯ペダルを踏めば何千ドルにもなるんだ。ジョー、お前がビ・バップをやっても一晩100ドルか200ドルしかもらえないだろう? だからお前もこっちにくればいいんだ」とか冗談を言う中で(笑)、「才能のないミュージシャンはすぐアバンギャルドに行く」と言っていたんですよ。ジョン・コルトレーンもアバンギャルドと言われるときがありますが、マイルスは「ジョンはバラードを吹かせれば、天下一品だ」と言ってましたね。

--そういった生の話を聞いたんですね!

林:そうですね。バラードが吹けて、自分でスイングできれば、それがジャズだとマイルスは言ってましたね。

--フィリー・ジョー・ジョーンズとのエピソードは他にありますか?

林:1年くらいフィリー・ジョーのところで週に2回レッスンをとっていたんですが、フィリー・ジョーに「あなた以外で誰が上手いドラマーですか?」と質問したら、まずジャズ・ドラマーの歴史上、自分がNo.1だと言ったうえで、「自分と同じレベルに到達しているのはバディ・リッチとフランク・バトラーとロイ・ヘインズだ」と。それで、その頃はエルビン(・ジョーンズ)全盛でしたから、「エルビンはどうですか?」と聞いたら、「エルビンはソロが下手だ」と言ってましたね(笑)。

--その頃の林さんはやはりジャズミュージシャンとして身を立てようと考えていたのですか?

林:そうですね。スタジオ・ミュージシャンをするにはライセンスを取らなくてはならなかったんですが、私は譜面を初見で演奏できますから、2時間で250ドルくらいもらえるんですよ。でも、右膝半月板の故障からペダルが踏めなくなってしまって、ジャズミュージシャンとして身を立てるのを断念したんです。あと、その頃になると才能的にも駄目だなと思うようにもなってましたね。何と言ったらいいのか難しいんですが、ミュージシャンは楽しいときも多いですけど、将来を考えると非常に不安になるんですね。特にドラマーは潰しが利きませんからね。トップ・ドラマーのフィリー・ジョーがいい暮らしをしているかといったら、決していい生活ではないわけですし(笑)、それを一生やるのかと考えるとね…。でも一番大きかったのはやはり膝の故障ですね。日本に帰って医者に行ったら治るんじゃないかと考えたりもしましたが、カミさんもミュージシャンの生活に疲れちゃったんです。

--もうその頃に結婚されていたんですか?

林:23、4で結婚しましたからね。カミさんも黒人社会の中で生活したり、仕事をしたりするのは疲れるわけですよ。ジャズマンですから黒人の中ではいいセクションというか白人との境界線に住めるんですが、それでも嫌になるというか厭世気分になるわけです。

--大変失礼な言い方かもしれませんが、膝が痛くなってよかったかもしれませんね…。

林:それは運命でしょうね。でもいい経験をしたと思いますし、それが今生きていますね。例えばアメリカのエージェントでも’60年くらいから始めて、今70歳くらいのエージェントがいますよね。そうすると私はその世界をよく知っていますから話がよく通じるんです。彼らが半分ジョークで、「昔は何か問題が起きるとゴッドファーザーみたいな人が間に入ってすぐに解決してしまったけど、今はお互いの弁護士が出てくるから嫌な世の中になったな」と言いますね(笑)。

 

2. 熱狂のQUEEN初来日

--’74年に帰国されていますが、アメリカでの生活を切り上げるときはどんな気持ちでしたか?

林:日本に帰国するときは辛くて、空港で思わず泣きましたね。

--丸6年アメリカにいらしたわけですからね。

林:そうですね。フィラデルフィアからボストンへ行って、知り合いに挨拶をして日本に帰ってきました。帰国したのは’74年の夏で、膝を治さないとスタジオの仕事ができないのでしばらくゆっくりしていたんですが、年も若かったしそんなにシリアスにはならなかったですね。

--その頃に渡辺プロダクショングループのワールドレジャーに入社されていますが、どのようないきさつだったのですか?

林博通2

林:ある人の紹介で渡辺プロダクションの渡辺晋さんとお会いすることになって、晋さんから「君は英語が喋れるか?」と聞かれたので、「喋れます」と答えたら、「君はQUEENというバンドを知っているか?」と聞かれたんです。それで晋さんに「QUEENを呼ばなくてはならないんだが、手伝ってくれ」と言われて、その当時ワーナーにいた折田(育造)さんと’74年1月に北米ツアー中のQUEENを訪ねて、シカゴへ行ったんです。しかも日本に来るように交渉してくれという話だったんですね。

--そういう交渉はQUEENが最初だったんですか?

林:QUEENが最初です。あの頃、渡辺晋社長がワーナー・パイオニアの社長も兼ねていたんですよ。

--そうなんですか!? QUEENを呼ぶというのは、洋楽でQUEENというバンドが良いから、渡辺晋さんが自分のところで呼ぼうと考えられたんですかね?

林:おそらく、レコード会社の本社から「QUEENを日本でブレイクさせてくれ」とオファーがあったんじゃないかと思います。だからQUEENの音楽が良いとか悪いとかではなくて、政策上そうしなくてはいけないということだったんだろうと思います。

--QUEENの招聘は、ワーナーミュージックサイドからの要求だったわけですか。

林:私の感触としてはそうですね。それでシカゴのレイクサイドのホリデイ・インかなにかに北米ツアー中のQUEENが泊まるから、そこで交渉してくれと言われたんですよ(笑)。今から考えると無茶な話ですよね(笑)。

--もう体当たりですね(笑)。

林:もう30年前の話ですからね。それで彼らを待っていたらホテルに来て、フレディ(・マーキュリー)に事情を説明をしたら「Oh,my dear」から始まって「How do you do?」と来るわけですよ(笑)。アメリカでは「How do you do?」なんて聞いたことがないです(笑)。「Hey,men!」とかしか言わないのに、それがいきなり「Oh,my dear」ですからね(笑)。それでショーが終わったらマネージャーと一緒に話そうということになったんですが、その日が駄目になって次の日はセントルイスだと言うんでバンドと一緒にセントルイスへ行って、結局インディアナ州まで行った時に合意しました。私はその場でメンバーの写真を撮ってビザの申請書を書き、それを持ってハワイの領事館へ行って、ビザが下りるまで彼らを1週間くらいハワイで待たせてから日本に連れて帰ってきました。

--QUEEN初来日の苦労は何でしたか?

林:QUEENが初めてスモーク・マシンを炊いたんですが、そういう前例がなかったので大変でしたね。あと、ステージの最初にブラック・アウト、真っ暗にするんですが、その瞬間にお客さんがとんでもなく盛り上がっちゃって、上の責任者が「中止しろ!」と言ってきたので、QUEENのマネージャーに伝えたら「これがロックンロールだ!」って言い出すし(笑)、色々ありましたね。

--今からすると考えられないですね(笑)。

林:まだロックの黎明期ですし、お客さんもロックンロール=暴れる音楽というか何をしてもいいという認識がどこかにあったんですね。最近そういうことはないですが、10年くらい前までは暴れる集団がいましたね。

--あの頃のQUEENは日本が一番盛り上がっていましたよね?

林:そうですね。でも、その頃のQUEENはアメリカでもアリーナ・ツアーをやっていましたね。

--そうだったんですか。

林:もうその頃のQUEENは「KILLER QUEEN」を出して、人気が上がっていましたからね。

--QUEENの初来日は熱狂的に迎えられましたが、ファンがたくさん集まった羽田空港の光景は憶えていらっしゃいますか?

林:迎えに行った時に、彼らが空港から走って出てきたのを鮮明に憶えていますね。

--ファンの熱狂ぶりはすごかったですよね。

林:そうですね。ロックンロールではBEATLES以来の熱狂でしたね。

--今となってはQUEENもBEATLESと比較されても引けを取らない実績を積んでいますよね。

林:そうですね。BEATLESは世界中の人が知っていますけど、QUEENはそこまでは知名度がないですね。なぜかと言えば、音楽性が違うからなんですよね。QUEENの音楽はフレディの世界観を元にしたロックンロールですよ。BEATLESは基本的にポップスですよね。

--その1年後にQUEENは再来日しました。

林:その再来日の後にアメリカでもブレイクしたんですよね。アメリカでブレイクしたのは「BICYCLE RACE」あたりからですからね。

--その後’78年にワールドレジャーからバンプランニングに移られていますね。

林:若気の至りといいますか、ある事で喧嘩をしてワールドレジャーを辞めてしまって、その後にバンプランニングに入ったんです。バンプランニングでは最初にBOSTONを呼んで大成功し、その後にJapan Jamですね。

--そのあたりは矢継ぎ早ですか?

林:そうですね。Japan Jamでは江ノ島ビーチにBEACH BOYSを呼んできて(笑)、あとHEART、FIREFALLが出演しました。

--まだその頃は日本にフェスはありませんでしたよね?

林:なかったですね。Japan Jamはそのハシリですね。それでJapan Jamの2度目は横浜スタジアムに会場を移して、CHEAP TRICKやATLANTA RHYTHM SECTIONが出たんですが、Japan Jamの1、2回とも前座がサザンオールスターズですよ。

--サザンが前座ですか。

林:前座の前座ですね。彼らは1番最初に出てましたからね。

--Japan Jamでのエピソードは何かありますか?

林:1、2回とも一生懸命やったんですが、京都に局地的な大雨が降って、ステージのテントがドスーンと落ちてしまったんです。今から考えるとテントの作りが甘かったのかもしれないですけどね。それでJapan Jamは8月の半ばくらいからやってましたし野外イベントですから、トンボが飛んでいるわけです。そのトンボが飛ぶ姿を見ていたらなんだか阿呆らしくなってしまったんですよ。

--それはどうしてですか?

林:一生懸命やっても経費ばかりかかって儲からないですよ。

--Japan Jamは商業的には成功したんですか?

林:少しは儲かったと思いますが、努力の割には儲からなかったんですね。あと夏なのに子供とはどこにも行けないし、何にも出来ないわけですから、すごく虚しかったですね。

--トンボを眺めて無常を感じたと(笑)。

林:感じましたね(笑)。1月、2月からアーティストとの交渉や宣伝を8月までやっているわけですからね。

--Japan Jam以後はどうされたのですか?

林:京都でテントが落っこちたりとゴタゴタしてしまって、そういうのが嫌になってしまったのでバンプランニングを辞めようと思ったんですが、その頃THIN LIZZY招聘の準備をしていたので、自分が分家する形でバンプロダクションという会社を作って、DURAN DURANやSIOUXSIE AND THE BANSHEESのようなパンク系やUKものを一杯やって、2年後くらいに会社の名前をH.I.P.に変えたんです。それは今でも大親友のアメリカのエージェントとワインを飲んでいるときに「名前を変えるならH.I.P.=ハヤシ・インターナショナル・プロモーションしかないだろう。“HIP”だぞ、格好いいだろう!」と考えてくれた名前なんです。

--その頃ロックのプロモーターというとウドーさんやキョードーさんに代表される時代ですが、縄張りみたいなものはなかったのですか?

林:そういった縄張りはないですね。

--ルールさえ守っていれば大丈夫なわけですね。

林:そうです。

--ということは早い者勝ちみたいな感じになるのですか?

林:いや、早い者勝ちとかそういったことではなくて、あくまでもビジネスなんですよ。交渉というのはそんなに簡単なものではないですし、向こうにはしっかりとしたエージェントがいますからね。その当時、私以外の人はみんな代理人を使って交渉していたんですが、私は直接自分が交渉しました。

--当時その姿を見て「新しいやり方が始まる」と感じました。

林:そういう部分はあったでしょうね。私は英語を喋れましたし、交渉は得意だったんです。

--それに加えて林さんはユーモアのセンスもありますしね(笑)。

林:ありがとう(笑)。

--そういえば林さんは“マッシー”と呼ばれていましたよね。その由来は何なのですか?

林:ボストンからフィラデルフィアに行ったとき、車のナンバープレートが「マサチューセッツ」だったんですね。フィラデルフィアのジャズクラブでは月曜日にジャム・セッションがあるんですが、フィラデルフィアはペンシルベニア州なので駐車している車のナンバープレートはみんな「ペンシルベニア」なんですよ。なので車を止めていると「おい! マサチューセッツの車が止まっているぞ!」となるわけです(笑)。それで名前じゃなくて「マス」と呼ばれるようになって、それが変化し「マッシー」になったんです。

 

3. プロモート業務は天職!

林博通3

--林さんはプロモート業務に対してジャズに変わる面白さを見つけられたんですかね?

林:まずスリリングな商売ですよね。それとクリエイティヴィティがないとできないです。たまたま1発2発当てるのは簡単ですけどね。

--やはりご自分にあった仕事だと思われますか?

林:天職だと思いますね。

--最初、林さんがご自身でプロモートを始められたときに「あんな大きな仕事を個人の力で始められるのか!」と思いましたよ。

林:それはものすごくエネルギーがいると思います。もちろん若いときは向こう見ずなところもあるし、パッションも強いですからね。あと私は好奇心が強いですし、それに対して向かっていきますから、そっちのほうに良い意味でエネルギーが出せたんでしょうね。

--林さんは休むことなく招聘されていますものね。

林:エージェントから話がどんどん来るんですよ。

--やはりそれは欧米のエージェントの中で「MASSY HAYASHI」という名前が知れ渡っている証拠ですよね。

林:I THINK SO.

--そういう信頼関係を築くまでにどれくらいかかったのですか?

林:私は早かったですね。始めて2、3年でできたと思います。私は外国人受けがいいんですよ。話題も豊富ですし、考え方が西洋理論ですからスムーズに入っていけるので、向こうも「いい奴だな」と思ってくれるんですね。

--林さんと話をしていて楽しいんでしょうね。

林:楽しいというか、エージェントも安全に売りたいわけです。海外のエージェントのメンタルはまず安全が大前提で、2番目に金がいいか悪いかになるわけですから、この2つが叶えばエージェントは何も言いませんよ。

--信用ができて商売が上手な人を求めると。

林:全て自分に返ってくるわけですから、それは当たり前のことなんです。エージェントはアーティストと契約しているわけで、上手くいかなかったら「Fuck You!」の世界ですからね。ロック・ビジネスは非常に緊張感のあるビジネスをしていったから伸びていったんです。

--林さんがプロモーターを始めた頃に同じ道を目指した人は一杯いたわけですよね?

林:一杯いましたね。でも残っているのは私くらいですよ。プロモーターは耳利きじゃないといけないですし、あと重要なのは経営ができるかできないかです。経営ができないと続けていくのは困難ですね。

--今まで数多くのアーティストを招聘した林さんですが、印象に残っている人は誰ですか?

林:やはりフランク・シナトラですね。彼の晩年に横浜アリーナでコンサートをやったときの話なんですが、画面モニターにこっちから「Next Song」と出すわけです。彼は歌詞を忘れてしまうから、それを見ながら歌うんですね。しかも「Joke」とか「Wait」みたいな指示まで出るんですよ。それを見て「コンサートもここまで来ているんだな」と思いましたね。つまりコンサートがスタジオみたいになってきているんですね。

--全部指示が出てしまうんですか…凄いですね。

林:あるいはルチアーノ・パバロッティが横浜アリーナでワンマン・ショーをやったときに、今ではオペラ歌手がマイクを使うのは当たり前になりましたが、その当時は「なんでオペラ歌手がマイクを使って大きなアリーナでコンサートをするんだ」と言われたんですね。それで私は「時代が違うんだよ。いつまでも“Classic is Classic”じゃないんだよ」と答えたんですが、あの頃からクラシックの人がポップ・ビジネスにどんどん来たんですね。そのライブのリハーサル時に、東フィル(東京フィルハーモニー交響楽団)がものすごく張り切っちゃうんですよ。そうしたらパバロッティが「スターは俺なんだから、あんまり気負わないで」と言ったんです。「オーケストラはリラックスして弾いてくれればいい」とね(笑)。その時に「この人はどこへ行ってもこう言ってオーケストラをリラックスさせているんだろうな」と思いましたね。何故かというと彼はローカル・シンフォニーをピックアップするんですね。その方がコンダクターとソリストを数人連れてくればいいわけですから経費が削減できるんです。 でも、アーティストというのは難しいですよ。大衆の趣向も目紛しく移り変わる時代ですから、その中でスターがスターでいる事は大変な事です。今アメリカのミュージック・ビジネスで一番の金持ちは誰だと思いますか?

--うーん、誰なんですか?

林:チャック・ベリーですよ。

--チャック・ベリーですか! 何故そんなに稼げるんですか?

林:チャック・ベリーはマネージャーを持たずに、全て自分一人で動きますからクルーは一人もいません。どこへ行ってもバックはローカルミュージシャンをプロモーター持ちでピックするから経費ゼロ。つまりNETなわけです(笑)。

--だから人を一杯置かないんですね。

林:そうです。彼の場合、1ショー幾らと決まっていて100%前金なんです。

--100%前金(笑)。ギャラはそんなに高くはないんですか?

林:そんなに高くはないです。でも、彼はジャスト60分しか演らないんですね。渋谷公会堂でやった初来日公演の時に「60分で幕を落とせ」と言われていたので、幕を下ろしだしたらチャック・ベリーがステージの前に行くんで、「まだやりたいんだな」と思って幕を下ろすのを止めたんです。それで、終演後にチャックがステージ裏に帰ってきたら「Fuck You!!」って言われました(笑)。つまりあれはポーズなんですよ(笑)。

--(笑)。チャック・ベリーは年間どのくらいショーをこなしているんですか?

林:未だに年間150回くらいショーをやっていますね。60分キャッシュオンリーで(笑)。昔、アメリカでテレビの生出演の時に「あと2万ドルくれなきゃやらない」と言いだして、プロデューサーが金を集めまくったというね(笑)。そういう逸話が一杯ある人です。

--テレビ局相手もキャッシュだったんですか?

林:そうみたいですよ。彼はインシデンタルも払わせますからね。普通の契約だったらインシデンタルは個人払いなんですが、ホテルでマッサージ受けようが、電話をかけようが彼は一銭も払わない。

--でも、大きくふっかけている感じもないんですよね?

林:ないですね。だから彼は賢いんですね。1ショー幾らで年間100公演以上、経費ゼロですから、凄い金額になりますよ。彼が幾ら儲かるか計算してみましょうか?

--お願いします(笑)。

林:ショーだけで彼は年間8億円以上稼いでますよ。プラス印税が入ってくるでしょうから、凄い数字ですよね。

--ダックウォークがいつまでできるかですね。

林:そうですね。でも、1人で8億稼ぐ人はなかなかいませんよ。メジャーリーグの選手でも8億稼ぐ人なんてなかなかいないですから。

--しかもスポーツ選手よりもチャック・ベリーの寿命の方が長いですからね(笑)。

林:78歳でまだやっているんですからね(笑)。その歳で8億ですから、凄いですよ。

--でも日本で豪遊したとかいった話はないんですよね?

林:ないですよ。ライブが終わったらすぐ帰国しますからね。彼は本当にプロ中のプロです。

 

4. プロモーターにとって大切なこと〜信用とマーケティング力

--プロモーターにとって大切なこととは何だとお考えですか?

林:もうそれは信用ですよ。1に信用です。

--もう少し具体的に説明して頂きたいのですが。

林:言い換えれば「嘘を言わない」ということです。ストレート・トークをすることが大切です。あくまでもリアル・ビジネスであって、遊びでも何でもないんです。アーティストにとってTOPにいれる時間は短いわけで、それをどう長くするかがマネージメントの仕事だし、プロモーターの仕事なわけです。例えば、会社員だったら大卒で就職して、何もなければ定年まで行けたわけですよね? もちろん終身雇用制度は崩れてしまいましたが、それ以上にアーティストというのは、チャンスをゲットしてTOPに辿り着いたところでピークは何年なのかわからないわけですよ。時代は変わるし、ライバルは出てくるし、下からもドンドン出てくるし、大変なわけです。しかも保証もない。だからエンターテイメント・ビジネスというのは本当に大変な商売だと思います。

--アーティストがTOPを走り続ける状態をプロモーターも支えてあげなくてはいけないということですね。そのためには信用第一であると。

林:もちろんそうです。そこで終わりにしちゃいけないんですよ。余裕を持ってツアーをやらないと、終わっちゃうわけです。

--終わらせてはいけない。

林博通4

林:そうです。プロモーターに必要なのは対外的には信用だと思いますが、自分が一番やらなくてはいけないのはマーケティングです。よく失敗するのはアーティストからマーケットを見るからであって、マーケットからアーティストを見ればいいわけです。私は「このマーケットは、このアーティストでどれだけ動くか?」という発想なんですよ。だから失敗しないんです。

--先にマーケットを見るわけですか。

林:1にマーケットですよ。マーケットのポテンシャルをどうやって上げていくのか? というのがプロモーションの仕事なんです。プロモーションはラジオであり、テレビであり、新聞であり、雑誌なんですが、そのキーはなんなのか? を考えるわけです。そこはレコード会社が新人を売るのと同じですね。

--読みが正確じゃないと駄目なわけですね。

林:いや、マーケティングができれば勝てます。マーケティングができるということは、マーケットからアーティストを見られるかということです。あとスケベ根性を持ったら終わりですね。スケベ根性、つまり儲けようとすると失敗します。だから金がないと余裕がなくなるので成功しないですね。

--金がないと成功しない…。

林:成功しないです。なんと言いますか余裕があるからマーケティングがちゃんとできるんですね。もし金がないとマーケティングをせずにそのまま行ってしまうんです。失敗するプロモーターに共通するのは、マーケティングができないから金がない、金がないからどんどん回さなきゃならないという悪循環にはまってしまうんです。自慢じゃないですが、H.I.P.はこの何年間で失敗した公演は1つもないですよ。

--失敗しない方程式のようなものをお持ちなわけですね。

林:持っていますね。でも、それは門外不出です(笑)。

--今H.I.P.の社員は何名いらっしゃるんですか?

林:今10名で、年間140万枚以上のチケット売上げです。

--H.I.P.は精鋭揃いなんですね。

林:今精鋭と呼べるのは2、3人くらいですが、他の従業員もこれから上がってくればいいんです。みんな最初はプロじゃないんですからね。大切なのはそれぞれが持っているポテンシャルがどう磨かれていくかだと思います。

--社員から見ると林さんは怖い存在なんですかね?

林:怖くなければいけないでしょうし、憧れにならなくてはいけないでしょうね。だから私は社員の努力の倍、努力しなくてはならないんです。自分が精神を鼓舞できなくなった時にプロモーターは辞めるべきだと私は考えています。プロモーターはいつも燃えていなきゃいけないんです。燃えないと「いいな」と思うだけで終わってしまうんですよ。いつも「なにかないかな」と探していなきゃ駄目ですね。

 

<<社員の声>>

林社長はプライベートを含めてすごく面倒見が良いんです。社員の人に問題があったときには一緒に考えてくれたりして、そういうときに「かっこいい」と思ってしまいますね(笑)。でも仕事については大変厳しい方です。林社長は全てにおいてスピードがあるので、言われたらすぐに行動しないと追いつけませんし、その先を考えておかないといけないですね。

私はH.I.P.に入社する前に林社長のことを「個性の強いパワフルな人」と聞いていまして、実際に面接でお会いしたり、仕事を始めてみて『強い個性』があるというのはすごく良いことなんだなと感じました。林社長はその『強い個性』があるからこそ魅力的で人を惹きつけるんだと思います。あと林社長はペースやテンポを大事にされる方で、いつの間にか会社全体がそのテンポになっていますね(笑)。

 

5. 林氏が持ち込んだ新しいエンターテイメント・ビジネス

林博通5

--ここ何年かでH.I.P.が日本人アーティストを手掛け始めたのは、どういうきっかけだったのですか?

林:洋楽=アメリカという図式が5、6年前から崩れてきて、まずアメリカのアーティストがヨーロッパでブレイクしなくなったんですね。ましてヨーロッパのアーティストがアメリカでブレイクしない。

--チャートが全然別になってしまいましたよね。

林:そうです。自国は全て自国でまかなう。つまりそれはアイデンティティだと思うんです。最近の日本もそうで、日本のレコードの売り上げが邦楽と洋楽だと今8:2なんですよ。昔は演歌か洋楽しかなかったのに対して、ここ10年でJ-POPが上がってきて、ミュージシャンのレベルも非常に上がってきた。例えば女性でいうとドリカムが頭に浮かぶんですが、日本のポップスがスウィングし始めたんですよ。それまで演歌歌手は確かに上手いけど、ポップス歌手は上手な人がそんなに多くなかったでしょう? 最近のポップス歌手は上手な人が増えましたし、又上手でないと生き残れない時代になりましたね。

--レベルが上がりましたよね。

林:確実に上がりましたね。また曲作りで上手いなと思うのはフレーズとして中学・高校で習うおしゃれな英単語をものすごくちりばめているわけですよね(笑)。だから洋楽を辞書を引きながら聞くよりも言葉がスムーズに入ってくるし、コードはもう洋楽そのものだし、メロディアスになってきた。

--キーワードはおしゃれな英語で。

林:そうです(笑)。あと、アメリカのAというアーティストが歌って、それはアメリカの文化だから憧れがあったとしても100%理解できないところがあるわけです。でも日本のAというアーティストが歌えば、自分と同じ目線で動いていることがわかりますからね。

--邦楽アーティストのレベルの向上を認められたのと、マーケットの変化を察知されたから邦楽アーティストを手掛け始めたわけですね。

林:そうですね。

--でも林さんが手掛ける以前から邦楽をやっていたプロモーターはたくさんいるわけじゃないですか? その中に入っていったわけですよね。

林:入っていきましたね。私は日本の既成のイベンターとやり方が全然違うんですよ。

--何が一番違うんですか?

林:欧米のエンターテイメント・ビジネスを持ってきたことです。

--それは契約の仕方から違うんですか?

林:アーティストに今までよりもお金が入りますね。つまり興行というのはプロモーションじゃないということです。アーティストのインカムは3つしかないんです。レコードから入る印税と、興行から入るギャラ、あとマーチャンダイスのような第3のインカム、この3つしかないんですよ。でも、日本の興行というのは邦楽の場合プロモーションにしてしまったわけです。昔の演歌歌手は興行で稼いでいたので、ロイヤリティーがものすごく安かったんですね。日本のレコード会社というのは欧米に較べてロイヤリティーが安いでしょう? つまり興行で稼いで、レコードはあくまでもプロモーションの手段だったからなんですね。アメリカでもそうだったんですが、70年代に入りアーティストのロイヤリティーが急騰しました。興行の世界においては、ロックビジネスが盛んになるに連れ、エージェントがビジネスに深く関与する事で、興行がよりビッグビジネスになったんですね。そして今はSFXに代表される様に興行権をワールドワイトでBuy Outする企業が現れました。

--欧米と日本との興行システムはどう違うんですか?

林:欧米に於いては、プロモーターはビジネスリスクを背負って興行をします。すなわち、ミニマムギャランティーVSパーセンテージの契約なんです。しかし、日本に於いては未だイベンターに委託しているケースが殆どです。このシステムは欧米にはない日本独特のものですね。対して私は「新しいエンターテイメント・ビジネスはこうあるべきだ」と考えて入ってプレゼンテーションした結果、邦楽アーティストとも契約ができる様になりました。

--それはよりアーティストサイドに立った考え方なんですか?

林:そこじゃないんですよ。アーティストサイドに立つのではなくて、無駄をどう省くかということなんです。基本的には「合理化をどうするか?」ということです。

--その部分において欧米の方が遙かに洗練されていると。

林:日本とは全然違います。ECを見てみればわかりますが、イギリスのプロモーターがパリで興行をしようが、パリのプロモーターがバルセロナで興行をしようが、ECの中では1プロモーターになっているんですよ。ロンドンにAさんがいて、エジンバラにBさんがいてということがなくなっているわけです。

--つまり日本に置き換えますと、例えば北海道に誰々さんがいて、東北地方には誰々さんがいて、というシステムがないんですね。

林:そうです。チケットをコンピューターで全国同時発売できる時代に、そんな大昔のシステムを使うなんてナンセンスですよ。

 

6. H.I.P.の目指す未来

林博通6

--これからのH.I.P.は邦楽アーティストの比重を増していくのですか?

林:いや、私はそこにビジネスがあれば何でもやります。ジャンルなんて、そのものが良ければ関係ないですね。クラシックもやりたいですし、スポーツビジネスもやっていきたいですし、そこにマーケットがあれば結果は自ずと付いてきます。

--見たい人がいる以上は提供しようということですね。

林:そうです。それで自分がビジネスになると思えば、です。スポーツも格闘技もエンターテイメントですよ。音楽だけがエンターテイメントじゃないです。そもそもエンターテイメントの価値は大衆が見つけるものであり、それがエンターテイメントの本質なんです。

--自分で「俺は音楽だけだ」というような枠を作らないということですね。

林:そういった考えは本当にくだらないと思います。

--林さんが今一番興味のある分野はなんですか?

林:スポーツですね。

--でもその分野自体に興味がないとなかなかやれないですよね。

林:「林さんは大好きなジャズに一切手を出さないじゃない」と言われるんですが、金儲からないじゃないですか(笑)。

--(笑) では、ジャズのマーケットが育ったらやりますか?

林:日本の一番いけないところはラジオ局が少ない事なんですよ。例えば日本には専門局がないでしょう? アメリカでもイギリスでもジャズ局もあればクラシック局もあるわけです。もちろんビルボードTOP100もあるわけです。でも日本の場合全部バラエティでしょう? どの局聞こうが一緒ですからね。だから2007年か2008年にラジオ局が解禁になるんですが、そうなったら私はラジオ局を作りたいです。そこでジャズ局やクラシック局、オペラ専門局を作りますよ。そこでアーティストを作って、興行してみせます。そうなればジャズだってお客さんが来ますよ。でも今ジャズをプロモーションする術に何がありますか? 例えば雑誌は情報の部分だけなんですよ。でも音楽はメロディーやハーモニーがあるから音楽なわけです。つまり音を聞けなければ意味がないんです。ジャズを聴けない人がどうやってジャズが好きになるんですか? だからジャズ局を作れば良いんですよ。

--ある意味有線放送のジャズのチャンネルみたいなものですよね。

林:あれはいいですよね。しかも結構いいジャズがかかっているんですよ。そういうものができればできるほど、マーケットは広がります。だいたい2ナビゲーターなんていらなくて、ラジオだったらナビゲーターは1人で十分なんですよ。2ナビゲーターでチープなジョークばかり言っているから、面白くないんです。私は海外のどの町に行ってもホテルに着いたらFM局を聴くんですが、みんなテンポがいいし、スムースなんですよ。疲れていればクラシックを聴くし、弾けたいときにはジャズも聴きますし、情報を得るためにビルボードTOP100も聴きます。でも、それが日本にはないじゃないですか?

--選択肢がないですよね。

林:そうです。だから専門局ができればマーケットはもっと広がります。

--マーケットが大事だと言われるところから先を見ると、そこまでやりたくなるということですね。

林:何度も言うようですが、私はラジオ局をやりたいです。営業を一人か二人おいて、専門局を作って同時に売ってしまえばいいんですからね。プロモーションにとってラジオは大事です。音をどうプロモーションしていくかと考えた時に必要なのはラジオです。

--ラジオがオープンにならない原因はやはりお役所ですか?

林:そうです。お役所です。例えばテレビで言えば、スカイパーフェクトTVができてから私がよく見るのはBBCワールドとCNN、ディスカバリーチャンネル、ゴルフチャンネルとMTVですね。つまりテレビはオープンになってるんです。アメリカではフォードが自前の衛星を持っていて、自社の車にソフトを提供できているわけですよ。では日本のラジオ局のエリアを考えてみてください。半径20kmか30kmですから、成田に行ったらもうラジオは聴き辛くなります。対してアメリカは全部上から電波が来るわけです。日本も早くそうなればと思います。

--それはパッケージの売り上げも上がりますよね。

林:音は聞かない限り駄目なんです。ラジオがオープンになれば、この業界は何倍にもなりますよ。

--それは私たちも大賛成です。

林:資本主義国家ですからオープンにすべきです。競争によって需給のバランスは落ち着くんですよ。ですから守られた産業というのは決して良いことではないです。守られて良いのは治安と治水、国防と通貨の4つだけですよ。

--国がやればいいことはそれだけということですね。

林:そうです。それ以外には手を出さずに税金を安くしろということです。あとは自由競争に任せるべきです。

--最後になりますが、音楽業界を目指す方々にアドバイスをお願いします。

林:必要なのは努力です。人の3倍努力をすればいいんです。何故かというと人間には運・不運がつきまといます。おそらくトータルで言えば人間の運・不運は、よっぽどのレア・ケースを除いてイーブンだと思いますが、運・不運に左右されることなく乗り越えて行くには人の3倍努力する必要があると思いますね。

--本日はお忙しい中ありがとうございました。H.I.P.の益々のご発展と林さんのご活躍をお祈りしております。
(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)

エネルギッシュかつ頭脳明晰 - これがインタビュー後の林氏の印象です。ミュージシャン時代の経験とそこで培われた感性が、その後の絶え間ない努力によって磨き上げられることで、林氏は世界中のエージェントからの信頼を勝ち得たのではないかと感じました。個人的には社員の方々に向けられた厳しくも暖かい眼差しが忘れられません。音楽に限らずあらゆるエンターテイメント・ビジネスを視野に入れた林氏率いるH.I.P.は、今後も我々に興奮と感動を与えてくれるでしょう。

 さて、次回はCBSレコード〜EPICソニーレコードの黄金時代を築き上げ、プレイステーションの開発など絶えずエンターテイメント・ビジネスのTOPを走り続ける(株)に・よん・なな・みゅーじっく 代表取締役 丸山茂雄氏です。お楽しみに!

関連タグ

オススメ