第186回 ビクターエンタテインメント コネクストーン制作部ジョイントレーベルヘッド 鵜殿高志氏【後半】

インタビュー リレーインタビュー

鵜殿高志氏

今回の「Musicman’s RELAY」はorigami PRODUCTIONS 対馬芳昭さんからのご紹介で、ビクターエンタテインメント コネクストーン制作部ジョイントレーベルヘッド 鵜殿高志(うどの・たかし)さんのご登場です。

大学卒業後、ビクター音楽産業(現JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント)に入社された鵜殿さんは、大阪宣伝、本社洋楽宣伝、編成担当と洋楽畑を歩まれます。その後タイアップ担当を経て、再び洋楽部へ戻られてからは、Nulbarich、LUCKY TAPES、LOVEBITESなど洋楽的なテイストの邦楽アーティストを手掛けられました。

そんな鵜殿さんにご自身のキャリアのお話から日本の洋楽の現状、そして日本人アーティストの海外進出の可能性までじっくり伺いました。

(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦 取材日:2021年9月17日)

 

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第186回 ビクターエンタテインメント コネクストーン制作部ジョイントレーベルヘッド 鵜殿高志氏【前半】

日本に合ったアーティストをピックアップしヒットさせる洋楽の醍醐味

──東京に戻ることが決まったときの心境はいかがでしたか? せっかく4年半で大阪に馴染んだ頃だったと思うんですが

鵜殿:それでも、やっぱり帰りたかったですね(笑)。「もう1回行きたいか?」と言われてももう住むのはいいかなぁ(笑)。

──東京では洋楽宣伝に戻ったんですか?

鵜殿:そうですね。洋楽宣伝に戻って、最初はラジオ局へプロモーションに行くという形でした。そこから6年ぐらいラジオの担当をやりました。ずっと同じ仕事で、正直少しつまらなくなってきたのと、一時期J-WAVEとTOKYO FMの担当を同時にしていて、過去の洋楽宣伝でもその両方を同時に担当した人は居なかったのですが、それは、正直精神的にも結構大変でした。それが数年続いたので「別の仕事ができないんだったら洋楽から出たいです」というような話を当時の上司にしました。

──やはり宣伝じゃなくて制作に行きたかったんですか?

鵜殿:それも含めてですね。結果、その要望が通って、洋楽の編成を2002年から4年間やらせてもらいました。

──やはり新鮮味はありましたか?

鵜殿:大阪の話と繋がるんですが、洋楽の編成って邦楽で言うアーティスト担当も兼ねるので、自分でこのアーティストをどうやって売ろうかというマーケティングプランの全てを考えられるので楽しかったですね。

──やりがいのあるところですよね。

鵜殿:はい。ただ、僕は別に英語がちゃんとできるわけでもないのに英文のメールも打たないといけなかったですし、それをソニーの人に話したら「そんなの自分でやらないよ」って言われたんですけど(笑)、ビクターは全部「自分でやれ」なんですよ。もちろん渉外担当はいるのですが、難しい表現とか本当に困ったとき頼むくらいで。まあ、そういう意味でもチャレンジングではありましたし、いい経験にはなりましたね。

──でも、また宣伝に戻ったりもされていますね。

鵜殿:実は僕自身は戻りたくなかったんですけど(笑)。「戻ってくれ」と言われて。

──でもそこから先はチーフとかグループ長という立場になられるわけですよね。

鵜殿:そうですね。でも、もうちょっと編成の仕事をしたかったなという気持ちは正直ありました。今はセールスもだいぶ落ち着いちゃったんですが、僕はハワイアンの制作もやっていて、自分で言うとちょっとおこがましいのですが、僕がやっているときが一番うちのハワイアンが盛り上がっていた時なんです。ハワイアンは元々好きでもなんでもなかったのですが一応引き継いで、年に1、2回ハワイにも打ち合わせで行ったりするようになって、色々なアーティストを聞いているうちに好きになりました。

──ハワイアンって日本で売れるんですか?

鵜殿:その頃は今より売れましたね。それ以前は、ハワイに行くこと自体がある意味格好悪いみたいな時代があったんですよね。「結婚式をハワイでやる」みたいなことはありましたけど「ハワイに行くぐらいだったらどこか別の海外に行きたい」みたいな感じだったんですが、スピリチュアル的なものが注目されるようになるにつれてハワイも再評価されたんですよ。うちのハワイアンのトップアーティストであるケアリイ・レイシェルは、クムフラというフラ(ダンス)のマスターでもあって、そういう人が音楽もやっているというところも含めて人気がでました。

──なるほど。

鵜殿:そういうスピリチュアルな意味でも、ハワイというのが再評価されたのが、多分2000年代前半ぐらいでした。ちょうどその時期にうまく当たって、わりと片っ端から現地のアーティスト、音楽を生業としていない人の作品までいろいろリリースしました。やはり現地に行かないとわからないことがいっぱいあるので行って、まだアラモアナの近くにあったタワーレコードに行き、そこで知らないアーティストを片っ端から漁って、CDに書いてある連絡先に「日本でCD出さないか」とメールしたりもしました。

──アーティストを直に拾いに行ったと。いいじゃないですか。

鵜殿:いや、なのでもうちょっとそういうことをやっていたかったんです(笑)。

──(笑)。当時のビクターの洋楽のトップセールスはどういったアーティストだったんですか?

鵜殿:僕の同期が前任だったのですが、フランスのTahiti80などですかね。僕はそれを引き継いで担当したり、あと70年代、80年代に有名だったアーティストがメジャーレーベルからドロップして、ビクターでやれるタイミングだったんです。僕が中高生の頃に好きだったようなアーティスト、例えばホール&オーツやチープ・トリック、プリテンダーズ、ハートとか、そういう有名どころのアーティストを担当できたのは嬉しかったですね。ホール&オーツなんかは実際にニューヨークへ取材に行ったり、結構ガッツリやれて面白かったです。

ただ、インディペンデントということで言うと、さきほど申し上げたTahiti80だったり、その後メジャーに行ったクレイグ・デイビッドや、ちょっとアイドルっぽいBBMakというアーティストがセールス的には成功しました。

──対馬さんとのインタビューのなかでも、ビクター時代にやった最大のヒットはTahiti80だったとおっしゃっていました。

鵜殿:Tahiti80が2005年にリリースした「フォスベリー」というアルバムのときに、対馬くんが宣伝にいて、新譜が出る前から宣伝プランを一緒に考えました。まだ洋楽CDが5万枚、10万枚売れたみたいな時代だったんですよね。

──ワールドマーケットのなかでも日本が一番売れたんですか?

鵜殿:日本が一番売れました。フランス人なのにフランスではそれほど売れず、フランスよりも日本のほうが売れていたんですよ。

──本国より売るというのが日本の洋楽の醍醐味だったりしますよね。

鵜殿:そうですね。メジャーじゃない我々としては、日本のマーケットに合ったものをいかにピックアップして、それを日本でヒットさせるかという、その醍醐味はありました。名前で売らず音楽で売ることができてすごく楽しい仕事でした。それこそ対馬くんは、今はそれを自分の会社を作ってやっているということだと思うので素晴らしいなと思います。

 

タイアップの仕事で感じた「変化することの大切さ」

──宣伝に戻ってからはいかがですか?

鵜殿:2012年、ビクターの洋楽のアーティストの中で、その後の10年位も含め一番日本で売れたアレクサンドラ・スタンというルーマニア人の女性のシンガーがいて、それを仕掛けた時、僕が一応宣伝のボスだったのですが、当時の洋楽宣伝は、それ以前に比べ縮少していて、僕とラジオ担当とテレビ担当の3人しかいない状況でした。女性のアーティストなのでラジオ担当の女性に「とにかく君がいいと思うビジュアルの作り方でやろう。同性に受けることを優先して考えたいから」と話をするなど、その3人で全ての宣伝的なプランニングをしたら結構売れました。

──アレクサンドラ・スタンは日本では無名だったんですか?

鵜殿:全く無名です。ただ、「ミスター・サクソビート」という曲が、楽曲の力だけでアメリカのビルボードでトップ20までいったり、ヨーロッパではかなり売れていましたが、世界的には全く無名でした。それが、僕が洋楽宣伝で直接手掛けた最後のアーティストであり、そこでヒットさせることができて本当に良かったです。また、この時すでに音楽配信は始まっていたんですが、CDが出る1か月ちょっと前にこの曲を1曲を先行配信しようと言ったら、そんなことをまだ誰もやっていなかったので、最初「何のためにやるのかわからない」と言われたのをよく覚えています。それが2012年ですから、時代の移り変わりは早いなと感じますね。

──今や先行配信は当たり前ですものね。

鵜殿:ええ。当時はまだ「先に配信する」ということをほとんど誰もやっていなくて。でも「ラジオで仕掛けるのと同じ気持ちでやってみよう」と押し切ってやったら、結果当たりだったんです。「先行で何かを配信するとCDが売れなくなっちゃう」とみんなに言われましたが、「アルバムが売れる売れないに少しは影響するかもしれないけど、誰もやってないしやってみようよ」と説得したんですよね。

──その後、タイアップの仕事に移られていますね。

鵜殿:アレクサンドラ・スタンがヒットした直後に「タイアップの仕事に行って」と言われました。割と青天の霹靂みたいな感じでした。アレクサンドラ・スタンが売れて「次はこんなのをやろう」と思い描いていたときに異動と言われて、結構ショックだったんです。会社に入って2年目から20年目ぐらいまで洋楽の仕事しかしていなかったので、どこか自分の中で「このままずっと洋楽で行く」と思っているところがありました。それがそうじゃなくなって、最初はかなり戸惑いましたね。

──それまでやっていた仕事とタイアップの仕事はかなり違いましたか?

鵜殿:違いましたね。それまでは「これをやりたいんです」「これをやってください」という形で仕事ができていたのが、タイアップの仕事は砂に水を撒くようなと言いますか、それを狙ってタイアップを取るということがなかなか難しく、そういうことも含めて「なんだかなあ…」って最初のうちは思っていました。

──狙ったとおりにはなかなかいかない?

鵜殿:メディアへ行って、お互いに握りあって「じゃあこんなことやってみよう」という風にはなかなかなりづらいんですよね。例えばCMのタイアップひとつとっても「このアーティストでこんな曲をやってほしい」と言われることもありますが、「こんな企画があります。なんか曲ないですか?」と言われることも多く、こっちもそれに合わせてアプローチして、みたいな場面が多くて、本当にいかに数を打っていくかという仕事なんですよ。

つまり、色々なつながりの中でどこか引っ掛かったらラッキーみたいな要素、場面も多いです。放送局相手だと、ディレクターやプロデューサーがいて、その人が「いいよ」って言えば、それで決まっちゃうじゃないですか。でもタイアップって、例えばCMなら、その案件によって決定権がある人が違うんですよね。それがクライアントだったり制作の人だったり、映像監督だったり営業が強かったり、すべてパターンが違うので それまでの「この人に話をしたら話が決まる」という形の仕事をずっとやっていた身としては、その違いはすごく感じました。

──それは結構厳しい状況ですね。

鵜殿:レコード会社にいてアーティストの近くにいたことからすると大分違うものになって気持ち的には苦しい時もあったのですが、結果的にはそのタイアップでの4年間というのは僕にとってすごく大事な時間になりました。それまでとは違う仕事をして違うネットワーク、人脈みたいなものもできましたし、ずっと変わらない世界の中だけにいた僕としてはやっぱり同じ会社ですけど全然違うことをやるようになって、それがすごくよかったんですよね。

それこそ当時外国人に「俺、仕事変わるんだ」って言うと、みんな「おめでとう」って言うんですよね。彼らにとっては変化するということはすごく大事なことで、変わるということに対して「おめでとう」と言えるって、なかなか日本人にはないじゃないですか。

──新しいスキルが身に付くだろうという話ですよね。

鵜殿:その瞬間は気づかなくて。やっぱりタイアップの仕事をし始めて1年経ち2年経って、これが自分にとってものすごくいい経験になっているんだなって本当に思いました。やはり変化することの大切さというか、ずっと同じところに留まっているんじゃなくて、変わることはいいことなんだという風に思うようになりましたね。

──それは大きな会社という組織にいたから巡ってきたチャンスですよね。

鵜殿:そうですね。「なんで今うまくいっているのに俺を出すんですか?」って当時の部長に結構噛みついたんですけどね(笑)。誰がどういう意向でそうしたのかってことは、結局最後まで聞けなかったです。まあ僕は言いたいことを言って自分のやりたいようにやろうとする方なので、扱いにくくなってたのかなぁ、なんてその時は思ってました(笑)。

──(笑)。でも、新しいものを与えてみようということなのかもしれませんよ。

鵜殿:「いや、違うことをやったほうが絶対にいいから」みたいなことを他の人からも言われましたけど、そのときは釈然としなかったです。とはいえ、結果としては僕にとっては大阪配属に続いて大切な経験だったと思います。

──タイアップ担当時代の最大の成果は何ですか?

鵜殿:自分だけではなかなか決まらない仕事なので、「これは自分がやった」という感覚はなかなか持ちにくかったりもするのですが、あえて言うと、クリープハイプが資生堂アネッサのCMタイアップをとって、それがきっかけで売れたんです。これは僕が資生堂の担当をして、資生堂のクリエイティブディレクターの方に売り込んでとれた案件でした。その後もその資生堂の方とはいい関係です。

──結局人間がやっていることですから繋がりは大切ですよね。

鵜殿:そこは宣伝の時と変わらないんだということが、やっているうちにわかってきました。結局、人間同士の繋がりなので、困ったときに「鵜殿に聞いてみよう」と思ってもらえるかどうか、というところは大事じゃないですか。人とのコミュニケーション、人間関係をどうやって作るかということは、どの仕事をしていても変わらないので、その大切さというのは再確認しました。

──自分との相性が合って仲良くなれて、そういう人間が一生懸命やろうとしていることに対して、力になってやろうと思うことってやっぱりありますよね。

鵜殿:あると思います。あとドラマのタイアップで、フジテレビ「いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう」というドラマだったのですが、フジテレビのプロデューサーから「手嶌葵さんの『明日への手紙』を使えないか?」と打診されて、その後色々なやり取りを経て、楽曲の録り直しなども含めて完成し、使用されました。この曲が売れたことはとても嬉しかったですね。それはもう僕が洋楽部へ戻る直前ぐらいだったのですが、すごく良い思い出になっています。タイアップをやっていた後半というのは割と大きめなことができるようにはなっていて、それこそまた「戻りたくないのになぁ」と思っていたのに「洋楽に戻ってくれ」と言われ、それで洋楽部長になりました(笑)。

 

洋楽部と名乗りながらやる邦楽〜Nulbarich、LUCKY TAPES、LOVEBITES

──鵜殿さんは「行きたくない」〜「戻りたくない」の繰り返しですね(笑)。

鵜殿:(笑)。洋楽ビジネス、ライセンス契約に基づくビジネスがずっと右肩下がりになってきていたので「何か変えなきゃいけない」というテーマを持ちながら戻ったんですよね。今でも洋楽のビジネスはやっているんですが、それこそ変わることがテーマだったので、洋楽でもう食べていけなくなっちゃうから、洋楽部でも本格的に邦楽に取り組むことになりました。そして約3年前、コネクストーンという組織となり、洋楽部という名前はなくなりました。僕個人としては洋楽部という名前は残したかったのですけどね。

──コネクストーンのウェブサイトにある、洋楽っぽい日本のアーティストをやってらっしゃるのは鵜殿さんですか?

鵜殿:はい。NulbarichやLUCKY TAPES、あと女性5人組のヘヴィメタル・バンドLOVEBITESは僕が洋楽部長になった後に始めたアーティストです。だからというわけではありませんが「洋楽的な」テイストはあると思います。うちには他に邦楽レーベルがいっぱいあって、そこでやっているJ-POPとはちょっと違うアーティストを意識的にやりました。

──いわゆる純粋なJ-POPじゃない?

鵜殿:J-POPど真ん中じゃないものでなにか個性を出すということが洋楽部と名乗りながらやる邦楽じゃないか、ということですね。「洋楽がやっている邦楽だから」っていう気持ちは強くありました。

──ちなみにビクターは、ストリーミング系の解禁は進んでいるんですか?

鵜殿:そうですね。サザンオールスターズも小泉今日子も今は解禁してますね。

──洋楽のプロモーションとしても、そういう新しいメディアとかいうのは、専門部署があったりするんですか?

鵜殿:それはないですね。洋楽の、ではなく全社対応のデジタルプロモーション専門部署が今はあります。インディペンデントの洋楽ビジネスがなぜ先細るのかという1つの理由は、ストリーミング全盛になって、日本にわざわざ音源の権利を渡す必要がもうないからということがあります。配信そのものは世界どこからでも可能でそれを我々が聞くことも可能です。利益率の高かったCDセールスが落ち続けている今、これまでのようにお金を払って権利を獲得してという形でやるのは正直かなり難しくなっています。

レーベルって今でも欧米には個人でやっているようなものもいっぱいありますが、一定の成功を収めるとメジャー・レーベルに売却、吸収されるという動きが続いています。僕らはずっとアーティスト単位でピックアップしてやっていたのですが、こうした動きも新たにピックアップすることを難しくしていますね。それこそ対馬くんは今もインディペンデントの洋楽、新しく素晴らしいアーティストも紹介しています。僕も洋楽をやめるつもりはありませんが、うちの会社の規模だと、本当はこんな言い方はしたくありませんが、コスト面含めゼロからのアーティストを今やることがなかなか難しい状況です。

──その手法はもうビジネスとしては成立しない?

鵜殿:J-WAVEや802といったFM局で洋楽を聴いてそのアーティストの作品を買うというのが、洋楽ヒット最大の方程式だった時代が長くありました。先ほどお話ししたアレクサンドラ・スタンもそうですが、10年ぐらい前まではそれがギリギリ成立しました。でも、そのあとはどんどん難しくなっていきましたね。洋楽ビジネスが一番良かった時は、業界全体の音源売上のうち洋楽が約3割あった時もありますが、今は約1割位まで下がってしまいました。

──そうすると洋楽部という名前を残すのも大変なことなんですね。

鵜殿:そういう意味ではそうだったのかな?って思います。

──多分、今の10代とかの子って「洋楽」という意味がよく分からないかもしれないですよね。

鵜殿:ええ、今の10代には、僕らの時代のような「洋楽」「邦楽」という区別はありませんよね。ただ、名前がなくなる前までは邦楽の新しいアーティストと契約をしようとアプローチしたときに「洋楽部という響きがいいなと思った」というのはよく言われたんですよね、「ここは元々洋楽部なんだけど、いま邦楽をやろうとしていて、あなたたちに声をかけたんです」というほうが反応は良かったんです。ですから正直メリットはあったんですよね。

 

海外の人たちの心を震わせるような音楽を作りたい

──音楽業界がコロナ禍をどうやって乗り切るべきとお考えですか?例えば、ライブ配信が今より流行って大きくなると思っていらっしゃいますか?

鵜殿:それは思ってないです。やはりリアルじゃないと。だからどうやってそっちに戻っていくか、戻すかということにどうしてもこだわっちゃいますね。

──フェスもライブもみんな晴れの場として行っているわけで、1人でじっとiPadで観たいわけではないと思うんですよね。もちろんライブを観る手段の一つとして残っていくとは思いますが。

鵜殿:そうですよね。もちろん純粋に音楽を楽しみたいという気持ちの人もいる反面、おっしゃる通り「その場にいく自分」が大事だったりするんですよね。やっぱりその両方を満たすのはライブ配信では無理なので。

コロナになって一番困ったのは、新人から中堅ぐらいの要するにエスタブリッシュされていないアーティストをどのように育てるのか、ということでした。本当に難しいなって感じています。自分のところでやっているあるバンドも、去年の3月ぐらいから本格的に身動きがとれなくなりました。本当は去年の春から夏にかけて、すでに決まっていたことも含めて多くのライブを重ねて、そのプレゼンスを高め、さらに全国に広めようと思っていたものが全部止まりました。これってほぼ1年なくなってしまったということなんですよね。

──その1年は大きいですよね。

鵜殿:はい。「新人をしかける」段階で、お客さんが入ろうが入るまいがとにかくライブをたくさんこなすみたいな方法論が今なくなってしまっています。もちろん少しずつ復活はしていますが、そこが一番キツいところです。人気のある、すでに出来上がっているアーティストは配信すれば人が集まりますが、真ん中よりちょっと下ぐらいにいる人たちが今一番難しくなっています。

反面、ボカロPや必ずしもライヴ中心でないアーティストで、ソニーさんやユニバーサルさんはヒット曲を作っていますよね。良くも悪くもビクターはリアルなほうにこだわっている面があって、そこが一番の弱点だったりします。もちろん僕らもソニーさんやユニバーサルさんのようにアーティストを見つけなくてはという話はしているものの、なかなかそっちに行けていません。洋楽部だなんだというのは別の問題として、ビクターという会社の課題がそこにあるということは痛感していますね。

──今若いミュージシャンもUber Eatsをやっていたり、生活するのも厳しい感じですよね。

鵜殿:それもあるかとは思います。ただ最近感じるのは、若い子で腹をくくって音楽だけで生きていこうと考えている人も意外と少ないのかなと。そこは腹をくくってくれないと、こっちも深く行けないと感じることがあったりもします。そのあたりは、ジェネレーションギャップみたいなことも含めて理解しなきゃいけないんだろうとは思うんです。

──ある意味賢いですよね。

鵜殿:賢いとは思います。もちろん多様性の時代で大谷翔平さんのように「どっちもできる」という人が生まれていいんだとは思います。でも実際には難しいことも事実ですからね。

──ちなみにコロナ禍でプロモーションはどのように動いているんですか?

鵜殿:結局メールや電話が中心になっていますね。以前のように毎日局に行くみたいなことはできないので。

──行ったら迷惑になりますよね。

鵜殿:「来ないでください」ってなっちゃっているので。それはつらいですし、逆に言えば楽といえば楽ですよね(笑)。ただ結果が出ないとどっちにしてもダメなので、その難しさはよりあると思いますし、それだとコミュニケーション力みたいなものは培われないので、この状態が何年も続いたらかなりヤバいのかな?と思いますけどね。

──世の中全体が変わっちゃいますよね。

鵜殿:ただ全部が変わるなら、実はヤバくないのかもしれないですし、必ずしも前と同じことがいいとも限らないので、どっちが正解なのかは正直分からないですね。

──ミュージックマンは音楽業界で働きたいという人がたくさん見ているサイトですが、ご自分のことも振り返って、どんな人がこの業界に向いていると思いますか?

鵜殿:自分で何かを考えられる人でしょうかね。「君はどう思うの?君は何をしたいの?」というのがあるかないか。ここが一番大事なことなんじゃないかと思います。

──最近の若い新入社員とかはどうですか?

鵜殿:新入社員の面接もしますけど、あんまりそういう人はいないですね。そういう人しかレコード会社、もしくはビクターに来ないのか、それはわからないですけど。もっと音楽のアピールじゃないことをして欲しいなあと思います(笑)。

──「ぬいぐるみをくれ」と言う人が減ったと。

鵜殿:(笑)。僕は参考にならないと思いますが、この仕事をするのに音楽が好きなのは当たり前じゃないですか。だからそこから何かプラスアルファの要素があってほしいなというのは思います。音楽業界って「モノ」を売るわけじゃなくて、目に見えない音楽を売るわけですから。

──プロダクト製品ではない。

鵜殿:最初に製造業って申し上げましたが、扱っているのは形のあるものではないですし、自ら何か通してみようという気持ちがどこかにないとダメなんですよね。ですから、音楽を売るには、音楽じゃない何か別のことに興味を持ってくれたほうが多分引っかかるんじゃないかな?と僕は思います。これは音楽業界に限ったことではないのかもしれませんが。

──最後になりますが、鵜殿さんの今後の目標は何ですか?

鵜殿:この仕事をしている以上は新たなヒット曲をとにかく1曲でも多く作りたいですね。僕の部署に限らず、ビクター全体としてもなかなかヒット曲が出ていないので。それを実現させることに加えて、日本から世界で通用するようなアーティストを作りたいです。

──いわゆるストリーミングの時代が来て、可能性が見えてきた?

鵜殿:可能性があると思います。ただ、正直な話、いわゆる北米やヨーロッパで本当に通用するようなアーティストが生まれるかというと道は険しいということが本音としてはあります。しかしながら、物理的にも人種的にも近いアジアのマーケットに関しては可能性があると思っています。マーケットのサイズで考えても、中国はもちろんのことインドネシアだって人口が2億人以上いるわけです。そうしたアジアで通用するようなアーティストを送り出すということは充分実現可能だと思っています。

また、ジャンルに特化したときに、その後の可能性と一定の成果を得たということもあります。さきほど申し上げたLOVEBITESという女性メタルバンドは、最初の1、2年、投資、及びプロモーションの意味も兼ねて、ヨーロッパツアーをしたり、メタルフェスティバルに出演させたりしました。その結果としてYouTubeで100万回を超える再生回数を記録する曲が生まれ、ストリーミングでも海外で一定の成果を上げています。ただし、今後またツアーを計画してそれをビジネスにできるか、ということに関しては慎重にならざるを得ない、ということもあります。とはいえ、やり方次第では大いに可能性があるということを経験しました。

──なるほど・・・。

鵜殿:昔、洋楽のクオリティーと邦楽のクオリティーが違うと言われていた時代から、2000年ぐらいにはその差もほとんどなくなり、そこからすでに20年ぐらい経つわけです。ですから、海外にも通用するクオリティで、海外の人たちの心を震わせるような音楽を作れたらいいなと思いますね。

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