第185回 origami PRODUCTIONS CEO/A&R 対馬芳昭氏【前半】

インタビュー リレーインタビュー

対馬芳昭氏
対馬芳昭氏

今回の「Musicman’s RELAY」はMerlin Japan 野本晶さんからのご紹介で、origami PRODUCTIONS CEO/A&Rの対馬芳昭さんのご登場です。

バンド活動やヨットに熱中した学生時代から広告代理店勤務を経て1998年、ビクターエンタテインメントに入社。海外アーティストから邦人ジャズなど様々なアーティストプロモーションを担当された対馬さん。東京ジャムセッションシーンに惹かれ退社を決意し2007年、たった1人でorigami PRODUCTIONSを設立しました。

以後、Shingo Suzuki(Ovall)、mabanua、関口シンゴ、Kan Sano、Michael Kaneko、Hiro-a-keyなどが集うクリエイターチーム、レーベルとして独自のポジションを確立。プロデュースやリミックス、ライブなど国内外の音楽シーンを支えています。そんな対馬さんにご自身のキャリアから、昨年大きな話題となった個人資産2,000万円のドネーション(寄付)についてまでじっくり伺いました。

(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦 取材日:2021年7月29日)

 

家族全員が楽器を演奏する家に生まれて

──前回ご登場頂いた野本晶さんとはどのようなご関係なのでしょうか?

対馬:僕はもともとビクターの洋楽にいたので、ゾンバ(Zomba Music Group)の宣伝チームとはすごく仲良くしていましたし、野本さんの存在も僕は一方的に知っていたんですが、具体的に仕事をしたのは野本さんがiTunesにいらっしゃったときで、僕がiTunesにプロモーションをしに行ったときに知り合いました。

そのあと、野本さんはSpotifyに移られて、当時Spotifyは日本に上陸していませんでしたが、もうすぐ日本でローンチするので「origamiさんの音源も是非あげてくれないか?」と野本さんから話がありました。その当時ってまだ「サブスクは敵」みたいなイメージが日本中にあったじゃないですか?(笑) でも僕はその当時から「今後は絶対サブスクだな」と思っていたんですけど、やっぱりメジャーレーベルなどたくさんのカタログを持っているチームには当然勝てないので、その中で僕らはどうやったら勝てるか? とすごく考えていたんですね。そんな中、野本さんはすごくこまめに僕らの元へ通ってくれたんですが、心で「絶対にやりたい」と思いつつも、「すぐに『やりたい』と言うと、足蹴にされてしまうんじゃないか」とも思っていたんですよ。

──足元を見られるんじゃないかと。

対馬:そうですね。僕らは小さいチームなので警戒して、最初は「やる気ないんで帰ってください」みたいな冷たい対応をしたんですよ(笑)。

──(笑)。

対馬:「どういうメリットがあるんですか?」みたいなことを散々言って。そこで野本さんも根気よく説明してくださったんですが、僕は「どうせメジャーがOKしたら、そっちをメインでやるんですよね?」「考えますけど、何かメリットがないとやりません。帰ってください」みたいな感じだったんです。

ただ、ある日、野本さんが「メジャーのものはSpotifyの力は関係なく再生されるので」とすごく真剣に話をしてくれたんです。「スウェーデンの本国から『とにかく日本のインディーアーティストでもSpotifyからヒットが出るんだということを証明しろ』と言われている」「そういう意味で言うと絶対にorigamiの音源は世界で通用する。僕はorigamiに力を入れたい」とすごく力説してくれて「じゃあやります」と。

──なるほど…。

対馬:origami の音源は今Spotifyで結構再生されているんですが、野本さんがいなかったらそういう結果にはならなかったでしょうし、野本さんは本当に恩人みたいな人なんです。

──最近でもよくお会いになります?

対馬:2か月くらい前にお会いしました。それこそ「Merlinの会員になるにはどんな条件が必要なんですか?」みたいな話を聞きたくてお会いしました。

──近々Merlinへの入会を考えていらっしゃるんですか?

対馬:うちはもうMerlinでやりたいと思っているんですが、Merlinには条件が結構あるんです。僕らとしても今後世界に音源を出していこうとなったら、1社でやるよりもMerlinみたいな団体に入ったほうがメリットはあるのかなと思っています。

──ここからは対馬さんご本人のことをお伺いしていきたいのですが、ご出身はどちらですか?

対馬:僕は東京の調布市です。今も実家はそこです。

──お父様はどのようなお仕事をなさっていたんですか?

対馬:父親はフジテレビで働いていたので、小さい頃から音楽や映画とかがすごく身近な存在でした。あと母親はピアノやフルート、父親はアコーディオン、姉はピアノとみんな楽器をやっていましたね。姉は4つ上なんですが、中学の頃に「ベストヒットUSA」をビデオに録って観ていたんです。僕はまだ小学生3年、4年ぐらいだったので、アニメが観たかったんですが(笑)、姉が独占してビデオを観るので、最初は「嫌だな」と思っていたんです。でも、小林克也さんの話しっぷりと、プロモーションビデオの世界観にだんだんと惹き込まれていって、気づいたら僕が録画して観るようになって(笑)、姉より洋楽の世界にハマっちゃいました。

──小学生で洋楽に?

対馬:そうですね。夢中になって観ていました。

──さきほどご家族はみんな楽器を演奏するとおっしゃっていましたが、対馬さんも何か楽器をやっていたんですか?

対馬:最初ピアノをやらされたんですけど、当時はどうも「ピアノは女の子がやるもの」みたいなイメージがあって、すぐにやめちゃったんです。それで中学ぐらいになって、実家の隣に親戚が住んでいたんですが、そこのお姉さんがバンドをやっていて、ギターがあったんです。それを見たときになんかすごくゾクゾクして、そこからギターをやり始めました。

──ご自分もバンド活動を?

対馬:そうですね。そこまで本格的じゃなかったというか、やりながら「あんまり上手くないな」と途中で気づいたんですが(笑)、音楽は大好きだったので、それこそパンクバンドやメタルっぽいもの、あとヒップホップが混じったような音楽とか、高校時代は色々やっていました。

──中高は公立の学校ですか?

対馬:中学校は近所の公立で、高校は私立に行っていました。

──そして高校に入って本格的にバンドを始めたと。

対馬:友だちとワイワイ集まってやっていたり、あとはライブチケットを売って…友だちしか来ないんですけど(笑)、やったりしていましたね。

──それは何人組でどんなバンドだったんですか?

対馬:バンドはいくつかあったんですけど、印象的だったのは4人組バンドです。僕はギターであとはドラムとベースがいてボーカルがいてという感じですね。

──曲は全てオリジナルですか?

対馬:いや、全部カバーでした。ちょっとヒップホップ寄りのビースティー・ボーイズをやったりとか、セックス・ピストルズみたいなオーセンティックなパンクもやったり、当時流行っていたメロコア、日本で言うとハイ・スタンダードとか。余談ですけど、ハイスタのボーカルの横山健さんが、僕のバンドのボーカルと同じピザ屋でバイトしていたんですよ(笑)。

それで結構早くからハイスタの存在は知っていて、カバーをやっていたんですが、当時カバーだって気づいている人がいなかったかもしれないぐらいの、ハイスタが駆け上がっていく寸前ぐらいのときだったんですよね。。

 

音楽の仕事を諦めきれずビクターへ転職

──音楽活動以外は真面目な高校生だったんですか?

対馬:どうなんですかね?いわゆる悪いグループでは全然なかったですけど、すごく真面目だったかと言われると、正直そうではなかったかもしれないです(笑)。テストはちゃんと受けていましたし、暴走族に入るようなタイプではないですけど、若干やんちゃなグループみたいな感じでした。

──その後、大学に進まれたんですか?

対馬:ええ。僕は専修大学付属高校という付属高だったので、そのまま専修大学に進学して、友だちもみんな専修大学に進んだので、高校のときの友だちとそのままバンドを続けたんですが、大学1年からはヨット部に入って、、そこからほぼ毎日海にいたみたいな生活でしたね。

──どこの海がホームグラウンドだったんですか?

対馬:最初は江の島のヨットハーバーにヨットを停泊させていて、そのあとは葉山に移動して合宿所もそこに作りました。

──それは大学の合宿所なんですか?

対馬:そうですね。まあ、自分たちで借りてという感じですが。

──そのヨットというのは1人乗りとか2人乗りの小さいやつですか?

対馬:そうです、2人乗りの470というオリンピック競技にもある種類の船です。このヨットはエンジンがついてないので免許なしで乗れるんですが、必ず4艇か5艇に1台エンジンつきの救助艇を出さないといけないので、そのために船舶免許もとりました。

──今もヨットはやっているんですか?

対馬:ヨットってすごくお金がかかりますし、みんなでやらないと成立しないので、引退したあとはサーフィンに転向してずっとやっていたんですが、それももう10年以上前から行かなくなっちゃいましたね。

──では、大学時代は音楽を一時休止していた感じですか?

対馬:バンドはやっていなかったですが、やはり音楽は好きで、とにかくCDやレコードをたくさん買って、たまに遊びでDJしたりとかはしていましたね。

──大学卒業後は広告代理店へ就職されますね。音楽関係は考えなかったんですか?

対馬芳昭氏

対馬:小学校のときにそれこそ小林克也さんの番組やTOKYO FMの「アメリカントップ40」とかで洋楽の情報を仕入れて、それを学校の友達に教えるというのがすごく楽しかったんです。みんな日本のポップスしか聴いてない中で、洋楽をみんなに教えるという、いわゆるプロモーションみたいなことをやっていて(笑)。それがすごく楽しかったなという記憶があり、「じゃあレコード会社に入ろう」と思ったんですが、当時は就職氷河期と言われる最初の年でレコード会社もほとんど採用がなく、採用していないところも人事部に電話して「会うだけ会ってくれ」と履歴書を持って行ったりしたんですが全然駄目で。結果的に広告代理店に落ち着いたという感じです。

──言葉は悪いですが、ひとまず広告代理店に入った?

対馬:そういう感覚ですね。

──代理店では何をなさっていたんですか?

対馬:官公庁の部署にいて、建設省の道路事業のポスターや、世界中の道路事業の会議とかがあるときに資料を作ったり、そういうお堅い仕事ですね。

──その広告代理店を1年半でお辞めになったのは仕事がつまらなかったからですか?

対馬:いや、仕事がつまらなかったということはないですし、そこで勉強したことって今も役立っていることが多いです。あと当時の上司がすごくいい人で、社会人1年目でそういう人たちに教われたのは財産だと思っています。ただ、どうしても音楽の仕事がしたくて、当時パソコンが部署に1台しかないような時代なんですが、そのPCにレコード会社の採用のブックマークを全部登録して「採用ないかな」みたいな感じで毎日覗いていました(笑)。上司も多分、薄っすら気づいていたと思うんですけどね。それでビクターの中途採用の募集と、V2レコードというヴァージンのリチャード・ブランソンとソニーが立ちあげたレーベルの日本支社の2社の募集が始まったので、そこに履歴書を出して、V2はダメだったんですが、ビクターのほうに受かりました。

──やはり厳しい倍率だったんですか?

対馬:どうなんですかね。何人受けたのかはわからないですが、一気に20人ぐらい採用していましたね。面白い採り方をしていて「各部署の担当者が自分の部下に欲しい人」というコンセプトだったので、各担当者の方がそれぞれ「こんな人材を求めていますよ」みたいなアプローチがあって、僕は洋楽に入りたかったので、洋楽担当だった堀内(清悟)さんのところに受けに行くみたいな感じでした。

ちなみにその求人はビクターのホームページに載っていたんですが、ビックリしたのは電車に乗ったら中吊り広告にも同じ求人があったんです。「ネットで見ているやつ、中吊り広告にもなっているんだ…」とちょっと焦りました。すごくたくさんの人に求人が伝わっちゃって、倍率高いんだろうなって思いましたね。

 

ビクター洋楽チームで宣伝の日々

──無事、難関を潜り抜けレコード会社にたどり着かれたわけですが、憧れの洋楽担当になってまず何をなさったんですか?

対馬:最初は下働きからみたいな感じでした。当時、その洋楽チームでは「テープ担当」と言われていたんですが、まだマスターがテープだったのでマスターを管理する担当がいたんです。海外の音源も一応日本でマスタリングしていたので、スタジオにマスターを持って行って、いつマスタリングするかスタジオをブッキングするというか。持って行くのは同じ社内のビクタースタジオなんですが、一応他社さんも来るじゃないですか? ですから僕らも同じように空いているところを見つけて予約していました。

──それはマスタリングスタジオをブッキングするんですか?

対馬:そうです。そういう仕事なんですが、それだけだとあっという間に仕事が終わってしまうので、あとは雑務ですね。段ボールや封筒を開封したり(笑)、誰かに「これ持って行ってくれ」と言われたら運び屋をやったり、「これダビングしておいて」とかそういう作業をしていました。

──ライブが観に行けるとかそういう特典はなかったんですか?

対馬:それはありました。海外アーティストが来たら一緒に観に行ったりしたので、すごくうれしかったですが、1年半ぐらいとはいえ前職では一応広告の仕事をしていたので、名刺を持って挨拶してどこかを担当して、みたいなことはやっていたのに、それが急に段ボールを開ける仕事になっちゃったので、ちょっと落ち込みましたね(笑)。

──(笑)。

対馬:「ここではまだ役に立てないんだな」みたいな気持ちにはなりました。その部署には2人同時に入ったんですけど、もう1人は僕よりちょっと歳が上でキャリアもあったので、すぐに宣伝部に行ったんです。でも僕はずっと下働きで、このままは嫌だと思ったので「倉庫の中を今まで見たことないぐらい綺麗にしてやろう」と倉庫をひたすら片付けていました。もう倉庫を改築してやろうみたいな勢いで(笑)。

──その倉庫には備品がダーッと並んでいるんですか?

対馬:本当に色々なものですね。封筒や紙袋とか。プロモーターってみんな紙袋を持ってラジオ局とかに行くじゃないですか? その紙袋をいかに取りやすくするかとか、そういうことをやっていました(笑)。もう他にやることがなかったので徹底的に、消しゴム1個でも取りやすくみたいなテーマでやっていましたね。

──その努力はちゃんと見てくれている人がいて、評価は受けたんですか?

対馬:「すごく使いやすくなった」と言ってくれる人はいて、それは単純に嬉しかったんですけど、「これをやりに来たわけじゃないしなあ」という思いもあって(笑)、ちょっとモヤモヤしていました。

──その下働きからどのくらいで抜け出したんですか?

対馬:1年近くやっていたと思います。それで「そろそろ次のテープ担当を採用するか」という話になってその人に引き継いで、僕は宣伝部署のラジオチームに入りました。

──当時のラジオプロモーションというのは、やはりCDを局に持っていって「かけてください」とひたすらお願いするスタイルですか?

対馬:はい。まずはFM FUJIだけ担当で、今思うとそれで給料もらっていたんだなと思うんですけど(笑)。

──では、朝から晩までFM FUJIにいるみたいな話になるわけですか?

対馬:そうですね。代々木のビビットというサテライトスタジオか、山梨のほうに行くか、という感じです。担当はFM FUJIしかなかったですし、もう少し担当を増やしてほしかったので、まずはFM FUJIで成果を出そうと、誰よりも局にいましたね(笑)。それで3、4か月したら、ようやく「TOKYO FMも担当しろ」と言われました。

──結局ビクターには何年いらっしゃったんですか?

対馬:7、8年だと思います。

──その間はずっと洋楽の宣伝担当だったんですか? 制作には行かず?

対馬:実はずっと希望していたんですけど全く通らず、ずっと宣伝でした。

──自ら望んで入った洋楽ですが、やはり色々と考えるところが出てくるものですか?

対馬:そうですね。それこそリレーインタビューにも出ていた加藤公隆君は、僕にとって当時一番信頼のおける戦友みたいな人で、当時彼はポリドールだったと思いますが、僕も彼もビッグアーティストがたくさんいるソニーさんやワーナーさんにある種勝ち目がないんです。本国でもあまり売れていないダンスユニットとかを日本で売れと言われても、なかなか難しいんですよね。

そこで加藤君とお互いに協力し合おうと。例えば、あるラジオ局のディレクターのところに「かけてくれ」と言ったときに、もう1曲空いていたりしたらお互いに連絡を入れて、「今行けば1曲いけるかもよ」みたいな情報交換を始めたんです。そうしたら2人とも結果が出だして、すごく回り始めたんです。しかも、たまにビッグアーティストを持っている人たちよりもいい結果が出たりして、それは会社からも評価されたんです。

そのときに加藤君はすごく評価が高くてディレクターになったんですが、僕はそのまま「お前は宣伝が向いている」と言われて、「いやいや、制作やりたいんですけど…」と言ってもなかなか宣伝を抜けられず(笑)。それで転勤先の大阪でFM802やMBSとかを担当していたときも「東京に帰ったら制作をやりたい」と希望を出していたんですが、東京に戻ってからもまた宣伝で、それで腐っちゃったところは正直あります。「もう宣伝は勘弁してほしいな」みたいな。

──でも、宣伝が向いているという会社の判断だったんですね。

対馬:だったんじゃないですかね。でも自分個人としては、たとえばライブをしたときに一体いくらぐらいのギャランティをアーティストはもらっているのかとか、CDもどれだけ売って印税がいくらなのかとか、全く関わらないわけじゃないですか。ただメディアに宣伝をし続けていたので、こんなに何も知らないままに30を過ぎちゃったことに対してすごく危機感があったんですよね。

──そういうことは社内の先輩とかに聞いても教えてもらえないものなんですか?

対馬:まあ、みなさん忙しいですし、部署も違うとなかなかそういう雰囲気にもならないというか。やはり部署が違うだけで、あまり情報交換がないんですよね。逆にポリドールの加藤君とのほうが、意外と情報交換をしていたんですよね。まあ、聞けば教えてくれた人もいるとは思うんですが。

──ちなみに宣伝担当時代の最大のヒットはなんですか?

対馬:世界的に売れたので言うと、クレイグ・デイビッドというイギリスのアーティストで、そのアルバムは世界で1,000万枚、日本でも30万枚ぐらい売れました。日本独自に仕掛けて売ったという意味でいうとフランスのTAHITI 80で、フランス本国よりも日本のほうが売れたと思います。彼らはサマソニの第1回目のときにも呼ばれて、会場中が大合唱になって、そのときは結構感動しましたね。

──本国よりも売ったとなるとやはり達成感はあるでしょうね。

対馬:そうですね。それは思い出深いですね。

 

「彼らを売りたいな」渋谷ジャムセッションシーンとの出会い

──でも、なかなか制作にはしてもらえず、もう辞めようと思った大きなきっかけとかは何かあったんですか?

 対馬芳昭氏

対馬:僕は洋楽担当だったんですが、日本のクラシックやジャズのアーティストも洋楽部でやっていたんですね。クラシックやジャズってJ-POP的な売り方ではなくて、どちらかというと洋楽っぽく売ったほうが売れるので、洋楽部の中でやっていたんですが、アメリカ・ボストンのバークリー音楽院を卒業して帰ってきたグルーヴラインというバンドがいて、彼らは僕がすごく好きな音楽をやっていたんですね。それでメンバーたちと仲良くなって、僕は担当ではなくて宣伝マンとして関わっていたんですが、会社からは「グルーヴラインはそこまでやらなくていいから、プライオリティをちゃんとやれ」と言われるので、影でコソコソとグルーヴラインのプロモーションしていたんです(笑)。

それで、彼らがよくやっていたジャムセッションのイベントが渋谷であって、そこには色々なミュージシャンが集まるんですが、それこそ海外のアーティストが来日したときに「ちょっとセッションをやりたいんだけど、今日の夜どこかでやっている?」みたいな話になると、セッションをやっているところって限られているので、結構すごいミュージシャンが参加することもあって、そのシーンがすごく面白かったんですね。

──そのセッションは渋谷のどこでやっていたんですか?

対馬:当時だとPLUGとか、あとは沖野修也さんが今もやっているTHE ROOM、あとは池袋にあるマイルスカフェとか、いくつかあったんですよね。参加者は名前を書いて、呼ばれたら入れるみたいな。そこで「何をやる?」って決めて、フリーでセッションするんですが、下手だともうステージに上がれないという、ちょっと緊迫感のあるセッションで、それを見たときにすごく感動して、彼らを売りたいなと思ったんです。とはいえビクターではなかなかこういうものはプライオリティにならないし、と考えて「じゃあ辞めよう」と。

──そういうきっかけだったんですね。でも、それこそ売れるかどうかはわからないタイプの音楽ですよね、ビジネス的には。

対馬:そうですね(笑)。現在、ビクター取締役の植田(勝教)さんは僕の上司だったんですが、近所に住んでいたので僕が辞めると言ったら夜に呼び出されて、バーみたいなところで「これから何をするんだ?」と言われて「こういうバンドがいて、自分でやってみたい」と言ったんですが「なかなか難しいんじゃないか?会社にいてちゃんとやったほうがいいぞ」って言われたんです。だけどその一言によって逆に「やってやる!」という気持ちにすごくなりましたね(笑)。もちろん引き留めてくれたのも嬉しかったですし、その一言が「頑張ろう」という気持ちにさせてくれたんですよね。ですから植田さんにはすごく感謝しています。

──30代で退社するってそれなりに勇気が必要なことではありますよね。文句を言わなければ一応お給料を毎月もらえる身から、もらいにいかないといけないといいますか、立派な家の飼い犬から野良犬になる…ということですよね。

対馬:その表現すごくいいですね(笑)。確かに一気に野良犬になった感じはあったんですが、大きい会社にいてずっと同じ部署にいたので「このままだと何もしらないまま、宣伝しかできない人間になっちゃう」という危機感のほうが全然上で、会社にいることが不安になっちゃったんです。それで辞めてから、まさにミュージックマンもそうですし、安藤(和宏)さんの著作権の本とかを買い漁って、印税の仕組みとか業界のルールを一から勉強し直しました。

──さきほど他部署の先輩にそういった質問ができなかったとおっしゃっていましたが、対馬さん自身もビクター時代は勉強する時間がなかった?

対馬:もう忙しくて、その時間はなかったですね。唯一、エンジニアになろうと思ってないんですが、機材にすごく興味があったので「サウンド&レコーディング・マガジン」は毎月買って読んで、ボーナスが入ると、何十万とかの機材を買って、それを家に置いたりはしていました。

──プライベートスタジオを作り始めた?

対馬:そうですね。それは唯一事前にやっていたことです。今やっているスタジオにその頃の機材があったりもするので。そういったことはやっていましたけど、夜中の番組に立ち会ったり、番組改変で立ち上がった朝方5時の番組とか、みんな行かないだろうから朝起きて菓子折を持って挨拶をしに行ったりしていたので(笑)、とにかく時間がなかったんですよ。でも、そういうことをやると曲をかけてくれるんですよね。ですから本当に寝ないでやっていました。

──対馬さんってあらゆる意味で真面目ですね。

対馬:(笑)。先ほどヨットをやっていたという話をしましたが、早稲田、慶応とかと試合をすると、僕らは毎回ビリの方なんです。大体100艇ぐらいレースに出るんですが、97位とかを走っていて、そうするとみんなはもうゴールで待っているんですよね、つまんなそうに(笑)。僕はキャプテンだったんですが、それがすごく恥ずかしかったんです。その屈辱もあって、社会人になったら人一倍頑張って、絶対に負けたくないという気持ちが強くて、とにかく少しでも上に行こうと人一倍努力したんですよ。

──だから倉庫の片づけも一生懸命にやったと。

対馬:そうなんです(笑)。なんとしてでも、という気持ちが強くて、会社を辞めるときも「全員ごぼう抜きにしてやる」みたいなモードで、全部やってやるみたいな感じが強かったかもしれないですね。

大学時代で言うと、もう1つ面白い話があって、僕らはヨット部を3年で引退しているんですが、2つ下の代は面白い奴らがいっぱい集まっていて、彼らは大会で優勝したんですよね。僕らはビリだったのに(笑)。そのときに僕たちが教えたことを彼らはちゃんとやってくれたというのもあったし、彼らの才能もあったんですが、それを見たときに「人って一生懸命やったらこんなことが起きるんだな」みたいな奇跡も同時に感じたので、自分の現役時代の屈辱とともに「人にちゃんと伝えたら結果が出るんだ」というのも大学のときにすごく感じたことだったんですよね。

 

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第185回 origami PRODUCTIONS CEO/A&R 対馬芳昭氏【後半】

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