第184回 Merlin Japan株式会社 ゼネラルマネージャー 野本晶氏【前半】

インタビュー リレーインタビュー

野本晶氏
野本晶氏

今回の「Musicman’s RELAY」は音楽プロデューサー 亀田誠治さんからのご紹介で、Merlin Japan株式会社 ゼネラルマネージャーの野本晶さんのご登場です。

大学卒業後、ソニー・ミュージックエンタテインメントに入社した野本さんは営業を経てソニーコンピュータへ出向し、プレイステーションの黎明期に携わります。

その後、ゾンバレコードジャパン、ワーナーミュージックを経て、2005年からiTunesにてiTunes Storeの立ち上げに参加。2012年にはSpotifyへ移籍し、2016年以降の日本展開を実現させます。

今回は、常に音楽業界の最先端を歩んできたキャリアから、現在GMを務めるMerlin Japanについてまで話を伺いました。

(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦 取材日:2021年6月30日)

 

父を通じて抱いた「マスコミへの憧れ」

──前回ご登場いただいた亀田誠治さんとはどのようなご関係なのですか?

野本:僕がiTunesのときにミーティングしたのが最初ですね。亀田さんから「iTunesをこんなに使っているんですよ」と見せてもらったり、そのぐらいの関係でしたが、日比谷音楽祭にワークショップというトークセッションがあって、「一般人や業界人に対してストリーミングの魅力を伝えるワークショップを一緒にやってくれないか」と頼まれまして、僕がプロデューサー役となりご一緒したのが、最近の出来事です。

──野本さんから見て、亀田さんってどんな方ですか?

野本:亀田さんは、すごく自由で柔軟な発想の持ち主ですね。ストリーミングサービスも自由に使っていますし、やっぱり「音楽が好き」という軸がある人は、変に凝り固まっちゃったりしないんだなと思いましたね。フレッシュな感覚の持ち主だと思います。

──亀田さんはストリーミング大推進派ですよね。

野本:しかもスマホの環境で充分だと思えるようになっちゃって、自宅にリスニングルームは必要ないと。仕事はスタジオモニターで聴くからその反動もあるんだと思いますけどね。

──亀田さんってビジネスマインドもありますし、理論も明晰、ミュージシャンだけにしておくのがもったいないくらいですよね(笑)。

野本:レコード会社の社長になってくださいみたいな、そういう感じがします(笑)。亀田さんは真のプロデューサーで、偏っていないところが魅力なのかなって思います。だから音楽も常に新しいものを作られるのかなと思いますね。

──ここからは野本さんご自身のことを伺っていきたいのですが、ご出身はどちらですか?

野本:出身は愛媛県松山市の市内で、道後温泉の近くです。

──どんなご家庭でしたか?

野本:親父は南海放送という、地元のテレビ局で働いていました。当時の愛媛県ってテレビ愛媛も愛媛放送もなくて民放1局だったんです。ですから南海放送は日テレ系列なんですが、多局のネットをまとめてやっていました。そのマスコミで働いている親父を小学生が見学しに行くという授業があって、オフィスに行ったら、机の上に足を乗せて組んでいるという、アメリカのハリウッド映画みたいな格好でいて、そんなことをするサラリーマンがいるんだって思いました(笑)。結構、真面目な親父でしたし、背広を来てオフィスに行く姿しか知りませんでしたから、そういう姿を見て、ちょっとマスコミに憧れたというのはあるかもしれないですね。

──お父さんは南海放送でなにをなさっていたんですか?

野本:編成です。開局のタイミングでは、ラジオのアナウンサーをやっていたと言っていました。ニュースとかを読んでいたと。

──テレビ局に勤めているようなお父さんだから、音楽とかもお好きでしたか?

野本:好きでしたね。特にジャズが好きで、子供の頃は結構聴かされたんですが、当時はすごく嫌いでした(笑)。マイルス・デイヴィス「カインド・オブ・ブルー」とかジョン・コルトレーン、セロニアス・モンクの名盤を聴くんですが、「なんでこんなものを聴かされているんだ」って。のちに好きになるんですけれどね。

──あか抜けたご家庭ですよね。

野本:愛媛県の環境を考えれば。で、母が好きだったのがエルヴィス・プレスリーっていう(笑)。洋楽全般が好きだったのかな。

──そういう意味では、ご両親に大いに影響を受けていますよね。

野本:意識せずとも影響を受けていましたね。でも、僕が一番最初に買ったLPは渡辺真知子なんですけど(笑)。

──ご兄弟は?

野本: 5歳上の姉が1人います。姉はちょっとスケバンでてっぺん張っているみたいな、そういう気の強い人で、いじめられてばかりで。まるで下僕(笑)。

──(笑)。野本さんはどんなお子さんだったんですか?

野本:おとなしい目立たない子だったと思います。中学、高校ともにテニス部に入るんですが、えらいヘタレなのでついていけなくて、両方ともやめちゃうんです。それで帰宅部になって…でも本は好きでしたね。

──ちなみに音楽は自分でやったりはしなかったんですか?

野本:自分ではやり始めなかったですね。今に至るまでプレイヤーではないです。

──音楽を自分から聞き始めたのはいつ頃ですか?

野本:小学生の頃ですね。いわゆるテレビ主題歌のドーナツ盤を買ってもらって。当時の中学生ってアルバムを月に1枚も買えないぐらいのお小遣いじゃないですか?それでレンタルショップのU&Iが松山に1つだけあったのでそこに行って、井上陽水を借りようかなと思ったら、すごく美人のバイトの女性店員さんがいて、その人に気に入られたくて洋楽を借りて聴くようになったんですよ(笑)。

──(笑)。

野本:「陽水さんじゃなくてビリー・ジョエルにしておこうかな…」みたいな。

──洋楽を借りる方がなんか格好いいという。

野本:イメージですよね。クラスの中に聴いている子もいましたけど、洋楽が好きな子はあまりいなかったですね。

──最初に聴いた洋楽がビリー・ジョエルですか?

野本:だと思うんですよね。あの当時だったらピーター・ゲイブリエルとかホール・アンド・オーツとかその辺の時代ですよね。

──80年代初頭ぐらいですか?

野本:80年代前半でマドンナが出てきた頃ですね。だんだんと自分のお小遣いで買いたくなるじゃないですか。レコードからCDになり始めていたときだったんですが、松山にはデュークというというCDショップがあるんですけど、輸入盤のコーナーがエサ箱1個しかないんです。そこには選りすぐられた作品しかなくて。もう一店舗モア・ミュージックという輸入盤を扱っているショップが松山にはあって、そこに通うようになりました。

──それは結構マニアックな感じですね。

野本:そうですね。輸入盤だと安いから、頑張れば買える価格でした。

 

小学校の頃から通う塾で培った英語力

──ちなみにラジオで情報を仕入れたりもしましたか?

野本晶氏

野本:ラジオはよく聴きましたね。「FMファン」とか雑誌を買って、「なにをチェックしようかな」って選ぶんですよ。それで高校生の頃に、NHK-FMでピーター・バラカンさんがソウル・ミュージックの特番を5回か6回シリーズでやっていたんです。この番組は「魂(ソウル)のゆくえ」という本にもなっているんですが、それがきっかけでソウル・ミュージックにすごくハマったんです。番組はバラカンさんが黒人の公民権運動や、マーチン・ルーサー・キング牧師の政治的背景から、黒人音楽の歴史を語るんですが、サム・クック、アレサ・フランクリン、オーティス・レディングあたりからモータウンが登場して商業的な音楽になっていったみたいな歴史をその番組で教わりました。

──もはや講座ですね。

野本:そうですね。それで初期のブルース、ゴスペルからR&B、ソウルに変わっていくあたりの音楽が好きになってよく聴きましたね。その頃から音楽が趣味になったと思います。

──ちなみに高校は地元に進学されたんですか?

野本:はい。県立松山西高校というところに行きました。県立は東西南北と4つあるんですが、そのうち一番偏差値が低かったのが松山西で(笑)、しかも帰宅部でしたから地味な生活でした。なぜか松山西は体育がすごく厳しくて、お遍路巡りをマラソンでやらされるんですよ。高校から市内のお寺を走って回るという。僕が住んでいた道後のほうはお寺が多いので、わざわざ自転車で学校に行って、走って家の方まで帰ってきて、また走って学校に戻ってというすごく理不尽なことをやらされたんですよ(笑)。

──そのまま家に帰らせてくれと(笑)。

野本:片道6、7キロですから、往復で15キロとかそんなものではあるんですけど。

──学校は共学ですか?

野本:一応共学です。バンドをやっている人もいましたけど、田舎というのもあって、バンドってちょっと不良っぽいイメージがあったんですよ。

──では、ひたすら聴くだけ?

野本:そうです。あと図書室の本を読むだけ。この2つしかしてなかったです。

──それはそれで立派なオタクですね。

野本:オタクだったかもしれないです(笑)。当時アニメオタクとかそういうジャンルはなかったですが、音楽と図書室オタクです。

──それを語り合えるような仲間はいたんですか?

野本:洋楽が好きで、しかもソウル・ミュージックを聴いている人なんて全くいなかったですね(笑)。

──SNSもないし、そういう仲間に出会う術も特にない。

野本:ないです。音楽の話をするのは先ほどのモア・ミュージックの店長さんと奥さんだけみたいな(笑)。

──ジャズ喫茶とかソウル・ミュージックバーみたいなのは東京には結構ありましたけど。

野本:松山にもあったんでしょうけど、やっぱり高校生で地味だからバーとかに行く勇気がなかったですね。

──その後、野本さんは立教大学に進まれますが、上京への憧れ、大学に入るときの高揚感みたいなのはありましたか?

野本:リアル大学デビューですね。そう思って上京したわけじゃないんですけど。

──ちなみに立教一択という感じだったんですか?

野本:いやいや、早稲田、青学、成蹊、成城といろいろ受けました。僕は、小学校の頃に英語の塾に行っていて、「英語が得意」と思ってはいなかったんですが、結構鍛えられていたので、試験の成績はよかったんです。それで立教は文学部なんですが、英語と面接と小論文みたいな受験方法があって、それで受かったという感じですね。

──野本さんは英語が堪能な印象があるのですが、もう高校の頃から得意だったんですね。

野本:ただ僕はアメリカに行ったりしたわけではないので、小学生のころに通った英語塾のおかげで食いつないでいますね(笑)。英語に関してはフルーエントとは言わないですけど、ビジネスイングリッシュレベルよりはいけると思います。

──それはいつ頃からそうなったんですか?

野本:オン・ザ・ジョブで勉強したというのも結構ありますね。もともと英語が好きだったのと、先ほど言った塾で自信がついたというか。その塾って発音記号から教えるちょっと変わった塾だったんですよね。

──小さいときにいい教育を受けたんですね。

野本:英語塾は小、中と続けて、中学校のときには飛び級で上の学年のクラスに行っていいと言われました。当時は嫌だったんですけど(笑)。まあ、認められていたんだと思いますが、高校生になると東西南北の一番上の東校の生徒しか受け入れないと言われて(笑)。僕は西校だったから塾を続けれなかったんです。「お前はもう卒業な」って。

──なんだか、感じが悪いですね(笑)。

野本:そういう塾なんです。英語エリートを養成したいみたいな変わった塾でした。

──でも、その英語力をもって立教には受かったと。

野本:教育はしてもらったという感じです。もちろんアメリカの音楽も好きでしたし、アメリカの文化にも興味があったので、英語に抵抗がなかったのはデカいですね。

──そして、立教大学に入学されて1人暮らしが始まるわけですよね。

野本:ええ。愛媛県から東京に出たので地理なんて全然わからなくて。新宿の不動産屋さんで学生相手の物件を紹介してもらったら「新築ですごくいいアパートが出ていますよ!」「東京では通勤、通学に1時間かかるのが普通です」って騙されて、西武池袋線終点の埼玉県飯能市の物件を紹介されたんですよ。「池袋まで1本ですよ!」って言われて。

──うわぁ…それって詐欺みたいですね。

野本:安い新築だし、飯能が悪いところではないんですが「その距離はありえなくない?」と(笑)。

──(笑)。何軒か他の物件は見なかったんですか?

野本:見たんですけど、やっぱり近いところはボロくて高い。当たり前ですけどね。

──でも、なにも飯能まで行かなくても…(笑)。

野本:ですよね。うちの両親にも普通に言ったんですけど「あらそうなの」みたいな。母親は東京に住んでいたことあるんですけどね。結局1週間で騙されたのに気づくんですが、その家に帰らなくなって、友だちの家を泊まり歩くみたいな。解約するまで1年ぐらいかかりましたが、1年後に大学の先輩の親戚が十条銀座で有名な八百屋さんをやっていて、「「住み込みのバイトをするんだったら部屋を貸す」と言っているから、お前どう?」と言われて、そこに引っ越しました。

 

ソニーミュージック入社〜営業配属で年間200本のライブを観る

──八百屋さんの住み込みバイトって店頭に立つんですか?

野本:「はい、いらっしゃい」という声出し要員で立ちます。ちょっと不真面目な勤務態度だったので、すごく怒られていましたけど勉強になりましたね(笑)。

──そのバイトはどのくらいやったんですか?

野本:1年もやってないです。最後はフェードアウトしちゃうんですが、その八百屋の息子さん2人が、10歳くらい年上なんですけど結構イケイケで、八百屋を早朝から店じまいまでやった上で滅茶苦茶遊ぶんです。ナンパ師なんですけど(笑)。そのナンパが100パーセント成功する弟がいて。格好悪くはないんですけど、超格好良くもない。ただ、ものすごくナンパが成功するんですよ。

──トークがイケてるということですよね。

野本:はい。それで「コツは教えない。俺を見て勉強しろ」って(笑)。

──俺の背中を見ろと(笑)。

野本:見てやるんですけど、僕は100連敗ぐらいしました(笑)。

──全く勝てなかったんですね。

野本:勝てなかったですね。そういうところで東京を体験したというか。

──強烈な洗礼ですね。飯能には行かされるわ、ナンパは成功しないわ(笑)。学校にはちゃんと行っていたんですか?

野本:あんまり行ってなかったですね(笑)。いまでも卒業できたのが不思議な感じなんですが、文学部ドイツ文学科というマニアックな学科だったのでなんとかなったんですね。

──毎日なにをやっていたんですか?

野本:バイト、サークルじゃないですかね。

──サークルは何サークルだったんですか?

野本:いわゆるテニスサークルなんですけど、テニスは中高やって大学でリベンジするんです(笑)。

──大学のテニスサークルって大体軟派ですよね。

野本:チャラいですよ。もちろん女子もいて、サークルの中で付き合った女の子もいましたけど、結構テニスは真面目にやっていたんですよ。中高帰宅部にもかかわらず、テニススクールのコーチのバイトを2年ぐらいやるんですが、それも本当に真っ黒になるぐらい毎日やっていました。

──今もテニスをやっていらっしゃるんですか?

野本:はい。テニス仲間がいないので週1でテニススクールに通って。みんな家庭ができてテニスやれなくなっちゃった人が多いんですよね。

──テニスお好きなんですね。

野本:好きなんでしょうね(笑)。テニスで学んだことって実は結構あるんですよね。スポーツってそういう部分があると思うんですが、テニスって結構メンタルのスポーツで、「ウイニング・アグリー」というテニスの本があるんですが、その本は技術のことは一切書いてなくて、相手との心理戦をどう勝つかということばかり書いてある本なんです。それはテニスのコーチにすごく読まされて「試合に活かせ!」と言われました。マッチポイントとかセットポイントとか、大事なポイントで気合を入れるのは当たり前で、その1個前で気合を入れろみたいなことが書いてあるんですよ。むこうが気合を入れてないときに気合を入れたほうが勝つという。

──その本はいまでも役立っているわけですね。

野本:とても役立っていますね。「スタンスをフラットに保て」とか。球が右に来るか左に来るか、どこに来るかわからない。どっちかと思っていると体重がそっちに寄って動けなくなるから「どこに来るかわからない」と思っておかないと全部に対応できない。仕事もそういう面があるなと思いますね。

──そして、大学卒業後はソニーミュージックに就職されますね。当時はまだ大賀(典雄)さんが社長の時代ですか?

野本:入った瞬間は大賀さんかな?僕は92年の入社です。盛大にバブルなので、ソニーミュージックグループ全体で新入社員は80人前後いたと思います。

──最初の配属はどちらですか?

野本:東京第一営業所という部署です。僕は音楽が好きでしたからレコード会社に興味はありましたが、本当は新聞記者になりたかったんです。ただ、学力試験で落ちたりして面接まで行かなかったんですね。それで滑り止めと思っていた愛媛新聞社では社長面接で「お前駄目だな」ってすごいダメ出しされて(笑)、新聞社に入れなかったので、滑り止めじゃないですが、たまたま受験しようと思っていたソニーミュージックにもし受かったら入ろうかなみたいな感じだったんですよ。

──でもソニーミュージックってそんなに簡単に入れないじゃないですか。

野本:倍率は、知らないですけど10倍以上はあったでしょうね。当時、エントリーシートというのを書かされるんですが、履歴書は添付しなくてもいいと。絵でも歌でもなんでもいいから自由に自分をアピールしなさいみたいな感じだったんですね。僕は大したことを書かなかったんですが、制作面接で親父に叩きこまれたジャズの話をしたんです。小さいときにすごく親父に聴かされて、子供のときは嫌いだったけど次第に好きになったと。チャーリー・パーカーの「バードマン」という曲はこんな風にして書かれた曲で好きですみたいなことを話したら、それが目立ったみたいなんですよ。

──ちなみに面接官は?

野本:マイケル河合さんと、あと1人いらっしゃったと思うんですが、ちょっと覚えてないです。

──面接でジャズの話をしたけど最初は営業だったんですね。

野本:いや、僕が営業を希望したんです。なぜかというと営業ってみんな言わないじゃないですか? 95パーセントは「制作になりたいです」って言いますよね。面接の自己アピールで歌を歌う人とか、黒板に絵を書き出す人とかいろいろいたんですが、僕はとにかく受かりたかったので「営業になりたいです」って言ったんですね。

──戦略だったんですね。

野本:営業がなんで良かったというと、当時洋楽・邦楽と、全部のライブをスタッフとして観られたんですよ。

──ライブはちゃんと行かせてくれるんですね。

野本:すごく行かせてくれました。即売のお手伝いもするんですが、ライブも観させてくれた時代でしたね。当時は武道館とかでもスタッフの席を作ってくれて。

──いい時代ですね。

野本:いい時代です。洋楽も全部観られましたから。もちろん毎日ライブに行くわけではないですが、1年で200本ぐらい観たかもしれないですね。結局、営業所にいたのは2年間なのでその間だけですけどね。

 

ソニーコンピュータへ出向しゲーム業界のダイナミックさを体感

──営業所のあとはどちらにいかれたんですか?

野本:ソニーミュージックとソニーがプレイステーションのビジネスを始めるために合弁で作ったソニー・コンピュータエンタテインメントという会社に、ソニーミュージックの営業から何人か選抜された中の一人になったんです。選抜というか、いい順に選んだわけじゃないと思いますが、ピックアップされて。その理由がひどいんですが、当時の営業所長の久保田さんという方が、「お前、飲み会のあとにゲームセンターに行きたがったろ?ゲーム好きみたいだからゲームの会社、明日から行けるぞ」って。

──大雑把な(笑)。

野本:別に「やったー!」という気分ではなかったですが、嫌ではなかったですね。ゲームも好きだったので。

──それは丸山(茂雄)さんや久夛良木さんがいらっしゃった会社ですか?

野本:そうですね。丸山さんの前に徳永さんが最初は社長で、久夛良木(健)さんとかにも直接話さなきゃいけないぐらいの少人数のときに行けたのでよかったです。

──そこではなにをやっていたんですか?

野本:営業なんですが、マーケティングという名前の、営業の販推みたいな部門があって、そこで仕事をしていました。ソニーコンピュータはちょっと特殊で、自分のソフトも売るしハードも売るんですが、ライセンシーと言われるソフトメーカーさん、例えば、ナムコさんやカプコンさんとかのソフトも仕入れて販売するという、問屋さんでもあったんです。ですからライセンシーの窓口的な営業販推を2年やって、開発の窓口を2年やりました。

──その仕事は楽しかったですか?

野本:本当に家に帰れなかったですね。過労死寸前の人とかいましたし。

──それはどんどん売り上げが伸びていったから、ということですか?

野本:そうですね。思ったより100倍ぐらい上手くいったので。

──それだといくら人数を増やしても追いつかないですよね。ただ、「もしソニーのプレイステーションがなかったら」と考えると大きかったですよね。

野本:本当ですよ。当時営業本部長だった島本さんという方もソニーミュージックから出向したんですが、ゲーム業界のしきたりを知らなくていいこともその反対もありました。

──しきたりがある?

野本:はい。ハードの卸値をそれまで9掛けとかかなり高い卸値で出していたんですが、レコード会社は5から7掛けの間みたいなイメージがあるから、従来よりは安い卸値で出したら、販売店が「プレイステーションを売ったら儲かるぞ!」ってやる気を出したという裏話もあるくらいで(笑)。また、ソフトも従来の高い卸値には理由があって、以前のROMというカセットは作るのにはリードタイムがかかるから、追加注文が間に合わず人気ソフトは卸値が高騰しちゃって、結果、店頭の値段も引っ張られたりとか、ちょっと株みたいな感じだったんです。しかし、CD-ROMだったら売れたら売れた分だけ安定的に供給できるから、卸値は変わらない。それがゲーム流通の革命だったんですよね。

──任天堂とか他のところはそうではなかった?

野本:任天堂はわざとROMビジネスをやっていたと思います。ビジネスモデルを研究すると、これはあまり本で書いてないですけどROMの製造も基本的に任天堂さんがやってらっしゃるので、そこも押さえてるは結構デカかったんですよね。

──当時ゲーム機で言うと任天堂が独り勝ちしているところにソニーが入って行って。

野本:ええ。ほぼ任天堂(とセガで)100パーセントの市場ですね。

──ひっくり返してはいないですけど、半分取ったということですよね。

野本:そうですね。ダイナミックさはありました。

──偶然とはいえ、今となってはやっぱりコンピュータに行けたというのは非常に大きかったわけですよね。

野本晶氏

野本:経験値としてすごく大きかったです。当時は本当に死ぬかと思いましたけど。それで4年後に「ソニーコンピュータに転籍できる」というタイミングがあったんです。そのときに、「そういえば僕は音楽会社に入ったのに、ゲームの仕事しかしてないじゃん」って、すごく思って(笑)、「ソニーミュージックにどうしても戻して欲しい」と言ったら、丸山さんなど先輩には「馬鹿だな」「このままいたほうがいいんじゃない?会社員的には」って言われたんですけどね(笑)。

──そのときは20代後半?

野本:28くらいですね。それで「戻してくれ」と言って、ソニーミュージックに戻り、大阪営業所で1年やって、それはまあよかったんですが、東京に戻ってきて鈴木亜美さんとかがいた頃のアソシ(ソニー・ミュージックアソシエイテッドレコーズ)の、ルームのひとつに配属されるんですが、吸収合併を繰り返すような混沌とした時代で、僕は制作だったんですけど、制作能力があまり高くなくて、結局宣伝に戻されちゃうんです。なんだか部署が変わるたびに、すごろくで振り出しに戻るみたいな感覚でしたね(笑)。

──(笑)。

野本:振り出しから毎回やり直さないといけないのはしんどいなと思っていたときに、ゾンバレコードという洋楽レーベルが制作担当を探していると人づてに聞いて、30歳のときに勢いでソニーミュージックを辞めちゃうんです。

──ゾンバレコードにはどういった方々がいらっしゃったんですか?

野本:フジパシ(フジパシフィックミュージック)にいらっしゃった北澤孝さんという方が社長でした。ゾンバはR.ケリーやトライブ・コールド・クエストなど、元々ブラックミュージックのレーベルだったんですが、当時はブリトニー・スピアーズやバック・ストリート・ボーイズが超絶売れていた時代で、アメリカン・ポップスが滅茶苦茶儲かっていたんですよ。日本でもベストアルバムが100万枚売れるっていうような時代でしたからね。

──バック・ストリート・ボーイズは売れていましたよね。

野本:洋楽の担当なんか1回もやったことないのに、担当になって、1人でニューヨークにバック・ストリート・ボーイズの取材に行って「お前、誰?」ってメンバーに言われながら取材したりして(笑)。まあ、それも楽しかったです。

──英語力も活かせた、ということですよね。

野本:そうですね。その辺で英語力が鍛え直されたというのはあります。企画書も英語で書かないといけないですし。

──で、そのあとにワーナーミュージックに移られますね。

野本:ワーナーミュージックは半年間とほんの一瞬なんです。略歴にしたら抜いちゃうぐらい短いです。ゾンバでの仕事がすごくうまくいって、邦楽アーティストも始めて「軌道に乗るといいな」と思っていたときにBMGに買収されると発表されたんですね。僕はソニーを辞めていますから、ソニーBMGになるというのが決まっていたので「またソニーに戻るのも嫌だな」と思ったんですよね。辞めた甲斐がないなと(笑)。

──(笑)。

野本:自動的に戻るのは嫌ですから「BMGには行きません」と言って、自分で会社を作ってやることになったんですが、そのときに当時ワーナーの社長だった吉田敬さんに「お前、暇だったら一緒に来いよ」って言われて、ついていったのがワーナーです。

──ワーナーでは何をされていたんですか?

野本:沖縄で新人発掘を沖縄テレビのテレビ番組と連動でやっていたんですが、パートナーの組み方とか、ワーナーミュージック・ジャパンの人事制度とかいろいろ思うところがあったんですよね。「外資じゃないな、ここ」みたいな(笑)。それで「このままだと長続きしそうにないから、早めに辞めます」と。だから敬さんには、そういう意味では不義理をしてしまったんですよね。

──まあでも半年だからいろいろな意味でそんなに迷惑もかからないですよ。

野本:まあ「アイツ誰だったんだろ?」ぐらいの。沖縄にしかいなかったですしね。

 

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