第183回 音楽プロデューサー、ベーシスト 亀田誠治氏【前半】

インタビュー リレーインタビュー

亀田誠治氏
亀田誠治氏

今回の「Musicman’s RELAY」はソニー・ミュージックレーベルズ(SML) 木村武士さんからのご紹介で、音楽プロデューサー、ベーシストの亀田誠治さんのご登場です。

1964年 アメリカのニューヨークで生まれた亀田さんは、少年時代にBCL(海外短波放送受信)で聴いた「全米TOP40」をきっかけに洋楽ヒットチャートの虜になり、自身の夢の放送局「FMカメダ」を設立するまでに。また中学2年でベースを始め、プロミュージシャンを志します。

そして早稲田大学卒業後、1989年よりプロとしてのキャリアをスタートし、プロデューサー、アレンジャー、作曲家、ベーシストとして活動。アレンジとベースで参加した椎名林檎のアルバムが連続してミリオンセラーとなり、その名を業界内に轟かせます。その後もJUJU、スピッツ、平井堅など数多くのアーティストのプロデュースや、東京事変のメンバーとしても活躍する亀田さんにじっくりお話を伺いました。

(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦 取材日:2021年6月11日)

 

ソニー 木村武士さんは数少ない昔気質のディレクター

──前回ご登場頂いた木村武士さんとのご関係について伺いたいのですが、出会うきっかけはなんだったんでしょうか。

亀田:きっかけはJUJUさんです。木村さんは2009年に『やさしさで溢れるように』という曲のプロデュースを依頼してくれたんです。『やさしさで溢れるように』はJUJUさんにとっても僕にとっても代表曲になりました。そこから10数年のお付き合いになります。

木村さんは、僕が当時オリコンのコラムで、JUJUさんの『奇跡を望むなら…』という曲が入っているEPに対して「素晴らしいシンガーが出てきた」と書いていたのを読んで大変感激して、僕とコラボレーションしたいと思ってくださったそうです。今では若手にお仕事を手渡して、レーベルを統括する立場でありながらも、JUJUさんの現場には必ずいらっしゃるんですよね。

──今でも現場に来られるんですね。

亀田:必ずいらっしゃいますね。木村さんに対しての僕の印象は、やはり実直なA&Rマン、昔気質のレコードメーカー・ディレクターです。アレンジの方向性から歌のディレクションまでしっかりした判断力があり、ミックス時の音に対するこだわりを持ち、音楽的なことも理解しており、我々クリエイターとのパイプ役もできる。A&Rとしての非常に高い能力をお持ちです。

木村さんは、いわゆるハードディスクレコーダー登場以前のテープが回っていた頃の音楽制作を経験されてきて、その緊張感の中でたくさんの成果を出してきたディレクターであり、僕も非常に信頼を寄せています。

──木村さんが非常に優秀なディレクターであるというのはお話を伺っていても感じましたし、何より情熱あふれる純粋な方だなと思いました。

亀田:本当に熱い方ですよね。しかもハートと腕の両方を持っている。木村さんは僕よりちょっと年下だと思うんですが、木村さんのように幅広い知見と人脈を持ちながらも謙虚でしなやかに生きていくことは大事だなと、いつも感じています。

──人間としても魅力的ですし、リーダーになるのも分かるなと思いました。

亀田:リーダーシップというと、みなさん「チームを力強く引っ張る」とか「ビジョンを明確に打ち出していく」みたいなイメージされる方も多いと思うんですが、クリエイティブの中でリーダーシップというのは、どれだけしなやかな感性と人間性を持っているかだと思うんです。木村さんはそれが成立している、数少ない人です。

あと何度も申し上げていますが、いつ牙をむくかわからないようなモンスターアーティストたちと本気で向き合って作品を作ってきた経験ですよね。それができる人というのは、今後の音楽制作において重要な存在になると思いますし、コロナ禍も含め人との距離ができてしまっている現状では、なおさらそう思いますね。

 

本質を見極める目を養った学びの場と家庭環境

──ここからは亀田さんご自身のお話をうかがいたいんですが、お生まれはニューヨークだそうですね。格好いい響きですね。

亀田:生まれただけですよ、本当に(笑)。1962年から1966年の間、父が日本の商社のニューヨーク駐在員として母と一緒にアメリカへ行っているときに僕が生まれただけです。ただ、あの時代にニューヨークで生まれたことに対して、僕はとても肯定感が高いです。1964年という前回の東京オリンピックの年に生まれて、日本では新幹線や高速道路が誕生する一方で、その日本の何歩も先を行っていたアメリカ、ニューヨークで産み落とされたというのは、すごく自分を象徴しているなと思っているんです。

僕は赤ちゃんのときしかニューヨークにいなかったので、英語はネイティブではないんですが、両親は1962年から66年という、それこそドラマ『奥さまは魔女』のような強いアメリカ、豊かなアメリカでの生活を体験し、帰国後もその経験を生活の中に取り入れたんです。

──ご両親がアメリカナイズされていたと。

亀田:我が家では週末に必ず8ミリパーティーをやっていたんですよ。パーティーといっても、家族や親戚と食卓を囲み、ニューヨークで撮った8ミリを観るみたいな、そういうパーティーなんですが、映像には僕が黒人のナースに抱えられて病院から出てきて、父が大きなキャデラックで迎えに来ている様子が撮られていて、そういうダイナミズムみたいなものを生まれたときに感じていたんだなと思いました。あと、父のオフィスがエンパイア・ステート・ビルの50何階とかで、そういう映像も8ミリで残っていて。

──それは本当に貴重ですね。

亀田:うちは特別に裕福な家庭でもなく、いわゆる高度成長期のサラリーマン家庭で育った子どもなんですが、アメリカでの経験を取り入れた生活環境というのは、「自由に考えて自分の発想を育んでいく」という我が家の教育方針にすごく影響を及ぼしたと思います。

あと母親が非常に個性的というか、うちの両親の話をしたら面白い話がたくさんあるんですが、まず「人と同じ」ということを一切許してくれないんです。例えば、クラスで○○が流行っていて、みんな持っているから買って欲しいと言うと「みんなが持っているものは買う必要がない」という、そういう教育でした。

──すごいお母様ですね(笑)。

亀田:とにかくすごいんですよ。小学校5年生のときに自転車が欲しくて「みんな持っているから早く買って!」とお願いしたら、母親は「1年間、風邪をひかなかったら買ってあげる」って言うんですよ。僕は小児ぜんそくを持病に持っていたり、ちょっと身体が弱い子供だったので、それを克服させたいという母なりの愛情だと思うのですが、これって無茶苦茶高いハードルなんですよ(笑)。

──身体の弱い子供にとっては厳しい条件ですね…。

亀田:結局、1年間風邪をひかずに過ごして、ようやく買ってもらったんですが、そういった「他人基準で動かず自分基準で動く」みたいな考え方を子どもの頃から教わってきました。もう1つは、僕は小学校6年生のときに大阪から東京に転校してきたんですが、東京ではみんな学校指定のお店で防災ずきんを買って、椅子にかけて授業を受けていました。まあ、昭和の典型的な風景なんですが、うちの母は「みんなが同じ防災ずきんをしているのはおかしい。誠治の防災ずきんは私が作る!」と言って、他の子たちは茶色の、今でいう炭治郎柄というか鬼滅柄というか(笑)、ああいった柄の防災ずきんだったんですが、僕だけ鮮やかなレモン色だったんです。

──おしゃれだけど目立ちますね(笑)。

亀田:そのように「みんながどうだから」ということを全くカウントしないんです。そこで得た経験は今の僕の行動やクリエイティブの基本になっています。みんながいいと言っているものの中で、いいものは認めるけれども、そこに自分が寄せていく必要はない。もしくは誰かがいいと言ったから、誰かがやれと言ったから、やっていいというものでもない。「全部自分の責任で決める」ということを両親に教わりました。

──ご両親はご健在ですか?

亀田:いえ、両親とも亡くなっています。母は僕が大学1年のときに乳がんを患って、そこからすい臓がんになりと、僕の10代から20代に関しては、母の闘病の歴史なんです。1986年ぐらいに父がまたニューヨーク勤務になり、母はがんの治療をしながら父と一緒にニューヨークへ渡ることになるんですが、医師の方々の的確な治療のおかげで5か月と言われた余命が5年伸びたんです。僕はニューヨークへ渡った母の代わりに病院で月1回薬をもらって、自分が手掛けた作品のCDとその薬を一緒に送っていました。それが自分の20代中盤ぐらいの思い出としてありますね。

──そうだったんですね・・・。

亀田:不治の病を持つ人とどう向き合っていくかというのを、すごく若い時代に経験しました。結局、母は僕が30才のときに亡くなるのですが、28才で結婚して初孫を抱かせることができたのは良かったなと思っています。また父は東日本震災が来る直前に亡くなりました。本当に人生いろいろなことが起こるなと常に感じていますが、僕は今でも「両親あっての自分」だと思っています。

──高校は私立武蔵高校に進学されますね。

亀田:はい。武蔵高校という学校は、勉強のべの字もない、校則がない、出席もとらない、そして私服の学校で、僕は彼女と一緒にミスドとかケンタッキーに行って英単語を勉強して、そのままチュッチュしながら家に帰ってくるみたいな、そういう高校時代を送っていたんですけれど(笑)、その武蔵の「自ら学び、自ら調べ、とにかく自分で決めていく」という校風は、自分にとって大切な基準になっています。

──武蔵高校って難関校ですが、受験勉強はかなりされたんですか?

亀田:受験勉強はしっかりやりました。ちなみにベースは中2から始めたんですが、ひとまず楽器は置いておいて、1日10時間ぐらい受験勉強しました。

──当時、いわゆる御三家の開成・麻布・武蔵の中で開成はバンカラ、麻生、武蔵は自由な雰囲気がありましたよね。

亀田:特に麻布と武蔵は雰囲気が似ていますよね。10代ながら物事の本質や真理を見極めていくみたいなところは、そういう学びの場と家庭環境で磨かれたと思いますね。

 

夢の放送局「FMカメダ」〜すべてはヒットソングから学んだ

──のちに亀田さんはJ-WAVEで実際に『FM KAMEDA』という番組をやることになりますが、少年時代にすでに自分でラジオ番組を作られていたそうですね。

亀田:小学校5年生のときに、BCL(海外短波放送受信)が流行っていて、ナショナルクーガーやソニースカイセンサーといったラジオで海外の短波放送を追いかけるんですが、そこで見つけた岩国発信のFEN3910 kHz※『全米トップ40』に夢中になりました。

もちろんケイシー・ケイサムの『全米トップ40』だけではなくて、チャーリー・ツナやウルフマン・ジャックもそうですし、ロックなメアリー・ターナーとかFENには素晴らしいディスクジョッキーの方々がたくさんいて、その人たちの番組を聴きまくるんですね。

その後、東京に引っ越してきてからは、ラジオ関東で湯川れい子先生がやっていた『全米トップ40』の日本語版も聴くようになり、毎週チャート1位から40位までメモっていましたから、ヒットチャートが自分の体の一部になりました。でも、自分の好きなイーグルスの『New Kid In Town』という曲が、ビージーズの『恋のナイト・フィーバー』に阻まれ、なかなか1位になれないことが悔しくて、それで自分のチャートを作りたくなったんですよ。

※ FEN:「Far East Network」の略称で当時の通称は“ヤンキー放送”。世界各地の米軍が駐留する地に設けられた基地関係者とその家族に向けたラテ兼営放送局で、1997年にAFN (American Forces Network) に改称した。

──自分の理想のチャートを作りたくなった?

亀田:はい。自分の部屋をFMカメダという放送局に見立てて、FMカメダ オリジナルTOP40チャートというのを作りました。自分で自分に「アンドリュー・ゴールドの『Lonely Boy』」とか「ビリー・ジョエルの『素顔のままで』」とかリクエストはがきを出して、それを集計してチャートを作り「今週の赤マル急上昇! ついに1位になりました! イーグルスの『New Kid In Town』」♪」みたいなことを小学校6年からずっとやっていたんです(笑)。

──すごいですね(笑)。徹底している・・・。

亀田: FMカメダは1977年から始めたんですが、FENの『全米TOP40』も湯川れい子先生の番組も土曜日だったので、週末に自分のチャート番組を作らなくてはいけなくて、子どもながら週末は全く誰とも遊ばず、ずっとそのFM放送を…というか放送はせずに、自分でしゃべっているだけなんですが(笑)、それを5年間続けました。高校受験のときはちょっとお休みしましたけど。

──それって録音物として残ってないんですか?

亀田:全く残っていないです。この話をするとみなさんドン引きするんですが、僕は本当にモノに対しての執着がなくて、例えばCDが出たときに、CDで買い直したアナログレコードは500枚を全部処分しました。とにかくモノを取っておかないんですよ。ですから、コレクター気質みたいなのものは全くないですし、モノではなくて記憶として残しておきたいと考える方なんです。この話をするとガッカリする人も結構いまして、「ええ! もっと音楽を大事にしてよ」なんて言われるんですが、僕にとって音楽はモノでとっておくものではなくて、常に自分の心の中で鳴っていて、感じるものなんですよね。

──心の中にしっかり残っていればいいと。

亀田:ええ。ですから当時のカセットとかは残っていないんです。「FMカメダ」と自分の部屋に張り紙してある写真とかは残っていたりするんですが、それ以外は本当になにもなくて。

──私も湯川れい子さんの番組は聴いていましたが、日本語で解説してくれて、すごく勉強になりましたよね。ちなみに小林克也さんはFENのおかげで英語がしゃべれるようになったとおっしゃっていました。

亀田:そうそう『ベストヒット USA』も、ちょうど僕が中3〜高校生ぐらいから始まって、本当に『Video Killed the Radio Star』の時代が始まるんですが、僕が常に時代に対してポジティブにいられるのは、ヒットソングから入っているからだと思うんです。僕は自分の青春時代、多感なときに体験したヒットソングをもとに今でも自分は音楽を作っているという感覚はありますね。

 

 「10年後に武道館で会おうな」中学校の卒業文集にしたためたプロミュージシャンへの想い

──亀田さんがプロミュージシャンを志したのはいつ頃ですか?

亀田:実は中学校の卒業文集に「10年後に武道館で会おうな」と書いているんです。そこにはなんの根拠もないですし、演奏する楽器すら定まっていなかったんですが、そのときには自分がプロのミュージシャンになると決めていた感じですね。FM カメダもそうですが、とにかく音楽が大好きでしたし、ここでまた両親の話になりますが、好きなものに対して全面的に僕を認めオープンでいてくれる両親でした。

ただ、父は僕を進学校に入れて、自分を超えるような、社会的に立派な存在になってほしいと思っていたようで、武蔵というクラスの2人に1人は東大みたいな学校に進学しましたが、僕は一刻も早くプロのミュージシャンになりたくて、父に「僕は音楽で人の心を動かしたいんだ。なので大学に行かず、すぐに音楽の道へ行きたい」と言ったんです。そうしたらいつも温和な父が机をバーンと叩いて「誠治をミュージシャンにするためにパパは育ててきたわけじゃない。人の心を動かす前に日本の政治や経済を動かす、そういう人間になれ!」と言われました。

──大変厳しい一言ですね。

亀田:ちょっと話は飛びますが、25歳のときに崎谷健次郎さんのツアーベーシストとして中野サンプラザで2デイズコンサートをやったのがプロとしての初ステージで、そのコンサートに両親を招待して観てもらったんですが、家に帰ったら「誠治へ パパより」と置手紙があったんです。それで「とうとう親父は、僕のことを認めてくれたんだ」と思って、手紙を開けたら「誠治の選んだベースという楽器は、何をやっているのかが明確に伝わらない。明日からギターに転向しなさい」って書いてあったんですよ。すごいでしょう?(笑)

──(笑)。結局、亀田さんは高校卒業からミュージシャンではなく、早稲田大学へ進学されますね。

亀田:はい。武蔵のような進学校から早稲田と聞くと、すごくエリート志向だと思うでしょう? でも、全く違って、僕が早稲田を選んだのはそのスクールカラーなんです。自分の子どもたちにも、「学校や会社には独自のカラーがあるから、それと自分がフィットするところに行きなさい」とだけ言ってきました。

もし、そのスクールカラーに憧れていたならば、その学校に行くために勉強したいと思うだろうし、学校に合格してからも、その中で人間関係を培っていきたいと思うだろうから、大事なのはスクールカラーなんだと。当時、早稲田からは個性的な方々がいっぱい出ていて、僕の大好きなタモリさんもそうですし、早稲田の匂いというのが僕にとって特別だったんです。父親は東大一択を望みましたが、僕は共通一次試験自体受けずに、早稲田を目指しました。

──早稲田の校風に憧れていたんですね。

亀田:でも、この「カラーで選ぶ」ことって今後、音楽業界を目指す人にとって非常に重要なことだと思うんです。売れているから、有名だからということではなくて、もっと総合的な色と言いますか、要するに基本理念みたいなものがスクールカラーであったり、レーベルカラーであったり、いろいろなカラーになっていくと思うんです。ですから、そのカラーを自分の中でしっかり見極めていくというのがすごく重要かなと思いますね。このカラーさえフィットしていればどんなにしんどくても頑張れますから。

──確かに共通する思想があると意思も統一できますし、同じ目標に向かうことができますよね。

亀田:そもそも僕は大きな枠での「音楽」という仕事につきたかったので、本当にベースの演奏じゃなくてもなんでもよかったんです。レコーディングやライブのエンジニアにも憧れましたし、ラジオ局でも働いてみたかったですし、音楽に関われることだったらなんでもやりたかった。パソコンにスマホ、サブスク…もし今、自分が青春時代をおくっていたら、あの頃の僕とは違う音楽との出会い方があるでしょうし、違った音楽人生になっていたかもしれないですよね。とにかく僕は音楽という世界に飛び込みたかったんです。

──絶対にアーティストになりたかったわけではないと。

亀田:全くないですね。自分のことをアーティストだとも思っていなかったです。

──大学にはしっかり通われていたんですか?

亀田:実は大学1年目で1日12時間ぐらいベースを弾くようになってしまって、ゴールデンウィーク以降は家に引きこもっていました。当時はジャコ(・パストリアス)やマーカス(・ミラー)など、いわゆるフュージョン・ブームで、テクニカルな音楽がもてはやされていました。また日本の音楽もいわゆるスタジオミュージシャンが注目されて、そういった影響から、とにかく楽器が上手くなりたい、譜面が読めるようになりたいと思っていました。

でも、どうやって上手くなれるのか、プロになれるのかがわからなくて、とにかく無我夢中で練習しているうちに、学校のテストを受けなくなり、1年目で留年です。しかも生意気なことに留年を後悔するわけでもなく、早稲田のスクールカラーと言いますか、例えば大好きなタモリさんもそうですが、自分の中では中退へという名の英雄の切符を掴んだ感じがして、留年にワクワクしていたんですよ。「これで俺は中退できる!」みたいな(笑)。

──「中退したやつの方が大物になるんだ!」みたいな(笑)。

日比谷音楽祭

写真提供:日比谷音楽祭

亀田:もう本当にお角違いなんですけどね(笑)。それで中退するつもりで1年目を捨てたんですが、もう1回履修したクラスのクラスメートにフレンドリーでハートフルな仲間がいっぱいいたんです。彼らとは今でも毎年クラス会をやりますし、みんな日比谷音楽祭のクラウドファンディングで応援してくれたり、そういう素晴らしい仲間たちがたくさんできて、大学生活が楽しくなっちゃうんですよ。

僕は留年生で、上から落ちてきたオッサンなのに「一緒にご飯食べに行きましょう」「カラオケに行きましょう」「一緒にバンドやりましょう」と声をかけてくれて、本当に嬉しかったんですよね。それでみんなと一緒にいると、テスト前にはノートとかも見せてくれるし、そのおかげで5年がかりでちゃんと卒業できちゃったんです(笑)。

──1学年下に本当の仲間たちがいたんですね。留年してよかったんですね。

亀田:留年して本当によかったです。そのおかげでメチャクチャ楽しい大学生活を送れたわけですから、人生ってなにが起こるかわからないですよね。

 

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