第24回 湯川 れい子 氏

インタビュー リレーインタビュー

湯川 れい子 氏
湯川 れい子 氏

音楽評論家/作詞家

ぴあ矢内氏からご紹介いただいたのは、音楽評論家、作詞家の湯川れい子氏。
 本業はもちろんのこと、環境問題や平和問題、女性問題などの社会的・文化的活動にも力を入れてらっしゃる湯川氏。興味を持った物事すべてが自然と仕事につながるという湯川氏のライフスタイルは、働く女性の第一人者として圧倒的支持を得ています。「Musicman’sリレー」初の女性インタビューとなる今回は、「Musicman」編集部からも女性スタッフを配し、湯川氏の自宅兼事務所でなごやかなインタビューとなりました。

[2002年2月8日/世田谷・オフィスレインボーにて]

プロフィール
湯川れい子(Reiko YUKAWA)
作詞家/音楽評論家


東京都出身。
昭和35年、ジャズ専門誌「スウィング・ジャーナル」へ投稿。その才能が認められ同年、ジャズ評論家としてデビュー。ラジオのDJ・ポップス評論、解説を手掛けるほか、講演会、テレビでの審査員、コメンテーターとしても活躍中。現在も多数のレギュラーページを持ち、作詞のヒットメーカーでもある。近年は、ボランティア運動に多くの時間を割き、環境問題を考え、グローバルに行動する自身の「レインボウ・ネットワーク」を組織。永久会員にはシャーリー・マクレーン、 オノ・ヨーコ、オリビア・ニュートン・ジョンなどがいる。

<主な文化活動>
日本音楽著作権協会(JASRAC)/日本作詞家協会/地球友の会ジャパン/地球環境女性連絡会/環境庁中央環境審議会/環境事業団地球環境基金NGO 推進委員会/(財)水と緑の惑星保全機構/(財)国民休暇村/(財)化学物質評価研究機構 …etc各団体理事・委員

東京スクール・オブ・ミュージック専門学校名誉校長
大阪スクール・オブ・ミュージック専門学校名誉校長
福岡スクール・オブ・ミュージック専門学校名誉校長

レインボウ・ネットワーク代表

<主な著書>
「幸福へのパラダイム」(海竜社)

<主な番組出演>
NHKラジオ「ミュージック・ボックス」(火16:05〜17:00)
日本テレビ「ザ・ワイド」

<レギュラー執筆誌>
「スポーツ報知」(報知新聞)
「婦人公論」(婦人公論社)
「月刊ELVIS」(ELVIS PRESLEY FAN CLUB)

<主な翻訳>
映画 「美女と野獣」「アラジン」「ポカホンタス」「ターザン」


 

  1. 雑誌投稿からジャズ評論家へ
  2. ビートルズ来日の衝撃、そしてエルビスとの夢の対面…仕事は「心のままに音楽を伝える」こと
  3. 「感性」でとらえる社会問題……アーティストが声を上げる理由。
  4. 「女性はモノが言える立場にあれ」
  5. エルビスつながり〜小泉首相との交流
  6. 休みなく大忙し…注目はウー・ルーチンと、サッカーWC応援CDプロジェクト!
  7. 趣味の温泉もいつのまにか仕事に…!?
  8. 男女の思考回路の違い…重要視するべきはジェンダーの問題

 

1. 雑誌投稿からジャズ評論家へ

--小さい頃はどういった環境だったんでしょうか。

湯川:私はね、第二次世界大戦の戦争の気配が見え始める頃に生まれたんです。小学校の2年の時には父も死んでしまって。それから18歳年上の兄も戦死して…そういう環境の中で生まれて育ってますから、もちろん今のように外国の音楽なんてのはラジオで流すこともできないし、自宅で聴くこともできなかったんですよ。もともと海軍の軍人だった父がすごく音楽が好きで、26歳で戦死してしまった兄もすごく音楽が好きでピアノが上手だったんですね。だから私が物心ついた4歳ぐらいから6歳ぐらいの、一番幸せだった頃、まだ、父もその兄も生きてた頃というのは、満月の夜なんかに屋敷の広い縁側に出て、父が尺八を吹いて、兄がピアノを弾いて、母がお琴を弾いて、姉もピアノが上手だったのでピアノを弾いてみんなで「六段」とか「千鳥」を家族で合奏したり。春先になって梅の花が匂ってくると、梅の木の下に茣蓙を敷いて母がお茶をたてて、みんなで歌を詠まなきゃいけなかったのね(笑)。私もすごく小さかったんですけど、6歳の頃に詠んだ歌が残ってたりしまして。そういう環境ではあったんです。今とは違う音楽環境ですけれど、でもやっぱり非常にある意味では豊かな音楽環境がありまして。そんな中で育ったんですけど、戦争が激しくなって父も兄も死んでしまって、2番目の兄も戦争で行方不明になってしまって…3年後に帰って来たんですけどね。もう戦前と戦後では生活が180度違ってしまって。だから中学1、2年の、思春期っていうんですか…多感な時代を迎えた頃に、美空ひばりさんとか、その頃の歌い手さん…田端義男さんとかが歌ってらっしゃる悲しい歌が好きになれなくて。

--戦後の哀愁のある…。

湯川:そう。「ガード下の靴磨き」とか美空ひばりさんの「悲しき口笛」とかね、「越後櫛子の歌」とか、そういうのがあったんですけどね。そういうのがどうしても好きになれなくて。自分のその悲しさとオーバーラップしちゃうんですね。それであの進駐軍放送、ラジオから流れてくるアメリカンポップスを聴くようになって。それが、中学の2年ぐらいの頃からですね。それからどんどんアメリカンポップスを聴くようになって…高校2年ぐらいの頃にモダンジャズがアメリカで盛んになりはじめて、モダンジャズに猛烈に惹かれていったんです。独学でジャズの歴史を勉強するようになって。それで19歳の時に「スイングジャーナル」ってジャズの専門誌、今もありますよね。あれの読者論壇に何回か投稿したら、それにファンレターがいっぱいくるようになったんです。それで「本格的に書いてみないか?」って編集者に言われて、ジャズの評論を本格的に始めたのが、21歳の時なんです。

--19ぐらいから投稿を始めて、仕事としてやるようになったのが21ぐらい。

湯川:そうですね。

--そういう(評論家の)お仕事をしたいと思って投稿なさってたんですか。

湯川:ううん。全然そんな…。それが仕事としてあると思わないから。植草甚一先生とか、油井正一先生とか、戦前からのジャズ評論家は恐ろしい先生方がいらっしゃいましたけど(笑)、自分がそんな風になれると思わないじゃないですか、19か20歳で。でも、すごく言いたいことがいっぱいあって(笑)。「このサキソフォン奏者はすごいよ」とか、そういうことを言いたくて。それを読者論壇で出してたら、やっぱりそういう格式のある先生方がお書きになるものと、全然言葉も違うし…。

--感性も。

湯川:うん。感性も違うし。それで女の子だしね。珍しかったんでしょうね。

--はじめは投稿だったのに、それがそのままメインのお仕事になってしまったんですね。

湯川:そうですね、そのままメインになって。だからジャズから始まったんですけど、同時にアルバイトでラジオの音楽番組の選曲なんかもしてたんですよ。レコードがほしいけど買えないから、そういう仕事をしてたんです(笑)。

--中高生の頃になりたかった職業は何だったんですか。

湯川:女優さん(笑)。

--女優さんだったんですか。でも女優のお仕事もなさってましたよね?

湯川:ええ。やってます。でも、お金にはならないし、そんなにその才能があると自分でも思えない部分があって。女優さんになるための最大の欠点というのかしら…それを指摘されたんですよ。まあそういうことも知らなかったんだけど…ちょっとお水を飲み過ぎたり食べ過ぎたりすると、翌日顔が違っちゃうの。目が二重になったり一重になったりね。それで監督さんに「昨日と今日と顔が違うじゃないか!あなたは絶対女優には向いてない」って言われて(笑)。「そっか…そうなんだ…」って。

--それでやっぱり評論の方がメインになったんですね。

湯川:そう。ぜんぜんこっちの方…まあ勝手に好きで書いてた方に声がかかって(笑)。そちらの方が手応えがあって。そっちに行っちゃったんですけどね。

--女性の評論家っていうのは当時は少なかったですよね。

湯川:評論家っていうのもまだ確立してなかったから。名前もなかったし。ディスクジョッキーも「ディスクジョッキーって言うんだってよ」みたいな世界で。でも「私はディスクジョッキーをやってます」って言っても「ああ、ディスクジョッカーですか」なんて言われて(笑)。

--ラジオのDJといっても最初は選曲係のバイトだったんですね。

湯川:ええ。ちょうどその頃テレビが60年代になってものすごく盛んになったんですね。テレビの音楽番組が大変人気があって。注目も経費も視聴率も全部テレビに行っちゃった時代なんです、60年代は。ラジオはもう制作費があんまりなくて。だから、それまでみたいに贅沢にラジオでお金をかけて番組を作るっていうことができなくなってきましたので、選曲係もしゃべる人もいっしょくたになったら、お金かからないじゃないですか(笑)。それで、私とか大橋巨泉さんとか、前田武彦さんとか青島幸男さんとか、そういう台本書いてた人達がしゃべるようになったの。

--全部兼任できるようにですね。では曲もトークも全部ご自分でお考えになって…。

湯川:ええ、自分でやってたから。まあ、頼むほうはラクでしょ?女は他にそういう人、幸か不幸かなかったから。「君やらないか?」みたいな。

--でも、DJに限らず女性自体が音楽の現場にほとんど活躍していない時代ですから…何かそれで苦労されたこととかありますか?

湯川:うーん。苦労はたぶん今も同じだと思うんだけど、なんか「女の人は仕事に困ってもお嫁に行けばいい」みたいなね?だから結婚しちゃったらもうやめちゃうんだから、男みたいに一生の仕事ではないと思われてることですね。

--腰掛けみたいに…。

湯川:そうなんですよね。だから別にやめたってかまわないだろうみたいな。職場全体にそれがありまして。まあ私も21歳とかで若かったですから、例えばその担当ディレクターが私に好意を持ってくださっても、それで口説かれてもこっちはその気になれないっていうか…。今でいうセクハラって言うの?セクハラなんて言葉もないですからね(笑)。だから好意を持っていただいても、そこでこう…ギクシャクしちゃう状態になっちゃうと、すごく仕事がしにくくなったり。それから、極端にそれで「あーそう。やる気がないの?」みたいな言われ方をしたり…。そういうことが代理店にもあるし、制作の現場にもあるし、編集の現場にもあるし…、っていうことがすごいあったんですね。それは何回か非常に悲しい…悔しい思いをしましたけども。まあ、苦労のうちには入らないでしょうね。

--社会全体がそういう感じでしたよね。

湯川:そうですね…。そのかわり、ひっくり返せば「もてる」ってことだから(笑)。だから、甘やかせてもらったと思うし…。

--かわいがってもらった?

湯川:うん、かわいがっていただいたし。だから、そういう意味ではプラスマイナスどちらもあったんじゃないですか。

 

2. ビートルズ来日の衝撃、そしてエルビスとの夢の対面…仕事は「心のままに音楽を伝える」こと

湯川れい子2

--評論やラジオ以外に、作詞家としても活躍なさってますが、元々どうして作詞をすることになったんでしょうか。

湯川:そうですねぇ。作詞はまあ小さい頃から詞が好きだったのね。6歳の時に詠んだ「若蛙」みたいにね(笑)。わりと小さい時から詞が好きで、いろんなCDの詞は読んでたんですけど。あの…最初の作詞はですね、思いもかけない英語だったの。全部英語の「涙の太陽」っていう歌でした。

--翻訳ではなくて…。

湯川:英語の作詞だったんですよ。たまたま私のやってた番組のアシスタントDJをやってた娘が今で言うバイリンギャルだったんですね。それで彼女がすごく歌がうまかったから、エミー・ジャクソンの「涙の太陽」っていうのを出すことになったんですよ。英語でアメリカのレーベルから出したようにして、和製ポップスのそれこそ走り、第一人者ですよね。それで「英語で詞を書いてくれない?」って言われて(笑)。

--どうして湯川さんが抜擢されたんですか。

湯川:私がその番組のDJだったからね。彼女はアシスタントで英語でしゃべってたんですけど「詞は書けない」って言うから「じゃあ、書いて」みたいな。なんかすごい乱暴な話だけど、そのレコーディングの現場で…。

--いきなり頼まれて?

湯川:ええ(笑)。いきなり頼まれて10分か15分で書いちゃった詞なんですけど…。だから、けっこういい加減なんですけどね(笑)。これが大ヒットしちゃったの。それで「それを日本語にしてくださいませんか?」って言われて、今度、日本語で青山ミチさんっていう人が歌うことになって「日本語にしてください」って言われて、それで「♪ギーラギーラ〜太陽が…」っていう日本語の詞を書いたのが最初。

--それから作詞のお仕事もなさるように…

湯川:そう思ってたわけじゃないんだけど、その頃みんな作詞家とか作曲家はレコード会社の専属制だったんですよ。

--そうですね。

湯川:だから、英語の作詞なんていうのは、まったくはみ出したところでの仕事だったから、そういうはみ出した仕事はよくきたの。ずっとはみ出し仕事を時々やってるっていう感じで。だから正式な作詞家としてのデビューはシャネルズの「ランナウェイ」ということになりますね。まぁでも、あれは頼まれて30秒のコマーシャル用に書きましたから。コマーシャルを彼らのデビュー曲にすることになっったんです。

--評論を書くことと違って、苦労なさったことってありますか?

湯川:そうね…。作詞はいわば、私がやり始めた頃からの作詞っていうのは、オートクチュールみたいなもので、注文仕事だと思うんですね。もうサイズが決まってて、ボディーが決まってて、メロディーも誰が歌うかも決まってる。

--曲が先だったんですね。

湯川:ええ、曲に言葉をはめていく世界でした。

--職人仕事みたいな感じですか?

湯川:まあ、職人は職人なんですけど…自分でイメージ膨らませて書いていく作業で、特殊な仕事だっていう風にはあまり思わないですね。頼まれての範囲内で書くんだけども、それは他の原稿を書くのと非常に似てると言えるのかな…。

--あまりじゃあご自分の中で区別されてないんですね。

湯川:うん。あんまり区別してないですね。むしろ、どういう風に詞に表現して伝えようかっていう。言葉をすごく選択しなきゃいけないっていうことね。音楽評論もそうなんですけど、その1枚のCDを聴いて「どこがどうしていいのか」っていうことを表現するってすごく難しいのね。だっていいんだもん(笑)。

--そうですよね(笑)。言葉になんかできないですよね。

湯川:どうしてって、別にうまいわけじゃないし。言葉が全部わかってるのかって言ったらわからないし。どうしていいんだろうっていうことを一生懸命考えて、短い制約された言葉で、伝えようとするじゃないですか。だから、そういう意味では、作詞も自分の頭の中に出てくる情景を、あるいは物語を、どうやって言葉にして伝えようかっていう。球数っていうんですけど、言葉数の中でどうやって伝えようかって思いめぐらす仕事ですから。そういう意味では、形にならない音楽っていうものを伝えるという意味では、同じような気がするんですね。

--じゃあご自分ではこれはずっと続けていく仕事なんだっていう風に思ってたんですよね。

湯川:うん、もうほんとにこれはある意味では非常に社会的な仕事なんだっていう風に思いを定めることができたのは、ビートルズが来日した時だと思いますね。ビートルズも「あんなの音楽じゃない」「武道館貸すな」みたいな、そんな世論があった反面、毎日ビートルズを一目みたいと思って全国から出てくるような男の子や女の子がもう何百人も補導されてるような3日間。ほんとなんか東京戦争みたいな3日間でしたから(笑)。そういう中で、方向性を持たないエネルギーっていうのかな…大衆音楽っていうのかな…若い人にしかわからない、理解してもらえない音楽っていうのは、子供を不良にするとかしないとか、そういうことではなくて、もっともっと人間の本質的な命とか自由とかいうものに深く関わっているものなんだって思ったんですね。それまではどこかで、自分は高校しか卒業してないし、大学も出てないし、音楽的な素養もないし、それがコンプレックスで、国立音大の聴講生やなんかになったりしてたんですけど「それは違う」ってことをその時に確信しまして。それを自分の皮膚感覚のままに、感性っていうか、心のままに伝え続けていくこと。どんな時でも好きな音楽を聴けるってことは、リトマス試験紙なんだっていう風に思うことができたもんですから。そこから思い定まりましたね。

--この良さを伝えられるのは自分のような若い表現者なんだって思われたんですか?

湯川:というよりね、好きな音楽を好きな時に聴ける社会がどんなに大切かっていうことを、一生自分の指針にしようと思ったんです。すべての音楽、つまりその人にとって好きな音楽を自由に聴けるってことが、まず、社会の基本。この間のタリバン見ればわかるじゃないですか。

--そうですね。抑圧されてましたからね。

湯川:うん、そう。音楽って実は、抑圧とは正反対にある自由の象徴なんです。だから、自由の象徴である音楽を自由に聴けるってことが理想の社会のあり方なんですね。

--ではそうやって方向性が定まったことで自信を持たれたんですね。

湯川:うん、そう。私はそういう意味では、自由に音楽という物を食べたり生きたり呼吸したりしてる存在なわけですから。それは一つの象徴として生きていけるっていうことじゃないですか。まして女だし。

--ビートルズはお会いになってますよね?会ってみて自分の考えは正しかったんだ、と思われましたか?

湯川:いえ、別にそんなことはないですね。ビートルズよりもむしろ、私の場合は高校生ぐらいの時にものすごいショックを受けたエルビス・プレスリーに一目会いたいっていうのが、ずうっとありまして。「エルビスに会いたい。それもジャーナリストとして日本でエルビスをずっと紹介してた人だよっていう紹介をされたい…。」

--それが一番の願いだったんですね。。

湯川:ええ…その夢が叶ったのが15年後なんですけども。その時に「“エルビスに会いたい”っていうのは、私にとってはガソリンみたいなもんだったんだな。それがエンジンを動かしてくれてたんだな」っていう風に思いましたね。

--エルビスに会われて目標を達成されたあとはどんな…

湯川:まあそれからは折々に、ほんとに自分が楽しいこと、やりたいこと、やってみたいことをその都度の目標にしてきましたけどね。

 

3. 「感性」でとらえる社会問題……アーティストが声を上げる理由。

湯川れい子3

--最近は音楽だけでなく環境問題などにも力を入れてらっしゃいますよね。

湯川:そうですね。まぁ環境のことを考えるようになったのも子どもが生まれてからなんですよ。もう25になりますけど…子どもが2歳ぐらいの頃にね、非常に水が悪いことに気がついて…。うちの子喘息がひどかったもんですから、水泳の幼児教室に通わせていたんですけど、もう目が真っ赤になっちゃうのね。それで「こんなお水を飲んでたり、こんなお水の中で泳いでたりって、ちょっとおかしくない?」みたいなところから始まって、「こんなもの食べさせてていいのかな?」っていうことがたくさんあって。そういうところから始まって、まだそこの域を出てないんですけど。

--それはお子さんが生まれた後に「いいのかしら?」っていうご自分の素朴な疑問から始まったことなんですね。

湯川:そうです。だから今でもその延長線上ですよ。例えばうちのその子が…今はもう25になったんですけど、好きな人ができてそのうち結婚するでしょ?子供が生まれてくるじゃないですか?そうすると、その子が生まれて20年ぐらいっていうと今から約30年後?「果たして食糧はあるのか」とかあるでしょう?もっと砂漠化、温暖化が進んだら…そうしたら米はできるのかしら?とかね。そういう非常に身近なところで「ちょっとまって!この数字おかしいじゃない?」みたいなことが気になりますよね。雪印みたいに目の前の業績とか営業だけで、物事を作ったり考えたりするのはすごくおかしいんじゃないかと思うし。そういう環境問題とかって、スティングとかポール・マッカートニーとかマイケル・ジャクソンとかU2とか…そういう音楽家たちが最初に声を出したことなんですよね。

--そうですね。

湯川:それはどういうことかっていうとね、感性ということを考えると、音楽は目に見えないものだけど、環境は目に見えるものじゃないですか。それにプラス目に見えるだけではない、やっぱり、そういう…感じ?ちょっと「森が変」「水が変」「空気が変」とか…。そういうものは、感性の領域に入るものなのよね。その感性の領域には、「気持ちがいい」っていうのと同時に「気持ちが悪い」っていうものも訴えかけてくるわけですから。そういうことに敏感な人達っていうのは、私は、音楽に敏感であることと同じような気がするんですよ。

--そういった感性が鋭いっていうことですよね。

湯川:うん、そう。それは、手塚治虫さんのようなアーティストであったり、あるいは、古くは宮沢賢治っていう詩人であったり、同じことだと思うんです。だから一番最初にそういう環境の中についてもいろいろアピールしてきたのは、アーティストだと思うんです。そういう意味で、私も、環境に非常に深く関わってしまったし、これからもおそらく関わり続けていくだろうという風には思います。でも、それがメインの仕事とか、そういうのではないです。

--社会的な問題には音楽家の方のほうが声を上げやすいんじゃないかとおしゃいましたが…湯川さんとも親交の深いオノ・ヨーコさんもかなり昔から一線で声を上げてきた方だと思うんですけど、その活動はけっこう日本ではあまり伝わってきてませんよね。いろいろやってきたことが…まあ世界での評価は最近はずいぶん変わってきていますけど。

湯川:そうですね。あの…例えばね、航空会社のキャンペーンのコマーシャルとかポスターとか見ると、スチュワーデスがみんなお行儀よく座ってにっこり笑って、みんな似たような顔をしていかにも慎しまやかなのね。そういうのを見ると「ああこれが日本なんだな」と思いますよ。やっぱりどうしても女の人っていうのは、天皇陛下に象徴されるように、女は常に半歩下がってって感じなのね、「どうして一緒に並んで歩かないの?」っていつも思うんだけど。もう半歩下がって、女性が必ず頭を下げる。あれは他の国の文化とちょっと違うじゃないですか。

--そうですね。

湯川:ねえ。イギリスの王室なんかとはまったく違うし、アメリカとも違うじゃないですか。そういう日本の慎ましやかな女性の秘めやかなイメージと、オノ・ヨーコさんのイメージとかけ離れてるのよね。非常に前衛的な、むしろ怖いっていうか。ものすごい意志の強さと気の強さとが全面に出ているような。それに、ジョンは初めて男で子供を背中にしょって人前を歩くような形を見せたでしょう…主夫という仕事をね。「キッチンは自分でオフィスはヨーコで」みたいなことを初めて世の中に出した人なんだけど。そういうすべてを見てても日本の男性が感じるのは「恐怖」なんですよ。

--あぁ…そうかもしれないですね。

湯川:うん。ヨーコさんに対して。「こういう人と一緒になりたいな」なんて逆立ちしたって思わない(笑)。

--なるほど(笑)。

湯川:うん。だから、ヨーコさんの優しさとか、ヨーコさんの思いやりとかを、口でいくら説明しても、まず、わかってもらえないのね。

--だから今まで、正しいか正しくないかっていうのはあれですけども、正しいことをずっとやってこられたと思うんですけど、あまり伝わってこないというか…。

湯川:それも非常に…ジョンを支えるっていう形でやってきてるでしょ?

--そうですよね。

湯川:よく見てるとわかるんだけど。そういう意味で非常にいつも半歩も10歩も下がって、ジョンを支えてるのよね。

--ジョンのためにやってますよね。

湯川:そう。ジョンのためにジョンのためにっていうのがすごくあるんだけど、それがなかなか見えにくいんでしょうね。

--前に出てきてるからですね。

湯川:そう。全部ジョンをね、洗脳して…みたいなね。そういう見方をするのはイギリスの女性にもすごく多いんですね、ヨーコさんに対して。

--へえ…そうなんですか…。やっぱり取られちゃったみたいな(笑)。

湯川:うん。もう敵意むき出しみたいな感じですね、うん。あんな訳のわからない東洋の女に、完全にジョンが洗脳されてるみたいなのありますよね。それはやっぱり、この間もイギリスの女性のジャーナリストがしゃべっていて「あ、なるほど」と思ったんだけど、「ワーズワーズのような素晴らしい詩人を産みだしたイギリスの詩人であるジョンレノンを、完全に東洋の訳のわからない思想家にしてしまった犯人はヨーコだ」みたいな見方をしていたんですよね。それで、そうか、と思ったんだけど、やっぱりどうしても西洋社会っていうのは、一神教というか、神が人間を神に合わせて作ったわけじゃないですか。そういう一神教の文化が底辺にあるわけですよね。それに対して日本は多神教ですから「花の命も水の命も人間の命も等しく繋がっている」っていう考え方?それがやがては「イマジン」のような歌を生み出すんだけど。だから「天国なんてないと思ってごらん。足の下には地獄もなく、ただ大地が広がっているだけ…」みたいな。あの歌詞だけだって、西洋人はカチンとくるわけですよ。

--ああ、あれがもうダメなんですね。

湯川:もう「ヨーコね」ってことになっちゃうわけ。 でも逆に、「私がジョンと一緒になってイマジンが生まれただけでも意味があった」ってヨーコさんは言うんですよ。我々から見ても「ほんとうにヨーコがジョンに与えた影響っていうのは素晴らしいものがあったんだな」って確認できるのも「イマジン」なんですよ。

--そうですよね。でもまだそういう風に見られちゃうことが多くて、湯川さんは日本でずっと活動してこられて、ヨーコさんのやってることを代わりに伝えられてるような部分がありますよね(笑)。

湯川:そうね、そうね。一生懸命代弁者になってますけどね。

--それで、じゃあ女性問題の活動とかも一緒にやってますよね。

湯川:まあ、一緒にっていうか、なんかの時に「ちょっと名前かして」とか。むこうも「じゃあ、これ手伝って」とか、そういう感じですね。

--もっとそういったことが正しくっていうか、みんなに伝わるようになればいいですよね。

湯川:難しいですね…。でも、彼女も傷つきやすい人だから。我々が思う以上に非常にデリケートなの。傷つきやすさを持ってる人だから。だから「こうじゃないか?」と思って接すると、カチンと跳ね返されたりするのよね…。

--そうなんですか。

湯川:うん。だから、そういう意味では難しい人かもね。いい人とかそういう感じじゃないですけどね。もっとそれよりもさらに一枚鎧を開けて、またもう一枚開けて、またもう一枚開けるところまでいくと「こんなにやわらかくてかわいかったんだ…」ってわかるけど、そこまでいくまでは、カチンと跳ね返されちゃいますからね。「かわいくなーい!」っていろいろ(笑)

--ガードがいろいろ堅いんでしょうね(笑)。

湯川:ええ。堅くせざるをえないでしょうけどね。

 

4. 「女性はモノが言える立場にあれ」

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--ヨーコさんの話が出ましたけど、湯川さんご自身も平和運動や女性問題に幅広く活躍なさっていますが…。

湯川:そうね…特に女性問題は、これから非常に大きくなってウエイトを占めてくるだろうと思うんです。 例えば今はエネルギー問題が起きてると思うんですよ。石油のような資源がだんだん枯渇してきていて、それを誰がどう手に入れるかっていうことは社会的、世界的な経済問題、環境問題なんですね。それから職業が足りなくなったりもしてる。そうすると、いかに自分たちがそのエネルギーなり職業なりを手に入れてコントロールするかっていうことが、すごく大事になってきて、結局、力の論理になっちゃうのね。この間のアメリカのブッシュみたいになっちゃって。あれだけ勢いがよかったアメリカの女性たちの姿がぜんぜん見えないですよね。日本もそうなんだけど、女性閣僚なんていうのが、どうであれ形として置いといてもらえるのは平和なうちですよ。これがもっと闘争的な社会状況になってきたら、どんどん「女は黙ってろ」「女と子供は引っ込んでろ」みたいな世界になっていきますからね。それを象徴しているのはアフガニスタンですよね。

--そうですね。女は外も出歩くなって……

湯川:そう。結局そういう風になっていってしまう。だから、いろいろやってきて一番感じることは、女性がいろんなところでもっと活動をして、モノが言える存在になっていって欲しいってすごく思うんですね。意思を決定する場に女性の姿があってほしいと。ほんとにそれは痛切に思いますね。そういう運動をずっとしているんです。せっかく男女共同参画なんてものが法律で決められたわけですから、もっと女の人は、自分が生きていくっていうことに対して意欲を持って欲しいですね。「自分は自分の力で食べていくんだ。それが人間の基本なんだ」っていうことよね。

--では、日本の場合はまだ女性の地位を変える余地は残されてはいるということですね。

湯川:ええ。もういっぱい残されてますし。だから、そういう中でいかに女性が生き生きと活発に発言し、動いてってくれるか。今は子供を育てるんだって本当にいろいろ大変ですから。そういう中でその女性が自意識を持ってくれるかどうかってものすごく大切なことだから。ずうっと男の人に「こうしてくださいよ」って言うよりも何よりも、まず女性にそういうものを感じてほしいですね。

--ではご自分では今後ももっとこう切り込んでいって、活動なさるということですね。

湯川:そうですね。まあある種のサポートっていうんでしょうかね。「リーダーシップONE FOR ONE」っていう女性の組織があって、これは次の世代のリーダーたちを女性達で育てるっていうシンポジウムをずいぶんやってるんです。それからあともう一つ「WIN WIN」っていうグループを作ったんです。これは女性が政治の場に超党派で出られるような支援活動をしてるの。選挙の時に「WIN WIN」で「この人がいい」っていう候補者を選んで、その候補者に出てもらうのね。女の人の場合はどうしても「知名度もない」「組織もない」「お金もない」っていう…もうないないづくしですから、女性の候補っていうのは。「WIN WIN」は今1万人会員がいますから、そういう人達に全部働きかけて選挙活動をしてもらうとか、具体的にはお金を出してもらうとか、女性候補者を支援してくっていう活動をしてます。うん。

--ご自分では立候補とかなさらないんですか?

湯川:いやいや。それはもう…全然その気はないですね。政治っていうのはやっぱり、できれば30代ぐらいからプロとして、やっていく世界だと思いますね。

 

5. エルビスつながり〜小泉首相との交流

湯川れい子5

--政治と言えば小泉首相と対談なさったりして仲がいいという風に伺ってるんですけど、最近小泉政権が大変なことになっていますけど(笑)…。(編註:インタビュー当時は田中真紀子前外相の更迭直後だった)

湯川:そうですね…。まあ、あれはやっぱり「人間は失敗を犯す」というサンプルみたいなものですよね。小泉さんはどっちかっていうと感性の人だから(笑)。感覚派人間だから、そういう意味では私も合うんだけども。だから正直なんだけど、自分が置かれてる場って見えにくくなるじゃないですか。そうすると小泉さんの周りにいる人たちは「真紀子はあともう一枚イエローカード切ったらもう終わりだぜ」みたいな雰囲気がね…もうずいぶん周りに根強くありましたから。そんな中で今回は抱えきれなかったっていうのもあるでしょうね。でも、今ちょっと政局もそれどころじゃないと。もっとちゃんと安定してなかったら、何も他のことに手をつけられない。あんな言った言わないのレベルで国会が空転することは、国際社会的にもみっともなくてやってられないっていうのも否応なくあったと思うんですよね。だからそれ以前にもっと手を打っていたらよかったんじゃないかと思いますけど。そこをまた何回も小泉さんがおっしゃてるように「だから各セクションに大臣っていうのを置いてるんだ」と。「それが総理大臣がいちいち出て行かなくちゃならない問題か!」っていうのはあるんですよね。

--内部の問題ですね。

湯川:そうですね。だからそこをやっぱり…私はそれが真紀子さんのイエローカードだと思うんだけど、結局その、権謀術数に長けるというか、深慮遠謀に長けるって言ったらいいのか、大きな組織を動かす、大木を突き倒すには、まず大木が気が付かないうちに根っこにメスを入れなきゃならないですよね。その大木が気が付かないうちにメスを入れることができなかったんだと思うんです。まず指の先から切ってちゃったみたいなね(笑)。

--目に付いたところから(笑)。

湯川:うん。そう。そしたら「痛い!痛い!」って大騒ぎになっちゃいますからね。

--ほんとはどうしたらよかったとお考えですか?

湯川:やっぱり、どうしようもなく時間がかかる問題だと思いますけど、もっと周りに味方を作っていくことだったんでしょうね。

--ところで小泉首相とはどういったお付き合いなんですか?

湯川:もう、エルビスですよ。(編註:エルビス・プレスリー・ファンクラブの顧問・小泉正也氏は小泉首相の実弟)

--やっぱりエルビスなんですか。昔から?

湯川:うん。もう20年ぐらい前からかな。原宿にエルビスの銅像を建てる時の除幕式なんかにも来てくださって。そこからですね。

--そうなんですか。

湯川:あとはコンサートでちょこちょこお目にかかったり。そういう程度ですね。

--でもなかなかお話しする機会はないんでしょうね。

湯川:そうですね。ゆっくり話したことはないですね。

 

6. 休みなく大忙し…注目はウー・ルーチンと、サッカーWC応援CDプロジェクト!

湯川れい子6

--では今度は日本の音楽の話なんですけど、普段は今の音楽は聴かれたりなさいますか?

湯川:う〜ん、まあ必要に応じて程度には聴いていますけど。

--最近いいなと思ったものってありますか?

湯川:そうですね。まあ、ありますね。「今、誰がいい」とかじゃなくて「ああ、この人はちょっと世の中に紹介してあげたいな」「ちょっと手助けしてあげたいな」とかそういう感じね。そういう人をレコード会社に繋いだり、デビューさせたりなんてことはけっこうしてますけど。

--コンサートとか普段行かれたりしますか。

湯川:コンサートはもう嫌ってほど行きますよ。外国から来た人も含めて、日本の中で活動してる新人からベテランまですごい数ありますからね、やっぱり。もう毎日行ってたらキリがないみたいな。

--最近行かれてよかったものとかあります?

湯川:そうですね…今年、稲垣潤一がちょうど活動20周年なんですね。で、この間、六本木のスイートベイジルで4夜日替わりライブをやりまして。これがなかなか良かったですね。それから今、パルコで玉置(浩二)さんがアコースティックライブやってますし。これも良かったし。

それから私が今年、ものすごく力入れて世の中に出していこうと思ってるのが、中国の呉汝俊(ウー・ルーチン)っていう人なんです。この人は京鼓、京劇の中で弾かれている鼓弓なんですけど、ちょっとエッジのある、すごく迫力のある鼓弓の名手なんです。なおかつ、本人もその京劇の女形なんですね。で、今年のたぶん、8月、9月、10月ぐらいにかけて、ウー・ルーチンが、いろんなところで露出してくると思いますけど、彼にちょっと力を入れたいなと。

--お披露目したいな、ということですね。ほかに注目のプロジェクトはありますか?

湯川:あとはね、これはうちの息子がやっていることなんだけど、あの子はサッカーの代理人を目指してるんですよ。

--そうなんですか。

湯川:それでね、ワールドカップで日韓共催のサッカーが盛り上がらない、日韓の若者の姿が見えないって言って、なんとか日本と韓国の若者で手を取り合って何か一緒にできないだろうかって言い出したんです。それで日本人のサポーター達が歌ってる「翼をください」っていう歌を、英語と韓国語でレコーディングしようとを思い立って。韓国にはものすごい才能のある若いミュージシャンがいるから、彼が韓国側をやるってことになって。日本側を息子がやることになったんです。それでいろんな人達の間をかけずり回ってたら、明日、長渕剛さんが200人韓国から青年を呼んで。

--ああ、ご自分で招待してライブなさるんですよね。

湯川:あれも、結局、息子がお手伝いすることになって。それで(2月)15日に韓国語と日本語を自由に話せる在日の青年達を全部通訳で借り出して、パーティーを手伝ってあげることになって。それで、ラモス(瑠偉)さんとか、それから武田(修宏)さんとか前園(真聖)さんとか、いろんなサッカーの方達もお手伝いしてくださることになったんですよ。けっこう具体的に動いてきたんです、そのプロジェクトが。

--息子さんがメインでやってらっしゃるんですね。

湯川:ええ。息子がプロデュースっていうかプロデューサーとして、仕掛け人としてやってるんですけど。まあ、否応なく私も手伝わされる形になって。

--それはじゃあ、今度の開催に向けて今後そのCDが発売されるんですね?

湯川:ええ、そうですね。

--その時に発売されるってことですか?

湯川:ええ、そういうことです。はい。

--韓国のミュージシャンは?

湯川:韓国のミュージシャンは、韓国でベスト10に入ってるような、アイドルっぽい女の子がいろいろ歌うそうですけど。

--日本では?

湯川:日本は、日本の方は…けっこう吉本(興業)さんが力を入れてくださって。あの…ナインティナインとか、いろんな人達が参加してもらうんですよ。

--まだ企画段階なんですね。

湯川:まだ企画段階。レコーディングは3月です。

--発売はいつごろですか?

湯川:5月ですね。

--このインタビューが掲載される頃にはもうできあがってるんですね。

湯川:そうですね。とにかく「翼をください」の日本語、英語、韓国語バージョンを1枚に入れた物が出ますから、ぜひみなさん買って下さい。その売り上げでサッカーボールを買ってアフガニスタンに届けるんですよ。アフガンの子供達がサッカーをできるように。でも、そのためには地雷を除去しなくちゃならない。けっこう大変なプロジェクトで。いろんな人達と、なんか雪だるま式にプロジェクトがあちこちに…大きくなっていって。息子も「2月中にアフガンに行く」とかって言ってますけど。そういうことでね、若い子達がお互いに手をとって、自分たちの力で動いていってくれるのを見るのはうれしいですよね。

--息子さんは元々サッカーの代理人になりたいっていうのがきっかけだったのに、そういったアフガン問題もからんだプロジェクトになったんですね。じゃあ湯川さんもお休みはあんまりなく、働いてらっしゃるんですね…。

湯川:そうね…。毎日「もう2時?」とか「え?もう3時?」とか、そんな感じでやってますけど。

 

7. 趣味の温泉もいつのまにか仕事に…!?

湯川れい子7

--ところでお休みの時というのはなにをなさってますか?お話を伺ってるとほとんど休みナシって感じですけど(笑)。

湯川:お休みないんですよ…これが。「どうしてそんなに忙しいの?」って言われても困るほど忙しいんですよ。

--お休みないとお体とか大変じゃないですか?

湯川:そうね…まあ自分でも何が忙しいんだろうって思うんだけど、関わってる団体だけで、もう20を越えちゃうのね。

--うわぁ…たいへんですよね。

湯川:うん。そういう団体関係のいろんな会議とか、いろんなものがあって。

--お仕事はほとんどご自宅でなさるんですか。

湯川:ええ。もう、書斎が多いですね。個人事務所もうちの中にありますし。

--素敵なおうちですよね。内装も素敵だし、お花がたくさんあって…。

湯川:まあ、ありがとうございます(笑)。たまたま誕生日だったものですから、この間。

--そうだったんですか。おめでとうございます。 お休みはなかなかとれないみたいですけど、ご趣味はやっぱり音楽ですか?

湯川:趣味ね…。趣味はまたこれが今仕事になっちゃってるんだけど。あの…温泉が好きなんです。去年まではね、世界の温泉を紹介するんだとか言って、いろいろ行ってたんですよ。アラスカから始めて今年も5月にはデンバーに行くんだけど…でも温泉好きが高じて、最近は2つぐらい日本の温泉の町おこしなんかもやってるんです。

--温泉を新しく作るんですか?

湯川:うん、そう。つまり、従来の温泉がつまらないと。

--具体的にはどういう温泉なんですか?

湯川:…例えばね…まず朝7時、8時に起こされたくないというのがあります。

--(笑)そうですね。

湯川:できれば、10時ぐらいまでゆっくり寝かせといてほしいし、チェックアウトは12時にしてほしい。それから温泉旅館の、もう冷えたような高い料理を食べるんじゃなくて、素泊まり1万円ぐらいにしてもらって、その町のおいしいものを食べたり、地酒を飲んだり…。町に出て、その町自体をもっと歩いたり、観光したり、楽しいところにしてほしいと。それで、そこで、その地元で採れる物を食べられるように、町おこしをした方がいいんじゃないかなと思って。

--へぇ…。

湯川:で、私たちは温泉に行って、町に出て食べたり飲んだりして帰ってくる。そこでまあ楽しくおしゃべりするなりして、また温泉に入って、ちょっと違った温泉に入って寝るとか。そういう、もっとこういう…なんて言ったらいいんでしょう…フレキシビリティのある温泉を作ってほしいの。今まではどんどん大きな旅館が小さな旅館を食い物にしていっちゃって、同じ敷地の中にカラオケから何から全部しこんで、みやげ物屋までその中に作って…。

--そうですよね…旅館内で完結しちゃって。

湯川:…町を歩いても、ぽつんとスナックが一つあるぐらいの町になって、町がどんどん寂れてしまって。産業も、町そのものが寂れてしまった。温泉もだいたい2万2千円から3千円ぐらい取られて。どこの山の中に行ってもお刺身とかが出てくるみたいなね。

--たしかにそうですよね(笑)。

湯川:うん。そういう世界で。まあ、品数が並べばいいっていう人もいるかもしれないけど、ちょっと違うんじゃないかなぁっていうのがあるのね。それで朝は7時半とか8時半にたたき起こされて、朝ご飯みんなで食べて10時には送り出されてって…。休めないじゃないですか?1泊したって。

--ほんとおっしゃる通りです(笑)。

湯川:だからもう、そういうパターンの旅を私もしたくないし、そうしたくないっていう人が私の周りにもいっぱいいるんですよ。レインボーブリッジとかの照明デザイナーをやってらっしゃる石井素子さんて方がいるのね。とても世界的な人なんだけど。素子さんも非常に温泉が好きなのね。それで1年に3回ぐらい時間をやりくりして、温泉に行く日をとってるんですよ、いつも。それで、彼女が最近「そういう旅じゃない旅があるんじゃないか?それで町おこしになるんじゃないか?」って言い出して、里おこし、町おこしを考えたんですよ。例えば、彼女の仕事っていうのは、飛騨の合掌造りの家々をライトアップして、月の光のように光が動くっていう照明をして非常に評判になったんですよ。それで今、飛騨の高山に観光客が押し寄せて入れないぐらいなんですって。

--へえ…。

湯川:そういう「美しいふる里作り」をやってるんですよ。だから「どうせ温泉に行くんだったら、温泉大好きっていうのを、町おこしにつながるようなシンポジウムやらない?」とかいうことになって。「いいね!いいね!一石二鳥ね!」なんて言って(笑)。「温泉旅行兼町おこしシンポ」の企画始まったんです。

--今はもう具体的に進んでいらっしゃるんですね。できあがった所とかあるんですか?

湯川:いや、今からですね。15日に熱海でやるんですよ。

--熱海ですか。

湯川:熱海はちょっと寂れちゃったんで、もっと本格的にやろうってことになって。もう町全体がもう寂れてしまって、花火だけで繋いでるんだけど、ちょっと違うんじゃないかと思うのね。だから、まず熱海。それから4月はね、兵庫県の湯村温泉。「夢千代日記」で有名なところですね。そんなシンポジウムもやってるんです。

--シンポジウムを開いて、町の人と一緒に再開発するんですね。

湯川:一緒に考えて。町の人の理解と協力がないとできませんから。そこから考えて、一緒に変えていこうねって。

--そういうこともなさってるんですね。じゃあ、趣味は…。

湯川:趣味は、仕事。

--また、仕事になっちゃう(笑)。

湯川:そうそう、仕事になっちゃったんですけど(笑)。

 

8. 男女の思考回路の違い…重要視するべきはジェンダーの問題

湯川れい子8

--ライフスタイルが仕事に全部が繋がってるんですね。すごいかっこいいですね。

湯川:いや、繋がっていくと思いますよ。女の人が仕事したら。それは、男の人と違うとこね。

--そうなんですか。それはどういうことですか。

湯川:うん。やっぱり、男の方っていうのは、どうしても自分の実績とか、それから研究とか…その数字?今までのデータとか、こつこつ積み上げたりっていうものの上に物事を考えていかれるから。昨日まではあれやってたのに「もうこっち面白くないからやめてこっち行く」っていうわけにいかないのよね。もう生理的に男性の思考回路自体が。

今私がしゃべってるインタビューを聞いても、お二人は言語を分析する左脳と同時に、実は右脳も動いてるんですよ。私の声の感じとか、それから声の中に隠されてるもの、フィーリングとかっていうものも一緒に分析してキャッチアップしてるのね。ところが、男の人は、分析脳だけで動いて、左脳だけで動くから、私が話してることにロジカルな矛盾がないかとか、そういうことで聞いてしまうのね。もうそれは、左脳と右脳との動きが男と女ではこんなに違うんだっていうことが、もうこの頃ちゃんと証明されてきましたから。

--そうですね。

湯川:ええ。そういう意味では、女の人は昨日まで「あなた命」とかってすがりついてても、その男が殿様のために切腹するとなったら「冗談じゃないわ。そんなことで子供殺せないわ」って言って、別の人に行けちゃう。それは、女の変節っていうよりも、私それで人類生き延びてきたと思ってるの。それがやっぱり女の人の正しい感覚だと思うのね。今の町作りもそうですけども、男の人はどうしても「いや、今までここに、これだけのプロジェクトを立ち上げるために、もう全部根回しをして、どこの建築会社に、それを来年の予算に組み込んでて。もしこのプロジェクトをだめにしちゃったら、そこの建設会社の200人の人間が、食いっぱぐれちゃう。だからこれは無駄でも、この公共投資は何がなんでも約束通りやらなかったら大変だ」って思うのが男の論理なの。 でも、女は「そりゃたしかにね、それが入れば、楽だったかもしれないし、ハンドバッグの5つも買おうと思ったけど、でも、今それにお金を使うよりも、同じお金を使うんだったら、こっちの方が楽しくない?こっちの方がみんなが一口ずつお餅が食べられるんじゃない?」みたいな。そういう感覚で動くじゃないですか。そうするとそれが時には物事、約束を裏切ったり、ひっくり返したりもするんだけど、それが新しい活力にもなり、新しい物を生み出す力になると思うのね。やっぱり、私はそれが女性の特性かなって、いろいろな所に参画してて思うんです。 そのかわり、その町おこしで、女の人の気持ちをまとめるのが大変なの。男よりぜんぜん(笑)。

--女性の善し悪しっていう感じですね。

湯川:そう。女が一つになるのは大変ですから。

--意見が違っちゃった場合ですよね…。

湯川:そう。違っちゃった場合。一つの会議のために自分のそういうものを捨てて、それに参画しますっていうのは女の人なかなかないから。「でも、私あの人嫌い」っていう言われ方をする人いるのね。

--感情で動いちゃうんですよね。

湯川:そうね。私は両方必要だと思うのよ。だから男女共同参画なんだと思うの。だから、男性の論理だけでやってくると、どうしても効率とか、経済性とかいう方に傾いてしまうから。

--じゃあ、そういった形で、自分の感性をメインにしてやってこられたのが、今の仕事に全部繋がってこられてるってことですね。

湯川:そうですね。 さっきも息子の女友達の話でね、なんか子宮内膜症みたいなのですごく困ってて、病院に行ったんですって。そしたらそれまでの主治医の先生じゃなくて、いきなりインターンみたいな代理の先生になって何の予告もなくて。いきなりこう内診のカーテンをバッて開けたら違う男の人が出てきて死ぬほどびっくりしたんですって。で、ものすごい恥ずかしい思いをして「もう絶対いや」って言って泣いてたって言うのね。それで息子が「そんなもんなの?」って言うから「そりゃそうだよ」って。 今までそういう…どうしても男性の産婦人科、男性のお医者さんの目から見た、診療のあり方、出産のあり方、治療のあり方で物事を考えてきたでしょう。私たちの時代は「そんなこと言ったって…そういうものなんだ」っていうなかでやってきたけど、ほんとはそうじゃないんだよ、って。息子にも言ったんですよ、「それは差別ではなくて、区別であって、非常に大事な区別の部分の差別が出てきたんだから、だからもっともっと女のお医者さんに増えてほしいし。女のお医者さんに増えてもらうためにはどうしたらいいっかっていったら、けっこう根は深いのよ」みたいな話をして。「どこかいいお医者さん知ってる?」っていうから、「私のお友達が初めて女性専科の病院を作ったから、やっと、そういう病院ができたからそこに紹介してあげるよ。行ってごらんなさい」って言ったんですよ。「そうなんだー」とか言ってたけど。 そういうもんだと思うのね、私。よくジェンダーっていう言葉を使いますけどね。性差別っていうか、性差っていうのはね、差別ではなくて、性差っていうのはあるんだって。それをちゃんと認識できる世の中っていうのは、一番、女性も男性も幸せになれるんじゃないかって思うんだけど。

--そういったことはご自分でやってこられた中で気づかれたんですね。

湯川:どんな仕事をしていてもそれは感じることじゃない?

--それはたしかにそうですね。

湯川:そこで諦めちゃうか、それとも「一人では何もできないけれど、みんなでやれば何かできるんじゃないか?」と考えるか…。分岐点じゃない?そうすると「何かできるんじゃないか?」って考えると、私は、それは新しい仕事にも繋がると思うのね。9. メディアへの注文…自信をもって音楽を届けよう

--今後また新しくなさろうと思ってることはありますか?

湯川:いや…今は抱えてるので精一杯。これ以上広げないようにしたいと思うんだけど。 あと、私ね、東京と大阪と名古屋と福岡に専門学校があって、そこの名誉校長をやってるんですけど。スクールオブミュージックっていって、いくつかありましてね。生徒さん1万人近いんじゃないかな。音楽のコースだけでもね。そうすると、そういう方達のマーケットもこれからどんどん提供していかなきゃいけないわけじゃないですか。若い人たちに。「卒業しました」「仕事場がありません」っていうわけにいかないでしょう。そうするとやっぱり、常にね、年取ってもそういう現場とのつながりというのは、大切にもっていかなきゃいけないし。毎日そういう現場とつながって仕事してるってことが大事だと思うのね。どうしても偉くなっちゃうと役職ばっかりになっちゃうんだけど、そうじゃなくて、現場で若いアーティスト達と触れてることっていうのはとっても大切だと思いますね。

--そういった学生さん達のためにも、そういった活動を続けていく必要があるんですね。

湯川:そう。だからたぶん、70になっても80になっても、武道館に行ったりしてるんじゃないかと思う。

--素敵ですね。じゃあ今後広めていきたいことはありますか?さきほどの…

湯川:そうね。その中国のウー・ルーチンさんも今年はやるんだけれど、皆さんの耳に入るところでは何だろ…Something ELseが今度、プロの作詞家の作品を集めて歌う企画があって、もう出る頃じゃないかな…。Something ELseとかなり素敵な曲を一緒に作ることができたんですよ。

--作詞なさったんですか?

湯川:そう。それからあとね、昨日聞いて「へえー」って喜んだんだけど、奥田民生さんプロデュースで、Puffyが「ハリケーン」をリメイクしたんですって。私が昔、シャネルズに書いた歌なんだけど、それがけっこういいんだって。私まだ見てないの、何も。 あとは、さっき言ったような温泉のシンポジウムとか。それから、国外に出るのも3つぐらい入ってきちゃってるかな。 そんなこともあるし、この3月4月は、その専門学校の卒業式と入学式が立て続けに続くとか。その他に環境庁…環境省ね、もうね。環境省とか、国民休暇村とか、(財団法人)水と緑の惑星保全機構とか環境事業団とか、いくつかそういう委員会に属してるものですから。そういう仕事もいろいろと入ってきてて。

--どういうタイムスケジュールでこなされているんですか。

湯川:だいたい、朝10時から、そういう会議とかがあるのね。日本著作権協会の理事をやったり、日本作詞家協会もあるし。で、午後は、テレビとかラジオとかをやって。夕方からは会合とかが入ってきて。その隙間に原稿書かなきゃなんないとか…あるから。

--ほんとにお忙しいですね。

湯川:うーん、まあいろいろ積み重なって、目に見えない忙しさになるんですね。

--じゃあ、最後に、音楽業界のいろいろな理事とかなさっていて、もっとこうしたらいいとか、こうしてほしいとか、おっしゃりたいことがありましたら。

湯川:そうね…。なんとなく音楽業界を見てると「売れるものを作るためにはどうしたらいいか」から出発して物を作ってしまうから、どんどん歌の中身がなくなっていったり、音に暖かみがなくなっていったりするという風に思われているんだけども、でも、私はやっぱり選ぶのは大衆だと思うんですよ。私は大衆っていうのはそんなにバカじゃないと思うの。みんなちゃんと自分で、ほんとに自分が必要として聴きたいものを聴いてると思うの。それで、なかなかその人達の耳にいいものが耳に届かないと、選んでもらえないっていうことがあるから、もっともっと、耳に届ける方が自信を持って届けてほしいって思いますよ。売り込まれたからそれをかけるとか、今これ売れそうだから提供するんじゃなくてね。ファッションもそう。ファッションも音楽も提供する側がそういう商業主義に取り込まれたものだけじゃなくて、自分の目や自分の耳で聴いて「あ、いいな」と思うものをもっと提供できる、自信を持ってほしいと思うんです。作り手よりも、むしろ届け手が。

--提供する側が自信を持つべきだと。

湯川:うん。そう。今は作り手よりも届け手の方がそういう自信を失くして、自分の感性っていうものを失くして「これは売れる物だから」ってパッケージで選んだり、売り込まれることで売ってしまおうとするのね。それはやっぱり私は感性の欠落だと思うんですよ。作り手は歌いたいもの、作りたいものを歌っている人達はたくさんいるし、そういう作品もたくさんありますから…。だから、むしろ、作り手に注文するよりも、選び手、送り手?中間にいる人達に、もっと頑張ってほしいなっていうのはある…。これはラジオ局とかテレビ局…メディアへの注文ですね。

--送り手が自信を持って届けられるような作品が、ちゃんと届くような状態じゃないってことですよね。

湯川:うん、そうね。だから、漫画でも活字でもなんでもそう。ちょっとえげつない刺激の強い物さえ載せてればそこそこ売れるからっていう感じで、いろいろなメディア、活字や物、商品が動いてる。でも、私はそれは、非常に自信を喪失した、人間として情けない姿だと思うのね。

--音楽業界というよりは、社会全体の流れの問題という感じですね。

湯川:う…ん。

--それで、先ほどの感性が育たないとそういう世の中にならないっていう話に繋がるんですね。

湯川:うん。そうですね。

--やっぱりすべてが繋がってるんですね。

湯川:うん。子供の感性教育みたいなものも、ま、教育っていうとおこがましいけど「子供の感性を育てるためにはどうしたらいいか」みたいなものも、けっこう私の講演の重要なテーマなんです。

--そういったことが全部影響してまたどんどん仕事が広がっていって、今後もやっていかれるんですね。

湯川:そう。だから年取ったら年取ったで、私も同じ老人の段階の世代の中に入っていくわけですから、その老人問題でも、また、けっこういろいろ見えてくるものもあると思うし。

--でもまだとてもお若いじゃないですか。

湯川:いえいえ。もう60は過ぎてますからね。そういう世界で一緒にまた仕事が…否応なく出てくるんじゃないかと思います。

--でも、湯川さんがご活躍なさってることで同世代の方も、すごい励みになっているでしょうね。

湯川:もう、私の周りはみんな元気よ。ほんと、すごいですよ、女性は。うん。ハッパかけられてますよ、しょっちゅう。

--じゃあこれからもさらなる御活躍を期待しております。 今日はどうもありがとうございました。

湯川:いいえ。みなさんも頑張ってくださいね。(インタビュアー:Musicman編集部 田辺まがね/副田純子)

自らの興味の赴くままに自然体で積極的な活動を続け、それらがすべて仕事につながっていくという湯川氏の仕事ぶりは、働く女性だけでなく、音楽を志しながら迷っている人達への激励ともとることができます。また、メディアが自信を持って音楽を伝えるべきとの言葉は、音楽業界に携わる者に向けられた厳しいメッセージとして受け止めるべきだと考えさせられるお話しでした。

さて、幅広い人脈をお持ちの湯川さんにご紹介いただいたのは、昨年ナスダックへの上場を果たした(株)アミューズ代表取締役会長の大里洋吉氏。 今でこそ知らない人はいない大里氏ですが……早熟だった少年時代のお話やナベプロ時代の逸話、アミューズの進むべき方向など、盛りだくさんのお話の詳細は、GW明けまで首を長くしてお待ち下さい。

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