第25回 大里洋吉 氏

インタビュー リレーインタビュー

大里洋吉 氏
大里洋吉 氏

株式会社アミューズ 代表取締役会長

湯川れい子氏にご紹介いただいたのは、昨年ついにナスダックへの上場を果たし、ますます成長を続ける(株)アミューズ代表取締役会長・大里洋吉氏です。渡辺プロで経験を積み、アミューズをたちあげ、サザンオールスターズとの運命的な出会いから念願だった映画製作を手がけ、次々に新しいエンターテインメントの形を創造していくアミューズと大里氏。 その原動力は、根っからの映画少年だった大里氏のエンターテインメントにかける情熱と、様々な人との出会いにありました。

[2002年3月8日/渋谷・株式会社アミューズにて]

プロフィール
大里洋吉(Yokichi OSATO)
株式会社アミューズ 代表取締役会長


1946年8月22日生まれ・青森県出身。
立教大学英米文学科卒業後、1969年、(株)渡辺プロダクション入社。 キャンディーズなどのマネージメントを手掛ける。
1977年同社退社後、渡米。帰国後、1978年(株)アミューズを設立、代表取締役社長就任。1981年代表取締役会長就任。
サザンオールスターズほか数々のアーティストのマネージメント、スター作りのプロフェッショナルとして、総合エンターテインメントプロダクション・アミューズグループを牽引している。
 


 

  1. 学校行かずに映画館へ〜おませな少年時代
  2. ブラスバンドに明け暮れた6年間
  3. 大学生活で性格も一変!? ESSで明るい社交家として目覚める
  4. 映画会社希望のはずが…勘違いで渡辺プロへ!?
  5. 楽しい「学校」だった…渡辺プロ時代
  6. キャンディーズの解散、原田真二との別れ、そしてサザンオールスターズとの出会い
  7. アミューズの日進月歩
  8. アナログとデジタルの融合…エンターテインメントの理想を追い求めて

 

1. 学校行かずに映画館へ〜おませな少年時代

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--まず、子供の頃のお話を伺いたいんですが、お生まれはどちらなんですか?

大里:青森駅から5分ぐらいの所です。今は「アスパム」(青森県観光物産館)という三角の大きなビルが海辺に建っているんですが、そこの…ほんと100mぐらいのところです。海岸から100m、駅も200mぐらいで、繁華街のど真ん中で育ったんです。 今はちょっと駅前通りもさび付いていますけど、昔は駅前通りが一番の繁華街で、その真ん中ぐらいのちょっと裏側です。そこで育ったんです。そういう環境だから映画館が近くにあって、小学生の頃から映画ばかり観ていました。半径100m以内に東映、東宝、大映と松竹があって、その他歩いて1分ぐらいの所に洋画館が5〜6軒はあったと思います。学校に行かないで映画ばかり観ていましたから(笑)。

--低学年の頃からですか?

大里:そうですね…小学校3〜4年の頃からですね。家には「学校に行く」って言って、学校には「熱が出て病欠します」って担当の先生に連絡して(笑)。それで3本立てとか4本立てをやっている2番館3番館のような安い映画館で朝から夕方3時ぐらいまで観て、家に「ただいま」って帰るんです。

--じゃあ、ほんとに映画少年だったと。

大里:もう完全な映画少年です。小学校の時からずっと「映画をやりたい」と思って育っていましたから。 昭和30年代というのは、もう世界的にも日本的にも映画の最隆盛期で、東映でも松竹でも東宝でも日活でも大映でも、毎週2本ずつ変わるんです。2本立てだったからぜんぶ観るのに忙しいんですよ(笑)。邦画も日活以外はほとんど観ました。日活はなんとなく不良の観る映画というイメージだったからあまり行きませんでしたけどね。

--(笑)

大里:洋画と日活以外の邦画大手5社の作品はタイトルも覚えていないし監督も覚えていないけど、ほとんど観ています。

--どうしてそんな映画好きの小学生になっちゃったんですか?

大里:いや、単に好きなんですよ。漫画もちっちゃい頃からよく読んでいました。小学校1年ぐらいから貸本屋で毎日10冊ぐらい借りてきて、夜寝る前に全部読んで寝るみたいな感じでした。漫画も買うと高いですよね。あのころ貸本って5冊で5円とか10円とかで、まとめて借りると安かったですから。

--そうすると勉強はいつするんですか。

大里:ぜんぜん勉強していないです。漫画と映画から始まって、それから小説に入っていったんです。

--その頃、同じような趣味の友達はいたんですか。

大里:いや、一人です。映画も一人で観に行ってました。昼間に行くとガラガラだし、僕は通路の正面向かって右側の通路側で足を通路に出して見る、って決めていました。そこで観ないと気持ち悪いんです。正面に向かってちょっと右側の通路側に足を出せるようにして、こうやって(ちょっとふんぞり返って)観れば邪魔にならないですし。こうやって観る癖がいまだにぬけないんですよ。不思議ですよねぇ。

--なんか試写室に通ってる映画評論家みたいですね(笑)

大里:そうですね(笑)。映画は、ストーリーが好きなんです。 小説を読むように、自分が体験できないようなことが、大人の世界も含めて、ぜんぶ映画の中にあるわけじゃないですか。しかも国内だけじゃなくて、洋画を観るとヨーロッパの海もエーゲ海も全部あるわけですよね。 すごく好きでした。あとは女優さんに惚れたりもしました。それから例えば『禁じられた遊び』とか、『太陽がいっぱい』を観ると、あらゆる音楽が映画から入ってきますよね。それが好きだったんです。

--僕もそうでした(笑)。でも小学生で内容を理解できたんですか?

大里:できました。ベルイマンの『処女の泉』(1960年/スウェーデン)は小学校5年で観ましたがすごく覚えています。今考えると『処女の泉』という映画には全然そういうニュアンスはないんですが、大人のその非常に秘めやかな「処女」っていう言葉にドキドキしてました。北欧の方の女の子を殺して強姦する、羊飼いの陰惨な話なんです。当時は小学生なんで隠れて見に行ってましたよ(笑)。

--それは隠れますよね(笑)

大里:昼間で一番お客さんがこない時間を選んで観に行ったら、お客さんが3〜4人しかいなかったのですごく覚えてるんです。ベルイマンという監督は後で知りました。

--おませですね。

大里:8人兄弟の一番下だから、ませてました。家も商売やってましたし、ちっちゃい時から大人にいじられていたし、無茶苦茶ませてましたよ。親とか姉さんとかにはわからない顔をするんですが、本当は大人の動きとかやってることとかを全部理解してました。 それはたぶん映画と漫画のおかげです。

--なるほど。

大里:そういう意味では、社会勉強になったと思います。

 

2. ブラスバンドに明け暮れた6年間

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--中学生のときも映画三昧ですか?

大里:映画音楽から入って、今度は音楽を自分でやりたくなったので中学校からはブラスバンド部に入りました。高校の時は、自分がアレンジした曲を指揮したり、行進曲とかじゃなくて、クラシックを全部ブラスバンドでやっていました。ブラスバンドも普通の学園祭でやるんじゃなくて、公演会というかちゃんと図書館の中にある800ぐらいの小屋をおさえてチケットを売ってクラシックの曲を3〜4曲やったりしていました。

--楽器じゃなくて指揮者だったんですか。

大里:中学の時は小太鼓でしたが、高校の時は指揮者でした。僕の中学校は非常に優秀なブラスバンド部で、全国大会に2回出ました。中学1年の時には朝日新聞主催の全国大会で、大阪フェスティバルホールに行きました。次の年は東京の隅田川横の台東区体育館で全国5位か4位になりました。そういうところでびっちり譜面とかを勉強して音楽をやっていたんですが、そのころビートルズが流行り始めたんです。だから、ブラスバンドをやりながら、その同じ太鼓のセットを持ってベンチャーズとかを友達と一緒になって、自宅で練習していました。

--アカデミックな少年ですね。

大里:アカデミックじゃないですよ。学校の勉強だけはしませんでしたから。

--青森には何歳までいらっしゃったんですか?

大里:18歳の高校3年までです。大学で東京に来ました。

--高校まではブラスバンドを続けられたんですよね?

大里:はい。クラブ活動を6年間やっていたのは唯一中高のブラスバンドくらいです。でも中学校の時は非常にアカデミックなブラスバンドの名門校だったのに、高校は進学校に入っちゃったので、ブラスバンドなんかには部費とか予算がつかなかったんです。ブラスバンドをやるには応援団の団員にならなきゃいけないみたいな、ものすごくアカデミックじゃない方向のブラスバンド部だったのでそれに反発して…。野球の応援はしょうがないから行くけど、その他は好きなことをやらせてもらおうと思って、僕のクラスの50人中30人をブラスバンド部に入れちゃいました(笑)。

--うわぁー(笑)

大里:部員のほとんどが僕のクラスで、ブラスバンドで全国大会を目指そうっていってクラシックをやり始めました。楽器をやったことがない人でも、頭がいいとすぐ譜面とか楽器をおぼえられるんですよ。それでブラスバンド部の中身をぜんぶ入れ替えちゃって、みんなでバイトをやって楽器も新しくして…みたいなことをやりましたね。

--その頃からリーダシップを発揮してたと……

大里:指揮とか…。まぁ、目立つのが好きなんですね。

--青森だとスキーとか盛んだと思いますけど、そういうのは興味なかったんですか?

大里:僕は典型的な文化部ですから(笑)。スキーも人並みにやりましたけど、運動は得意じゃないですね。いまだにゴルフなんか全然うまくならないです。 ブラスバンドのような派手なこともやってるけど、どっちかっていうとクラスじゃオタク系のガリ勉って言われてたんです。

--そうなんですか。

大里:映画を観てませちゃってるから、高校生の会話とかはくだらなく感じたりするんです。だからクラスでは仲のいい友達は2〜3人ぐらいしかいなくて。

--なんとなくわかります(笑)。じゃあ高校時代もずっと映画を見続けてたわけですよね?

大里:そうですね…。映画は大学に来て(上京して)からもっとひどくなりました。池袋シネマロサや飯田橋佳作座とかで名画を100円で観られたので、学校へ行かないで映画館にばっかり行ってたましたね(笑)。あとは国会図書館へ行って昔の映画観たりしていました。でもここ20年は本当に映画を観なくなりました。しかも自分が映画を撮る立場になってからはまったく観なくなりました。

--そうなんですか?

大里:趣味としては観なくなりました。

--撮る側にまわっちゃったわけですか。

大里:そうですね。でも、若い監督たちと話す機会があると、彼等があまり映画を観ていないので愕然とすることがありますよ。

--それは音楽でも同じですね。今時の若いプロデューサーとかも、そんなに音楽聴い てなかったりしますよ。

大里:そうですね。僕らは洋楽から聴き始めましたよね。ビートルズから始まってヨーロッパとかイギリスものとかアメリカものとかを全部聴きました。…でも最近のミュージシャンに会うと、それこそサザンオールスターズとか、日本のロックの中でロック少年になってるんです。それが不思議な気がします。

--邦楽を聴いて育った世代ですね。

大里:僕らの世代とかサザンオールスターズの世代までは、全部洋楽なんですよね。

--そうですね。「YMOが初めてでした」とか、そういう所から始まりますもんね。

大里:YMOがきた時なんか、僕らこの商売やってましたからね。

 

3. 大学生活で性格も一変!? ESSで明るい社交家として目覚める

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--上京して立教大学に入学されますよね。大学生活はやっぱり映画漬けですか。

大里:いやいや。クラブ活動ではESS(English Studying Society:英語研究部)に入って芝居をやっていました。女の子が200人もいるから楽しいんです。それまでの自分の性格が180度変わりました。太宰とか小説ばっかり読んで近眼で、社交的じゃなかった僕が東京へ出てきて文学部の英米文学科に入ったら、50人中45人が女で、男は5人だけなんです。女子大みたいでした。

--それは狙って行ったんじゃないですか(笑)

大里:ほかに立教よりも平均的にいい大学も受かったんですが、試験の時に見た女の子は上智と立教が圧倒的にかわいかったんです(笑)。

--そうだったんですか。それは試験会場でわかったんですか。狙ったんじゃなくて?(笑)

大里:ホントは、僕の本命は上智の英語学科だったんですが、これだけ落ちたんです。長男が早稲田で、次男が慶応なのでこの2つも受けさせられたんですが、やっぱり女の子の順位でいうと、立教っていうのはすごく頭にあったんです。

--じゃあ、大学で180度、人間が変わってしまったと。

大里:そうです。僕が2年の時に安保闘争がはじまって、みんなそれに巻き込まれていったんですが、僕は淡々とお芝居作ったり、ESSで英語劇作ったり…ということをやっていました。

--ははは(笑)

大里:自分がこんなにおしゃべりで性格が明るいということは、東京に来てから気づきました。でも最近田舎に帰ると、兄貴とか姉さんたちが声が大きくて陽気なんです。「やっぱりこれは大里の血なんだな」って思います。(笑)。高校生の時はちょっと屈折してて東北ってみんな陰気だと思っていたんですが、声が大きくて陽気なんですよね。

--なるほど。

大里:それこそ、太宰治が説きはじめた「人間は自らの命を感覚の豊かな時に死ぬべきだ」みたいな論理にハマっていたんですが、大学に来て、人生変わりました。

--よかったですね。

大里:いや、あの大学に入ってものすごく良かったです。

--よっぽど楽しかったんですね。

大里:クラブ活動にパーティに合宿に、本当に楽しかったです。

--聞いてるだけでうらやましくなります。

大里:最初はずっとジャズをやろうと思っていたから同好会じゃなくて学校のクラブの軽音楽部に入ったんです。僕なんかやっと坊主から髪の毛を伸ばし始めて、オリエンテーションで「どこに入ろうかな」って思っていたころです。ESSの女の子がかわいいって気づいたのは後なんです。軽音楽部ってスウィングジャズもあれば、フラダンスもウェスタンもあって、全部一括して軽音楽部ライトミュージックアソシエーションと言ってたんです。一応オーディションに合格してスウィングジャズの方のセクションに配属になったんですが、いきなり上下学ランなんです。しかも1年の時はクラブ活動の規則で坊主なんですよ。2年になるとズボンだけはグレーのズボンをはいていいけど、上は学ランなんです。3年から髪を伸ばしていいんですが、1年2年はだめなんです。立教大学ですよ?

--ジャズの雰囲気じゃないですよね。

大里:ジャズの雰囲気じゃないですよね?何をやるかっていったら、3年4年はみんなバイトでどこかのクラブでやったり、夏にビアガーデンで演奏するんです。僕はドラムだから、3年生のドラムを持って、ボーヤみたいなことをしなきゃならなくて、ドラムを運ぶんです。ローディーマネージャーみたいなもんですね。学ランで汗だくで詰め襟をはずしてもいけないんです。半年で嫌になりました(笑)。今でも覚えていますが、4年生をぶん殴っちゃって、それでやめたんです。

--納得いかないですよね。

大里:納得いかなかったですね。…なんでこれが東京の大学なんだって。

--ライトミュージックっていう名前からもはずれてますよね。

大里:体育会系だったんです。規律はすごく強かった。それでもっといいクラブないかなと思ったらESSがあったんです。僕のクラスはみんなESSだったから、僕も引きずられて入っちゃっただけなんですが(笑)。

 

4. 映画会社希望のはずが…勘違いで渡辺プロへ!?

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--渡辺プロにお入りになった経緯というのは。

大里:大学時代は楽しく過ごしていましたが、映画業界に行くという信念は全く変わっていませんでした。僕が卒業したのは昭和44年なんですが、東宝も大映も松竹も、僕の好きな映画会社は、新入社員を採らなかったんです。昭和38年が映画業界のピークですから、昭和44年はその前の景気が良かったときに採った人間であふれかえっていたんですね。前の年くらいから新入社員を採るのをやめていた年に当たっちゃって、いろんな人のコネを使って東宝に入ろうと思ったんですがダメだったんです。それでやけっぱちでクラブ活動を夏までやっていて、夏にそのクラブ活動の公演が終わって「そろそろ就職決めないとまずいな」と思って、学校の就職課に行ったんです。情報のいろいろ貼ってある掲示板がありますよね?

--ありますね。

大里:みんな試験も終わって、情報もはがれてて。さすがにもう8月なので、10枚ぐらいしか残っていないんです(笑)。その中に渡辺プロの募集があって、「映画製作」と入っていたんです。それまで渡辺プロって知らなかったので、「映画製作をするプロダクションだ。ヤッター!!」と思いました。まあ映画5社じゃないけれど、ここに潜り込めば映画に繋がるだろうと思ったんです。で、応募したら結構すごい人数で、1000人ぐらいが応募していました。それで10人が採用になって、その中に潜り込めたんです(笑)。

--すごいですね!というと、稲垣さん(稲垣博司氏:現(株)ワーナーミュージック・ ジャパン代表取締役会長)とは…?

大里:稲垣さんは先輩です。

--「Musicman’sリレー」でもね、稲垣さんの回で渡辺プロの話が出てくるんですよ。それから、この前、宮川泰さんのときにも出ましたけどね。皆さんとにかく「当時いた人達はみんなすごかった」 っておっしゃるんです。

大里:すごかったですよ。

--今の音楽業界は渡辺プロ出身者がとても多いですよね。

大里:同期の9人の仲間って、いまだにつるんで飲み歩いたりしています。「花の五期」というものすごいエリート集団と比較して、僕達「八期生」は「ぞうきん八期」とか「ずっこけ八期」とか言われていましたけどね。

--五期はどなただったんですか?

大里:五期は、今、渡辺プロ系の株式会社ザ・ワークスの社長の前原雅勝さんとか、ザ・タイガースを育てられた中井國二さんとか、レコード会社で小柳ルミ子さんを育てられた塩崎さんですとか、ほんとに頭のいい錚錚たる方々が五期にいらっしゃるんですよ。

--エリート集団。

大里:そうですね。それと比較して八期の僕らってほんとにずっこけ集団でした(笑)。

--八期のメンバーというのは?

大里:株式会社スペースシャワーネットワークの中井社長。それからTHE CONVOY SHOWなんかの演出をやったり、ドラマとか小説、童話も書いている大輪茂男さん。オスカー・プロモーションの森さんや株式会社メリーゴーランドの森本(精人)さんとかです。

--やっぱり錚錚たるメンバーじゃないですか。

大里:いやいや。みんなで六本木を歩くと芸能界の人達はみんなよけて歩きますよ(笑)。

--やっぱり強力ですね、渡辺プロは。

大里:それで、わりと団結力強いですからね。

--渡辺プロ時代に身につけたことは、今でも大きな影響をうけているんですか。

大里:ほとんどアミューズで応用しています。だから口の悪い先輩たちからは「お前は渡辺プロのノウハウを全部アミューズに持ち込んで商売やってる」って悪口を言われます。でも僕は、悪口だと思わないんです。教えられたことを忠実に守って、その応用編をやってるだけです。やっぱりあそこは、すごくいまだに仲良くて、OBが全部集まっていろんなことをやっていますよね。

--何期生って呼び合ってますもんね。

大里:そうですね。

 

5. 楽しい「学校」だった…渡辺プロ時代

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--渡辺プロでまず担当なさった仕事っていうのは?

大里:一番最初はグループサウンズ時代のワイルドワンズです。池田道彦さんという、今はアトリエ・ダンカンで根津甚八さんや木の実ナナさんを育てたり、ミュージカルを作ったりされている方の班に配属になったんです。池田班にはザ・タイガースとワイルドワンズと伊東ゆかりさんがいたんです。ザ・タイガースのマネージャーは先輩の中井さんがやっていて、ワイルドワンズは先輩の担当で、僕は最初そのアシスタントで配属になりました。それなのにこの先輩が5月には辞めてしまったんです!4月に入社したのに急に先輩がいなくなって、僕がいきなりチーフマネージャーになっちゃったんですよ。それでワイルドワンズで映画作ったり好き勝手なことやりました。

--あぁ…ワイルドワンズの映画ってありましたね。

大里:「ザ・ファイブ」という映画とアルバムとツアーをやりました。そのころ羽仁進先生がアンデスに引っ越されるのをたまたま何かの理由で僕が手伝いに行った時にボレックスという有名な手巻きカメラをお借りしたんです。「羽仁先生、これ持って行かれるんですか?」「いや、どうしようかな…」「お帰りになるまで貸してください」って言って。それで、大学時代に一緒に映画を撮っていた今は画家の友達の小林豊さん(大里氏の会長室に大作が飾られている)と2人で、ワイルドワンズのために台本書いて映画を作ったんです。ほんと今のうちの社員に見せたい位面白かったですね。ビートルズの「ヤァ!ヤァ!ヤァ!」みたいな映画です。16mmのフィルムは渡辺企画から拝借して、カメラマンは小林豊さんで、僕が演出兼プロデューサーをやりました。

--その映画は公開されたんですか?

大里:映画といっても16mmなのでワイルドワンズのコンサートツアーの、コンサートの真ん中で流していた21分の映画です。台詞もなくてもうギャグばっかりの「ヤァ!ヤァ!ヤァ!」みたいな音楽映画でした。その頃はプロモーションビデオというのがないじゃないですか。「ワイルドワンズのイメージアップのために、アルバムの販売促進用として映画を1本作りました。見てください。」って会社には説明して。

--ははははははは(笑)

大里:だから、渡辺プロ時代はすごい楽しかったです。

--いや、聞いてるだけで楽しいですよ。

大里:あんな楽しいところはないです。渡辺プロのOBが集まるといまだに、その思い出話だけで4〜5時間は持ちますね。今年も1月7日かな、京都のブライトンホテルに40人ぐらい集まって昔話をしました。

--ほんとに楽しかったんでしょうね。ワイルドワンズの次は誰を担当されたんですか。

大里:梓みちよさん。それからザ・ピーナッツ、ザ・タイガース解散後の岸部四郎さんとか、2日ほど沢田研二さんもやりました。あとはあいざき進也さんをやって、それでキャンディーズです。

--渡辺プロにはどのくらいいらっしゃんったんですか。

大里:9年と1ヶ月で辞めました。

--その後アメリカに行かれたんですよね?

大里:そうです。アメリカへ行く直前に原田真二君に出会ったのがアミューズを創るきっかけになったんです。ある人から「広島に天才的な男の子がいるんだけど」と言われたんですが「せっかく会社を辞めてこれからアメリカへ行こうとしてるのに」と思って丁重に断ったんです。そしたら「ちょっと事務所に来てくれませんか」って言われて行ってみたら、そこに18歳の原田真二君がいたんです。それで原田君が「アメリカ行きたい」って言いだして「じゃあ、大里さんに連れて行ってもらえ」ってことになったわけです。

--そんな簡単に…(笑)

大里:それから1ヶ月ほど、2人でラスベガス、ロス、ニューヨークをまわったんです。

--大里さんのそもそもの目的は何だったんですか?

大里:僕は元々ブロードウェイのプロデューサーになるか、映画プロデューサーになろうと思っていたんですが、その頃はそれよりミュージカルに燃えてたんです(笑)。「9年渡辺プロで働いたんだから」と、1年間だけまず僕がアメリカに先に行くと女房と契約したんです。ニューヨークでブロードウェイのプロデューサーになるにはもうギリギリだけど、まず英語を勉強して、家族を呼び寄せられるまで1年はかかると思ったので、それでその下見をするために行ったんです。でも、一緒に旅行したりするうちに、情がわいてきたし、日本に帰ってきて原田君の為にアミューズを創ったんですよ。

--アミューズの第一号アーティストってことですね。

大里:本当はキャンディーズとかあいざき進也さんのバッグバンドをやっていたホーンスペクトラムの3人がアミューズの第一号なんですが、レコードは出してなかったので…ほとんど原田君が1号みたいな感じなんです。

 

6. キャンディーズの解散、原田真二との別れ、そしてサザンオールスターズとの出会い

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--アミューズ第一号がサザンオールスターズなんだと思ってました。

大里:違うんです。原田君がレコードデビューしてドーンと売れた時に、キャンディーズが解散宣言しちゃったんです。それで渡辺晋社長から「今から半年、キャンディーズの専属プロデューサーとして契約してやろう」って言われて、僕が担当したんです。ところが、そうやってキャンディーズにずっとついていて原田君の仕事はほかのスタッフに任せきりだったんです。それで(’78年)4月4日の後楽園球場のさよならコンサートの演出も終わって、僕が原田君のために創ったアミューズに戻ってみたら、彼はしっかり外部の人に「アミューズにいたらキャンディーズみたいなアイドルタレントになっちゃうぞ」と洗脳されてたんです。

--周りにいろいろ吹き込まれちゃったんですね。

大里:もう売れちゃったから自分はロックでいきたくて、アイドルは嫌なんです。原田君はテレビでデビューしているからアイドルの仕事もさせられていたんですよ。…それでキャンディーズの「さよなら公演」が終わって戻ってきたら原田真二君が「アミューズを辞めたい」って言いだしたんです。

 原田君に辞められてタレントがいないプロダクションだったんですよ、うち(笑)。それで「誰かいないかなぁ」って思ってたらサザンオールスターズに出会ったんです。原田君が辞めてから2週間後だから運ですね。それはサザンオールスターズもよく知っています。

--出会うべくして出会ったんですね。

大里:運ですね。原田君は、初アルバムがいきなり1位で、ファンクラブの会員も一気に6万人いたんですよ。 原田君がいたらサザンオールスターズをやる余裕はなかったですから。

--いよいよサザンオールスターズとの出会いになるんですね。

大里:そのちょうどうちにタレントがいない時期に、ビクターのディレクターの高垣さん(健氏:現ビクターエンターテインメント(株)取締役スピードスターレコード本部長)が、「女呼んでブギ」1曲を入れたカセットを持ってアミューズに尋ねてきたんですよ。「女呼んでブギ」は1枚目のアルバムに入ってる曲で、ビクターがシングルにしようとした曲です。それを聞いて、「これは色モノだな」思ったんですけどね(笑)。ヤマハのオーディションでビクターがすでに獲得していて「見てくれませんか」って話になって青山のビクターのスタジオに見に行ったんです。

 僕はその当時、ヒゲをはやして髪の毛が長くて、ロックの大里って言われてて…桑田は「すごいヤクザっぽい、見るからに業界っぽい人が、スタジオにコツコツと入ってくる」と思ったらしいですよ(笑)。サザンオールスターズはサークルの後輩たちが楽器をセッティングしているような状態で、桑田はジーパンに白のTシャツでした。「ほかに何ができるの?」って言ったら3曲目に「勝手にシンドバッド」を歌ってくれたんです。「この曲だったらいいな」って思ったんです。「女呼んでブギ」って明らかに色モノだけど、「勝手にシンドバッド」はメロディーがものすごくいいし、桑田の歌っている姿がジョー・コッカーにそっくりだったんです。「桑田みたいな顔をテレビに出したらおもしろいだろうな」って思ったわけです。

--ビクターに入る入らないの経緯は、高垣さんから少し伺ったんですよ (「Musicman’s リレー」第11回参照)。

大里:でも高垣さんが持ってきたテープに「勝手にシンドバッド」はなかったんですよ。あのスタジオで「勝手にシンドバッド」を見た時の衝撃はすごかったです。それでアミューズでやることに決まって、今度はビクターで会議です。当時の制作本部長は東元(晃)さんでした。これはよく覚えてますが、キディランドの向かい側のビクターの会議室で、「絶対に『女呼んでブギ』でデビューさせちゃいけない」って大激論になったんです。東元さんは立教の先輩なんですが「『勝手にシンドバッド』以外ぜったいダメだ!」って主張して、結局それで「勝手にシンドバッド」になったんです。

--でも、すごい出会いですよね。そのタイミングで。

大里:それは自分でも思いました。アメリカに行くつもりだった所に原田君が飛び込んできて、一緒にアメリカに行って、帰ってきてからアミューズを1年だけのつもりでやったんです。ところが今度はキャンディーズをやっている間に原田君が辞めてしまった。1年経って、社員を入れてしまってるので、社員がすでに5人ぐらいいる歴とした会社なんです。そうなったら無責任に「アメリカに行くからやめる」なんて言えないですよ。タレントはいなくなった、家賃も払えない、社員に対しては責任がある、どうしようかなぁ………と、ここでサザンオールスターズと出会うんですよねぇ。不思議なものです。

--その時も、まさかサザンオールスターズがここまでの存在になるとは思っていないですよね。

大里:そうですね。基本的には何も変わってないですけど、ここまでになるとは、やっぱり思えなかったです。

--そうですよね。そこまで見据えられたら何の苦労もしないですよね。

大里:僕は一生懸命渡辺プロに近づけようとしてやってきただけです。

 

7. アミューズの日進月歩

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--渡辺プロもすごかったけど、今のアミューズだってすごいですよね。

大里:いや…。奥深さとスケールはおよびもしません。でも、渡辺プロ時代のことは本当に思い出すと楽しいですね。あの(キャンディーズの)後楽園球場の演出をしたんですが、あんなにおもしろいことはなかったです。野球場でコンサートをやったのが初めてでしたからね。本舞台があって、デベソ(ステージ中央の飛び出してる部分)を作って、そこにキャンディーズが乗ると、乗ったまま横に動くエスカレーターのように動くんです。今だったら電動でやるんだけど、みんなでヒモを引っ張ってるんですよ、300人で(笑)。300人の裏方に、僕はキューを出してるわけですよね。最後の仕掛け花火まで全部僕のキューで動くので、もう最高でした。もう、この業界やめてもいいと思いましたよ。

--それ初めてですか?

大里:初めてです。誰もやったことがなかったですし、後楽園球場を音楽で使うのも初めてでした。しかも屋根がないので、「雨降ったらどうすんだ?」って話になっていました。あの日は、神宮球場まで雨が降っていたんですが、後楽園には雨が来なかったんです。奇跡ですよね。

--外タレではありましたよね。

大里:いや、グランド・ファンク・レイルロードがやったのは、その後なんじゃないかなぁ?

--そうだったんですか。

大里:その後、西城秀樹さんとかピンクレディーがやりましたけど、キャンディーズが初めてでした。なにしろ紙テープを片づけるトラックだけで250台にもなりました。

--うわあ…。ブロードウェイどころじゃない規模だったわけですよね。

大里:5万5千人びっちり入りましたからね。

--すごいですね。

大里:5万5千しかチケットがないのに、現金書留が10万人分集まっちゃって、それを郵便局に行って返金するのが大変でした(笑)。

--先にお金を振り込むシステムだったんですか?

大里:そうです。ちょっとやり方を失敗しました。渋谷郵便局から青い袋で現金書留を郵便局員が持ってきて、1枚ずつハンコを押して、領収書を渡さなきゃいけないので大変でした。

--私書箱にしておけばよかったのに、って感じですね。総額いくら集まったんですか?

大里:全部1000円札で数億円です。見たこともないですよね?

--数億のキャッシュってものをまだ見たことないんで、ちょっとわかんないですけど……。

大里:1000円札で見たのって僕ぐらいでしょうね。

--ところで、現在アミューズはナスダックに上場なさって、ピークはこれからじゃないですか。

大里:なんとかそうありたいです。

--アミューズより大きい音楽制作会社って言ったら…

大里:それはいっぱいありますよ。

--タレントさんやアーティストさんが増えてるのは安定性を考えられてるからですか。

大里:安定性というのは、上場するときに覚えた言葉です(笑)。ポリシーは「来るもの拒まず、去るもの追わず」で、自由に出入り可です。喜多郎がアメリカにマネージメントを移したいということがありましたけど、それもうちの社員がついてアメリカに行っていますから、あまりうちの会社を辞めたアーティストはいないです。聞かないでしょ?

--はい。聞かないですね。渡辺プロで培った自由な雰囲気っていうのが、やっぱりあるんでしょうかね。

大里:僕とサザンオールスターズのメンバーとの関係なんかはぜんぜん変わらないです。

--会社をここまで大きくすることができて、ビジネス的にもここまで急成長を遂げられたっていうのは…。

大里:急成長じゃないですよ。20年かかっていますから(笑)。

--いや、でも20年経ってもぜんぜん成長しない会社いっぱいありますからね(笑)

大里:誰かが誰かを呼んでくるとか、例えばアーティストが増えたとか、自然に自然に増えてきた結果なんです。

--自然に普通にやってきただけなんですか?

大里:何もしなかったような気がしますけどね…。なんか運がいいんです。うちの本当の経営者は山本(久氏:代表取締役社長)さんで、僕は金を使う係なので(笑)。

--そこが会長っていう名前の素晴らしいところですかね。本多宗一郎と藤沢武夫の関係に近いと。

大里:山本さんが経営者で、僕がモノを作らせる方です。言い換えると山本さんが稼ぐ方で、僕は使う方。それは音楽業界ではものすごく有名らしいんですが、本当なんです。

--完全にお互いの役割を分担してその分野に口を出さないようになさってるんですね。

大里:そうですね。原田真二君が辞めてサザンオールスターズが来たころ、事務所が代官山にあって、下のフロアーにヴィエントソングスという出版会社を創った山本さんが入ってきたんです。それで僕、5階から4階に行って「会社を一緒にしようよ」って誘って、アミューズを株式会社にして、専務になってもらったわけです。自分では社長を1年か2年しかやってなくて、すぐに山本さんになってもらって、僕は会長になったんです。会長になってもう20何年ですよ。

--それもいい出会いだったんですね。

大里:いい出会いですね。TBSの青柳さんという方が紹介してくれたんです。「同い年でおもしろい奴がいるから」ってお互いを紹介してくれたんです。

 上場も、実は1年ぐらい前に「上場やってみようか?どんなメリット、デメリットがあるのかな?」って考えている時に証券会社の人に「自然の流れですよ」と言われて「それもそうだよね」と思ったんです。もっともっとガラス張りになりたいと思っていた会社だし、それで次の時代にステップアップできたら、それは悪いことじゃないと思ったんです。

--タイミング的にもいい感じですよね。

大里:アーティストに手紙を送っても「いいんじゃない」みたいな感じで誰も文句言わなかったんです。

--上場後初めての株主総会では、総会後に株主懇親会とかやるわけですよね。

大里:やりますよ。

--これまでの上場企業にはないような面白い企画ですよね。

大里:何か、他がやっていないことをやりたいんです。例えばウォルトディズニーの株主総会はファミリーで来て遊園地を開放したり、みんなでパーティーをやったりするらしいんです。本来の株主総会ってそうあるべきだと思うけれど、日本はそこまで開けていなくて、個人株主の人数が少ないんですよね。だからもっとアミューズシンパが増えれば…と思います。サザンオールスターズのファンクラブにもう10何年入ってて、アミューズが大好きで、株を公開したから、夫婦でお金をためて20何万で株を買ってくれた方とかもいるんです。そういう株主の方、僕は大歓迎だと思うんです。

--なるほど。そういうファンは大切ですよね。

大里:そうすると、サザンオールスターズの後輩でポルノグラフィティが出てくると、応援してくれるんです。それはありがたいことです。三宅裕司とか岸谷五朗とか桑田とか福山とか、ああいうファミリーっぽい匂いを感じとってくれるファンクラブの会員の方とか株主の方がいるんですね。

--アーティストも株主なんですね。

大里:そうです。

--アミューズが社員募集すると、それはそれはたくさん応募があるそうですね。

大里:昨年は3万5千人の応募があって国際フォーラムで2回にわけて説明会をやりました。

--すごいですね(笑)

大里:そこで僕や社長がステージに立って、生の質問を受けて答弁するんです。それで参加した学生達がレポートを書くんです。それで書類選考を経て面接になります。今年は当初は武道館を押さえていたんです。

--はははは(笑)すごい…。

大里:でも、やっぱりやめたんです。上場したら逆にそういうことじゃないなと考え方が変わりまして、急遽キャンセルしました。

--実際3万5千人から何人採用されるんですか。

大里:今年は6人です。もちろん中途採用することもあります。 でも、この会社を創ってから、20数年ずっと新卒を採り続けているんです。

--それは会社が年々成長してる証ですよね。

大里:その中からこぼれ落ちて、同期で2人とか1人とかになっていますけどね。僕が30歳の時の20歳とのギャップと、今55歳になっての20歳とのギャップって大きいじゃ ないですか?そこをみんなに埋めていってほしいですね。そういうわけで、だいたいの世代は社内にいます。

--それは大事なことかもしれませんね。

大里:それはやっぱり渡辺プロで学んだことです。

 

8. アナログとデジタルの融合…エンターテインメントの理想を追い求めて

大里洋吉9

--では最後に、今後の夢というか、展望をお聞かせ下さい。

大里:そうですね…ずっと音楽をやってきましたけれど、映画でも例えば『シュリ』とか、海外の映画をやってきて、おかげさまで「アミューズピクチャーズ」の知名度が非常に高くなってきたと思います。ブロードバンドの時代になってきて、やっぱり、音楽と映像とはますます密接になってきますので、そういうことをもっとどんどんやるべきだと思っています。今までもプロモーションビデオがありましたが、ああいうものか、もっと進化したものかはわからないですが「映像と音」もしくは「映像と音とプラスアルファ」が合わさったもので、エンターテインメントにまた一つ大きな流れが出てくると思うんです。そういう流れに対応できるだけの映像技術をアミューズの中に取り込んでいかなきゃいけないと思っています。

 それは劇映画にも繋がる話で、映像分野のクリエーターと、ミュージシャンやプロデューサーをいろいろコラボレーションさせて何か作っていくっていうことをやっていきたいです。つまり僕が小学生のころから虜になっている古い映画の影響力と、今度は全く別の影響力を持つメディア、例えばインターネットなどです。全くやり方は違っていますが、要は35mmのフィルムがデジタルの信号になっているというだけで、おおもとは実は変わらないんです。

--そうですね。

大里:そういうメディアに対応していくだけの進化と進歩がアミューズにはなくちゃいけないと思います。それを圧倒的にやりきれた時には、少なくとも最低アジアは完璧な共通マーケットになっていくだろうと思います。あとは欧米諸国のものすごく進んだエンターテインメントに、どこまで我々が肉迫して、一矢報いることができるかということと、逆に、やっぱりいつまでも生のエンターテインメントの原点を忘れちゃいけないと思うんです。例えば三宅裕司がやっているSET(劇団スーパーエキセントリックシアター)とか、岸谷五朗&寺脇康文の「地球ゴージャス」とか、伊東四郎さんと三宅(裕司)がやっているコントライブ、それにサザンオールスターズや福山雅治のコンサートとか、そういう生の魅力がアナログの原点だと思います。

 音楽でもアートでも、表現者が歌やギターや芝居という形で表現する。お客さんがそこにいて、生でそれを見る。汗をかいている姿もぜったい同じものじゃないし、コピーじゃない。毎日違うんです。コンサートの曲目は一緒でも、歌い方もノリで違うし、お客さんの反応も違えば、トークの内容も変わるんです。この生でアナログで本当の、平安時代や江戸時代から続いているエンターテインメントの原点の仕事と、今言ったデジタルの仕事の両方をうまくバランスを取りながらやっていく。アミューズの原点はそこです。それがうまく融合したものが、陽の目を見るときこそ、アミューズが本当に僕がやりたかった会社になっていくのかもしれないと思います。

--それが理想の形なんですね。プライベートタイムはなさそうですけど、なにをなさってますか。

大里:家で本を読んだり、テレビを見たりする位です。あとはたまに社員を呼んで麻雀をやったり…あとは女房と月に2回行くゴルフぐらいです。あまりゴルフはうまくないので、コンペとかには出ないです。

--健全ですね。じゃあ、基本的には少年時代と変わらないんですね。

大里:そうですね。そういえば、福岡に映画館がたくさん入ってるホテルがあるんですよ。

--キャナルシティですか。

大里:そう、キャナルシティです。福岡では、僕は必ずキャナルシティの中のホテルに泊まるんです。それで例えば、仕事の次の日がオフで、その後また長崎とかで仕事があったりすると、1日そのホテルにいるんです。ホテルの部屋には全部の映画館のスケジュール表があるんです。それでホテルのすぐ横には劇団四季の芝居小屋があって、ライブハウスもあるんです。この映画見て、そのあとこの映画見てって、スケジュールを全部考えるんです。つまんない場合は15分で出てきてこれに間に合うとか…、それで一人でラーメン食べようとか…、ドキドキするんですよ。僕、昔から映画はぜったい一人で観に行ってましたし。

--青森の商店街でやってたことができるっていう…。

大里:そうですね。一人でラーメンを食べて、サンドウィッチをほおばりながら映画を観るんです。映画館の中で、牛乳を飲みながらサンドウィッチとかを食べるのは大好きですね。

--ほんとにお好きなんですねぇ。

大里:そうですね。それで映画を続けて10本観たりするんですよ。僕はわがままで気がどんどん変わるので、映画は本当に一人で行きます。

--それで、例の右側の席から左に足を伸ばして見る。

大里:そうです。それが唯一の僕のプライベートで、好きなことです。だけど、それがどんどんできなくなっていますね。

--この先も大里さんのプロデュースで映画を作る予定はあるんですか?

大里:いっぱいあります。でも秘密です(笑)。映画製作のプロデューサーや映像を作れる優秀なクリエーターをこれからガンガン集めたいと思っています。これは世界に発信できるっていうようなものを絶対作ります。

--スケールの大きそうな話ですね。

大里:いや、ほんとに作りますよ。全世界に仕掛けるつもりです。

--楽しみです。

大里:期待しててください。

--発表されるのを首を長くして待ってますよ。じゃあ本日は長い時間、どうもありがとうございました。(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)

少年時代からなんら変わりのない大里氏の好奇心と情熱、そしてさまざまな人々との運命的な出会いが、アミューズ成長の原動力になっていることを改めて知らされるお話しでした。20年以上もトップの座にありながら、「新しい企画はたくさんあります。僕はやりますよ。」と微笑む大里氏の姿に、氏の自信と今後のアミューズのさらなる発展を見る思いがしました。

 さて、大里氏の幅広いご人脈のなかからご紹介いただいたのは、渡辺プロ時代の同期生、(株)スペースシャワーネットワーク代表取締役社長の中井猛氏です。日本にビデオクリップ産業を定着させた立て役者、スペースシャワーの軌跡について伺います。お楽しみに!

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