第23回 矢内 廣 氏

インタビュー リレーインタビュー

矢内 廣 氏
矢内 廣 氏

ぴあ株式会社 代表取締役社長

服部克久氏にご紹介いただいたのは、ぴあ(株) 代表取締役社長 矢内廣氏。大学生の時に「ぴあ」を立ち上げ、エンタテイメント情報誌の草分けとして確固たる地位を築き、日本中のイベント業界の常識を覆した「チケットぴあ」の成功など、「ぴあ」と矢内氏のサクセスストーリーはみなさん周知の通りです。
この1月には東証二部上場を果たし、次々と新しい戦略を生み出す「ぴあ」を作り上げた矢内廣氏とは…?少年時代からビジネスマンとしての類い希な天才ぶりを発揮し、高校時代は特許を目指した「発明家」でもあったという矢内氏。知られざる素顔に迫ります。

[2001年12月7日/半蔵門・ぴあ本社にて]

プロフィール
矢内 廣(Hiroshi YANAI)
ぴあ株式会社 代表取締役社長


1950年いわき市生まれ。中央大学法学部卒業。
1972年7月、在学中にアルバイト仲間で月刊情報誌「ぴあ」を創刊。1974年12月、ぴあ(株)を設立。現在、ぴあ(株)をはじめ、ぴあグループ6社の代表を務める。(社)日本音楽著作権協会理事をはじめ、(社)ニュービジネス協議会副会長、(社)経済同友会幹事、(社)日本雑誌協会理事、東京国立近代美術館評議員等、各団体の理事を兼任。

 

  1. 小学生の哲学者!?
  2. 企業家人生の始まり!?「甘納豆事件」
  3. 発明に明け暮れた高校時代
  4. 映画とバイトの日々…「ぴあ」誕生へ
  5. TBSから生まれた!?「ぴあ」創刊
  6. 「ぴあ」の窮地を救ったふたりの「恩人」
  7. 【メールインタビュー】

 

1. 小学生の哲学者!?

矢内 廣2

--ちょうど僕が高校1年生ぐらいの時に「ぴあ」が創刊されたと思うんですけども、創刊から「ぴあ」買ってましたよ。当時はまだ「シティロード」もありましたけど。だからこの何十年間か「ぴあ」のこの隆盛ぶりというか、ずっと傍目で見てきた一人として、矢内さんっていうのはほんとはどんな人なのかっていうのが、すごい興味があるんですよ。

矢内:あっはっは…(笑)

--ご本人についてはいろんな伝説とか噂とか聞くんですけどね(笑)…ほんとにお会いしたかったんですよ。今日はよろしくお願いします。ではまず、お生まれが福島県だそうですが…。

矢内:福島県いわき市です。太平洋岸ですね。だから気候は温暖なんですよ。冬はわりと暖かくて、夏はけっこう涼しくて。やっぱりそれは海の側だからですよね。福島県は一つの県で天気予報が3つあるんですよ。「浜通り」「中通り」「会津」地方って言いましてね、ぜんぜん気候が違うんですよね。冬なんか浜通りは海側でポカポカ晴れてても、会津地方は大雪降ってるとかね。そんなの当たり前なんですよね。「浜通り」と「中通り」の間には阿武隈山脈が走ってるんです。そこで、もうぜんぜん気候が変わっちゃう。言葉も違うんですよ。人の行き来もあんまりなかったと思うんですね、昔は。山越えなくちゃ行けないから。

--じゃあ海のお近くで生まれて…

矢内:そうです。海の側で生まれ育って、高校まで田舎にいましたからね。

--ご家庭というか、ご両親とかのご職業は?

矢内:普通のサラリーマンでしたね。

--ご兄弟は?

矢内:弟が一人だけ。

--じゃあ、ごく普通の少年ですね(笑)。

矢内:そうですね…(笑)。

--学生時代に起業されたわけですよね。やっぱり子供の頃からなにか少し変わったところがおありになったんじゃないかなと…。

矢内氏の秘書:小学生の時、変わったニックネームだったんですよね(笑)。

--何の話ですか?(笑)

矢内氏の秘書:言ってもいいですか? 小学生時代に「哲学者」というあだ名だったそうなんですよ(笑)。

--哲学者?(笑)

矢内氏の秘書:校長先生も用務員のおじさんも友達も、みんな知ってるあだ名なんですって。

--詳しく教えていただけますか?

矢内氏:そんな話をしなくちゃいけないのか…(笑)。

田舎ですからね、みんな小学校は丸坊主なんですよ男の子はね。それを誰も不思議に思わない。ところが、うちのお袋は変わってたのかな…。僕は坊主じゃなかったんですよ。僕だけ一人ね、男の子で髪長いわけ。それでね、つむじってこの辺(後ろ頭中央)にあるでしょ?僕、不思議なことに、ここ(前髪左側の生え際)につむじがあるんですよ。そうするとね、前髪がクッと立っちゃうわけね。それでお袋はね、髪の毛が立ってるのを…ピン留めで押さえて留めて学校に行かせてたの(笑)。

--女の子っぽいですね(笑)。

矢内氏:女の子っていうより、不思議な格好ですよねぇ。

--男の子は全員坊主なのに…。

矢内氏:そう、坊主なのに…ピン留めしてる男の子がいて。僕は目がギョロッとしてたらしくて…ちょっと変わってたんでしょうね…。うーん。

--それと哲学者がどう結びつくんですか(笑)。

矢内氏:なんかね、小学校1年に入ってすぐに知能テストかなんかがあったんだよ。それで僕は相当よかったらしいんだけど、そんなこともあって、それがパッと広がって。なんかね…用務員のおじさんだか、給食を作ってるおばさんだかが、命名したらしいんだよね(笑)。

--そうなんですか(笑)。

矢内氏:先生から校長までみんな知ってて。なんかそういう風に呼んでたらしいですよ、裏ではね。

 

2. 企業家人生の始まり!?「甘納豆事件」

矢内 廣3

--すでに有名人だったんですね(笑)。やっぱり幼少のころから伝説があるじゃないですか(笑)。

矢内:いやいや。そういう話だったらね…あのね…「甘納豆事件」っていうのがあるんですよ(笑)。

--甘納豆?

矢内:駄菓子屋でね、昔、甘納豆って売ってたのよ。ちっちゃな紙の袋に、大さじ1杯分位しか入ってないんだけど、厚紙でできたボードにいっぱい貼っつけてあってね。おもちゃの賞品が1等賞、2等賞、3等賞ってぶら下がってるわけですよ。「1等賞だとこのおもちゃがもらえるんだ!」って思って買うわけ。5円払うといくつもある中から好きな紙袋をポッと取って、中にくじが入ってるわけね。ほとんどスカで当たんないんだけどね(笑)。それでお袋が「なんでこの子はこんな甘納豆が好きなんだろう。たったこれっぽっちしかないの5円も払って…」って思ったんですよ、親からすればね。子供にしてみればね、ほんとはおもちゃが欲しいんだから。もちろんおいしかったけどね。それである日お袋がね、鍋いっぱい甘納豆を作ってくれたんですよ。小豆を煮て砂糖をまぶして。「そんなのに毎日5円使うんだったらたくさん作ったからこれ食べなさい」と。 そこで僕は「うーん?」って一瞬考えて…自分で袋を作ってね、甘納豆を入れてくじを入れて、店にあるのと同じように作ったわけです(笑)。

--(笑)

矢内:それで、おもちゃはないから甘納豆を大きな袋に入れたのを1等、中ぐらいのを2等、小さいのを3等賞として作って、売ったわけですよ(笑)。

--小学校の時の話ですよね?

矢内:小学校のね…3年生…。

--すごいなぁ(笑)。そりゃ早いわ。

矢内:それで僕はね、漫画描いたりするの好きだったんですよ。当時紙芝居ってあったでしょ?紙芝居を見せて、水飴売ったりなんかしてたでしょう?

--やってましたね。

矢内:そうそう。それでね、僕は紙芝居なんかも作ってたから(笑)…

--自分で作ってたんですか?(笑)

矢内:ええ。自分でキャラクター考えてね、オリジナルの漫画描いたりしてたから、それを紙芝居にして…境内に行ったら近所の子がいっぱい集まってるからね、「紙芝居やるぞー」って言って、やって、見せて。それで終わってから…その甘納豆をね…飛ぶように売れて(笑)

--すごいですね(笑)。

矢内:僕にしてみれば「あぁ…いいことした。みんな喜んでくれた」と思ってたのよ。紙芝居も喜んでくれたし、甘納豆もね。「店で買うよりも量が多い」って喜んでくれたわけだから。いいことしたと思ってるわけじゃないですか。それで、手元には小銭がジャラジャラ残ったわけですよ。いいことしたなーと思って帰ってきたの。そしたらお袋にそれを見つかってね「お前そのお金どうした?」って言うわけ。子供に小遣いなんてそんなに渡してないから「何だ?」となるわけですよね。「いや、これこれこうやって…」って説明したら怒られてね。

--怒られた?(笑)

矢内:怒られて(笑)。それでね「買ったのは誰だ?お金払ったの誰だ、思い出せ」って。で、一軒一軒回って「すみませんでした」って頭下げされられてね。お金を全部返しましたよ(笑)。

--大事件になっちゃったんですね(笑)。

矢内:僕はそれが納得いかなくてね。「みんなが喜んでくれてるのに…なんで俺が怒られなきゃいけないんだろう」って(笑)。

--最初に発揮した企業家精神。

矢内:うーん。別にそういう風に思ったりはしてはいないんだけどねぇ。でも基本はみんなが喜んでくれること…だからね。ひょっとしたらビジネスの原点はそこかもしれないけどね。それからね、うちには学校が終わると毎日いろんなクラスメイトが入れ替わり立ち替わり遊びに来てたんだ、毎日ね。

--紙芝居も作るとか、人気者ですよね。

矢内:それでね、いろんな遊びしたんだけど、何年か前に同窓会で友達が思い出したことがあって。「矢内くんと遊んでると大変だったんだよ」って言うわけ。「どうして?」「だって覚えてないの?ゲームでも何でも、外でワーワーやって遊んでると、すぐ途中でルール変えるじゃない」って言うんだよ(笑)。

--ははは(笑)

矢内:遊んでて途中でね、これはルールをこういう風に変えるともっとゲームは面白くなるな、盛り上がるな、って思うわけね。そうすると「あ、ちょっと待って。これルール変えよう」って(笑)。それで周りは次から次にルール変えられて大変だったっていう(笑)。

--じゃあやっぱりそういうリーダーシップを小さい時から発揮してみんなをリードするような性格だったんですね。

矢内:うーん。そうですかね…。

--だってクラスの中心人物じゃないと、紙芝居やってもみんな見てくれないじゃないですか。何やってんのあいつっていう。

矢内:あっはは(笑)

--それを見させるだけのなにかがあったんですね。

 

3.発明に明け暮れた高校時代

矢内 廣4

--中学生ぐらいのときはそういう話はないんですか。

矢内:…中学…高校の時には、発明に凝ってたんだよね。

--発明ですか!?

秘書:特許までいこうとしたんですよね(笑)。

--それ教えてください(笑)。

矢内:いろんなことやったけど…ひとつはね、今はもう懐かしいレコードプレーヤーのトーンアームですね。当時は手でかけてたでしょ?あれにはトラッキングエラーっていうのがあって、これがレコード盤だとして、アームがこうかかるでしょ?そうするとずーっと中に入ってくわけだ、アームがね。そうすると、このアームがここを支点にして円軌道を描いて円周をこう描く。そうすると、本当にこのレコード盤の音を正確にひろってるのは1点しかないんですね。

 つまり直角の角度に針が置いてある、その1点だけが正確に音をひろってるわけで、あとはみんな角度がついてるわけ、どっちにもね。それは全部エラーというか、厳密に言うと100%正確な音はひろってないんですよ。それをトラッキングエラーっていうんですけどね。それを解消する装置をいろいろ考えていたんです。

--へぇ…。

矢内:いろんな実験やって、僕は支点を2つ作るっていう考え方をしたのね。ここ1点と、もう1つここに支点を移動できるようにして。つまりその円周を描きながらすべての点で直角にに針の先が移動するためにはこういう軌道じゃなくて、少しこう前にいくんですよ。…という計算をしてね、そういくためには、アームの構造をどういう風に変えたらでるんだろうと。…いうようなことを一生懸命やっててね…今考えるとね(笑)。

--それは中学ですか?高校ですか?

矢内:高校入ってからだね。

--それ、後にはアーム自体が動くようになりましたよね?

矢内:うん。で、最後はもう、針がレコード盤の中心点に向かって直線で進むようなものも出たでしょ。

--そうですね。

矢内:だから結局メーカー側は、そのトラッキングエラーをどうやって解消するかっていうのをやっぱり実は裏でずいぶん研究してたんですよ。それでね、それを特許取ろうと僕は思ったのね(笑)。

--特許…(笑)。高度な数学の頭がいりますよね。

矢内:ところがね、出願するためには5万円、当時のお金で必要だったんですよ。収入印紙を貼らなきゃいけない。当時…今から30何年も前にね、高校生が5万なんてお金、とてもじゃないけど、持ってないわけですからね。当時の初任給がいくらだったか知りませんけどね。で、親父に言ったわけですよ。「ちょっと考えてることがあるんだ。実は特許を取りたいんだけど、それには収入印紙を貼らなきゃいけない。5万円かかる」とね。「バカやろう。そんな金なんかない」って言うわけだよね(笑)。「お前が考えてることで、そんな特許なんか取って、何の足しになるんだ」って。それでね、それはそうかもしんないけど、でも、自分の中ではなんとかこれを世に出して、絶対いいものになるはずだって、こう思ってるわけですよ。しかしお金がないからどうしようかと思ってね。特許の出願の書式とかね、どうやって出願したら特許庁に受け付けてもらえるのかとか、いろんな本読んでね、調べたわけ。で研究して全部自分で作ってた。もう収入印紙貼るだけになってたのね(笑)。

 当時、弁護士だとかね、弁理士だとか、そんなこと知らないし、そんなとこに聞いたらまた金かかるのわかってるから、自分でやるしかないと思って。最後の最後に親父に金だけ出してもらおうと思ったんだけど(笑)、それは断られちゃって。しょうがない。当時ステレオを自分で組み立てるとかけっこうはやってた時期だったんですよ。それでね、音楽雑誌とかね、そういう雑誌にいろんなパーツの会社の宣伝なんかいっぱい載ってるわけだよね。それ見てね、けっこう弱電メーカーに「実はトラッキングエラーを解消するこういう発明をした。よければ採用してもらえないでしょうか?」というような手紙を出したわけですよ。そしたらね、いろんな反応が来てね(笑)。あの小さなトーンアームを専門に作ってるメーカーなんかね「ぜひこれをうちの役員会にかけたい。だから他の会社にはこの話はしないでほしい」とか言ってきて「あぁ、そうか…」とかって思ったけれども(笑)。

--一応、装置としては完成してたんですか?

矢内:僕はもうまったく簡単な実験しかしてませんからね。でもね、いろんな反応がありましたけど、松下電器が一番きっちりとした対応をしてくれたんですよね。それを見て僕は諦めるんですよ。それまではね、いくらでこの権利をキープできるんだろうかとか、いろんな話がきてたんですよ。ところが松下電器はね、しばらくしたら「あなたからのアイディアをいただいてありがとうございました。社内であなたの理論に基づいて、試作機を作って実験してみました」って、その結果を送ってくれたわけ。そしたらね「理論上はあなたの言う通りトラッキングエラーはある意味では解消できる。しかし、このやり方でやると、アームが内側に入っていくにしたがって針がこっちに重量がかかってくるような別な動きが出てきてしまいます」つまり別な歪みが発生しちゃうってことだね。ルートというか直角なポイントをずっと通っていくことはできるんだけども違う歪みが発生しちゃうと。「これはトラッキングエラーは解消できるけども、別なエラーが発生してしまうので、完成型としてはやっぱり採用できません」ってきっちりとした報告書が来て。「あぁ…そうか。やっぱりプロの世界はそうなんだな…」と。

 こっちは頭の中で考えて適当な模型を作ってやってたんだけど、そんな歪みの計算までやれないし、計測できないわけです。「そうか、やっぱりこれは素人の限界だな…」って思った。そしたらそこへね、パイオニアから手紙が来たの。パイオニアの創設者の松本望さんっていう人。松本さんからの手紙はね、採用するとかしないとかいっさい書いてないわけ。とにかく「こういうアイディアを我が社に送っていただいて大変ありがたい。そういう新しいことを考えることが世の中をよくしていくんだ」みたいなことが書いてあって。それで「そういうことを我が社に送ってくれたあなたに敬意を表してスピーカーを2本贈呈します」と。

--えぇー!

矢内:ねぇ…。パイオニアのスピーカーって当時けっこう高価で人気だったからね。

--大変ですよ。

矢内:それで、後で荷物が届きましたよ。高校時代はそんなこともありましたね(笑)。

--普通に言うと「天才少年」ですよね。

矢内:天才少年…そんなの…考えだけで実際には形にならなかったんだから。

--やっぱりアイディアのひらめきとそれを具体的な行動に移してるってことに関しては、その後つながるものはやっぱり。少しずつ感触はいってるって感じがしますよね。

矢内:いやいや…。

 

4. 映画とバイトの日々…「ぴあ」誕生へ

矢内 廣5

--高校時代は理系だったんですね。

矢内:あぁ…。そうですね…。だから大学は理系に進むだろうってみんな僕の友達は思ってましたよね。

--でも、法学部。

矢内:大学はどうしようかって考え始めた時に、関心が「世の中ってどうなってるんだろう」って思うようになってきたんだよね。

--それもまた何かきっかけが?

矢内:うーん…社会っていうか世の中の仕組みってどうなってるんだろうって、子供にはなかなか理解しきれないからね。それを知りたいと思って。それを知るには何を勉強するのが一番いいんだろうと思った時に、僕は「法律」だなと思ったわけですね。法体系を知ることによって世の中の仕組みがわかるに違いないと、勝手にそう思ったわけ(笑)。それでね、法律やろうってそのとき思ったんだよね(笑)。単純にそれだけなんだけどね(笑)。

--単純に思うと、ちゃんと中央大学法学部が受かっちゃうんだからすごいですね(笑)。なるほど…世の中についての疑問が大学ぐらいの時から出てきたと。

矢内:うん。

--それは事業ってことに結びつくんですか?

矢内:いや、ぜんぜん…。

--その当時はそこまでは考えてなかった?

矢内:うん。入ってみたら大学はロックアウトでね、授業なんて全然なかったですから。1年ぐらい何も授業なかったですね。それで「映画研究会」っていう所に入るわけですよ(笑)。映画はもともと好きだったっていうこともあって。僕らが子供の頃は(娯楽は)映画ぐらいしかなかったんですね。もうほんと毎週のように映画見てましたからね。ところが東京に来て映画見たら、いわゆるヌーベルバーグですよ。ヨーロッパのヌーベルバーグの作品を見るとか、松竹ヌーベルバーグの作品とかって、田舎にいちゃ見れない作品を見ることになって、びっくりするわけですよね。福島ではね、チャンバラ映画とか、日活の…

--「渡り鳥」?

矢内:うん。「渡り鳥」とか。なんか東宝の社長シリーズだとか…ああいうドラマ仕立てのものが映画だっていう風に、ずっと思ってきたじゃないですか。ところが「え!?ぜんぜん違う。こういうのも映画なんだ」っていうのを東京に来て初めて知るわけね。で、びっくりして…これはすごい新鮮なショックだったですよね。

--一番印象に残ってらっしゃる映画は何ですか?

矢内:いや…ずいぶん見ましたけどね…。やっぱり「ゴダール」なんかはほんとにびっくりしましたよね。

--「勝手にしやがれ」とか。

矢内:うん。「勝手にしやがれ」もそうですし、「気狂いピエロ」とか「東風」とかね。それでね、ま、映画研究会っていう所にいくわけですよ。

--それは、お創りになったんじゃなくてあったんですか?

矢内:もう、それは何年も前から大学にあったサークルですよ。大学の3年生ぐらいの時にみんな作品を作るんです。

--自主映画ですね。

矢内:自主製作の映画をね。でも僕は残念ながら、その頃はもう、「ぴあ」の準備に入っちゃってて、映画製作にはタッチできなかったのは、ちょっと残念ではありましたけどね。

--「ぴあ」のアイディアは大学の何年生の時にひらめいたんですか?

矢内:3年の時ですね。

--3年の時にひらめいて、もう3年の時に創っちゃったんですか?

矢内:いや、準備に1年かかりましたね。

--1年かかった。それはどういういきさつなんですかね。

矢内:大学の時は僕はずっとアルバイトばかりやってましたからね。TBSでアルバイトしていた時の仲間が最初のぴあのメンバーなんですよ。それでTBSはね、報道局テレビニュース部C班っていう所に配属されたの。で、ニュース番組のサポートをするのが我々の役目だったんですね。ところがニュース番組っていうのはあんまりないじゃないですか。何時間かおきに5分か10分ぐらいちょこっとあったり、大きいのは、ほんと1日に何本かしかない。で、ニュースがない間っていうのは暇なんですよ(笑)。暇なんだけども、いつ何時、臨時ニュースが入るかもしれないから、そのために待機してるんだということで、お金ちゃんと貰えたんですね。相当楽な仕事でね。

 そこで出会った連中が、偶然、芝居やってるとか音楽やってるとか、僕も映画やってたし…大学のサークルの話ですよ。そういうのが偶然いて。大学の3年ぐらいになるとね、就職どうしようかってことが話題に上るわけですね。そのバイトでは週に1回必ず泊まりがあったんですよ。僕は木曜日の泊まりでね。泊まって…そうだな…あれ11時から『ニュースデスク』」っていう当時新堀俊明さんっていう人がキャスターにいて、それが45分で終わって、それから「お天気メモ」っていうのが5分ぐらいやって、それが終わるとその日の仕事全部終わるんですよ、僕らの仕事はね。それで、宿舎があって、そこで弁当もらって、寝て。翌朝、当時ね『モーニングジャンボ』っていうね、朝のバラエティー番組っていうか…。

--ワイドショーですか。

矢内:そう、ワイドショーの走りですよね。あれ当時ね、なぜかTBSは報道がやってたんですよね。で、その朝早い時間に、5時ぐらいに起こされるんだったかな。それまで寝てられるんですけどね。ところが素直に寝に行かないんですよ、仕事終わってから。みんな近所の安い居酒屋見つけて、そこに行ってなんだかんだやる。ま、それも楽しいわけですよ。で、まぁ、就職どうすんだって話に当然なりますわね。彼らはいろんな大学から集まった連中で、「なんだかこのまま就職試験受けてサラリーマンになってくっていうのは、どうも癪だね」って感じがあって。それはみんな、たまたまその連中が同じ気分を共有しててね。「じゃあ、どうしようか?」「俺たちで仕事つくろうよ」っていう話になってったわけで(笑)。で何やろうかと。ま、酒飲み話だから冗談半分でおもしろおかしくやってるわけだよね。最初はね「古本屋やろうか」とかね「カレー屋やろうか」とかね、どうもあんまり将来性っていうか発展性がないっていう(笑)

--…アイディアばっかり(笑)

矢内:うん。「それじゃあ、あんまりおもしろくないんじゃないの?」っていうような話をして。そのうちなんかフィリピンからね、船で大きなラワンの原木をね繋いで海をどんぶらこっこどんぶらこっこ引っ張ってくるとね、これを日本に持ってきたらえらいいい金になるなとかっていう…。

--そういう怪しい話を(笑)

矢内:そんな話じゃね(笑)。誰がそんなものを船で引っ張って繋いでくれるんだとかね(笑)…ま、みたいな話とかいろいろありましたけどね。

 結局そんなところから始まって、なんか自分たちで仕事つくろうよと言ったものの、なかなかそれが現実には「これで行こう」っていうのがそんなに簡単に出てきたわけじゃなくてね。非常に悲観的に「これはもう、俺たちが何かやろうという道は残されてないのかね、この世の中には…」みたいな話になってった。で、そんな風に思ってた時にふっと気がつくんですよ。「ちょっと待てよ。今の世の中そういう風にできあがっちゃってるように見えてるけど、我々若い奴しか知らないことがあるんじゃないの?」って僕は思いはじめたんですね。それがまぁ、「ぴあ」に繋がっていくんです。

 

5. TBSから生まれた!?「ぴあ」創刊

矢内 廣6

矢内:僕は映画が好きだった。映画はよく見てた。当時はお金がないから、ロードショー作品を封切りで見るっていうことができなかったわけですよ、高いし。2番館、3番館に下りて安くなるのを待って見に行く。「今年のあの監督が作ったこの作品はちょっと見ときたいな」とかってあるじゃないですか。それを安くなってから見ようと思ったときに、「いつからこの映画が2番館に下りて安くなるのか?」「どの映画館で上映されるのか?」っていう情報を、当時はなかなか入手するのが難しかった。夕刊の3行広告を見るか、『キネマ旬報』の巻末の名画座情報みたいなのを見るか、いずれにしても網羅されてないわけ。どうしてもやっぱり見逃しちゃうっていうか、ついついこぼれちゃうものが出てきて。そういう意味での不便さを日常的に感じてたわけですよ。

 それでね、これをひとまとめにする情報誌…情報誌っていう言葉もまだありませんでしたけどね、そういうのができたら自分にとってはほんと便利なものができるな…という風に思い始めたんですよ。それならこういう編集でこういう構成にすれば使い勝手もいいな…と。待てよ、それなら映画だけじゃないよな、コンサートも芝居もそうだよなと。美術館も…という風に、カルチャー系のそういった催し物をいっぺんに1つの雑誌にまとめたものを作ったら、少なくとも自分にとってはものすごく便利で欲しいものになるなと、実感がどんどん膨らんでくるわけですよ。これ商品化できるんじゃないかっていう風にね。そういうモードに入ってくると、どんどん妄想が広がっていくわけですよね(笑)。それで、その話をバイトの仲間たちに言ったら「おもしろいんじゃないの?」って一気に盛り上がって。「じゃ、サンプル作ってみよう」って手書きサンプル作ってホッチキスで留めて「こんな風にしたらどうだろうか?」ってバイトの他の連中にね「こういうの作ろうと思うんだけど、どう思う?」って言ってリサーチしていったんですよ。

--マーケティングですね(笑)。

矢内:大げさに言えばね(笑)。そしたら、みんな「これだったら買うよ」「100円だったら買うよな」と言うわけですよね。当時100円っていったらちょうどね、セブンスター1個の値段だったの。ハイライトは70円だったからね。で、100円だったの。それで、大学の映画研究会の連中にもそれを見せたら「これは便利だ。俺も欲しい。買うよ」ってみんな言うわけ。で、ますます確信を深めるわけねぇ…(笑)。それでTBSが役に立つんですよ。報道の仕事だったから、資料室出入り自由だったんですよね。ちょっとした図書館ぐらいなデータがいっぱいあってね。そこで、都内にはどれだけの大学、各種学校、短大、高校があって、学生の数はこれだけいてとかね、もう勝手なね、皮算用するわけですよ(笑)。今で考えると稚拙なマーケティングを一生懸命やっててね。捕らぬ狸のなんとやら(笑)。

--でも、かなり綿密な作業ですね。

矢内:ずいぶん乱暴なことをやってたわけですよ(笑)。このぐらい売れてもおかしくないよなと(笑)。それで「じゃ、これで月に1回という月刊誌にしてスタートしよう」という風に固めていくわけですよ。だから、TBSでぴあが生まれたんですよ。そういう意味で言うとね(笑)。

--ほんとそうですね。ぴあ設立のころは、何から何まで矢内さんがご自分でなさってらしたとか。

矢内:そうですね。まあ電話してもいきなり社長が出るっていうね。

--だいたい何人ぐらいでやってたんですか。

矢内:結局ね、みんな貧乏人ばっかり集まってきてて…みんなおもしろがってね…何ていうのかな…アルバイトを他でしながら自分の生活を支えていて、ぴあを手伝うっていう、そういう連中ですよ。だからレギュラーで、ベタでずぅっとやれるっていう人間はあんまりいなかったんですよね。あとは自分の空いた時間に手伝ってやるよっていうのがいっぱいいて。いろんな奴が次から次へと出入りしてっていう状態だったんですよ(笑)。

--劇団みたいですね(笑)。

矢内:そうそうそう。そんな感じですよ(笑)。

--アパートが事務所だったんですよね。

矢内:そうです。TBSでね、アルバイトなんだけどもボーナスが出たんですよ。冬のボーナスでね、5万円ぐらいもらったかな。当時の5万円ってけっこう大きなお金でね。それでね、いきなり僕は電話を引いたのね。アパートの自分の部屋に電話引くなんていう贅沢は、普通当時の学生には許されないことだったんだけど、これで商売始めようと思ってたから(笑)、まず電話から。電話付いた日に、僕のアパートのベニヤ板のドアの表に「月刊ぴあ編集室」って札を下げるわけですよ(笑)。

--噂は本当だったんですね(笑)。

矢内:そしたら大家がやってきてね「何ですかこれ?」「いや、ちょっと雑誌やろうと思って…」「雑誌ですか?」ってね。向こうもそんなさ…学生なのに雑誌なんてできるかって思ってるわけ(笑)。「そんなに大げさなものじゃないですから」とか言って。「そうですか…あんまり変なことしないでくださいね」なんてこと言われて(笑)。ここんとこ出入りが多いから(笑)

--目つけられてるわけですね(笑)。

矢内:そう(笑)。それで始まったんですけどね。就職活動も何もしてないわけじゃないですか。そしたらね突然ね、親父が訪ねてきたんだよ。来たら札はさがってるし、中あけたらみんなその辺に転がってて、徹夜でいろいろ打ち合わせなんかして、ごろごろ転がって寝てるし…「何だこれは」って。もう…当時の下宿っていうかアパートっていうのは汚いじゃないですか(笑)。

--汚いですね、確かに(笑)

矢内:もうぐちゃぐちゃになってるわけですよ。当時たばこも吸ってたから、もう、ラーメンの丼山盛りいっぱいに吸い殻があるとかね…そんな状態。汚ないヤツがが何人も寝てたりね。しょうがないから近所の喫茶店かなんかに行って「何しに来たんだよ」「大学から手紙が来た」と。今は当たり前になっちゃってるけど、卒業旅行で海外に行かせてあげませんか?って。旅行代理店が親相手にそういう商売してるんだよね。純朴な田舎の親はそれを見て「あぁ…そうか、子供にそれくらいのことはやってあげたいな」と親父なりに思ってくれたんだよ。ありがたい話でね。それで「お前を行かせてやろうと思って来たんだ」と。当時のツアー…36万位だったかな…ちょっと忘れちゃったけどね…。

--当時の方が高いくらいですよね、今よりね。

矢内:ねぇ…。どんなツアーの中身だったか忘れちゃいましたけどね…。それで「俺はそんな海外行きたいだなんて思ってないし、それよりも…」(笑)

--そんな金があるんだったら(笑)

矢内:「お前、何やってるんだ。あの表札は何だ?」「いやいや、これこれこういうことでね、雑誌を出す準備をしてるんだ」「雑誌って何だ?」って(笑)。「親父、そういうありがたい、海外に行かせてくれるっていうお金を用意してくれたんだったら、それを俺にくれ。海外行かなくていいから。雑誌を作る準備のお金が足りないんだ。それ使わせてくれ」って言ったんですよ。親父、困ってたけどね、ずいぶん熱心に言ったもんですからね「わかった。どっちにしたってお前が卒業前に何か見聞を広げるための費用だと思って用意してきた金だから、お前がやりたいことがあるんだったら、そっちに使ってもいい」って言ってくれて。それが言ってみれば最初の出資金みたいなもんですよ。ありがたかったですね。

--やっぱり、今思い出しても楽しいですか?その辺の思い出っていうのは。

矢内:楽しいっていうかね…。そりゃ楽しいですよね。でも…若かったからやれたんでしょうね。

 

6. 「ぴあ」の窮地を救ったふたりの「恩人」

矢内 廣7

--創刊第一号っていうのは、何部ぐらい作ってどういう風に置いてもらったんですか?

矢内:それがね、10,000部刷って2,000部しか売れなかったんですよ。

--それでも2000部売れたんですか。

矢内:うん。でもね、当時はね、なんで2,000部しか売れなかったんだろうって。もっと売れるはずだと思ってたの、僕はね。でも、考えてみればね、100軒足らずの店にしか置けなくて2,000部っていうことは、1軒平均20部売ってるんだよね。何の宣伝もしないでね、店頭に置いただけですからね。

--置き方っていうのは、流通大手を使ったわけじゃないんですか?

矢内:いやいや。それがね…大変だったんですよね。取次店。ご存じの通りトーハン、日販ありますよね。この流通に乗せれば全国の書店にまかれるんだけども、そこまではわかってて、トーハンも日販も取次店の雑誌の仕入部に行きましたよ。で「今度ぴあっていう雑誌を出すことになりましたけども…」って言うんだけど、こっち学生だからね(笑)。向こうキョトンとしてたよね「ぴ、ぴあですか…」って(笑)。ぜんぜん相手にしてもらえなかったんだよね。今だって雑誌の口座を開くっていうのは大変ですからね。今から30年以上前で、学生がそんなこと言ったら相手にしなかったでしょうね。

--今でも同じじゃないですか?今、学生が行ったって、もっと相手にしてもらえない。

矢内:うん。それで、ま、取次店は相手にしてくれないだろうなと、そこまでは織り込み済みだったんですよね。当時ミニコミ誌っていっぱいあったんですよ。大学のキャンパスのそばの本屋さんなんかに、けっこうね、学生が作った詩集なんかや評論集なんかを置いてくれてたんだよね。そういうのをずっと普段から見てたから、最後はもう書店に直接持っていって、直取引で置いてもらえればいけるだろうって、たかくくってたところがあるのね。それでサンプル持って「さあ、書店まわろう」って書店まわったら、これがね、予想に反してことごとく断られちゃうわけですよ。

--置いてもくれない?

矢内:置いてくれない。まあね、たしかに「売れるか売れないかわかんない本、そんなスペースない」って言うわけね。場所もないし、取次じゃなくて直取引だと清算とかがめんどくさくてしょうがないみたい。それでみんなに断られちゃって…それで弱ってね(笑)。どうしようかと思って。もう印刷あがってくるし、みたいなね。

--あの、そのリサーチはしなかったんですか?こういう見本を作って、サンプル作ってこういう本を置いてくれるかっていうことはしなかったんですか?

矢内:しなかったんです。

--しないでいきなり1万部刷っちゃったんですか?

矢内:そう。もう…周りにそういうのいっぱいあったからね。置いてくれるはずだってもう信じてたのね。それで…その時にね、偶然ね「日本読書新聞」っていう新聞見てたの。そこにね、もう亡くなった新宿紀伊国屋の社長やってた田辺茂一さんっていう人の記事が載ってた。茂一さんが悠々会っていう会の会長をやってたのね。この会はね、書店の田辺さんを中心とした親睦団体みたいなもんで、東京都内の有力書店は、ほとんどそこに加盟してたのね。その田辺さんが「書店のマージンをもっと引き上げていかないと、日本の出版文化、活字文化はなくなってしまうという危機にこれから向かう」というような警告をしてたわけ。その記事を読んでね「あ、これだ!」と僕は思ったんです(笑)。意外と短絡的なんだよね(笑)。

 「この人は書店の取り分を増やしたいと言ってる。我々ぴあは直接本屋さんに持っていくんだから、取次店はいらない。そこのマージンをうちと書店と半分ずつわければ、書店のマージンは増える。利害は一致してるはずだ。これだ!」って思って、悠々会に電話するわけですよ。そしたら、女性が出て「はい。こちら紀伊國屋書店新宿本店です」って言うわけね。「あ、そうですか…悠々会じゃございませんでしょうか?」「悠々会にどういうご用件でしょうか?」「いや、実は『日本読書新聞』っていう新聞を読みまして、大変感激しました。私どももいろいろと考えていることがありましてね、共闘できるんじゃないかと思ったんです」。

--共闘(笑)。大きく出ちゃったんですね(笑)。

矢内:そしたらさ(笑)、その電話に出た女性がね「いや、そういう難しいことでしたら、ちょっとお待ちください。こちらの番号におかけ直しください」って言って、別な電話番号をくれたの。それですぐそっちの電話番号にかけ直したらまた女性が出て「はい。こちら『風景』編集部です」「悠々会じゃありませんでしょうか?」「どういうご用件でしょうか?」「いや、実は『日本読書新聞』で大変感激しまして共闘できるんじゃないかと思いまして」。そしたらその女性がね「はぁ…そういう難しいことでしたら、ちょっとお待ちください。今、会長おりますので代わります」って(笑)。

--ご本人が(笑)

矢内:そしたら、田辺さんが電話に出ちゃったわけ(笑)。それで「これこれこうで共闘できるんじゃないかと思って」って言ったら「うーん」とか言って。「そんな難しい話、ちょっと電話じゃダメだ。こっちに出てこい」って言うわけ。それで住所聞いて行った。行ってわかったんだけど、田辺さんの自宅だったの(笑)。「風景」っていう冊子が当時あったんですよ。舟橋聖一さんが編集長をしてて、作家、物書きなんかの人たちがエッセーを寄稿してたり。田辺さんご自身がそういう方たちと親交が非常に深かったってこともあってね。自宅のスペースを開放してその編集部に使わしてたの。だから、その電話番号っていうのは、風景編集部の電話であるし、悠々会の電話番号でもあるし、なんと実は、田辺さんの自宅の電話番号だったわけ(笑)。それは後でわかるんですけど。それで田辺さんといろんな話したんだけど…。

 そうそう、田辺さんは当時「二日酔いの後はカゴメトマトジュースがいいや」とかなんかっていうコマーシャルに出てた人ですよ。お会いして(この人か〜)って思ったけどね(笑)。それでいろいろお話ししたんだけど、「うーん」とか「あぁ…」とか言ってるばっかりでね「俺にはこれは難しい話だ」とか言うわけですよ。それで「いいのがいるからそっち行ってくれ」って言われてね。「体よく断られたかな…」って思って。「あの…日キ販っていう所に中村ってのがいるから、今電話してやるから」いきなりそこに電話して「そっちに今イキのいい若い奴行くからよろしくな」とかなんか言って(笑)。それで、教わった所へ行くわけですよ。飯田橋にあってね。日本キリスト教書出版販売っていう、これも取次店の1つで、バイブルとかね、キリスト教関係の書物を中心に扱ってる取次店なんですよ。そこの専務をしてた中村(義治)さんっていう人がいたんです。今、銀座の教文館っていう本屋さんの社長をやってますけどね。それで、中村さんに会った。

 で、同じ話をしたんだけど、こっちは話が早くてね。「あ、それはダメだよ」って言うんだよ。「君が何考えてるんだかよくわからないけど、一緒にしないでくれ」って(笑)。まあ身なりを見ればね、そんな学生が何言ってるんだろうってことですよね(笑)。それで「これでもうこの先がないな…」って思ってたら、「ところで君はいったい何考えてるんだ?」と中村さんが水を向けてくれたんで、初めて「実は…こういう雑誌を出そうと思って取次店まわったけど全部断られて、書店まわったけどここもみんな断られて…実は大変困ってるんです」という話をして(笑)。そしたらその中村さんが「どんなものかちょっと見せてみろ」って言うんで「ぴあ」のサンプルを見せたら「やめた方がいいな」って(笑)

--(笑)

矢内:言われた(笑)。それで、その後、何しゃべったか全然覚えてないんだけど、まあいろいろ説明したんですね。そしたら、しばらくしてから中村さんが「いったいどこの本屋に置きたいんだ?置きたいと思ってる本屋をリストアップして持ってこい」ってことになった。で「わかりました」ってその日は帰った。僕のアパートにみんな集まってきて「どうだった?」「いや、これこれこうで本屋さんリストアップして持って行くことになった」。今だったらね、全国書店組合名簿なんてあるから簡単にそのリスト使ってできるんだけどね、そんな存在すら当時知らないから、記憶をたどって電話帳ぐらい使ったかな…新宿の紀伊國屋とか渋谷の大盛堂とか神田の三省堂とか、みんな大きな本屋ばっかり(笑)。

 それでもね、100件ちょっとぐらいリストアップして、翌日持っていった。そうしたら「また明日何時に来い」と言われて、次の日行った。そしたら、これはもう僕にとって一生忘れられないことになったんだけども、デスクの上にね、封筒を山のようにして用意して待ってる。で「これを持っていけ」って言うんですよ。「何ですか?」って言ったら、一通一通ね、僕らがリストアップしていった本屋さんに宛て紹介状を書いて下さってた。文面はコピーだったけども、最後は直筆で署名がされてて、実印が押されてて、宛名もね、僕ら書店の名前しかわからなかったのに、中村さんは「○○書店○○社長殿」っていう風に社長の名前まで入れてくれて、それ封筒に書いてね「これ持ってまわりなおせ」って言うの。それでね…これはもう感激しちゃって、こんなことしてもらっちゃっていいんだろうかっていうね。びっくりしちゃってね…。だって、田辺さんの紹介があったというもののね、ほんと見ず知らずの…。

--縁もゆかりもない…。

矢内:ない人間がね、ほんと海の者とも山の者ともわからない奴がね、そんなばかげた話をしてそこで紹介状書いてくれるのかって、ほんと驚いちゃってね。もう…ほんとにちゃんとお礼言えたんだろうか、って。その時の記憶あまりないんだけどね。ただ、帰る時にね、その封筒の束かかえて、日キ販の建物は古い建物だったんで…木の階段だったのね。で、ギシギシ音がするわけ。で、夕日がここからこう斜めに差し込んで。その風景、今でも思い出すんだけどね。膝がガクガク震えててね。こう階段を下りるたびにギシギシ階段がきしんだ音たてて、夕日の中を封筒を抱えて出ていく…っていうね。それは時々ふっと思い出すんだよね。今でも。それで、その紹介状を持って、翌日またみんな手分けしてね、一度断られたお店にもう一回まわり直すわけですよ。「しょうがねーな、中村さんか」とかいろんなこと言いながらも置いてくれました。

--全部OKだった?

矢内:いや。そんなことなくて断られたお店もあったけど。89軒の店が置いてくれたんですよ。これがぴあのほんとのスタートなんです。だから、ほんとにね、田辺さんに出会ってなければ、中村さんにも出会ってないわけだし、このお二人に出会ってなかったら、ぴあは生まれてなかったんですね。

--それもやはり矢内さんの積極的な生き方が何かを呼び起こしてくれた。

矢内:ま…無謀というかめちゃくちゃだったよね。考えてみるとね…。ほとんど思いこみで動いてたしね(笑)。

--でも、やっぱりそれはお若かったし、ダメならダメでしょうがねーやっていうのがどこかにあったんでしょうね。

矢内:それはもちろんそうですね。何か守るものも何もないわけだしね。 まあそんな感じで「ぴあ」は誕生したんです。

 

【メールインタビュー】

お伺いしたいことは山ほどあったのですが、たいへん多忙な矢内氏。取材予定時間が終わり、残念ながらここで取材終了となってしまいました。諦めきれない「Musicman」編集部は、ご無理をお願いしてメールでお送りした質問状にお答えいただくことに成功しました。どうもありがとうございました。

--創刊当時の自分たちと比べて今の若者、とくにぴあの社員たちに対して違和感を感じること、納得行かない点などおありでしょうか。

矢内:数年前に、社内の若手メンバーを集めて新たな戦略構築のプロジェクトをやろうとしたら、「今の社内には熱がないから、いくら戦略を作ってもダメです」と言われて、大きなショックを受けました。好奇心を持って、熱い思いで取り組むのがぴあの社員だと思っていたから。社内の熱を取り戻すにはどうしたらいいのか?と考えて、結局そのメンバーと共に、ぴあの企業理念「PIA IDENTITY」を作ったんです。その時、彼らはプライベートの時間を何十時間も使って、1年半かけて完成にこぎつけた。今思い出しても、よくやってくれたなと思っています。

--30年間経営なさってきたなかで、「これはもうだめかも」というような危機的状況に陥ったことはありましたか。

矢内:やっと「ぴあ」の発行が軌道に乗り始めた70年代の後半、ビデオテックスをはじめとしたニューメディアが登場してきました。その時は、雑誌というプリント媒体は新しいメディアに駆逐されてしまうのではないかと、非常に大きな危機感を抱きましたね。でも、結局はそのきっかけがあって、ぴあを出版社ではなく情報伝達を生業とする会社だと、自己規定し直すことができたんです。その後も、危機だと感じることは何度かありましたが、それをきっかけに新しい展開をしてきた。「もうだめかも」とは1度も思いませんでしたね。

--表紙の及川正通さんのイラストが当初からぴあのイメージを決定付けています。創刊以来持続している及川さんのパワーもすごいですが、及川さんについて一言お願いします。

矢内:及川さんの表紙は、1975年9月から。創刊号からではないんです。僕は「月刊プレイボーイ」の創刊号で、偶然及川さんのイラストを見て「この人に描いてもらいたい」と思い、中央林間の及川さんのアトリエに訪ねていった。1本道を歩いていくと、向こうからオーバーオールを着た長髪の男性が歩いてきて、「及川さんですか?」「矢内さんですか?」それが初対面。

 『ぴあ』を見せて、ぜひ表紙をお願いしたいと言っても、なかなかOKしてくれない。いろいろ話をするうちに、互いの趣味や夢の話、人生論、世界観の話になって、結局朝まで話し込んでしまい、明け方になってようやくOKしてもらったんです。ご存じの通り、及川さんの絵は非常に細かい描写と、人物のとらえ方のユニークなアイデアが特徴で、1枚を仕上げるのにたいへんな時間がかかるんですよ。毎号、今度はどんなことをやってくれるのかと、僕自身も楽しみにしています。

--デジタル・チケットの可能性と普及の時期的な読みなどについて、お伺いできる範囲でお聞かせ下さい。

矢内:デジタルチケットについては、まだ具体的なお話はできないのですが、2002年度中の運用開始を目指して開発中です。

--この先の「ぴあ」の展開は。2002年に予定している動きはありますか。

矢内:2002年は創業30周年にあたります。企業30年説とか言われていますが、この節目を、デジタルネットワーク社会に向かう新たな飛躍の年にしたいと考えています。

--まだまだお若く、今後も現役で御活躍なさることと思いますが、将来の後継者について考えたことはおありですか。

矢内:ある取材で、僕は一言もそんな答をしていないのに、「60才には引退する」と書かれたことがあるんです。初めてそういうことに触れられたから、社内外で話題になってしまいました。後継者問題は、念頭におかなければならない重要課題だとは思っています。

 でも、後継者というよりも、僕は社員たちに自分が社長になったつもりで、その事業に取り組んでみろと言っているんです。社長になってみて、初めて経営のきびしさがわかる。別会社化できるような事業を構築できる社員が、一人でも多く出てくればと願っています。

--仕事を離れたプライベートな趣味はおありですか。また、休暇の過ごし方について等お聞かせ下さい。

矢内:夏はスキューバダイビング、冬はスキーと言えていた時期もあったのですが、最近は時間が取れなくてダメですね。休日も会議だったり、仕事がらみだったり、あまり時間は取れないんです。でも、俳句は、もう十数年続けている趣味ですね。月に1回、ぴあ句会を開催して、ワイワイやっています。吉田鴻司さんという先生にご指導いただいています。俳句をやっていると、食べ物でも景色でも、季節に敏感になれるような気がしますね。

--書に大変造詣が深いと伺っておりますが…

矢内:父と弟が書家ですが、僕自身は何もしていませんよ。

−−(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦) 

今や「ぴあ」や「チケットぴあ」のない生活など考えられないほど、映画や音楽、そしてエンタテイメント業界全体に大きな影響力を持つ「ぴあ」。そのPIA IDENTITYの原点は、少年時代から培われた矢内氏の企業家センスと探究心にありました。

さて、ぴあの矢内氏にご紹介いただいたのは、評論家、作詞家としてだけではなく、女性としての立場からさまざまな活動を展開している湯川れい子氏の登場です。意外にも「Musicman’sリレー」初の女性インタビュー。乞うご期待!

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