第22回 服部 克久 氏

インタビュー リレーインタビュー

服部 克久 氏
服部 克久 氏

作曲家

皆様あけましておめでとうございます。おかげさまで「Musicman’sリレー」も早22回目、3年目を迎えることとなりました。今後も音楽業界内外で御活躍の方々の声をダイレクトにお伝えしてまいります。「Musicman-NET」は今年、さらなるパワーアップをめざして奮闘中!応援よろしくお願いします。
 さて、日本歌謡界の大御所、宮川泰氏のご紹介で登場したのは、日本音楽界が産んだサラブレッド、服部克久氏です。あくまで紳士的な態度とおっとりとした語り口、テレビで拝見するイメージそのままの服部先生ですが…お若いころの意外な 営業活動やフランス留学の想い出、さらに音楽業界がかかえる著作権問題まで、幅広いお話しを伺うことができました。

[2001年11月20日/銀座・NACK5サテライトスタジオにて]

プロフィール
服部克久(Katsuhisa HATTORI )
作曲家


昭和11年11月1日11:00a.m. 東京都生まれ。
パリ・コンセルヴァトワール修了。 ライフワークとして定評のある「音楽畑」シリーズをはじめとする作曲活動のかたわら、さまざまなジャンルの音楽監督やプロデューサー、また、音楽祭の理事や審査員として精力的に活動を行う。最近ではイヴェント・プロデューサーやピアニスト、指揮者、司会者としてテレビ等でも幅広く活躍中。また、自ら設立した東京ポップスオーケストラを率いて定期的にコンサート活動を行っている。日本作編曲家協会会長、日本音楽著作権協会、日本作曲家協会等で理事、審議委員などを歴任。

<主な作品>
アルバム「音楽畑」シリーズ1〜17
アルバム「Tokyo Pops」1〜5
他に合唱組曲『ガラスの兎』『ブーケ』『ル・ローヌ』『自由の大地』『すごい男の唄』など。 http://www.hatkat.com/


 

  1. 宮川、前田氏は同期の桜…音楽仲間との交流
  2. 音楽一家3代…服部家の人々
  3. テレビ局回って営業活動…仕事と遊びに明け暮れた20代
  4. サウンドへの飽くなき追求…「歌もの」には興味がなかった
  5. 自分のための音楽作り…「音楽畑」の誕生
  6. フランス留学の教え…「tout passe, tout casse, tout lasse」
  7. 「世界のハットリ」交友録
  8. 60歳になったらポルシェ!のはずだった…
  9. いい音楽家が育つ環境づくりを

 

1. 宮川、前田氏は同期の桜…音楽仲間との交流

--宮川泰さんとはどんなお付き合いなんですか?

服部:宮川さんはね、僕が仕事始める頃に知り合ったのかな…ちょうどピーナッツがデビューする前の年だったかもしれない。僕が一番最初に会った人は、前田憲男さんで。その後ですね。いろんな番組で一緒になるじゃないですか。宮川さんがピーナッツの音楽監督だったんで、「はじめまして(この人が宮川さんか)」っていう感じで。今はいいアレンジャーがいっぱいいるでしょう。みんなテクもあるし、グレードも高いけど…あの頃は結構いい加減な奴がいっぱいいたんですよ(笑)。コードもぜんぜんデタラメで。だから、ちょっといい仕事すると「あいつなんていう名前?」っていう感じですぐ覚えられるんですよ。そういうアレンジャーが当時5人ぐらいいたかな。三保敬太郎とか…死んじゃいましたけどね。あと前田憲男さんとか、宮川さんもそう。ほかにも2〜3人はいましたね。「あいつはすごいね」ってお互いに思ってたかもしれないけどね。

--宮川先生と服部先生とは流れが違うというか…服部先生はやっぱりサラブレット系の家系ということになりますけど…

服部:宮川さん必ずそういうこと言うよね。いつもそう言うんですよ。

--ご自分では大阪の方からいい加減に出てきたらなんとなくなっちゃってみたいなことをおっしゃってましたね(笑)

服部:でも宮川さんのピアノはすごいですよ。前田さんの話では宮川さんの家に行って、譜面借りたり、ちょっと彼のアドリブをコピーしたり…。お互いそういうことをやってたみたいですよ。大阪にいる時から彼はすごく有名でしたよ。業界では知る人ぞ知るでね。だから東京にきてすぐに有名になったんですよ。

--やっぱりすごかったんですね。

服部:すごかったですよ。つまり彼はね、今でもそうだけど、こうやればリスナーはこういう風に喜ぶとか、こうやればここは盛り上がるとか…そういうことをいつも考えてる。そういうアレンジャーはすごく少ないんですよ。もしかすると宮川さんの前は多分、うちの親父かもしれないんですよね。そういうことをいつも考えてやってたから、宮川さんはすごく目立ってたんだと思いますよ。それに内容(作品のクオリティ)が伴ってましたからね。ただ驚かすだけの人ならいっぱいいるけど。

--ご本人は、ただちょっと適当にやっただけだよって…(笑)

服部:いやいや…あの人はすぐそういうことを言うんですよ。うまーく自分をシャレのめして言うけど、ほんとはすごい人ですよ。いつもそう思う。この間古希の御祝いがあって行ったらね…その日ぐらい真面目にやればいいのに、着物きたお姉さんが、10人ぐらいこうバーッて日本舞踊で踊るんですよ。「宇宙戦艦ヤマト」とか「ウナ・セラ・ディ東京」を音頭風にアレンジして。〜スッチャララチャンチャン♪〜みたいな。で、パンッとかやると、(井上)順ちゃんが出てきて、で、宮川さんが襷かなんか掛けて出てきてね…。もう、なんでそんな風に…(笑)今日ぐらい真面目にやったらいいのにね(笑)。もうほんとにみんなあの人を尊敬してるんだから。「今日は古希でこき下ろしの会だから悪口を言ってくれ」って言われて。

--そこでダジャレか…みたいな(笑)

服部:そう…こき下ろしったって言うこともないんだよね。今さら女のこと言ったってしょうがないし(笑)、(その場に)奥さんもいるし、言えないじゃないですか。「なんで今日ぐらい真面目にやんないの?」って言ったら「いや、みんながそうしろって言って」。そんな感じなんだよね。

--真面目が照れくさいんじゃないですか。

服部:そう。まともにやるのが照れくさくてしょうがない。身の置き所がないんだって言うんだよね。

--桑田佳祐さんとかもそういう感じですよね。

服部:あーそうなんだ。あの人もそうなんだ。だから宮川さんの場合は…彼は関西ですよね。関西の人っていうのは、割とそういう人多いですよね、照れ屋がね。よく大阪の人はずうずうしくて、って言いますけど、あれは嘘ですよ。生粋の大阪の人っていうのは、僕が知ってる人はみんなそうですから。

--服部先生自身の、昔からの交友関係では他にどんな方がいらっしゃるんですか。

服部:そうですね。やっぱり結局…前田(憲男)さんかな。あの人とは少し距離をおいて付き合ってるんだけど、ま、お互いに非常によく気心がわかっていて。前田憲男さんと宮川さんと…あとすぎやまこういちさんは、学校(成蹊学園高校)が一緒だったんで。すぎやまさんは先輩なんですけど。彼が高校出て、東大に入って、それからの付き合いかな…。学校に彼がコンバス弾きに来たり、いろいろ。

--すぎやまさんていうのは、最初から作曲家だったわけじゃないんですよね。会社に勤められて…。

服部:彼は、フジテレビのディレクターだったんだよね。「ザ・ヒットパレード」のプロデューサーだから。僕は、そういう付き合いの仕事いっぱいしてたし。音楽家では、すぎやまさん…あとは…そうですね…まぁ、あの頃は何人もいなかったですから。一番若手若手って言われてたのが僕と(ボブ)佐久間だから。あいつもいくつかな…もう50越してるか(笑)。みんな普段気にしながら、こうやって、割とね、こう競争してきたら良かったのかもしれないね。

隆之や宮川さんの息子の彬良君とか、やっぱり4〜5人いるんですよね。千住明君とか…彼らもお互いにこう気を遣いながら競争してるっていう。

 

2. 音楽一家3代…服部家の人々

服部克久2

--(服部先生も宮川先生も)お二人とも息子さんが作曲家になられたっていう共通点がありますね。

服部:そうなんですよね。たまたまそうなって。

--お子さんは息子さんお一人なんですか。

服部:娘がソニーレコードにいます。今は国内のプロモーションです、ずっと。もう長いです、4〜5年やってますから。

--まだご結婚はされないんですか?

服部:しないですねぇ。楽しいんじゃないんですか。わかんないけど。

--お子さんも代田に住んでらっしゃるんですか?

服部:一緒には住んでないんです。まぁ、時々恥ずかしそうに「(お父さんのやってる)ラジオなんかに入れてくれるかなぁ…?」とかプロモーションかけたりしてるけど(笑)

--あぁ、なるほど(笑)

服部:まぁ、向こうはやりにくいんでしょうね、きっとね。

--服部先生と言うとやっぱりお父さんの話もお伺いしたいんですが、インターネットでは服部良一先生のオフィシャルサイトがビシッとありますよね。プロフィールや作品リストだけじゃなくて家の中の写真やみなさんのコメントがのってたりして…

服部:「胸の振り子」ってページですね。あれは僕の姪っ子がやってるんです。隆之のいとこの女の子がやってるんですよ。朋子っていって僕の妹の娘なんだけど。彼女はとてもおじいちゃんっ子だったんで、おじいちゃんのこと…僕らに次いで詳しいんですよ(笑)。服部良一ファンのなかにはけっこう大学生もいたりしてね。細かいことを僕らよりもよく知ってたりして…なんかそういうマニアックな感じのサイトですよね。あそこからは結構リンクが張ってあって、僕のホームページや隆之の所にも…いろいろ行けるんですよ。

--我々には非常に便利で嬉しいですけどね(笑)

服部:彼女は一生懸命やってくれて…。今度ね、親父さんが作った「モモタロウ」っていうミュージカルを岡山で2月にやることになったんです。

--それはどういういきさつで?

服部:親父が作曲して放送されなかったヤツなんですよ。…音合わせの日が12月8日、第二次大戦の真珠湾攻撃の日だったんです。書き上げて徹夜して新聞も読まずにフラフラ行ったら「服部さん、今日は何の日か知ってますか?」とか言われて。ミュージカルどころじゃないってことになって中止になったんですよ。それから1回もやるチャンスなくて埋もれてたんだけど、それを今度初めてやるんですよ。

--ラジオオペラみたいな感じですか。

服部:そう、短いから僕と隆之で膨らまして、一応2時間にして。 彼女はその譜面を探してきたんですよね。「こんなのがあった」って。僕らはそういう作品の存在は知ってたんだけど…。

--譜面も発見されたわけですか。

服部:発見ったって…まぁ親父の倉庫の整理してて見つけたんだけどね(笑)

--上演はいつになりますか。

服部:2月のね、8〜9だったかな、9〜10だったかな。ちょっと忘れましたけど、岡山でやるんですよ。(編註:2002年2月9日、10日/於:岡山シンフォニーホール)

--へぇ…。その姪っ子さんは音楽はやってらっしゃらないんですか。

服部:彼女はね、桐朋の声楽科を出て…あの子はアルトかな…。クラシック系の活動は時々してますよ。

--本当に音楽一家なんですね。

服部:まぁ、音楽一家って言ったって、僕と隆之と…それからその朋子ぐらいですよ。まぁ娘はレコード会社だけど。あとは僕の弟で黒テントっていう劇団にいるのが良次っていうんですけど。その息子(服部有吉氏)は、今ドイツでバレエやってます。今はなかなか評判いいみたいですね。

--先生の子供の頃っていうのは、お父さんの音楽教育っていうのはあったんですか。

服部:親父と僕の間では、ないですね、そういうのは。何も親父に言われたこともないし。それから「こうしなさい」とか、あんまりそういう風に言われたことはない。

--先生と隆之さんの間には?

服部:ないですよね。だから、隆之に「教えてほしい。これどうやって書くの?」って昔聞かれた時は「じゃぁ、ドラムだと4000円。ベースの書き方なら3000円」とかいって(笑)。そしたら「じゃぁ、いい」って、あいつケチだよね(笑)。タダで教えてもらったのはすぐ忘れちゃうから。金取ろうと思ってね。

--まぁ、普通の音楽教育を学校に任せて、身近な音楽教育はなかったということですかね…。 そういえば服部先生は作曲を全部頭の中でピアノを弾かずになさるとか…これは先天性なものなんですか。

服部:そうですよ。僕はそうしてますし…。親父はピアノ下手だったんで、あんまり弾かなかったかな。ピアノは横にありましたね。譜面向かって曲を書いてこっちに脇にピアノをおいて…ボロ〜ン♪とかってやって…確認のために弾いてたみたいですね。

--だいたいみんな頭の中に鳴ってるっていう…。

服部:よく映画でね、バーッて弾きながらこう書くっていう…あれは嘘ですよ。あんなのしてたら先に進まないですよ。

--(笑)

服部:ダーッて書いて「ここ大丈夫かな?」っていう時に、ちょっと確かめる。だいたいはそうやってやるんじゃないんですか。他の人が作曲してるところを見たことがないんでわかんないんだけど。

--オーケストラの譜面ですよね…何パートも全部頭の中にあるなんてすごいと思いますけどね。

服部:うん。ただ譜面書くだけなら3年ぐらい勉強すればだれでもできるような話なんですよ。

 

3. テレビ局回って営業活動…仕事と遊びに明け暮れた20代

服部克久3

--お父さんも先生も音楽的な幅が…例えばクラシックからポピュラー音楽から歌謡曲、ジャズとかね…その辺の守備範囲の広さっていうのは、後から後から広がっていったものなんですかね。先生の場合だとどうなんでしょう。

服部:まぁ、好奇心が強いんですよね。だから音楽は別に…ジャンルは昔から問わない方だったから。フランスに行くっていう話になった時は、基本をやっぱりやっておいた方がいいだろうっていう程度の話に僕は乗っかっただけであって、クラシックをやろうと思って行ったつもりでもないし。行ってる間もコンサートも行ったけど、結構ジャズとか行ってましたからね、シャンソンのショーとかね。イブ・モンタンやエディット・ピアフなんかも見に行ったし…もうみんな亡くなってしまいましたけどね。好奇心が強かった。やれば何でも面白いんで。だから五木ひろしの音楽監督をやったこともあるし、山口百恵のラストコンサートもちょっと付き合ったし…なんでもやりましたね。吉本の音楽も最初の頃やってましたよ。まだ吉本が今ほど有名じゃない頃の。だからなんでもやってたんですよ。

--外部の人がそういう仕事を振ってくるというよりは、ご自分で積極的になんでもやってらしたんですね。

服部:あの…まぁ、けっこう遊んでたから金がなくなると、放送局をずっと回ってくるんですよ。まずは「1」(チャンネル)から行こうって言ってNHKに行って。「おはようございまーす」とか言って制作の部屋回ると「おぉー克っちゃん、いいところに来た」って言って…。

--売り込みもしてたんですね(笑)

服部:そうそう、売り込みなんだよ(笑)。金がないから、小遣いほしいから「なんかないの?」「あぁ、ちょうど明後日までなんとか…」って。

--それは20代〜30代の話ですか。

服部:デビューして…だから25〜7歳かな。

--営業にご自身で行かれてたんですね(笑)

服部:えぇ。で、今度は「4」に行って「おはよう」とか言って。「あ、いいところに来た」ってね。…だいたいそういう具合です。それでまぁ「1」「4」「6」「8」「10」って行って回って帰ってくると、もうこんなに仕事あって困ったな…っていう。遊びにも行けないっていう(笑)。それで、終わって徹夜して酒飲みに行って血吐いたりしましたよ、よくね。

--なんか、年間3000曲とかどこかで見ましたけど、壮絶ですよね。単純計算すると1日10曲じゃないですか。

服部:年間3000…もっとかなあ…時によってはね。最近僕の作品を整理したんですけど、タイトルが7000タイトル。で、スコアがこうバッてあって。たとえば「ミッシェル」だったらこう二袋ぐらいあって。そこにいろんな編成のスコアが入ってるんですよ。今までやった2〜30曲のスコアがね。だから、平均で1袋が10はないけれど、でも7〜8あったら、5万とか6万とかってスコアがあるわけですよね。それを今までの数で割ると、いったいいくらになるのかなっていう計算ですね(笑)

--そんなに書けるもんなんですかね。

服部:書けるもんかって自分でも思うんだけど、とりあえず書いちゃった。

--ふつう今1曲アレンジ頼むと、1曲で何日もかかるじゃないですか。

服部:かかりますよ。新しく何か考えるとかかるけど、あの頃は…例えば「ヒットパレード」とか、みんながよく知ってる曲をほとんどオリジナルイントロでダーッて書いていけばいいんですよ。そうするともう…1曲30分ですね、そういうのはね。ダーッて、あんまり考えちゃいけないんですよ、いろんな新しいこと考えないで。昔からある通りに書いて、で、パッて渡しちゃう。で、終わると「1」「4」周りながら…集金に行くんですよ。経理に行ってね。

--集金も(笑)…そのぐらいの量だとすごい金額になるんでしょうね(笑)

服部:もう金はいっぱい入りました(笑)。それで体壊したり(笑)それで宮川さんと毎日しょっちゅう酒飲んでて、もう銀座とかなんとか…。

--遊び歩いてたわけですね。

服部:遊び歩いてた。前田さんはあんまりそういうところには行かなかったんだけど、まぁ、みんなガブガブ飲んで。歌手仲間ともね…ほんとみんな体壊して…水原弘なんて死んじゃいましたからね、結局ね。死ぬほど飲むのもバカだと思うけど、そういう感じじゃないですかねぇ…。

--どのぐらい飲まれるんですか。

服部:もう、わかんないです。とりあえず徹夜して仕事終わると…だって10時とかでしょ。で、前の晩寝てないでしょ。その後行っちゃうんですから。で、3〜4時になるともう寝てんだか飲んでんだかわかんなくなっちゃう(笑)

--ちょっと薬物も兼ねないともたないですよね(笑)

服部:ほんとにもうそういう人も…そっちに行っちゃう人もいましたね。あの頃、そうだな…小林旭とかもつきあってやたら飲んで、3べんぐらいかな、血吐いたの。さすがにアホらしくなって。で、除々に体も飲めなくなっていく…。

--お若い頃っていうのは、中村八大さんも近くにいらっしゃたわけですよね。

服部:八大さんもね、そうですよ。八大さんは、宮川さんと同い年ですからね、あの人。

--同い年なんですか。大先輩だよって言われてましたけどね(笑)

服部:それで、仲間で。時々、あの頃はよく電話しあっててね。「克ちゃん、ちょっと明日映画あるんだけど、今あいてる?」「うん、今日はヒマだよ」「じゃあ、3曲ぐらいBGM書いてくれる?」って言うから「いいよ、いいよ」って言って、あいつの所に行ってターッて書いて「八ちゃん、これでいいね」「うん、いい、いい。ありがと、ありがと」とか言って…。それで帰ると今度は宮川さんから電話がかかってきて「なんとかっていう曲の譜面ある?」とかって「うん、あるよ」って貸しっこしたり。ひとつ譜面があれば、もちろん自分流に料理をするんだけど、元があると楽じゃないですか。だからそういうことはしょっちゅうしてましたね。今は絶対しないですよね。

--仲良しですね(笑)

服部:仲は良かったですよ(笑)仲は今でもわりといいんですけどね。ただ、貸し借りは…ちょっと最近はしないですね。

 

4. サウンドへの飽くなき追求…「歌もの」には興味がなかった

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服部:八大さんって言えば「黒い花びら」も「上を向いて歩こう」も、みんなあの頃あの人たちは、永ちゃん(永六輔)も一緒で……遊び半分ですよね。

--遊び半分?

服部:つまり、「You are my destiny」が流行ったでしょ、じゃあ「黒い花びら」はあの感じでいこうよとか…そういう感じです。「黒い花びら」なんてタイトルだってね、真剣に考えてるとは思えないし。遊び半分て言うか、遊び心一杯ですよね。

--(笑)

服部:「上を向いて歩こう」だって、涙がこぼれないために上を向くんだから。遊び心の精神ですよね。そういうのでみんなヒットしたんですよ。僕は全然ヒット曲とかそういうのはないんだけど…要するに人が歌う歌っていうのはまったく興味がなくて。宮川さんはやっぱりそういうの好きだった。僕と前田さんはサウンドだけを追求する感じで…うまく分かれてたんです。

--前田憲男さんは、デキシーランド系ですか。

服部:彼はモダンですよ。モダンジャズです。正道のジャズですね。オスカー・ピーターソンとか。彼のジャスはやっぱり、たぶん今でも日本でもほんとに何本の指に入るでしょうね…。なにせあの人は努力の人で。

--先生の方は、もっと王道系ですか。

服部:王道っていうか…僕はたまたまやってきたことがそういうことだったんで。世間のその人の評価っていうのは、世間が決めるじゃないですか。自分がいくら言ってもダメなんだよね。「服部克久の経歴を見ると、こういってこういってこういってこうなったから、たぶんこういうもんなら上手だろう」とか…そういうことです。で、上手だろうって言って頼まれるとそういう仕事が多いから、結局それが上手になっちゃうんですよね。みんなそうですよ。前田さんももう「ジャズ」って言われてるから、もうジャズの仕事がダーッといくから、どんどんうまくなるし。みんなそういう感じじゃないですか。だから、王道って言われると、たまたまそういう風になったけど、まぁ、どうなんですかね…自分じゃね(笑)

--宮川さんは日本のヘンリー・マンシーニだって言われてますけど(笑)服部先生どうなんでしょう(笑)

服部:さぁ、どうですかね…。なにしろ僕はとにかく「弦が得意だ」っていうことになっちゃって、そういう仕事ばっかり受けて頼まれてたんだけど…。いっぺん「北斗の拳」ていうのをやったんですよ映画で。20秒間に1人死ぬとかいう(笑)。あれはうれしかったですね。そういうの頼んでこないから普通だと。なんか、もっとこう純愛ものとかさ、なんかこうオーケストラがダーッとなってどうとかっていうね。だから、あの仕事はすごく楽しかったですね。

--実際にほんとうに真面目なんでしょうけど、「真面目な方」っていうレッテルがいつの間にか張られてきたんですね。

服部:結局そうですね。真面目な人っていう風に思われてるみたいですけど、それはもう大嘘で(笑)。あの頃は真面目な奴は一人もいなかったですね。悪い方に行っちゃうか行かないかは紙一重。もう時効だけどあっちのほうに行っちゃった人は何人もいますよね。やっぱりみんな体壊しちゃう…。宮川さんはそれをやらなかったんで、元気なんですよ。

--かなりお元気ですよね(笑)

服部:えぇ、まだまだ元気ですよ(笑)。僕らはみんなそういうのやらなかったから。前田さんももちろんそうだし。いっぺんやったらなんか体に合わなかったからやめたっていう程度じゃないですか、きっとあの頃は(笑)

 

5. 自分のための音楽作り…「音楽畑」の誕生

服部克久5

--先生の40年ぐらいのキャリアのなかで、転機っていうのはあったんでしょうか。20代、もしくは30代のあの時…ご自分で、あそこでちょっと変わったかなっていうポイントは。

服部:ありますよね。仕事をなんとなく始めちゃったから。結局、勉強する間もなかったし、とにかくひたすら書いてた。何年ぐらいしてからかな…やっぱりいくつか挫折とまではいかないけど、失敗があったりして、あんまりいいものが書けなかった。やっぱり忙しかったから、書きとばしてたから…。自分でもちょっと納得がいかなくて…。それで、やっぱり…なんだかちょっとよくないなと自分でも思って。で、それで、うーん、何というきっかけはなかったんですけど、ある時期から作品のクオリティが守れるようになった。このレベル以下は落とした仕事にはならないっていう。何がきっかけかは、はっきりとは覚えてないですけど。そっからは、そんなに自分でも、もっといいもんができたかもしれないけど、お金をもらうだけの仕事はやったなっていう。金をもらうっていうことを意識したのは、たぶん仕事はじめて10年ぐらいたったころですね…。親父からもそんな話をしましたね「10年はなんとかもつ。そこから先が難しい」っていうことを言われて。やっぱり「金をもらうということの意味はちゃんと考えなさい」っていうのは言われてました。金をもらうんだから、遊びで書いてるわけじゃないんだから、それだけの商品を渡さなきゃまずいだろうと。その辺からあるレベルを守れるようになって。で、だけど、それは時間をかけたからっていうことじゃなくて、なんかちょっとしたきっかけでね。学生の時もあったんですけどね、留学してすぐ、うまくいかなかったのが、ある日突然こう、書いたのを全部先生が「いいよ、OK」って言ってくれる。自分で何をしたのかわかんないんだけど。

--なにかをどっかで乗り越えるんですね。

服部:だからよくスケートとか、自転車でもいいけど、毎日ひっくり返ってたのにある日スッと乗れるようになるじゃないですか。まったくあれですよ、あれ。だから、人に「なんで?」って言われても、全然わかんないです。

--体でコツを覚えたんですかね。

服部:そうですよね。結局数こなしてやれば覚えるんですよね。まぁ、習うより慣れろっていう感じですかね。そういうラインを1個越えて…それから「音楽畑」っていうのを今から18年前に始めたんですけど。

--18年前ってことは、今18枚目が出るんですよね。

服部:今年の11月21日に出るんです。明日ですね。

--年間1枚っていうのを守ってるんですか。

服部:そうそう、守ってます。それを書く時に、「服部克久」って名前はみんな結構知ってるけど、「あの人って一体何やる人?」って言われるとなんか自分でもよくわかんない。ずっと人のために働いてきたから、やっぱり自分のもたまにやろうよ、っていう程度の簡単な考えで。それで1作出して。そこからまぁ、それが、けっこう評判になって。今ちょっとやめにくいって感じなんだけど(笑)

--よくネタがつきないもんですよね。

服部:いや、もうネタはね、つきないっていうか、必死ですね、最近はね。でもやっぱりあれを1つ作ったのは、1つの転機だったんでしょうかね。自分のもの、自分の音楽について考えるようになったんですよ。それでコンサートを始めたのがそこから2年ぐらい後かな。そこから自分のコンサートが広がっていって、自分主催のコンサートをやれるようになって。そこに、ありがたいことに10〜20年ぐらいずっといろんな人のために書いてきたことによって、人脈ができたんですよ、タレントさんとの。そういうものを聴いて、また頼んでくる人とか…。例えば、(山下)達郎とか(竹内)まりやとか、あとはニューミュージック系…それから谷村(新司)や、(さだ)まさしも含めて広がっていって、そういう人たちがコンサートを応援してくれるようになって。『ミュージックフェア』でいろんな人に会ったっていうことも大きいですけどね。

--『ミュージック・フェア』も長い番組ですよね。

服部:あれはもう、1964年ですから、始まったのは。

--先生が関わられたのは…。

服部:始まったのが64年なんですよ。僕が関わりはじめたのはその前の番組からだから、1963年から。

--ずっと関わってるんですか。

服部:そうそう。その前に『シオノギ・ザ・ビッグショー』っていうのが3年ぐらいあったかな。それが、発展的解消で『ミュージックフェア』になったんですよ。

--先生の役回りは監修ですか。

服部:ずっと音楽監督。あの頃はもう全部アレンジしたでしょ。今はアレンジしないで持ち込み譜面が多かったり、テープ…プレイバック多いから。あんまやることないんだけど、今は監修だけど。たまにアレンジしますけど。

--めっちゃくちゃ長いですよね(笑)

服部:長いです。そうなんですよ。ほとんど僕の音楽人生そのものだっていう。来年で40年。

--長いですもんね。僕が小さい頃、あの番組が始まると、ああ…明日も学校だって(笑)。憂鬱な気分になりましたよ、明日月曜だって。

服部:あぁーそういう感じなんだ(笑)なるほど…そうね…僕が子供の時は、皆さんも何かで読んでるかもしれないけど、力道山が、プロレスでやたら勝ってて、それをテレビで中継したら、みんな街頭でたかって見てたんですよね。その頃やっぱりうちは音楽が商売だったから、早くからテレビがあったんですよ。もう古色蒼然たる、昔のやつね。それを見てたから、ほとんどテレビが始まった時から、自分の体の中にテレビというものがしみ込んでましたね。

--うーん。圧倒的に。長いっていうのは、驚異的な長さはありますよね。40年間…。

服部:番組続いてるのがすごいでしょ。

--っていうか、番組に関わっていたくても関われない場合っていうのも多いですよね(笑)。それをずっと関わってらっしゃるってのが…

服部:そう…でもたぶん、どうなんだろうね…。終わるっていう話は聞いてないけど、いろいろ…発展的解消はあるかもしれないね、またね。わかんないですけど。

--話が元に戻りますけど、「新世界紀行」の「自由の大地」はいつごろでしたっけ?

服部:あれは、12〜3年前ですか。もとはテレビ番組のテーマとして書いて、それをアルバムに入れようって感じでしたね。

--じゃあ「音楽畑」の方が早いんですね。僕はドキュメンタリー番組のBGMとしては「自由の大地」は頂点を極めたと思うんですよ。それまでにも、それ以降にもそういう曲は沢山あるけれど、「自由の大地」のような曲じゃないとああいうドキュメンタリーの音楽に合わない、っていう風になってきてるような…

服部:ずいぶん…いっぱい書きましたよ。そういうものはね。映画もたくさんやったし。ただ…いつも思うんだけど、BGMっていうのはやっぱり…サウンドがはまればそれでいいんですよね。あそこにメロディーは、ほんとは関係ないと思うんですよ。絵と食いっこになっちゃってね。ま、音楽が邪魔するようなこともあるし、だから、ほんとのBGMを書くっていうのは、あんまり楽しい作業じゃないな、といつも思いますけどね。まあでもドラマの音楽を書くことが、一つの音楽家のステータスになっちゃってて。もう…大河ドラマ書けば偉いみたいな。そういう風なね、風潮になっちゃって。僕は「演歌でヒットした方が偉いじゃないの」っていつも言うんだけど。そういう…なんか…ちょっと勘違いもあったりしますよね。

--でも、先生の場合は、歌ものを追求されてるわけではないとさっきおしゃってましたよね。

服部:ないんですよ。

--やっぱりサウンド重視なわけですよね。

服部:そうですね。だから、結局「音楽畑」のように、インストゥルメンタルで、いろんな楽器の人がそれを弾いてくれる…っていうような形のものが一番自由に書けるじゃないですか。音域もないし、音程もなかなかいいし、そっちの方が。

--じゃあ「音楽畑」はライフワークとしては納得のいくシリーズとしてあるわけですね。

服部:そうですね。楽しんでやってますけどね。

 

6. フランス留学の教え…「tout passe, tout casse, tout lasse」

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--「音楽畑」が18年、『ミュージック・フェア』が40年。1回はじめたことは、耐久力ある方なんですね。

服部:そうですね。あんまむちゃくちゃやんないんで…その…昔酒飲んだ時以外は(笑)。けっこう眠くなると「ごめん!」とか言ってすぐ寝ちゃうし。食べたい時には「お腹空いた」っていうと、すぐ…人をほっぽっても食べに行っちゃうし。付き合いも、最初よく「冷たい」って言われたんだけど、途中でもう苦しくなると「帰るね」って言って、帰っちゃうんですよ、すぐに(笑)

--わりと自分ペースで…。

服部:ある意味で自分勝手。それで、だから自分勝手にやってるんで、体に負担がかかってる所はあっても、基本的には楽なの。

--じゃあ、あんまりストレスとかは感じていらっしゃらないんですか。

服部:ストレス?ストレスは、そりゃ…いっぱいあるよ。ただ、解消法はいっぱい知ってますね。基本的には学生の時からずっとそうなんだけど、フランスの下宿先のおばあさんが言ってたフランスの格言なんだけどね、「tout passe, tout casse, tout lasse」。「tout」っていうのは「すべて」英語の「all」。「passe」は「過ぎ去る」、「casse」っていうのは「break」「壊れる」、で「lasse」っていうのは「水が流れたり、やり過ごす」っていう意味。だから「すべては過ぎ去り」、「すべては壊れ」、「すべては流れいく」と。要するに人生はたいしたことないと。今自分が考えてることも、よく考えるとたいしたことないよと。

--なんか諸行無常の感じですね(笑)。

服部:そう、ほんとほんと。「セ・ラ・ヴィ」ってよく言うでしょ「それが人生だ」って。同じ意味ですよ。「それが人生だね」とかって。フランス人も相当ひどい目に合ってるんですよ。パリコミューンの時は、パリの中だけで、30万も死んでますからね。隣の人を訴えたり…。この間の東ドイツみたいなもんですよ。だから、すごくそういうの彼ら…人生はもろいっていうことを知ってる。だから、そういう言葉がすぐ出るんですよ。まず、それが一番頭にいつもありますね。「たいしたことない」うん。「これ、たいしたことないよ」と。

--パリ留学で一番得たものがそれだったりして(笑)

服部:そう、一番かも?……そりゃちょっとまずいな(笑)。でもね、すごいきつい仕事とか、プレッシャーがかかりそうな仕事…例えば最近だと、ニューヨークの国連国際会議場でやった仕事(1997年)とかベルリンのブランデンブルグ門で、アルフィーとやったんですけど(1999年)、スピーチは英語でしなきゃいけない、相手は外国のオーケストラ…もう大プレッシャーなんだけど…まぁ、これで死ぬこともねぇなーと(笑)、たいしたことないよと。俺よりあいつらの方があがってるだろうって。うん、そういう感じです。

--すごい勉強になりますね、その話は。

服部:いや…もうだって、ほんとにそうですよ。何年前だったかな…もう15年ぐらい前か、沖縄に金環食を見に行ったんですよ。しかも、前の日なんか、ニューヨークから帰ってきて、こんなにへばってるのに、朝、無理矢理に起きて、女房にバカにされながら行って、ゴルフ場で見ようってことになって見てたら、はじまったんですよ。だんだんこうなっていって…真っ黒になって。見たら…普通木漏れ日っていうのは、こう丸くなってるじゃないですか。それがね、輪になってるの。「いや、すげーなー」と思って。あたり全体が紫色になって。もう感激してて涙を流すばかりに見てたんですよ。そしたら隣にね、ゴルフ場だからパットの練習をしている奴がいるんですよ、その真最中に(笑)

--見ないで(笑)

服部:上を見ないで下を見てる。いや、こんなにすごいことが起きてるのにね。まあスタートを一時中断されて頭にきてるのかもしれないけれど…それで「ああ、俺にとって大事なことが、よその人にとって決して大事ではないんだな、大事であるとは限らないんだ」と悟ったわけですよ。

--他人の現実と自分の現実は違うってやつですよね。

服部:そう。俺が「もうだめだ…人生おしまいだ…」と考えたところで、よその人にしてみれば別に関係ないっていう。じゃあそれは…そんなことでは悩む必要ない。それはいろいろありますよ、そういうのはいくつか…。たいていの仕事のプレッシャーはそう思っていれば頭に来ることはないし…

--そうやってコントロールなさってるんですね。

服部:コントロールって言うか…

--柳に風という感じで…(笑)強く決して立ち向かうわけじゃないんですね。

服部:立ち向かったら負けますから。やわらかく。柳に雪折れなしって感じね。

--それ、宮川先生も同じような気がしますけどね(笑)

服部:宮川さんは、また、ちょっと違う対処の仕方なんですよ。あの人の場合は、バーッてこう愚痴をこぼす。電話かかってきて2時間ぐらい「克ちゃん聞いてくれ」とか言って。話終わって「何、どうってことないじゃない」とか言うと「俺もそう思うんだけどさー」とか言って(笑)って言ってるうちに気が変わるところがあって。それが宮川さんのストレス解消法ですね。

--対照的でおもしろい話ですね。

 

7. 「世界のハットリ」交友録

服部克久7

--話変わりますけど「東京ポップスオーケストラ」というのは先生がお作りになったんですか。

服部:えぇ、そうです。昔からね、ポップスオーケストラっていうのが好きで…ポール・モーリアとも仲良かったし。

--フランスやイギリス、アメリカにもあるけど日本にはなかったんですよね、ああいうオーケストラは。

服部:そうそう、読響ポップスとかあったんだけどね…面白くないんですよ。シンフォニーオケが片手間にやってたから。全然面白くなくて、なんとかしようと思ってたんですよ。それであるときなんとなくそれを作ろうということになって。それで作って、年にCD1枚、あとコンサートは年10回っていうペースで。

--それがもう何年も続いてるんですね。

服部:7年ですね。

--あれはやっぱり日本においては幅広い人にコンサートへ呼び込む力になってるんじゃないですかね。

服部:クラシックアレルギーの人もあれだったら来てくれるんですよ。

--ロックやポップスのコンサートは若い人しか行かないけど、オーケストラでなじみ深い曲をやってくれたら…。

服部:そうですね。お年寄りも子供も来ますよ。それに日本にはすごいいいアレンジャーがいっぱいいるのに、今、ろくな仕事ないんですよ、はっきり言って。みんな打ち込みでやってるでしょ。そうするともうちゃんとした編曲をする必要がないし。そういう人達を集めて、みんなにも仕事をやってもらうって感じで。いいアレンジしますよ。

--アレンジといえばビートルズの曲をアレンジしたアルバムをこの夏出されましたけど、ポピュラーミュージックを仕事でアレンジされて、元の楽曲に魅力を感じたものってありますか。

服部:そうですね…。僕はすごく曲名とか覚えるのが苦手で…。歌ったりはできるんですけども曲名がダメで、作曲家の名前もダメ。だから、いつもどういう曲に影響を受けたって言われても、全然自分では浮かんでこなくて。いいなって思う人は、いつもいくつかあるんだけど、名前も忘れちゃって。この間なんかもすごくいいなって思った…シンフォニックタンゴって言ったかな…アルゼンチンのアレンジャーでね。タンゴをロンドンシンフォニーがやっててすごくいいアレンジなんだよね。名前ちょっと忘れちゃったな…。でもピアソラは、昔いっぺん会っていろんなお話をしたんだけど。そういうのは、覚えてますね。タンゴだとどうしてもピアソラっぽくなっちゃうんだけど。

あと僕がフランスにいたときに(アンリ・)シャランっていう先生に習ってたんだけど、(ミッシェル・)ルグランもその先生に習ってたのよ。よく学校で有名な先生とかいたでしょ。なんかおっかないけど有名で、学識があるっていう名物教授。そのシャランて先生はね、名物教授で、芸大でも彼の教科書をずっと使ってましたね。そのシャランがかわいがってた弟子なんですよ、ルグランは。だから僕らの授業の時に「おまえたちはミッシェル・ルグランを知ってるか?」って…ちょうど宮川さんぐらいの年かな。「知ってる、知ってる」って言って。「あいつは今、金のキャデラックに乗っているけど、あいつはこうだった」っていうような話をしょっちゅうしてましたよ。

--金のキャデラック(笑)

服部:嘘なんだけど、例えでね。それで、ヤマハの音楽祭の2回目かな…世界歌謡祭のときにね。僕は音楽監督をずっとやっていて、ルグランが来たんですよね。フランス人っていうのは、もう自分の文明以外は信じないから、もう木で鼻くくってる感じですね。最初は相手にしてなかったのに、ところで、俺はこうでこうでって自己紹介したら「え!おまえはシャランの弟子か!」ってことになって、それからいきなりくだけちゃって、「(シャランは)女癖が悪くて…」とか、「あいつの車の趣味は悪い」とかそんな話になって…それから話すようになった。ほんとフランス人っていうのはバカなの。自分でその人を理解しようとしないの。その人の経歴の中で自分で理解できるものがないとね。ジョルジュ・ジューバンっていうヘタクソなフランスのトランペッターがいるんだけど、『ミュージックフェア』に出たときに、始めは僕がアレンジをやってて信用してないわけ。 やる前から信用してない。で、いろいろ話してるうちに「なんでおまえフランス語しゃべるの?」っていうから「俺、コンセルヴァトアール」って言ったら「おぉ、そうか」って言う感じね。「ちょっと悪いけど、今、音だすから上で聴いててくれないか」って態度が急に変わるわけ(笑)。フランス人はそういう風にね、なるまでが時間がかかる。

--もともとフランス人っていうのはなめちゃうんですよね。

服部:発展性がないんですよ。だから、どっかに行ってその文化を理解することはあんまりしない。自分の文化を持ち込む。嫌な奴だけど、ま、かわいいっちゃかわいいけど。だから、ルグランもそういう付き合いで。だから、いっつも来ると「一緒にコンサートやろう」とか言うんだけど絶対僕はあいつとはやらないって決めてるのよ。あんなわがままな奴…。

--性格悪いですかね。

服部:とってもいい人なんだけど、音楽に関してはもう最悪になっちゃうから。でも、やっぱり、彼のプレイとかね、彼の生き方とか、僕にすごく影響与えてるんですよ、やっぱり。彼の音楽というよりも、その彼の生き方。なんか、いろんなことありますよね。ジャズも、すごい新しいアレンジやったし。今だにバッハの協奏曲をレコーディングして弾いたりとか、クラシックもちゃんとやってるし。だから、すごくなんでもやるのはいいなと。どの音楽というより、その生き方みたいな。

--ピアソラは死んじゃいましたね。

服部:死んじゃいましたよね。あの人も気が短い人でね…。

--あの人はなかなか…天才ですね。

服部:天才ですよね。今またね、見直されてますよね。

--一回お会いになってるんだ。

服部:うん。もう何度も会いました。いっぺん会ったときは、ちょうど…どこの音楽祭だったかな…。あ、ベネズエラだ。彼がこう譜面を直してたんですよ。そしたら…後で聞いたんだけど離婚した後かなんかで、新聞記者が奥さんの話かなんか取材してたんですよ。彼がもう一番嫌いな話題だから黙ってかわしてたのに、あまりしつこいもんだから突然ボカ〜ッて記者をぶん殴ったんです(笑)。ものも言わずに…。ウワ〜って逃げる記者を追っかけて後ろから足でバンバン蹴っ飛ばしてね(笑)

--危ない人ですね…(笑)

服部:うん、ちょっと危ない。ああいう奴だからああいう曲かくのかなと思った。普段はすごく温厚なんです。日本が好きでね彼は。…ほんとに突然ぶん殴ったね。びっくりしましたよ。それが一番印象に残ってますね。

--下手すりゃ警察ざたに…。

服部:ま、大丈夫だったんですけど。

--ではビートルズに関してはなにかありますか。

服部:ビートルズはお目にかかったことはないですね。ただ彼らが来た時に、日本がまっぷたつに割れたっていうか、あの音楽は「認める」っていう人と「認めない」っていう人とね。今けっこう残ってる有名な評論家の何人かはやっぱり「認めない」って言ってたね。さすがに僕ら音楽家は全員「あれは、すごい」って言ってたけど。

--当時ね、クラシックの人に意見求めるっていうのが流行ったんですよね。

服部:流行りましたね。「あれは音楽じゃない」とかね。ビートルズの音楽の書き方はやっぱり、ギターチックな書き方ですよね。〜ジャンジャンジャーン〜ジャンジャンジャーン♪〜って平行に上がったり下がったりする。あれは…ピアノはそういう風にしないからね。ビートルズはやっぱりギターチックですよね。

--最近はアニメ関係のお仕事もなさってるとか。

服部:そうなんですよ。ここんとこ妙にSFものが多くなって。例えば「星界の紋章」とかね「無限のリヴァイアス」とか、そういう子供たちが見るようなテレビのアニメですか。あれはここのところずいぶんやってますよ…3本ぐらいやりましたね。口惜しいことにそっちのCDの方が「音楽畑」より売れたりするんですよ(笑)

--先ほど「北斗の拳」はうれしかったとおっしゃってましたけど(笑)

服部:つまり、手のかけ方が違うから。でもこっちの方が子供は買ったりする。

--マーケットが広いんですか。

服部:そうなんでしょうねぇ。

--ま、しょうがないですよね。

服部:うん。でも、アニメのCDを買った子たちから手紙が来て「服部さんは音楽畑とかもやってるんですね」「お父さんに聞いて買いました」とかね…そういうの逆にうれしいですよね。そういう子たちがいる。

--ちびっこの頃から手なづけといて(笑)

服部:そうそうそう(笑)手なづけるじゃないんだけど…そういう認識はしてくれる。この前も初めてゲームボーイの音楽やりましてね。来年出るんですけど。

--宮川さんも「ヤマト」から、っていうの多いですものね。

服部:そうですよね、ヤマトからフィードバックしてね。「あ、宮川さんってそういうのもやるし、あ、こういうのもやるんだ」っていうね。それ正しい行き方じゃないですか。

 

8. 60歳になったらポルシェ!のはずだった…

服部克久8

--宮川先生にしろ服部先生にしろ、音楽以外の仕事をしたことがないっていうのは、すごいですよね。

服部:まぁ、そうですね…。

--とんでもないそれは才能っていうか、選ばれた人なんじゃないですか。

服部:僕は本屋をやりたかったんだけど。

--本屋?!(笑)

服部:そう、子供の時から本屋。でも、本屋は今、あんまり調子よくないから、良かったのかもしれない。

--小さい時は本屋やりたいと思ってたんですか。

服部:そうそう。親にはいつも「本屋さんやりたい」って言ってました。

--それはなんですかね。

服部:なんでですかね…本はすごく好きだった。本屋にはしょっちゅう入り浸ってたんで。

--今もですか?

服部:今もですね。今も暇あれば本屋、行きますよ。

--なんでも相当通販好きだそうで…機械とかインターネットとかパソコンとかもお詳しいんですか。

服部:好きですよ。もちろん。パソコンも2台ありますし。いつも持って歩いてるな、こうなんか普通のモバイルのようなものも、いつもどこかに入ってますよ、必ず。そうだ、こういう…。メールはこれですぐ見れるし、なんていうんですか…こういうのは好きですぐ買ってしまうという。

--音楽の打ち込みはやらないんですか。

服部:打ち込みはですね、なんとなく、打ち込みをした瞬間にそっちに捕らわれていってしまうんじゃないか、さらわれそうな気がして。ちゃんと、もちろんFinaleも持ってますけど…やってないですね。最近やってる人いっぱい多いんで、スコアの打ち込みなんかは電話して「はい、これを打ち込んどいて」って言えばちゃんと仕事してくれる人がいますから。仕事を取っちゃいかんと。

--(笑)

服部:前田さんはもっと不純(?)な動機で、視力が落ちてきて五線紙を埋めてたら点がうまくはまんなくなってきて「これはいかん」ってので、打ち込みをやってる。

--前田さんでも打ち込みやってるんですか。

服部:うん。あの人はやいですよ。1曲30分で打ち込みでアレンジしてダーッて。すごいスピードですよ。

--では個人的なことを少しお伺いしますと…やっぱり車とかお好きなんでよね。めちゃくちゃ格好いいアストンマーチンに乗られてますよね。

服部:車は好きでしたね。今日はあちこち行くんで…飲むからタクシーですけど。車はずっといろんなもの乗ってて。60になってポルシェにしようと思ったんですよ、ずっと昔から。若い奴が乗るより年寄りがポルシェってかっこいいよねって思ってたんだけど、いろいろ聞いたらあれはお尻が痛いと。痔になるかもしれないと言われて…。半分冗談で言ったんだろうけど。そしたら息子がなんか「ちょっと見に行こうよ」とかって言って自動車を一緒に見に行ったら、ちょうどその時、イギリスのポンドがめっちゃくちゃ安かった時だったんで、やった!って感じで(笑)。 「あぁ、これにしよう」ってね。

--そんな簡単に(笑)

服部:いやいや、ほんと、半分ぐらいになってたんですよ。ポンドがね、ものすごい下がった時があったんですよ。

--半分っていったって高いですよ(笑)。ほんとに、めっちゃくちゃかっこいいですよね、あの車。

服部:あれですごい丈夫なんですよ。

--色は何色なんですか。

服部:ブルーメタリック。夏でもクーラーつけっぱなしでもオーバーヒートしないし。

--もうね、あの車をお選びになるっていうところが、もうカッコイイなと思ってね。

服部:いや、もうポルシェをやめてこっちにしたっていう(笑)

--いや、ポルシェはいっぱいいるじゃないですか(笑)。変な奴もいっぱい乗ってるし。

服部:変な奴もね(笑)。だから、車は好きです。最近はちょっと「あれが欲しいなー」っていうのが特に浮かばないので、じゃぁ、それまでは乗りつぶすかなっていう感じですかね。

--奥さん孝行とかはなさってないですか。

服部:女房ですか。それは一番弱いですね、テーマとしてはね。でも、もう昔からお互いにかまわない。お互いに金の使い道に関しては、無茶はしないけど、いちゃもんはつけない。だから、事後承諾です、お互いに。それをやったために、子供の学資がなくなっちゃうんじゃ困るけどっていう感じ。

--宮川さんと違って真面目路線で。

服部:宮川さんは悪かったからね。

--宮川さんはいい女房もらって助かったみたいな(笑)

服部:あの人は…それはもう死ぬほど感謝しなきゃ。この間の古希の時も、それはもう奥さんに感謝しなきゃいけなかったし。ほんとにいい奥さんですよね。

 

9. いい音楽家が育つ環境づくりを

服部克久9

--最後にちょっと真面目な話なんですが、服部先生は、JASRACの理事であり…ほかにもいろいろな役職をたくさん兼任されてますよね。

服部:まぁ、いろいろやってますね。みんなも反対するんですよ「あんなもんやらない方がいい」って。僕もそう思うんだけど、だけど、それはも…自分が20代30代の時は誰かがやってたんですよ。だからまぁしょうがないかな、順番だから。 

--お父さんもJASRACの…。

服部:会長やってましたね。会長なんていうのは、あれはもう象徴ですから。何をするわけでもない。この間、選挙やったばっかりで、たぶんあと3年やったらやめちゃうと思いますけどね。

--音楽家が本分だけど、ああいうのを背負わされるようになるといろいろ大変でしょうね(笑)

服部:著作権協会は、結局、音楽家じゃないとわかんない部分がいっぱいあるんですよ。だから音楽家がやらざるを得ない。

--立場上、社会的使命っていう。

服部:さぁ…そういうもんなんですかね…わかんないですけど。ま、やむを得ずという感じだから、別にあんまり…。ほんとはそういう役職いっぱいあるんですよ。うん。「いいよいいよ」で…。最近ちょっと反省をして(笑)

--金くれるんだったらいいけども結構くれないんですよね(笑)

服部:そうそうそう(笑)、お車代1万円とかね。寝てた方がいいな、みたいな(笑)

--ほかに音楽業界に対してなにか感じてらっしゃる事はありますか。

服部:まぁ、音楽は結局、自分が若い時から今まで来てみて、全部切り口は同じですよね。今は若い音楽家や少し成熟した音楽家や、いろんな音楽家がいるっていうのが日本は今一番すばらしいと僕は思うんだけど。最近は、世界的にそうなんですけど、音楽家が自分たちの権利を主張するために、演奏代等が高くなったんです。ま、演奏家だけではなく、すべてがね。ますます音楽を作るということにお金がかかるようになって来た。

--そうですよね…。

服部:そうすると、みんな音楽を制作すると言うことに対して二の足を踏むわけですよ。昔はとりあえず録っておこう、とりあえず録音しちゃおう、とりあえず出そうよと。今は「とりあえず」がダメになっちゃったんで、頼むときも、安心な人、この人に頼めばこれくらいのものができるっていう人に頼む。だけど、もしかしたら面白くないかもしれない。こいつ聞いたことないけどやらしてみようみたいな…今はそれはない。だから、新人が出にくい。冒険ができない。だから、業界全体で音楽をつまらなくしている。だから新人にしてみれば結局自分でシンセサイザーで作って、インターネットに乗っけて、聴いてもらうっていう方法しか残ってないですよね。しかしそれに関していえば、今は権利関係で足かせがいっぱいかかるじゃないですか。海賊版も含めてね。クォリティの非常に高い海賊版ができるからね。それが今、一つの足かせであって、ネット上での音楽の使用っていうのが…思ったより伸びてない。本当はもっと伸びるはずなんです。もっと新人が自分の音楽をアップロードして「聴いてください!」っていうのを、やればいいのにやれてないと。

僕が最近思うのは、海賊版はよくないし、取り締まらなくちゃいけないけど、取り締まってもね、やっと捕まえると、もうそこは破産宣告していないんですよ。捕まんなければお金は取れない。その間もうけて逃げちゃう。で、またどこかで始めてる。世界中でそれやってるんですよ。それで、結局僕が考えたのは「元栓処理にしたら」て言ったんだけど。例えばハードディスクにかける。コンピューター買った時に…ま、10万でパソコン買ったら、そのうちの2千円が、ある団体に行くと。それは、その作家に行くと。

--分配がうまくいくといいんですよね。

服部:分配はね、ダメです。うまくいかない絶対。なぜならば、分配はできるけど、分配の精度を上げることはできるけど、上げるための費用がかかりすぎてる。それに全部使っちゃうんですよ。

--その機械にかけて、それを集めて、そっから先はどういう風に考えてるんですか。

服部:それは、これから考えなくちゃいけないんだけど、とりあえず、それをやることによって、一つその…音楽というのは、タダじゃないということがね、わかると思うんですよね。それをうまく誰かこれから、10年ぐらいじゃ遅いな、5年ぐらいで作んないと、ネット上の音楽の流通っていうのは、海賊版を取り締まるっていうのしかないからね。

--自由に流通させたいっていうのと、それがお金にならないと作家に対してどうしようもないっていうのと。

服部:そりゃそうですよ。うん。だって学芸会やってるわけじゃないんだから、みんな、やって売れたら金欲しいんですよね。そうじゃないと次書けないもんね。増えないんだから。どっか他の仕事しなきゃいけない。やっぱり、僕がいつもずっと言うのは「とにかく音楽をタダで使うのは、簡単に使えるけど、そうすると、あなたの欲しい音楽を作る音楽家もいなくなっちゃうけどそれでいいのか?」っていう。

--問いかけをね。

服部:問いかけをずっとやってるんですけど。ま、話はわかるけど、ウチの子供が「お母さん、CD買うからお金ちょうだい」って言うと、やっぱり2000円や3000円あげられないと。「あんたパソコン持ってるんでしょ。ダウンロードしなさい」って話になっちゃうだろうと。

--その狭間っていうのが…。

服部:まぁ…それが人間ですよ。

--矛盾もありますよね。音楽家が得しなきゃまずいですよね。

服部:まずいんですよ。で、まずいんで、みんな一生懸命やってるんですよ。坂本(龍一)なんかも一生懸命やってたんだけど、あいつはもうあきらめて、あ、ダメだこりゃっていう感じなんだけど。だったら、やっぱり金を元栓にかけた方がいいっていうのと…。あと若い子は、タダでもいいから聴いてもらいたい。だって、もともと自分の音楽をみんなに聴いて欲しいんだから。

--無料のものと有料のものの区別を明確にね、きちっとできれば…。

服部:だから、作った人が決めればいいんですよ。これはタダですよ、これはお金ちょうだいって。あれソニーのなんていうロックグループだったかな…ネットで「どうぞご自由に」って言ってダウンロードさせて、もう何十万もダウンロードされたんだけど、その後その倍近く自分のCD売れたってね。やっぱり聴いてからあれはいいっていう…そういうのあるよね。

--でもそういう売り方をマス・ビジネスの手法として第三者に語られるのは危険ですよね。昔も貸しレコード店の是非が問題になりましたけど…

服部:そう。だから売る方のセリフじゃなくて、作る方のセリフとしてならわかるんだけどね。あの人達はそれを使って商売してるわけだから、彼らがそういう理屈を言うんじゃなくて、我々商品作ってる側がそう言うならね、まだわかる。あいつらに言われたかねーな、冗談じゃねぇぞっていう(笑)

--そこは、作られる側がガンガン言った方がいいんじゃないんですかね。

服部:みんな言ってるんですけどね…。でも、今ほんとに…こういう携帯用のパーソナルコンピュータみたいなのにちゃんとMP3が入ってるわけでしょ。ここにヘッドホン入れればちゃんとダウンロードしたの聴けるわけですよね、すっごいいい音で。それから、電話機にもついてるでしょ。それから…女の子が買うようなちっちゃなPCにもいろいろ付いてますよね。動画も1時間見れるのかな…。みんな簡単にできちゃうんで、やっぱりハードディスクか…ま、テープは今ね、課金されてますけど。あと使い道は、またもめるだろうけど、みんなで、権利者が集まって、どう分けるか…。

--その辺が今一番抱えてる問題っていうか、課題だと。

服部:そうですね。やっぱり自分らに跳ね返ってくる問題だから。ま、宮川さんも含めてもう少し真剣に…考えなきゃいけない(笑)

--そうですね。

服部:でもそれを言っちゃうと「じゃ、服部さん、ちょっとこれをやってね」っていう風になるのよ(笑)。だから、あんまり言いたくない、ほんとは。言わないようにして、思ってるだけの方がいいのかもしんない。

--でも、リーダーとして、音楽業界の…。

服部:いや、リーダーじゃないから(笑)、そういう風になっちゃうから、嫌だって言ってるの(笑)

--今はみんな自分でできるようになっちゃってるわけですよね。だからミュージシャンもミキサーも仕事が減っちゃって暇なんですよね。

服部:全員暇だよね。今収入5分の1ですもんね。10分の1って言ったかな。一応、作編曲家協会は、みんなで仕事を探して、お互いに仕事作ろうって言って、今一生懸命やってますけどね。

--協会が動いてるんですか。

服部:うん。もうしょうがないもん、だって。仕事作って「これやんない?」って。そういう助け合う時代ですよね。

--昔は良かったって言っても仕方がないですね。

服部:でもね、機械は発達するけど、やっぱり人間の力っていうのはすごいなって僕は思いますよ。もちろんシンセも素晴らしいけれど、やっぱり、自分で弾いたり吹いたりするのは本当に素晴らしい。世間もアコースティックな音楽に対する認識がもう少し高まってくれればいいとと思いますね。

--そうですね。今日は長い間ありがとうございました。

(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)

常にプロとしての自覚を持ち、評価に見合うだけの仕事をするべきだという、いわば当たり前とも言える認識を忘れていることが多いのではないでしょうか。第一線の作曲家という立場からその権利を守り、作曲家・アレンジャーの代表としてだけでなく、音楽業界全体の発展の為に日夜努力されている服部克久さん。業界全体として取り組むべき問題が山積みの中で、改めて襟を正して考えさせられることが多いお話でした。

さて、ご紹介いただいたのはJASRACの理事としても活躍されているぴあ(株)代表取締役・矢内廣氏です。お楽しみに!!

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