第182回 ソニー・ミュージックレーベルズ 執行役員 木村武士氏【前半】

インタビュー リレーインタビュー

木村武士氏
木村武士氏

今回の「Musicman’s RELAY」はTikTok Japan 宮城太郎さんからのご紹介で、ソニー・ミュージックレーベルズ 執行役員 木村武士さんのご登場です。

学生時代に陸上競技(走り幅跳び)とDJ活動にのめり込んだ木村さんは、大学院を経てソニーミュージックグループに入社。宣伝担当として出会った小室哲哉さんの担当者となり、そのメガヒットを間近で見ることになります。

その後、制作へ転じ、SOULHEADやnobodyknows+、JUJUなどを手掛けられ、執念の制作とプロモーションにより名曲「奇跡を望むなら…」でJUJUをブレイクへ導きます。

現在もレーベルを統括する立場でありながら、若手とともにヒットを追求し続ける木村さんにエピソード満載のキャリアから、今後メジャーメーカーに必要なことまでじっくり伺いました。

(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦 取材日:2021年5月14日)

 

音楽に目覚めるきっかけはYMO

──最初に前回ご登場いただいたTikTok 宮城太郎さんとのご関係をお伺いしたいのですが。

木村:いつも僕らは彼のことを「太郎」と呼んでいるんですが、宮城さんとはソニーミュージックグループの同期入社です。同期は50人位だと思うんですが、割とみんな仲が良くて、特に宮城さんとは「大人になってこれだけつるむ人がいるんだ」と思うくらい仲良くしてもらい、本当に友だちですね(笑)。

その当時、同期の竹中(正洋)君と、あと社外になるんですが、現フジパシフィックの深谷(健)さん、松木(大輔)さんで、入社当時から毎週末遊んでいて、仕事しては夜にまた集まって遊んでみたいなことをやっていたんです。頻度は減りましたが、それが今もまだ続いているという変な関係です(笑)。

──もう20年以上ですよね?

木村:そうですね。20年以上(笑)。

──全員同期なんですか?

木村:基本業界の同期ですね。友だち以上でも以下でもないというぐらい(笑)、なんの気兼ねもない友だちでして。そうしたら今度は宮城さんがTikTokの要職についたので、我々としては彼に色々な相談に乗ってもらっているという関係ではあるんですけど。でもベースは本当に友だちですね。

──仕事関係なくても遊んじゃう?

木村:全く関係ないですね。仕事の話をするのは、本当に最近です。みんなそれぞれ、いろいろな仕事をやっていますが、仕事以外で今でもつながっていられるというのは、ありがたいですよね。この年になってそういう友達がいるっていうのは。

──少年たちのような。

木村:この歳になって何も変わらないという。ちょっと呆れられるぐらいな感じではあるんですけど。

──宮城さんはとてもお若いですよね。

木村:本当に若いですよ。彼は非常に賢いですし、一見クールに見えますが、すごく熱いものがあって友だち想いなんですよ。

──ここからは木村さんご自身のお話を伺っていきたいのですが、お生まれはどちらでしょうか?

木村:生まれは山梨県の塩山市(現:甲州市)という人口3万人ぐらいしかいないようなところです。山に囲まれた本当に何もないところで育ちました。

──塩山にはおいくつまでいらっしゃったんですか?

木村:18までです。高校卒業後、筑波大学に進学して実家を出たんですが、それまでは塩山で生活していました。

──では、木村さんと音楽との接点は何だったんでしょうか?

木村:小学校5、6年のときにYMO(YELLOW MAGIC ORCHESTRA)がはやっていたんです。友だちのお兄ちゃんとかがやっぱりYMOを非常に好きで、そのお兄さんから情報をもらったり、レンタルレコード屋さんに行ってYMOのアルバムを借りては自分でダビングしていました。

それで転写式のインデックスシートで、自分のカセットクレジットみたいなのを作っては、コレクションしてみたいなことをよくやっていて、今でも実家に帰ったらそのテープは残っていると思うんですけどね。それでお年玉を貯めてウォークマン®を電気屋さんで値切って買ったんですよ。よく小学生が普通の電気屋さんで値切れたなと思うんですけど(笑)。

──(笑)。

木村:買いに行って「お金が足りないんですけど…」とダメ元で言ったら、その金額で売ってくれたのにはちょっとビックリして。

──新品ですか?

木村:新品です。そんなことがありつつ、中1になったときに、今度はフォークギターを手に入れました。それも知り合いのお兄ちゃんがやっていて、長渕剛さんや中島みゆきさん、かぐや姫とか、そういうフォークを自分でコピーして、なにをトチ狂ったか、中1のときに学園祭のステージに友だちと出たんですよ。

──いきなりステージ?

木村:ステージで(笑)。向こう見ずって本当に怖いなと思ったんですけど。それでいざ歌い始めたらマイクのスイッチが入っていなくて、気づいた友だちがダダダとステージに上がってくれて、途中からマイクを入れてくれたという苦い思い出があります(笑)。あれ以来、もう絶対に人前に立っちゃいけないなって思いましたし、表舞台に立つ人たちは本当にすごいですよね。

──ご兄弟は?

木村:姉がいて、彼女も音楽好きだったので、その影響もすごくありましたね。あと姉は足が速かったので中学では陸上部だったんですが、僕もつられて陸上部に入ったら、走り幅跳びが人より飛べたので、走り幅跳びを真剣にやって、最終的には全国大会に出るようになりました。

──全国大会はすごいですね。

木村:でも、こういうのは中学校まででいいやと思って(笑)。そんなにグレているわけじゃないんですが、遊びたい盛りでしたし「部活でキツいのはもう嫌だな」みたいな感じでした。ただ入学した日川高校が割とバンカラな校風で、1、2年は坊主にさせられる学校だったんですよ。

──坊主は強制ですか?

木村:強制です。もう軍隊みたいな学校で。今はもう変わっているとは思うんですけど。で、入学後にオリエンテーションみたいなのが2、3時間あったんですが、1年生全員が体育館で応援団に正座をさせられて、応援の練習をみんな泣きながらやるんですよ(笑)。

──一般生徒がやるんですか?

木村:一般生徒が。それで竹刀を持った応援団の指導がバシバシくるんです(笑)。

──1970年生まれの木村さんの時代にもそんな学校がまだあったんですね。

木村:そういう高校だっていうのは知っていたので、早く東京に出たいと思っていたんですが、さすがに高校ではそれも叶わず、いい学校だったので行かざるをえなかったんですよね。

 

陸上を続けるために筑波大学入学〜DJ・クラブカルチャーとの出会い

──硬派な高校だったんですね。

木村:そのバンカラな感じもすごくつらかったので、陸上部にも入らず、社会部という不良の巣窟みたいな帰宅部に入って、毎日さっさと帰っていたら、社会部の先輩たちに捕まって、「なんでオメエら部活来ねえんだよ」とボコボコにシメられて・・・(笑)。で、1学期ぐらいで居場所もなくなり、そうしたら陸上部の先輩が「そんな変なことやってないで、陸上部に来い」と言ってくれて、高校の陸上部に入って、関東大会とかに出るようになりました。

──種目はやはり走り幅跳びですか?

木村:ええ、走り幅跳びです。

──ちなみに、当時何メートルぐらい飛んだんですか?

木村:高校の後期は6メートル80とかそのぐらいだったのかな、7メートル1歩手前ぐらいですね。それで高校最後の試合で競技生活を終えようと思っていたら、その最後の試合の前日に捻挫して、試合に出られなかったんです。また高校時代に全国大会へ行けなかったのが非常に悔しくて、自分の進路を決めるときに「やっぱりやり残しは嫌だな」と思って、陸上部が強かった筑波大に入ることになります。

──筑波大学は陸上をやるために入学されたんですか?

木村:そうです。筑波大の陸上部に入るために筑波大に入って(笑)、4年間、体育会の陸上部にいました。

──それはすごいですね。

木村:ただ、筑波大の陸上部というのは、全国のエース級が集まってくるところで、そこでは自分の成績は下の下なんです。それでも陸上は好きだったのでやっていたんですが、陸上部の先輩たち何人かが、まだクラブになる前のディスコによく連れて行ってくれて「これは面白いな」と思っていたんです。そうしたら先輩の1人がDJをやっていて、それに影響を受けてバイトしてお金を貯めてDJ機材を買い、そこから音楽により傾倒していきました。

当然陸上はやりつつ、バイトしては生活費以外は全部レコードにつぎ込み、クラブ通いも茨城県内だけでは飽き足らず、東京にも出て行くようになりました。その当時、芝浦GOLDに一番カルチャーショックを受けてよく行きましたし、あと六本木の色々なクラブや横浜方面にも行きました。わざわざ茨城から(笑)。

──(笑)。クラブ通いで友だちもいっぱいできたんじゃないですか?

木村:そうですね。次第に自分もお店でDJをやらせてもらうようになったんですが、いま担当していますCreepy NutsのDJ松永が世界一になって知られるようになった「バトルDJ」という世界に目覚めて、スクラッチとかそういった技を多い日は1日8時間くらい練習するようなりました。

──DJを本気でやっていたんですね。

木村:本気でやっていました(笑)。それで大会とかに出て、結構上位にいましたし、ちょっと小さい大会とかでは優勝したりして、ますます「バトルDJ」の世界に傾倒していったというのが、自分の音楽人生の一番大きな流れでしたね。

──陸上をやってもDJをやっても、戦っちゃうんですね。

木村:戦うんですよ(笑)。なにかこう大会とかに出たいみたいな欲があるんでしょうね。当たり前のようにやっていたんですが、別にみんながやっているわけじゃないですし、なぜ僕はそういうものをひたすら目指していたんだろう?というのはわからないですが、自分で技術を体得したり、研究してやったりするのが好きなんですよね。

──やる以上、中途半端は嫌だと。

木村:そうですかね(笑)。とにかく自分の目標を決めて研究してやる、というのが好きなタイプなのかなと思っています。

──そういう人いますよね。「なぜそこまで極めようとするんだろう?」という。

木村:DJだってよくよく考えたら、趣味の世界なのに(笑)。大会に出るために渋谷とかにも行ったりしていたんですが、無茶苦茶緊張するんです。渋谷の公園通りを歩いて大会の会場に向かっている最中に気持ち悪くなっちゃって(笑)。

──(笑)。

木村:「なんで俺、こんなに気持ち悪くなるほど緊張しているんだろう?」と思いながら。嫌だったらやめりゃいいのに(笑)。それでも会場に向かうみたいなことを繰り返していました。

──その後、木村さんは大学院に進まれますが、就職は考えなかったのですか?

木村:大学4年のときに、僕は「ただ座っているだけで楽だから」という理由でゲームセンターのバイトを漫画を読みながらやっていたら、スーツを着た友だちがやって来て「お前なにやっているの?」「どうすんの就職?」って言われて、「なんで?」と聞いたら「お前、今、就職活動厳しいんだよ」って言うんですよ。僕がちょうど大学4年のときに、いきなり就職氷河期になって、それを自分は全然知らなくて(笑)、そこからいろいろ調べていったんですよ。

──そりゃまた、ずいぶんのんきな話ですね。

木村:本当に。そうしたら就職口がほとんど残っていなくて、「俺はなにすればいいんだろう?」といろいろ調べた中にハードのソニーと某放送系があったんです。それで某放送系を受けて、DJのこととか話したら、1回しか面接を受けていないのに突然次の面接で最終みたいになって「え!俺の人生、そんなに早く決まるのかな?」と一瞬怖くなったのと、あとなにを狂ったのか、ソニーのハードのほうも受けていて、なんとなく職種別採用の「人事部」に応募してみたら、途中まで通ったんですよ。

それで割と偉い人との面接で「なんで君は人事部を目指すんだ」と言われたときに、まったくもってその理由が説明できず、自分で話していても「つまらない話だな」と思ったら、案の定落ちたんですね。

そこで「某放送系もこんな適当な形で決めていいのかな…」と考え直して、大学では教職をとっていたので、「教員という選択肢もあるな」という思いもありましたし、自分の中でなにかやり切れていない部分もあるような気もしたので、結局、大学院に進学しました。

 

水虫の研究とDJ活動〜大学院を経てソニーミュージックグループ入社

──大学院での専攻は何だったんですか?

木村:僕はもともと健康教育学という専攻だったんですね。そこで環境保健学という、いわゆる人と環境の関係性や生理学的な部分を研究していたので、大学院もそこを専攻して、試験は大変でしたが一応受かったんです。ちなみに陸上部は大学4年間で終わったんですが、大学院に行っていよいよDJのほうが本格化してきて・・・(笑)。

──DJが本格化ですか(笑)。

木村:ええ。大学院のときは、お店のレギュラーでDJをやっていました。その当時はdj hondaさんやGM YOSHIさんとかバトルDJの第1次ブームで、そういう方々が成功されているのを見て「自分もああいう風になれたらいいな」と思っていましたね・・・あ、これは本当に余談なんですが、大学院では水虫の研究もしていたんですよ(笑)。

──研究者の道も考えていたんですか。

木村:そうですね。教授職いいなと思ったので、そのまま大学院に残っていってということも考えたんですが、片やDJのような未知の世界と、教員のようなすごくコンサバティブな世界を比べたときに、自分は10年後、20年後がわからない世界のほうがいいなと思って、それで大学院3年生のときに、就職活動で広告代理店やテレビ局とか受けて、ソニーミュージックだけ受かりました(笑)。

──ソニーミュージックも倍率高いですよね?

木村:たぶん倍率は高かったです。

──それを通ったのはすごいですね。

木村:自分もなぜ通ったのか本当にわからなかったので、入社して人事部の方に「僕はなんで通ったんですか?」って聞いたら「運」とか言われて(笑)。

──(笑)。

木村:でも、それ以外ないだろうなと思うんですけれどね。

──失礼な言い方かもしれませんが「水虫の研究とDJやっていたと言うし、面白そうだから入れてみようか」みたいな。

木村:いや、本当に「あいつ面白そう」ぐらいの感じだと思いますよ。今は自分もたまに面接官とかやらせていただきますが、やっぱり他の人とは違うゾーンで無茶苦茶やっている子のほうが印象に残りはします。

──木村さんののめり込むところとか面白いと思われたのかもしれないですよね。

木村:そうですかね?(笑)。大学時代に友だちとアメリカに行く機会を得て、ニューヨークのクラブに行ったり、そこからロスに行って、アメリカのDJ大会を観ることができて、その足でサンフランシスコに行って、そうしたらDJ Qbert(キューバート)というバトルDJの神様みたいな人がいるんですが、その人の家に行くことができて、一緒にセッションとかさせていただいたりしたんですね。まあDJもまだ小さい世界だったりするんですが、のめり込んでいったときに、究極的な人に出会えたという経験は、自分が生涯を決めるときにものすごく影響を与えたと思います。

──ソニーミュージックに入社して最初はどのような仕事をされたんですか?

木村:最初の2年はOo RECORDS(ダブル・オーレコード)という部署に配属されました。それこそ今は統合されたんですが当時は「小さなレーベルを作ろう」という走りのときだと思います。で、僕は新卒で初めて配属されました。大瀧詠一さんがそのレーベルのプロデューサー格にいらして、鈴木蘭々さんや渡辺満里奈さんがいらっしゃいました。

最初はそこで2年間宣伝をやったんですが、自分でもあきれるぐらい仕事ができないなと思いました。最初は電話を取っても「あ、○○様はいらっしゃいません!」みたいな、トンチンカンな受け答えばかりで(笑)、電話を切ったときに「自分の能力ってえらい低いんだな…」と痛感しました(笑)。

──(笑)。

木村:それで、その瞬間に「この会社には自分が独立してできるぐらいになっていないと、いられないな」と思いました、勝手に(笑)。それで「早く独立できるくらいに実力をつけなければ」とすごく思いました。

──このままでは長くはいられそうにないと。

木村:このままでは下手したらクビになるなと思いましたし、会社にいるにしても外に出るにしても、自分で仕事を生み出したりできないと、この業界にはいられないと強く思ったんです、何故だか(笑)。

例えば、入社当時は、メディアに宣伝で行って「これ、お願いします!」みたいな人間関係をすぐに築くことがそんなに得意ではなかったです。それでも先輩ばかりの部署でしたから割とハードに育てられて、「ラジオ局に行って、曲をかけてこられないんだったら帰ってくるな!」って言われて「わかりました!」みたいな(笑)。

いまでも忘れられないんですが、あるアーティストを「オールナイトニッポン」でかけてもらおうと思って、みなさんが入ってくる深夜12時前にニッポン放送の入口で待って「お願いします!」と声をかけて、1部が終わったら「お疲れ様でした!」とまた挨拶して、2部の人たちが入ってきて「おはようございます!」、2部が終わったら「お疲れ様でした!」で朝の5時というのを1か月間、ほぼ毎日繰り返したんです(笑)。

そうしたら、神田さんというディレクターの方が「ナインティナインのオールナイトニッポン」という聴取率がすごくある番組でかけてくれて「おー!かかった!」とめちゃ嬉しかったんですが、すぐには数字に結びつかず・・・もちろん曲がかかることはいいことで、かけていただいたことはすごくありがたいんです。ただ、やっぱりヒットさせるのって、そう簡単なものでもないということも、身をもって感じました。

──それだけ勢力的に動いてもヒットには結びつかないんですね。

木村:そんなに甘いものではないですよね。それで入社3年目に、丸山(茂雄)さんが「TK(小室哲哉さん)がソニーミュージックでプロデュースするレーベルを作ろう」とプロジェクトを立ち上げて、その時にチームに異動になりました。そうしたらいきなり「お前はタイアップとってくる担当ね」と言われて、自分の名刺の肩書のところに「電通担当」と書かれて、毎日、電通に行っては飛び込みで「タイアップないですか?」とプレゼンテーションするんですよ(笑)。

この「電通担当」ってよく考えるとおかしくて、普通、電通さんが「○○担当」と企業さんの担当をするわけじゃないですか? それにも関わらず「電通担当」って構図的におかしいと電通の人は気づくわけですよ。「この“電通担当”ってどういうこと?」と。つまりその肩書は、話の入り口を掴むみたいな役割なんですね。それで毎日毎日電通に行っては「すみません、電通担当の木村です」って言っていました(笑)。

 

小室哲哉氏の付き人として国内外を飛び回る日々

──ちなみに他のレコード会社には電通担当っていたんですか?

木村:エイベックスさんにそういう担当がいる、というのを聞いてきたみたいで。それで鈴木亜美さんのプロジェクトがちょうど立ち上がっていくときに、僕は電通担当もやりながら九州の地域担当もやっていたんですが、鈴木あみさんが福岡でやる店頭イベントに突然「小室哲哉さんが来たいって言っている」って話になったんですよ。

そのことをFM福岡さんに相談したら「そんなことがあるんですか!」とイベントは次の日だったのにワイド番組をブチ抜いて、いきなり小室特番みたいなのを組んでくれて、中継車出してトークイベントをやろうと。結局イベントはやったんですが人が集まりすぎちゃって、大変な騒ぎの中、終わったんですね。

それで今はソニー・ミュージックエンタテインメント コーポレートビジネスマーケティンググループ兼ミュージックレインのシノ(篠原廣人氏)さんという上司が「大変だったな」と、夜飲みに連れて行ってくれて、シノさんが「お前はなにになりたいんや?」って聞かれて「僕は制作になりたいんです」みたいな話をしたんです。シノさんは先に東京に帰って、僕は福岡営業所の人にお礼をして帰りに、シノさんに連絡をしたら「お前、そのまま大阪に行け! 明後日、同じことをしたいっておっしゃってる!」と言われて(笑)。

──うわぁ・・・そのまま大阪に行けと・・・。

木村:びっくりです(笑)。それで「FM大阪に竹中さんという方がいるから、その人を尋ねていけ!」と。今、ソニーミュージックグループのCSOである竹中(幸平)さんが、まだFM大阪にいらした時代で、竹中さんを尋ねていって「また小室哲哉さんと鈴木亜美さんで、イベントをやりたいんです」と相談しました。

中一日あったので、竹中さんたちのご指示で色々なプランを組んでいただいたんですが、別アーティストのインストアイベントと時間とか被っていて、タワーレコードの方に「すみません!小室さんでこんなことをやるので」と言ったら「小室哲哉だからなんでもできると思うなよ!」と無茶苦茶怒られながらもなんとかイベントを組み立てていったら、globeさんのコンサートの打ち上げに突然呼び出しがかかって、イベントメニューを見せたら「いやあ、こんなメニューじゃなかなかね・・・」みたいな感じでご破算にされて(笑)、その晩から翌日までに急遽イベントを組み直したんですが、「これはヤバい・・・事件になる」と思いました(笑)

──事件ですか・・・。

木村:逆に言えば事件を起こさないといけないというか、スポーツ新聞の見出しを「大阪、小室パニック!」みたいな感じにしなきゃいけない、というのがミッションで(笑)。それで当時のレーベル代表の北川(直樹)さんに電話して「東京から全員大阪に来させてください!」と応援を要請して、各所でバズを起こすべく仕掛けました。

「これ、誰か捕まりますよ」と竹中さんには言われたんですが(笑)、案の定、最後の丸ビルで人が集まりすぎて警察が来て「これ、誰が責任者ですか? 届け出してないですよね?」みたいな話になり、まだ入社3年目でしたが「すみません、自分が責任者です」と申し出て、「ああ、俺もうここで終わるんだ」と思いました(笑)。

──(笑)。

木村:イベント前日夜から丸ビルの管理の人に連絡をしていたんですがずっと電話がつながらないので、その人が朝来るまで待って、いろいろ事情を話したら「わかりました」とすごくケアをしてくれていたので、警察は来たけれど、なんとか収めることができたんです。その事件がきっかけではないですがシノさんが「あいつは使える」みたいな話を上にしてくれて、それで宣伝から制作のアシスタントになることができました。

──大変だったけれど、そこが転機になったんですね。

木村:制作への入り口はそこでした。その後、小室さんに徐々に近くなっていきまして、段々と小室さんの付き人みたいな感じになり、ロスの小室さん宅に一時期住んでいたんです。最初は当然、打ち合わせでお家に伺うだけだったんですが、段々と家に住むことになり、朝は米を研ぎ、「今日は車を洗うぞ」とフェラーリとか何台も一生懸命洗ったり、猫のトイレ掃除をしたり、家の管理をしながら、小室さんが起きて来るのをずっと待つみたいな生活をしてました(笑)。

窓の外には大西洋がブワーッと広がる大豪邸で、1人膝に猫を置きつつ「小室さん、いつ起きて来るだろう」みたいな感じでずっと待つみたいな(笑)。それで外を見たらクジラがザパーン!と跳ねていて「おお!」って思うんですが、周りに誰もいないから、その感動も伝えられないという(笑)。

──そんな生活をしつつソニーミュージックから給料もらっているんですよね?

木村:ええ。自分はソニーミュージックの人間なのに、突然、事務所のスタッフみたいになって、日本に帰ってきてもついて行かされて、globeさんの楽屋で、小室さんの近くにいるような時もありました。時には、ファーストクラスで僕だけ小室さんの隣に乗ったりしていたんですよ。椅子は倒せませんでしたが(笑)。

──そんな身近にいらしたんですか・・・ちなみにエイベックスの関係者は?

木村:エイベックスの方たちもいらっしゃるんですが、ずっとではなくて時期があるんですよね。ある時期は自分はずっと一緒にいる感じで(笑)。ざっくり言うと3年ぐらいの間、1年半以上は海外にいました。

──それは結構な長さですね。

木村:で、小室さんってどこに行くかわからないんですよ。「じゃあキム、明日からウィーンに行ってください」「ウィーンですか!?」みたいな。ウィーン、バハマ、バリとか世界中のどこに行くのかわからない(笑)。プライベートジェットとかにも乗せていただくんですが、プライベートジェットには客室乗務員がいるわけじゃないので、自分がいろいろな買い出しをして、お世話をしなくてはいけなくてすごく大変でした(笑)。現在のコーボレートSVPの大竹(健)さんに海外での自分の面倒を見てもらってました(笑)

──他にお世話する方はいないんですか?

木村:他に何人もいらっしゃるんですけど、僕が一番下っ端なので(笑)。

──あ、そういうことなんですね(笑)。

木村:東京にいるときに小室さんから朝5時くらいに「キム、今なにしているの?」って電話がかかってきて、もちろん「寝ていました」って答えるんですが(笑)、「今、飛行機の中で、ニューヨークに行くんだけど、こられたりする?」「ニューヨークですか? わかりました」と言って、すぐに代理店の人がチケットを取ってくれて、朝10時の飛行機に乗ってニューヨークに行って、現地でスタッフに電話してみたら「小室さんはもうニューヨーク離れちゃって、ロスに行ったよ、ロスに行ってくれ」と(笑)。それで乗り換えして、真冬のニューヨークからダウンを着たままロスに行ったら「もうハワイに行っちゃったよ」って・・・(笑)。

──もう無茶苦茶ですね(笑)。

木村:「ハワイ!?マジっすか」って、また乗り換えしてハワイに行ってみたいな(笑)。

──プライベートもへったくれもないですね。

木村:プライベートとか本当になかったですね(笑)。

 

▼後半はこちらから!
第182回 ソニー・ミュージックレーベルズ 執行役員 木村武士氏【後半】