第182回 ソニー・ミュージックレーベルズ 執行役員 木村武士氏【後半】

インタビュー リレーインタビュー

木村武士氏
木村武士氏

今回の「Musicman’s RELAY」はTikTok Japan 宮城太郎さんからのご紹介で、ソニー・ミュージックレーベルズ 執行役員 木村武士さんのご登場です。

学生時代に陸上競技(走り幅跳び)とDJ活動にのめり込んだ木村さんは、大学院を経てソニーミュージックグループに入社。宣伝担当として出会った小室哲哉さんの担当者となり、そのメガヒットを間近で見ることになります。

その後、制作へ転じ、SOULHEADやnobodyknows+、JUJUなどを手掛けられ、執念の制作とプロモーションにより名曲「奇跡を望むなら…」でJUJUをブレイクへ導きます。

現在もレーベルを統括する立場でありながら、若手とともにヒットを追求し続ける木村さんにエピソード満載のキャリアから、今後メジャーメーカーに必要なことまでじっくり伺いました。

(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦 取材日:2021年5月14日)

 

制作での挫折とメジャーメーカーとしての気づき

──色々な方から伺いますが、本当に当時の小室さんはすごかったんですね。

木村:でも、小室さんはものすごくいい方なので、確かに猛烈に忙しかったんですが、仕事していて辛いとか全然なかったんですよね。その当時、年末に東京へ帰ってきて「今年何日休んだかな?」と調べたら5日だけでした。あとはずっと動いていたという。

──それはおいくつのときですか?

木村:29〜31歳ぐらいですね。

──ちなみに「行かない」って言ったらどうなりますか?

木村:「行かない」という選択肢あったかな?(笑)ロスの小室さん宅で、朝起きて「今日はなにを食べられますか?」と言って「おでんかな?」「おでんですか??わかりました」とか威勢良く言っていましたけど、心の中では「おでん作ったことねえー」って(笑)。料理なんか全然したことないのにおでんとか(笑)。紀文食品のウェブサイトで「おでんの作り方」とか調べて、それでもわからないから母親に国際電話で「どうやって作るの?」と聞きながら、作ったおでんを小室さんが食べるみたいな。もうお笑いの世界でした。そんなにお食事を作ることはなかったのでお口に合わなかったんですね(笑)

──(笑)。

木村:米を研いでいるときにふと「俺はソニーミュージックに米をとぐために入ったのか」と思ったんですよ(笑)。「でもこの生活、5年は続かないな」と思いつつも、多分この経験は自分の生涯でいつかは笑い話になるんじゃないかなと思ったのと、あとヒットというもののインパクトってどういうことなのかを、間近で感じさせていただけたのは、やっぱり大きな経験でした。

今、あんなヒットってなかなか体験することがないと思うんです。自分はヒップホップやR&B、ブラック・ミュージックが好きなんですが、そういった音楽のライブに来る人たちって特性とか、服装とか、なんとなくカルチャーがわかるじゃないですか。でもglobeさんのライブって会場の入口を見ていると、まるで新宿駅みたいな感じがしたんですよ。

──雑多すぎて?

木村:そう、雑多すぎて(笑)。新宿駅とglobeさんのドーム公演に来ている人たちは、ほとんど一緒な感じがしたんです。そこで「ビックヒットってそういうことなのか」って思ったんですよね。

──なるほど。全員いるみたいな。

木村:「この国全員」みたいな(笑)。そういったことを若いときに体験させていただいたのは、やはりすごくよかったなと思います。

──でも、その木村さんのような役割を知らないうちに振られちゃったら「嫌だよ、こんなの」って言っていいのかわからないし、微妙ですよね。

木村:もともと自分は、周りの人よりできないみたいな気持ちは常にあったかなと思います。最初に配属されたOo RECORDSで、なかなか売り上げが立ちいかない中、それこそ、宮城さんは洋楽担当で「オアシスのライブでロンドンに行ってきた」みたいな(笑)。「かっこいいなー」って(笑)。

──それはどうしても比べちゃいますよね(笑)。

木村:そんなに比べて悲観していることもなかったのですが、当時は「なんか自分は全然ダメだな」と、不遇とは思わないですが。ただ小室さんのところに行って、アシスタント&お世話係みたいな役回りをしていたときも、「自分でアーティストを担当したい」という意志だけはずっとあったと思います。自分でもヒットを作りたいという意志だけは異常にあって、今やっていることをしっかりクリアしないことには、なかなかそこにたどりつけないんじゃないかという感じはありました。

──何もそこまで・・・強烈な使命感と悲壮感ですね。

木村:悲壮感はないですが(笑)、会社の中である程度ミッションをクリアしていかないと、次の切符をもらえない感覚でしょうか。その当時は「お前、頑張ったんだから次こういうことやらせてやるよ」みたいなニュアンスが多少なりともあったと思います。ただ、小室さんのお仕事もドラマティックな日々で、それを楽しんでもいました。二度目ができるかはわかりませんが(笑)。

──やっぱり、そこでもバトルをしているんですよね。

木村:いやいや(笑)。それで小室さんのプロジェクトが一段落したときに「もうあいつ、かわいそうだから好きなことやらせてやれ」って話が来たのがヒップホップで、SUIKENさんやLUNCH TIME SPEAXさん、DEV LARGEさんだったり、アンダーグラウンドでものすごく人気があるアーティストをやっていたラインがあって、そのチームに立ち上がる寸前にジョインしたんですが、もう人生の中で「本当に大変だった・・・」と思うのがむしろその時期でした(笑)。

──小室さんの頃ではなく制作になってから?

木村:ええ。僕もずっとクラブの環境にいましたし、ヒップホップのアーティストたちとは近いところにいたので、すんなり入れたんですが、そういったアーティストたちにしてみたら、僕は体制側の人間でもあるわけです。

──ソニーミュージックというメジャーレコード側の人であると。

木村:昔からストリートカルチャーって、どこか体制に反発して、自分たちの思惑を通さなきゃいけないみたいなところがあるわけじゃないですか? その矢面に立つってすごく大変なことだと身をもって知りました(笑)。

──それって、アーティストたちから見れば「なんだかんだ言っても大企業から給料もらって生きているんじゃねえかよ」みたいな、そういう感覚ですよね。

木村:それでも、やっている音楽は超格好いいし、僕も大好きですし、その美学やカルチャーが大好きなわけですよ。でも制作の立場だと、自分も未熟でなかなか折り合いがつかないみたいなことがあり非常に苦しかったんです。本当に色々ありまして「もう会社辞めよう」と思って、当時の上司で、そのヒップホップチームも一緒にやっていた、現スターダスト・レコーズ取締役の宮井(晶)さんに電話して「すみません、僕、会社辞めます」と言ったら、「お前なに言っているんだよ」と救っていただきました。最終的にはアーティストから「俺やっぱりインディーだったわ」みたいなことを言われまして(笑)。

──「メジャー指向じゃなかった」みたいな?

木村:精神がインディーだったと。もちろんインディーのよさとか格好よさ、アナーキーなかっこよさというのは当然あって、フィールドにマッチすることの大切さをすごく学びました。

その後、契約させていただいたのが、ちょうど2002年にデビューした姉妹デュオのSOULHEADと、そのあとすぐに名古屋のヒップホップユニットnobodyknows+と、当時ニューヨークに住んでいたJUJU。割と近い時期に、この3組と契約させていただきました。

 

ラストチャンスだったJUJU「奇跡を望むなら…」

──JUJUさんと契約するきっかけはなんだったんですか?

木村:先ほど話に出たSUIKENさんのマネージャーだった方から「木村くん、ニューヨークにこういう子がいるんですけど」って、JUJUのデモテープをもらったのがきっかけです。ミックスエンジニアのD.O.I.さんに、プロデューサーのDJ HIRO nycさんともつないでいただきました。

──そのときJUJUさんはニューヨークにいたんですか?

木村:ええ。それで当時、僕はマスタリング作業でニューヨークに行くことがよくあったので、向こうでDJ HIRO nycさんとお話しさせていただきました。それでデモテープは素晴らしい音源だったんですが、なかなかマニアックなところもあって、「自分としては大好きだけど、このままではメジャーでは厳しい」と素直に意見をぶつけたら、やっぱり「自分たちも考えるところがあるから」と言って、話はそこで一旦立ち消えになったんですね。

で、そこから1年ぐらいしたのかな?「もう一度、話がしたい」と連絡が来て、ニューヨークへ行ったら「多くのメーカーの人と話して、みんな割と条件やお金の話をするんだけど、木村くんだけが音楽の話をしていた」と。それで一緒に担当させていただくことになりました。

──そうおっしゃったのはJUJUさん本人ですか?

木村:いや、HIRO nycさんですね。それでコンディ(近藤宣幸氏)さんという当時の上司に報告するために、ニューヨークでのJUJUのライブを観に行ったんですが、歌声は素晴らしいんだけど「ライブではなかなか緊張する人なんだな」というのがわかったんですよね。そのライブは自分でビデオを撮っていたんですが、あまりに緊張しすぎていて、このビデオを持って帰っても「ダメだ」と言われちゃうなと思って、機転じゃないですけど、もう酔うぐらいに手ブレさせてビデオを撮ったんですよ(笑)。音はしっかり入っているんだけど、画面はブレブレのビデオを「すごいアーティストを見つけました。見てください」と、コンディさんと2人で観たんですが「画揺れが気持ちが悪くて観られない・・・」って(笑)。

──(笑)。

木村:「全然わからない」って言われて。「すみません、あまりに興奮して手ブレしてしまって」みたいなことを言ったら「でも声はいいよね」って話になったんです。それで「1回観に行こう」とコンディさんとニューヨークに行き、ライブを観てもらって、本人にも会ったら「いいじゃん!!」と。コンディさん、JUJUに最初に会った一言目でいきなり「JUJUちゃん、アバズレ!」って言ったんですよ(笑)。僕は「これから契約しなきゃいけない人に、この人はなにを言っているんだ」と思ったんですけどね(笑)。そこからさらにJUJU本人との距離も近くなっていき、契約にこぎつけました。コンディさん流の褒め言葉だったんですよね。他の人にはマネできませんが(笑)。

──いきなりすごいこと言われますね(笑)。

木村:でも、JUJUもその感じになんとなくノッてきたところがあって(笑)、そこから一気に距離が近くなり、契約までトントン拍子で行きました。

──コンディさんってとんでもない人ですね(笑)。

木村:コンディさんは「会社のなかでこんな無茶苦茶な人がいるか」っていうぐらい無茶苦茶だったんですけど、ものすごく華もあって、ものすごい音楽ラヴァーで。僕はアシスタントの駆け出しの時に、シノさん、宮井さんとコンディさんの3人に育てられたと言いますか、音楽制作のみならずいろいろと勉強させていただきました(笑)。今でもJUJUに「アバズレ」って言ったのは、忘れられない思い出ですね。

──JUJUさんは怒らなかったんですか?

木村:怒らなかったんです。僕は「なんてことを言うんだ」と思ったんですが、JUJUはそれを面白がって。その懐の深さも魅力でしたね。それでいざ契約させていただきましたがその当時はSOULHEADとnobodyknows+が非常に快調にヒットを飛ばしていたのに対して、JUJUはなかなか結果が出ませんでした。

契約後もJUJUはニューヨークに住んでいて、メールとかも発達してきたので、メールでいろいろな音源のやりとりしつつ、都度ニューヨークへ行っていたんですが、最初の頃は「JUJUがニューヨークにいるということは、僕はニューヨークに打ち合わせに行かなければならない。ということはちょくちょくニューヨークに行かなければいけないなー(笑)」と思っていたんですよ。

──それはおいしい(笑)。

木村:(笑)。彼女もニューヨークで働きながら、シングルを2枚出したんですが成果が出ず、結果2年間リリースせずに制作過程を繰り返してました。「これは、立ちいかないな」と思っているときに、上司から「お前はあのアーティストを『やる』って言ったのに、どうなってるんだ?」みたいなことを言われまして。その言葉に「次がラストチャンスだな」と思って、過去のデモを改めて聴いて「この曲かな?」と思った何曲かを清水(浩)さんに聴いていただいたら、「この曲は残る曲になるかもしれない」みたいなことをおっしゃっていただいたのが「奇跡を望むなら…」という楽曲でした。

そのデモを聞いたテレビ東京の方が深夜ドラマの主題歌に決めてくださり、すぐに制作をしなくてはいけない状況になりました。ニューヨークに連絡はつかないし、海外とでは具体的な制作のやりとりも一向に要領を得ないので、清水さんに「1泊3日で行ってきていいですか?」とお願いして。すぐ飛行機に飛び乗り、出発前にHIROnycさんに一応留守番だけ残してそのままスタジオへ行って、制作チームを集めて「こういう音源にしよう」みたいな。ミュージシャンも急遽すぎて捕まらないから、スタジオの中にいるミュージシャンに「お前、何やっている?」「僕はピアノだ」「じゃあちょっとこっち来て! 取っ払いでお金払うから」って。

──そんな感じだったんですか・・・(笑)。

木村:それで僕は「ノラ・ジョーンズ知っているか? こういうアレンジしたいんだ」なんて言いながら、HIROnycさんと作家のE-3さんと、ある程度ヘッドアレンジを作ってしまうという無茶苦茶なやり方をしたんです。今考えたら「そんなレコーディングないわ」って思いますけど。ホテルに荷物を置いたら即スタジオに行って2日間ずっと徹夜で作業していたので、結局ホテルには泊まらず、空港に戻りました(笑)。

──それはドラマの締め切りが決まっていたからですか?

木村:スケジュールも決まっていましたし、これは電話ではなにも伝わらないし、ちゃんと話しながらやらなきゃダメだと思ったんですよね。それでトラックができて、JUJUには「これがラストチャンス」ぐらいの勢いで12時間歌ってもらい完成しました。よくあんな長いレコーディングやったなと思うぐらいやっていましたね。

──1曲に12時間?

木村:1曲を半日歌っていましたね(笑)。それでなんとか仕上がったみたいな感じです。

──もう執念ですね。

木村:本当に本人と制作スタッフ一同で、執念で仕上げた感じでした。自分で言うのもなんですが、聴けば聴くほど「これはいい曲だよな。やっぱり信じられるよな」と思ったんですね。ただ、問題があって、JUJUは全然売れていませんでしたから、社内でさえ知らないに等しいような状態で「これはいかんな」と思ったんですよね。SNSもない時代だったので、せめて会社の人にもこの曲を知らしめないといけないと思ってやったのが「入口ラジカセ作戦」でした(笑)。

 

イニシャル609枚からスタートした地道なプロモーション

──以前、大谷英彦さんがリレーインタビューでお話していた、エレベーターの前にラジカセを置いて社内プロモーションしたという伝説の・・・(笑)。

木村:伝説とかではないですが(笑) どこにラジカセが置いてあるのかわからないようにして、延々リピートして「奇跡を望むなら…」が、ずっとエレベーターホールでかかっているという(笑)。それに引っ掛かっていただいたのが大谷さんだったという(笑)。

──優秀なA&Rですね。

木村:いやいや、とんでもないです。

──でも、そういったことをやる人って他には誰もいなかったわけですよね?

木村:さすがに誰もやってないですね(笑)。やっても引かれるだけですから。本当に曲が良かったんだと思います。

──社内プロモーションという言葉は昔からあって、大事とは言われていますよね。効果はありましたか?

木村:ありましたね。やっぱり自分が好きでやり始めたことって、最初はほとんど味方がいないわけで、会社の中でもそうなんですよね。nobodyknows+の時にもアシスタントだった光岡(健)さん(現ソニー・ミュージックソリューションズ ゙ライブ&イベントソリューションカンパニー)が「この曲いいですよね」と言ってくれて、その光岡さんと当時同僚だった土井仁美さんと3人で会議して「じゃあこのテープを渋谷に配りに行こうか」みたいな(笑)。たしか止められたと思いますが(笑)。

──テープを街中で配りに!?

木村:デビュー前、ゲリラ的に仕掛けるしかなかったんですよね。やはり1人でも多く味方になってくれる人を見つけるのが重要なのかなと。それこそ当時はCDが主戦場で今よりもイニシャルの数字って大切なのに、ラストチャンスの「奇跡を望むなら…」の最初のイニシャルは「609枚」って来たんですよ。

──たった609枚ですか!?

木村:これは今でも忘れないですね。nobodyknows+のときも最初3,000枚ぐらいで「これじゃどうにもならない」と思って、自分で直接HMVさんやタワーレコードさんに「どうして乗ってくれないんですか?」みたいなメールを送ったんですよ。もうただのウザい奴なんですが(笑)、そうしたら「そこまで言うんだったら乗るよ」みたいな感じで増やしてくれて、5,000枚ぐらいになったとおもいます。だけど609枚って言われたときには…。

──なんですか、その半端な9枚って?

木村:わからないです(笑)。それで「せめて1回、自分で話させてくれ」とTSUTAYAさんの営業会議に入れてもらってずっと話していたら、「そんなに簡単に、今の状況を変えるのは難しいです」みたいに言われたんです。「さすがにこれは厳しいな・・・」と思っていたら、そのTSUTAYAさんが追加で1,000枚入れてくれて1,609枚になったんです。とてもありがたくて、「これなら最低ラインかな?」と思いました。

その後、電通の吉崎(圭一)さんが「この曲いいから」とスバルのCMのタイアップに決めていただいて状況は良くなっていったんです。ただ、すぐにはセールスは変わらないので、清水(浩)さんがユーズミュージックの五十嵐(優子)さんを紹介してくれたんですね。

それで相談したら「この曲は、自分たちも考えさせてくれませんか」とおっしゃってくださって、それから本当に細々したことを五十嵐さんと詰めていったら、11月リリースだったんですが、年が明けてからUSENのリクエストチャートが上がっていって最終的には1位になりました。それを宣伝の小澤(愼仁郎)さんや末安(亮介)さんたちがフジテレビに伝えてくれ、臼田(玄明)さんというプロデューサーが「この子面白い」と取り上げてくださって、USENに20何週チャートインみたいなロングヒットとなり、今のJUJUにつながるわけです。

──本当に地道な作業だったんですね。木村さんの熱意が無ければヒットはしなかったと思います。

木村:いえいえ、とんでもないです(笑)。アーティストがすごいんですよ。逆に言えば自分たちがJUJUに出会わせていただけてよかった、救われたと思っているんですよね。その人のためとかでは全然なくて、やっぱり自分たちがいいなと思っているものを売りたいという感じですかね。一緒にやっていただいたアーティストへの責任みたいなことなのかなと。そして上司だった大谷(現コーポレートSVP)さんやJUJUのチーフマネージャーの園田(蓉子)さんなどをはじめJUJUを支えるスタッフが本当にすばらしいというのが、ものすごく大きいです。

──清々しい。いちファン目線ですね。

木村:いえいえ、素人感満載です(笑)。社内でも会議で聴いてくれた人が「あの曲いいよね」って言ってくれることがすごくうれしいみたいな感じです。

──JUJUさんのようなケースって最近珍しいですよね。昔聞いていたようなヒットの話のようで。

木村:小室さんのところに丁稚奉公的に行かされたり、「木村ってレコード会社としてそういう育ち方をした最後の世代だよね」みたいにはよく言われますが(笑)。でもヒットは、ほんとに一人、また一人と仲間に加わってくださった方のおかげです。

──今時はSNSを使ったプロモーションが主流で、昔の手法はなかなか通用しない時代になっていますが、その最後の時期だったのかもしれませんよね。

木村:本当に最後の最後かもしれません。また、Jeff Miyaharaさんと一緒に作業していた頃に着うた配信でもヒットを経験できたのは、すごく大きかったんです。ただ今のSNSでのヒットというところに関しては大きな壁ですが、それでも若い子たちと「とにかく研究しよう!」みたいな感じで取り組んでいます。ほんと昔話してすみません(笑)。

──素晴らしいですね。

木村:いえいえ。今はダイレクトにコミュニティ・プロモーションをやっていく時代ですが、今でもヒットを作っている子たちというのは、人間関係とかアナログな部分をすごく大切にしている感じがある気がします。

──メディアが変わっても、やっていることは同じ。

木村:メディアが変わっても、誰にどういう風に一緒にジョインしてもらうかとか、この情報を誰にちゃんと伝えて、誰がそれをちゃんと形にしてくれるかとか、一緒になって考えてくれる味方作りはヒットの大きな要因ですよね。アーティストもそうですし、スタッフもそういう子たちがしっかり形を作っていますね。

 

ネットバズを作り、世の中のヒットにまで押し上げる

──今は執行役員という立場で制作に携わっているんですよね。

木村:はい。副代表として第三レーベルグループを担当させていただいています。やはり制作育ちなので何か反応する音を見つけると飛び込んで行っちゃう遺伝子みたいなのがあるなと思っていまして(笑)。未だに「わっ」と思ったアーティストのインスタに「ぜひ1回会ってもらえませんか?」みたいなメッセージを送ったりして。それこそ10代の子とかに会って、すごく勉強をさせてもらうことが無茶苦茶あります。

──まだまだ現場から離れられない?

木村:いやいや、もう限界だと感じます(笑)。今の子たちの曲作りやセンスって俄然進化しているので。

──圧倒的に新しい形が生まれていると。

木村:圧倒的に新しいですね。パラダイムシフトじゃないですけど、プロモーションのあり方だったり、作品作りのあり方とかも、やっぱり概念が違うので。きっとどこかの時代とは巡った感覚もあるとは思いますが、SNSの進化がグッと変えた部分が大きいと感じます。

──例えば、Official髭男dismとかは結構王道のイメージですごくわかりやすいんです。でもYOASOBIとかあの辺に関しては、別の次元に行っちゃったって感じがします。

木村:そうですね。そこはすごく思います。YOASOBIチームの屋代(陽平)くんとか山本(秀哉)くんって、高い才覚とセンスを兼ね備えていて、若い子が何を考えて、どこを心の在処にしているのかをちゃんと見極められているのかなと思うんです。それは単純にラブソングとか、応援ソングみたいなこととは違う、10代のあいまいな部分を見事に捉えながら制作している感じがするんですよね。

──確かに細胞が入れ替わっているんじゃないか?というくらい我々とは違った発想から音楽が生み出されているようですよね(笑)。

木村:いつの時代も音楽ってそういう側面はありますものね。グイグイ進化させていくというか。新しいものってちゃんと出てくるんだなって思います。

──木村さんご自身の今後の目標はなんですか?

木村:やはりビッグヒットを出したいですよね(笑)。ヒットって喜んでくれる人や救われる人がメチャクチャ多いってことじゃないですか。ものすごくマニアックに深く喜ぶとか深く自分で楽しむみたいなことって、自分はすごく好きですが、一つの曲をみんなが一緒に歌ったり、みんなが一つの価値観になって喜びあえるヒット作りはこれからもチームでチャレンジしていたいなと思います。ただ年齢とともに感性が追いつかない部分もあるので、次の世代が生み出すヒットの後押しができたらと、むしろ教えてもらいたいです(笑)。

──木村さんご自身もいい先輩たちに恵まれたでしょうし、次は若い人たちに繋げていけたらいいですよね。

木村:本当にそうです。おっしゃって頂いたように、音楽が好きで、音楽の制作マンになりたいと思って、アーティストやプロデューサー、事務所やメディアの方も含め、いろいろな方々に出会わせていただきましたが、そこで最高級のラッキーが続いたと思うんです。そういうことを下の世代にも感じてもらえるような役割になれたらうれしいですね。

──最後にこのコロナ禍において、音楽業界やエンタメ業界は大変なことになっていますが、業界の今後についてはどのようにお考えですか?

木村:確かに大変な時代ですが、クリエイターやアーティストにはものすごくチャンスが拓けた時代になったんだろうなとも思うんです。ただでさえ音源を世の中に出すというところまではできていたところに、今度は自分たちでバズを生み出せるという。それこそTikTokの宮城さんもそうですが、別にメジャーがプロモーションしている、していない、みたいなこととは関係なく、ある楽曲が響けば、それをみんなが使用して広がっていくという、その広がる装置まで手にしたわけで、ヒットを目指している人たちにしてみたら、究極的な門戸が開かれたって感じがするんですよね。

──去年の今頃は誰も知らなかったかもしれないYOASOBIとか最近テレビにたくさん出ているじゃないですか。そういったことがスピード感をもって実現する。それってすばらしい時代になっている証明ですよね。

木村:自分たちには2つの側面が出てきているような気がしていて、ネットバズをどう作れるかというところが一つと、ネットバズが起きたものを、世の中のヒットにまでしていけるかというのがもう一つのポイントで、その2つを達成するのがメジャーレコード会社にとって必要なことなのかなと思います。

まさにYOASOBIチームが自分たちでしっかりバズを作って、次に宣伝チームが紅白にまで押し出し、そこで初めて年配の方々にまで理解が行き始めたみたいな流れを今後も作らなければと考えています。

──メジャーの役割はどこにあるのかという話ですよね。

木村:レコード会社の中にも新たなゼロからイチを作る人たちが生まれてきていて、そのことに喜々としてチャレンジする会社だったら本当にいいなって思いますし、メジャーが流通や宣伝はもとより、どのフィールドでもゼロからイチをちゃんと作るところにいられるかどうかっていうのが、色々な人がコンテンツ制作に参加できるようになった世界では、とても大切なことかなと個人的には思います。

──最近、若者たちから音楽業界が人気ないなんて言われますよね。音楽業界の裏方として一旗あげようという若い人たちが最近少ないし、業界自体が魅力的に見えなくなっているのではないかと。

木村:若者の人口は減っていますが、音楽好きの割合は変わってないんじゃないかと。それと、そもそも音楽業界に入るということ自体、割とチャレンジな選択肢じゃないですか?自分もエンタテイメントの世界はあくまで楽しむものであって、自分がそっちに行くものとは違うと思っていました。まさか小室さんのプライベートジェットに乗って、世界中を飛び回るみたいなことは夢にも思ってなかったんですよね(笑)。

──想像しにくい(笑)。

木村:全く想像できない人生だなと思ったんです。ただ、今のような時代だからこそ、余計好きなものにはチャレンジしてみていいんじゃないかなと思うんですよね。そうすれば、その先にまた色々な道が開けていくような感じがするんです。でも最初からその道を選択することをやめちゃうと、自分の人生自体に華がなくなっちゃうような気もするんです。

──つまらなくなっちゃう。

木村:そうですね。「僕なんか」「私なんか」と可能性を閉ざしてしまう、選択肢自体から外してしまうことが分岐点だと思うので。だったら、まずは好きなことを選択肢にいれておくことこそが大切なのかなと。強く思っていると、いい出会いもあるかと(笑)。

──不確実な時代だからこそ、好きなことをやろうと。

木村:自分の心に正直に、ワクワクするほうとか「なんかこっちヤバそうだな」「でも、なんか惹かれるな」って方にチャレンジするのが、いいのかなと思います。自分たちのチームもそういうことを大切にしたいですね。

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