第186回 ビクターエンタテインメント コネクストーン制作部ジョイントレーベルヘッド 鵜殿高志氏【前半】

インタビュー リレーインタビュー

鵜殿高志氏

今回の「Musicman’s RELAY」はorigami PRODUCTIONS 対馬芳昭さんからのご紹介で、ビクターエンタテインメント コネクストーン制作部ジョイントレーベルヘッド 鵜殿高志(うどの・たかし)さんのご登場です。

大学卒業後、ビクター音楽産業(現JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント)に入社された鵜殿さんは、大阪宣伝、本社洋楽宣伝、編成担当と洋楽畑を歩まれます。その後タイアップ担当を経て、再び洋楽部へ戻られてからは、Nulbarich、LUCKY TAPES、LOVEBITESなど洋楽的なテイストの邦楽アーティストを手掛けられました。

そんな鵜殿さんにご自身のキャリアのお話から日本の洋楽の現状、そして日本人アーティストの海外進出の可能性までじっくり伺いました。

(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦 取材日:2021年9月17日)

 

origami PRODUCTIONS 対馬さんは優秀な後輩だった

──まず、前回ご登場頂いたorigami PRODUCTIONS 対馬芳昭さんとのご関係からお伺いしたいのですが。

鵜殿:彼がビクターに入ってきたときに、僕はビクターの洋楽宣伝にいて、そこで出会いました。

──鵜殿さんは対馬さんの上司だったわけですか?

鵜殿:いや、上司ではないんですけどね。当時の洋楽ってまだテープ担当という役割があって、要はスタジオを行き来しつつよろず承りますという係なのですが、彼は最初それをやっていました。

──その話は対馬さんからもお伺いしました。倉庫整理に命をかけていたとか。

鵜殿:彼は最初バイトとして入って来たので、倉庫を整理したり、スタジオのブッキングに連絡して予約するとか、そういったことをやり、「宣伝の現場に」ということでピックアップされました。

その後、彼は大阪に転勤し東京へ戻ってきて、本当は洋楽のA&Rになりたいし、うちの部署も皆彼をA&Rにしたかったのですが、会社の都合もあって希望通りにならず・・・結局、彼は独立する決断をしたわけです。そこは非常に残念だったんですけどね。

──見どころのある後輩だった?

鵜殿:はい。本当に辞めてほしくないと思っていました。彼がorigami PRODUCTIONSを始めて10年ぐらいだと思いますが、最初の1、2年はCDのアートワークのコーディネーションをお願いしたり、僕が担当したジェリー・ロペスという伝説的なサーファーのDVDの仕事も彼にやってもらったり、立ち上げの頃にほんの少しだけサポートできたかなと思っています。

──今もお仕事上で繋がっているんですか?

鵜殿:そうですね。ときどき彼のところに所属しているmabanuaくんにお仕事をお願いしたり、ビクターでorigami所属のアーティストをリリースしたこともあります。そういう形でずっと繋がっていて、今でもいい関係です。去年はコロナになり、対馬君は2千万円をドネーションする決断をして「こいつスゲーな・・・」って本当に思いました(笑)。あれはビックリしました。

──驚きますよね。

鵜殿:だって奥さんも子どももいて、家をどうのこうのって言っている最中ですからね。こういう言い方は適当ではないかもしれませんが、身銭を切って仕事している人と、僕みたいに30年間ずっと会社員でいる人との違いがそこにあるんだなと思いましたね。

──いや、そんなことはないと思いますけどね。私も身銭を切っている立場ですが、全然そんなことできません

鵜殿:でも僕も対馬君も同じミュージシャンたちと仕事をしていても、その人たちに対する感じ方だったり、想いというか、その辺は違うんだなと感じました。彼はもともと真っ直ぐな男ですが、本当に漢気があってすごいなと素直に思いました。

──尊敬しかないですよね。

鵜殿:はい。もちろん。トータルでorigamiの宣伝になるとは思うんです。ただ、彼はそういうことを最初に考える人じゃないので。

──思わず「実は200億ぐらいキャッシュが余っていて、そのうちの2,000万ぐらいいいじゃないかという話なんですか?」って聞きました(笑)。そうしたら「いや、老後の蓄えでした」という話だったのでビックリして。

鵜殿:僕もそのあとにご飯を一緒に食べながら「大丈夫なの?」って聞きましたけど、理解のある奥さんがいてこそ決断できたのだと思います。話がちょっと散らかってしまいましたが、彼はそういう優秀な後輩です。

──わかりました。ここからは鵜殿さんご自身のことをお伺いしたいのですが、お生まれは世田谷区、しかも弊社(世田谷区代田)の近所だと伺って驚きました。

鵜殿:本当にその辺です。厳密に言うと、たまたま父が新潟に転勤したときに僕は生まれたので、生まれは新潟なのですが、そのあとすぐに世田谷へ移ってきました。

──お父さんはどんなお仕事をなさっていたんですか?

鵜殿:父は代理店でコピーライターをやっていて、祖父は大学の教授、そういう家庭でした。

──なかなかインテリなご実家ですね。

鵜殿:どうなんでしょうね。そういう家庭だったので、いわゆる普通のサラリーマンになるという感じじゃなかったんですよね。

──ご兄弟は?

鵜殿:弟が2人と、20歳年の離れた妹が1人います。僕の母は、僕が小学校6年生のときに事故で亡くなって、その後、父が再婚して生まれたのが妹です。

──どんなご家庭でしたか?

鵜殿:とにかく父は家に帰ってこなかったですね。

──代理店のコピーライターって家に帰れないぐらい忙しいんですか?

鵜殿:ただ帰りたくなかったのか、外で遊んでいたのか。多分外で遊んでいたと思うんですが、物心が付いたころには父が家にいる印象はなくて、それこそ母が亡くなって、父方の祖母が小学校の高学年からはずっと家のことをやってくれていたんですよね。

──おじいさん、おばあさんと一緒に暮らしていた?

鵜殿:祖父は僕が小さいころに亡くなってしまったので、祖母が母代わりでした。結局、父があまり帰ってこないので、弟2人がいて、結果、僕が父親代わりというのは変ですけど、そういう感じで過ごしていました。ですから、親から「あれはダメ」「これはダメ」と言われることもなくて、自由にやらせてもらえたので、それはよかったかなと思いますね。

 

茅ヶ崎で過ごした学生時代

──学校も世田谷ですか?

鵜殿:その住んでいた家がもともと祖父母の家、つまり父の実家だったのですが、祖父母が茨城の土浦に引っ越すことになったので、そのタイミングで僕ら家族は田園都市線の沿線に引っ越すのですが、小学校の頃は2年おきぐらいに引っ越していて、小学校高学年からは茅ヶ崎へ引っ越し、大学を卒業するまで茅ヶ崎に住んでいました。ただ、家が茅ヶ崎になっちゃったので、なおさら父は帰ってこなくなって(笑)、結局、父は学芸大学に部屋を借りてそっちで仕事をし、週末だけ帰ってくるとか、そんなことをやっていたんです。

──そういったお父さんに反発することはなかったんですか?

鵜殿:それはあまりなかったです。むしろ父がそんな調子なので「こっちはちゃんとしなきゃ」ぐらいに思っていました。

──でも、お父さんは一生懸命お仕事をしていたんだと思います。

鵜殿:もちろん仕事は仕事でやっていたと思いますよ。その姿を見たことがありますし。でも、僕もそうですが、結局仕事をしている延長で「じゃあ、お酒でも・・・」みたいなことってあるじゃないですか? 小さい頃は「なんだかな」と思っていたんですが、仕事をし始めて「結局自分も同じだな」と、そういう意味ではちょっと自分にガッカリしています(笑)。

──(笑)。小中学校の頃、今の音楽の仕事に繋がるようなことはあったんですか?

鵜殿:小学校に上がるぐらいからピアノを習っていました。それは別に自分の意志ではなくて、なんとなく習わされていたのですが、それが今に繋がっているのかな? とは思います。それで中学生ぐらいまでピアノをやっていたのですが「音大を狙うのか、狙わないのか」みたいな話になり、音大に行く気は全くなかったのでやめてしまいました。

結局、音大に行こうとするならそのくらいから本格的にやらなくてはいけないみたいな話と、中学校に入って、ほかにも色々面白いことがあるし、当時は男がピアノを習っているというだけで色々言われる時代だったことも含めて、習いに行くのが嫌になっちゃったんですよね。そのときに音大の女子大生に習っていたのですが、今考えるとその人が怖くて(笑)、それで嫌になっちゃったところもあります。

──音楽を聴く方はどうだったんですか?

鵜殿:小学校の頃は歌謡曲を聴いていて、中学に入って友だちきっかけで洋楽を聴くようになり、その後は洋楽ばかり聴いていました。あと、同時にアイドルも好きで、同い年の菊池桃子さんが好きで買ったりもしていました。ただ菊池桃子さんの曲をあとで聴くと、林哲司さんが全部、編曲も作曲もやっていたり、あとは洋楽をちょっと真似している曲がいくつもあったりとか(笑)、今更ながらに面白いなと思いますけど、当時は音楽として聴いていたというよりは、あくまでもアイドルありきだったんですよね。

──割とごく普通の少年で。

鵜殿:そうですね。それこそMerlinの野本(晶)さんがインタビューで「ビリー・ジョエルが好き」とおっしゃっていましたが、僕もピアノをやっていたのでビリー・ジョエルが好きで、楽譜を買ってビリー・ジョエルを弾いたりしていました。

──素敵ですね。

鵜殿:今はもう弾けないですけど「ピアノマン」とか「オネスティ」を家のピアノで練習していましたね。

──野球やサッカーといったスポーツはいかがですか?

鵜殿:スポーツは好きでしたね。中学のときはやらなかったんですが、高校のときはハンドボールをやっていました。本当はラグビーをやりたかったんですが、ラグビー部が高校にありませんでした。大学に入ったときにも考えたのですが、今からラグビーを本気でやるのは流石に無理だなぁと思ってやりませんでした。以降ずっと観戦専門です。

──茅ヶ崎となるとみんなサーフィンやっているイメージがあるんですが、マリンスポーツはやらず?

鵜殿:やりませんでした。これはよくある話なんですが、湘南のあの辺に住んでいる人で本当に海際に住んでいて、それこそ親も含めてサーフィンをやるような環境の人は別として、それ以外の人たちは全然やらないんですよ。僕の友だちでサーフィンやっている人は誰もいなかったです。

──そうなんですね。雪国の人が意外とスキーをやらないみたいな感じですね。

鵜殿:授業でスケートやスキーはそれほどやらないというようなことを聞いたことはありますが、サーフィンの授業もありません。実際海は身近にあるものの、相模湾の真ん中あたりって危ないんですよ。サーフィン的にはいいようですが、遠浅じゃなくすぐ深くなりますし、ほとんどの場所が遊泳禁止なんです。それから、サーフィンとは関係ないですが、茅ヶ崎以前は青葉台、たまプラーザあたりに住んでいたんですが、そこから茅ヶ崎に行ったときは「ものすごい田舎に来ちゃったな」と思ったことはよく覚えています。(笑)

──ちなみにバンド活動はなさっていましたか?

鵜殿:高校のときに「ピアノできるんだよね」って誘われて、1回だけやったんですが、結局キーボードを和音で押さえるだけみたいな感じでつまらなかったので、すぐに辞めてしまいました(笑)。

──ピアノをやっていた人はそういう風に使われがちですよね。

鵜殿:だから「ごめん、やっぱいいわ」と言って(笑)。それ以降バンド活動はやったことないです。

──高校も茅ヶ崎ですか?

鵜殿:はい。自転車で行ける距離の県立高校に行きました。それで一浪して慶應大学に。僕の父が早稲田で、父と同じになるのが嫌だったので、ずっと慶應に行きたいと思っていたのと、家から日吉が近かったので「俺は慶應に行く」と勝手に決めてました(笑)。

 

「『ぬいぐるみくれ』って言っただけで入ったやつがいる」ビクター入社の顛末

──大学に入る頃、将来の夢などありましたか?

鵜殿:実は中学生から大学に入るぐらいまで、僕は新聞記者になりたかったんです。でも、新聞記者は必ずしも自分の書きたいことを書けるわけじゃないんだということが、大学に入ってからわかったことや、父が40過ぎぐらいで会社を辞めて、フリーランスで仕事をしている姿を横目で見ていて、同じ仕事はしたくないけど、「クリエイティブな」と言うとちょっと安っぽいですが、そういう感じの仕事に就けたらなと思っていました。

──漠然とはお父さんに影響されたんですね。

鵜殿:ええ。大学の話じゃないんですが、対抗心みたいなものはあったんじゃないかなと思います。

──お父様はご健在ですか?

鵜殿:いえ、亡くなってもう5、6年ですかね。70ちょっとだったので若かったですけど。

──大学時代は、どんな学生だったんですか?

鵜殿:本当に普通の、なんでもない学生でしたね。テニスとスキーのサークルに入って・・・みたいな。一応慶應の学生しかいない、しかも帰国子女の人が多いようなサークルで活動していました。

──スキーが流行っていた頃ですよね。

鵜殿:そうですね。それこそレーシングスーツみたいな、ツナギのスキーウェアを着てみんなでスキーに行くみたいな時代でしたね。暖かい季節はテニスをやって、冬はスキー。といっても年に1回、2回、泊りがけで遊びに行くみたいな感じですけど。

──楽しそうですね、女子と行ったわけでしょう?

鵜殿:もちろん男女がいて、大学3年のときに夏、冬の泊りがけの合宿をブッキングをする役割の幹事でした。テニスも大学1年ときにちょっとやったくらいで、あとは本当に飲み会に参加しているばかりで、ほとんど何もしてなかったですね。

──ちゃらい!ずいぶんと大学生らしい大学生ですね。

鵜殿:「ちゃらい」という言葉を久しぶりに聞きました(笑)。本当にごくごく普通の大学生だったと思います。それこそさっきの父の話じゃないんですが、茅ケ崎に帰るのが面倒くさいので(笑)、大学時代の後半は、都内に住んでいた当時の彼女の家にほとんどいて、週末だけ家に帰るみたいな生活をしていました。

──それは弟たちに悪い影響が・・・(笑)。

鵜殿:かもしれないです(笑)。もちろん携帯とかはない時代ですから、居場所だけは祖母に伝えていましたけどね。

──アルバイトは?

鵜殿:飲食のバイトとあと家庭教師はやりましたが、とにかく長くやるのが性に合わなくて。まさか同じ会社に30年も勤められるとは思っていなかったです。学校以外でそんなに長く続いたことがなかったので。

──自分でも驚いていると。

鵜殿:まさかずっと同じ会社にいるというのは自分でも意外な感じです。

──就職活動はどんな感じだったんですか?

鵜殿:僕が大学生のときって、いわゆるバブルなんです。バブル崩壊が始まったぐらいのときに仕事をし始めているんですが、「新聞記者じゃないな」と思い始めて「何がいいかな」と考える中で、頭に浮かんだのがテレビ局で、テレビ局で何か仕事ができたら面白いかもと思っていたんですが、とりあえず色々なところを受けてみようと思ったんですよね。で、ビクターはサークルの先輩がたまたま前の年に入社していたこともあり、受けてみました。

──なるほど。いわゆるマスコミ系ですね。

鵜殿:当時レコード会社ってマスコミにくくられていましたが、マスコミではなくて、やっぱり製造業なんですけどね。でも、当時は一応そういうくくりの中で考えて、ビクターも受けてみようかなぁくらいの気持ちで応募したんです。

──ビクターの入社試験はどんな感じでしたか?

鵜殿:青山スタジオで開催されたビクターの就職セミナーに行ったんですが、就職協定の制約からか、一応、会社側から学生にアクションをしてはいけないということだったので「これ以上なにか聞きたいなら、自分から連絡してください」と言われつつ、最後にお土産をくれたのですが、男は犬のマークのついたバッグ、女の子はぬいぐるみだったので、「あのバッグは使わないなぁ・・・」と思って、終わったときに「すみません、僕、男なんですが、ぬいぐるみの方が欲しいんですけど」って言ったんですよ(笑)。

実は僕の妻が翌年ビクターに入っているんですが、その話をだいぶ後になってしたら「え?それってあなたなの?」と言われて。「前の年に『ぬいぐるみくれ』って言った奴がいたんだよね」と人事の人が言ってたって(笑)。

──逸話になっている(笑)。

鵜殿:「マジか」と思って(笑)。「ぬいぐるみだったら彼女にでもあげられる」と思っただけなんですけどね。

──結局ぬいぐるみはもらえたんですか?

鵜殿:あとでもらいました(笑)。で、そのあとに一応自分で連絡して人事の方に会いに行きました。当時、ビクターは原宿ピアザビルにあったんですが、中2階にカフェピアザという喫茶店があって、そこで人事の方と1時間ぐらい話をしたんですよ。ほぼ雑談みたいな感じだったんですが、そのあとに電話がかかってきて「ちょっと会社に来てくれるかな」と言われて、行ってみたら「内定」と言われたので「え?」と思って「ちょっと考えさせてください」とひとまず帰ったんですよ(笑)。

──(笑)。

鵜殿:それで先輩に報告したら「お前馬鹿じゃないの?内定はとりあえずもらっておけばいいんだ」と言われて、次の日に会社に電話して「すみません、昨日は急にそんなことを言われて気が動転してしまって。是非お世話になりたいです」と電話をして、無事に内定をもらいました。数人僕と同じような人が居たようですが、ほとんどの人はその後何度か面接があったことを後から知りました。で、僕は「『ぬいぐるみくれ』って言っただけで入ったやつがいる」ということになっちゃったんですけどね。

──ちなみにテレビ局は受けたんですか?

鵜殿:受けたんですが受からなかったです。もし受かっていたらそっちに行っていたと思います(笑)。

──それは民放局全部受けたみたいな感じですか?

鵜殿:NHKも含めて受けたと思います。普通の仕事は売り手市場ですが、マスコミは全然売り手市場でもなんでもなかったですし、倍率は相当高かったです。また、「行く気はないけど」と思いながらも広告代理店も受けたりしました。最終面接までいったものはいくつかあったんですが、そのときにはビクターが決まっていたのですごく気楽な感じでやっていました。

いま覚えているのは、ある百貨店さんも面接の練習だと思って受けて、その時に「あなた、うちの会社に来る気ないでしょう?」って言われて(笑)、「ヤバい、バレた」と思って「いや、そんなことないです」って必死にごまかしたのを覚えています(笑)。

──ついついそういう態度をしてしまったんですか?

鵜殿:自分では全然わからないですけど。まあ、今僕が逆の立場だったら多分そんなのすぐにわかるんだろうなって思いますけどね。

 

初めての一人暮らしで大阪勤務〜前任から引き継ぎ洋楽担当に

──当時のビクターはビクター音楽産業ですか?

鵜殿:ビクター音楽産業でした。細かく言うと採用は独自でやっていたんですが、身分は日本ビクター社員で、ビクター音楽産業に出向しているという形だったんです。僕はビクターに決まってから「なんで日本ビクターから書類が来るんだろう?」って思っていました。

──以前はハードに行かされる人もいましたよね。

鵜殿:僕のちょっと前まではそうでした。「ソフトに行きたい」という希望を出して行ける人と行けない人がいるという。僕の先輩でも、もともとハードの営業やっていて、ようやくソフトに来たという方もいました。

──工場での研修とかってまだあった時代ですか

鵜殿:ええ。最初の一か月研修のなかで1週間ぐらいは林間工場にも行きました。朝から歌が流れて作業着を着て作業するという。

──その年は何人ぐらい入社したんですか?

鵜殿:前の年にMCAビクターができて、僕の前の年と僕の年って人をいっぱい採ったんですよね。前の年は50人ぐらい、僕の年も30人ぐらい採っていました。

──まさにバブル入社組ですね。最初の配属はどこだったんですか?

鵜殿:大阪営業所です。「大阪の宣伝をやってくれ」と言われました。それで関東圏以外に住んだことがなかったのに、いきなり関西圏で1人暮らしをすることになりました。

──ビクターの大阪営業所ってどこにあったんですか?

鵜殿:当時は梅田の堂山町にありました。梅田の中心地で、裏はもう全部繁華街みたいな場所で、うちとソニーさんが向かい合っていました。今でもAPという言い方をしますが「エリアプロモーションをやりなさい」と言われて、最初の1年は、「スピードスター」という高垣健さんがボスの邦楽レーベルができたときで、スピードスターとその元のレーベルである「インビテーション」の宣伝をやって、2年目に本当はスピードスター専任でプロモーション担当をするはずだったのが、洋楽担当の人が辞めちゃって「お前洋楽好きだよね」と洋楽の専任になって、そのあとずっとやることになります。

──洋楽を担当するきっかけは前任者が辞めたからなんですか。

鵜殿:きっかけはそうですね。ただ、会社に入るときに「MCAに行きたいです」って言ってみたのですが、別に英語ができるわけでもないし、今思うと特に洋楽の仕事をさせる理由がないわけですから、結局行けなかったんです。当時のビクターはもう洋楽メジャーレーベルがなくなっていて、洋楽的にはインディーみたいな状況になっていたので、その時の何もわかってない僕は「あまり面白さはないなぁ」と思ってたりしました。

「大阪に行け」と言われて「邦楽かぁ。あまりよくわからないなぁ」と思いながらやっていたんですが、大阪ってある意味色々なことを任せられて、自分で考えて何かをすることができる場所だったので、事務所の人とのリレーション、東京の本社とのリレーションみたいなことを含めて「邦楽も面白いな」と思い始めた矢先に「やっぱり洋楽やって」と言われて…(笑)。

──洋楽宣伝ということは放送局へのプロモーションですか?

鵜殿:基本的にはそれがすべてですね。ほとんどFM802とFM大阪で、たまにテレビ局に行くみたいな感じでしたね。基本的には毎日802に行っていました。それこそ東京にJ-WAVE、大阪に802という独立系のFM局ができた時期でした。先ほども話しましたが、ビクターの洋楽は90年ごろに全部のレーベルがなくなってしまっていたので、東京はとにかく「J-WAVEでかかりやすいものを」ということで、独自にヨーロッパなどからアーティストをピックアップしていたんですが、J-WAVEではかかるけど、802ではかからないというものがいっぱいあって結構しんどかったんですよね。

──そんなにかけてくれる曲が違うものなんですか?

鵜殿:全然ノリが違うので。誤解の無いように言えば、当時の大阪はもっとベタなものが好まれるというか。洋楽の担当になって1年半ぐらいは、そこが一番キツかったですね。

──関西に実際に住んでみて、どこに違いを感じました?

鵜殿:やっぱり人との距離感の作り方はちょっと違うのかなと。「外国っぽいな」と思ったんですよね。最初はすごく愛想よく挨拶してくれるんですが、二度目以降がそっけなくなってるんですよね。ただ、きちんと理解し合うようになるとものすごく距離が近くなって親身になって応対してくれる、という。その部分はちょっと違うのかなと思ったりしました。

──愛想はいいけど、意外と壁がある?

鵜殿:そうだと思いました。京都の人なんかよくそう言われますけど、大阪の人も神戸の人もみんな同じだとその頃は思っていました。(笑)

──その距離を詰められない人にとってはつらいですね。

鵜殿:つらいと思います。それができるかできないかで大分違います。もちろん仕事で放送局へ行って、自分が持っているものが相手の求めているものなら、変な話、距離は勝手に縮まるわけじゃないですか?そういう意味では別に会社のせいにしたいわけじゃないですが、当時ビクターがやっていた洋楽はいわゆる有名アーティストではなかったこともあり、昨日あいさつに行ってすごくいい感じの人が、次の日行ってみたら全然相手にしてくれないみたいなことは結構ありました。でも、距離が縮まるようになったらやりやすくなりましたね。

──ただ、住んで楽しい町であることは間違いないですよね。

鵜殿:そうですね。ちょっと表現がよくないかもしれませんが、大阪って日本一大きな田舎だなと思ったんです。東京のようによそ者が集まった都市ではなく、その土地の人が物事を回しているので。当時802の影響力はものすごくありましたし、神戸と京都を含めた関西圏って、例えば802で自分が何かをやればきちんと伝わりきるサイズ感なんですよね。そこが東京に戻って仕事をするにあたって感じたギャップであり、でも関西圏を担当し、自身の仕事によるヒット作りを経験できたことが自分の強みになったかなと思うんです。

東京の洋楽宣伝は、マーケットのサイズも付き合う人の数も違うので、放送局担当は「オンエアしてください」「ゲストに入れてください」、出版社担当は「レビューをとってくる」「インタビューをとってくる」ということに分業しながらひたすら注力します。極論から言うと自分で考えなくても、とにかく機械のように仕事をすればいいみたいなところがあったんです。

でも、大阪で仕事をしているとそうではなくて、やることは同じでも、そのために「自分はどうしなきゃいけないか」「ここだったらこうする」みたいなことを全部自分で考えられる。ですから「自分がどうしたいか」ということと「仕事でどうしなきゃいけないか」ということをちゃんと考えられる場所であり、さっきの商圏の話じゃないですが、自分がやったことがきちんと響くし、結果が目に見えるというところでは、大阪で仕事をさせてもらったのはすごく良かったと思います。

──そのときの人脈というのは今も役に立っていますか?

鵜殿:そうですね。今でも繋がりのある人が何人かいます。この年になって、みんな偉くなっちゃうと、ある意味無理がきかなくなってはいるんですが(笑)、40代の頃は、当時の人脈を使って「あれやって、これやって」みたいな感じでやれたこともありました。大阪営業所に関しては、最初はしんどかったですけど、結果として充実した4年半だったかなと思います。

 

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第186回 ビクターエンタテインメント コネクストーン制作部ジョイントレーベルヘッド 鵜殿高志氏【後半】

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