第11回 高垣 健 氏

インタビュー リレーインタビュー

高垣 健 氏
高垣 健 氏

ビクターエンタテインメント株式会社 取締役スピードスターレコード本部長

「数あるレコード会社のスタッフのなかでも一番熱心で、興味のあるライブには常に足を運び、自分の足でアーティストを発掘し、育てようとする姿勢が印象的」と、ロフト代表の平野氏にご紹介いただいたのは、スピードスターレコードの創設者、高垣健氏です。 PANTAに始まり、ARB、シーナ&ロケッツ、泉谷しげる、そしてサザンオールスターズ…数多くの大物ロックミュージシャンを手がけてこられた高垣氏の、意外とも言えるキャリアのスタートとは…? 

 
[2000年10月18日/青山・スピードスターレコードにて]

プロフィール
高垣 健(Takeshi TAKAGAKI)
ビクターエンタテインメント(株) 取締役スピードスターレコード本部長

1948年12月5日 神戸市生まれ。1954年 名倉小学校入学。1960年 魚崎小学校卒業。魚崎中学校入学。 中学一年の時、神戸国際会館で大阪フィルハーモニー(朝比奈隆指揮)のベートーベン「第九」を聴き、大きな感動で身体の震えが止まらなくなる。初めて買ったレコードは、ルイ・アームストロング「ハロードリー」とジュリーロンドン「霧のサンフランシスコ」。1963年 同卒業。滝川高校入学。 高校一年の時、ハーマンズ・ハーミッツが初来日し、神戸国際会館で見る。1967年 神戸高校卒業。憧れの北海道大学に落ちて、早稲田大学商学部入学。 男声合唱のグリークラブに入部。大学紛争のため、連日サークル活動と麻雀の日々。1970年7月 フランス・ドイツ・イスラエル演奏旅行で初の海外旅行。1971年4月 早稲田大学卒業。日本ビクター入社。音楽事業本部洋楽制作室に所属。 1973年 洋楽ロック宣伝課立ち上げに参加。この頃、小森治信氏と一ヶ月間のアメリカ旅行。1975年 フライングドッグレーベルが発足。1977年7月 ヤマハのアマチュアコンテストにて、サザンオールスターズと出会う。1992年6月 スピードスターレコード設立。

[主な担当アーティスト]
これまでは:PANTA、ARB、プラスティックス、松田優作、泉谷しげる、フライング・キッズ など
現在は:シーナ&ロケッツ、サザンオールスターズ、UA、Cocco、くるり、斉藤和義、ジャングルスマイル、マッドカプセルマーケッツ、WINO、スタークラブ、GIRAFFE、つじあやの
[フェイバリット・アーティスト]
ニール・ヤング、エルビス・コステロ、ローリング・ストーンズ、トーキング・ヘッズ ほか。
[著書]
『こんなバンドがプロになれる!』 (音楽之友社/1997年)


 

  1. 不良教育パパが与えてくれた音楽環境
  2. ビクター入社!!もちろん希望部署は音楽関係…でも「制作には行きたくない」?!
  3. 突然の異動事件!? 洋楽宣伝課の立ち上げに参加
  4. ついに日本のロックに目覚める!
  5. サザンオールスターズとの出会い
  6. スピードスター・レコードの設立
  7. ポリシーは「アーティストありき、スタッフありき」
  8. 新しい試み、スピードスター・ミュージック
  9. アーティストとは「男女の関係」
  10. プライベートではおじいちゃん?!

 

1. 不良教育パパが与えてくれた音楽環境

高垣 健2

−−神戸生まれだそうですが。

高垣:そうですね…神戸ってちょっと不思議なのね。今でも外国人が多かったりするんですけど、当時からチャイニーズとかコリアンとかね、周りにいっぱいいて、よくケンカがあったりとか、けっこうガラの悪いっていうか、荒っぽい街だったんだですよね、昔はね。

−−神戸がガラが悪いっていうのも不思議な感じがしますけど…どういう家庭だったんですか。

高垣:実は親父は荒っぽくていつも酔っぱらってる、ほんとヤクザに近いノリの男だったんだよね。親父の実家は昔広島でね、米屋かなんかしてたらしいのね。それが倒産して一家離散みたいになって、そのうち戦争で親父が出征して、裸一貫で帰って来て、神戸でアジア貿易みたいのを始めたわけ。それがたぶん昭和20年とか21年ぐらいとかなんだけど。貿易って言うと聞こえがいいけど、かなりやばいことをやってたらしいんだわ(笑)。家にはいつも数人の女の人が出入りしてて、自分のほんとのおふくろも、僕が就職する前後まで全然知らなかったしさ。ぶつ切れの記憶の中に、女の人がいっぱいいた思い出があるんだよね。

−−兄弟はいるんですか。

高垣:オフクロ違いで8つ下に弟が1人いる。まだ神戸に住んでるよ。

−−ダイナミックな生まれ方したんですね。

高垣:そうそう。だからほんと親父はさ、酒に酔っぱらったり、ケンカしたり、手がものすごい早かったからやたら殴られたりさ、複数の女性が家に出入りしてたなっていうボーッとした思い出があるんだよね。

−−そういう方が母親代わりだったんですか?

高垣:そうなんです。それでね、俺のほんとのオフクロだと思っていた人は当然いたんですけど、中学3年の時に病気で亡くなったんですよ。その時もね、お葬式にいろんな女の人が来たんだよね。でも当時はどうしてかわかんなかった(笑)。それからまたすぐ再婚してさ、まぁ、今のオフクロなんだけど。それが中学3年だったからけっこう俺もわりに荒れたりとかさ、危険な状況になったりとかしたんだけど。
でもね、不思議なことにそんな親父だったけど、家にはステレオがドーンとあってね。親父に似合わないクラシックとかタンゴとかジャズとかのレコードがいっぱいあって、クラシックのコンサートに連れて行かれたりとか、映画に連れて行かれたりとかしてたんですよ。だからね、けっこう僕の小学校・中学校時代っていうのは、神経分裂じゃないけど、いろんなことがごちゃごちゃになってるんですよ。非常に厳格な親父だったんで、ある意味じゃ、ものすごい教育パパの原型みたいなイメージもあるんですよ。逆にそれに対しての反発もものすごいあったりしてさ。

−−自分にはあんまり厳しくないのにね(笑)。他人には…

高垣:そうなんだよね。ある人に昔言われたことがあるんだけど、「お父さんはいろんな人生に失敗した。その失敗した自分の人生を息子に託してる。だから厳しいんだ」っていう話をされてね。今でも憶えてるよ。

だってね、親父はおかしいのよ。ものすごい見栄っ張り、突っ張りだったのね、俺から見てもね。戦争中は東南アジアにずっといて引き上げて来たんだけど、親父の履歴書とか書類とかみるとね、出身大学がシンガポール大学っていっつも書いてあるの。そんな大学ないんだよね(笑)。俺にも大学はね、東大か慶應に行けって言われてたのね。どうもね、親父には、そういう夢があったみたいなんだけど、全部やぶれた夢なのよ。俺にさかんに期待してたらしいんだけどさ。

−−いわゆる複雑な家庭環境ですよね?すくすく育つ方が不思議なくらい。

高垣:そうですね。

−−進路についてはどう考えてたんですか。

高垣:それがね、荒っぽいけど厳格な家だったんで、家に対しての反発ってものすごくあって。だって小学校も教育環境のいい所に引っ越そう、とかいって転校してるのよ。受験にいい町ってことで、有名な灘中灘高のすぐ近くに引っ越したわけですよ。灘中灘高まで歩いて5分の所に引っ越して、当然、俺は中学の時に受けさせられたりしてね。落っこちたりするわけね(笑)。そういうのがあって大学受ける時に、まったく違う所に行きたいと思って、北海道大学を目指したわけ。ほとんどドロップアウトに近い感覚だよね。

−−親父のいる所から離れたかったってことですか。

高垣:まぁ、いずれにしても神戸から逃げたいっていう気持ちがあって、それで行ったことのない北海道にやたらあこがれたんですよ。高校3年生くらいの時にね。神戸っていうのは、意外と九州、沖縄は近いんだけど、北の方っていうのは異常に遠い感覚なんですよね。関西から見るとね。それで北海道大学を受けたんだけど落っこちて(笑)、結局早稲田に入ったんです。

−−音楽は家庭で子供の頃から聴いてたんでしょうけど、音楽活動みたいなのを始めたのは大学くらいからですか?

高垣:そうね、高校の頃は1963〜4年ごろかな。ビートルズとかビーチボーイズとかも出てきてるんだけど、どっちかっていうとフォーク好きなんだよね。ピーター、ポール&マリーとか、あの手が大好きでね。それで生ギター持ってね、友達の三須くんと二人で生ギターの弾き語りみたいなことをちょっとかじってたのが高校の2年くらいかな、うん。だから、自分でちょっとやったっていうのは、ほんとにかじった程度で、もっぱら家で、クラシック聴いたり、映画音楽聴いたり…。

−−意外とロック、ロックしてなかったんですね。

高垣:してないですね。ビートルズも当時、ドーナツ盤じゃなくて4曲入りのコンパクト盤っていうのを買った覚えがあるんだよね。33回転の。でもそんなにむちゃくちゃしびれたっていうのではなくて、むしろビートルズよりもハーマンズ・ハーミッツが好きだったりしてさ。ちょっとこう、メロディアスな、甘いものに憧れて。そういうのが好きだったって感じかな。

−−業界入ってからはギンギンにロックやってるのにね。

高垣:そうなんですよね。

−−大学ではサークルとかは入ってたんですか。

高垣:早稲田ではね、グリークラブに入ってたのよ。男声合唱のね。まぁ、当時は新宿で「ともしび」なんて歌声喫茶が変に盛り上がったりして、学生運動と一緒になって、なぜかロシア民謡がすごい流行ったりしてさ(笑)。そういう時期だったからね。ポリューシカポーレとかさ、トロイカとかさ。

−−新宿のその辺に根付いてた(笑)?

高垣:そうそう(笑)。新宿に「てあとろ」っていうジャズ喫茶っていうか芝居の人が集まっていた喫茶店があって、東京に来てすぐね、大学の先輩にそこに連れて行かれたのが、たぶん大学に入ったその日なんだよね。その店は今はもちろんないんだけどさ。それでね、びっくりしたと同時にすごく居心地が良くてね、以来新宿の要通りとか新宿2丁目とかゴールデン街とか、あの辺にね、18の頃からほとんど毎日うろうろしはじめたんですよ。
−−てことは学校はあんまり…

高垣:70年安保闘争のど真ん中で、学校封鎖で、あんまり授業なかったし。当時西武新宿線の新井薬師っていう所に下宿で住んでたので、まぁ、歩いて帰れたんですよね、新宿からね。小一時間かけて(笑)。

−−小一時間?(笑)。朝帰りですよね(笑)。新宿はずいぶんオヤジくさい町ですよね。その頃は大学生がいたんですか?

高垣:えっとね、この間亡くなった東由多加さん、東京キッドブラザーズのね。あの辺の方とか、ジャズでトランペッターの沖至さんとか、なんか、いろんな人と知り合ってね。だから、学生もいたし、なんかやさぐれてた人もいっぱいいて。ま、ヒッピー文化、だよね。ヒッピー文化真っ盛り。特に僕は、神戸で厳格な家庭で苦しめられていたんで、東京に来たら一気に爆発しちゃったんだよね(笑)。

−−炸裂したんですね。(笑)。サークルではどういう活動してたんですか?

高垣:グリークラブには約50人くらいいたんですけど、演奏旅行とかで時々海外に行ったり呼ばれたりっていうことをやってたんですよ。ま、グリークラブってその頃はわりに有名だったんですよね。男声合唱が盛り上がってたのかな。

−−特に早稲田は有名だったのかな?

高垣:そうだね。それでね、東京6大学、東西4大学とかいろんな活動があって、ドイツの合唱連盟とかイスラエル音楽連盟みたいなのとお付き合いしたりして、ヨーロッパに演奏旅行したり、イスラエルで4年に一回行われるチムリヤミュージックフェスティバルっていうなんか不思議なお祭りに参加したり…ユダヤ人の国だからさ、4年に一回ユダヤ教の聖地エルサレムに集まってお参りするわけだよね。その時にユダヤ人だけ集めると国際世論上あまりよろしくないと(笑)。それにたまたま呼ばれたというか紛れ込んで、2週間くらいイスラエルとシリアとの国境でね、キブツっていう共同農場で生活してたんですよ。今から思うと非常にいい経験になりました。岡本公三事件(1972年5月)のちょい直前ですよ(笑)。

−−ほんとに?無事だったんですか?

高垣:そうですね、無事に、なにごともなくね。合計、ヨーロッパに2週間イスラエルに2週間、約1ヶ月の旅で、もちろん初めての海外旅行だしね、すごくいい経験になったんですけどね。

−−じゃあグリークラブの先輩後輩関係がけっこう重要な人脈だったりするんですか。

高垣:そうそうそう。俺ね、すごい楽しい学生生活だったんですよね。早稲田の商学部ってすごくいい加減な学部でさ、レポートも何もなかったんだよね。なんか楽しくてさ、勉強ホントにしなくて毎日歌うたって麻雀やって酒飲んでれば卒業できるみたいなノリで。気がついたら大学4年になってて、就職なんてぜんぜん考えてなかったんだけど、サークルのマネージャーやってて演奏旅行とかで当然お金がなくて先輩からお金をたかるわけですよ。で、先輩の名簿を片っ端から潰して歩き回ったんだけど、その中で意外といっぱい音楽関係の人がいるんですよ、グリークラブだからね。例えば身近なところでいうと三浦光紀さん(前マーキュリー会長)。それから前田仁さん(元ポリドールの制作部長)。それからポリスターにいる牧村(憲一)さんとかソニーの赤井さんとか、いっぱいいるのよ。サークルの先輩。

−−日本の音楽業界はやっぱり派閥的にも早稲田、慶應、多いですよね。今はそうでもないけど、当時はコネもきいたのかな。

高垣:そうだね。やっぱりそういう先輩後輩のノリはあったよね。今でもグリーのOB会がね、年に1回会って集まって歌ったりするんですけどね。実は、明日の夜も、飲み会がちょっとあってさ、4人で集まるんだけど1人はソニー・ミュージックの営業副本部長でしょ。もう1人は凱風舎っていうちっちゃい出版社の社長やってる。あと、代理店のヤツとかね。けっこう変なOBが多いんですよ。

 

2. ビクター入社!!もちろん希望部署は音楽関係…でも「制作には行きたくない」?!

高垣 健3

−−変じゃないですよ(笑)。じゃあ高垣さんがビクターに入社したのもコネ入社ですか?

高垣:コネです。まったくのコネですね。

−−洋楽に入られたんですよね?

高垣:名前は洋楽制作室ですけど、実体はクラシックの国内制作部門なんですよ。だから日本のN響とか読響とか日本フィルハーモニーとかのクラシックの演奏家、それから海外、当時はロシア系と東ドイツ系とか多かったんですけど、そういう所から来る外人のクラシック演奏家の日本での録音。そういうのが中心で、デスクは青山のビクタースタジオの中にあったんですよね。そこではもうまったくの雑用、使いっ走りやってたんですよ。

−−アシスタントエンジニアみたいなことやってたんですか?

高垣:そんなんじゃなくて、もうホントに単なる雑用係。シールドの巻き方覚えたりとかね(笑)。

−−それって、どれぐらいやってんたんですか。

高垣:約2年足らず、けっこうやったんですね。

−−今思うと為になったと思いますか?

高垣:そうですね。やっぱり制作ディレクターの原点に近いですからねぇ。

−−レコーディング現場での経験になりますよね。

高垣:そうですね。クラシックだから、16分音符の単位でテープを編集するんですよ。あのしかも2チャン同録のアナログで、スコア見ながらつぎはぎ…編集作業ですよ。

−−そもそもどの部署に行きたかったんですか?ビクターっていう大きな会社の中で。

高垣:当時はね、日本ビクターとしての入社だったんですよ。今みたいなビクターエンタテインメントっていう会社はなかったから。日本ビクターの中の部門だったんで、日本ビクター全員で200人くらい入社したんですよ、当時。一番いい時期だよね、就職が。

−−入社するとまず志望部署とか書かされて、さらに志望部署で落ち着くまでに社内で何回も面接あったりするじゃないですか。どこに行きたいんだお前はと。その時にどういう志望をしてたんですか?

高垣:仕事というよりも、音楽サークルの延長っていう気分だったのでね、やっぱり音楽関係ですよね。

−−その中でもやりたかったことというと何になるんですか?

高垣:まず覚えてるのは、ほとんど100%が音楽事業部に行きたいって言うわけよ。でも実際に来れるのは200人のうちの1割くらいかな、20人くらいで、あと9割はやっぱり機器、日本ビクターのハードの方ですよね。それでまあ、ラッキーにその1割の中に入った。で今度はその中で何をしたいかって話になって、またね、そこのほとんど100%が制作に行きたいって言うんですよ。でも僕はね、行きたいって言わなかったの。

−−あ、それはおもしろいですね。それで?

高垣:何でかって言ったらね、歌謡曲って鼻からバカにしてたんですよ。今でもバカにしてるんですけどね(笑)。だからね、みんなディレクターになりたい、制作やりたいって言ってたんだけど、僕はケッて思ってたの。あんなダサイ音楽をとてもやる気がしなくて、やっぱり僕のイメージとしてはクラシックだのジャズだのポップスだの、洋楽テイストだったんですよね。だからとても日本の音楽の仕事なんかやりたいなんて夢にも思わなかったし、むしろかなりバカにしてた(笑)。…どこがいいんだろうっていうのが本音で「制作はやりたくないです」っていうのがあったんですよ。でもやっぱりグリークラブでクラシックっていうイメージがあったんだと思うんですけど、結局クラシックの制作になったわけです。

−−ではほとんど理想通りじゃないですか。それで2年後に洋楽ロックの制作になるんですよね。

高垣:そうそう。きっかけはね、当時の直属の上司に井坂紘さんて人がいたんですよ。今は「カメラータトウキョウ」っていうクラシックのレコーディング、イベンターの社長やってるんですけど、クラシックのスコアをばりばり読めるような人で、クラシック本流だったんだけどジャズ、ポップスにもすごい造詣の深い人なんですよ。同志社のグリークラブ出身だったね。秋吉敏子さんとかジャズ界にも交友がすごく深くて、僕も一緒にジャズを聞きに連れて行かれたりとか、ロック、例えばキャット・スティーブンスなんてほんと大好きで、紹介されたりとかね。きっと、「こいつはクラシックは無理だ」と思ったんでしょうね。その井坂さんにいろんなレコード聴かされたり、連れてまわされて、そこでクラシックよりポピュラーな方に非常に関心がわいてきて。

それである日ね、イギリスからすごいバンドが来るから行けって言われて、無理やりチケットを買わされて行かされたのが、武道館。それがツェッペリンだったんですよ。ほとんど名前と「移民の歌」くらいは知ってるけど、そんなに関心はなかったんだけど、無理やり連れて行かれた武道館のツェッペリンでもうびっくらこいちゃってね(笑)。今でも覚えてるけれども、その時見て、帰ってね、次の日レコード屋行ってね、えーと、アルバムがね、もう4枚出てたのかな、その4枚全部買って、死ぬほど聴いたんですよね。

−−ロックミュージックに対してレッド・ツェッペリンで目からうろこが落ちたってことですか。

高垣:そうですね。まぁ、それまでもハーマンズ・ハーミッツ見に行ったりとかしてましたけど…

 

3. 突然の異動事件!? 洋楽宣伝課の立ち上げに参加

高垣 健4

−−クラシックから洋楽宣伝に部署が変わったのは、人事異動だったんですか。それとも自分で希望したんですか?

高垣:それがね…このときにちょっとした恥ずかしい事件があるんですけどね。

僕はオーディオがすごい好きで、自分でスピーカー作ったりとか、パーツ買って組んだりとか、そういうのが好きだったんですよ。それで会社に入ってしばらくしてから秋葉原でスピーカーはどこ、とかアンプはONKYOとか、パーツごとに買ったんですよ。それで憧れのステレオセットを作ろうと思ってね。残念ながら、ビクター製品は選ばなかったんですね。当時は松戸の日本ビクターの寮に入ってたの。でさ、寮に秋葉原からドンッと荷物が届いて大騒ぎになっちゃってさ(笑)。ちょうど、夏休みで、1週間、その玄関においてあったんですよ。それがものすごい不況の時で、特に日本ビクター関係すごい悪い時で、機器のセールスマンが怒っちゃってねぇ(笑)。

−−愛社精神がないと(笑)。

高垣:そうそうそう(笑)。それで俺、人事部に呼び出されて(笑)。

−−そんなことで呼び出されたの?(笑)。やな会社ですねぇ。

高垣:いやホントに。寮出て行くか、機材売り飛ばすか、ビクターやめるかみたいな話になってね(笑)。

−−ホントですか?(笑)

高垣:今は笑い話だけどさ…。それでね、寮を追い出されて、行くところが無いから、仕方なく、彼女の家に転がり込んで、これが、結婚の理由になったりしたんだねぇ。そのうえに、正社員を取り消されて、しかも、人事部付みたいなところに異動になっちゃってね。

−−エエ〜〜〜〜ッ?!(笑)。

高垣:まぁクラシック制作もけっこう赤字が続いたりとか他にもいろんな要素があったんだけど、とりあえず異動。で、地方に営業に出るとか出ないとかいう話になってたんだけど、その時にね、洋楽宣伝課を作ろうっていう話になって。それまで洋楽編成部はあったけど、宣伝はなかったの。で、今キャニオンの副社長の佐藤修さんと遠藤氏の2人で、洋楽の宣伝課を作ろうとということになって、誰か参加する人いないかって、社内に回覧がまわってきて、そこに俺、手をあげたの。それで、5、6人いたかな。浜崎とかなんか変なやつばっかりだったけどさ。みんなもうやめちゃっていないけど。

−−あの頃すごいキャラクター集まってましたよね(笑)。

高垣:それで洋楽宣伝課に配属になって、佐藤修さんが初めての課長だった。その頃はまだビクターの洋楽の全盛期、というより最後っ屁かな、モータウンとかエレクトラとかがあってね。カーリー・サイモン、ドアーズ、ジャクソン5、スティービー・ワンダーとか、すごいメンツでね。あとキャプリコーンのオールマンブラザーズ、ブルーサムのポインターシスターズ…まあ、今から考えるとほんとに大変なレーベルがあって、そこの宣伝をやってたわけです。特にディスコ関係が強かったのかな。

−−学生の頃から鍛えた深夜まわりが発揮されて(笑)…

高垣:そうですね。ディスコまわりとか行ってたよね。夜中ね。

−−どの辺のディスコですか?

高垣:六本木のね、アフロレイキとか、新宿のツバキハウスとかね。

−−アフロレイキ?僕の知りあいがやってたんですよ。今は下北沢で店やっていて、1階がチャイハネっていう中華屋で、地下を最近アフロレイキっていう名前にして、もう一回それっぽいことやろうって言ってますよ。

高垣:知ってる知ってるチャイハネ。あの茶沢通りの所ですよね。あぁ、そう。ホントに?

−−あ、ご存じなんですね。

高垣:それで当時は毎晩、アフロレイキとか、あの辺の店行って、女の子ナンパしたりとかしてましたねぇ。僕の同僚で本多慧ってのがいて、そいつがもうディスコの帝王みたいな感じになっちゃってね。あと、横田基地の黒人のディスコみたいのを取材したりとかさ…

−−ソウルディスコ全盛時代ですよね?

高垣:そうですよね。そういう時で、俺も仕事やりながら、外タレが来ると夜の案内係になったりとかね(笑)。ナンパして、佐藤修さんと女とりあったりとかして(笑)。

−−今だから言えるけど、っていうか、言いたくないけど、遊びましたよね
(笑)。それで、このころにはアメリカ旅行に行かれてますよね。仕事だったんですか?

高垣:いや、まったく休みとって行ったんですよ。当時、洋楽のキャプリコーンの編成担当だった小森ちゃん(現ネットビジネス推進室室長、小森治信氏)とね。彼が編成で僕が宣伝みたいな立場だったんで、やっぱり向こうには一回行きたいなっていうのがあって、完全に1ヶ月休暇をとって。

それでアメリカをロスからね、南部、ジョージア州、アトランタ、ニューヨーク、フィラデルフィア、シスコ…全部まわったんですよ。勿論初めてのアメリカ旅行なんですけど、小田実の「何でも見てやろう」とか、その辺好きだったから、ああいう何にも決めないで行って、向こうに住んでる日本人訪ねて行ってアパートに転がり込んだり、空港に着いてホテル探したりとか、そういう感じの旅行したんですよ。それでバーズはもういなかったけど、元バーズのクラレンス・ホワイト見たりとか、マービン・ゲイ、ポインターシスターズとかクルセイダーズとか見て、ずっとアメリカを旅してたわけですよ。まぁ、マリファナとかドラッグとか、そういうのに非常にカルチャーショックも受けましたし、そういう時代だったんですね。

−−よき時代でしたよね。

高垣:うん。おもしろかったよね、ほんとに。けっこうやばい、怖い経験もありましたけどね。黒人に囲まれたりとか。

まぁ、このころアメリカン・ロックだブリティッシュだっていうのがなかったし、ハードロックだろうがシンガーソングライターだろうが、何でもよかったっていうのがあったから、見れるものはともかく見る、って感じでしたよ。来日するタレントもいなかったからね、数も少ない時代だし。今から思えばほんとツェッペリンに始まってT-REX、ボブ・マーレイ、リトルフィート…日本に来たのはほとんど見ましたよ。

−−高垣さんなんかは、自社アーティストだけじゃなくて、ほんとに熱心でしたよね。ホントに好きなんだこの人はっていう。

高垣:うーん、なんか、たぶんね、ここの数年間は熱病にうなされたみたいな感じだったと思うんですよ。

 

4. ついに日本のロックに目覚める!

高垣 健5

−−その後、邦楽の方に向かうんですよね?

高垣:そうなんですよ。それまで日本の音楽が死ぬほど嫌で、とても自分ができると思わなかったんですけどね。ちょうどその頃にライブハウスができはじめてたんですよ。荻窪のロフトとか、渋谷に屋根裏…今も屋根裏あるけど、まったく違う場所のね。それで僕はライブハウスに酒飲みに行ってたんですよ。で、いろんな評論家とかマスコミの人と酒飲む場所としてライブハウスに出入りするようになって、その時に見たのが、サンハウス。鮎川誠のいた九州のバンドね。それでびっくりしたんですよ。ブルースロックだよね。

−−要するに、バカにしてたはずの日本のロックにスゴイのがいるじゃないかということですよね。

高垣:そうなんですよ。ほかにも京都のウエストロードブルースバンドとかね。ほんとに日本人かよ、って思って。で今度は頭脳警察を解散したばっかりのPANTAに出会ったんですよ。当時「ニューミュージックマガジン」で中村とうようさんの下で編集やってた平田国二郎さん、小倉エージさんとか北中正和さんなんかと僕は非常に仲良くさせてもらっていてたんですけど、それで平田さんにPANTAを紹介してもらってね。同時に僕の中で化学反応がおきて、日本のロック、日本のブルースってのに非常に興味を持ちはじめたんです。

ちょうどビクターの洋楽の中でそういうレーベルを作ろうぜっていう動きがきまして。もちろん当時ビクターにはピンクレディーがいたのかな…?歌謡曲としてはすごく盛り上がってる会社ではあったんですけど、それとは別に、洋楽の中に日本の新しい音楽のレーベルを作ろうっていうことになったんです。で、ビクターの犬のマークが葉っぱを吸ってるようなイメージで、フライングドッグっていう名前でレーベル作ったんですよ(笑)。平田国二郎さんに「ニューミュージックマガジン」編集部からビクターに来ていただいて、フライングドックレーベルのボスになっていただいて、それでレーベルを作ったんですね。

−−PANTAが最初に出たんですかね?

高垣:そうですね。PANTAが第1号アーティストで、PANTAと一緒にレコーディングスタジオに入ったのが、僕の最初のスタジオワークだったんですよ。それでその時にバックミュージシャンのギタリストで、めちゃくちゃギターうまいんだけど、めちゃくちゃ若くてめちゃっくちゃ生意気なガキがいてですね、ものすごい僕はバカにされたんですよ(笑)。トークバックのボタンを押して「もう一度演奏お願いします」って言ったら、「どこが悪いのか、よくわかんないよ」って言われましてね。僕は絶句したことが何回もあったんですが、それがなんと、竹中尚人、CHARだったんですね(笑)。お陰さんでCHARにはすごく教えてもらった。PANTAにも教えてもらった。まぁ、僕にとってはすごく恩人ですけど、特にPANTAにはね、日本語のロックのおもしろさっていうのを叩き込まれたというか、教えてもらった。日本語でメッセージを歌う、ラブソングを歌う、それをロックンロールに乗せて歌うことのおもしろさ。新しいものの表現っていうのをすごく教えていただいたと。PANTAによって日本のロックに開眼したって言ったらちょっと大げさかもしれないけど、そんな気がするんですよね。で、まぁ、彼らを通してCHARに出会ったり、それからムーンライダースの鈴木慶一さん、まだシュガーベイブやっていた山下達郎さんに出会ったり、あがた森魚さんとは飲み屋で知り合ったっていうかね…そういういろんな経験があったんですね。

−−ついに日本のロック界に入ってきたんですね(笑)。洋楽から邦楽に移ったのもご自分の意志だったんですか。

高垣:それは自分でです。飲みに行ってるライブハウスでいろんな人に出会ったりしてる中で、さっき言ったサンハウスとか、関西のブルースバンドと出会ったんですよね。それでなんかすごくおもしろいと思った。その頃EMIで石坂(敬一)さんがクリエイションやってたりして。そういう知り合いがいて、僕の今までの日本の音楽のイメージではない、新しい日本の音楽が動き出してるっていうのがあったんで、そういうのをやれるレーベルを作りたいなっていうのはあったんですね。

−−そういう日本のロックが育った時期だよね。

高垣:そうですね。みんなが日本のロックをやりはじめて、ロフト、高円寺次郎吉、渋谷屋根裏、三ノ輪モンド…そういうライブハウスができて、一気に熱くなってた時期だと思うんですね。

−−そして、日本のロックに目覚めたときに、大きな出会いを果たすんですね。

高垣:そうですねぇ。僕はまだ20代後半…28歳くらいのときですかね。売れるレコードを作るっていうよりも、なんかこう自分でも楽しんじゃうっていう感覚だったし、宣伝でまわってるうちに同じマスコミの仲間や評論家の仲間の人達と出会って。洋楽っておもしろくてさ、夜中にたまり場があったんですよ。スピーク・ロウっていう店で今は亡き団長っていうマスターがいてね。今のマグネット・スタジオのある場所ですよね。

−−デジタル・マグネットですよね。

高垣:夜中仕事が終わると、各社宣伝プロモーター、洋楽担当者がそこにみんな飲みに集まる。で、サンプル盤を交換するんです。マスターの団長も「平凡パンチ」だったか「プレイボーイ」だったかに自分でレコードのコラムを持ってたりしてね。その中に僕らがいたり、大先輩の石坂敬一さん、高久光雄さんや折田育造さんがいたわけです。

−−とにかくあの時期は、夜な夜な業界全体が集まってたっていう、ユニークなイメージがありましたよね。今もそういうのあるんですか?

高垣:いや、今はたぶんね、洋楽自体がもう様変わりしちゃってるっていうのと、当時の洋楽やってた人はなぜか日本のロックにけっこう関わり持ってる人が多くて、日本の音楽を始めちゃうとね、時間的にも忙しいし、よくも悪くもライバル意識がどうしても出ちゃうんで、横の繋がりは、洋楽に比べたら薄くなってますね。でも、やっぱり、その頃の人脈っていうのは今でもすごく生きてますよ。

話は飛びますけど、ヤマハのアマチュアコンクールを見に行ったりとかしてるのも、やっぱり洋楽の人脈の流れで人に紹介されたりしたからですよね。当時ヤマハもけっこうレコード扱ってましたから、ヤマハのレコードショップ洋楽担当の人に日本のアマチュアのバンドを紹介してあげたり、渋谷ヤマハのライブスペース、ライブインかな?そこに僕らも遊びかたがた顔出したりとかして。ライブインには洋楽ロックファンが集まってて、その中に楽器をやったりバンドをやったりしてる人がいてね。そんな洋楽ロックファンの仲間に、サザンロック好きな学生バンドがいるんだよって教えて貰ったんですよ。

−−ついに出会うべくして出会った高垣健とサザンオールスターズ。高垣氏の運命を変えたデビューにまつわる秘話とは?…サザンを絶賛した大物シンガーとは?さらなるアーティストとの出会いを目指して、高垣氏の夢を実現すべく設立されたスピードスターレコードとは…。日本のロック史を駆け抜ける氏のお話は、後編へと続きます。乞うご期待!

 

5. サザンオールスターズとの出会い

高垣 健6

−−高垣さんのこれまでの音楽人生のなかで一番のハイライト、サザンとの出会いですね。

高垣:そのときはね、学生でサザンロックなんて生意気な、やれるわけねーじゃん、って思ってね。なんかオールマンみたいな、クラプトンのようなことやってるとか聞いてね。まさか、って気持ちで見に行ったら、おもしろいボーカリストがいた。売れるとは思わないけど、これはおもしろいなって思ってね。趣味の話で原宿の「養老乃瀧」辺りでガンガン飲んで盛り上がって、まぁ、売れるかどうかほんとにわかんないけど、学生時代の記念にレコードでも出してみませんかっていう非常に軽薄なノリで、最初はお付き合いしたような気がしますね。あんまりビジネスライクな話もできなかったし、そういう欲もなかったけど…

−−それの記念のレコードが「勝手にシンドバッド」?

高垣:そうですね。それで実は面白い話があってね、サザンのメンバーが別のレコード会社の人に呼ばれた、って言うわけですよ。呼ばれてどういう話だったのって聞いたら「なんかね、書類見せられてね、サインしろって言われてね、サインしたんですよ」って(笑)。メンバーがね、6人全員サインしたんですよっていう話で(笑)。それはないだろって(笑)。俺は、たしかに半分遊びで付き合ってるけど、でも、なんか、それはマズイかもよみたいなことになって。俺もあんまり契約は意識なかったけど。「サインした」、これはマズイって思って、それでそのレコード会社の人に面識もなかったんだけど、電話してそこのレコード会社まで行ってですね、喫茶店でその人とお会いして。「初めまして。僕は、ビクターでサザンをデビューさせたいと思っていて、もういろんな計画を練ってるし、事務所も実は予定してあります。具体的なことをまだメンバーには言ってなかったんだけど、できたら手を引いてくれくれませんか」って、頭下げたら「わかりました」って言ってくれたんだよ(笑)。俺もう、すごいいい人だと思ったよ。

−−ダメって言われてたら、だいぶ人生が変わってましたよね。それを撤退させたのは最大のポイントですね。

高垣:その話はね、桑田くんが自分の本でね…「ロックの子」かな?今文庫本か何かになってますけど、その中にこの話が書いてありますよ。

でもね、ホント結果論でね…まぁ、今は押しも押されぬナンバーワンアーティストになってるんですけど、こんなに売れるとは夢にも思わなかったですね。僕はね、ほんとに趣味っていうか、僕らが好きなアメリカンロックをちゃんとリスペクトしてやってくれてるっていう所が、すごく愛すべきアーティストではあると思ってたんですよ。むしろ、やっぱりマニアックなバンドだなって。アマチュアの時にいろんな曲作ってて、それを聴かせてもらったり、デモテープにとったりしてたけど…オールマン、リトルフィート、クラプトン、ビートルズ…それらを尊敬してる人が作ったっていう曲だったんだよね。すごくなんかこう、純粋な曲だった。言葉ののせ方もね、今でも日本語の語呂合わせうまいし、言葉の響きを大事にしてる使い方で、まぁ、これはすごくいいけど、決して一般に売れるものではないだろうなと思ってた。

−−玄人ウケの楽曲だったんですか?

高垣:玄人ウケだよね。僕も最初「勝手にシンドバッド」をビクターの中で、営業にプレゼンに歩いたんですよ。そのときになんて言っていいのかわからなくて、あんまりこう…ロックバンドとかライブハウスとかっていうキーワードは当時すごくマイナーなイメージ、アンダーグラウンドな印象を与えるものだったので、そういうのはよくないと思って。で、どうやって営業に話をしようかなって思って、「これは歌謡ロックです」「歌謡曲の新しいスタイルです」みたいな言い方をして歩いたような記憶がありますね。

−−シングル盤のジャケットは最初はメンバーの写真が映ってなくて、イラストだったんですよね。今思うと、相当ぶっ飛んだとんでもないデザインで。

高垣:ていうか、もめたんですよ、最初はね。実はね…なんで知ってるんですか?

−−僕その頃、松崎しげるさんのお宅に飯食いにおじゃましてたりしてたんです。それで「俺より全然歌がうめえヤツがいるんだよ」って言って、なんか、サンプル盤を持ってきて、めちゃくちゃカッコイイんだって言ってかけてくれたんですよ。「だけどこれがジャケットに顔写真も写ってねえんだよ」って、そんな記憶があるんです。そうだったんですか?

高垣:松崎さんが持ってたんですか。当時ビクターの大スターだったですものね。イラストは最初、小島武さんにお願いしたんです。今はもう大イラストレーターだと思うんだけど、ある人に紹介されてアートディレクションをお願いしたんですよね。小島さんが最初作られてきたジャケットとかポスターとかね、すごい何もないのよ。色のグラデーションみたいなのだけで。でね、カッコイイんだけど、なんだか全然わからないわけですよ。それを会社に持って帰ってきてみんなに話したら、こんなのダメだと、なんだかわからないという話になっちゃって(笑)。で、もう一回小島さんとこに行って、申し訳ないけど顔を何とかフューチャーして欲しいと、顔を出したデザインに変更したいんですけどって言って、2回やっていただいたんですよね。それで写真撮り直したのかな。メンバーも慣れない作業だから、なかなか大変だったですね。うまく作業が進まなくて…。

−−サザンと言えばアミューズのプロダクションとしての成功のスタートでもありますよね。

高垣:そうですね。アミューズの大里洋吉さんはその前はナベプロのマネージャーやっておられて、ナベプロやめてアミューズっていう新しいプロダクションをスタートさせたばっかりだったんですよね。その時にたまたま僕もサザンのレコーディングを先にスタートしてたんですよ。で、ブラスを入れたいと思って、新田(一郎/現(株)代官山プロダクション代表)さんにブラスのアレンジをお願いしたんですよね。その時に付いてこられた新田さんのマネージャーが大里さんだったんです。で、大里さんがサザンを聴いてもう大騒ぎになっちゃって。大里さんが騒ぎ出すと、もう、それは、手が付けられなくなりますから。今でもね。それで、ぜひアミューズでやらせてってことになって。僕らもプロダクションがなかったんで。ほんとにいろんなタイミングが良かった、出会いが良かったってことですね…。

−−ホントですね…すばらしい出会いが重なったんですね。でもそれだけ魅力があったってことですよ。松崎さんもね、サンプル盤の段階で家で「勝手にシンドバッド」の歌練習してましたよ。自分のコンサートで歌うって言ってましたからね。

−−レーベル内ではサザンはどういう位置づけだったんですか。

高垣:当時はね、日本のロックポップスがビジネスになり始めた時期だったから、フライングドッグとは別に、もう少し規模の大きなレーベルを作ろうということで、インビテーションっていうレーベルを作ったんですよ。で、そのインビテーション発足直後の新人アーティストがサザンだったんですよね。まだもちろん青山学院の大学生でしたけどね。

−−インビテーションのリーダーはどなただったんでしょう?

高垣:ヘッドは東元晃さん。テイチクの社長になられて、今は引退された東元さん。で、現場のチーフが岩田さん。今ユニバーサルの会長になられた岩田(廣之)さんですね。このレーベルが僕の制作マンとしてのスタートに近いですね。PANTA、サンハウス、鮎川誠、キク…その辺がすごくルーツになってて。
最近でもサンハウスのボーカルのキクさんなんかは、仕事はお付き合いないんだけど、たまに食事したりお茶飲んだりっていうのは続いてるし、鮎川誠氏はね、シーナ&ロケッツで今でも仕事のお付き合いやってるし。当時の「めんたいロック」っていう言葉があてはまるかどうかわかんないけど、九州・博多のロックンロール、それから関西のブルースっていうのが、やっぱり当時のすごくステイタスで、僕の憧れの音楽でもあったんですね。

−−この辺のアーティストのラインナップにポリシーは反映されてるんですよね?

高垣:そうですね…ポリシーっていうんじゃなくて、趣味、嗜好に近いものでしょうかね。

−−泉谷さんもフォーライフから移籍されたんですよね。やっぱり泉谷さんのようなアーティストもお好きだったんですね。

高垣:そうですね。今でも大好きですよ。ああいう毒気に憧れるんですね。だからほんとにいろんな人から紹介されたり、とか、たまたまライブハウスで出会った、とか、そういう人のつながりや出会いが、この仕事のすべてだと思います。

 

6. スピードスター・レコードの設立

高垣 健7

−−スピードスターの母体はインビテーション・レーベルということになるんですね。スピードスター・レコードというのは高垣さんが立ち上げたレーベル、ということですか。

高垣:そうですね。スピードスターは、まったくゼロから企画しました。インビテーションでもいろんな経験したし、ARB、松田優作さんをはじめ、いいアーティストとの出会いがいっぱいあったんですけど…インビテーションは77年からやってるから、14、5年いたんですよね。そうするとインビテーションっていうレーベルがね、気が付いたらもうすごく大規模な所帯になってまして、大きな組織、大勢のスタッフ、沢山のアーティストっていう、なんか非常にマンモスなレーベルになってまして。イメージも非常に大きすぎるし、あいまいにもなってきたんですね。それで僕はもともと、色の強いレーベルというか、キャラクターのはっきりとしたレコード会社に対する憧れが昔からあったんですよ。キャプリコーンなんてのはもう最大のシンボルだったり、昔のエレクトラもそうですけど。そういう憧れのイメージをもうずっと引きずってるんで、できればそういうはっきりした、小規模でポリシーの見えやすいレーベルにしたいなという思いがあったんです。

インビテーションがあまりにも大きくなりすぎて、アーティスト全員とは当然知り合えなかったし、逆にアーティストからスタッフを見ても、顔見知りになるスタッフは限られてきて、知らないスタッフが当然いっぱいいるわけですよね。人数多すぎますから。全スタッフが全アーティストとお互いに顔と名前、仕事の内容が分かり合える、そういう組織でないとやっぱりつまんないなっていうのがずっとあったんです。

−−それはあるかもしれないですね。で、スピードスターの設立というと…

高垣:1992年、今からもう8年も経つんですねぇ。レーベルというかプロジェクトチームを作らせてくれって企画したんです。有名な某誌の音楽評論家、S氏に企画書を書いてもらって、ビクターの役員会に回覧したりとかして、作ったんですよ。だからまぁ、僕にとってS氏はスピードスターレコードの生みの親かもしれない(笑)。

−−どうして企画書をご自分で書かなかったんですか?

高垣:もちろん、僕も書いたけど、やっぱり社内に対して外部の…業界的にも今こういう声があります、こういうレーベルイメージが期待されてますというのを、ビクターの幹部連中にわかるようにアピールしたかったわけですよ。Sさんに限らず、スピードスターレコードを企画した外部ブレーンが何人かいるわけですよ。例えばレーベルマークのデザインとか名刺のデザインは原耕一さんっていうデザイナーですし、カメラマンの半沢克夫さんとか、コピーライター、外部向けの紹介文を書いたのが長谷川博一さんっていう評論家。そういう外部ブレーンの方に協力してもらったんです。

−−発足当初のラインナップはどれくらいだったんですか。

高垣:そのときすでにインビテーションの中でいくつかの課があって、その一つを僕は任されていたので、そのインビテーションの中の一部門がそのままスピードスターになったんです。僕はその中で数組のアーティストを担当してて、部門全体ではアーティストは16組くらいかな。もちろん、UAもCoccoもまだいなかったですね。スピードスターっていうレーベル組織というよりもチームですね。

−−ネーミングはどうやって決めたんですか?

高垣:ネーミングはね、その時の8人のスタッフに応募して書いてもらって、希望してもらって、集めて、僕が選んだ、ってことになってます、一応(笑)。

−−一応(笑)。じゃ、そういうことにしておきましょうか(笑)。そこからスタートしたスピードスターっていうのは、ここにもアーティストリストがありますが、確率高くヒットしてますよね。

高垣:そうですね…今は12組のアーティストと、スピードスターインターナショナルっていうサブレーベルがあります。スタッフは40人。バイトくんと地方のエリアプロモーター含めてスタッフ数は約40名でアーティストは15組くらいが、一番妥当な身分相応でロックンロール対応のキャパシティかなと思ってますね。だから、今12組だから若干余裕はあるくらいなんですけど。そのくらいのアーティスト、スタッフの数で、お互い風通しがいい仕事がやっていければいいなと。

−−とくに気をつけていることっていうのはありますか。

高垣:アーティストは、やっぱり個性的であってほしい、アバンギャルドであってほしい。でも、それでいて大衆的でポップであってほしいっていう思いはすごく強いんで。そんなアーティストに仕事として真っ正面から取り組めるスタッフ、そのスタッフが現場から盛り上がれるアーティスト。そしてライブを軸として活動がはっきり見えるというのがいいんじゃないかと。今はこれだけのレコード会社とかレーベルがいっぱいあるから、もし活動が休止するとか、方針が変更になる時はやっぱりそれにふさわしい所で、別に無理やりスピードスターにいていただく必要もないし、逆にうちのスタッフと相性が合うようなアーティストがいたら、どんどん仕事していきたい、徹底的に、お互いの相性を大事にしたい、みたいなことはずっと考えてますけどね。

それとね、エネルギーの効率を上げていきたいっていうのはありますね。ただ、全アーティストがミリオンセールスだっていうことはありえないと思うんです。例えば、それが1万枚でもいい、1万枚でもいいから、そのアーティストのサイズに応じた目標設定、規模を間違えないように仕事していくことには気をつけていますね。例えば、5万枚売れたアーティストでもね、3万枚目標にしてたアーティストが5万枚売れたら、もう大成功なんですよ。ところが10万枚を目標にしたアーティストが5万枚しか売れなかったら大失敗なんですよね。だから、同じ5万枚セールスできるアーティストがいたら、やっぱり僕らとしては、ちゃんと5万以内に目標設定をしたところで仕事をしていきたい。目標を間違いたくないっていうのは非常に強いですね。それはたぶん当たり前のことなんだけど、僕らの音楽ビジネスの基本じゃないかと。

−−目標の作り方も難しいですよね。

高垣:難しいですよね。だからよけいにスタッフがアーティストとどこまでコミュニケーションとれているか、もしくは、自分達の仕事の役割というか、適正なキャパシティをね、わかっているかというところだと思うんですよ。

 

7. ポリシーは「アーティストありき、スタッフありき」

高垣 健11

−−アーティストの中で高垣さんが自ら動いたっていうか、自分が獲得に乗り出したというのは何かありますか?

高垣:そうですねぇ。サザンはもう23年前の話だから時代も違いますけど、やはり現場第一主義ですから。僕は、側面からの応援は惜しみませんけれどね。

ええと、つまりですね、あの…僕が獲得に動いたり、決定してからスタッフに降ろしてとか、実は一組もないんですよ。言い方難しいな…すごく、あまりにもカッコイイかもしれないですけど、スピードスターっていうのは、一つのやり方、ポリシーというか、僕なりのやり方があるんですけど。一つの大きな柱としては、やっぱり、スタッフありき、アーティストありき、作品ありき、というのが大きいんです。やっぱり、スタッフがいてアーティストがいて作品が生まれて、そこからすべてがスタートすると、いうところのレーベルでありたいと思ってまして。つまり、僕がいいと思う曲ってよくありますよ。ライブ見たり、デモテープ聴いたりしてコレはいいじゃんって思うことはしょっちゅうある。その時に僕はうまくスタッフを根回しします。で、スタッフをのせる、盛り上げさせるっていうことを徹底的にやります。それで、さらに、スタッフ全員集合の会議を月に1回やってるんだけど、全員のスタッフミーティングでアンケートを取る。でー、例えば他のディレクター、プロモーターが盛り上がってるアーティストがいても、全スタッフに対してプレゼンをかけて、そこでいろんな意見を吸収して、で、その意見を基に契約するかしないかっていうのを、段階的に判断していくんです。

−−そのミーティングはどのくらいのペースでやるんですか。

高垣:月に1回なんですけど、ただ、あんまり時間をかけるのも嫌なので、もっと小さなミーティングはどんどん多くやってますけどね。

−−逆に言うと、自分はそうでもないんだけど、スタッフが必死になってるアーティストがいたら、それは契約する、ということですか。

高垣:そうです。そういう場合ももちろん中にはあります。僕がメンバーと会ったりデモテープ聴いても「どうなのかな…。なかなか難しいんじゃないのかな…」ってことってある。それは、例えば、売れないんじゃないかなって思うのが一つね。一般にウケられないんじゃないかなっていう。もう一つはウチのレーベルの顔ぶれの中で、果たして、相性がいいかどうか、まぁ、その2つで悩むことはしょっちゅうありますけど、でも、実際にはね、スタッフが盛り上がってたり…スタッフの役割としては、制作、宣伝、販促の3つがありますよね。レコード会社の3大機能だと思うんですけど。その3つの機能の各スタッフが全員一致なんてことはありえないと思うけど、1人でも2人でも、それぞれの機能のスタッフが盛り上がってくれれば、成立しますよね。だから、そうね…僕が好きじゃなくても、そこまで盛り上がってくれれば、僕は好きになりますよ。僕は愛情っていうのは、愛情力だと思っていまして、いいやつなら、ブスでも好きになれるっていうところがありますので。ぜったいに周りが盛り上がってきたら、僕も本気で好きになれる。好きになるポイントを見つけるのは、誰よりも自信がある。

とにかくさっきも言いましたけど、適正なキャパシティのアーティストの数っていうのを僕は非常に大事にしてるんです。要するに好きとか嫌いとかいうとキリがないんですよね。で、特に好き嫌いって個人的なものだし、例えば、朝聴いてすごくいいロックンロールも、夜中聴くとすごくつまんないこともあるし。夏の真っ最中に聴くと非常に気持ちのいい音楽もスキー場で聴いたらつまんないっていう音楽もきっとあるし。そういう意味でいくと、好きとか嫌いとかっていうのは、きっと限界がある。それから、いいとか悪いっていうのも、今これだけアマチュアの音楽のテクニック上がってるし、楽器もね、クオリティが上がってる中で、みんないいわけですよね。デモテープかなんかよくできてる。自宅録音であっても立派なモノだと。A-DATでもう十分だよね。だから録音スタジオみんな頭が痛いと(笑)。そういう意味でいうと、いい悪いっていうのにも、もう限界がある。そこで、数で縛っちゃう。だから、どんなに僕がいいと思っても「ごめんなさい。もう空きがないんです。」っていうことで、お断りしてますね。その方がクリアだし、うちの40人のスタッフのなかに、制作ディレクターだけでも8人いるんです。彼らのひとりひとりが、当然のように好き嫌いがある。その8人がそれぞれ自分でアマチュアを抱えていますね。いっぱいデモテープとって、ミーティングにもしょっちゅう持ち込んでるしね。

 

8. 新しい試み、スピードスター・ミュージック

高垣 健9

−−制作・宣伝・営業の体系が、スピードスターだけできっちり成り立ってるわけですよね?

高垣:うん。その他にマネージメントプロダクション。去年1年前くらいから始めたの。スピードスター・ミュージックっていうんだけど。

−−これは、実際、所属アーティストはこの中から?

高垣:ええとね、GIRAFFEがスピードスター・ミュージックの第一号アーティストなんです。9月にデビューしたばかりの、大阪出身のロックバンドなんだけど。

−−プロダクション業務も始めようと思ったんですね。

高垣:フライングドッグ時代からずっと、僕がマネージャーの代行をやったり、新しいマネージメントを探したり、そういうおもしろい経験もいっぱいあったんですけどね。例えば、事務所との契約が切れたり、逆に事務所が終わっちゃったりとか。レコード会社預かりとか…今でもありますよね。実は、レコード会社の中にプロダクションをつくるっていうことは僕は大反対だったんですよね。それはやっぱり、レコード会社は職場で、プロダクションは実家であると。役割はまったく違うと。目標は同じだけど、役割は全く違うし。ある意味競争関係であると。

−−その考え方を変えたんですか?

高垣:変えたんです。なぜかっていったら、インディーズが盛り上がってきたから。で、インディーズが盛り上がってきて、僕らもインディーズの会社、もしくはマネージメントとしての付き合いが非常に増えてきた。でね、インディーズの会社のレーベルのスタッフっていうのは、やっぱりすごく勉強してるんだよね。アーティストを見つける、育てる、レコードを企画する、録音する。それから、ジャケットを作る、プレスの交渉。それから店で売る。すべてをね、数名のレーベルの人がやってるわけですよね。で、これはまぁ、レコード会社のたぶん原点であると僕は思っていて、こういうことやっぱりやらないとたぶんわかんないだろうなっていう思いが、おととしくらいからむくむくと強くなりまして。で、マネージメントをやるっていう仕事を通して、そういう勉強の場所をぜひ作りたいなと。インディーズやりたいなと、イコール、マネージメントもやるべきであると。

−−インディーズっていうのは、メジャーレーベルのディストリビューションじゃなくて、別のアウトプットを用意してるわけですか?

高垣:そうです。

−−それはどういう形であるんですか。

高垣:それはね、KANDO-RECORDSっていうレーベルなんだけど。実は、その新会社のスピードスター・ミュージックの中で独自にCDをリリースしているんです。そこはまったくのインディーズのレーベルで、LD&Kのディストリビューションを使わせてもらって、やってます。僕は兼任ですけど、安藤広一君っていう、元ルースターズのキーボードなんだけど、その後、スピードスターの制作ディレクターをやっていた男が盛り上がっていまして、彼がチーフで仕切っていまして、その他、スタッフを募って…

−−場所も違うんですか?

高垣:場所も違います。ここからスープの冷めない距離に、マンションに一部屋借りて、6人のスタッフで4組のアーティスト。これもね、数にこだわることが分かりやすくて好きなんで、6人のスタッフで4組のアーティストをやろうということを決めてから、99年の10月から立ち上げた事務所なんですよね。

−−4組、今もアーティストがいるんですか?

高垣:います。まったくの新人のロックバンドのGIRAFFE、THE BACKHORN、キセル。そして、元フライングキッズの浜崎貴司くん。

だからこれはあくまで、ビクターエンタテインメント100%の会社ではあるんだけど、ま、この会社つくる時に、そのビクターの中でも話をして、この会社はあくまで、外部のプロダクションと同レベルの仕事を目指しますと。つまり、ビクターのルールには乗っ取りません。例えば、音楽配信とかネットビジネスとか、新しい、そのニュービジネスも独自のスタンスで全然違うことをやります。それから、他のレコード会社と取引もします、というのでスタートしたんですよね。

−−ソニー・ミュージックアーティスツと同じ様なものだと考えていいのかな?

高垣:そうだね。あれのミニチュア版。あれほど大きくするつもりはまったくないですけどね。

−−スピードスターではインターナショナルもやってらっしゃいますけど、それは海外に向けて売り出すっていうつもり…

高垣:そうですね。今ね、ニューヨークにさ、ユキ渡辺っていう人がいるんですよ。彼が、YWAっていう事務所、パーソナルな音楽エージェントをやってて、ユキさんと僕と昔からの付き合いがあって、で、エージェント契約をスピードスターとYWAとでかわしてまして。その中で、僕らのスピードスターのアーティストの、例えばCMJ、サウスバイサウスウエストのようなイベントへの参加とかを手伝ってもらってるんですよね。また、YWAからアメリカのおもしろいインディーズレーベルを紹介してもらって、ウチでライセンスをして出していくっていうこともあるんです。そんなボーダレスな窓口としてのインターナショナルレーベルなんです。

−−ダブスクワットやってるでしょ?ぜひ世界に売り出して欲しいですね。世界に出ていけるグループだと思ってるんで。

高垣:そうですね。可能性の高いユニットですよね。だからインターナショナルのスタッフは本体のスピードスターの仕事も当然やりつつ、兼任でやってるんですね。

これはすごく理想なんだけどさ、もう邦楽だ洋楽だなんて言わないで、ボーダレスなロックンロールレーベルっていうことを、スピードスターは目指して行きたいなっていう憧れはあるんですよね。スピードスターにはもう国境はないよみたいなところに持っていきたいなっていうのは一つのまぁ、憧れのイメージとしてはあるんですよね、やっぱりね。いつまでも日本の音楽はバカにしていたいなっていうことで(笑)。それが、僕のエネルギーであると。言い方は難しいんだけど。誤解されちゃうけどね。

 

9.アーティストとは「男女の関係」

高垣 健10

−−そういうポリシーの会社だからけっこうアーティストとは接触してらっしゃるんでしょうね。

高垣:そうですね…やっぱり、うん、まあ、なんていうかな、やっぱり、アーティストと話ができないと、なんか、別に会社の役員だからとかって言っても、やっぱり現場のことがわかんなかったら、この業界にいる意味がないと思うし。まぁ、逆にアーティストとかスタッフから見たら煙たいのかもしれないけど、もっと煙たがってみろっていう感じはすごくありまして、僕はなんか、僕の、なんていうかな、気持ちがね、現場とかアーティストとか、合ってると思ってるうちはどんどんこう、入っていきたいと思って。業務上支障がない限りは、どんどんでしゃばっていきたいと思いますね。

−−レコーディングとかライブとかでまわって…

高垣:そうですね。今日もこの後ライブに行くし、だいたい毎晩、相変わらず。昨日も新宿ロフトにいたし。現場に行ってなんかこう、自分が楽しめるうちはオッケーっていう感じはするんですよね。無理やり僕も行くことはたぶんしないし。ほんと周りの人は嫌がってるのかもしれないけどね(笑)。

−−ビジネスである以上、アーティストをどこかであきらめて切ったりとかしなきゃいけない時ってありますよね。それは例えばどんな時なんですか?その最後の決断を下さざるをえない時っていうのは…

高垣:あのね、まあ、アーティストと僕らスタッフっていうのは、ある種、男と女の関係だと思うんですよね。で、やっぱり、もちろん、好きで一緒になったり、疲れたり、嫌いになって離れたりするわけですよ。でもね、嫌いじゃなくても別れなければいけないことも、時にはあるわけですよね。それは自分の心境の変化もあるし、環境の変化もある。その時にちゃんと相手を傷つけないで別れる方法っていうのが必ずあると思いたいんですよね、僕はね。まぁ、女の子とどうのこうのっていう話をしてもしょうがないんだけど、やっぱり、相手のアーティスト、相手の女性が今後幸せになるためには僕がいない方がいい場合もぜったいあるわけですからね。それはもうお互いに確認できるような状況を僕は作ってあげる自信はあるんですよ。だから、握手をして、お前と別れる方が、俺もお前も幸せになるんだよっていう風な説得を僕はするのが一番いいと思ってますね。そのための努力を惜しまないし、そういう中で別れても、この狭い業界なんですから、また何かの機会に出会うこともあるだろうし。ということで、アーティストと別れる、契約を解除するときは「ハッピーに別れる」というのが僕のテーマですね。

−−今までじゃあ、女にもアーティストにも恨まれてないと。

高垣:いやあ、やっぱり、多少恨まれることの方が多いですね(笑)。

−−時が立てばっていう自信もあるんだよね。

高垣:そうだね。

−−よく、自分はすっきりとしてるんですけど、意外と恨まれてたりとか(笑)。

高垣:そういうことはかなりあると思いますね。その時にはうまくいったような気になるんだけど、後から、ジワジワと心配になってくるものでね。わりと僕ね、いっぱい反省する方なんで、反省してそれを蓄積して、次に活かすってことはするんですよ。スピードスターレコードっていうレーベル自体が、僕の反省の結果なんですよね。今までのアーティストとの関係の反省、仕事のやり方の反省、組織としての反省。その結果がスピードスターレコードなんで、ここはここで一つの理想形を目指したい場所ではあるんですよね。

−−もしスピードスターだけじゃなくてビクターエンタテインメント全体の社長をやれと言われたら、どんな風に変えてみたいですか?

高垣:それはね…できないだろうな。日本の歌謡曲は、ちょっと苦手なものですから。(笑)

−−逆にスピードスター分社っていう方向はあるんじゃないですか?

高垣:そうですね。今も社内カンパニーの分社っていうのはね、ソニーミュージックも準備してるし、ま、時代の流れだと思うんですよね。そういう、なんか、50人未満の所帯が責任を持って経営して行くっていう時代は必ず来るんで、逆に言えばそういう時代に明日なっても対応できる体勢はとっています。スタッフ全員、気合いも入っています。それが今のスピードスターレコードの現状ですね。いつでもいらっしゃい、新しい時代、ですね。

 

10.プライベートではおじいちゃん?!

高垣 健8

−−高垣さんてとっても体型がよくて、体育会系みたいなイメージがあるんですけど、趣味とかスポーツとかどんな感じですか。

高垣:うーんとね、まあ、ちょこちょこですね。そんな、これといって柔道何段とかそんなことはなくて…

−−段とか持ってそうに見えますよね(笑)。

高垣:酒は強いけどね(笑)。体が大きいのは1年前にたばこやめたら10キロ太ったね。まいちゃったね(笑)。だからちょっとダイエット中…なんないかな。一応、野菜中心にしたいなと思ってるんですけど…。

−−運動しないと太っちゃいますよね。

高垣:カラダを動かすのは好きですね、今でもテニスクラブ入ってずっとやってるし、それからオートバイ好きなんですよね。皮ジャンいっぱい持ってる。バイカーなんですよ。ところがね、去年の12月に大事故に合いましてね。それまでにも、小事故は何回もやってるんですけど、去年の12月25日に大事故やっちゃってね。この4月いっぱいくらいまで松葉杖ついてたのね。ほんとアンラッキーなんだけどさ、環六ずっと走って来て、中野の方から、富ヶ谷から原宿ね、こっちに来るでしょ?富ヶ谷左に曲がったら突然滑ったのよ。突然あの坂道で滑って、けっこうスピード出てたから、そのまま道路に強打して、膝がボロボロになっちゃって、キズがうんじゃったりとか、それで、約1年。まだ痛いんですけどね。たぶん交通事故の処理の後かなんかでね、油の上に乗っちゃったみたいなのね。それでガラスの破片もいっぱい落ちててね、切って、打って、血だらけになって滑ったんだけど、あそこは車が後ろからすっ飛んで来るじゃない。もう、おっかなくてさぁ、車道の真ん中を滑りながら死ぬかと思った(笑)。

−−今は乗ってないんですか?

高垣:近所のバイク屋にとりあえずひきとってもらって、さびしいけれど、しばらくお休みですね。

−−結婚がものすごい早くて子供さんが大きいんですね。

高垣:長男のところには孫がいるんですよね。2人ね。

−−え?孫???おじいさんってことですね(笑)。早期結婚を二代続けてやったんですね…。

高垣:そうそう。一瞬、ムッとしたんですけど、反対ができないんだよね、自分も早かったから。

−−息子さんはなにをされてるんですか。

高垣:歌舞伎の打楽器奏者なんですよ。望月哲郎という芸名を持ってて、尾上菊五郎さんとか、市川團十郎さんとかについて、歌舞伎座とか。1ヶ月単位で、今月は東京、来月は大阪とかそういう動き方してるから。東京にはたぶん、1年に2、3ヶ月しかいないんじゃないかな。

−−めちゃくちゃ不思議なミュージシャンですね。

高垣:そうですね。突然そっちに行っちゃったんですよね。高校の時から三味線とかもやってたんだけど、急にそっちに行って…大変ですけどね。

−−大変?どういう意味で?

高垣:食えないねえ、まともには。収入がまちまちだからね。

−−歌舞伎役者って大金持ちっていうイメージじゃないですか。

高垣:まあ、でも、これからいくかもしれないですけどね。

それから下の亜美っていう娘がね、大学にインターンシップっていう制度があってさ、2ヶ月ワーナーミュージックにいて、そのままバイトで大学卒業したら社員になれるっていうのに入ったんだけど、本人がね、イヤだって(笑)。ぜんぜんイメージが違ったって。それでね、今、フットケアのマッサージの会社に入って修行中。

−−何が合わなかったんでしょうね?

高垣:やっぱりね、何かおもしろくなかったみたいね。理想が高かったんじゃないの?学生だし。まぁ、うちの家族はだからこういう親がいるから、みんなバラバラで勝手なんですよ。

−−親がこの年で茶髪ですしね(笑)。

−−では最後に、インタビューをスタッフ側になりたいと思って読んでる人とか、そういう人がたくさんたぶんいると思うんですよ。音楽の作る側というかスタッフを目指してる人に、これだけは最低勉強しとけよ、みたいな参考になるようなことがあれば…

高垣:そうですね…小田実の「何でも見てやろう」と、…僕の本を読んでもらうのが一番いい(笑)。

−−読みましたけど、素晴らしい本だと思いますよ。高垣さんは「イカ天」でもけっこういい存在感があったと思うんだけど、最近はオーディションでしゃべったり、そういう機会はないんですか?

高垣:そうですね、あんまりお声かかんないですね。ないですね。前ほど盛んではないし。ま、インディーズがすごく盛んになって、逆にオーディションとかコンクール自体の性格が変わってきてるよね。それだけインディーズが活躍、もしくはライブハウスが盛り上がってる。アマチュアの活動する場所が増えてる。っていうのは言えるんじゃないでしょうかね。コンクールやらなくてもオーディションやらなくても、僕らが見るチャンスが以前に比べたら圧倒的に増えてますね。やっと、ロックが、当たり前のもの、普通のものになってきたんですね。

−−今日はお忙しいなか長いことありがとうございました。

(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)

過去30年間にわたって日本の音楽業界の中枢で活躍し続けてきた高垣氏。氏が日本の音楽業界に果たした貢献は語り尽くせぬほどですが、その地位に奢ることなく今でもライブハウスに足を運び、常にアーティストとスタッフが直接ふれあえる理想の環境づくりをを目指して奮闘する氏の姿勢に、学ぶところの多いお話でした。 さて、高垣氏にご紹介いただきましたのは、(株)バッドニュース音楽出版代表取締役の千葉和利氏。インディーズ・レーベル、そしてプロダクションとして、スピードスターの業務でも大いに勉強させてもらっていると高垣氏。今やインディーズと表現するのもはばかられるほどの影響力を持ったバッドニュースですが、その独自のカラーはどこから生まれるのでしょうか。乞うご期待!

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