第85回 つんく♂ 氏 音楽家、総合エンターテインメントプロデューサー / TNX株式会社 代表取締役社長

インタビュー リレーインタビュー

つんく♂ 氏
つんく♂ 氏

音楽家、総合エンターテインメントプロデューサー / TNX株式会社 代表取締役社長 

今回の「Musicman’s RELAY」は小室哲哉さんからのご紹介で、音楽家、総合エンターテインメントプロデューサー / TNX株式会社 代表取締役社長のつんく♂さんのご登場です。大学生時代に結成したバンド乱(RAM)がシャ乱Qとなり、1991年NHK BSヤングバトルにてグランプリを獲得。翌1992年にBMGビクター(現:アリオラジャパン)よりメジャーデビューを果たした。1994年に発売した「シングルベット」が約120万枚のセールスを記録し、その後もミリオンヒットを連発。1998年にはモーニング娘。で音楽プロデューサーとしてデビューする。翌年に「LOVEマシーン」が日本レコード大賞優秀作品賞&作曲賞を受賞、売上枚数175万枚以上を記録し、プロデューサーとしての手腕を発揮。シャ乱Qの活動休止後は「ハロー!プロジェクト」のプロデュースだけでなく、俳優やタレントとしても活躍し、2006年には自身が代表取締役社長を務める TNX株式会社を設立。近年ではゲームソフトや劇団のプロデュースも手がけている。今回のインタビューでは、学生時代からシャ乱Qの結成、TNX設立の経緯までお話を伺いました。

 [2010年4月12日 / 港区高輪 TNX株式会社にて]

プロフィール
つんく♂(つんく)
音楽家、総合エンターテインメントプロデューサー / TNX株式会社 代表取締役社長


1968年生まれ、大阪府出身。

音楽家・エンターテインメントプロデューサー、歌手、作詞家、作曲家、総合エンターテインメント会社TNX株式会社代表取締役社長。ロックバンド「シャ乱Q」のヴォーカリストとして4曲のミリオンセラーを記録。
その後、日本を代表するボーカルユニット「モーニング娘。」をプロデュースし大ヒット、多くのアーティストを育てる。代表曲「LOVEマシーン」は176万枚以上のセールスを記録。
2008年にプロデュースした任天堂DSソフト「リズム天国ゴールド」が日本で175万本を超え、全世界でも発売され累計272万本出荷の大ヒットゲームソフトとなる。
近年は講演会なども精力的に行っている。
国民的エンターテインメントプロデューサーとして幅広く活躍中。

 

    1. 「小室さんは半歩先の音楽をやっていた」
    2. 信用金庫への就職を辞退、プロのミュージシャンに
    3. 売れなかった2年間に得たもの
    4. ASAYANに出演しプロデューサーへ
    5. ゲームソフト「リズム天国」完成までの道のり
    6. この過渡期を耐えしのいで音楽をしっかり作っていきたい

 

1.「小室さんは半歩先の音楽をやっていた」

--今回は小室さんのご紹介なのですが、つんく♂さんにとって小室さんはどのような存在なのでしょうか?

つんく♂:TM NETWORKは、「新しいもの」の見せ方が凄く上手で、いわゆるYMOのテクノポップのようなものも引き継ぎつつ、ニューミュージックの臭いもしながら半歩先の音楽をやっている感じだったんですね。「凄いバンドが出てきたな」と思って見てました。

 その後、小室さんがプロデューサーとしてああいう風になっていくということは想像もつかなかったんですが、篠原涼子さんが『愛しさとせつなさと心強さと』で220万枚ぐらい売れたかな? 「うわぁー小室さん抜け出していったなあ」と思いながら、そこからはあっという間に大プロデューサーになっていたというか。

--何か小室さんとのエピソードはありますか?

つんく♂:番組で一緒になったとき、僕らは当時チャートにそれほどこだわってなかったんですが、小室さんはすごくチャートにこだわってて、華原朋美ちゃんをプロデュースしているときに「1位を取れなかった」って朋美ちゃんが悔しがってたんですね。「別に1位取らなくてもいっぱい枚数売れたんだからいいじゃん」なんて言っていたら、小室さんが「違うんだよ、つんく♂。女の子は1位とかわかりやすい結果を出してあげないとわからないもんなんだよ」っておっしゃって。「なるほど。そういうものもあるんだな」と。それは確かに分かりやすいですもんね。その言葉を聞いて、僕も 1位という数字を意識するようになりました。

--なるほど。そのこだわりが小室さんの強さだったのかもしれないですね。ここからはつんく♂さんご自身のことを伺いたいのですが、ご出身が大阪の東大阪で、ご実家が乾物屋さんを営んでいたそうですね。ご兄弟はいらっしゃるんですか?

つんく♂:男ばかり3人兄弟で僕が長男です。

--どのような家庭環境でしたか?

つんく♂:食べ物に困った記憶はなかったけど、外食に行けるような家でもなく、週に1回平日が休みでそれ以外は全部営業していたので、土日のお出かけはほとんどなかったですね。親父もお袋もずっと仕事していましたから。

 小学校3年ぐらいにはエレクトーンとかピアノとか習い事がほとんど毎日入っていたんですけど、続かないものも多かったんですね。そういう環境の中で、裕福ではなかったですけども、ひもじい思いをすることもなく、あの当時の日本を考えれば良い感じに育ててもらったなあと思いますね。

--では、ごく普通の明るい少年だったんですね。

つんく♂:そうですね。活発だったとは思います。当時の8mmムービーが最近出てきて見たんですけど、ずっと動いてますからね。今自分の子供が止まってないのもまあしょうがないなと思いますね(笑)。今朝もプレスクールに送っていったんですけど、車の中でもずっと動きっぱなしですから。

--幼少時代に音楽的な環境やきっかけはあったんですか?

つんく♂:まず、お袋の親父さんがすごくメカに強くて、自分でラジオ作ったりとか、その家にあったステレオに針をおとしてウィスキーなんかを飲んで聴いてたんですけど、そういうのを見て「凄いなー」と。そういうとこでメカには若干興味を持ったりはしてたんですが、まともに音楽に出会うのは多分中学2年生ぐらいですね。家に弦の切れたクラシックギターがあったので、それを中学ぐらいのときに弦を張って弾き始めたのかな。

 あと、小学校3年生ぐらいから凄いラジオっ子だったんですよ。ラジオをエアチェックして、教室に持って行ってみんなに聴かせるとか、昼の放送の時間にかけてもらったりしてたんですね。

--すでに曲を選んでプロデューサーっぽいこともされていたんですね。

つんく♂:どうなんでしょう? 放送部員にはなりたいと思ってましたけどね。

--ならなかったんですか?

つんく♂:なれる歳になったら、「今さら小学校レベルでこんなのかけてもな」って思って。ちょっとひねてるんで、僕がかけたいものをかけてくれれば別に僕がやる必要はない、みたいに思っていましたね。

--その頃にバンドを始められたんですよね?

つんく♂:そうですね。中学3年生の文化祭がきっかけですね。うちの中学校はバンド禁止だったので、いわゆるフォークミュージックだけだったんですけど、部活も終わって文化祭が終わったら受験体制に入ろうと思っていたので、2ヶ月ぐらい毎日ギターを練習して、初めてギターを弾いて歌を歌ったんですね。村下孝蔵さんの『初恋』と松山千春さんの『長い夜』の2曲を歌ったのを覚えてます。

--それで、無事高校受験も合格されて。

つんく♂:私立だったので早く決まったから、毎日アルバイトと、でんでんタウン(大阪・日本橋電気街)という秋葉原みたいなところが大阪にあるんですけど、そこに通う毎日でしたね。

--それはアルバイトで?

つんく♂:いや、ステレオのパンフレットを集めに。親父に「高校行ってもバイクとか乗らないから絶対ステレオを買ってくれ」って約束していたんですよ。結果的にはバイクも買ってもらって結局怪我するんですけど(笑)。

--(笑)。

つんく♂:その当時ちょうど20万ぐらいのフルコンポが出始めたんですが、僕はそれじゃ嫌で、アンプとスピーカー、プレーヤー、デッキがそれぞれバラバラで欲しかったんです。まずラジオが聴きたかったからラジオと、プレーヤーとプリメインアンプとスピーカー、あとタイマーだけ欲しかったので、それだけ買ってもらったら、あとは自分でちょっとずつ買い足そうと思っていました。全部足すと当時40万ぐらいになったと思うんですけど。

--ちょっとしたオーディオマニアですね。

つんく♂:そうですね。今でも大事に使ってますからね。高かったというのも当然ありますし。

 

2.信用金庫への就職を辞退、プロのミュージシャンに

--高校のときには音楽でプロに、ということも視野に入れていたんでしょうか?

つんく♂:そうですね。バンドもやりたければ、タレントにもなりたかったんですが、具体的に何をすればいいのかわからない。親戚に芸能界の人がいるわけでもなければ、作曲をしている人を見たこともないので。作曲っていうのはどこかの偉い大学を出た人がするもんだというような意識もあったんですけど、一緒にバンドを組んだサックスのやつが、「作曲って意外と難しくないんじゃない?」ってぽそっと言ってたんですよ。今までギターも弾けないようなやつがサックスをちょっと覚えて作曲できるとか言い出したもんですから「僕にもできるな」と思って、MTRとか買ってこっそり曲作り始めたんです。それが高校2年生ぐらいだと思うんですよね。

 それで高校時代は何個かバンドをやりながらタレントのオーディションもちょこちょこ受けたんですけど、大学受験の時期になったのでまた受験体制に入って、大学の付属の高校だったので10月ぐらいには内定決め、そこから車の免許を取りに行ってバンドメンバーを改めて探し始めました。

--シャ乱Qのメンバーはみんな同じ大学なんですか?

つんく♂:ほとんどが一緒の高校で、たいせいとはたけは違う高校から大学にきたんですけど、まことは大学に行く成績がなかったので大学受験できずに(笑)。

--(笑)。付属なのに?

つんく♂:受験すらさせてもらえなかったですからね。1ばっかりだったので本当は卒業もできない。そのとき2人アホなやつがいたんですが、担任の先生は1人には「お前は落第しろ」と。「落第したほうがお前の人生のためだ」と。逆にまことには「お前は落第するな」と。「お前は落第したらそのままダメ人間になっていくから卒業しろ。実績を作れ」って言って卒業させてもらえたんですよ。

--(笑)。先生の言ったことはその後正しかったんですか?

つんく♂:どっちがよかったんでしょうかね(笑)。謎ですね。

--ちなみに、いつ頃からつんく♂と呼ばれ始めたんですか?

つんく♂:大学生の頃、髪の毛が短くてつんつんしてて、あだ名が「つんくん」って呼ばれてたんですよ。つんくんっていう名前でステージデビューしようと思ってたんですけど、「中学生とかのファンにつんくんって馴れ馴れしく呼ばれたくないなと思って「ん」を取ってみたんです。半年もしたら変えようと思ってたんですけど、はまっていったしめずらしい名前だし面白いなと思って。

--そういうことでしたか。どこからきたのかと思っていたんですよ。その後の大学時代も音楽三昧でいくわけですよね。

つんく♂:そうですね。高校時代からやっていた乱(RAM)の活動が伸びなかったから乱(RAM)以外のバンドも集めてきて、シャッターズと乱(RAM)とQPっていう3つのバンドの名前をとってシャ乱Qにしたんですけど、それが大学2年生の終わりぐらいから始まりました。それまでは乱(RAM)が宙に浮いてたので、ディスコ三昧だったんですよ。大学1年のときはバイトばっかりやってて、2年からディスコと合コンばっかりで、ディスコ行って踊って、合コンは毎週木曜日って決めてて、週末はバンドみたいな。大学1年、 2年はそんな感じでしたね。

--いつ頃から本格的にバンドを始めたのですか?

つんく♂:真剣にバンドやろうと思ったのが大学3 年生のときですね。就職どうするかというのもあったので、ここで真剣にバンドやらなかったら就職活動も中途半端になるし、人生も中途半端になるなと思ってメンバーを口説いて真剣に1年やろうぜって大学3年生のときに話し合いました。客を集めるのも真剣にやって、ビラをたくさん撒いたり。それによってある程度客も付いてきてライブハウスもウェルカムになってきたので「そのうちスカウトもくるんじゃないか?」なんて言ってたんですけど、大阪なのでなかなかスカウトも来ず、大学も4年生になって、さあ就職活動どうするってなったときに、ベースのしゅうとかは「心配だし就職活動しとく」って言い出して、はたけは実家が会社経営していたので、「あかんかったら家継ぐわ」みたいな感じで。当時の俺は「家継ぐっていったって、継いでも仕方ないしな・・・」って思って就職活動を始めました。

--積極的に就職活動してたわけじゃないんですね(笑)。

つんく♂:当時はバブルだったので、なんとなく行ったら2〜3社内定もらえたんですよ。今の学生には申し訳ないんですけど…。

--地元の金融機関から内定が出ていたんですよね?

つんく♂:はい。信用金庫以外にもうちの大学の職員になるのもいいなと思ったんですよ。でも門戸がやっぱり狭くて。大学3年生のときに一緒に教職も取ったんですけど1年やって、来年から実習だっていうときにバンドもやってディスコで踊って就職活動して教育実習行けって言われてもそれは無理だなって思って。それにバイトもしないといけないし、合コンもしないといけないし・・・(笑)。

--大忙しですね(笑)。

つんく♂:4年のときは一応就職活動しながらバンドも真剣にやって、最終的には、就職を諦めてあと2年やらせてくれって親父を説得して内定を辞退という感じだったんですけどね。

--お母さんは許してくれたんですか?

つんく♂:お袋は泣いてました。それはそうです、自分の息子にもそんなことやられたらどうしようかなと思いますけど(笑)。

--(笑)。

つんく♂:そんな裕福でもなかったのに、高校、大学と私立で行かせてもらっていたのですごく怒られましたけど時代がゆるかったので許してくれて。

 

3.売れなかった2年間に得たもの

--そのあと色々なコンテストで優勝されていますよね。

つんく♂:そうですね。バンドの人気が出るまでコンテストは受けないことにしてたんです。実力で判断されても僕らはそんなに上手くないし、客付けて、審査員にハッタリかましていかないと駄目だってことで。お客さんが会場に来て、「キャー!」って言ってくれると「このバンドはなんだ?」ってなりますから。そのときに受けたのがヤマハのバンドエクスプロージョンと、NHKのBSヤングバトルで、そこでも優勝したというのが1つのちょっとした成功体験ですね。

--そこもすでにプロデューサーの発想ですよね。

つんく♂:そうですね。とにかくテレビに映ろうと。バンドエクスプロージョンもNHKもBS放送のみで当時まだ BSはほとんど普及してなかったと思うんですけど、テレビに映ったらそれなりに反応あるだろうと思っていました。大阪、近畿大会まではファンがそこそこいたから、彼らが入っているだけで多分クリアするから、あとは全国大会は映ればもういいじゃないか? と。優勝とか狙ってなかったしね。それでも大阪から数十名近くのファンが全国大会に駆けつけてきてくれたんで、東京でもそれなりに「キャー!」って盛り上がったので、審査員にもいい意味でハッタリかませたかなと思っていますけどもね。

--メジャーから声がかかったのは、どのタイミングだったんですか?

つんく♂:ちょうどコンテストに出ようとしていたくらいから『Musicman』だったと思うけど本を買ってきて、封筒にテープと資料を入れてあちこちに送ってたんですよ。で、プロダクションからちょこちょこと連絡があったんです。そういう人たちとコンタクトを取り始めて、「今コンテストを受けていて、その間は契約ができないので、それが終わるまではちょっと待ってください」みたいなことを言ってうまく引っ張りました。その後、コンテストで良い結果が出たので交渉を始めて、当時フォーライフとBMGとソニーと、プロダクション2社ぐらいから声がかかったんですが、僕らも「東京で一人一部屋用意してくれ」「機材車を買い換えてくれ」と条件を提示しました。あと、「僕ら大学を出ているので、初任給ぐらいの給料が出るところがいいですね」って結構強気でした。

--条件を提示したんですか? やりますね。

つんく♂:でも、込み込みですが、初任給ぐらいはもらえました。

--交渉の結果、BMGビクター(現:アリオラジャパン)に決めた理由は何だったのですか?

つんく♂:条件自体は何社か呑んでくれてたんですが、最終的にはアップフロントを紹介してくれたので決めました。KANさんや森高千里さんが売れてるときでしたし、僕アリスが好きだったんで、アリスの事務所で当時はヤングジャパンの臭いもいっぱいしていたんですよ。だから「関西系だしノリもあっていいんじゃないか」と思って。

--メジャーとの契約が決まって全員で東京に出てきたわけですよね。スタートから結構順調だったんですか?

つんく♂:いや、最初は全然売れなくて。暇だったんですよ。それまではとにかく忙しかったのに「取材とか決まったら急に呼び出すこともあるから家にいろ」って言われるんです。当時まだ携帯もなかったしとにかく退屈で。

--一番辛い時期ですね。でもそこが経験として大きかったと。

つんく♂:そうですね、非成功体験って言うんですかね(笑)。バンドの結束になりましたよね。当時はとにかくテレビを観たくなかったですね。なんかのドラマの主題歌になったらみんな売れていくんで。

--テレビを観たくないというのは他人の成功を観たくないということなんですね。

つんく♂:ドラマを観たら主題歌とかかかるじゃないですか? だいたいバンドの曲が多かったのでそれが嫌で嫌で…。ほんとあの頃は社会から逸脱してましたね。ラジオも聴かなかったですしね。それが2年間ぐらい続きました。その間に曲を聴く耳が変わっていって、今まではオーディオマニアとして音を聴いていたけど、そこからはクリエーターとして聴くようになりました。バンドやってたのにスピーカーから鳴ってる音をそういうふうに聴いたことなかったんですよ。あそこで音楽の聴き方が変わってなかったらプロデューサーにはなってなかったですね。

--「時間がたっぷりあったから、そういう分析だけは十分できた」と著書『一番になる人』に書かれていましたが、ものごとに対するつんく♂さんの分析力は凄いですよね。

つんく♂:小さい頃に聴いてた音楽をもう1回聴いたりして、「ああ、これはこうだからきっと売れたんだ」とか、かっこいいと思ってたアイドルと、可愛いけど音楽はしょうもないなって思うアイドルの差とか、「シャ乱Qの1枚目、2枚目とミスチルはどこが違うのか」とか、「スピッツはなぜわざわざ詞がとりあげられるバンドなのか?」とか、同期たちの曲は研究もしたし、FMでかかってる音楽とかも分析しました。

 当時のマネージャーからもお前は器用貧乏だと言われたんですけど、確かにそうだなと思って、もっと一生懸命ピアノもやっておけばよかったとか、自分の人生を悔やむことはあったんですけど、そうやっていくうちに、いろいろな経験が点々ばらばらだったのが線につながっていってモーニング娘。の『LOVEマシーン』っていう曲が生まれたりとかしていくわけですよね。

--自分の生きてきた体験だけをもとにあの本(一番になる人)が書ける人ってどういう人なんだろうって。ほんとうに頭が良いいんだなと思いました。成功哲学書としても、ビジネス書としてもすごいですよね。驚きました。

つんく♂:例えば遊び、ダーツもそうですけど、真剣にやってしまうんですよ。基本的にエンジニアの概念とか、そういう学校もいったことないし卓とかは見よう見まねで触り始めるんですけど、エンジニアたちもどこかおたくの発想があるから、もっとポピュラーな発想でこの卓を触ったらもっと違う音楽が生まれるはずだってとこから始まるわけです。

--そういうポイントポイントのエッセンスをポンとつかみ取ってそれを何か1つの形にして表現するっていう部分に関しては間違いなく天才なんだと思います。

つんく♂:いやー、どうなんですかね。「深く入るには時間がもったいない」って思うタイプかもしれないですね。

 

4.ASAYANに出演しプロデューサーへ

--ASAYANの一番最初につんく♂さんがプロデュースするときの場面をみた覚えがあるんですよ。色物っぽい番組で別企画のような形で始まって、観ているほうとしても最初はあまり真剣に見ていなかったように思うんですよ。

つんく♂:バラエティ番組でしたからね。僕らもバラエティだから出ようって言ったんですよ。真剣に音を作る番組は危険だと。「シャ乱Qがしくじった」ってなるのも怖いと。「バラエティだから適当に出てきた女の子をいじってたらいいんじゃないの?」ってね。今思うと結構残酷なこととか言ってましたけどね。でもそれが面白がられて、逆にそれがはまっていったんですよね。ただ、やるとなったときに、ニセモノを作る気はなかったですね。本物を作ればオーディオマニアが真剣にアルバムに針を落とすはずだと思っていました。同じように俺らの作った音楽に対して真剣に耳を傾けるマニアがいるはずだと思ったんです。そいつらが「う〜ん」って唸れば絶対大丈夫だという意識はあったので、そういう気持ちで作ってましたね。

--それはやはりシャ乱Qを通してヒットさせるということに関しての経験が活きたっていうことですよね。

つんく♂:そうですね。苦しみがあったのもよかったと思います。シャ乱Qがあれでスッと売れていたら今はなかったですね。卓をいじることもなかったと思うし、これだけ量産して曲を書くノウハウもなかったと思うんですよね。だから本当にありがたかったですね。

--つんく♂さんは他の著作で「成功が保証されているんだったらできるだけ遅く成功したほうがいい」というようなこともおっしゃっていますよね?

つんく♂:正直一番楽しいときはアマチュアのときだと思うんですよ。音楽でもそうですけど、プロになっても売れてないとき。生活は苦しいけど毎日楽しい。成功したらこんなことしてやるんだとか、ベンツ乗ってとか、ロレックス買ってとか、ロスでレコーディングしてとか、そういうことを毎日考えられるんですよ。売れてないときはどれだけ考えても怒られないですからね。その期間が長ければ長いほど楽しくて売れたら最後、あとは苦しみしか残らないですよ。売れたという実績とともに毎日しなければいけないこと、いわゆるto doリストがどんどん増えていって締切に追われ、自分の売れたというプライドもあるし生活レベルも下げられないという意味では68歳ぐらいで売れるのが一番だと思います。

--(笑)。

つんく♂:でも、「今売れなかったら将来売れないよ」って神様が教えてくれるんだったら今売れましょうみたいな感じですよね。僕はある程度早く売れてしまったのでそれからずっと日々、産みの苦しみを味わい続けているわけじゃないですか? ここ16年ぐらい。売れてよかったなって言われますし、確かによかったんですけど、あの楽しかった時期とは全然違いますよね。

--引退を考えたことはないのですか?

つんく♂:考えなくはなかったですよ。どこかの島でぼーっとするのもいいかなとか思ったりもしますけどね。でもやっぱり小さなリアクションというか、アルバムを出したときに何かリアクションがあると「よかったな、嬉しいな」って思ってしまうんですよね。やめられないっていうんですかね。

 

5.ゲームソフト「リズム天国」完成までの道のり

--つんく♂さんの中に教師的な「若いヤツを育てたい」という資質があるんだろうなと感じるのですが、やはりそういうことには興味を持ってらっしゃるんですか?

つんく♂:ありますね。プロデュースなんかもやってることはほぼそういう意味で、もちろん音楽も教えますけど人生も語りますし、初期のメンバーにはかなり厳しく接してきましたから。歌詞の中に人生の教訓みたいなものを詰めていってるから、歌ってるうちにそれが読まれていってるんじゃないかなと思ってますしね。

 実は「日本の音楽というものがなぜこんなに世界に評価されないんだろう?」ということが僕のなかの悔しさの1つなんですね。もちろん言葉が大きな要素なんですが、日本人の作る技術というものは世界の中でずば抜けて素晴らしいですよね。あとは細かいディテールとか、工業製品もそうだし、ホテルマンもCA(キャビンアテンダント)も気配りの素晴らしさは世界でもずば抜けてるわけですよね。音楽作らせたって日本の音楽って素晴らしいはずなのに何が違うんだろう? って考えたときに、僕の中では日本人はリズムに対する理解力が足りなすぎるんだと思います。僕はそれをなんとなくつかみ取ったんですよ。だから、曲の持ってるリズムさえ把握してしまえばどんな曲でも作れると。その音楽は真似ることじゃなくてちゃんと作れる。日本人がやってきたのは「○○風」みたいなものが多かったんですけど、ミュージシャンの人もたぶん理解してない。中にはずば抜けて上手い人たちもいるんですけど、それを使いこなせてないなと思って。

 ですからリズムを理解するためには10歳未満の子供にリズムをすり込ませないといけないと思って、任天堂に子どもたちに遊びからリズムを教えていけるような教育ソフトを作ってもらうために企画を持って行ったんですよ。

--つんく♂さん側から持って行ったんですか?

つんく♂:ええ。そしたら社長が企画書を見て、部下の人たちも連れてきてくれたんですよ。それで2年ぐらいかけて準備して、3年目についにできあがったのが『リズム天国』です。それで僕の思っていたようにまず小学生がはまっていったんですよね。もちろん大人もやりましたけど、小学生が夢中になってやってくれていたのでこれはいけるなと思って。

--『リズム天国』は何百万本も売れたんですよね。

つんく♂:ゲームボーイアドバンスの『リズム天国』が当時20万本ぐらいだったんですよ。そこから1年半ぐらいかけてDSの『リズム天国ゴールド』が出たんですが、それは170万本ぐらい売れたのかな? 世界では累計250万本ぐらい売れました。

--あれが教育ソフトだったとは知りませんでした(笑)。

つんく♂:精神的にはそういうつもりで作ったんです。自分の子供も2歳で踊ったり歌ったりし始めた頃なのでリズムのスクールみたいなところを探しているんですけど、ないんだったら僕がやってみようと思っています。

--子供向けのリズムスクールを作ろうと。

つんく♂:そうです。スクールといっても教室というか塾みたいなものですけどね。

--日本人もずいぶんリズム感よくなってはきたとは思うんですけどね。

つんく♂:そうですね。でも、そもそも日本人って本来はリズム感悪くないんですよね。阿波踊りにしてもだんじりのリズムにしても凄い明確なリズムがあるんですけど、たぶんクラシックを学んでからおかしくなったんですよね。日本人ってクラシックを譜面だけ見てうわべで取ってしまうんですよ。クラシックって当時の流行音楽だったわけですから、もっと尖ってたはずなんですけど、譜面だけで伝えていくから全然ノれてないんですよね。もっと楽しかったはずだし、体で体感する音楽だと思うんですよ。

 ぼくはいつもピアノとかギターをパーカッションだって言うんです。弾くものじゃない、はじくものなんだと。1弦から6弦までジャーンじゃなくてジャン!というか点なんですよ。タラララーンじゃなくてドン!って通過する点なんですよ。それを今のビジュアルバンドのやつに弾けって言ったら弾けないんですよ。それじゃいかんと。音符はタテに一列でズレはないんだと。時間にしたら0.1秒とか0.0何秒の世界だと思うんですけど、その差を感じろって言うんですけど、なかなか理屈がわからないんですよ。だからリズムは非常に大事ですよね。リズムを制覇すれば、ほとんど問題ないですよね。

--それがわかってるミュージシャンはやっぱり少ないと感じますか?

つんく♂:上手い人たちはみんな感覚的にやってるんですよ。ただ理解してる人が少ない。だから黒人なんてそうですよ。黒人のギタリストと仕事しましたが、音符は読めないけどスケールはわかってるからすごく上手いんです。彼らは体がそういうリズムだから弾けるんですよ。でも理屈でわかってないからそれを他人に教えられないんですよね。「なんで弾けないの?」っていう顔してる。「こうしかできないだろう?」って。

--つんく♂さんの引き出しが多すぎて驚きました。ここまでリズム談義になるとは(笑)。

つんく♂:リズムは日本人は本当に理解したほうがいいですよ。

 

6.この過渡期を耐えしのいで音楽をしっかり作っていきたい

--つんく♂さんはこのあとどこに向かってらっしゃるんですか?

つんく♂:そうですね…みなさんわかってらっしゃると思うんですけど、音楽商売が成り立ちにくくなってきました。CDを売ってきたんですけど、自分らが聴くときもyou tubeで聴いたりもしますから、おかしな世の中になってるんですけどね。多分レコード会社も淘汰されていって大手2つぐらいになるでしょうし、配信会社もそんなにたくさんあっても仕方ないだろうなとか。ただ、先日高嶋ちさ子さんがやってる「バギーコンサート」という、小さいお子さんを連れてきていいですよっていうコンサートを観に行ったんですが、大人が座って200人ぐらいのところかな? 1時間ちょっとのコンサートで1日3回まわしで数日間やるんですが、チケット代は5,000円というのが即完するっていうから「やっぱりライブは需要あるな」と思いましたね。でもクラシックっていうものはそういう歴史というか、新しい曲を作るというよりは、何百年も前の曲を繰り返し演奏しているわけじゃないですか? だから歌謡曲っていうのも下手したら新しいものというよりも古い曲を何度も歌っていく時代になるかもしれないのかなと思いながら観ていたんですよね。

--海外ではマドンナやプリンス、日本では矢沢永吉さんがメジャーとの契約を切って興行収入を主体とした形に切り換えていますが、つんく♂さんもそういったことは考えていらっしゃるんでしょうか?

つんく♂:どうでしょうか。自分でレコード会社しながらですから矛盾してしまうんですけど。

--大きな過渡期ですよね。

つんく♂:でもその辺をなんとか耐えしのいで音楽をしっかり作っていきたいなと思うんですけどね。

--総合エンタテインメントプロデューサーとしてはもっと映像とか、ゲームとかそういう方向にも拡大していくんでしょうか?

つんく♂:映像に関しては3Dがあるのでちょっと楽しみですけどね。あと、今までは、アーティスト1に対してお客さんがほぼ無限で、美空ひばりさんみたいなみんなが知ってる曲を売るという商売をしてきたってことですよね。もしかしたら、昨日の「バギーコンサート」みたいに、200人の需要に対してどんな商売ができるのかとか、1千万払うからうち子供のために演奏しにきてよ、みたいな商売も成り立つのかなと。

--モーツァルトの時代みたいに?

つんく♂:そうそう。そのぐらい極端でもこれからは1バイ1とかそういう1対5とか1対10みたいなそういうビジネスはありじゃないかなって思うんですよね。

--本日はお忙しい中ありがとうございました。つんく♂さんの益々のご活躍をお祈りしております。

(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也 山浦正彦)

 つんく♂さんのお話はとにかく面白く、テンポも絶妙で長時間ながらも笑いの絶えないインタビューとなりました。そして、巧みな話術もさることながら、物事のとらえ方が天才的で、その人生哲学には驚くばかり。お子さんの育て方の話で、「3歳になる前から怒られて育った子は、1のものを10にしかできないけど、そうでない子は0のものを100にできる」とおっしゃっていましたが、つんく♂さんは間違いなく、0を100にできる方だと思いました。現在も、プロデューサー、TNXの社長として多忙を極めるつんく♂さんですが、日本から世界に羽ばたけるようなアーティストをたくさんプロデュースしてくださることを期待しています。

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