第86回 秋元 康 氏 作詞家

インタビュー リレーインタビュー

秋元 康 氏
秋元 康 氏

作詞家

今回の「Musicman’s RELAY」はつんく♂さんからのご紹介で、作詞家の秋元康さんのご登場です。高校時代から放送作家として活躍し、『ザ・ベストテン』など数々の番組構成を手がけてきた秋元さん。83年以降は作詞家として、美空ひばりの「川の流れのように」をはじめ数多くのヒット曲を生み出しました。また、アイドルグループ“AKB48”“SKE48”“SDN48”の総合プロデューサーとしても多忙な毎日をおくる中、京都造形芸術大学副学長も務め、さらにTV番組『とんねるずのみなさんのおかげでした』などの企画構成、新聞・雑誌の連載など、多岐にわたりご活躍されています。今回のインタビューでは、「川の流れのように」の誕生秘話からヒットを作り出す方法、さらに現在の音楽業界に至るまでお話を伺いました。

[2010年5月13日 / 秋元康事務所にて]

プロフィール
秋元 康(あきもと・やすし)
作詞家


高校時代から放送作家として頭角を現し、『ザ・ベストテン』など数々の番組構成を手がける。83年以降、作詞家として、美空ひばり『川の流れのように』をはじめ、中島美嘉『WILL』、EXILE『EXIT』ほか、数々のヒット曲を生む。08年11月、ジェロ『海雪』で第41回日本作詩大賞受賞。09年12月、第51回日本レコード大賞・特別賞をAKB48とともに受賞。10年3月、渡辺晋賞を受賞。
91年、松坂慶子・緒形拳主演『グッバイ・ママ』で映画監督デビュー。企画・原作の映画に『着信アリ』シリーズなど。
2005年4月、京都造形芸術大学教授就任。2007年4月、同大学副学長就任。
TV番組『とんねるずのみなさんのおかげでした』などの企画構成、新聞・雑誌の連載など、多岐にわたり活躍中。アイドルグループ“AKB48”“SKE48”
“SDN48”の総合プロデューサーも務める。本年6月、日本放送作家協会の理事長に就任。
著書に『一生を託せる「価値ある男」の見極め方』(講談社+α文庫)、『「選ばれる女性」には理由がある』(青春出版社)、『おじさん通信簿』(角川書店)、小説『象の背中』(扶桑社)、『企画脳』(PHP文庫)ほか多数。

 

  1. 東大入学を目指し猛勉強〜官僚を目指した学生時代
  2. ひょんなきっかけから高校生で作家デビュー
  3. 移住したニューヨークで書き上げた「川の流れのように」
  4. 「ヒットは狙えても、スタンダードは作れない」
  5. AKB48スタイルをフォーマットとして世界へ販売
  6. 「みんなが行く野原には野いちごはない」

 

1.東大入学を目指し猛勉強〜官僚を目指した学生時代

−−今回はつんく♂さんからのご紹介なのですが、つんく♂さんとの出会いのきっかけは何だったのですか?

秋元:つんく♂とは番組で一緒になったりするうちに、いつの間にか仲良くなっていましたね。つんく♂はおニャン子クラブが大好きだったと聞いていたので、モーニング娘。を立ち上げたときにはすごく応援しました。当時僕がTBSで「うたばん」という番組を始めた頃だったので、モーニング娘。には、とてもお世話になりました。

−−プロデューサーとしてのつんく♂さんをどのように評価されていますか?

秋元:彼は天才プロデューサーだと思います。やはり小室哲哉、つんく♂、小林武史は天才ですね。よく、おニャン子クラブと比較されるんですが、つんく♂はミュージシャンなので圧倒的に音楽性が高いですよね。流行りの音楽をいち早く取り入れていますし、モーニング娘。を聴いたときに非常に音楽性が高くてさすがミュージシャンがプロデュースするアイドルグループだなと思いました。

−−ここからは秋元さんご自身についてお伺いしたいのですが、ご出身はどちらでしょうか?

秋元:目黒区の大橋です。当時の大橋はまだ都電が走っていましたね。

−−高速道路ができる前ですか?

秋元:そうですね。オリンピックの前ですから。

−−どのようなご家庭だったのですか?

秋元:普通のサラリーマンの長男で、弟が一人います。

−−大橋には何歳まで暮らしてらっしゃったんですか?

秋元:小学校の一年か二年くらいですね。当時は小児ぜんそくを患っていたので空気のいいところに、ということで保谷市(現:西東京市)に引っ越したんです。

−−少年時代はどのように過ごされていましたか?

秋元:小学校の頃は、勉強ばかりしていましたね。勉強ができる子だったので。

−−(笑)。

秋元:中学受験をするために塾に通っていました。当時はまだそんなに中学受験が盛んな時代でもなかったですが、開成中学、開成高校と進み、東京大学に行こうと思っていたのでとにかく勉強してました。体が弱かったこともあったので、わりと外で野球をしているよりも勉強しているタイプの子だったと思います。テレビを観るとか、音楽を聴いたりとかも無かったですね。ただ、中学受験に失敗してしまい公立の中学校に行ってからは「最終的に東大に行けばいい」と思ったので、全く勉強しないで遊んでいました。

−−小学校時代とは真逆ですね(笑)。

秋元:もしかしたらそのときに音楽とか遊びに目覚めたのかもしれないですね。

−−当時は東大に入ってそこから先のことは考えてらしたのですか?

秋元:東大から大蔵省(現:財務省)に入りたいと思っていました。

−−もし大蔵省入っていたら人生変わってしまいましたね。

秋元:そうですね。僕は「半ズボンの挫折」と呼んでいるんですけれども、塾では絶対に受かると言われ、模試でも良い成績だったのに、それでも受験に落ちたことがすごくショックでした。世の中予定通りいかないというか、運というものがすごく大きいんだなと思いましたね。

−−子供心に大きな挫折を味わってしまったということですね。その後は中央大学附属高校に行かれたそうですね。

秋元:ええ。とにかく親が大学の附属高校だというので入って、当時は男子校で私服だったので、仲間と遊んでばかりいましたね。

 

2. ひょんなきっかけから高校生で作家デビュー

−−秋元さんは高校の頃から作家としてお仕事をされていますよね。そのきっかけは何だったのですか?

秋元:高校2年のときにそろそろ勉強しないと東大に入れないと思ったので、勉強を始めたんです。その合間にラジオで聴いていたラジオドラマみたいなのを自分でも書けそうな気がして、原稿用紙を買ってきて書いてラジオ局に送ったのが放送作家になるきっかけですね。原稿を送ったら「遊びにおいで」と言われて、ニッポン放送をウロウロし始めて、亀渕さん(亀渕昭信氏 ニッポン放送元代表取締役社長)とかが良くしてくださったんですよ。僕の放送作家の師匠は、奥山さんという方なんですが、その奥山さんがテレビの仕事を手伝わせてくださって、それが『ザ・ベストテン』の立ち上げの時で、それから『ベルトクイズQ&Q』とか、とにかく色々な番組をやりましたね。

−−あっさりとおっしゃってますけど、ふつうの高校生がちょっとラジオに投稿して、なかなかこういったことにもならないと思いますし、そのままテレビの仕事ということにもならないと思うんですが…。

秋元:それは、たぶん一番若くて面白かったからじゃないですかね。「自分の武器は何だ」ということを若いスタッフによく訊くんですが、当時の僕の武器は「若さ」だったと思いますし、ラジオをやるにしてもリスナーと同じ世代だったから一番リスナーに近かったわけです。大学生になってからテレビ番組をやるにしても、一番若いわけですから、ああだこうだ好き勝手に言えましたしね。

−−ある意味、後先を考えずにと言いますか、その世界に入り込んでいったんですね。

秋元:僕は、そのあと大学に戻ろうと思っていたので、“守る”というものがなかったといいますかね。

−−やはり学生の仲間の中でも、ちょっと浮いた存在だったのですか?

秋元:変わっていたでしょうね。学校に行ってもずっとテレビやラジオの原稿を書いていましたから。

−−下積みをせずに、いきなりプロの世界で大活躍してしまったんですね。

秋元:そうですね。だからテレビが好きで、音楽が好きでというわけではなかったんですが、やりはじめて、面白いと思って続けただけで、アルバイトの感覚でした。

−−アルバイトとは言っても、やっているうちに結構な収入を手にされたんじゃないですか?

秋元:「入って来ちゃった」といった感じでしたね。ただ、父親がサラリーマンだったので、経済観念を揺るがすようなことはなかったです。自分の稼ぎはあぶく銭だと思っていましたし、親父の稼ぐ100万と僕の稼ぐ100万は違うと思っていましたから。偶然入ったパチンコ屋さんで玉がすごく出たようなものだから、玉がなくなったら辞めようと思ってました。

−−結局大学には何年までいかれたんですか?

秋元:あまり覚えてないですが、5〜6年は間違いなく行ってると思います。籍だけはあるという感じでしたね。その途中でどうしてもテレビの原稿の締切と学校のレポートの締切が重なって何度も呼び出されて「どうするんだ」と言われて、もうその段階で中退届けを出そうと思って大学を辞めました。

−−初めはアルバイトとして始めたものをどの時点で仕事にしようと思われたんですか?

秋元:ずっと思ってなかったですね。亀渕さんが「作詞をやってみたら」と、フジパシフィックの朝妻さん(朝妻一郎氏 フジパシフィック音楽出版代表取締役会長)を紹介してくださって、詞も書くようになるんですが、それでも本当にプロの作詞家になりたいとも、なれるとも思っていなかったですし、好奇心の先に運があっただけと思うんですよね。

−−作詞家としての最初のヒット作品は?

秋元:一番初めのヒット曲は、稲垣潤一の『ドラマティック・レイン』や長渕 剛の『GOOD-BYE青春』ですね。僕は『長渕 剛のオールナイトニッポン』の構成をやっていたんですが、長渕の『順子』が大ヒットしたときに再会して「何か一緒にやろう」という話になって、彼が主演した『家族ゲーム』というテレビドラマの主題歌が『GOOD-BYE青春』だったんです。

 『ドラマティック・レイン』も筒美京平先生の曲が先にできあがっていて、その曲に合わせて何人かの作詞家が詞を書くコンペで、運良く僕のが採用されたというだけです。だから僕は作詞家だとも思わなかったですし、放送作家だとも思わなかったですね。『ザ・ベストテン』やテレビ、ラジオの台本を書いていると、歌手の方やマネージャーと仲良くなって「コンサートの構成とか演出をやってくれないか」という話になって、それも面白そうだからやってみようかな・・・とか、ずっとそういう感じですね。

−−能動的に「この仕事を取ってやろう」というようなことはなかったのですか?

秋元:そういうのは全くないですね。美空ひばりさんのときもコロムビアで、亡くなってしまった堀江しのぶちゃんのプロデュースをやっていて、そのときにコロムビアの方に、当時おニャン子クラブとか、とんねるずがすごい勢いだったので、「次は何やるんですか?」と訊かれて、「作詞家になったからにはやっぱり美空ひばりさんと仕事をしてみたいです」って言ったら、その話をひばりさんのスタッフの方に話してくださってプロジェクトがスタートしたんです。だから「やらせてください」っていうふうに何かをしたことはあんまりないですね。

 本当に運がいいと思うんですよ。その時々に必ず助けてくださる先輩やスタッフの人たちがいて、チャンスをくださったんですよね。僕が一番好きな座右の銘っていうのが、「人生無駄なし」なんですが、ドミノ倒しが倒れるように誰かと出会って、それがまた次のドミノを倒して・・・というような形で、人生というのは全部連鎖していると思うんですよね。

 

3. 移住したニューヨークで書き上げた「川の流れのように」

−−とんねるずのお二人とはどのように出会われたんですか?

秋元:28〜29年近く前、日本テレビの『モーニングサラダ』という番組の構成を担当していたんですが、先輩の放送作家が笑いを入れようと。それで「今『お笑いスター誕生』で勝ち抜いている“とんねるず”っていうのが面白そうだから会ってこい」と言われて、日本テレビのリハーサル室にとんねるずの2人を呼んでネタを見せてもらったら、すごく面白かったんですね。それで彼らがその番組でコーナーを持つようになって、一緒に飲みに行ったり遊んだりしているうちにフジテレビで『オールナイトフジ』が始まって、そのブレーンとして入ったときに「とんねるずっていう面白いコンビが今、日本テレビの朝の番組でコーナーをやってるんですが、彼らでやりませんか?」と提案したら、ディレクターの港浩一さん(フジテレビ)が乗ってくれて、そこからとんねるずブームが起きたんですよね。

 その『オールナイトフジ』が結構話題になって、オールナイターズで歌を出したら売れて、そこで今度は女子高生スペシャルっていうのをやったんです。その女子高生スペシャルが盛り上がったので、じゃあ夕方に番組をやろうと始めたのが『夕やけニャンニャン』で、おニャン子クラブに繋がるんです。よく僕がおニャン子クラブの仕掛け人と言われますが、僕が仕掛けたんじゃなくて、フジテレビの笠井さん(笠井一二氏)や石田さん(石田弘氏)、港さんが仕掛けたものを具現化するのが僕の役割でした。

−−秋元さんはおニャン子クラブが大ブームの頃にニューヨークへ行かれていますよね。ノリにノッている時期にどうして日本を離れられたんですか?

秋元:当時20代後半で「SOLD-OUT」という会社を作って、そこに『TRICK』や『20世紀少年』を撮った堤 幸彦とか、みんな仲間を集めて好き勝手なことをやっていたんですが、当時おニャン子クラブやアイドルの曲が、オリコンに何十曲とランクインしていたので、もう何が何だかわからない状態になっていて…。自分はアルバイトでやってるつもりが、「大事になってきたな」という感じでした。このままじゃ多分浮かれて、祭り上げられて担がれて終わるなと思ったので、全部仕事を辞めてニューヨークに行ったんです。

−−『川の流れのように』はニューヨークで書かれたんですよね。

秋元:そうです。結局ニューヨークには1年半くらいいたんですが、1年くらい過ぎてだんだん望郷の念もあったりして、「俺は何やってるんだろう」と思ったんですね。僕は31丁目にあるコンドミニアムに住んでいたんですが、その部屋の下にイーストリバーが流れていて、それを眺めながら「この川をずっといくと海に繋がって、その海は日本に繋がってるんだろうな」とか、ぼんやり考えていたんですよ。

 そんなときに日本からひばりさんが東京ドームで不死鳥コンサートをやると連絡があったんです。それで急遽帰ってこいっていう話になり、東京に帰って、東京ドームでひばりさんとお会いしてプロジェクトが再開しました。当時30代の作曲家で演歌を書いたことがない後藤次利や高橋 研、林 哲司さんに曲を発注して、またニューヨークに帰るんですが、ニューヨークに送られてきた見岳 章のメロディーのテープとソニーのウォークマンを持って、カフェ・ランターナっていう当時僕らの溜まり場だったカフェで詞を書いたのが『川の流れのように』です。

 あれだけ波瀾万丈な半生を送っていらした美空ひばりさんのような方が、「あんた、人生なんて大したことないわよ。大丈夫よ」って言ってくれたら勇気づけられるなと。そういう応援歌を書こうと思っていたんですが、その曲を聴いて一行目に書いたのが「川の流れのように」だったんです。いつも、詞は全体を書いてから最後にタイトルを書くことが多いんですが、そのときは何も考えずに「川の流れのように」というタイトルから書いたんですね。それはなぜかと訊かれても僕には全然わからなくて、インタビューとかで訊かれる度に「多分それはずっとイーストリバーを見ていたからなんでしょう」と答えています。あのイーストリバーが自分の中にすり込まれていて、だから「川の流れのように」って書いたんだろうなと。

 その後、たまたま東京帰ったときにとんねるずの石橋君が「秋元さん、いつまでニューヨークにいるんですか。そろそろ日本に帰って来てくださいよ」って言ってくれて、日本テレビの『とんねるずの生でダラダラいかせて!!』とか、また色々な番組をやり始めて忙しくなったので日本に帰ってきました。そのときはもう吹っ切れたと言いますか、あの美空ひばりさんが作詞家として認めてくださったんだから、「プロの作詞家って名乗っていいのかな?」ってそこで初めて思ったんです。

−−美空ひばりさんに詞を書かれていてバイトというわけにはさすがにいかないですよね。

秋元:ひばりさんに作詞家として認めていただいて、それを歌っていただいたということが、もしかしたら、自分の中でプロになった瞬間だと思うんですよね。

−−そう自覚されるまでに結構時間がかかりましたね。

秋元:高校生のアルバイト感覚でしたからね。その頃まで、アメリカの大学に入って勉強し直そうと思っていましたし、もう一回東大受けようかなと本当に思っていましたから。かみさんにも「勉強し直そうと思うんだよね」って言ったら、「いいんじゃない?」って言ってくれる人だったので、遠回りして、自覚を持てたということでしょうか。

−−ひばりさんは『川の流れのように』の詞に関して何かおっしゃられていましたか?

秋元:『川の流れのように』のレコーディング時に、僕の右隣にお座りになられて「いい詞ね」と。そして「人生っていうのは確かに川の流れのようなもの。流れが速かったり遅かったり曲がりくねってたり真っ直ぐだったり。だけど、どんな川も同じ海に注ぐのよ」っておっしゃったんです。そのときは「いいことをおっしゃるな」と思っていたんですが、今振り返ると、すごく深いお言葉をいただけたなと思います。

 僕はプロデューサーとして『ハハハ』という歌をシングルカットしようと進めてたんですが、直前にコロムビアの方から連絡があって「『川の流れのように』をシングルにしたい」と言うんですね。「なぜですか? いい曲だと思いますけど地味ですよ?」って言ったら、「ひばりさんがどうしても『川の流れのように』をシングルにしたいとおっしゃっている」と。ひばりさんはコロムビアに在籍されてから1回も自分の意見を言ったことがなかったそうなんですね。常にスタッフが決めたことに「わかりました」とおっしゃっていたそうなんですが、今回初めて自分の意見を言いたいと。それで『川の流れのように』のシングルカットが決まりました。あの曲には、何か運命的なものを感じますね。

 

4. 「ヒットは狙えても、スタンダードは作れない」

秋元 康1

−−今では『川の流れのように』は日本のスタンダード・ソングになりましたよね。

秋元:当時はどこか自惚れていましたし、ヒットはいつでも出せると思っていましたけど、『川の流れのように』のときに思い知ったのは、「ヒットは狙えても、スタンダードは作れない」ということなんです。ヒットっていうのは狙って打っていけるような気がするんですが、スタンダードっていうのは結果ですからね。

−−実際にスタジオで聴かれたひばりさんの歌はいかがでしたか?

秋元:あれだけ歌の上手い方が2週間自宅で練習してくるんですよ。それは完璧です。プロっていうのはすごいなと思いました。レコーディングスタジオにも緊張感が漲っていて、ピーンと張り詰めているんですよ。たぶん、そんなことはないんでしょうけど、センターピンがちょっとずれただけでもスタッフが外される、5分遅刻したら外されるみたいな話をコロムビアの方から聞かされていましたから。僕らは5分遅れようが、ちょっとしたミスでも許すのは、自分もミスするかもしれない甘えじゃないですか。ひばりさんはそういった厳しさをスタッフに課すことによって、実は自分が一番苦しい、自分がやらなきゃいけない立場に追い込んでいたんですよね。ひばりさんは東京ドームで40曲近くお歌いになって歌詞を1ヶ所も間違えていないんです。そのプロ意識っていうのはすごいと思います。僕はひばりさんとお仕事をさせていただいたことで、「プロとは何か」ということを教えられたと思います。

−−ひばりさんはそのレコーディングからわずか1年も経たずに亡くなられてしまったんですよね・・・。

秋元:そうですね。すごいショックで、夜中に電話があってすぐ青葉台の御自宅まで行きました。眠るような本当に優しいお顔でした。

−−ご本人はある程度自分の死期を悟ってらっしゃったんでしょうか?

秋元:どうですかね。それは僕にはわからないですね。僕らや作曲家陣は、ひばりさんがお元気になられたからプロジェクトを再開しますと聞かされていただけなので、お元気になられたんだと信じていました。だから、もしもそういうことを感じていたり、何か片鱗があったら『川の流れのように』は書けなかったと思うんですよね。

 僕の人生を振り返ったとき、あのときにひばりさんのプロの仕事をまざまざと見せつけられて、「あなたは十分プロでしょ?」って叱責されたような気がしますね。だからそのときに大学に戻ろうとか迷いが消えましたし、この“パチンコ”はやり続けるしかないなと思いました。いいときだけ打って、出なくなったらやめようじゃなくてね。ただ幸か不幸か、もうすぐ球がなくなるな・・・と思うとまた何かで球が出てきて。

−−でも端から見て秋元さんの球がなくなりそうなときなんて想像できませんよ。

秋元:あんまり考えてないんですよね。トーマス・エジソンの格言に「成功とは99%の汗と1%の才能である」というのがありますが、僕は「98%の運と1%の汗と1%の才能」だと思うんです。それは決して才能や努力を軽んじているわけではなく、やはり、その2%がないと100%にはならないわけですから、とても大切なことだと思いますが、「この人はすごく努力してるな」って思ってもそれが報われない、あるいは「すごく才能があるな」と思っても花開かないタレントさんを僕はたくさん見てきたんですね。だからそういう人たちを見ていると本当に才能とか努力とか汗だけじゃなくて、なにか大きな運が動いているような気持ちになるんですよ。

−−秋元さんにはその運があったと。

秋元:運しかないですから。なんでこの人と出会って、なんであの仕事をしたんだろう、なんでこういうきっかけになったんだろう・・・というのはわからないんですよね。例えば、ジェロの仕事もそうですよ。戸田恵子さんのアルバムをやっているときなんですが、戸田恵子さんのディレクターが面白い人で、「新人の詞を書いてもらえませんか」って言われたんですよ。マネージャーには「スケジュールがいっぱいだから無理ですよ」って言われていたんですが、僕が徹夜をすればいいだけのことなので、お引き受けしました。でも、届いた音資料と写真を見て、「これ間違ってるよ」と・・・。

−−音が演歌で、写真が黒人だったら普通そう思いますよね(笑)。

秋元:ところが、間違いじゃなくて黒人の青年で演歌を歌うというので、これは面白いなと思って書いただけですし…。AKB48にしても小劇団とかロックアーティストが小さな会場から少しずつ動員数を増やしていくのを見て、「うらやましいな」と常々思っていたのと、会議で「刺さるコンテンツを作らなきゃダメだ」っていうことをよく話していたので、その刺さるコンテンツを作ろうと、たまたま秋葉原で仲間内でやり始めたことが今のような形になっているだけなんですよ。

 だから色々なことが結局は運で、本当にホームランを狙おうと思って打ちにいったわけじゃないんです。面白いから打席に立とうと思っただけなんです。おニャン子クラブのときもそうでしたし、とんねるずもそうだと思うんですが、売れるとは思うんですよね。でもその売れ方がシングルヒットなのか、2塁打、3塁打なのか、ホームランなのかはわからないんです。ただ、今はどうしても立場上、バッターボックスに立ったら3割は打たなきゃいけないので、バットを短く持って確実に打とうという仕事の仕方をしていますよね。だからホームランってなかなか打ちにくくなって来ました。

−−ホームランは狙っては打てない?

秋元:そうですね。おニャン子とかとんねるずのときは期待されてないわけですし、バッターボックスに立っても3番なり4番がいるから、「いいんですか? 僕なんかで」って思いっきりバットを振っていただけですから。とんねるずの『雨の西麻布』もおニャン子の『セーラー服を脱がさないで』もそんなに売れると思っていませんでしたし…。

−−ただ売れてくるとそうもいかないですよね。

秋元:そうですね。責任が出てきますよね。それと年齢ですね。年齢が上になってくるとだんだん自分が決定権を持つようになるんですよ。昔は外野から「それじゃあ売れないぞー」とか言ってたんですが、だんだん自分で決定しなきゃいけなくなるとバットを短く持ってしまうんですね。

−−仕事をしてて、昔の方が面白かったな、やりたいことできたなと思うことはありますか?

秋元:それはありますね。今だったらやりたいことをこういうふうにやりたいと言ったら通るわけですが、どっちがいいのか正直わかりませんね。

 

5.AKB48スタイルをフォーマットとして世界へ販売

−−秋元さんのお仕事は、今までの人生で起こった出来事を1つ1つを楽しみながらこなしてきたことが結果となったということでしょうか。

秋元:そうですね。結局モチベーションが好奇心しかないんでしょうね。もともとアルバイトから始まっているので。アルバイトということはアルバイト料として何か欲しいものが買えるくらいあればそれで満足なわけじゃないですか? 僕は高校生とか大学生から言えば分不相応なお金をもらっていたので、お金に対する執着っていうのは全くないんですよね。

 秋元康といったらすごくお金に執着があるように見える人もいると思うんですが、全然ないんですよ。曲がヒットしたりすると、「秋元さんはいつも当たるところにいるよね」ってあたかも遭遇したように言われるんですよね。でも実際は結果よりプロセスの方が好きです。だから、AKB48も売れなければ印税が入って来ないので、4年くらいは、ほとんど入って来なかったですね。それよりも「面白いな」って思えることが僕には重要なんです。

−−世界でビジネスするために、AKB48のようなスタイルをフォーマット販売するということを考えられているそうですね。初めからそういったことも考えた上でAKB48をプロデュースされていたんですか?

秋元:いや、何も考えていないですし、ニューヨークとかカンヌでどういう反応があるのかなとか、そういう興味ですよね。フォーマットで売るということが先に立っていて、ビジネスマンのように、これで何とか利益を上げてという発想は全くないんです。正直に言えば、フォーマット販売なんて多分90%うまくいかないと思ってるんですが、もしかしたら10%はあるかもしれない。僕らが学生時代にメジャーリーグの打率王を争う日本人が出てくるなんて思わなかったじゃないですか? 野茂選手がメジャーリーグに行ったときも「どうせ通用しないでしょ?」っていうところから始まってるわけですよ。

−−勝負はやってみないと分からないと。

秋元:AKB48のステージなんてアメリカとかフランスでやると初めはドン引きなんですよ。もちろんJAPAN EXPOとかでやれば日本の文化として評価してくださるんですが、そうじゃないときは「こんなに歌やダンスが下手で何をやってるんだ、こいつら・・・」って、初めはポカーンとしてるんですよ。いわゆるブロードウェイに代表されるショービジネスの人たちからしたらありえないわけですよね。オーディション以下ですよ。ところが4曲目、5曲目になるとだんだん彼らがノッてくるんです。なにか得たいの知れないエネルギーを感じるというか、「この子たちは歌やダンスが下手なのに、なんでこんなに楽しそうに汗かいて頑張るんだろう?」ということに魅せられるんでしょうね。僕はここにワンチャンスがあると思っているんです。

−−そのワンチャンスとは具体的にどういったことなんでしょうか?

秋元:例えば、納豆を輸出しようとすると、納豆は多分欧米人にはその臭いや糸を引くのが腐ってるように見えてダメだろうなと、色々加工をして納豆を輸出する。それでは売れないと思うんです。僕は、AKB48は納豆は納豆のままでいいと思っています。こんなに臭くて糸が引いてて・・・と、ありのままを伝えると、みんな恐る恐るなんだけど、濃いコンテンツを面白がるんですよ。

 もしかしたらAKB48の歌の下手さとか、ダンスの下手さを超えたエネルギーがいいんじゃないかと思っています。これはニューヨークでもカンヌでも北京でもそうなんですが、その国の言葉に詞を変えてサービスするとウケないんです。そういった状況を見ると、納豆は納豆のままが今は面白いんじゃないかなと。それも僕にとっては好奇心なんですよ。でも、これをやったらいくら、この仕事をしたらいくらっていう計算の仕方をしたことがないですし、「これは面白いな」っていう仕事の選び方をしてるので好奇心だけがモチベーションなんです。

−−全てのテーマは好奇心が持てるかどうか。

秋元:そうです。だから僕は好奇心がなくなったら仕事は辞めようと思っています。つまり、どれだけお金くれると言っても、僕は興味のないことでは動けないんですよね。ある会社の社外役員をやったときも、「社外役員ってどうなんだろう?」って興味を持ったからお受けしたまでで、それは経験としても面白かったですね。普通、その歳では社外役員なんてなれないわけですしね。僕の好奇心がすごく満たされたのは、みなさんもそうだと思うんですけど、打合せしようとするとまず雑談から入るじゃないですか? でも、取締役会とか最高経営会議って議長みたいな人がいて、「それでは第一号議案から・・・」って始まるんですよ。そういうのが僕にはすごく面白かったですし、会議で意見を言っても僕は末席の役員だったので相手にされない。そのときに「偉くならないと言いたいこと言えないんだ。やっぱり出世したいな」って思いましたよ。だからサラリーマンの方が出世したい気持ちがすごく分かりました。

−−ちなみに現在は京都造形芸術大学の副学長に就任されてますよね。

秋元:はい。初めはお断りするために行ったんですよ。今のスケジュールで京都の大学と行ったり来たりするのはなかなか難しいですから。でも、断りに行くときに大学のキャンパスを歩いていたら、当時の僕のような学生が歩いてるわけですよね。自分が色々なチャンスを人にもらって自分が生かされてるとすると、彼らに何かしないといけないんじゃないかと思ったんです。タイムマシーンで30数年前の自分の前に僕がポンと立って、「頑張れ」って言いたくなるような感じと言いますかね。それで大変は大変ですけどお受けして、AKB48の衣装を大学の学生たちにデザインしてもらっています。もちろん採用されたらきちんとギャラも支払っていますし、打合せにもできるだけ来てもらっています。僕自身、テレビの台本の書き方とか、映画にしてもコマーシャルにしても何にしても、とにかく現場で覚えていったんですね。ですから、学生たちにはできるだけ現場に触れさせてあげたいなと思っています。

 

6.「みんなが行く野原には野いちごはない」

−−将来的に大した希望も展望も持てないまま社会に出て行く現代の日本の若者たちに、秋元さんからアドバイスしてあげられることはないでしょうか?

秋元:若者に限定したことではないんですが、今はすごいチャンスだと思います。マラソンだって平地で追い抜こうと思ったら速いヤツはなかなか抜けないですよ。でも坂道だったら全員辛いからこのときこそ抜けるんですよね。だから就職難だったり企業の調子が悪い今がチャンスなんです。もしもやりたいことが見つからないんだったら、その場でじっとしてても見つからないですよね。目の前に壁があったらみんなそれを乗り越えろって言いますけど、乗り越えられないから壁なわけじゃないですか。だけど右か左に動けば、どんな壁もどこかに切れ目がありますから。一番ダメなのはそこで立ち止まってしまうことなんですね。

−−なんでもいいから、とにかく動いてみろと。

秋元:そうですね。もしも若い人で何もやることがないんだったら、極論ですけど、まず中国に行ってみろと、中国に住んでみろと言いたいですね。中国じゃなくてもニューヨークでも香港でもブラジルでもいい。そうすると何かが見えてくると思います。僕も中国の北京に行ってすごいなと思ったんですよ。たまたまお話した中国人の方が、「自分は親父のときよりも良い生活させてもらってる。だから僕は石にかじりついても子どもたちにはもっと良い生活をさせてやりたい」とおっしゃっていたんですね。そういった思いが今の中国経済を支えているんです。みんなで一発狙ってやるみたいな。日本人のようにぬくぬくと平和で食いっぱぐれのない人間が行ったら触発されるじゃないですか? 結局何もないかもしれないけど、とにかく別の場所に行って、身を置いてみるのは僕はアリだと思いますよ。

−−でも、みんな「もし失敗したら・・・」とか考えてしまうんですよね。しかも今のようなご時世ですとなおさら行動を起こしづらい。

秋元:自分の人生でも二つの分かれ道がいくつもあって、選択を間違えたなっていうときももちろんありますよね。ある程度の年齢になったときに、今度は間違えないようにしようと色々な情報を集めて「こっちだな」と思っても、また間違えるんですよ、人生って。僕もそういう経験をして分かったことは、二つの道があったときにはどっちでもいいからとにかく全力で走る。間違ってたなと思ったら全力で戻る、と。これしかないんですよ。「中国に行ってみたらどうですか?」っていうアドバイスは間違いかもしれない。でも行ってみて、「違うじゃないですか!」って怒って帰ってくることが大事だと思うんです。つまり、何か行動を起こさないとそれすら分からないわけですからね。多分僕はずっと行動だけは起こしているんですよ。それは間違いかもしれないし、戻るために時間がかかったり、お金もかかったりしましたけど、常に行動は起こしていますね。

−−確かに閉塞感を理由に何もしない人が多いですよね。

秋元:それと周りを見過ぎるんですよね。言い換えれば、マーケティングをし過ぎている。マーケティングっていうのは過去の残像ですから、マーケティングが終わった時点で一秒後には変わっているわけです。例えば、お花屋さんでみんなひまわりを買っているのを見て、「今はひまわりがいいんだな」と、ほとんどの人はひまわりを植えるんですよ。で、一年後はひまわりだらけになる。本当はそこで、たんぽぽを植えた人が勝つんですよ。ということは、周りの景色は何も関係ないんです。でも今は「携帯のコンテンツは…」、「iPadのコンテンツは…」、「3Dでは…」と、お皿から考えるからみんな同じようなものになっちゃうんだと思うんですよね。

−−本質から外れたところで物事が発展してるってことですよね。ということは音楽業界もやはりそういうことが起きているんでしょうか?

秋元:音楽業界はパッケージビジネスがシュリンクしていますが、だからこそチャンスで、パッケージで面白いものだったら売れると思いますし、もちろん流れとしては音楽配信ということになりますが、答えはきっとその間逆にありますよね。つまり、みんなが行く野原には野いちごはないんですよ。もうみんな獲ってしまっていますから。みんなが行かないところにこそ、まだ誰も獲ってない野いちごがあると思いますね。

−−秋元さんは常に人のやらないこと、みんなの予想を裏切るようなことをずっとやられてきて成功してきたと・・・。

秋元:必ずしもみんながやらないことをやっているわけではないんですが、外の風景よりも自分が見たい風景の方に進むってことでしょうか。

−−秋元さんは今後どういう方向に向かおうと考えてらっしゃるのですか?

秋元:何も決めてないです。例えば今日誰かと会って、その話が面白いなと思ったらそれに乗ることもありますし、もちろん僕らの仕事は来年の発売とかありますから、そういうことはやってますが、今の延長ではないところの未来は何も考えていないですね。

−−これからも好奇心を刺激された方向に行くだろうと。

秋元:そうですね。それと、いくらこういうことをやりたいなと思っても運の巡り合わせとか運のバイオリズムがそうじゃないときにはできないと思います。僕は女の子向けの講演会などで「恋愛は3回の奇跡がおきないと本当の恋じゃない」ってよく言うんです。その奇跡とはそんなに大げさなことじゃなくて、「電話をかけようと思ったらかかってきた」とか、「全然会うはずのないパーティーでばったり会った」とか、何か引き寄せられてないとダメなんじゃないかということなんですね。僕らの仕事も「こういうことやりたいな」とか、「あれいいな」とか思っている時点で止まってるときは多分呼ばれてないんですよね。映画やりたいなと思っていたら、たまたま映画の企画が来たとか、そういう何かがないとダメなような気がするんです。

−−最後にお伺いしたいのですが、秋元さんなりの運を呼び込む方法って何かありますか?

秋元:それは多分自分が運が強いと思い込むことだと思うんですよ。本当は違うのかもしれませんよ。でも、自分の中では「運がいいな」、「色々な人と出会えたな」、「きっと今後もいい人と出会えるんだろうな」と思い込む。何かをやろうとして無理にやるよりも、絶対何かと何かが組み合わさるときを待った方がいいなと思ったほうがいいんじゃないでしょうか。

−−本日はお忙しい中ありがとうございました。秋元さんの益々のご活躍をお祈りしております。

(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)

数々の輝かしい功績を残されてきたにも関わらず、「好奇心の先に運があっただけだと思うんです」と、謙虚に半生を語ってくださった秋元さん。今回のインタビューでは、要所要所に秋元さんならではの理論や名言が出てきましたが、どの言葉にも説得力があり、暗いニュースが続いている音楽業界に、また新しい刺激を与えてくれるのではないかと期待は膨らむばかりです。これからも多くの人の好奇心をかき立て、魅了する作品を作り続けていただきたいと思います。

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