第198回 株式会社シャ・ラ・ラ・カンパニー 代表取締役会長 中曽根勇一郎氏インタビュー【前半】

インタビュー リレーインタビュー

中曽根勇一郎氏

今回の「Musicman’s RELAY」はリスペクトレコード代表 高橋研一さんからのご紹介で、株式会社シャ・ラ・ラ・カンパニー 代表取締役会長 中曽根勇一郎さんのご登場です。中学時代に洋楽に目覚めた中曽根さんは、自身で折れ線グラフをまとめるなど米英のチャートマニアに。大学ではブラックミュージックと一人旅に没頭し、その後、紹介されるまま始めたシャ・ラ・ラ・カンパニーでのバイトとしてラジオ業界へ。フリーでの活動を経て自身の会社を立ち上げ、当時無名だったやまだひさしさんと作り上げたTOKYO FM『ラジアンリミテッド』は一躍人気番組になりました。

しかし、好調だった自身の会社を解散した中曽根さんは1年間の世界旅行へ。帰国後、腰掛けのつもりで復帰したシャ・ラ・ラ・カンパニーで、その1年分の経験を放出。J-WAVE『MODAISTA』やジャイルス・ピーターソン『WORLD WIDE 15』など国際色溢れる番組を数多く手がけられました。現在は代表取締役会長にありながら現場に立ち続ける中曽根さんに旅のお話から、ラジオ番組制作の今後やポッドキャストについてまで話を伺いました。

(インタビュアー:Musicman発行人 山浦正彦、長縄健志 取材日:2022年10月31日)

 

洋楽チャートのグラフ化に熱中

──前回ご登場頂いたリスペクトレコード 高橋研一さんとはどのようなご関係なのでしょうか?

中曽根:高橋さんとは沖縄つながりです。僕は海外の文化や音楽への憧れからこの業界に入ったんですが、高橋さんから沖縄の音楽を教えてもらうことで「日本にもこんなに個性的で、光を放つ音楽があるんだ」と知り、そこからアジアのいろいろな音楽へ興味を持つようになったんです。ですから、自分の新しい扉を開くきっかけが高橋さんなんです。

そして今年、高橋さんは沖縄の本土復帰50年の節目に、今までほとんど録音されてこなかった沖縄のジャズを録音してCD化することになり、その作品に関するラジオ番組を一緒に作ることになったんです。最近どのFM局でも1つのアルバムを取り上げて、その背景や制作意図などを丁寧に伝えるような番組ってなかなか作れていなかったので、これを機会に基本に戻ると言いますか、昔はたくさんあったけれど最近本当になくなってしまったような番組を作ってみよう思ったんです。それでレコーディングとかも取材に行って番組を作りました。

──高橋さんって音楽に対して真摯な方ですよね。

中曽根:そうですね。高橋さんって本当にブレないじゃないですか? 一緒に飲んだりするとすごく優しい方ですし、話していていつも楽しいんですが、こと音楽制作に関しては非常にストイックな方ですので、僕もしっかりやらないといけないなと思いました。

──わかりました。ここからは中曽根さんご自身のことを伺いたいのですが、お生まれはどちらですか?

中曽根:東京です。

──今のお仕事に繋がるようなご家庭だったんでしょうか?

中曽根:自分の音楽の扉が開かれたのが中学1年の頃、家庭や家族の影響というよりも、クラスに1人ぐらいいる、洋楽が好きなお兄ちゃんやお姉ちゃんの影響を受けた、ちょっとませたクラスメイトと仲良くなって。みんなアイドルや歌謡曲へいくところを、その友だちと仲良くなってしまったがために最初から洋楽を好きになってしまったんです。人と違う感じが楽しい、知らないことだらけだから逆に面白いみたいな気持ちがありました。

──おませな同級生の影響を受けたんですね。

中曽根:洋楽といってもポップスですが、その友だちのお姉さんから横流しされてきたカセットテープを聴かされて「こんな世界があるんだ」と。僕は中学から早稲田実業に通っていて、入学後、部活で野球も熱心にやっていたんですが、音楽と野球の両方に興味を持つようになってしまったんですよね。これは今もそうなんですが、一つのことにフォーカスしづらいというか、同時になにかやってないと面白くなくなってしまう性質の始まりだったかなと思います。それで当時、渋谷のタワーレコードってビルボードチャートのコピーを毎週水曜日に店頭に貼り出していて

──時代的に言うと何年頃ですか?

中曽根:83年とか84年、いわゆるマイケル・ジャクソンが大フィーバーし、MTVが出てきたぐらいの頃ですね。アメリカがとても景気よく、当然タワーレコードも盛り上がっていました。それで毎週水曜日、野球の練習をうまいことサボっては、渋谷のタワーレコードへ行き、店頭で紙のノートにチャートをメモっていたんです(笑)。毎週のように丸坊主の学生服が店に来て、ひたすらメモっていると(笑)。そのメモを家に持って帰って毎週チャートの折れ線グラフをつけていました。それは中2から高校1年ぐらいまでやったのかな?

──それはまたマニアックな趣味ですね。

中曽根:一生懸命やっていましたね。当時、ラジオ日本で毎週土曜日に『全米トップ40』という番組を湯川れい子さんと矢口清治さんがやっていて、その次は大貫憲章さんと今泉圭姫子さんの『全英TOP20』、そのあと伊藤政則さんのハードロック番組になるというすごい並びで、音楽のジャンルは変わるんですが、これらを聴くことが自分にとって最高の時間でした。もちろん別枠で小林克也さんや渋谷陽一さんの番組も聴いていましたが、週末のこの時間は自分で作ったチャートの折れ線グラフを確認しつつ「この曲はどう解説するのかな?」なんて考えながらずっとラジオを聴いていました。気づけばアメリカだけでは飽き足らず、レコードミラーというイギリスのチャートまでつけ始め、A3の大きい紙に10色以上の色ペンの一番細いやつで折れ線グラフを書いて(笑)。

──(笑)。レコードミラーはどこで調べていたんですか?

中曽根:確かタワーレコードにUKも貼られていて「イギリスにもこういうものがあるのか」と(笑)、「大貫憲章さんの番組で言っているのとこれが一致するんだ」と思って、こっちもチェックするようになったんですよね。

──よく野球部と両立できましたよね。

中曽根:そうですね。野球部のメンバーにもバレずに・・・まあバレていたと思うんですが。それでクラスの授業中とかに「20位、16位、4位、2位、2位、この曲はなに?」みたいなチャートクイズを出していたら(笑)、いつの間にかクラスの多くが洋楽ファンになって、みんなでレコードを買ったり、テープ交換をするようになったんですよ。

──中曽根さんがクラス中を洋楽ファンにしたと(笑)。

中曽根:結果的にそうなっていました(笑)。その後、高校に進んでからも野球部をサボりまくりで今度はコンサートにたくさん行くようになります。

──その頃ライブを観て印象に残っているアーティストは誰ですか?

中曽根:とにかく観られるものは全部観ちゃったので・・・誰だろう? インパクトで言えばやはり東京ドームができたときのマイケル・ジャクソンや、横浜スタジアムでやったときのプリンスもインパクトがありましたし、クイーンも目の前で観ると「やっぱりすげえな」って思いましたけど、たくさん観過ぎて麻痺しちゃっていたかもしれません。そう考えると中学2年のときに初めて自分でチケットを買って観に行ったホール&オーツは、色々な意味で印象に残っていますね。

 

ブラックミュージックと旅にのめり込んだ大学時代

──特に好きだったアーティストは誰ですか?

中曽根:特定のアーティストというよりも、シーン全体が好きだったんですよね。スターってみんなスターの理由がやはりあって、そういうスターのオーラを感じるのがすごく好きでした。中でもジェームズ・ブラウンとプリンスはすごく好きでしたね。ジェームス・ブラウンのコンサートは日本でも観ましたし、アメリカでも観ました。

──ブラックミュージックがお好きだったんですね。

中曽根:そこまでブラックミュージック系のファンだということではなくて、全部トータルで好きだったんですね。ただ、早稲田大学に進んでからはよりブラック系が好きになり、最終的にはアメリカのアトランタへ行って、黒人家庭に1か月ぐらいホームステイさせてもらい、毎日のように教会へ通ってゴスペルに関しての卒論を書くことになります。

──そういう学科に通っていたんですか?

中曽根:最初は演劇学科だったんですが、シェークスピアみたいな洋物の勉強をやると思ったら、1年目は全部の授業内容が文楽とか人形浄瑠璃とか日本寄りで、僕はそこに免疫がなかったものですから挫折しまして(笑)、学部を変えたんですよ。それで変えた学部が割と自由なところだったんですよね。

──大学時代もどんどん音楽にのめりこんでいった?

中曽根:そうですね。大学のときはさすがに折れ線グラフは卒業していて、聴く音楽ももっと幅が広がりました。それでブラックミュージックやジャズが好きになり、最終的にアメリカの教会へ行って、本場のゴスペルを体験して卒論を書こうと思ったんです。

──ここまでお話を聞いて、日本の音楽シーンは一切出てきませんね。

中曽根:これはあとで気づくんですけど(笑)。日本の音楽のことは完全に抜け落ちていました。

──(笑)。

中曽根:あと大学時代は音楽とともに旅が好きでした。色々な友人、先輩の影響を受けて「一人旅カッコいい病」に取り憑かれていたんですよ(笑)。それで大学1年のときから休みのたびにバイクで1人旅をするみたいなことをやっていたんですが、次第に海外へ興味が行き、ヨーロッパは大人になってから行けばいいやと思って、まずはアメリカへ行こうと考えました。

──最初はアメリカのどちらへ行かれたんですか?

中曽根:一番最初は慣らしでハワイへ行ってマラソンを走ってみようと思って(笑)、それで慣らしてから「次はアメリカ本土に1か月ぐらい行かないとダメだな」と思ったんですけど、お金がなかったので、グレイハウンドバスの1か月チケットだけ買ってアメリカ本土へ行きました。

──まずアメリカ本土のどこへ行ったんですか?

中曽根:LAですね。まあ、暖かいところなら大丈夫だろうと思って(笑)。それでいきなりサンタモニカからベニスビーチの方まで行ったんですが、着替えるのが面倒臭いだろうと思って、家から海パンを履いて出発したんですよ(笑)。

──(笑)。

中曽根:着いたらすぐ海だからいいんじゃないかと思ったんですが、全然考えが甘くて、飛行機のなかで蒸れちゃって(笑)、「海パン、全然ダメじゃん」みたいな。パンツ1個も持っていかないで、海パンだけ履いて行ってジャバジャバ洗えばいいんじゃないかって酷いですよね(笑)。

──替えのパンツを持って行かなかった(笑)。

中曽根:それで諦めて現地で買ったパンツがSサイズなのにデカかったという(笑)、すごい洗礼を受けて。それは今でもよく覚えています。そこから1か月、アメリカを旅しました。

──どんなルートだったんですか?

中曽根:南へ降りてサンディエゴの方まで行き、そこからテキサスを回り、ニューオリンズへ行って、マイアミから北上みたいなルートを全部バスで巡りました。

──泊まるところはどうしたんですか?

中曽根:泊まるところは全部行き当たりばったりで、お金を節約したいときは移動のバスの中ですね。22時ぐらいに出て、到着が朝の6時とか7時になる行き先を狙ってバスに乗るみたいな。大体それでしのいでいました。あと大きな都市だと、これは人には勧められないですけど、駐車場のピックアップトラックの荷台でよく寝ていました。あれだと外からも見えないから自分的には安全だと思って(笑)。

──それって見つかったら怒られちゃいますよね?

中曽根:怒られますね。でも夜中にスッと入って、そのトラックの荷台に乗ると、外からは全然見えないんですよ。

──そういうことをしている仲間というか、ほかの連中もいたりするんですか?

中曽根:トラックはいなかったですね。最初はバスディーポというか、バスの停留所にちょっとした待合スペースがついているようなところにいたんですが「このシチュエーションはちょっと危ないな」と思ったんですよね。僕もろくでもない恰好をしていましたから「こいつから金をとれる」とは思われないと思うんですが(笑)。それで「もうちょっと安全な場所を」と思って探したのがトラックの荷台だったんです。

でも、ニューヨークとかはもう少しマシなところに泊まりたいなと思って、ユースホステルに泊まったりしましたね。ユースホステルって二段ベッドの相部屋なんですけど、色々な国の連中がいて、毎晩「今日はどこに行ってきたの?」みたいな交流ができて、「ピックアップトラックの前にこれを先にやればよかったな」と思いましたね(笑)。それで1か月はあっという間に過ぎました。

──旅の途中でライブとか観たりしたんですか?

中曽根:そこにお金はつぎ込めなかったですね。でもその匂いは嗅げますし、ストリートでやっている人たちも観られましたし、すごく楽しかったですね。

──完全に旅がメインだったんですね。

中曽根:そうですね。旅というか、地域ごとの違いを体験したかったんです。アメリカと一言に言っても「州があれだけあるから、みんな違うんだろうな」とその違いを見たかったんですよね。そこには「小さい日本よりデカいアメリカがカッコいい」みたいな憧れというか、中学の頃からの、洋楽の洗脳があったのかなと思いますね(笑)。

 

何かに導かれるようにラジオ業界へ

──旅の途中でラジオとかは聴かれましたか?

中曽根:まさに、そこでラジオが登場するんです。1人旅は好きだったんですが、旅のお供としてラジオくらいあってもいいかなと思い、ヘッドフォン式で耳元でダイヤルを合わせるラジオをLAへ最初に着いたときに買って、旅しながらずっと聴いていたんですが、それまで聴いていたラジオ局が街や州が変わるごとに聴こえなくなり、また別のラジオ局が聴こえてきて「なんだこりゃ」って思ったんですよね。

──地域ごとに局が変わっていって、すごく面白いですよね。

中曽根:ダイヤルをずっとイジりながら聴いているのは楽しいなと思いました。ラジオを聴きながらバスに乗っていると、景色も変わりラジオ局も変わり「なんかこれいいな」と思いましたし、ラジオの楽しさを再認識したんですよね。そのときはラジオの仕事をしようなんてこれっぽっちも思っていなかったんですが、あのときの気持ちが心に刷り込まれていたんでしょうね。

とにかくどこへ行くにしてもラジオを聴いていました。夜になると友達や恋人に音楽とともにメッセージを伝えるデディケーション番組がたくさんやっていて、「直接電話で伝えりゃいいじゃん」と思いつつ(笑)、そこであえて仲介役になるラジオっていいなとも思いました。あと、当時はラジオ局のパワープレイの仕組みとか全然知らないので、「また同じ曲がかかっている、これは一体なんだろう?」と思ったり。

──アメリカのラジオに対してカルチャーショックがあった?

中曽根:あったと思います。全然ノリが違いますしね。ナッシュビルではどの局に合わせてもカントリーミュージックしか出てこないし、マイアミやニューヨークに行くと、当時からR&B、ブラックミュージックだらけでしたし、ロックの専門局でも今のロックをかける局もあれば、70’s専門の局もあるし、とにかく多様で面白かったです。

──ラジオ業界で働くきっかけはなんだったんですか?

中曽根:僕は旅に行くお金を貯めるために六本木の飲食店でバイトしていたんですが、そのお店が大学3年のときに閉店することになったんです。それでそのお店の店長が、シャ・ラ・ラ・カンパニー代表の佐藤輝夫氏と大学時代の友だちで「お前、音楽好きそうだから」と紹介してくれて、結果シャ・ラ・ラでバイトすることになったんです。六本木のお店は完全に水商売で、僕は光GENJIのような恰好をして、ホストのようにお酒で接客する仕事をずっとやっていたんですが(笑)、それに比べたら全然楽だなと。それで何かに導かれるようにラジオ業界に入りました。

──ちなみに就職活動はしなかったんですか?

中曽根:全くしてないです。もちろん周りはしていましたが、僕はそれよりも旅に行ったほうが楽しいと思っていましたし(笑)、就職活動も「別に今じゃなくてもいいかな」と思ってやらなかったんです。

──バイトとして入ったラジオ業界はいかがでしたか?

中曽根:開局して間もないJ-WAVEで仕事をしていたんですが、まだバブルの残り香もたくさんあったので景気のいい話ばかりで「なんでラジオディレクターがみんな外車を乗り回しているんだろう?」「選曲するだけでそんなお金もらえるの?」みたいな、逆カルチャーショックでしたね(笑)。とはいえ最初の1年ぐらいは仕事を覚えるので大変でしたけど。

──まだ景気が良かったんですね。

中曽根:当時のシャ・ラ・ラは佐藤輝夫氏の下に20人ぐらい社員がいて、自分はその一番下に入ったわけですが、放送局も今と違って景気がよかったので、夢を持って仕事をしている人たちが多かったんですよね。佐藤輝夫氏の仕事ぶりも企画、構成、選曲、プレゼン、全てにおいて圧倒的で、業界全体もピカピカと輝いていました。

僕はアシスタント業務をこなしながら、空いた時間でライブラリーの音源を聴きあさったり、無人のスタジオに入り架空の番組をつくってみたり、先輩ディレクターから仕事の極意を聞き出したりと、毎日忙しかったです。そして「ディレクターになるのはどんな感じなのかな?」と自分なりに1年ぐらいかけてイメージをつくり、結果として「自分もフリーのディレクターとしてやれるんじゃないか?」と思い込んでしまい、2年ぐらいで早々にシャ・ラ・ラを辞めちゃったんです(笑)。

 

松尾潔氏からの誘いと、やまだひさし『ラジアンリミテッド』の成功

──シャ・ラ・ラを1回辞められているんですね(笑)。

中曽根:辞めて1回フリーになってみたんです。とりあえずバイトのときに見たフリーのディレクターたちを思い描きながら、彼らのようにすぐに高級外車には乗らなくてもいいけど、自分がやりたい企画ができないかなと色々な企画書を作りました。それで、自分はJ-WAVEのことしか知らなかったんですが、人伝えでFM東京やbayfmを紹介してもらい企画書をたくさん持っていったんです。そのときは「どうにかなるかな」と思っていたら、そう簡単にはならなくて(笑)。

──甘くはなかったと。

中曽根:ほとんど相手にしてもらえませんでした。J-WAVEに関しては、周りのスタッフの方々に送別会もしてもらった手前もあったので、当然行けず・・・(笑)。結局2年近く仕事探しをしていたのかな?

──よく心が折れませんでしたね。

中曽根:あきらめて他の仕事に行くのは簡単なんですが、単にきっかけがないだけで、仕事自体は自分でもできるはずだと思っていたんですよね。そんなときに助けてくれたのが、後に音楽プロデューサーとして有名になる松尾潔氏で、彼とはプライベートでもすごく仲がよくて、お互いにブラックミュージックのレコードの裏面を見つつ「このプロデューサーはこうで」みたいな会話ができる唯一の相手だったんです。それで当時の彼はbayfmで番組をやっていたんですが、その番組のディレクターが変わることになり「中曽根くん、やらない?」と誘ってくれて、番組を手伝うことになったんです。

──松尾潔さんが仕事のきっかけをくれたんですね。

中曽根:そうなんです。今でも本当に感謝してます。それをきっかけとして、他の局の仕事も少しずつ始まり、いい感じになってきたタイミングで、アライブという会社を立ち上げました。それで会社を立ち上げる少し前にたまたま知り合ったのが、後に『ラジアンリミテッド』という番組のメインパーソナリティーになる“やまだひさし”で、彼とはフリーのときから仲が良くて、あまりに仲良すぎて、同じマンションの別部屋に住んでいたときもあったんですけど(笑)。

──(笑)。

中曽根:僕が会社を立ち上げようと思ったときに、彼はインターネットに滅茶苦茶詳しかったので、会社のパソコンの配線とか全部やってくれたんです。それでお互い「なんか面白い仕事ないかね?」なんて言い合いながら新聞を広げてする彼の話がすごく面白かったので「ちょっと番組の企画書を作ってみるよ」と言って、それが当時大人気だった『赤坂泰彦のミリオンナイツ』の後継番組として1999年から始まる『ラジアンリミテッド』になるんです。もう最初はダメ元というか騙しというか(笑)、そもそも“やまだひさし”なんて誰かわからないやつが全国ネットで通るわけないだろう、みたいなところから企画をスタートさせたんですが、本当にいろいろな要素が重なった結果、番組が始まっちゃうんです。

──まさに大抜擢だったわけですね。

中曽根:全く無名の新人がいきなり『JET STREAM』前の全国ネットの枠をやるという。結局、この番組が自分の会社の一番真ん中にくる仕事となりました。会社を立ち上げた頃のフェーズでは、本当にいろいろな人との出会いが突然やってきて、その出会いから物事が自然な形でコロコロと転がって番組になるみたいなケースが多かったんです。『ラジアンリミテッド』は今もやっていますが、番組を通じて“やまだひさし”は大ブレイクし全国区になりました。

また同時期にインターFMにも縁ができて、そこで出会ったのがジョージ・ウィリアムズです。ジョージと「どういう番組を作るか」という話の中で、僕が『ラジアンリミテッド』をやっていたからというのもあるんですけど、あの番組のように振り切った、刺激的な番組をしたいということで作ったのが朝のワイド番組『サムライモーニング』です。夜やっていた『ラジアンリミテッド』を朝でやってみたら、みたいな感じですよね。

──順調に仕事が広がっていったんですね。

中曽根:あと、社内のメンバーに“やまだひさし”がいたということもあるんですが、今でいうIT系に長けている人間がたくさん集まってきたんです。当時はラジオのインターネットバブルの時期、つまり番組があって、その番組のウェブサイトがあると、クライアントもつきやすいということでウェブサイト制作の需要も高かったので、番組制作とウェブサイト制作のニコイチでセールスをしていったら、どんどん仕事が増えていきました。

──つまりIT系に詳しい人間が集まっていたから、他の制作会社より早くそういった仕事ができた?

中曽根:全然早かったと思います。そもそも放送局にも、まだそういうデジタル部署がほとんどなかったですから。

──ちなみに中曽根さんはIT系ってお好きだったんですか?

中曽根:全然です(笑)。興味なくはないんですけど、自分的にはパソコンの中で会話をするよりは、外に出たほうが好きなタイプだったので。

──集まってきた仲間に詳しい人がたくさんいたと。

中曽根:そうそう。だから僕は詳しくなくていいやと(笑)。

──(笑)。

中曽根:1999年に始めた『ラジアンリミテッド』では本当に色々なことをやったんですが、2003年にバスで北海道から沖縄まで全国行脚して、日本各地から放送するみたいなこともやりまして、自分の中でも達成感というか「やれることは全部やっちゃったな」と思ったんですよね。ここで自分の良くない癖が出たといいますか、仕事って本当はもっと奥深いはずなのに、自分的にはひとまわりしちゃった感がして(笑)、その結果、せっかく作った会社を解散させちゃうんです。

──それは何歳のときですか?

中曽根:たしか33歳でしたね。

──普通みんなが会社を作る年齢で解散ですか・・・もったいないですね。

中曽根:自分の勝手な判断でしたから、メンバーたちが引き続き同じ仕事を続けられるように各所をお願いして回りました。ただ今となっては、そのときにいたメンバーは本当にたくましくフリーランスでやっていたり、自分で会社をやっていたりするので、悪くない判断だったのかもと思いますし、今年になって元のメンバーと一緒に仕事をしたり関係は良好です。

 

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第198回 株式会社シャ・ラ・ラ・カンパニー 代表取締役会長 中曽根勇一郎氏インタビュー【後半】

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