第115回 吉田 真佐男 氏 (株)テレビ朝日ミュージック 代表取締役社長

インタビュー リレーインタビュー

吉田 真佐男 氏
吉田 真佐男 氏

(株)テレビ朝日ミュージック 代表取締役社長

今回の「Musicman’s RELAY」は、音楽プロデューサー / (株)エスエム・エンタテインメント・ジャパン CBO土屋 望さんからのご紹介で、(株)テレビ朝日ミュージック 代表取締役社長 吉田真佐男さんのご登場です。プロ野球選手を目指す高校球児時代からあらゆる遊びに興じた大学生活、猛烈な勢いでタイアップ楽曲を送り出していった90年代、そして、エンターテインメント全般にまでフィールドを求める現在まで、リニューアル直後のテレビ朝日ミュージック新社屋でお話を伺いました。

[2013年9月5日 / 港区六本木 (株)テレビ朝日ミュージックにて]

プロフィール
吉田 真佐男(よしだ・まさお)
(株)テレビ朝日ミュージック 代表取締役社長


生年月日 昭和22年11月11日
昭和45年 日本大学芸術学部卒
昭和48年4月1日 (株)テレビ朝日ミュージック 入社
昭和60年7月1日 同 制作部長
平成6年6月30日 同 役員待遇
平成7年6月30日 同 取締役
平成9年6月30日 同 常務取締役就任
平成13年6月29日 同 代表取締役社長就任

 

  1. 魚釣りが今の仕事に繋がる理由
  2. プロ野球選手の夢と挫折
  3. さまざまな遊びで得た「形にとらわれずフリーにものを考える趣向」
  4. 自分が一生懸命やらないといけないのかな?〜テレビ朝日ミュージック入社
  5. 「タイアップ」というビジネスモデルを構築
  6. クオリティ、時間、量、すべてを超越して起こったビーイング・ブーム
  7. ケツメイシを皮切りにマネージメント開始
  8. 「トータル・エンターテインメント・カンパニー」を目指して

 

1. 魚釣りが今の仕事に繋がる理由

−−前回ご出演いただいた土屋さんとはいつ頃出会われたのでしょうか?

吉田:土屋君に初めて会ったのは2000年頃、彼がメロディー・スター・レコーズの代表者として鬼束ちひろを担当していました。東芝EMI(現 ユニバーサル ミュージック EMI Records Japan)は毎年自社のカタログをコンベンション形式で業界関係者にプレゼンテーションしていて、それをたまたま観に行き、新人を中心に観ていたんですが、「あまり面白い新人がいないな」と思って、帰ろうと出口のドアのところまで来た時鬼束ちひろの曲が映像でワンコーラスだけかかって、「これはいい」と思ったんです。それで、我社の社員にEMIの誰が担当しているか調べてもらって、その次の日にやって来たのが土屋君でした。

話を聞くと、鬼束は過去に1作出していて、次の作品の発売もすでに決まり、営業所くらいまでは行っている時期だったんですが、それを一度止めてもらって、包括的な契約でうちでやらないか? という話をしたんですよ。幸い、コンベンションで「鬼束がいい」と言ったのは僕1人だったみたいで(笑)、すぐに一緒にやることが決まったんです。

−−吉田さんは鬼束ちひろさんのどこに惹かれたんですか?

吉田:その当時2000年問題の真っ只中で、ノストラダムスの大予言とか2000年にコンピューターが止まるとか、世の中は精神的パニック状態だったんですね。鬼束はそういう時代にはうってつけのアーティストだな、と思ったんです。その頃、たまたま「TRICK」というドラマの企画があって、「鬼束はこのドラマにぴったりだな」とプレゼンをして作ったのが「月光」です。結果、「月光」が売れて、それから土屋君とは深い付き合いになっていきました。

実は一時、土屋君は我社に入っていたこともありました。また、2001年頃に我社がアーティストのマネージメントを始めるんですが、その直後に世田谷の代田にスタジオを作ったんですね。そこでスタッフが必要だということになって、土屋君に頼んだら、スタッフを全員用意してくれたんですよ。この人たちが非常に優秀な人たちで、代田のスタジオは5〜6年使ったんですが、やはり会社に近くないと不便なので、のちに六本木に新たにスタジオを作って、そこにスタッフ全員移動してきて現在も頑張ってくれています。

−−六本木のスタジオをウェブサイトで拝見したのですが、立派なスタジオですね。

http://www.noe.co.jp/technology/29/29news1.html

吉田:地中海のリゾート地でバカンスを楽しんでいるようなイメージにしました。

−−吉田さんがデザインされたんですか?

吉田:そうです。8月に社屋をリニューアルしたんですが、これも自分で基本コンセプトテーマとデザインを考えて4社のデザイン会社に発注して、一番イメージに近いものをピックアップして、それを具体的に形にしていきました。スタジオも同じですね。

−−建築やデザインがお好きなんですか?

吉田:ものを創ることが好きなんですよね。夢があるじゃないですか? 子供が泥遊びをするみたいなもので(笑)。社員にはデザインを一切見せなかったので、リニューアル後出社してきてみんなビックリしていましたね。社員にNG出されるケースもあるので、リスクはありますけど(笑)。

−−ここからは吉田さんご自身のことをお伺いしたいのですが、お生まれはどちらですか?

吉田:埼玉県の飯能市で、正丸峠に向かう途中にある北川という山の中です。鳥の鳴き声と川の音を聴きながら目を覚ますみたいな所ですよ(笑)。

−−ご両親は何をされていたんですか?

吉田:林業ですね。山を持っていたので36万坪くらい土地があるんですけど、僕は林業経営には全く興味がなくて、早く家を出たかったですね(笑)。

−−それは先祖代々その土地でやられてきたんですか?

吉田:今、後を継いでいる兄で6代目、江戸時代の末期頃からです。

−−ちなみに、ご家庭では今のお仕事に繋がるようなことは何かあったんでしょうか?

吉田:子供時代って魚を獲ったり、鳥を獲ったり、そんなことばかりしていたんです。そういった遊びと今やっていることは殆ど変わらないなとすごく思いますけどね。

−−それはどういったところがですか?

吉田:魚って、その習性を知っていれば、苦労せずに簡単に獲れるんです。一年間の生態系を把握してしまえば。その経験はこの仕事をしていて、すごく役に立ちましたね。市場調査ということが一つと、魚をユーザーやアーティスト、アーティストの予備軍なんかに例えてね。

1996年に「Break Out」という番組を作ったんですが、「Break Out」では全国のライブハウスにカメラ2台とパソコンを置き、毎晩映像と情報を送ってもらって、いいバンドをピックアップするシステムを作ったんです。自分がライブハウスに行って、いいバンドを探すよりも、ライブハウスの担当者が情報を送ってくれるので、会社にいながらにして、どんなバンドで何人客が入って男女比はいくつで年齢はこれくらいかとか、全部分かるんですね。そこでこれはいいとなれば観に行って会う。元を正せばデータを取っていただけだったんです。これが一番大事なんです。

−−まずはアーティストや観客の習性を知ると。

吉田:そうです。自分の主観も大事ですが、客観的なデータが現実にはもっと大事です。一緒に組んでいたライブハウスさんは、ものすごく景気がよくなったみたいです。バンドの子たちは、そのライブハウスに行けば東京のテレビに撮ってもらえるということで、みんな出ようとする。僕の方でもライブハウスの店長さんにテレビに出てもらって喋ってもらいアーティストを育てる地元のヒーローにする。そうするとアーティストがそのライブハウスと店長を頼ってくるんです。「Break Out」からSHAZNA、PIERROT・・・など多くのインディーズアーティストが世に出て行きました。そして一年半後に「FUTURE TRACKS」という番組を作ったんですね。そこではクラブに焦点を当てました。この番組から一番最初に有名になったのがm-floです。

−−m-floを世に出したのは「FUTURE TRACKS」なんですか?

吉田:そうです。僕はインディーズもクラブも詳しくないので、クラブ系に強かったアーティマージュの浅川真次君、ニューワールドプロダクションズの後藤貴之君、エレメンツの野村昌史君たちに、番組を作るときに、スタッフというよりブレーンとして彼らに参加してもらいました。ただ、「Break Out」も「FUTURE TRACKS」も当時テレビ朝日の編成に理解してもらえず放送枠を空けてもらえないので、2番組とも枠をスポンサーとして我社で提供しちゃったんです。そうしたら自分たちのビジネスを考えた企画に作れちゃうということもありますしね。初期はローカル局に放送交渉していき、1局ずつ増やしていって、今はテレビ朝日で2番組とも全国24局で放送しています。

 

2. プロ野球選手の夢と挫折

(株)テレビ朝日ミュージック 代表取締役社長 吉田真佐男さん

−−ご実家にはいつまでいらっしゃったんですか?

吉田:高校までいたんですが、野球をずっとやっていましたから、練習が終わるのが夜遅かったりしたので、帰るのが面倒臭くなって人の家に泊まっちゃったり(笑)。野球はものすごく真剣にやっていて、プロ野球の選手になろうと思っていました。

−−本気でやっていらしたんですね。

吉田:ええ。飯能高校に通っていたんですが、当時プロ野球界に松原誠さんという選手がいて、彼は大洋ホエールズ(現 横浜DeNAベイスターズ)やのちに巨人で4番を打っていたんです。その松原さんが僕らの大先輩だったんですね。

−−では、高校3年間は野球漬けですか。

吉田:実は高校1年の終わりくらいから膝がダメになりました。今だったら問題になっちゃうんでしょうけど、中学校3年のとき高校の野球部の合宿に参加したりして、それでちょっと膝を酷使し過ぎたのです。

−−ちなみにポジションはどこだったんですか?

吉田:サードをやっていました。肩を壊して、その後はファーストをやったりしていました。1年のときに甲子園予選の決勝で上尾高校に負けているんですね。その上尾高校には山崎裕之という東京オリオンズ(現 千葉ロッテマリーンズ)に入った素晴らしい選手がいました。

−−先輩の松原さんといい山崎さんといい、プロ野球の世界を割と身近に感じていたと。

吉田:そうですね。絶対プロになろうと思っていましたからね。だから高校のときに膝を壊してからは、高田馬場の巨人軍のトレーナーをやっている小森さんの所へ通っていたんですよ。でも、治療しながら「君はもう野球辞めた方がいい」と言われましたのでこれはもうしょうがないなと思って辞めました。

−−それは大きな挫折だったんじゃないですか?

吉田:かなりの挫折ですね(笑)。人生が変わるくらいの挫折です。

−−野球生活が終わって、残りの高校生活はどのように過ごしたんですか?

吉田:高校のときに車とか、当時は珍しかったと思うんですが、トライアンフというイギリスのオートバイを買って乗り回していました。あとカメラですね。兄と二人で家に現像所を作って、ワイドレンズから魚眼超望遠レンズまで全部持っていて、風景からモデル撮影会に参加したりとか相当入れ込んでいましたね。

−−なるほど、それが日大芸術学部への入学に繋がっていくわけですか?

吉田:そうですね。芸術学部では映画学科でした。写真って限界があるというか、一枚で象徴的ないいシーンを撮るってなかなか難しいんです。映画は、画や音の要素があるので多彩な表現が可能です。僕は映画学科の演出コースでシナリオや演出をやっていたので、映画製作の実習として40分くらいの映画と短編を2本作りました。皆で遊んでいただけです(笑)。

−−40分はれっきとした映画監督と言える長さですよね。

吉田:自分でシナリオを書いて、それから映画のクルーは撮影、照明とか、同級生をピックアップして、ロケへ行ったり、スタジオで撮ったりと。小振りながら映画会社の真似事みたいなものでもあります。

−−映画を作るお金は学校が出してくれるんですか?

吉田:いやいや、父親にもらって(笑)。

−−大学時代は映画監督を目指していたんですか?

吉田:将来これを職業にするのはどうかなって思っていました。ですから、僕にとって映画はあくまでその時「好きなもの」でした。映画で一番勉強になったのは、構成や演出、シナリオを書く技術。あと、表現力でした。

 

3. さまざまな遊びで得た「形にとらわれずフリーにものを考える趣向」

−−大学卒業後のことは当時どのように考えていたんですか?

吉田:2年の初めに学生運動がすごくて学校封鎖になっちゃったんですよ。みんな「学校が封鎖されると大変だ」なんて言っていましたけど、僕は「よし、これで学校行かなくていいぞ!!」って思いましたね(笑)。それからずっと遊び呆けていました。オートバイ、車、カメラ、釣り、ヨットと・・・。ちなみに7、8月は鎌倉でずっと過ごしていました。友人4,5人で海辺の家を借りて、ずっとそこに行っていました。

−−鎌倉に一軒家を借りていたんですか?

吉田:そう。友人の中にいろいろなルートを持っているやつがいて、当時20万くらいで一軒家を貸してくれたんです。皆で友人・知人を40人集めて一人5千円のチケットを発行すると20万になるんですね。ガリ版でチケットを刷って、それ持っているやつは泊まりに来ていいよって(笑)。それで来た人には確か一泊400円ずつもらったりとかして向こうでの我々の小遣いにしていました。そんな感じで大学4年間、夏はほとんど鎌倉にいました。

−−鎌倉では何をなさっていたんですか?

吉田:海にまつわる遊び以外は何もしてないですね(笑)。後半になると、夜は赤坂のビブロスへ遊びに行って、朝の6時頃帰って時には早朝ボウリング。とにかくよく遊んで自由に過ごしていました。恥ずかしい話、なぜ大学卒業が遅れたかというと、学校が再開したことを知らなかったんですよ(笑)。ある日友達から「お前何やってるんだよ。もう学校始まっているぞ」と電話があって、、、それで学校へ行ったんですけど、勉強が全然追いつかないんですよ。当然卒業できず、就職もせず…まあ卒業はしましたよ。ただ、学生課に電話して卒業証書郵送してほしいと連絡して。

−−(笑)。

吉田:結局、僕は学生時代はほとんど遊び?趣味?のみで過ごしていたかな。そのことに関してはものすごく親に感謝しています。なんて言うんでしょうか…何か物事やるときに“境がなくなる“というのは、すごくいいと思うのです。

−−境、ですか?

吉田:枠にとらわれず、フリーにものを考える趣向ができたというか。当時は、色んな遊びをすること自体できない時代だったと思うんです。普通はお家の仕事を手伝わなくちゃいけないとか、アルバイトをしなくちゃいけないとかあると思うんですけど、そういったこともなかったですし、外国製のオートバイに乗ったり、色々な遊びや趣味で考え方が自由になったと思います。

−−生きるためのバイトはしたこともない?

吉田:全くないですね。もうお金は親からもらって遊んだ方がいいっていう発想でしたから。

−−そういう状況にいると聞いているだけで、めちゃくちゃモテそうだなと思ったりするんですけど…(笑)。

吉田:いや、モテる、モテないは関係ないですから(笑)。

−−でも、女の子も交えた遊びだったんじゃないんですか?

吉田:正直に言いますと、実家はオープンな家庭でした。高校時代、学期の終わりとかはクラスメイト10人以上はウチに泊まりに来たりして次の日の朝、ウチのおふくろが靴の数を数えて食事を作っていたり(笑)。

−−まるで合宿所ですね(笑)。

吉田:本当に色々なやつが出入りしていて、田舎だから家が広いんです。物置を改造した別棟があって、僕はそこで寝ていたんですが、その別棟にも3部屋くらいあるんですよ。だから10人くらい平気で寝られるような状況だったんです。

−−ご両親はそういうことにゴチャゴチャ文句を言うような人たちではなかった?

吉田:逆にものすごく喜んでいましたね。母親が食事を作っていると遊びに来ている女子たちが手伝ってくれたり、そういうことが楽しかったんでしょうね。

 

4. 自分が一生懸命やらないといけないのかな?〜テレビ朝日ミュージック入社

(株)テレビ朝日ミュージック 代表取締役社長 吉田真佐男さん

−−どのような経緯で、テレビ朝日で働くことになったんですか?

吉田:たまたま僕の友達が大学時代からずっとNETテレビ(現 テレビ朝日)でアルバイトしていたんですね。今でいう「ミュージックステーション」ですよ。ゴールデンの歌番組で働いていて、たまたま一人欠員が出たので、「ブラブラしているんだったら履歴書持ってこい」と連絡が入りました。

それで制作部の演出部長に履歴書を持って行ったら「お前いい体しているね、なにしてたの?」って聞かれたので、「野球です」と答えたら、「明日神宮絵画館前のグランドに来い」と。それで指定の時間に神宮へ行ったら草野球の試合なんですよね(笑)。「9番でライトを守っていろ」と言われて守っていたんですが、相手ピッチャーの投げるボールが、蠅が止まるようなスピードだったので、打ち放題だったんですよ。

−−吉田さんはもともとプロを目指していたくらいですからね。

吉田:そうしたら次の試合が5番でファースト、4試合目には4番になっていました(笑)。漫画みたいな話ですけどね。

−−それは演出部長が作っていた野球チームだったんですか?

吉田:そうです。当時はNHKとかNTVとかそれぞれのテレビ局にチームがあって対抗戦をしていて、試合が頻繁にあり駆り出されました。3週間くらい経った頃にやっと総務部で面接ですよ(笑)。そのときに言われた言葉が最高で、「みんなこの業界の仕事が楽しくて長居しちゃうんだけど、あんまり長居しないでちゃんとどこかへ就職しなさい」って(笑)。

−−すごいアドバイスですね(笑)。

吉田:不思議な会社だなって思いましたね。

−−NETテレビ(現 テレビ朝日)では最初どんな仕事をされていたんですか?

吉田:ADをやっていました。スタジオを駆けずり回って「本番です、よろしくお願いします」と楽屋に呼びに行ったり、演出助手として「ここで歌って下さい」とか指示を出していたんですね。でも、他局はどんなだろうと思うようになり、次はTBS、その次はNTVと、1、2年くらいで色々回ってみようと思っていたんです。でも、いきなり辞めるのは失礼だから「何月には辞めます」と申し出たら、「ちょっと待て」と。当時、ありがたいことに就職を探してくれる部長や局長がいて、そのときに「ここに入ってくれ」と言われたのがNET音楽出版(現 テレビ朝日ミュージック)だったんです。この会社に全く興味がなかったので、会社には全然出社しなかったです。ADのアルバイトの方がまだ面白かったので、この会社には多分2年間くらいほとんど出社しなかったですね。

−−出社しなくて大丈夫だったんですか?

吉田:著作権や印税を取得すればいい会社でしたし、ADしながら現場の最前線で商談もできちゃうので、会社に来る必要がなかったんですよ。会社にいることが一番無駄ってこともあるじゃないですか?

−−確かにそうですが・・・。

吉田:この会社自体、創立期当時は年商350万くらいですからね。僕が入ったときに年上の男性が一人、総務・経理の女性と3人で、あとは本社の人が社長や常務をやっていただけですから、本気になって何かやろうとは思えなかったんです。でも、「ちょっと仕事しようかな」と思った瞬間があって、それからこの会社で一生懸命やり始めたんですよね。

−−何がきっかけでやる気になったんですか?

吉田:分かりやすく言うと、もしかしてこの会社は自分が一生懸命やらないとダメな会社だと思ったんですね。この会社は、保証はないけど自分で自由にやれる、自分の成果がそのまま会社の結果になる、逆に担保されてあれやれ、これやれと言われる会社、そのどちらがいいのかと考えたら、命令されるのは大嫌いなので、この会社の方がいいかなと思って始めただけですね

−−当時を知る方々に聞くと、吉田さんは何十億もあった会社の負債をすべて返済したとか・・・

吉田:社長就任時に、長短期を含めると相当な借入金がありましたが、金利を払うだけでも無駄なので、確か数年で処理して、いわゆる無借金経営にしました。健全な経営をするための体質を築きたかったのです。音楽出版社としては莫大な投資をするような案件はありませんしね。

 

5. 「タイアップ」というビジネスモデルを構築

(株)テレビ朝日ミュージック 代表取締役社長 吉田真佐男さん

−−吉田さんはテレビ朝日ミュージックでどのようなことに取り組んでこられたんでしょうか?

吉田:音楽業界的にみなさんが分かる範囲で言うと、80年代の終わりから90年代の初めまで2年半くらいかけて、テレビ朝日の各番組終わりに枠を作って、それを3ヶ月ごとに変えていくという、いわゆるタイアップ枠を作っていったんです。このビジネスモデルは今ではスタンダードモデルとなっていますね。

−−タイアップの仕組みは吉田さんが作ったモデルなんですか?

吉田:そうです。

−−それまではそういうものはなかったんですか?

吉田:TBSのドラマのプロデューサーの方が素晴らしく、時々音楽を入れて主題歌・挿入歌を大ヒットさせたりとかありましたが、それは単発で終わっていました。この業界のアーティスト発売ローテーションは3ヶ月、テレビ番組も3ヶ月が区切りで1クールと表現します。ちょうどサイクルが一緒なのです。だからそこをリンクさせただけなんです。それから、レコード会社・プロダクションの方々が、放送局系音楽出版社に求めるのは究極テレビ出演です。ですが、アーティストが出演できる番組枠は限られた本数しかないのです。それであれば、出演はしないながらも音楽が流れる枠を増やしてみようと。そのためには番組に演出上あまり負担のないエンディングのクレジット枠とオープニングかなと思い・・・1番組ずつ交渉していったのです。2年半くらいでほぼ全番組と交渉を終えました。それで、タイアップ枠として成立した番組とそうでない番組の仕分けのため、番組のエンディングロールに「音楽協力:テレビ朝日ミュージック」とクレジットを入れてもらったのです。2、3年後には各局で同じことをし始めていましたね。

−−その当時苦労されたことは何ですか?

吉田:やはり一番苦労したのはアニメですね。当時アニメの音楽は、日本コロムビアさんの独占状態で学芸部がほとんど作っていたんですが、ある時期から我社のアニメの売上がどんどん下がってしまって、「これはまずい」と。そこでアニメの音楽に日本コロムビアさん以外のDNAを入れようと思って調べてみたら、どこのレコード会社もことごとく失敗して、誰も手をつけられない状態だったんです。でも、ここを切り崩さないことにはどうにもならないなと思って、「ヒットアーティストの楽曲をアニメの枠に入れよう」と考えました。

まず一番最初に手をつけたアニメが「おぼっちゃまくん」です。当時、アメリカでMCハマーが大当たりしていたので、東芝EMIの洋楽部長だった斉藤さん(斉藤正明氏:ビクターエンタテインメント 代表取締役社長)に、MCハマーの曲を「おぼっちゃまくん」のエンディングに付けたいとお願いしたら、斉藤さんは本国まで行って交渉してくれて、「Count It Off」という曲を使えるようになったんです。そこでタイトルも「GO! GO! ハマちゃま」に変えて、更にエンディング・映像にもMCハマーの映像をのせたいと言ったら、さすがにそれはダメで、代わりにMCハマーのアーティスト写真ならということになり、写真を借りてアニメにちりばめて流したら、結構話題になったんです。その後MCハマーが来日したときに、「ミュージックステーション」に出演させて歌わせようと思ったら、ライブで来ているので、ライブ以外では歌っちゃいけないというプロモーターとの契約になっていたんです。

−−なるほど。

吉田:それで斉藤さんに「”おぼっちゃまくん”のエンディングテーマと日本公演のPR」ということでテレビ出演だけしてくれとお願いして、MCハマーに出てもらったんですが、そのときMCハマー本人に「アカペラで勝手に歌っちゃって」とこっそり頼んだら、バッチリ歌い出しちゃったんですよね(笑)。そもそもラップですから、喋ったって歌ったって大して変わんないですけどね(笑)。本人がノリノリで歌って踊りだしたので大問題になっていたんでしょうけど、生本番なので後の祭りです(笑)。

−−斉藤さんがかわいそう・・・(笑)。

吉田:もう時効だから言いますが、斉藤さんに相談して歌ってもらったのです!!(笑)そうしたら次の日の新聞にやたら大きく掲載されちゃってね(笑)。これがまずアニメ主題歌改革第一号で、そこから筋肉少女帯やリンドバーグ、BAAD、大黒摩季、WANDS、ZARDと、ヒットアーティストをどんどんアニメに送り込んでいきました。今では普通になっていますが、最初は本当に苦労しました。

−−コロンブスの卵みたいな話ですね。

吉田:そうですね。タイアップは一番組だけでもオープニング、エンディングで2曲、それが年間4クールありますから2×4=8曲というのが最大値なんですが、半年に一回オープニングを、3ヶ月に一回エンディングを変えるとしても6曲は必要になるわけで、それが仮に100番組あったら年間600曲という莫大な楽曲数になるので、楽曲がいくらあっても全然足りないんですね。そうなってくると良質な音楽を作るレコード会社や制作会社、それから多くのアーティストを手掛けているプロデューサーを探すんですが、そんな中で出会ったのがビーイングであり、長戸大幸さんだったんですよ。

 

6. クオリティ、時間、量、すべてを超越して起こったビーイング・ブーム

−−ビーイングの存在を知るきっかけは何だったんですか?

吉田:たまたまある日、会社に戻ってきたら僕の机の上にシングルCDが置いてあったんです。宣伝マンの方が置いていったのでしょう?それがB’zだったのです。まだ売れていなかったB’z のCDを聴いて、衝撃を受けたんですよ。日本にもこんなアーティストがいるんだ、こんなにクオリティの高い音楽を作る会社があるんだとビックリしました。それでCDにBMGビクターと書いてあったので、すぐに松井制作部長に電話したら、「これはビーイングって会社が制作している」と教えてくれて、すぐに連絡しました。数日後、近くの喫茶店で長戸さんと会いました。僕はゴールデンで始まる新しい番組のオープニング、エンディングをやってくれと話を持っていったんですが、テレビというメディアと組んで仕事をすることに抵抗があるらしく最初は断られて、それでも説得してね。結局、引き受けてくれることになって、4,5曲くらい候補曲デモを持ってこられ選んだのが「BE THERE」でした。

−−B’zのブレイクのきっかけはタイアップだったんですか?

吉田:現在のB’zの活躍を考えると、たまたまその時僕が関わったということかもしれませんが・・・。僕の記憶では「BE THERE」がオリコン初登場7位、その次の「太陽のKomachi Angel」こちらは我社は関係なくカメリアダイヤモンドのCMソングだったのですが、この曲からオリコン初登場1位となりましたね。僕はビーイング以外で、音楽制作会社3社くらいに制作依頼して、どんどん曲を集めていましたが、圧倒的にクオリティが高いのはビーイングだったんです。ダントツに良い曲を作っていて、それがのちのビーイング・ブームになっていくんです。

−−90年代ですよね?

吉田:そうです。普通のレコード会社のプロデューサー・ディレクターの制作工程は、詞や曲の打ち合わせ、アレンジをして、オケを作って、歌入れして、約一ヶ月工程でやっていたんですね。まあ一ヶ月かからなくても最低3週間のところ、ビーイングは完パケまで一週間で仕上げていましたからね。早いものは更に短時間で・・・。やっぱり不可能を可能にするとか、時間を超越するとか、そういうことをしないと勝てないんですね。それが互いに仕事をしていくうちに意識としては普通になってしまう。クオリティ、時間、量、すべてを超越していく中でビーイングブームは必然的に起こったんです。

−−その毎日大量に作られる音楽を吉田さんは全て聴かれていたんですか?

吉田:我社が関連しているものは全部聴いていました。徹夜も平気でしたしね。ゴルフも良く行きました。午後3時か4時頃に会社へ帰ってきて、それから夜中2時とか3時頃までずーっと仕事して(笑)。

−−それはすごい体力ですね。

吉田:野球で培ってきたので体力だけはあった。ブームを作っていったというか、結果そうなったというか?長戸さんだって、多分小室哲哉さんもきっと人の寝ている時間も働いているから人より上に行けたわけで、それはみんな同じだと思いますよ。人と同じ生活をして、人と同じことをしていたら、人と同じになるだけの話。昔は「人より良い生活をしたかったら、人の倍働け」って単純な理屈だなと思っていましたけど、そのとき「なるほど、こういうことか」とつくづく思いましたね。

あと、ビーイング・ブームのときに、長戸さんが本当に良いものを作って、僕はフレーム、インフラを持っているだけなので、宣伝屋みたいなものだったんですが、一生懸命仕事をして、でも、一番儲けられたのは第一興商さんですよ、きっと(笑)。結局、カラオケブームになって「歌って楽しむ文化」というのが世の中にでき上がっちゃったんです。そこで、ソフトを創り提供している側とそれを聴いている受け手側は全く違うことを考えているんだとつくづく思いました。

−−受け手側の考えていること、動向を読むことの重要性に気づかれたんですね。

吉田:そうですね。だから、それをいち早く市場としていた第一興商さんはすごいんですよ。その後、小室さんが出てきて、エイベックスさんが一生懸命売る。その結果、世の中に「踊って歌って楽しむ文化」ができ上がった。それで次に何がくるんだろうと市場の動向を考えたら、「下手でもいいから自分で作って、自分で演奏して歌って楽しむ文化」がくるだろうと。それで一生懸命探していたらインディーズがあったんですよ。これは面白いということで「Break Out」という番組を作ったら、やっぱり当たっちゃったんですよ。

「Break Out」では、インディーズなんて社会では誰も知らない、というか興味もなかった、と思いますが、ヴィジュアル系、Rockバンドの大ブームとなり「インディーズ」という言葉が初めて社会認知されましたね。僕が「Break Out」を作った1年後位から、テレビ・ラジオ局でインディーズを大々的に取り上げる番組が無数にできましたね。「Break Out」が大ムーブメントを起こしていく中、「ライブハウス」のほか「クラブ」も手掛けようと「FUTURE TRACKS」という番組を創りました。これもまた、クラブ系インディーズを取り上げて、ヒップホップ・R&B系のアーティスト達がブームになりました。両番組とも、音楽のジャンルとしてビッグビジネスに成長し、現在も生きていますね。

 

7. ケツメイシを皮切りにマネージメント開始

−−マネージメントするようになったきっかけは何だったんですか?

吉田:「Break Out」のときに全国から集めたアーティストたちがブレイクしちゃったことが一つのきっかけになっていますね。「Break Out」や「FUTURE TRACKS」をやっているときに色々なアーティストを一旦我社がハンドリングするんですが、その後はレコード会社さんや事務所さんに預けていたんですよ。つまり、我社はアーティストとレコード会社さん、事務所さんとの仲介役をしていただけなんですね。

ただ、ケツメイシだけは若干違っていて、彼らには2社くらい事務所を紹介したんですが、彼らの考え方が事務所に合わなかったんです。それで「ダメでした」とか言って帰ってきてしまって(笑)、しばらくは名前だけ「トイズファクトリー宣伝部預かり」にしていたんですが、「これはどこを紹介してもダメかな」と思って、「しょうがないからウチにいるか?」と話したら「いいですよ」って、そこからマネージメントが始まったんです。でも、ケツメイシは未だに我社の契約社員、という立場です。

−−そういういきさつだったんですか。

吉田:同時に「著作権と隣接権のビジネスはそろそろどうなんだろうな」という気分もあったんです。「これからは肖像権ビジネスに着手していかないと」と、それでアーティストマネージメントビジネスを本格的に始めたんです。音楽出版社から「トータル・ミュージック・カンパニー」への移行ですね。幸運にもケツメイシ、HY、サスケ、湘南乃風と次々に売れてしまったのです。

−−今後もアーティストを増やしていく予定なんですか?

吉田:どこまでアーティストを増やすかというのは微妙な問題で、あまり数は増やさずに効率的にヒットアーティストを創っていきたいのです。マネージメントを始めたことは今になると功を奏しています。我社はずっとアーティスト発掘のピックアップインフラを作っていたので、そういう経験値が先にあったからこそマネージメントもスムーズにいったんだろうと思いますね。

−−そして、然るべきときに然るべきアーティストと出会えたと。

吉田:そうですね。でも、常に世の中の動向がどう変わっていくのかを考え、そこに適したモノを提供することが大事で「風と会話する」「風を読む」ですね。更に大事なのは、この業界って自分が何を考えるかも重要なんですが、出会う人によりますよね。僕はたまたまいい人たちに出会えただけだと思うんですよ。この業界のビジネスのほとんどは個人と個人から始まり、それが運良く企業ベースで成り立っていくと結果大きな成果となるのですが、非常に難しい業界ですよね。

−−今、音楽業界の様々な問題点が指摘されていますが、テレビ朝日ミュージックはどこへ向かおうとしているんでしょうか?

吉田:パッケージが売れない、配信が落ちないと言っても、まずは核となるいい作品=「人に好まれる作品」がないと始まらないので、いい作品を徹底的に作らなくてはいけないというのがまず一つ。二つ目は、いい作品ができたら周辺権利をいかに最大化してビジネスにするかですね。その中でも肖像権が重要なポイントになっていると思っています。

−−「いい作品を作る」というのは皆さんおっしゃいますが、なかなか大変ですよね。

吉田:この業界って昔から「これいいんだよ!」と言って発売したら全然売れないみたいなことがすごく多くて、それって「感性ビジネス」だと思うんですよ。「これいいんだよ!」と思っているのは、あなただけでしょう? と(笑)。今はもう全てマーケティングの上に立ったモノ創り、計算の上に立った商品創りが必要です。

今、我社の社員には「他の産業界を勉強しなさい」と言っているんです。例えば、流通業で言うとAEONって業界ダントツ一位で、中身を見てみると「トップバリュー」というプライベートブランドの売上がものすごく伸びているんです。つまり、単に物を売っていた人がお客さんの意見を聞きながら、お客さんが欲している物を作ったら売れちゃった、儲かった、ですね。これはセブンイレブンの「セブンプレミアム」、ローソンの「ローソンセレクト」もそうで、勝っているところは全部プライベートブランドが要因なんです。つまりマーケティングをするということと、市場を創るということが一緒にできてしまっているんですね。

そういった流通業の徹底的にお客さんのニーズを考えて作った商品が売れている状況を見ると、僕らも徹底的にマーケティングをして商品の開発をするべきなんです。自分たちが何を作りたいかじゃなくて、お客さんは何を求めているか、何を作ってくれと言っているか、ということを徹底的に考えないとダメだと思っています。

−−先ほどの「Break Out」の話とも通じるものがありますね。

吉田:あと、コスト管理も重要になっています。例えば、自動車って約4万点の部品で構成されているので、部品一個一個のコストと製品クオリティの管理が徹底されているわけです。また、アベノミクスが顕著にPRされる前、自動車業界は車の生産拠点を北米から東南アジアに移して、そこから北米へ輸出しようとしていた、アベノミクスで景気が良くなったので、北米で作って早く提供できるようにした方がいいと方向転換したんですが、この切り替えにたった数ヶ月しかかからない。あんな巨大企業なのに。でも、僕たちの業界は何人何十人の単位でやっているのに、3ヶ月かかっても目的のモノが作れないときがある。ですから、その自動車業界のような小回りとコスト管理の徹底は見習わなくては、と思います。これが二つ目です。

三つ目はサービス業としての顧客満足度を徹底的に考えたホスピタリティは、ものすごく重要だと思っています。流通業の徹底的にマーケティングをした商品開発能力、製造業のコスト管理、そしてサービス業のホスタピリティを追求していく。これをやらない限り、この業界はもうダメだと思います。ですから、我社ではその教育をこの2年間ずっとしています。ちなみに今月はオリエンタルランドへ社員を連れて行きます。ホスピタリティ教育を受けます。オリエンタルランドは顧客満足度調査で、毎年一位です。一度だけ劇団四季に一位をとられましたが、それ以外はずっと一位。ですから「オリエンタルランドで教育してもらうことは価値がある」と。

 

8. 「トータル・エンターテインメント・カンパニー」を目指して

(株)テレビ朝日ミュージック 代表取締役社長 吉田真佐男さん

−−そこまでやっている音楽関係の会社ってあるんですか?(笑)

吉田:どうなんですかね…分かりませんが。やっぱり今の音楽業界って他産業に学ぶことが多い、そこを学んでこの業界で仕事をしていくくらいの社員意識にしていかないと勝てないと思いますね。もともとこの業界ってルーズじゃないですか? ルーズっていうのは気持ちがルーズなのか、態度がルーズなのか、仕事に臨む意識がルーズなのか、色々あると思いますが、どこを見ても他業界に学ぶべきことは多いです。

−−厳しいですね。

吉田:いや、自分のこともそう思っていますから。笑われるかもしれませんが、食事のマナー講習もやっています(笑)。ルールとマナーの違いを教えてもらいました。それから何が問題かというと、みんな「自分はできている」と思っているのです。そこで「できている」じゃなくて、自分を再教育というか、もう一度入れ替えて考えてみよう、再出発していこうということなんです。自己変革ですね。

昨年、社員に「トータル・エンターテインメント・カンパニーになるぞ」と宣言してから、まず組織改革、次に意識改革、そして最後に新社屋にして環境を変える、環境改革です。新社屋では、旧社屋で使っていた物は何一つないんですよ。机も椅子も全部捨ててしまいました。

−−本当に一新させてしまったんですね。

吉田:僕は「会社を創り変える。全て変革する」と言っています。ちなみにこの新社屋のテーマは「太陽系から銀河系へ」なんです。

−−「太陽系から銀河系へ」…ですか?

吉田:そう。太陽系は限りがあるけど、銀河系は15万光年、常人からしたら無限。その無限大を形にしたらこういうデザインの社屋になりました、ということです。音楽出版社から「トータル・ミュージック・カンパニー」としてマネージメントを始めて、そこからさらに「トータル・エンターテインメント・カンパニー」となるためには、無限のところへフィールドを求めないといけないんですよ。そういう意味も込めてですね(笑)。そうなると他業種の方々と仕事をしないといけないですから、マナーとか考え方とか、スキルのグレードも相当高めておかないと太刀打ちできないんです。

−−無限にフィールドを求めつつも、やはり軸は音楽になるわけですか?

吉田:そうですね。音楽に紐付いたものという定義を持たないと。何をやっているのか分からなくなっちゃう。ですから、音楽に紐付いていればいい。今、パッケージなどの著作権・隣接権のビジネスの売上は3,000数百億で、ピーク時の6,100億から半減しています。そして、我社が「トータル・ミュージック・カンパニー」に移行しようとしたときに、全音楽産業、音楽に紐付いたビジネスは1兆5千億円あったんですよ。そして、今は色々な意味のライブ・エンタテインメントが、年々拡大しています。とにかく市場の大きなところへ参入していかないといけないし、また、市場創造をしていかないと企業って成長できなくなっちゃうじゃないですか。別に珍しいことをしているわけではなくて、当たり前のことをしているだけなんです。

−−吉田さんご自身の今後の目標は何ですか?

吉田:「この会社をこれからどうしよう」とか、「何年後にはこれくらいに」という思いは当然あるんですが、この業界って風と会話しながら進むというところもありますよね。ヒット商品作りなので、作って売れないものをゴリ押しして売るよりも、マーケティングして欲しいものを提供した方がいい。そういう意味で社会とか市場と会話していくんです。重要なポイントは、ゴリ押しはしないんだけれど、準備はしておくことです。それは、コスト管理ができる社員、流通業のようにマーケティングの市場創造をできる考え方を持った社員、そしてホスピタリティがあり人に不快感を与えない社員を揃えておいて、何かあったらすぐに出動できることが重要かなと思います。

また、これから重要なのはコントロールの範囲内でできるものを育て管理していくことと、新しいものを育てていくということ。これをバランス良くできるところしか勝てないだろうなと思います。量さえあれば良いというものではないんです。人間一人の能力を紐解いていくと、そんなに大量なものを一緒にできないですから。あの天才プロデューサー秋元康さんだって、おニャン子をやって、かなりの年月が空いてからAKBのムーブメントを作っているんですよ。

−−確かにそうですね。

吉田:でも、この業界は個人単位でムーブメントを作り上げられる業界でもあるんですが、企業単位で継続的にできるビジネスモデルとはどういうものなのかを考える方が、どちらかというと健全かなという気がしています。

−−吉田さんの目から見て、それがすでにできている組織はありますか?

吉田:いや、今この業界ではなかなか難しいんじゃないですかね。ただ情報のコントロールとか、エイベックスさんはよくできていると思います。あと、BeeTVがものすごく業績が良くなっているのは非常にいいなと思いますね。結果ソフトを作ることもそうですが、よりインフラ事業も好業績というのは、良いことです。あと、我社でも始めているんですが、エイベックスさんはALC(エイベックス・ライヴ・クリエイティヴ)さんを通じて自社のアーティストを稼働しないで、他社のアーティストでイベントができるようになっていますよね。a-nationというプラットホームに我社のアーティストもいっぱい出してもらっていますからね(笑)。結果的にソフトも作るんだけど、インフラも作って、色んなソフトをより多く流用できるようなシステムというかプラットホームを作るというのは、今後ものすごく大切だと思っています。その両方がきっちりとできているところが、今後は企業として勝ち残っていくんじゃないでしょうか。

−−本日はお忙しい中、ありがとうございました。吉田さんのご活躍とテレビ朝日ミュージックの益々のご発展をお祈りしております。(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也)

 現在の音楽業界を冷静に見つめた上で、他業種の成功例を参照し、見習うべきところはテレビ朝日ミュージックの経営へどんどん生かしていく。そんな吉田さんのお話には、昨今、音楽業界内に漂うネガティブな空気はなく、とても解放感がありました。厳しい状況の中でいかに生き残っていくかだけではなく、いかに新しい領域へ踏み込み成長していくか…新社屋のテーマ「太陽系から銀河系へ」を体現せんとする吉田さん、そしてテレビ朝日ミュージックの今後の展開がとても楽しみです。

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