第114回 土屋 望 氏 音楽プロデューサー / (株)エスエム・エンタテインメント・ジャパンCBO

インタビュー リレーインタビュー

土屋 望 氏
土屋 望 氏

音楽プロデューサー

今回の「Musicman’s RELAY」は、Jeff Miyaharaさんからのご紹介で、音楽プロデューサー / (株)エスエム・エンタテインメント・ジャパンCBO 土屋 望さんのご登場です。少年期に習ったピアノの技術を生かし、バンド活動に熱中した学生時代を過ごされた土屋さんは、裏方を志し、東芝EMIへ入社。忌野清志郎等のADを経て、邦楽制作ディレクターとしてICEをデビューさせました。その後、東芝EMIの子会社として設立されたメロディー・スター・レコーズでは鬼束ちひろを発掘、ブレイクに導きました。現在はエスエム・エンタテインメント・ジャパンで、BoA、少女時代、SHINeeなど多くの韓流アーティストをプロデュースされている土屋さんに、その生い立ちからディレクター時代、そして、日本と韓国を橋渡しする現在のお仕事までたっぷり伺いました。

[2013年5月21日 / Fruits Mix Studioにて]

プロフィール
土屋 望(つちや・のぞむ)
音楽プロデューサー / (株)エスエム・エンタテインメント・ジャパン CBO


1964年8月30日東京都生まれ
1989年 早稲田大学社会科学部卒業、同年、東芝EMI株式会社入社、邦楽制作ディレクターとしてICE、忌野清志郎他を担当。
1998年 東芝EMIの子会社として「メロディー・スター・レコーズ株式会社」を設立、2つのレーベルの運営に携わる。
「Virgin Records TOKYO」では音楽プロデューサー、「Virgin DCT」ではDreams Come Trueの制作ディレクターを担当。
2000年 メロディー・スター・レコーズ株式会社代表取締役に就任、同年2月「Virgin Records TOKYO」から鬼束ちひろがデビュー、音楽プロデュースを担当。
2006年 株式会社247Music取締役に就任
2010年 株式会社エスエム・エンタテインメント・ジャパンと契約、BoA、少女時代、SHINee他の音楽プロデュースを担当、現在に至る。

 

  1. 厳格な父親、ハイカラな母親
  2. 隠れて弾いていたピアノがある日突然武器に
  3. 「人が喜ぶ顔を見るのが好き」〜東芝EMI入社
  4. 「連日スタジオ通いのディレクター修業時代」〜ICEデビュー
  5. 「みんなで一緒に成長できるレーベルへの憧れ」〜メロディー・スター・レコーズ設立
  6. 「勝ちにいくときは全額貯金を下ろす」〜鬼束ちひろデビュー秘話
  7. 「燃え尽きて野に下る」〜丸山茂雄氏との出会い
  8. 「言葉で口説く音楽」から「体で口説く音楽」へ〜S.Mカルチャーとの出会い
  9. 「アーティストとリスナーを結びつける透明なバイパスでありたい」

 

1. 厳格な父親、ハイカラな母親

−−ご紹介下さったJeff Miyaharaさんとはどのようなご関係なのでしょうか?

土屋:Jeff 君とは「もう10年の付き合い」という気がしますが、実は知り合ってからまだ1年ちょっとというところです。去年の春にユニバーサル ミュージック・パブリッシングのスタッフと会った際に彼が同席していたのです。僕はJeff Miyaharaという名前はともかく、顔を知らなかったもので、あの風貌で黒のスーツに黒のサングラスでしょう。出版社にこんな用心棒みたいなヤツがいるのかと(笑)。

−−その強面のJeffさんとその後たくさんお仕事をされることになるわけですね。

土屋:そうですね。常に変化していくこのビジネスに於いて、私は40歳くらいまではセンスや気が合う人達と一つのチームを組んで制作するスタイルを取っていました。しかし年齢を重ねながら、自分だけで世の中の様々な新しい情報を取りに行くのも、アイデアを考えるのも限界がある。だから最近は思い切って新しい人と付き合って、自分の仕事をフレッシュに保とうという意識がある。Jeff君の印象があまりにも強烈だったので、「一度仕事をしよう」とこちらから声をかけました。それからは呼ばなくても常にいるみたいな(笑)。

−−(笑)。

土屋:彼は顔は怖いけど態度があまりにも低姿勢なので、たまに売れっ子のプロデューサーだということを忘れそうになるときがある。私が高圧的に接しているわけじゃないですよ。念のため。

−−はい(笑)。分かっております。ここからは土屋さんご自身のことをお伺いしたいのですが、お生まれはどちらですか?

土屋:出まれは東京の虎ノ門病院で、世田谷の桜新町育ちです。

−−お父さんのご職業は?

土屋:父はラジオ局のスポーツアナウンサーだったのですが、幼少時は父が何の仕事をしているのか知りませんでした。何となく覚えているのは、毎晩母がテレビの野球中継を観るのですが、テレビは映像だけで、音はラジオから流れていたことです。恐らく父の実況を聴いていたのでしょう。

−−どんなお父さんですか?

土屋:子供の頃は父がほとんど家にいなかったのであまり印象がありません。小学校の宿題で「おとうさんの仕事は?」という、今ではちょっと考えられないようなテーマがあった時に、父に聞いてみたら、淡々と「便所掃除」と流されて(笑)まあしかし、几帳面で厳格で正義の人ですよ、人徳人望もある。時間には絶対に遅れない。私とはまるで違います。

−−お母さんはどのような方だったんですか?

土屋:母は洋楽を聴くのが好きで、エルヴィス・プレスリーやビートルズ、それからシャンソンにも影響を受けていたような人でした。趣味は英語の原書を読むことでしたね。

−−ずいぶんハイカラなお母さんですね。

土屋:当時としてはかなりモダンな感じの母親でしたね。それで彼女は私と弟に3歳からピアノを習わせていたので、物心ついたら自然に弾いていました。昔は「男の子がピアノを弾く」というのはかなり珍しくて、ピアノ教室も男の子は途中で辞めていくので、周りは女の子ばかりになってしまいます。結局中3まで続けましたが、中学に入ったらもう恥ずかしくて、友達にはピアノを習っていることは黙っていましたね。

−−学校は公立の学校に通われていたんですか?

土屋:普通の区立の中学校です。友達と野球をやりながら、こそこそピアノを習いに行くという日々でした。当時は「男の子は野球がすべて」というね。ピアノはずっと習っていた先生が私に教えることがなくなって「先生のそのまた先生」のところに通っていました。発表会やコンクールでは上品なお金持ちのお嬢さんに囲まれて、中学の友達とは泥だらけで野球をやる、という二重生活でしたね。

 

2. 隠れて弾いていたピアノがある日突然武器に

−−私立だとバイオリンをやっている人とか結構いますけどね。

土屋:そうですね。ただ、その後進学した高校(都立目黒)が大変音楽が盛んな学校でしてね。1年の時の文化祭でクラスの出し物が「ライブハウスの運営」に決まり、ビートルズのコピーバンドを作ることになったんです。それで出演者を決めるに当たり「ピアノが弾ける人」みたいな話になって。その高校がかなり自由な雰囲気で、私の気分も自然に大人びて、しかしまあ、、、遠慮がちに、、、。

−−手を挙げたんですね(笑)

土屋:ええ(笑)。でも3歳からクラシックピアノを12年間もやっていたので、ビートルズの譜面を見たらあまりの簡単さに驚きました。コードなんかは全く知りませんでしたが、初見で弾いてもまず間違わない。大袈裟に言うとこれがターニングポイントです。私は100%「高校デビュー」です。今まで隠していたモノがもしかして武器になる?みたいな感じでした。

−−突然モテたりしたわけですか?(笑)

土屋:まあ(笑)。モテたというか「男のピアノにはこんなに決定力があったのか」と(笑)。それで、まあ若さも手伝って多少自信が沸いてきた訳です。父も「おまえは高校から性格が変わった」と言ってます。たぶんそれまではどちらかというとあまり目立たないというか、活発なタイプではなかったと思います。

それで高校の話に戻りますが、「フリーコンサート」という正式行事が年1回ありまして、これは近くにある目黒公会堂を1日借り切って、そこで学内の有志がバンドや器楽隊を組んで演奏して、演奏しない生徒は観客になる、という普通の都立高校とは思えないイベントでした。それから(都立)広尾高校、(都立)青山高校、(都立)目黒高校の頭文字をとって「HAM(ハム)フェス」という巴戦の早慶戦のような、体育会系クラブはスポーツで戦い、文化系はライブ演奏や展示展覧でコンテストをやる、というイベントもありました。学内でも学外でもイベントが盛んでしたね。大学のように非常に開放的な環境でした。

−−ちなみにビートルズ以外にはどんな音楽をやっていたんですか?

土屋:その後所属したクラブの名称は「フォークソング部」でした。私の高校では当時はフォークソング部が一番華やかで、女子だらけでね(笑)。名前は「フォーク」ですが、中味は当時の洋邦のポップスのカバーをやってました。洋楽ではサイモン&ガーファンクルやイーグルス、邦楽はニューミュージック全盛の時代でユーミンや中島みゆきが多かったかな。みんなで他の高校との合同ライブを企てたり、なかなか活発でしたね。私以外はみんなフォークギターを持ってましたから、私の座はココでも安泰で(笑)。

当時は例えばロックファンの間で、ビートルズが良いか、ストーンズが良いかで議論が沸き起こったりしてね。あの頃はどんな音楽を聴いているかというのは自己紹介とイコールみたいなもので「あいつはあんなのを聴いているのか、暗いヤツだ」とか(笑)、勝手にレッテルを貼ったり貼られたりしてましたね。

−−聴いている音楽がアイデンティティだったんですね。

土屋:そう、何かすごく難しそうな音楽を聴いてるヤツがカッコ良く見えたりしてね、これは負けられないと。それでさらに難しいのを探して聴いて「うーむ」みたいな(笑)。フリージャズとかね。まあ気分だけで、中味はほとんどわからないが、そういう難解な音楽を自分は好んでいる、という、もう自己陶酔(笑)。私も含めて背伸びをする高校生がたくさんいて面白かったですね。私はもうピアノだけでは飽き足らず、ドラムを叩いたりしてました。

−−自分の音楽的才能に酔いしれて?(笑)

土屋:もう酔いしれて(笑)。自戒を込めて言いますけど、高校のときは本当に調子に乗っていた気がします。

−−その後、早稲田大学に進学されますが、大学でもバンドは続けられたんですか?

土屋:そうですね。まずプライオリティの自分のバンド、これは学外のピックアップメンバーでオリジナル楽曲をやっていました。もうひとつはやはり華の大学生活、これはもうサークル活動しかないでしょうと。緻密なマーケティングの結果、女子の部員数が男子の部員数より圧倒的に多いところに入りました(笑)。ここはもうイメージ通りで、大学生で初めてバンドを始めたような人が多かった。高校から浪人中までずっとバンドを続けている私はもう余裕の塊で。4年間は最高でした(笑)。

−−女の子に楽器を教えてあげたり?(笑)

土屋:それしかないでしょう(笑)。当時FM音源のシンセサイザーとかサンプラーとか、新しい機材が続々発売されましたが値段が高いんです。でも女子大生にはきっと我が子に甘いお父さんがいたりするので「土屋先輩、私は何を買ったらいいでしょうか?」と聞いてきた時は「君にはこれが絶対良い」とか言って、私が弾いてみたかったのを思い切り勧めましたね。で、当然自分のバンドのライブの前に「ちょっと貸して」と(笑)。

−−全てはピアノを習わせてくれたお母さんのおかげですね(笑)。

土屋:いや、もうそれに尽きますね。もしそれがなかったら私の人生は今とはすいぶん変わっていたことでしょう。

 

3. 「人が喜ぶ顔を見るのが好き」〜東芝EMI入社

(株)エスエム・エンタテインメント・ジャパン CBO 土屋 望氏

−−大学卒業後は東芝EMI(現 ユニバーサルミュージック)に就職されていますが、プロのミュージャンになるという選択肢はなかったんですか?

土屋:全く考えなかったですね。私は完全に裏方志向です。生まれつき人が喜ぶ顔を見るのが好きで、そのためにあらゆる努力、準備をするタイプです。恐らくこのスタンスは一生変わらないと思いますね。

就職活動に関しては今のように情報化社会ではなかったので、情報は大学の就職課にしかなく、当時は音楽関係=レコード会社でした。運良く東芝EMIに採用してもらえましたが、当時の東芝は大卒に関しては指定校制だったので、とんでもなく優秀な裏方のプロ集団がいて、私など全然通用しないんだろう、と思ってました。

実際に入社してみたら、最初は宣伝部に仮配属されたのですが、真っ赤な髪でフルメイクの男性や金髪で半ズボンの女性が歩いていて、この人達は有名大学卒なのかと(笑)。あまりにもいろいろなバリエーションの人達がいて、ある種の洗礼を受けました。

−−宣伝部は邦楽ですか? 洋楽ですか?

土屋:邦楽のラジオプロモーションの担当部署でした。私は制作の仕事に憧れてましたが、当時は宣伝全盛時代だったので、宣伝の方が花形で、制作は大人しい印象でした。まだAMラジオが全盛で、FMはJ-WAVEが開局したばかりでしたね。

−−当時、お父さんはまだ文化放送にいらっしゃったんですか?

土屋:いましたね。しかもどういう因果か、その当時、父は文化放送の子会社である「アポロン音楽工業」というレコード会社の経営に取り組んでいました。アポロンは文化放送の本社内にありました。

−−ラジオプロモーションということは文化放送にも行かれたんですよね?(笑)

土屋:はい、もちろん(笑)。隣のデスクの先輩が文化放送担当の人で「おまえ、今日は文化放送に連れてってやる」と。断る訳にもいかないじゃないですか(笑)。でも放送局は広いし、別会社だし、会わないだろうと。しかしそう思い通りにはいかないもので、ある日、番組のディレクターとかいろいろな人を先輩に紹介してもらって名刺交換をしている最中に、廊下の向こうから、、、

−−来ちゃったと(笑)。

土屋:それで、何となくソワソワしていたら、先輩が「おはようございます!」と父に駆け寄って挨拶をして、逆に私は後ずさりみたいな(笑)。たぶん私のような新人は多分紹介されないだろうと念じていましたが、次の瞬間、先輩が「土屋専務、大変失礼なことに専務と同じ名字なんですが、新入社員の土屋です」と。それで私は無事に父親と名刺交換をして、目も合わせずに「まあ頑張って」とか言われて(笑)。

−−おかしいですね、それ(笑)。

土屋:その頃、私はまだ実家にいたんです。だから同じ家に帰るわけじゃないですか。それで夜、自宅で会ったら「うちの局をうろちょろするな、名刺返せ」と言われました。

 

4. 「連日スタジオ通いのディレクター修業時代」〜ICEデビュー

−−その後、土屋さんは忌野清志郎さんのADとして、制作のキャリアをスタートさせますが、どのような経緯で担当されることになったんですか?

土屋:まず宣伝部の時に「TIMERS」という、清志郎さん率いる、謎の覆面バンドの宣伝のアシスタントになりました。ラジオで放送禁止曲になったことを逆恨みして、テレビの生放送で替え歌にしてそのラジオ局に逆襲したりして、最高でしたが大変なバンドでした。その後、91年に制作へ異動になり、清志郎さんのソロアルバムの制作アシスタントに付いたんです。ちょうどRCサクセションが解散した直後でした。清志郎さんはとてもシャイでほとんど喋らない、ステージとは真逆な方でした。私も初めてなので、歌録りの作業を勉強しようと思うのですが、歌が上手すぎてすぐ終わってしまうんです。3回歌って「あと選んで」と言って、そのまま自転車に乗って帰っちゃうんですよ。

−−格好いいですね。

土屋:しかも3テイクとも全く同じ歌にしか聞こえない。プロは凄いなと思いました。でもそれは、プロというより清志郎さんが突出したヴォーカリストだったということです。その後、彼が大好きなブッカー・T&ザ・MG’sのスティーヴ・クロッパーやドナルド・”ダック”・ダンが来日して一緒にセッションしたところからスタートした「Memphis」というアルバムがリリースされるのですが、これが私の名前が初めてCDにクレジットされた作品ですね。

−−それはすごいですね!

土屋:「制作協力」みたいな欄でしたが、嬉しかったですね。当時は必死過ぎてよく分からなかったですが、いま考えるととても貴重な経験でした。それからはもうスタジオ修行の日々でした。毎日昼前に制作部長から「おまえ、今日これ行って」みたいな感じですね。それぞれのアーティストには担当ディレクターはいますが、1人でたくさん担当しているから、全てのスタジオには行けませんよね。まあアシスタントには大体面倒な物件が回ってくる訳です。例えば大御所のアーティストやプロデューサーの方々は、夕食前にだけ私に話しかけてきます。「土屋君、お腹すいた」みたいな(笑)。その時は「最初に原盤費でご飯代を払ったのは誰だ」と思いましたよ。なぜ原盤制作費で食事代を支払う必要があるのか。例えば、まだ売れてないバンドの録音で、今日はギターダビングだけです、という日も食事時になるとフルメンバーがいるんですよ(笑)。

−−たかりに来るんですね(笑)。

土屋:「今日はギタリストしか来なくていい」と、どんなにマネージャーに言ってもご飯時になると全員揃っていて(笑)。仮にそれが5人組バンドだと、エンジニアやアシスタントも含めて1日8千円〜1万円くらい行きます。それに加えて間食だ夜食だと、立て替えるうちに会社の経理の人に「こんなに払えないよ」と突き返されて。あの当時のディレクターはみんな一部自腹を切っていたと思います。

−−スタジオのアシスタントも一緒にごちそうになったりしましたよね。

土屋:そうですね。原盤制作費の枠外は個人の経費として計上するしかないのですが、当時の東芝には経理上の金券制度がありました。それは1万円とか5千円と書かれたカラーの紙が毎月各人に配られて、それを領収書の金額分切り抜いて、一緒に貼り付けて経理に提出しないと処理されないというルールです。当然の話として、その金券を先輩に奪い取られるわけですよね(笑)。その上にお店では「ここ払っといて」とか言われて。でも領収書に金券が付いてない(既に強奪されている)から、経理からまた突き返される(笑)。このまま出前の人として自腹を切り続けていくのを防ぐために、私はどうしても自ら新人をデビューさせなくてはいけないと思いました。それで才気があるとは知りつつ、実際はもう少し時間をかけたかったアーティストをやや促成栽培気味に会社にオリエンテーションしました。それがICEです。

−−ICEはいいアーティストでしたよね。

土屋:ありがとうございます。しかし非常に残念ながら、リーダーの宮内和之は2007年末に病気で亡くなってしまいました。

−−早かったですよね…訃報を聞いたときにはびっくりしました。

土屋:宮内は同学年で学生時代からの友人でした。抜群の才気の持ち主ですが、とにかく目立ちたがりで。一方ヴォーカルの国岡真由美は地方からバックコーラス志望で東京に出てきた控え目な子でした。当初のICEは宮内が作詞、作曲、ヴォーカルで、彼が「エースで4番」のグループでしたが、オリエン前に「美女と野獣」じゃないですが、2人のポジションを入れ替えたら面白いバランスになるなと思って「この方が絶対売れる」と思いました。

−−デビューの経緯は?

土屋:その後試行錯誤を繰り返してdemoを作り続ける中で、宮内が「Kiss Your Lips」という素晴らしい曲を書いて、これでオリエンだと確信しました。実際社内の評判も良く、当時の東芝の邦楽の最高責任者の石坂敬一さんがOKなら契約、というところまで登り詰めました。石坂さんは非常に強いオーラを持っている方で、近寄るだけで緊張感が溢れます。オリエン当日、当時の東芝の3階にある試聴室という防音の部屋で2人きり、もう口から心臓が飛び出るほどの緊張の中「Kiss Your Lips」を流しました。石坂さんはずっと目を閉じて聴いていました。そして曲がfade outして終わって、シーンと無音状態になっても、ずっと目を閉じたまま動かない「あれ?寝ちゃったのかな」と(笑)。するとパッと目を開いてこちらを見て、ゆっくりと一言「うん、すごくいいな」。ICEの東芝EMIデビューが決まった瞬間です。

−−ICEって音楽の質感とかが普通と違っていましたよね。洋楽っぽいと言いますか、新鮮でした。

土屋:リズム系、或いはスウィート系のソウル・ミュージック、そこに宮内のワイルドで繊細なロックギターと国岡の瑞々しい透明感のあるヴォーカルが乗るのがベースです。日本には全くなかったスタイルでした。その後の男女ユニットブームの走りですね。途中からはいわゆる「渋谷系」のムーブメントと一緒にされちゃいましたけど、非常に高い音楽性と知性を持っていましたね。

 

5. 「みんなで一緒に成長できるレーベルへの憧れ」〜メロディー・スター・レコーズ設立

−−その後98年に「メロディー・スター・レコーズ」を設立されますが、どのような経緯だったんですか?

土屋:ICEをやりながら、必要に応じて洋楽の研究をしていくと、いろいろな海外のレーベルの存在を知る訳です。海外と日本はかなり音楽ビジネスの仕組みが違うという点にも興味を持ちました。音楽制作は突き詰めていくとやはりブランド(レーベル)を目指していくことになると。そこにレーベルが誕生して、スタジオがあって、ミュージシャンがいて、という、みんなで一緒に成長できることに非常に憧れを感じていました。

当時のレコード会社はコンパクトに音楽ビジネスが詰まっていたような業態でしたから、10年くらいそこで経験を積んだら、ゆくゆくは音楽制作をさらに追求するグラウンドに立ちたいと思っていました。で、10年よりは少々前でしたが入社8年目の97年に一念発起して東芝に辞表を出しました。協力してくれる方もいて社外で新しいレーベルを立ち上げようとしていました。

−−それでどうなったんですか?

土屋:経過はほとんど省略しますが、結果的には辞め損ないました。しかしこれは全くの偶然ですが、ちょうどそのタイミングで東芝は社長交代があって、斉藤正明新社長から「君がやりたいことを東芝がバックアップしたい」と言われて本当に驚きました。

実はこのことは未だに私の中では謎です。なぜ当時の斉藤さんはほとんど面識もない私に力を貸す気になったのか。その後2ヶ月くらいいろいろなやり取りがあって、私には社外で待っている仲間がいたので、結局社内独立という形式で東芝EMIの子会社「メロディー・スター・レコーズ(株)」が誕生しました。斉藤さんからは最初に「Virgin Records」の日本ブランチをやってくれと頼まれました。そこでは新人開発をすることがミッションでした。それで六本木のマンションの一室を借りて、まず「Virgin Records TOKYO」という新人レーベルを立ち上げました。途中からDREAMS COME TRUEの「Virgin DCT」というレーベルが合流してきましたね。

−−なぜDREAMS COME TRUEが合流することになったんですか?

土屋:なぜでしょうね。ドリカムの担当は大変だというウワサは本社から聞こえていていましたが。リーダーの中村正人さんはとてもアタマが良い方で、自分の都合によって、ある時はミュージシャン、ある時はビジネスマン、というスタンスを自由に行き来するので、いつも振り切られてましたね(笑)。吉田美和さんはステージでの大胆さとはまた別の、繊細で素敵な人でした。

−−なるほど。そして新人としてはやはり鬼束ちひろさんですね。

土屋:そうですね。その前にこちらは憧れのレーベル運営をスタートさせた訳で、レーベルと言えばやはり専用のスタジオが必要だろうと(笑)。それで「スタジオ設立懇願運動」を1年間展開して、何とレーベル専用のレコーディングスタジオを作るための予算を獲得しました。これはもう斉藤さんに感謝です。

−−でも、斉藤さんもよくOKしてくれましたよね。

土屋:本当にそう思います。最初の2組の新人の結果が芳しくなかったので、恐らく斎藤さんは社内からの突き上げがスゴかったと思うんですよ。メロディー・スター・レコーズは斎藤さんの独断で作ったような会社ですから、スタジオ設立も含めて、本社内では「なんで、依怙贔屓するんだ」という意見がたくさんあったことでしょう。実はスタジオ建設中に斉藤さんから「次の3組目のアーティストにブレイクの兆候が見えなければ、レーベルの存続は厳しい」と言われました。98年に始まって3年目に入るところでしたし、すぐにブレイクしなくても、何かこう未来は明るいぞ、楽しいぞ、という空気を示さないといけない、いう思いは強かったです。

 

6. 「勝ちにいくときは全額貯金を下ろす」〜鬼束ちひろデビュー秘話

(株)エスエム・エンタテインメント・ジャパン CBO 土屋 望氏

−−そして鬼束さんでブレイクしたと。

土屋:最初は全く歓迎されてなかったですね。鬼束のデビュー作は私のそれまでのキャリアの中で、イニシャルが最も低かったと記憶しています。東芝本社が全然乗ってくれなくて「応援してくれるお店がありません」とか言われて。ただ、私は黙っているタイプじゃないので、そのときは本当に「東芝がダメだと言うなら乗ってくれるショップをこっちで探そう」ということで、そこから実に様々なゲームを仕掛けました。私は東芝時代にかなり多くの始末書、顛末書を書きました(笑)。でも新人アーティストは順番通りに待っていると打席が回ってこないわけですよ。アーティスト数が多いですからね。ICEのときもそうでしたが、鬼束のときもそうで、私が担当してそこそこの結果を出したアーティストは、よく考えたらどこかで大なり小なりルールを破っているかもしれないですね。ルールを悪用するというか。

−−具体的にはどのようなことをされたんですか?

土屋:鬼束は2000年の2月デビューだったんですが、前年の1999年12月の中旬に「販売拠点店はゼロ」と東芝の販促担当から通知がきて、イニシャル約1,000枚が全国のお店に散らばることになった訳です。ですから単純計算で数店舗に1枚しか在庫がない状態になり、これは宝探しゲームみたいになるだろうと。そこで信用していた部下を呼んで「このままではヒットは見込めない、ヒットが出ないならホームスチールみたいなプランを考えろ」と告げました。

−−それは奇襲作戦しかないということですか?(笑)

土屋:ええ、意表を突く、的な。それで、彼が考えて持って来たプランというのは、当時、渋谷が世界で一番CDが売れる街で、ちょうどオープン間近の渋谷TSUTAYAとTOWER RECORDとHMV。この3店舗に対して、「僕らはこのアーティストは絶対にブレークすると信じています。サンプルを置いていきますので、聴いてもし気に入ってもらえたら、この店で1,000枚入荷してもらえませんか?」という企画書を作って、正月3が日に1店舗ずつ回るというものでした。正月は実は暇だから話を聞いてくれるだろうと。そうしたら見事に作戦奏功、1月の10日過ぎくらいに渋谷TSUTAYAから「楽曲を聴きました。バイヤーの乗りも非常に良いし、今後に期待が持てます。当店で1,000枚取ります」というリプライが来ました。

−−渋谷TSUTAYAは最高の立地ですよね。

土屋:渋谷駅前の路面店で、土日になると1日6万人が1階の店内を通行するらしいです。これはもう「店舗」というよりも「道路」です(笑)。その真ん中に2週間程、大きなディスプレイを設置してもらいました。実は当時東芝EMIとTSUTAYAとは正式な販売ルートがなく、卸業者を通してのディールでした。販売手数料のレートで折り合ってなかったようです。ですから東芝の営業本部の本音としては、今はTSUTAYAと直で取引したくないというときに、子会社が単独でディールを決めたので、もう営業担当の取締役が烈火のごとく怒って、懲罰委員会みたいな会議に呼ばれました。でもこちらもレーベルの存続がかかってますから、完全に対決姿勢でした。もちろん始末書は書きました(笑)。

−−一歩も引かなかったんですね(笑)。

土屋:我々は渋谷TSUTAYAの1,000枚をいかに消化させるかにすべてを賭けていました。広告代理店に頼んで「渋谷の街に鬼が出た」というコピーで、渋谷の駅の至るところに平面広告を出したり、HMVの壁面ボードに「お買い求めは渋谷TSUTAYAで」というコピー入りの広告を出して、滅茶苦茶怒られました(笑)。

−−必死さが伝わってきますね。

土屋:インターネットもまだ創世記でしたが、口コミで話題になって、だんだん売り場に人が増えていきました。そしてデビューから2週間、キャンペーンの最終日に、持ち歌が1曲しかありませんでしたが、インストアライブを歌とピアノだけでやりました。

当日はフジテレビの「めざましテレビ」のスタッフに頼み込んでテレビカメラを持って来てもらいました。「撮らなくてもいいから、とにかく回しているフリをしてほしい。客が集まってくるから」とお願いしました。そうしたら、「どうせだったら撮るよ。もし後で売れたら貴重な映像になるからね」と、放送予定もないのに本当に撮影してくれました。そうこうしているうちにどんどん人が集まってきて、結局超満員になりました。

−−ものすごく強引な仕掛けですよね。

土屋:語弊のないように言っておきますが、これはあまりオススメしない方法で、断崖絶壁に追い詰められたときの窮余の一策です。

−−窮鼠猫を噛んだ状態ですね。

土屋:本来はそのアーティストの音楽で、1日でも長くみなさんに喜んでもらいたい、というのが本軸で、長く価値を保つことこそ尊いことだと信じています。だから1日1日の集積でだんだん筋肉を太くすると言うか、強くなることが大事です。でも勝ちに行くことは強くなることとは全く違う。これは銀行の貯金に似ていて、強くなる過程ではコツコツ貯金を貯めていくのです。で、勝ちに行くときは一気に貯金を下ろします。もちろん、貯金をしながら戦っていけるのが一番の理想なのですが、いろいろな事情で、どんなことをしても勝たなきゃいけないという局面が出現することがある。そういうときはもう全額貯金を下ろすしかない、まあデビューなので大した貯金はないですが(笑)。とにかくあそこで引く訳にはいかなかった。続く2作目のシングル「月光」がドラマ「トリック」の主題歌に抜擢され、翌年春にリリースした最初のアルバムが150万枚を超える大ヒットになるなど、当時は想像もしていませんでした。

 

7. 「燃え尽きて野に下る」〜丸山茂雄氏との出会い

−−メロディ・スター・レコーズはどれくらい続いたんですか?

土屋:鬼束との契約が終了したのが2004年の春で、その半年後、私が辞めました。会社自体は2006年まであったと記憶しています。私はMelody Starでは音楽プロデューサーとマネジメントの代表を兼務して来ました。本来クリエイティブの責任者とマネジメントの代表は利害で言えば対立する関係です。こっちは良いものを作りたい、こっちはお金を儲けたい。ひとり二役に加えて、アーティストもかなり個性的な子で、たぶん私は燃え尽きてしまった(笑)。しばらく休養したいと思いました。

−−では、2006年に247MUSICへ行くまでの間は休養中だったということですか?

土屋: 2004年後半から2005年の記憶が曖昧で。実は鬼束に紹介したカウンセリングに私自身が通っていました。

−−そこまで追い詰められていた…。

土屋:私は精神的に弱い人間ではないと自覚していましたが、それまでに経験したことがない現象や心情に苛まれて、恐る恐るカウンセリングの先生の所に行ったら「来ると思っていたわよ」と(笑)。先生の話では自分は精神的に強い、と思っている人の方が陥りやすい病もあると。それから約1年は安定剤と睡眠薬を処方されていました。

−−もうギリギリの状態だったんですね…そして2006年に247Musicの取締役に就任されますね。

土屋:これはもう単なる偶然で、東芝の先輩から「いい新人がいるから観てほしい」と言われて代官山のライブハウスに出かけたら、そこに丸山茂雄さんがいて、その先輩から紹介されました。その後、247MUSICに行った際に初めて話をして、というのが縁の始まりです。

−−ウチにおいでよ、みたいな感じで?

土屋:いや、経緯は忘れましたが最初は「一週間に一回お茶しよう」ということになり、247近くの目黒川沿いのカフェで毎週会ってました。私はまだ本調子じゃなかったのですが、丸山さんの話が面白かったので、仕事というよりも話を聞くために通いました。それでそのまま247MUSICの音楽制作のサポートをするようになったのですが、247の正規のビジネスモデルがいまいち分からなくて、私は普通に音楽制作をやっていました。

−−正直分かりにくかったですよね、”mF247”をどうやってビジネスにしていくのか。

土屋:分からなかったです。ひょっとしたら誰もわかってなかったかも知れません(笑)。丸山さんは比類なきチャームの持ち主なので、いろいろな人や情報が周りに集まってきます。恐らく、お父様(丸山千里博士)の影響も含め反骨精神は強い人なので「みんながやってないことをやるぞ」みたいなのは未だに好きですね。

−−目新しいものがお好きなんでしょうね。

土屋:そうですね。「今ないものが新しい」と常々言ってますから。

−−その後、エスエム・エンタテインメント・ジャパン(以下エスエム)と契約されるわけですが、どのような経緯だったんですか?

土屋:エスエムにMelody Star時代の部下がいて、彼はBoAのマネージャーをやっていたんですが、人を巻き込むのが得意なヤツで。「うちに土屋さんの得意そうな女性シンガーがいます」とか「BoAが足を怪我したんですが良い外科医を知りませんか?」とか、とにかくうるさい(笑)。その後、これは詳細は伏せますが、例の東方神起の問題も重なって、エスエム全体が非常にデリケートでナーバスな時で、いろいろ話を聞いてるうちに、これはこっちも誰かを巻き込まないと、と思いましてね。

−−ひとりでは荷が重いと。

土屋:ええ、それでパッと浮かんだのが丸山さんの顔でした。「丸さんも一緒にやりませんか?」と声をかけたら「韓国? 面白いかなあ」「いや、面白いとかそういうことじゃなくて」みたいな(笑)。

−−丸山さんらしいですね(笑)。

土屋:時は2009年、ちょうどエスエムが少女時代を日本に進出させようとしていたときで、「正式に手伝ってもらえませんか」ということになり、私とエスエムとの付き合いが始まりました。

 

8. 「言葉で口説く音楽」から「体で口説く音楽」へ〜S.Mカルチャーとの出会い

−−エスエムでのお仕事へは最初からすんなり入れたのですか?

土屋:いや、それ以前にアイドルが初めてだったので、私で大丈夫なのかと(笑)。

−−(笑)。

土屋:シンガーソングライター、ICEのようなグループにしても、基本的には自分で曲を作る人をそそのかしたり、もっともらしく誘導したり、プロダクツと世の中のベストな出会いを演出をしていくことが、私のプロデューシングの基本です。

−−そこからアイドルですからスタイルが全然違いますよね。

土屋:そうですね。でもアーティストのスタイルに合わせて方針を決めたり、戦術を研究したりすることは、どのアーティストでもやってきたことなので、少女時代のときも同じように、まずは当時世界で流行っていたダンスミュージックを聴きまくりました。

今回は日本と韓国のカルチャーの違いはもちろん、エスエムというのは非常に特徴のある優秀なクリエイティヴカンパニーなので、その流儀を体感出来るまでどんどん自分を追い込もうと決めていました。何度も韓国に足を運び、主に本社の制作スタッフに会って話を聞いて、少しでもヒントを得ようとしましたね。

−−音を作るのは韓国でどこまでやって、後は日本で、とか役割分担みたいなものはあるんですか?

土屋:そこには決まりはありませんが、まず、韓国のヒット曲の日本語カバーというのが入口にあります。最初は日本語の歌詞ですよね。歌詞にこだわり続ける日本と、歌詞をダンスミュージックのツールとして扱う韓国のカルチャーが正反対だったので、そこがまずチャレンジでした。韓国は内需が小さい国なので、外にマーケットを求める。音楽だけではなく全てがそうでしょう。そうすると音楽で言えば「歌詞にこだわっているうちは、国境は絶対に越えられない」と分かってくる。「ダンスだったら言葉は通じなくても観れば分かる」という非常に明快な理屈。エスエムはそういう戦術戦略を最初から採ったのです。

ここが日本との最大の相違点でしょう。一般的に歌詞の意味が分かると人間の集中力はストーリーを拾っていきます。日本人は世界で一番歌詞にこだわりますから、音楽の中の言葉を聴く能力が高い。だから、日本のファンに本当の意味でのエスエムカルチャーや少女時代の真の魅力を提供するために、いかにサウンド全体を邪魔しない日本語詞にするか、かなり研究しました。これは若いスタッフのアイデアですが、最初に少女時代の韓国語の歌詞を聞いて、音で聞こえた通りにカタカナでメモります。メモった文章はもちろん意味が分からない呪文みたいなものですが、そのまま作詞家に渡すのです。

−−意味ではなくて音を提示したんですね。

土屋:そうです。作詞家もびっくりですよね。「優れたクリエイティブは制約の中にこそ宿る」とか訳の分からない事をいっぱい言って説得して(笑)。

−−(笑)。

土屋: 基本的にJ-POPは「言葉で口説いていく」音楽ですから、そこからの転換はチャレンジングでした。K-POPは「体で口説いていく」わけですからね。

−−なるほど…K-POPの戦略ってしたたかですよね。

土屋:欧米に近いですね、考え方自体は。とにかくファイトしていく。

−−日本のアーティストとやっぱり違いますか?

土屋:全然違いますね。これも欧米に近いのかも知れませんが、個人個人のスキルとメンタリティのレベルが非常に高い。日本人は集団単位で鍛えていきますが、欧米はまず強い個人を作って、その強い個人が集まった集団を鍛えるというカルチャーです。韓国もそれに近いものを感じますね。エスエムは完全に欧米スタイルです。

−−では、日本はどうやって対抗するのか、どうあるべきかという問題も出てきますよね。

土屋:対抗というか、まず彼我の比較で言うと、ひとつはインターネットというインフラの捉え方と使い方の差があると思います。ボーダーレス、タイムレスなこの魔法のインフラは、音楽ビジネスの全てを変えてしまいました。例えば、ご存知だと思いますけど、21世紀に入って北ヨーロッパのクリエイターの作品は世界を席巻しています。デンマーク、スウェーデンなどの作家チームの作品をガガやブリトニー、もちろんBoAや少女時代も採用しているし、エスエム全体でも圧倒的に北ヨーロッパのクリエイティヴの恩恵を受けています。例えばそういう人口の少ない国はドメスティックマーケットには期待出来ない、しかしインターネットというインフラの誕生で「これで自分たちも外で勝負ができる」と直感的に感じたのでしょう。

−−勝負できる武器を手に入れたと。

土屋:ええ、日本がインターネットの正体を掴み切れてない時から、恐らく韓国、デンマーク、スウェーデンなどの小国は世界戦略商品を作り続けていたと思います。例えば2009年以降World Wideの動画プラットフォームに於いて「少女時代」という商品は圧倒的に強い存在でしたが、最初からそこを見据えて作っているのです。前述の鬼束のケースで言えば、歓迎されざるスタートから日々懸命な努力を重ねて、デビュー2年半で日本武道館(7000人)に到達しました。一方少女時代の場合は2010年の初来日のコンサートに何と2万2000人の日本人が来場しました。私はPA横でその光景を見ながら呆然としていました。私はまだ何も仕事してないのに、既に2万人以上の集客がある。ここで私は何をすればいいんだろう?と。

−−自分のやることはないんじゃないかと(笑)。

土屋:本当にココに立つのは小中学生でも、誰でもいいんじゃないかと(笑)。とにかく衝撃的な体験でした。

 

9. 「アーティストとリスナーを結びつける透明なバイパスでありたい」

(株)エスエム・エンタテインメント・ジャパン CBO 土屋 望氏

−−ここまでお話を伺ってきますと、エスエムでのお仕事は、それまで土屋さんが築かれたキャリアや経験とは全く違う世界ですよね。

土屋:そうですね。私が日本で経験して来たことはほとんど何も通用しません。例えばアーティストとのコミュニケーション、これはプロデューシングの基本ですが、まず会話があまり成立しません。韓国人スタッフを介して丁寧に説明しているつもりですが、実際どのくらい理解されているかはわかりません。直接会話はほとんど笑顔とボディーランゲージのみ(笑)。

−−(笑)。他に何か新しい経験はありますか。

土屋:象徴的なのは価値観の多様化、マルチ化です。例えば、私が日本で発売される音楽を選曲するとしましょう。アーティストはBoAや少女時代、或いはSHINeeです。日本で売る商品だから日本でウケそうな楽曲を選ぶのが普通ですが、今の時代はその曲が韓国でどう評価されるのか、また東南アジアや北米、欧州のファンはどう感じるか、までイメージする必要がある。BoAから「私の日本の新曲がyoutubeに上がれば、もちろんアメリカのファンも観ますよ」とアドバイスされたり、韓国人スタッフから「この曲は韓国では評価されないと思います」と進言されることもあります。米国や韓国で売る訳じゃないから関係ないよ、という言い方も出来るでしょう。しかし今の私は全然そうは思わなくて、ワールドワイドなプラットフォームが存在する時代に、目の前のグラウンドをどれだけ広く捉えられるか、というのは、非常にポジティヴなことだと。今の時代は、表方も裏方もそういう新しい想像力で可能性を切り拓いていくチャンスなんです。だから、例えば作詞家に詞を書いてもらっているときに、私が一言「日本だけじゃなくてインドでも発売することになったので、インド人の人にも刺さるような歌詞にしてね」と言ったら、その作詞家は多分一旦筆を止めると思うんですよ、「えっ?インド人!?」みたいな(笑)。

−−それは全く想定していないでしょうからね(笑)。

土屋:日本人は内需の大きな国でやってきたので、今まではそういう訓練を受ける機会がありませんでした。しかしこれからはワンヒントで発想の全てが変わっていく。そこが未来に繋がる道だと思います。これは私個人のアイデアですが、今すぐ世界市場に出るということなら、アーティスト単体よりもクリエイティブ(作品或いはプロデュース)の方がポテンシャルがあると思います。「Made by Japan」の音楽はすごく可能性があると思いますね。例えば、日本の作家チームがつくった曲を、レディー・ガガやケイティ・ペリーなどのスーパースターが歌ってヒットしたら気持ちいいでしょう。日本のアーティストを世界で売ることを考える前に、日本のクリエイティブへのリスペクトや信頼が確立した上でアーティストが出ていった方がいいような気がします。

−−「Made by Japan」のクリエイティブを先行させると。

土屋:はい、この国の「ものづくり」は意識を変えれば世界に通用すると思います。先般シルク・ドゥ・ソレイユの「Michael Jackson THE IMMORTAL World Tour」を観に行ったのですが、今世界は「肉体のエンターテイメント」をやっているんですね。でも日本はずっと「精神のエンターテインメント」です。もちろん、精神も肉体も両方大事ですが、日本は多少カラダの方に重きを置いてもいいかも知れません。

−−本題から少し外れるんですが、いわゆるパッケージビジネスはもうあまり未来がないと言われていますよね? 近年ではサブスクリプション的な音楽の聴き方、売り方に変わってきていますが、その辺の転換に関してはどのようにお考えですか?

土屋:サブスクリプション等のクラウドサービスの浸透は、音楽に於いてはもう少し時間がかかると思います。音質の問題はさておき、YouTubeが無料ですし、他のサービスも国内、国外合わせて混沌としている。ご存知の通り、提供側の収益が満足に確保されていないという面からの懸念もあります。今の音楽ビジネスはライブビジネスが中心で、これはしばらく続くと思います。だから全てのものがライブに付随した収益になっていくと思います。元々レコードはコンサートのプロモーションツールだったでしょう。だから音楽ソフトはコンサートのプロモーションのためのツールに戻っていく可能性もあると思います。今はコンサート会場でCDが売れています。昔はCDなりレコードを聴いてからコンサートに行くのが定番でしたが、今はYouTubeで見て、気に入ったらもう次はライブです。それで、音楽ソフトはきっと来場記念のパンフレットのようなつもりで購入するのかも知れません。

−−では、当面はライブを中心に音楽ビジネスを展開していくということでしょうか?

土屋:ドメスティックはそう思います。インターナショナルでは日本がもっとワイドな視点を持って、よりスマートでクリエイティブな音楽ビジネスを展開することで活路を見出せると思ってます。そのためには今の私は非常にいい機会を得ていると思います。

−−最後になりますが、土屋さんの今後の目標は何でしょうか?

土屋:私は今までも予定を組んで生きてきたことがあまりないというか、音楽の仕事をやって、都度、目の前の人を愛し続け(笑)、ただそれだけです。私はアーティストとリスナーを結び付ける透明のバイパスでありたい。だからみんなからは見えなくていい。私ももう若くはないので、現場としての残り時間はそんなに長くはないでしょう。メンタリティとしてはたぶんプロスポーツ選手に近くて、そのユニフォームを着ているときは、そのチームのために全力でプレーするという感覚なんですよ。ですから、今はエスエムに自分の全てを投影してやろうと思っています。

−−本日はお忙しい中、ありがとうございました。土屋さんの益々のご活躍をお祈りしております。(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)

 日本の音楽業界も韓国の音楽業界もよく知る土屋さんの話は、その感覚の違いも含めて大変刺激的でした。メンタリティ、体と頭のバランス、想定するグラウンドの範囲などなど、その差異を体感されているこそのお話は、今後国内のアーティスト、制作者共々、参考になるのではないかと感じました。ご自身を「透明なバイパス」とおっしゃる土屋さんが、今後どのようなアーティストや楽曲を我々リスナーに送り届けてくれるのか楽しみです。

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