第70回 上原 徹 氏 株式会社フジパシフィック音楽出版 代表取締役社長

インタビュー リレーインタビュー

上原 徹 氏
上原 徹 氏

株式会社フジパシフィック音楽出版 代表取締役社長

今回の「Musicman’s RELAY」は屋敷豪太さんからのご紹介で、株式会社フジパシフィック音楽出版 代表取締役社長 上原徹さんのご登場です。大学時代にフォー・セインツを結成し、『小さな日記』をラジオで歌ったところ全国からリクエストが殺到! レコード会社各社にも注目され’68年にメジャーデビュー。解散後に映像の仕事を志し、フジテレビの子会社だったワイドプロにアルバイトとして入社。「キタナイ」「キケン」「キツイ」の“3K”と言われる辛いAD時代をのりこえフジテレビ本社へ入社。『スター千一夜』『夜のヒットスタジオ』『ミュージックフェア』など音楽番組を中心に制作を担当。ロンドン転勤後もその手腕を発揮し、大物アーティストも多数出演する『ビートUK』や『ザ・ビート』を制作。億単位の売上をあげました。その功績から英国法人FUJI INTERNATIONAL PRODUCTIONS(UK)LTDを立ち上げ社長に就任するなど、TV業界と音楽業界で成功された上原さんにお話をうかがいました。

[2008年2月14日 / 港区北青山 株式会社フジパシフィック音楽出版にて]

プロフィール
上原 徹(うえはら・とおる)
株式会社フジパシフィック音楽出版 代表取締役社長


’47年生 東京都出身。
成蹊大学在学中にフォー・セインツを結成。ラジオで歌った『小さな日記』が反響を呼び’67年にデビュー。フォー・セインツ解散後、株式会社フジテレビジョンの子会社であるワイドプロにADとして入社。その後株式会社フジテレビジョン本社に入社し、ディレクターとして「夜のヒットスタジオ」「スター千一夜」「君こそスターだ!」など音楽番組を中心に担当。’89年にはロンドン勤務が決まり渡英。『ヒットスタジオインターナショナル』を制作。’94年にFUJI INTERNATIONAL PRODUCTIONS(UK)LTDを設立し、代表取締役社長に就任。ITV、チャンネル4などで『ビートUK』『ザ・ビート』などを制作した。’03年に帰国し、株式会社フジパシフィック音楽出版の代表取締役に就任。現在に至る。

 

    1. 学生時代にフォー・セインツを結成しデビュー
    2. 辛かったAD時代〜アーティストから映像業界へ
    3. FUJI INTERNATIONAL PRODUCTIONS(UK)LTD設立
    4. 苦労が絶えなかったロンドンでの生活
    5. あえて日本の手法でイギリスの映像業界へ
    6. これからもずっとモノを作り続けたい

 

1. 学生時代にフォー・セインツを結成しデビュー

--前回ご出演いただいた屋敷豪太さんとはイギリスで出会われたということですが、その経緯や印象などをお聞かせください。

上原:最初に豪太さんと会ったとき、彼はシンプリー・レッドのドラマーであり、またBMGの社長だった寺島さんと一緒にレコーディングスタジオの経営をしていました。そこに何かのきっかけで遊びに行ったのか、もしくはロンドンで番組を作っていたのでその番組の司会を豪太さんにお願いしたのか、どちらにしてもそこでの出会いが最初だったと思います。

 それと豪太さんの上のお子さんと、うちの下の子が同じ歳だったのかな? 月〜金はお互いイギリスのローカル学校に通わせていたのですが、週末だけは日本政府がバックアップしている国語を重視して教える日本人補修校に通っていたんですよ。そこで週に1回は彼と会っていましたね。ロンドンからは僕の方が先に日本に戻ったんですが、そのあと数年して彼も日本に戻ってきましたのでたまに飲みに行っています。

--公私ともにご関係があったんですね。では、上原さんのご出身、そしてどのような家庭環境でお育ちになったのかお伺いしたいのですが。

上原:出身は東京で、小学校2年のときから今も住んでいる杉並で過ごし、もう50年以上ですかね。(途中13年間は英国ですが)小学校から成蹊に通っていたので大学卒業まで受験勉強を全くしたことがなかったんですよ。

--小学校から私学に通う子供は少ない時代ですよね?

上原:そうですね。今振り返ってみるとよかったなって思いますね。あまり受験だ受験だって感じませんでしたから。僕は団塊の世代でベビーブーマーだったんですけど、それでも小学校のときは東、西、南って3クラスしかないような非常に少人数の学校でした。

--学生時代にのちのフォー・セインツにつながるような音楽環境はおありだったんですか?

上原:中学校の後半ぐらいにビートルズとかベンチャーズが出てきて、いわゆるエレキブームがありました。それでエレキギターを弾くようになってバンドを作りました。高校に入ってからは先輩に誘われて演劇部に入ったんですが、文化祭のときは演劇部の出し物もやりながら、当時流行っていたフォークソングを演劇部の仲間とバンドを組んで演奏したり。その後、学校にいくつかあったフォークグループが合体してフォー・セインツになったんです。

--フォー・セインツはメンバー全員が成蹊の方なんですか?

上原:アマチュア時代は全員がそうでしたが、レコードを出したときは一人だけ違いました。大学に入りニッポン放送の『バイタリス・フォーク・ビレッジ』という番組に出演し『小さな日記』を歌い、その歌が後の『オールナイトニッポン』でも放送され「全国から『小さな日記』の譜面が欲しい」とリクエストが殺到して、それでレコード会社の方々に注目してもらい、最終的には当時東芝レコードにいらっしゃった高嶋さんに強く口説かれレコードを出すことになったんです。高嶋さんはビートルズを日本で最初に火を付けた方。ザ・フォーク・クルセダーズを担当していた方なんですが、実はバイオリニストの高嶋さち子さんのお父さんで、高島忠夫さんの弟さんなんですよ。

--え!そうなんですか。それは知りませんでした。

上原:高嶋さんに「お前たちが出さないんだったら、他のやつらに歌わせてレコード出すことだってできるんだぞ」って脅かされてね(笑)。それで今は無いですが、溜池の東芝レコードの裏に大きなスタジオがあって、そこでレコーディングしました。

--それは強引ですね(笑)。フォー・セインツはどのぐらい続いていたんですか?

上原:フォー・セインツは1年半ぐらいしか続かなかったんじゃないですかね。’68年に『小さな日記』が出て、そのあと’69年に『希望』っていう曲を出したんです。『希望』は岸洋子さんが翌年に歌ってヒットしたんですよ。僕たちも当時オリコンでいうと30位ぐらいまではいったのかな。

--時代的にはグループサウンズブームとフォークブームの真ん中ぐらいだったんですか?

上原:そうですね。当時NHKに出るためのオーディションがありました。そのときに一緒になったのが「ヒデとロザンナ」や「欧陽菲菲」で、ちょっと後に「森進一」とかそんな頃ですね。高嶋さんに「アーティストだったら事務所に所属しなきゃいけない」と言われて紹介された事務所に入ったんですが、その事務所に所属していたアーティストがザ・ゴールデン・カップスやザ・ダイナマイツで、とてもフォークソングっていう感じじゃないんですね。あるとき「これから仕事をするんだから衣装を作れ」って言われて新宿の歌舞伎町に連れて行かれて買ったのが吊しのタキシードに先のとんがったエナメルの靴(笑)。それでグループサウンズやR&Bとかそういうバンドが出るジャズ喫茶で演奏していました。

--フォークと芸能界を行ったり来たりさせられた感じですね。

上原:そうなんです。当然営業もするんですが当時はツアーなんてもんじゃなくてまさに巡業という感じで、四国、九州、北海道と色々な所に行かされました。当時はバンドボーイと言っていたんですけども、今で言うローディーが途中から付いたんですが、最初の頃は自分たちで楽器車を運転して、お客さんがいる前でセッティングして、セッティングが終わったら楽屋で着替えて、「みなさんこんにちはー!」って出て行くんですよ。終わったらまたみんなのいる前でバラしてまた運転して、その夜に横浜へ行って、またステージという感じです。昼間4回ステージ、夜4回ステージということもよくありました。酷でしたけど今となれば楽しい思い出ですね。

 

2. 辛かったAD時代〜アーティストから映像業界へ

--フォー・セインツ解散後はどうされたんですか?

上原:うちの親は普通の仕事をしていたので、親からしてみたら僕はちょっと普通じゃない仕事をやっているように見えたんでしょうね。大学卒業間近に「真っ当な仕事に就いたほうがいいんじゃないか?」と言われて、バンドを解散して就職をしようと思いました。そのときは親が紹介してくれた有名な会社に採用されたんですが、いざフォー・セインツを解散したものの、やはり音楽に未練があったのでそこを断って、自分一人で音楽活動するようになりました。

--他のメンバーの方々は?

上原:フォー・セインツのメンバーも結局は音楽を捨てきれずにみんな音楽をやっていたので、1年か2年ぐらい経って「またやろうか」という話になりまして、結成したのがフォー・クローバーズというバンドなんです。

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--なぜフォー・セインツではなくフォー・クローバーズだったんですか?

上原:フォー・セインツという名前が東芝との兼ね合いで使えなかったんですよ。で、フォー・セインツと似たような名前ということで、今は森山良子ちゃんの事務所の社長である金子洋明さんがフォー・クローバーズと命名してくださって再デビューしたんです。1枚目のシングルは全然当たらずでしたが、2枚目は、事務所の力もあったんでしょうか? 日本テレビの『月曜スター劇場』というドラマシリーズの中の「冬物語」という浅丘ルリ子さんや原田芳雄さんが出たドラマがあって、そのテーマ曲になったんです。それが、まずまずのヒットですかね?

--「冬物語」で原田さんが一気にブレイクしたのを覚えてます。

上原:そこで再び小さなスポットライトを浴びたんですけど、音楽性が違ったのかフォー・クローバーズも長続きはしなかったんですね。それでまた解散して一人で音楽活動をやっていました。収入的にはコマーシャルのボーカルや赤坂のクラブで弾き語りをしたり、いろいろと仕事をしていたので問題なかったんですが、あるとき自分がうらびれていく感じがすごくしたんですね。「このままやってたら俺ダメになっちゃうのかな・・・」と。当時は仕事から帰って家に着くのが朝の6時〜7時で起きるのが午後2時から3時ごろ。で、シャワー浴びてまた出て行くような生活になっていたので、「これは軌道修正しなきゃいけない!」と思いました。

 当時はミュージシャンだった人はディレクターとしてレコード会社に入ることができたんですが、「これからは映像かな」と思ったのと、大学で専攻していたのがメディア関係のマスコミュニケーションだったので、もっと映像を勉強したいと思ってテレビ局をいろいろあたったんです。

--それでフジテレビに入られたんですか?

上原:いえ、当時フジテレビは制作を採用してなかったんですよ。制作の本体が子会社にあって、バラエティーが得意なフジポニーとか、フジプロは音楽モノ、ワイドプロはエンターテインメントとなんとなく分かれていて、その中のワイドプロに知人の紹介でお世話になることになったんです。最初に入ったときに「うちはもう社員を採ってないからアルバイトだぞ! それでもでいいか?」と訊かれて、もう後には引けないので「お願いします!」と言ったのはいいですが、それからが本当に辛かったですね。というのは、大学卒業してかれこれ5年ぐらい経っていましたから、僕は26〜7歳だったんですが、先輩は年下が多かったんですよ。それで結構いじめられて・・・。

--ADをされていたんですか?

上原:ADですよ。パシリです。フジテレビの河田町の2階に制作から編成がずっとあったんですね。そこを台本持って走ってると「あの人フォー・セインツの人じゃない? なんでこんなところにいるの?」って言われることもありました。そんな中でも助けてくれた人はいっぱいいたんですよ。地下にはメイキャップとか衣装さんがいて、プロデューサーに「台本下に持って行け!」とか言われてメイクさんのところに届けると、「上原さん! 来なさい!」ってお弁当を用意してくれて食べさせてくれたりね。

--元アーティストとしてスポットライトを浴びていたのもいじめの原因になったんですか?

上原:なったかもしれないですね。番組に出演するアーティストが友達だったり、マネージャーも知り合いが多かったですからね。あるときプロデューサーに「ブッキングをしてみろ」と言われてゲストをブッキングしていたんですよ。アーティストをやっていたときの知り合いがマネージャーをやっていたりしたので結構アーティストのブッキングは楽で、それから何年かしてなんですが『スター千一夜』という番組で、僕が吉田拓郎さんを出したら「なんで上原が吉田拓郎さんを出せるんだ?」とまた言われて・・・。それはアーティストとしてやってたときの縁があったから頭を下げてお願いしただけなんですけどね。

--当時回り道してるなって気持ちはあったんですか?

上原:回り道というか、ワイドプロに入って前のメンバー達とたまに集まると、彼らはこれまでの延長線で仕事をしていたのである程度生活も成り立っていたんです。それに比べ、僕は極小額の給与。違うじゃないですか。だから彼らに会うときは結構辛かったですね。

--他のメンバーの方は音楽関係にいらっしゃったんですか?

上原:荒木しげるは『仮面ライダーストロンガー』なんかをやってましたし、志賀正浩は『おはようスタジオ』で「おっはー!」ってレギュラーでやってました。ダニー石尾は今でもライブをやってますし、そういうメンバーがいる中で、表から裏にひっこんだのは僕しかいなかったんですね。

 

3. FUJI INTERNATIONAL PRODUCTIONS(UK)LTD設立

--フジテレビ本体への入社のきっかけはなんだったんですか?

上原:フジプロとかフジポニーとかいっぱいあった制作会社が一緒になってフジ制作という会社になったんです。それでフジ制作になったあと、当時フジサンケイの議長だった鹿内さんが「フジテレビには団塊の世代に穴がある。そこを埋めないとこれから先はない」とおっしゃって、我々が採用試験を受けてフジテレビの本社に入ったんですよ。

 今でも覚えてるんですけど、社員として雇用され、本社に呼ばれたときに、フジテレビの制作部に僕の名前がなかったんですよ。「どうしちゃったのかな?」と思ったら“フジ音楽出版 上原徹 兼 フジテレビ制作”って書いてあったんですよ。ですから、そのときはフジ音楽出版とフジテレビとに、2つデスクがあったんですよ、ところが制作の上司から「フジ音楽出版なんて行く必要ない!」って言われたので、制作の仕事ばかりやってました。『ラブラブショー』や『スター千一夜』、あとは女子プロレスですね。それから『ミュージックフェア』、『夜のヒットスタジオ』と音楽番組中心にやっていました。当然フジ音楽出版で原盤制作なんかもやりましたけどね。

--その頃はもうご結婚とかなされてたんですか?

上原:実を言うと29歳ぐらいに社内結婚したんですが、いろいろ事情があって38歳ぐらいで別れてしまって、それから1年ちょっとして今の家内と出会って40歳を迎える前に再婚したんです。その頃は『夜のヒットスタジオ』で海外を飛び回っていたんですが、結婚して子どもが生まれてすぐロンドンへの転勤が決まるんです。

--ロンドンへはご家族と一緒に行かれたんですか?

上原:当時の人事部長から「一人で行け」と言われたんですが、「こんな乳飲み子を置いて行くわけにはいかないから連れて行かせてください」とお願いしたら、「でも1年しか行かないんだったら子供達の旅費は返せ」とかなんとか言われて(笑)。そんな中で女房と子供を連れてロンドンに渡ったんです。

 その頃ヨーロッパではヴァージンが「スーパーチャンネル」という衛星チャンネルをやってたんですね。そことフジテレビの深夜枠を結んで番組をやろうという話がありまして、それでロンドンのウェンブリーにあるスタジオから毎週ヨーロッパ22カ国および日本の深夜枠に『ヒットスタジオインターナショナル』という『夜のヒットスタジオ』の深夜版みたいな番組を流すことになったんです。

上原 徹30

--それはすごく大きな仕事でしたね。

上原:ええ。生放送ですから日本で放送するときも英語のままで、字幕もなしです。それをかれこれ2クールやりましたが、お金もかかったのでやめると。ただ「せっかく上原がそっちに行ったんだから、何か番組を作り続けたらいいんじゃないか」と言われたんですね。当時『ベストヒットUSA』は日本にありましたが、イギリスのチャート番組がなかったので、グラフィックを使って『ビートUK』というイギリスのチャート番組を作りました。それが’90年ぐらいですね。

--いきなり海外の仕事に移られたわけですけど、元々英語は話せたんですか?

上原:いや、そんなに。普通に学校で習ったぐらいでした。最初にイギリスに行ったときに、僕自身がキューをふって番組を作りたかったんですが、当時の英語力では絶対にできないだろうと思ってエグゼクティブプロデューサーという立場で、秘書兼通訳の女の子を立てて現地のディレクターを使い番組制作をしました。でも、予算のこともありますし、「自分で番組を作れるのに何でやらないのか」と自問自答して、プロデューサーにイギリス人を使い、その下に僕がディレクターとして入りました。プロデューサーに「Mr.ウエハラ、あなたディレクターできるの?」って言われながらね(笑)。

--すごいプレッシャーじゃありませんでしたか?

上原:プレッシャーはありましたね。当時は日本人のスタッフもいないですから、「自分の右手、左手になる人間を作ろう」とイギリス人のプロデューサーを2人使って各々に役割を振り分けてやりました。

--日本とイギリスで番組作りの違いは何かありましたか?

上原:例えば、日本だと放送局から番組制作費をもらったら、それを使うだけですよね。でもイギリス人は300万もらったんだったら、その300万をまたリクープできないかという考え方をするんですね。ですからたとえば300万でコンサートを撮り、『ビートUK』で流すだけでなく、流した後にOAされなかった楽曲を一つのパッケージにして売ったらどうかと考える。で、ディストリビューターを探して、それを売ったことによって、番組制作費が戻ってくると。僕はこれで数億円の売上をあげたんです。その話をフジテレビの日枝会長(当時社長)が聞いて、「いい仕事してるな」と(笑)。

--商売が上手いじゃないかということですね。

上原:制作あがりの人間でも出来るんだなということですね。制作の人間は潰しがきかないって言われてましたからね。そうやっているうちに日枝会長から「英国法人を立ち上げないか?」と言われ、「はい。誰が社長ですか?」と訊いたら「お前がやれ」と言われて(笑)、’94年に英国法人FUJI INTERNATIONAL PRODUCTIONS(UK)LTDを立ち上げたんです。立ち上げる前から『ビートUK』とともに、イギリスのITVという地上波に「『ザ・ビート』という番組を作りませんか?」と話をして、姉妹番組として作りました。

--番組に出演するアーティストは全部イギリスのアーティストですか?

上原:そうです。『ビートUK』と『ザ・ビート』と併用しながら撮ってたんですけど、ほとんどのイギリスのアーティストが出てましたね。

--’94年頃というとまたイギリスの音楽が面白くなってきた頃でしたよね。

上原:そうですね。まだ日本で『FUJI ROCK』もスタートしていなかったころ、『レディングフェスティバル』や『グラストンベリーフェスティバル』を全部撮影して、それも全世界に売り歩きました。日本に対しては一つのマーケットという考え方で、イギリスでソフトを作って、日本に売っていくらか回収するコンテンツ制作会社のような仕事をやっていました。

--フジテレビの独占的なものじゃなくて、どこに何をしてもよかったんですね。

上原:そうですね。フジテレビとは深夜枠で『ビートUK』を制作、放送していましたけれど、日枝会長からは「フジに固執する必要はない。マルチでやれ!」と言われましたね。

 

4. 苦労が絶えなかったロンドンでの生活

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--ロンドンでの生活はどうでしたか?

上原:仕事は仕事で大変だったんですが、私生活は私生活でまた大変でしたね。生後2ヶ月の赤子を連れて、住んだこともないロンドンに女房と行って、フラットを探す。あとは病院をどうするかとか、子供が3歳、4歳になってくると保育園をどうする、学校どうするっていうそういう問題がどんどん出てくるんですよ。

--そういうことはフジテレビのロンドン支局の人が手配してくれたとかじゃなくて、全部ご自分でやってらしたんですか?

上原:そうです。もちろん秘書はいましたが、全て手探りな状態でした。娘や息子の友達のご両親だとか、そういう人たちとのお付き合いもありましたし、タキシードでパーティーに行くとか、お家に遊びに行くとか日本とはちょっと違いましたしね。日本だと2ヶ月先ぐらいまで夜のスケジュールがパッパと入っていくじゃないですか。向こうはランチはあったりしても夜のスケジュールがあまり埋まらないんですよ。夜は19時とか20時には家に帰って子供たちと食事だとか、もちろんライブなんかの収録があれば遅くなりますが、そんな仕事が無いときは、スタッフなんかと夕方6時ごろから近くのPUBで1杯だけ飲んで、「バーイ」って帰ってましたね。

--ロンドン市内に住んでいらっしゃったんですか?

上原:日本人はよくセント・ジョーンズ・ウッドという商社や銀行関係の人が多い所に住むんですが、僕はそういう所ではなくて、西にノッティングヒルゲートというところがあるんですが、その近くに住んでました。近所にはリチャード・ブランソンとか住んでいたり、割と業界の人達が住んでましたね。

--全く見知らぬ土地で色々苦労されたと思うんですが、どうやってイギリスに馴染んでいったんですか?

上原:そうですね・・・僕の中には「無理である以上動かない」という気持ちがすごくあるんですよ。あるときは流れに乗っていかないといけないし、その流れの中で何が出来るかだと思うので。イギリス人を相手に仕事するときに日本の常識は通用しないです。イギリスで「外人は・・・」って僕たちは言えないんですよね。向こうが僕たちのこと外人って思うわけですから。そこは歯を食いしばって、我慢しながら・・・。

--あくまで顔は明るく?

上原:そうですね。日本人みたいに几帳面な人もいますけど、そうじゃない人も沢山いるじゃないですか。それを言っても国民性が違いますから「それはそうなんだ」と思いこまないとやっていけないというときがありましたね。ちょうど僕が50歳のときに肝炎になって入院したり、女房が倒れたこともありますし、空き巣だとか、ひったくりだとかそういうこともありましたし、とにかく色々なことがありましたね。

--様々なトラブルを体験されたんですね・・・。

上原:ブリクストン・アカデミーっていうところがあるんですけど、そこでコンサートを撮っていて、ちょうどアンコールの前になって「あとちょっとで終わるな」と自分の荷物片付けて休んでたんですよね。そしたら、黒覆面をした奴がバーっと入ってきて、見たらナイフと銃を持ってて。

--えっ! それは強盗ですか?

上原:ええ。それで手帳や財布を入れた鞄をそいつにバサーっと持っていかれてしまって・・・。「Help!」って言ったんだけど、自転車でサーっと行っちゃったんですよね。

--相手は銃を持っていたんですよね・・・それは怖いですね。

上原:銃がもう目の前ですよ。至近距離。だから、イギリスではありとあらゆる経験をしましたね(笑)。

--イギリスの音楽業界には日本人はほとんどいませんよね。

上原:コーディネーターとかはいましたけど、業界の中には全くいませんでしたね。

--そんな環境の中で上原さんはイギリスの錚々たるアーティストとお仕事されたんですよね。

上原:そうですね。『夜のヒットスタジオ』の衛星中継にポール・マッカートニーだとか世界の大物アーティストは全部と言っていいほど出しましたね。その繋がりがあったので、ポールにはローカルの番組もお願いしたり、その後、ポールの日本公演をバックアップしたりしました。

--そうなんですか。ポールとは結構深くかかわってらっしゃるんですね。お友達ですか?

上原:友達というか、(写真を指して)机のど真ん中に置いてありますけどね。あれはまだリンダが生きてるときですね。

--すごい! ちょっと写真を撮らしてください。チャールズ皇太子もいる!

上原:あれはね、『パーティー・イン・ザ・パーク』っていうチャールズ皇太子が主催する大きなイベントがあったんですよ。それを僕からやらせてほしいと、その縁で関わらせてもらったんです。

--ちなみにイギリスの業界で日本人だからと差別されたりませんでしたか?

上原:どこかで人種差別はありますよね。あるのは分かりますけど、一応扉を開けてくれるという感じでしたね。なぜ僕たちがイギリスの業界に入れたかというと、番組制作を請け負うときにイギリス人の制作会社には100支払うとしたら、僕らはその70でいいですよと掛け合ったんですね。安い下請けという言い方はおかしいですけど、そうしたんですよ。それで業界に入ることができたんです。

 

5. あえて日本の手法でイギリスの映像業界へ

--ここまでお話を伺ってきますとイギリスに行かれてからはトントンと順調ですね。

上原:そうですね。おかげさまで本当に順調で。でも、これはフジテレビの理解があったからですね。

--ちなみにフジテレビからの予算は結構あったんですか?

上原:いや、そんなにはなかったです。深夜に番組を作る予算は確保してやると、それだけでした。通常イギリスだと日本のように一人のプロデューサーが番組を複数やるってことはないんですよ。でも、僕はそこで日本式を選んだんです。

--その日本式のやり方で、イギリスの業界内で評判があがって、仕事がやりやすくなっていったと。

上原:そうですね。たぶんこれから日本人が向こうに入り込んで放送局やレコード会社、マネージメント相手に番組を作るとしても苦労するんじゃないかと思いますね。

--サラッと仰ってますけど、普通ありえないですよね。最初から英語が話せたわけでもないですし。

上原:そうですね。会社を作るとなると、ただ番組制作だけしていればいいわけじゃないですからね。人事、会計、法務などを全部やらないといけなかったので、とても勉強になりましたね。

--FUJI INTERNATIONALに日本人のスタッフは何人ぐらいいらっしゃったんですか?

上原:最初は日本人のスタッフは経理に一人だけだったと思います。あとはイギリス人のスタッフで、僕を入れて全部で6人ぐらいでした。FUJI INTERNATIONALになってからは12人とか、そのぐらいじゃないですかね。それで、音楽番組だけに限らず日本へイギリスの最新情報を伝える情報番組を作りたかったので、その為に日本人を一人入れてやりました。そのうちに日本への番組制作も増えていったので、最終的には全部で30人近くのスタッフがいました。また、東京での仕事も増えていったので、東京にも支社を作りました。

上原 徹70

--東京の支社ではどのような番組を作っていたんですか?

上原:’97年に『FUJI ROCK』がスタートしたときに、スマッシュ(イベンター)と色々話をして、映像を撮ろうということになったんですね。その映像をWOWOWの前身であるJSBで放送するためにうちがイギリスから弁護士を連れていきマネージメントと放送に対する契約をしたりしたんです。あと、ポール・マッカートニーを来日させたりしましたね。当然フジテレビもそのライブを収録したんですが、僕はもとより制作の人間でもあり英語で外人スタッフともコミュニケーションが直接取れて全部自分でやれるわけです。「上原なら全部任せとけばいい!」ってことで結構重宝がられました。だから、大きな外タレが来たときは僕がほとんど収録に関与していましたね。

 コンサートを撮るには基本的に音楽を分かってないとダメなんですよね。ライブってとっさに楽器が変わったり、間奏がガラッと変わったり、ギターリストの気分でアドリブも変わるっていう風に予測ができませんから、たぶん一緒に演奏してる気持ちにならないと撮影できないんですよ。そういう意味では、全然音楽のジャンルは違うんだけど、自分もバンドをやってたので、そういうところでミュージシャンの経験が生きているのかもしれません。

--ミュージシャンとしての経験があったからこそ、いいライブ映像が撮れると。

上原:ええ。前もって楽曲を聴かなくても、最初のワンコーラス目のフレーズを聴くと、大体ツーコーラス目も分かりますね。だから「ここでドラムが来るかな」とか「ベースが来るかな」って読めるんですよね。歌とベースがかけあってたら「次もまた来るだろうな」って具合にね。

--FUJI INTERNATIONALはかなり長い間続いたんですか?

上原:父と母がもう年をとったので僕は長男として日本に戻らないといけないということで、’03年に東京支社に営業ベースを移して、副社長をイギリスの本社に送り込んだんですよ。その彼がいけないっていうわけではないんですが、僕が作った会社なので、僕がイギリスを離れることによって、どうしても人は去っていきますし、ビジネスがうまくいかなくなってきたんですね。そうこうしているうちにニッポン放送とフジテレビのライブドア問題が起こって、日枝会長から「フジパシフィックにいけ」と。ついては「FUJI INTERNATIONALはお前がいたから成り立っていたが、もう日本に戻ってきたんだったら会社を精算したほうがいいんじゃないか」ということで、去年ぐらいに精算しました。

--それ以後、上原さんと同じように海外で活躍されてるフジテレビのテレビマンの方はいらっしゃるんですか?

上原:いや、いないですね。フジサンケイ・コミュニケーションズ・インターナショナルっていう海外部隊の会社があるんですが、あくまでも報道が中心で、FUJI INTERNATIONALのようにエンターテインメントに特化して何かやろうっていう会社ではないんですよ。だから、今こそFUJI INTERNATIONALのような会社が本当は必要なんじゃないかなって僕は思いますけどね。

--今後また海外に戻られるっていうこともありえるんですか?

上原:それはないでしょうね。海外と仕事をするってことはあるかもしれませんが、自分がまた海外に住んでやるっていうことはないと思います。

 

6. これからもずっとモノを作り続けたい

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--新しい職場であるフジパシフィック音楽出版はいかがでしたか?

上原:実は僕がフォー・セインツでデビューしたときの楽曲管理出版社がここなんです(笑)。『小さな日記』は違うんですが、僕も曲を書いたりしていたので当時は(フジパシフィックの前身である)PMPと作家契約をしていたんですね。

--作家契約していた会社の社長になるってなんだか不思議な感じですよね(笑)。

上原:2年前にここへ来たときにうちの社員が「上原さんって、あの上原さんですか?」って(笑)。今でも数円印税がきますよ(笑)。

--(笑)。

上原:笑っちゃいますし、運命も感じますよね。まさか僕もそのときはここの社長になるとは思っていませんから(笑)。

--音楽出版という仕事に関してはどのように考えておられますか?

上原:2年前に来た頃からすでに音楽ビジネスは揺れ動いてるなと感じていました。俗に言うパッケージは売れないということです。今までテレビ局の出版社はある程度保証されてきました。つまり権利が100%取れたわけですが、それが今は色々な力によって50%だったり、3分の1になったりする中で、ただ単に出版だけをやっていても今後は厳しいんじゃないかと思います。かつての音楽ビジネスはプロダクションと出版社とレコード会社というトライアングルでそれぞれが自分の得意な分野で仕事をしてましたけど、今やレコード会社は出版を持ち、アーティストのプロダクションを持ち、プロダクションは自分のところで原盤や出版を持ってアーティストを育てていますし、出版社も色々とやっていますしね。

--上原さん自身の今後の展望は?

上原:形は違えど学生時代からモノを作ってきた人間なので、やっぱりモノ作りをしていきたいですね。それと自分のバックグラウンドが音楽であり映像なので、出版もやりつつ、自分のところで映像を作り、権利関係のものを貼り付けるとか、そういうこともしたいなと考えています。

--何か具体的な試みはされているんですか?

上原:「テレビドラマの主題歌がヒットする」という定義があるとしたら、携帯でそういうことができないかと考えまして、音楽から逆にストーリーを作ってドラマを作るという試み(『ミュードラ』)を去年の4月ぐらいにやったんです。

--ソニーでもやってましたね。

上原:そうですね。それは1年前の話なんですが、当時はまだ携帯の技術的な部分の問題で動画がそんなにダウンロードできなかったので、仕方なくフジテレビのHPから無料配信をしたら、あの当時で何万ヒットしたんです。ですから今年に入って、それを課金でやろうと思っていたときに角川さんに興味を持っていただいたので、モバイルは角川さんの『角川モバイル』、PCはフジテレビのPCサイト『フジテレビオンデマンド』から動画配信することにしました。また、i-Tunesとも組ませていただきました。

--それはフジパシフィック音楽出版の仕事なんですか?

上原:はい。CDなどのパッケージと違って、携帯になると音楽出版社に入ってくるお金はホントに数円の世界なんですよ。ですが、映像を付加することによって一曲300円にして、その半分の150円とか100円とか入ってくれば全然違うんですよね。出版の権利は他の所でも使えますが、携帯だとかダウンロードの配信を見ると、楽曲に関しては原盤持たないとダメですね。それに加えて映像の原盤を持つと大きく変わるんじゃないかとテストケースで今始めています。2月末にはMONKEY MAJIKのインディーズ時代の『Lily』という非常に良い曲があって、それをテーマに『ミュードラ』を作って現在配信中です。

--なぜ『ミュードラ』っていうんですか?

上原:ミュージックとドラマで、『ミュードラ』ですね。角川で先行配信して、次にフジテレビでやって最後はi-Tunesにもっていく。だから、僕が今考えているのは、PC・携帯からスタートして最後は放送パッケージにもっていくという流れです。元々、僕は放送の人間なので、放送したものを下に落とし込んでいくっていう経験は当然あるんですが、その逆流っていうのをやってみたいと思っています。

--長年テレビの世界にいらっしゃった方から見て音楽ビジネスの行き詰まりみたいなものを感じますか?

上原:そうですね。いや、行き詰まっているというか音楽が溢れているんですよね。

--それは無料のものが?

上原:そうですね。僕の子供は音楽にとって一番のマーケットである大学生と高校生なんですが、彼らのライフスタイルを見ているとパッケージは買わないですよね(笑)。友達からレンタルしたものをi-Tunesに落としてi-Podで聴いているという感じです。あとは携帯でなるべく無料だとか、一括でいくらとか、そういうものを利用しているようです。ただ、ライフスタイルにおける音楽の立場って昔も今も変わらないんですよね。我々が試験勉強中に机にラジオを置いて『オールナイトニッポン』を聴いていたのと同じように、彼らはi-Podで音楽を聴いています。それがビジネスとどう繋がるのかっていうと、確かにビジネスに繋がりにくい。でも、明らかに良いものは買うんじゃないかなって感じはしますよね。最近は「去年の今頃、何の曲がヒットしたっけ?」みたいな感じで、心に残る歌っていうのがないですよね。そんな中で『千の風になって』みたいな曲が出たっていうことは我社にとって非常に喜ばしいことだと思ってます。

--若い人はもちろん年配の方も一緒に口ずさめる歌が必要なのかもしれませんね。

上原:今度これを聴いてください。先週できたばっかりなんです。

--これは・・・フォー・セインツですか!?

上原:そうです。僕が何年も日本にいなかったので、「懐かしのフォーク特集」のような番組からお誘いがあったんですけど、出られなかったんですよ。去年、ようやくNHKさんからラブコールがあって『BS 懐かしのロック&フォーク特集』に出たんですよ。そうしたら好評で、なおかつ、僕たちも還暦を迎える年だからと、11月に六本木のスイートベイジルで一夜限りのライブをやって、そのときに「なにか新曲を歌いたい」ということで、城之内早苗さんが歌っている『この街で』という曲があるんですが、僕も好きだから歌ったら非常にウケたんですね。その次の日に昔のEMIのプロデューサーやユニバーサルさんだとか色んなレコード会社の人たちから、「上原さんまたやってくださいよ!」って言われて・・・(笑)。

--(一同爆笑)

上原:「いやーまいったな。俺はこういう立場だからもうできないよ」と言ったんですけど周りから「いいじゃない」って言われて。結局、先週これをレコーディングしたんですよ。ついでに『小さな日記』も再録して。

--オリジナルメンバーでの再結成なんですか?

上原:オリジナルメンバーです。で、実際にレコーディングしたのは二人ですけどね。これが、5月7日にユニバーサルさんから発売されます。

--代表取締役&アーティストで、ここまで大きな会社の方はいらっしゃらないですよね(笑)。

上原:いやいや、単に広く浅くなんで(笑)。

--アーティストとしてのご活躍も楽しみにしています。本日はお忙しい中ありがとうございました。

(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也 山浦正彦)

 今回のインタビューは上原さんの映像と音楽に対する熱い気持ちがよく伝わってくる内容でした。昔から何でも新しいモノが大好きとおっしゃっていましたが、旺盛な好奇心と若々しい感性がそのまま仕事に活きているのだと思います。イギリスで日本のビジネススタイルを取り入れるなど、プロデューサーとしても素晴らしい資質を持っていらっしゃいますが、お父さんとしての一面もとても魅力的な方でした。そしてフォー・セインツが再結成し、新曲『この街で』を5月7日にリリースするなど、アーティストとしても大注目の上原さん。今後のご活躍を期待しています!

 さて次回は、プロデューサー/ミュージシャン/作曲家の加藤 和彦さんのご登場です。お楽しみに!

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