第36回 宇野 康秀 氏 株式会社有線ブロードネットワークス 代表取締役社長

インタビュー リレーインタビュー

宇野 康秀 氏
宇野 康秀 氏

株式会社有線ブロードネットワークス 代表取締役社長

今回の「Musicman’s リレー」は、(株)アクシヴ代表取締役社長、千葉龍平氏のご紹介で、(株)有線ブロードネットワークス代表取締役社長、宇野康秀氏の登場です。
 24歳で人材派遣会社のパイオニア・(株)インテリジェンスを設立し、11年で上場企業に育て上げた企業家として早くから注目された宇野氏。(株)有線ブロードネットワークスの代表に就任してからのめざましい変革と躍進は周知の通りです。
 小学生の頃から事業家を目指していたという宇野氏の少年時代の夢とは?さらにはインテリジェンス成功の秘訣から有線の快進撃まで、宇野氏のサクセス・ストーリーに迫ります。 

[2003年3月26日/永田町・(株)有線ブロードネットワークスにて]

プロフィール
宇野康秀(Yasuhide UNO)
株式会社 有線ブロードネットワークス
代表取締役社長


1963年8月12日 大阪生まれ
1988年4月 (株)リクルートコスモス入社
1989年6月 (株)インテリジェンス設立 代表取締役社長就任
1998年3月 (株)サイバーエージェント 取締役就任(現任)
1998年7月 (株)有線ブロードネットワークス 代表取締役社長就任(現任)
1999年12月 (株)インテリジェンス 取締役会長就任(現任)
2000年7月 (株)ユーズコミュニケーションズ設立 代表取締役社長就任(現任)
2001年1月 (株)日光堂(現(株)ユーズ・ビーエムビーエンタテイメント) 取締役就任(現任)
2003年3月 楽天(株) 取締役就任(現任)

 

  1. 「自分は経営者になるんだ」…キッカケは小学3年生 〜鉄道会社改善案
  2. 松下幸之助、藤田田、江副浩正、中内功… 経営者に憧れた中高時代
  3. 事業家を目指して 〜明学プロデュース研究会で学んだ“組織”とは?
  4. リクルートで社会勉強 〜24歳でインテリジェンスの起業へ
  5. インテリジェンス上場の喜びを味わう間もなく継いだ有線放送 〜有線ブロードネットワークスになるまで
  6. 不気味?強烈!別宅!? 有線放送創業者の父・宇野元忠氏とは?
  7. 大衆をもっと元気に! 音楽業界が後押しを

 

1. 「自分は経営者になるんだ」…キッカケは小学3年生 〜鉄道会社改善案

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--その連携の成果は何か実りつつありますか?

宇野:成果という意味では今のところはまだ…。部分的なところではいろいろと始まっていますけどね。

--楽しみですね。ではまず、子供の頃のことなどからお伺いしたいのですが、お生まれは?

宇野:大阪です。

--やっぱり大阪有線というだけあって大阪なんですね。

宇野:そうですね(笑)。大阪の天王寺区というところです。

--南の方ですよね?動物園のある辺りですか?

宇野:区としてはそうなんですけど、その辺りではなくて天王寺区の桃谷というところです。

--何歳まで住んでいらっしゃったんですか?

宇野:19歳の時までです。大学から東京に出てきましたから。

--生粋の大阪人なんですね。まだ大阪での生活の方が長い位ですか?

宇野:そうですね。ちょうど今同じ位ですかね。

--ご兄弟は?

宇野:兄が一人おりまして、あと妹が二人です。

--子供の頃の環境はどんな感じだったのでしょうか?私たちが想像しているようなイメージの大阪ですか?

宇野:想像してらっしゃるような大阪ですね。私は生まれた場所は道頓堀のど真ん中、天王寺に移ったのは途中からなんです。だから親戚とかみんな道頓堀でお店をやっていたりして、その界隈で生活したり、遊んだりしてたことが多かったですね。

--ミナミの一帯で遊んでいたんですか?

宇野:そうですね。家の窓を開けると目の前にキャバレーがあって。飲んだくれたおっちゃんの横に何かキラキラしたお母さんみたいな人がいて(笑)。不思議な世界だなぁとか思いながら、それを見て育ったという感じですね。

--そんなど真ん中にお家があったんですね。たこ焼きを外で食べているようなごく普通の大阪の少年だったんでしょうか?

宇野:そうですね(笑)。

--少年時代の面白いエピソードなどはありますか?一言で言うとどんな少年だったんでしょうか?

宇野:すごい普通だったような気がしますよ。多少やんちゃ程度で、特に目立っていたわけでもないです。ただ今に繋がる話で言うと、その頃から会社とか事業とかはやりたいな、っていう気持ちはずっと持っていましたね。

--それは早いですね。小学校の時ですか?

宇野:そうですね。明確に意識したのは小学校の時ですね。

--それはやはりお父様の影響でしょうか?

宇野:それもあるのかもしれないですけど、むしろその頃から事業みたいなことを考えるのが好きでして…。周りも商売人だったからかもしれないですね。「こういう商売したら儲かるんじゃないか」「こんな事業やったらいいんじゃないか」とか、小学生ながらに考えてました(笑)。その部分はちょっと変な小学生だったかもしれないですね(笑)。

--小学生の頃に考えた商売というのは、例えばどんなものなのでしょうか?

宇野:小学校3年生の時に将来についての作文で、「鉄道会社をやりたい」と書いたことがあります(笑)。それは自分でもすごく覚えています。その作文を書いて、明確に自分が経営者になりたいんだと初めて自覚したんですよ。作文には「鉄道会社をやりたい」と書きましたが、「自分は経営者をやるんだ」っていうのを決めたという感じでしたね。

--それは鉄道が好きだったんですか?それとも儲かりそうだと思ったんでしょうか?

宇野:大阪に環状線という山手線みたいな電車があるんですが、電車がなかなか来ないんですよ。10分から15分位の間隔があって、これはなんとかならないんだろうかと思ったんですね。電車が10両でやってきて15分待つんだったら、その運転手をはずして自動化させて、1両ごとをもっと単位を短くすればもっと本数が増えて便利になるんじゃないか、ということを考えて。それをやりたいと思ったんです。

--すごいですね(笑)。普通の小学校3年生だと「電車の運転手になりたい」とか、その程度の考えしかないと思うんですが、いきなり鉄道会社の改善ですか…。

宇野:そう考えたんですけど、未だにそんなものは成立してないですね(笑)。繋がったまま自動のやつはいくつか出来ましたけど。

--それはかなり面白い小学生ですよね。

宇野:そんなことを考えたりはしてましたけどね。でも普段友達と遊ぶときはいたって普通だったと思います。

 

2. 松下幸之助、藤田田、江副浩正、中内功… 経営者に憧れた中高時代

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--公立の学校に行ってらっしゃったんですか?

宇野:普通の公立ですよ。私は私立に行くのがあまり好きじゃなくて、普通の友達と普通に公立に行く方がいいなぁと思って。普通の公立に行って、校則で丸坊主頭になっちゃいましたけどね(笑)。もうありがちな中学1年生で、初めてフォーク・ギターを買って、井上陽水を弾いて、みたいな感じです(笑)。

--大阪有線がどんな仕事なのかをはっきり認識したのはいつ頃ですか?

宇野:たぶん小学校1年生か2年生くらいですかね。母親と一緒に“有線放送大賞”に行って、それで「あぁ、有線ってこういうことやってるんだぁ」って思ったのを覚えています。

--でもやはり早い方ですね。そもそも中学生で事業家を目指すとは考えられないです。

宇野:まぁ、例え中学生でも子供ながらに親の後を継ぐのか継がないのかとか、そんなことは意識しはじめますよね。親が会社をやっていて、自分は次男で、自分はどうするんだろうということは考えていました。ただ自分は二代目の経営者として後を継ぐとか、そういう選択をしたくないっていうのが強かったものですから。じゃあ自分で独立して自分で事業家にならなきゃいけないな、と思ったんでしょうね。

--親の強制はなく、自由に選択させてくれていたんですか?

宇野:そうですね。親はどうなれとかそういうのは一切言いませんでしたね。ただ周りが子供に対して言うじゃないですか。「大きくなったら、お父さんの会社に入って一緒に頑張んなきゃね」とか「いずれは社長よね」みたいな(笑)。そんなことを言われるのがすごい嫌で。それに対する反骨心みたいなものが強かったのかもしれないです。

--高校は?

宇野:大阪清風高校という男子校に行きました。

--それは何か後悔していますか?

宇野:もうホント後悔しましたね。ちゃんと学校を選べばよかったと思って(笑)。すごい変な高校だったんですよ。いわゆる受験勉強のためのガリ勉学校みたいな感じで、全然面白くもなんともなかったですね。校則は厳しいし、男しかいないし(笑)。非常に面白くなかったです。高校1年生の時に受け直そうかなって真剣に考えてたくらい、学校へ行くのが嫌でしたね。学校へ行っても授業中は毎日ずっと寝てるだけで(笑)。

--心ここにあらずの状態ですね。でも事業家になる道はさらに模索して行ったわけですよね?

宇野:そうですね。

--その目標が途中で変わったことは一度もないのでしょうか?

宇野:いえ、高校時代には他に対する興味もいろいろと出始めてましたね。私は映画が好きなので、高校2年生の時には「事業家になるのもいいけど、映画監督になるのもいいなぁ」と思ってみたり…ありがちですけどね(笑)。唯一勉強で興味をすごく持っていたのが生物だったので、生物学者になって研究したいなぁとも考えましたね。高校2年生の時にはいろいろと悩んでいましたが、結論としてやっぱり「事業家になるんだ」と。

--ちなみに生物というのは具体的には何ですか?

宇野:DNAの研究をしたかったんですよ。今でもしたいんですけど(笑)。

--勉強家な部分もあるわけなんですね。

宇野:“勉強”というか“好奇心”ですよね。生命の不思議って未だに不思議じゃないですか。DNAの研究をしていくと、それが解明されてくるんじゃないかって思うんですよ。

--今の事業家としての姿に繋がるような学生時代のエピソードはありますか?

宇野:中学生ぐらいからいろんな経営者の人の本を読み始めましたね。「どういう経営者像を目指そうか」と考えたり…。松下幸之助さん(松下電器創業者)とか、とにかくそういう経営者の人の本を読みあさるというのが多かったですかね。

--それは両親に言われてではなくて自発的にですか?

宇野:そうです。ただ当然ながら家の親父の本棚にそういった本がありましたから、それを読んだことがきっかけだったのかもしれませんけどね。

--他にそのころ影響を受けたインパクトのある人物や本などはありますか?

宇野:藤田田さん(元 日本マクドナルド社長)が書いた「ユダヤの商法」とかですかね。

結果的に私はリクルートに行きますが、江副浩正さん(リクルート創業者)のことを書いた「リクルートの驚異」(綱淵昭三著)といういう本があって、単純にすごいなぁと思いましたね。だから中学時代には松下幸之助さんなどの本を読んで、高校生になるとリクルートやダイエーの中内功さん(ダイエー創業者)のことを書いた本だとかを読んでいて、ひとつひとつのメッセージを自分なりに受け止めていたつもりではありますね(笑)。

--その頃は伝記系というか、そういった書籍が中心で、いわゆるビジネス誌のようなものもご覧になっていましたか?

宇野:基本的には“ビジネス雑誌”はさすがに買わなかったですけどね。法律の本とかはよく読んでいた記憶がありますね。

--ごく一般の少年のように、例えば彼女が欲しいとか、映画を観に行くとか、そういった生活はなかったんですか?

宇野:いや、それはそれで普通にありましたよ。映画も好きですし、音楽も好きですし、物真似の遊び事のようなバンド活動をやってみたりとか。男子校だったので「誰か紹介してよ」って、合コンみたいなこともやりましたし(笑)。

--その時は坊主じゃなかったんですか(笑)?

宇野:坊主じゃないんですけどね、校則が厳しくて刈り上げしなければいけなくて。まだロングが全盛の時代なんで、短く切ってるのは格好悪かったんですよ。その時にちょうどYMOが出てきて「あ、これだ!俺もテクノカットだ!」って内心思いましたね(笑)。

--なるほど(笑)。

 

3. 事業家を目指して 〜明学プロデュース研究会で学んだ“組織”とは?

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--大学進学で東京に生活を移すわけですが、東京に出てきた時に何か大阪とのカルチャー・ショックはありましたか?

宇野:言葉が違うんだっていうことに初めて気がついて、すごいカルチャー・ショックでしたね(笑)。大阪にいる時は、標準語と大阪弁の違いをそんなに気づいていなかったんですよ(笑)。変なんですけど。何でそうだったのかわからないんですが。

--でも大阪もテレビのニュースなどは標準語ですよね。

宇野:そうなんですよね。でも大阪弁で流れてるテレビもありますし。標準語をテレビ語ぐらいにしかとっていなかったんでしょうね。

--「女言葉みたいだ」とか関西の方は言いますよね。最初は違和感があるんですか?

宇野:すごいありましたね。羽田に降りてモノレールに乗った瞬間に「それでさぁ」。え?「さぁ」とか言ってるよ、って(笑)。すごい抵抗がありましたねぇ。私の言葉は直ってる方だと言われますが、標準語に抵抗がすごいあったので、直さなきゃっていうのがなおさら強かったのでしょうね。そうじゃなかったらそのまま大阪弁喋っていたかもしれないですけど。

--何10年東京にいても関西弁を直さない人はたくさんいますよね。

宇野:そうですね。わりと関西人は直さない人が多いですよね。

--そう言えば、全然大阪弁ではないですね。

宇野:出るときは出るんですけどね。怒ると出るらしいです。自分では気づきませんが(笑)。

--大学生時代はオン・ザ・ラインの西さん同様、明治学院のプロデュース研究会でご活躍をされていたそうですが、どのような学生時代だったのでしょうか?

宇野:高校3年生の時に、自分は事業家になると決めたので、事業家になるのに大学に行く必要はないんじゃないか、とも思いました。でも何の事業をやるかっていうのを自分の中でだいたいまとめたいという気持ちと、もうひとつは自分には経営者としてやはり資質的に足りない部分があって、そういった部分を補わなければならない。だから、大学4年間は自分に与えられた経営者になるまでの猶予期間という意識でやっていこうと思いました。

当時“11PM”というテレビ番組で、東京では学生企業が華やかにやっているというのを見たんですよ。ディスコを貸し切ってパーティをやったり、企業とイベントをやったり。そういうことは大阪にはなかったので、最近の大学生は進んでいるんだなぁと思いましたね。何かそういうビジネスに近いことをやりたかったのと、もうひとつは将来自分が事業家になって、ひとつの組織を取りまとめていくために、その“組織”を学びたかったんです。それでサークルに入りました。まず最初に明治学院のプロデュース研究会に入って、それ以外にも複合サークルという団体をやったりしていました。

--学生時代のプロデュース研究会などの活動で、思い出に残っている「これは大成功した」というようなイベントはありますか?

宇野:それぞれに楽しかったんですが、思い出に残ってるっていうのは“キャンパス・サミット”ですかね。

明学と立教のプロデュース研究会で一緒に“東京プランナーズネットワーク”という、プロ研仲間みたいな団体を作ったんです。ほかにも当時はメディア系と言ってたんですが、放送研究会や広告研究会の連盟などの団体を更に合体させて、“キャンパス・リーダース・ソサイエティ”というのをやっていました。年に1回、名刺を持ってる学生をとにかく全国から集めて、大規模な“キャンパス・サミット”を開くんですよ。企業から協賛金を調達してニューオータニの大きなフロアを貸し切って、名古屋や大阪からバスを出して、すごい数の学生を集めるんです。そういうイベントは組織を取りまとめていくいい経験になりましたし、「ここまで大きくなったんだな」という達成感もありましたね。それの親分をやっていたのが西川りゅうじんさんで、彼の先輩だったのが田中康夫さんでした。

--明治学院に入学した時にはもうプロデュース研究会はあったんですか?

宇野:いえ、私が入学した1年生の時に4年生の先輩が作ったんです。本間さんっていう人が西さんと友達で、本間さんが西さんを誘って始まったのが、そのプロデュース研究会ですね。私は初代会員です(笑)。3年生はいませんでしたね。4年生と2年生が何人かいて、1年生がほとんどでした。

--プロデュース研究会に入られたのも、最終的には事業家になるという目的のためにでしょうか?

宇野:そうですね。

--それではリクルートに入社したのも事業家になるうえでの選択で、組織を学びたかったということですか?

宇野:そうなりますね。

 

4. リクルートで社会勉強 〜24歳でインテリジェンスの起業へ

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--数ある企業の中からリクルートをお選びになった理由というのは?

宇野:まさにその組織の話ですね。学生時代は様々な団体をやっていて、なんとなく大人数がまとまっていくことや、それを取りまとめる、いわゆるリーダーシップみたいなものをある程度学んだかな、という感覚でしたが、実際は「自分は企業の組織というものを何も知らないんじゃないか」と大学4年の時に思ったんですよ。だから一度は企業の組織というのを見てみたい、じゃあどこの企業が一番盗むべき組織なのかと考えると、リクルートだと思いました。当時はリクルートが組織活性みたいなこともやっていて一番のってた時代でしたから、学生ながらにいろいろな企業を見て「あぁ、ここはいい雰囲気の会社だな」と感じて、それを学びたかったんです。

--入った部署は、リクルートコスモスというマンションを売っている別会社ですよね。これは宇野さんご自身が選ばれて入社されたのでしょうか?

宇野:そうです。リクルートの内定をもらって、どこの部署に行こうかと考えた時に、不動産をやってみたかったので「コスモスに行きたいんですけど」と言ったら、「それは別会社だからダメだ」って言われて、「だったら申し訳ないですけどリクルートを辞退します」って言って。それで希望してコスモスに行ったんです。

--不動産に着目されたのはどういった理由からですか?

宇野:いろんなことがありますね。まず、会社組織を学びたかった。次にリクルートの事業で何が一番勉強になるのか考えたんです。それで、バカにしてるわけではありませんが、いわゆる就職情報誌などの広告の媒体営業をやって、何がどれだけ学べるのかなぁって思ったんですね。不動産なら建築基準法やいろんな法律から資金運用など、知識の幅が広くて勉強になるだろうなぁと思いました。

もうひとつは今の仕事もそうですが、何かを“つくる”っていうのが好きなんです。マンションをつくる、ガーデンをつくる、街をつくる…、そういう仕事をやりたいという希望もありましたね。

--せっかくリクルート・コスモスに入社したのに、インテリジェンスをつくって、あっという間にお辞めにりましたよね。結局リクルートには何年いらっしゃったんですか?

宇野:1年半ですね。

--今仰ったことを1年半で学んだということですか?

宇野:本当は3年くらいはいようかな、とは思っていたんですけどね(笑)。

--リクルートを辞めて自分で起業しようとお考えになった時はおいくつですか?

宇野:24歳の時ですね。

--遂に少年時代からの夢である事業家としての一歩を踏み出すわけですね。数あるビジネスの中から“人材派遣業”というフィールドを選んだのは、 ずっと温めていて勝算があったのでしょうか?

宇野:実はそうではないんです。学生時代もプロデュース研究会で活動をしながら、ビジネスのアイデアを自分なりに色々と考えていたんですよ。でもよく考えると自分の中のアイデアって、トレンドものが多いんだな、ということにも気づきまして。当時プール・バーが流行る前にそういう形態の店をやったらどうだろうとか考えましたが、それは長続きしないだろうし、本気でやっていくのであれば、トレンドものではなく、将来に渡って伸び続ける事業じゃないとだめですよね。そういう考え方に変わっていきました。

人材関係というのは、本音で言えばお金がかからなくて、わりと投資も必要なくできそうだな、っていう部分はありましたね。

もうひとつの理由は、これから18歳人口が激減していくという事実です。そうすると当然、企業が人を活用するという方法論になってきて、いろいろと変わっていくだろうと思いました。たぶん昔のように就職して、教育して、という時代ではなくなっていくと。これは10年間の中で確実に変わる確定した未来だったんですよ。

10年後の予測をした本とか、ああいうのが好きでよく読んでいたんですが、だいたい当たらないんですよ(笑)。でも10年後に18歳未満がこれだけ減るというのは、これは予想ではなくて事実なんだ、と思った時に「こういうこともあるんだ」と。将来が確実に読めるものがある。「この業界は絶対に読める」と思ったんです。

--当時、人材派遣会社っていうのは他にもあったのでしょうか?

宇野:あるにはありましたね。ただ多少減っていて、どちらかと言うと、原型を失っていっていた時代だったんです。「何で今更人材派遣をやるんだ」って、周りから相当言われましたよ。

--インテリジェンスを設立して最初に苦労されたことはどんなことでしたか?思惑が外れたとか、事業上想像していたのと違ったことなどはありましたか?

宇野:違ったっていうのはそんなにないですね。苦労は当然ありますけど、想像と違ったっていうのはそんなになかったような気がします。

--最初は何人で始められたのでしょうか?

宇野:最初は4人でした。

--複数の人材派遣会社がある中で、インテリジェンスが着実に業績を伸ばしていった手法というか、方法論はどの辺に着眼されていたのでしょうか?

宇野:まず人材派遣の業界自体が、いずれこうなるだろうと先を考えてやってきました。

それからもうひとつは、非常に生意気な言い方に聞こえるかもしれませんが、あまり工夫がされていない業界だなと思ったんです。例えば広告でも毎週同じような広告ばかり出していて、ただ一生懸命考えてよりいい人を集めたり、もっと考えてうまい形にしようだとか、そういう努力があまりなかった業界だったような気がするんです。わりと落ち着いちゃってるような感じですか。その中でいろんな努力をしながら知恵を入れていったら、とにかく絶対努力をしたところが勝つに決まっているという勝算みたいなものはありましたね。市場はある程度ありますから。

--他の人材派遣会社にない特徴として、どんなことをセールスポイントにしたんですか?

宇野:別段どこがセールスポイントっていうのではないですね。「やることは当たり前にやる」ということでしたから。よりたくさん人を連れてきて、よりたくさんの企業から組み合わせる。それを忠実にやるしかないですよね。特に変わったことをやったわけではないと思います。

ただ正確に言えば、インテリジェンスは人材派遣からスタートしたのではなく、新卒採用のコンサルタントから始めたんです。大手の人事部に対して、人材に対する今後の活用方法論のあり方を売り込んでいくとか、そういうことから始めたんです。ただ人を使う時に「この人どうですか」というのではなくて、「派遣はどうやって使ったらいいのか」とか、いわゆるコンサルタント営業みたいなことが出来るということが、他と違うところだったかもしれませんね。それとスピーディーに就職させるということは今でこそ当たり前ですが、システムを使ってやったのはうちが初だったのではないかと思います。

--若干25歳、社会経験もそれ程あるとは思えないその年代で、いろいろな企業に話を提案して、受け入れてもらえるところがすごい驚異に感じます。不思議ですよね。

宇野:私もそれが一番不思議ですね(笑)。それこそリクルートコスモス時代も、リクルートの名刺を持って行ったとしても1年目だとわかると「何だこの小僧は」っていう感じで返す人もいるんですよ。自分は25歳の若僧だし、社長に名刺を持って行っても相手にされないんだろうと思っていたんですけど、意外に一生懸命やっていればアポイントは取れますし、一流の企業の人が「じゃあ会いましょう」と会ってくれるんですよね。不思議でしたね。

--飛び込み営業をやってらっしゃったんですか?

宇野:飛び込み営業ですよ。

--最初はどこか大手の社長さんと仲がよくて「お前が来るんだったら俺のとこで引き受けてやるよ」っていうようなことがあったわけではないんですか?

宇野:それはもうゼロですね。

--いくら若いとは言え、無謀とも思える話ですね(笑)。どこか1カ所くらい、そういう得意先を決めてからスタートすることができたのかな、と想像していたのですが。

宇野:まぁ一緒に始めた仲間でリクルートの営業をやっていた人間がいて、「あの辺のお客さんは狙えるんじゃないか」とか、そういう戦略は多少ありましたけどね。基本的にはそれで食えるわけじゃないですから、たくさん営業に行きました。苦労するとは思いましたけど、そこの営業力に関してはそんなに不安はなかったですね。それはやっぱり学生時代の経験が生きていたのだと思います。学生時代に学生企業のようなことをやっていて、少なくとも自分たちが食うに困ることはないっていうぐらいの絶対的な自信はありましたね。

--話はインテリジェンスに戻りますが、派遣で働く人達を見つける方法というのは何か確立したものや、特別なルートがあったのでしょうか?

宇野:いえ。特にないですね。

--普通にとらばーゆに広告出したり、というところから始めたのですか?

宇野:はい。

--勇敢ですね。企業の方は若い人がそういうことをやっているのに興味を持ったとか、その若さも買ったのでしょうね。

宇野:そうだったんでしょうね。

 

5. インテリジェンス上場の喜びを味わう間もなく継いだ有線放送 〜有線ブロードネットワークスになるまで

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--破竹の勢いでインテリジェンスという会社は大きくなったわけですよね。

宇野:ええ、まぁ。伸び悩んだりしていた時期がなかったわけではないんですけどね。

--上場したのは何年目だったんですか?

宇野:結局11年目ですね。会社作った時は10年で上場しようというのを目標として掲げてたんです。それが当時の最短だったので。結果、10年目の申請が遅れて11年目の上場になりました。

--創業から10年経った時には、どんな気持ちだったのでしょうか?事業家としては次にどこに進むか、次はこうしようとか、そういったアイデアがあったと思いますが。

宇野:それはですね、そのはずだったんですけど、上場する半年前に有線の社長を引き継がなくてはいけなくなってしまいまして…。一時は私が両方の社長をやっていたのですが、やはり「社長が、有線の社長もやっているというのはダメだ」という話になって、私はどちらか選ばざるを得なかったわけです。親父も亡くなって、一端引き受けたのに、やっぱり今更というわけにもいきませんから。元々インテリジェンスの方はいずれ誰かがやっていく時代が来るのだろうと思っていましたから、今の社長に譲りました。ですから自分はそこで卒業した感はありましたね。本当は上場したらある種の達成感を味わうだろうと思っていたんですけど、その達成感を味わう前に「家が大変だ」ということになったものですから。

--今インテリジェンスの社長をなさっている方は、設立に及んだ中のお一人ですか?

宇野:そうですね、はい。

--今のインテリジェンスは順調な業績を上げてらっしゃるんですよね。社員数はどのくらいになられたのでしょうか?

宇野:グループで言うと500人くらいです。

--“大阪有線”から“有線ブロードネットワークス”に変更したそのネーミングも素晴らしいと思うのですが、“インテリジェンス”という名前を考える時もかなり考えられたんですか?

宇野:そうですね、まぁ始めはいろいろ考えていましたが、ふと「インテリジェンスっていいじゃん」って思いついたんですよ。わりと当時から使われ始めていた言葉でしたから。

--営業に入って行く時に相手が絶対いい印象を持つような名前ですよね。

宇野:頭の悪い若僧が遊び半分でやってるベンチャー企業だっていう風に思われがちだと思うので、名前の意味自体に少し重みを持たせようとはしました。

--有線は宇野さんが社長になられてから、ありとあらゆるイメージがコロっと変わったと思いますが、社名変更はその時ですか?

宇野:社名変更はそれから1年半後位ですかね。

--それまで有線を外部から見ていて「ここをこうすれば」とか、アイデアは前々からお持ちだったのでしょうか?

宇野:そうですねぇ。でも、別に自分の会社とは関係ない会社って冷たく言ってしまえばそういう気持ちもありましたよ。繋がるところで言えば6、7年位前にインターネットが出始めて、インテリジェンスでは既にインターネットを使い始めていたので、有線でインターネットをやったらすごいことになるのに、っていう風には思っていましたね。そんなことを親父に言ったことはありました。

--過去の電柱の違法使用の問題などでいろいろと大変な立場に立たれたわけですよね?その辺の問題を一気に全部処理することはすごい大改革だったと思いますが、古くから有線にいらっしゃった周りの方の反応はすんなりとしたものでしたか?

宇野:やはりそれは全く別の世界に入っていくことになりますからね。電柱の使用料も正規に払っていないとか、これを払うと当然ながら巨額のコストがかかりますし、かなりの企業改革をやっていかないと変えられないということがありましたから、急激にそういう風に変わっていくことに対しては、当然ながら必ずしもみんなが賛成ということではなかったです。

--守旧派の抵抗勢力がいたという感じですか?その辺が一番の苦労だったのではないかと思いますが。

宇野:それがそうでもなかったんです。正論としてどうあるべきかという問題ですので、そう言われれば「そうですね」っていうことになりますし。

--社名の変更は1年半後ということでしたが、それは精算した後に変更したのですか?

宇野:そうですね。就任後すぐに、社名を変えたいと一度郵政省に伺ったことがあったんですね。郵政省としてはそれを当然ノーと言える立場じゃないんですけど、「あなたの会社が本当に正常化を果たそうとしているのなら、今名前を変えるべき時じゃないと思いますよ。今やっちゃったら周囲の人も、まだ問題解決が完了していないのにごまかしているという風な理解をしてしまいますよ。本当にきれいに終わって、それで変えてもいいんじゃないですか?」みたいなことをまじめに言ってくださりました(笑)。

--いいアドバイスを受けられたんですね(笑)。それをその通り実行なさったと。

宇野:そうですね。

 

6. 不気味?強烈!別宅!? 有線放送創業者の父・宇野元忠氏とは?

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--私たちのイメージでは、有線放送は月々の使用料が売り上げになっていく会社で、それ以上でもそれ以下でもないと思っていたのですが、事業内容が一気に光ファイバーの方向に行ったのは、全て宇野さんのアイデアなんですか?それとも前からそういった計画があったのでしょうか?

宇野:会社としてはそういうアイデアはなかったので、基本的には私がやったということになりますね。

先程の7年前の話に戻るんですが、私がたまたま正月に実家へ行った際に「インターネットを有線でやったらいいんじゃないか」と父親に話したんです。当時父は60何歳だったと思うんですが、パソコンも使ったことがないのに本屋さんに行って、岩波の“インターネット”っていう本を買って読み始めたんです。それで、実際に見たこともないのに「インターネットっていうのはすごいぞ」って言い始めたんですよ。「これは世の中変わるぞ。有線のケーブルを使ってインターネットをやろう」って言い始めたんですね。 ですが、有線は当時まだ合法状態ではなかったので、通信部門を無許可でやると大変な問題になりますから、実現しなかったんです。なので、この事業は私の考えではありますが、どこかで「自分がどうなろうと、世の中のためになるんだったらやる」と言っていた父親の意志を継承しているつもりもありますね。

--一代でそこまでの企業を作られたお父様はどのような方だったのですか?

宇野:強烈でしたね(笑)。その時代の創業経営者というのは、かなり独特のキャラクターで強烈な方が多いじゃないですか。まさにそういう感じでしたね。人の言うことは聞かないで自分が正しいと思っていて、言うことが鋭いとか。怖い人でしたが、ただ見た目に迫力がある感じじゃないんです。見た目は普通のおっちゃんなんですけど、何か怖いんです。不気味な怖さでしたね。

--子供時代は遊んでくれたりもしたのですか?

宇野:全くなかったですね。実は僕もあまり子供と遊ぶほうではないんですけど、父よりはマシですかね(笑)。いつも家内にはそう言っています(笑)。

--それでは“お父さん”というより、事業家であるというような、“仕事の虫”といった感じのお父さんだったのでしょうか?

宇野:そうですね。それ以外の虫もあったみたいですけどね(笑)。家にはいなかったです。強烈な父ですよ(笑)。会社に行ってるか、別宅に行ってるか、みたいなそんな感じだったんじゃないですか(笑)。

--なるほど、たしかに強烈ですね(笑)。有線という事業を始めたきっかけをお聞きになったことはありますか?

宇野:それは直接ではなく、間接的には聞いてました。ただ何が真実かっていうのはわからないですね(笑)。

3つくらい説があるんですよ。父は大阪大学を出て、伊藤忠の関連会社に就職をするんですけど、性格が強烈ですから数ヶ月でクビになって、自分で何か仕事をしなきゃと思いながら飲み明け暮れていたそうなんです。それで、いわゆるお姉ちゃんがいるクラブみたいなところに行くと、当時はレコードしかなかったですから、30分に1回お姉ちゃんが席を立ってLP盤をひっくり返している。何でお姉ちゃんがいちいちひっくり返しに行くんだろう、これはどこかで一括して流してあげれば、レコードをひっくり返しに行かなくてすむじゃないか、と思ったらしいんですね。ここからまとめて先端化をすると発想したのが今の有線放送の始まりだ、ということを父は言っていたらしいです。歴史的に見るとその当時はもう既に北海道とかにいくつか同業が出ているんですね。ですから誰が思いついたのか「元祖は誰だ?」みたいな話で真実が分からないんですよ(笑)。

--鉄道会社をやろうと小学校の時に思われた血筋ですね。宇野さんもお父様も流行り廃りのないインフラ商売が事業として努力する甲斐があると思ってらっしゃるんですね。

宇野:そうですね。

--音楽業界には当てることしか考えていない人も多いですけどね…(笑)。

宇野:ずっと産業商売をやっていたので、当てたい願望はあるんですけどね。気持ちいいだろうなぁとは思いますよね(笑)。「当たった〜!」という意味で(笑)。

 

7. 大衆をもっと元気に! 音楽業界が後押しを

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--光通信事業は順調なんですよね?

宇野:ええ。当初の計画よりも若干出足はよくありませんでしたが、今は非常に順調にやっています。

--では、今後の有線ブロードネットワークスとしての展望をお聞かせください。何しろ宇野さんはまだ39歳ですよね。少なくとも後20年は現役でいなくてはならないと思うのですが。

宇野:何歳まで仕事をするかみたいなのはずっと考えていまして、45歳ぐらいには事業のラインからは退きたいな、っていうのは前々から思っていたんです。でも考え方によってはやろうと思えばこれから10年はやれると思うと、10年ってかなりいろんなことが出来るんですよね。ですから今後の展望というと、本当にわりと何でもやっていこうという風に思っています。 自分がどうして創業者になりたかったのか、ということを思いかえしてみると、昭和の世界を代表するような企業を創り上げていった人たちに憧れて入ったわけですから、そのレベルまでやりたいと思うんですよね。ですから、事業フィールドにはそんなにこだわらないですね。先程言ったように、将来に渡って長続きするような事業で、かつ世の中の役に立てるようなことであれば、本当に何でもやっていこうかなと思っています。

--基本的には今の事業を核として各方面に展開していくと。その中で例えばエンターテイメントを直接手掛けるということもあるんですか?先程の一発当ててみたいみたいな(笑)。

宇野:いえ(笑)。それはないものねだり的に言ってるだけです。音楽のコンテンツを作るそのものの部分に入っていくつもりはないですね。それはもう非常にたくさん私より才能のある方がいらっしゃっいますし、そこに割り込んで入ってもそれほど世の中のためになるとも思えないですし。 どちらかと言うとそういう方々のエンターテイメントや、もしくはそれに一致するものを作り上げるクリエイターの方々にとって、ちゃんとビジネスが出来てより発展するような環境を作るようなところに協力していきたいです。

--では最後に、音楽業界について思うことがあればお聞きかせ願えますか。

宇野:全体的なことで言うと、諸先輩がたくさんいらっしゃる業界なので、私が何かを言う立場ではないとは思っておりますが、我々が有線放送という事業の中から感じることはやっぱりいろいろありますね。

これは古き良き時代みたいな話になってしまうかもしれませんが、自分が子供の頃には喫茶店とか街のお店に有線があって、流行歌という音楽が流れていました。私が小学生の時分から、歌謡曲というのは大人が聴くもので、それが大衆文化だったと思うんです。そして我々はそれを支えてきたという自負があります。では現在、いわゆる大衆文化と言われるようなものがあるのかと考えると、これは非常に少なくなってしまっていると思うんです。最近はカバー曲みたいなものがその役割をしているのかもしれませんが、そういう大衆にウケるようなものが少なくなっているのかな、という気がします。そういう文化は当時の国民の元気の元になっていたと思うんですよ。テレビでもよく経済成長と当時の時代背景や流行を重ね合わせてやったりしてますよね。そういう時代を後押しできるような音楽が常にあったら、もっともっと大衆が元気になるでしょうし、そういうことを音楽業界の人でやれないのかなぁというのは最近ちょっと思ったりしています。

--たしかに仰るとおりですね。今日はどうもありがとうございました。今後のご活躍も期待しております。
(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)

幼い頃から事業家をめざし、進学、就職などすべての選択をそのための布石として歩んできた宇野氏。自ら掲げた目標を着実に実行し、現在はブロードバンド時代を牽引する旗手として注目されている宇野氏ですが、あらためてその資質と経営センスに脱帽させられたお話でした。

さて、次にご紹介いただいたのは、(株)アーティマージュ代表取締役社長、浅川真次氏です。m-flo、DOUBLEなどを抱えるヒット・プロダクションの社長として、また自身もアーティスト、DJとして幅広く活躍する浅川氏が音楽業界に入ったきっかけとは?学生時代に参加していたあの有名グループの前身バンドとは?意外なお話が次々に飛び出します。お楽しみに。

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