人々が必要とし、喜ぶものを作ることだけ考えていた〜自伝『岩は、動く。』発売記念 ぴあ創業者 矢内廣氏 インタビュー【後半】

インタビュー スペシャルインタビュー

矢内廣氏

ぴあ創業者の矢内廣氏が、創業50周年を機に初の自伝『岩は、動く。』を昨年末に発売した。自伝では生い立ちから情報誌『ぴあ』の創刊、「チケットぴあ」のスタート、幾度と経験した経営危機や発明のエピソード、そして今日までぴあを支えた人たちへの感謝の気持ちなどが率直に語られている。

今回は自伝『岩は、動く。』の発売を記念して、「Musicman’s RELAY」へのご出演から約21年を経て矢内氏にインタビューを敢行。前回の取材時に伺うことができなかったことや、この21年間にぴあに起こった出来事などについて語って頂いた。

(インタビュアー:屋代卓也、榎本幹朗 取材日:2023年2月17日)

 

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人々が必要とし、喜ぶものを作ることだけ考えていた〜自伝『岩は、動く。』発売記念 ぴあ創業者 矢内廣氏 インタビュー【前半】

 

スポティファイより20年早かったサブスクへの布石

──そして自伝でも書かれていましたが、1992年にいわゆる社内クーデターで厳しい状況に追い込まれたそうですね。それは全く想像していない事態だったんでしょうか?

矢内:していなかったですね。だから最後は稲盛(和夫)さんのところに飛び込んでいったわけでね。あとから考えると稲盛さんもよく対応してくれたなと思います。

──もし稲盛さんのところに行かなかったら、もっと厳しい状況になっていた?

矢内:当時はそこまで考える余裕はなかったですけどね。稲盛さんにはすごく叱られましたけど(笑)。

──(笑)。

矢内:でも、ぴあの取締役会議にまで稲盛さんが来てくださって、申し訳ない気持ちといいますか・・・あとになって考えてみると、とんでもないことを稲盛さんはしてくれたんだなと思います。

──今後、起業して、そういう目に遭う可能性がある後輩の経営者に「こういうところは気を付けておきなさい」というアドバイスはありますか?

矢内:僕は任せきっちゃったというのがよくなかったんだろうなと思っています。もちろんこれはあとからの反省ですよね。稲盛さんにも「君は信頼して任せたんだろうけども、任せっきりにしているのはダメだ」って言われました。

──信頼はいいけど、放任はいけないと。矢内さんはソニーの盛田(昭夫)会長とも仲良くされていたそうですね。どんなきっかけでお付き合いが始まったんですか?

矢内:僕はもともと息子の盛田英夫・昌夫兄弟と仲が良かったんですよね。英夫さんも昌夫さんも音楽業界にいましたし。その繋がりからですね。

──1983、4年頃、盛田会長に今で言う巨大サーバーみたいなところに音楽データをためておいて、そこからピックアップしてCDが焼けるようにしようという提案を持ちかけたそうですね。当時の音楽業界の人たちの感覚から言うと「なんてとんでもないことを言い出すんだ」ということだったと思うんですよ。それを大賀(典雄)さんは拒否したんですけど、盛田さんはOKだったそうですね。

矢内:ええ。やはり盛田さんは先のことが見えていた人だと思います。

──大賀さんはCDによるアルバムビジネスを作られた方ですよね。

矢内:大賀さんはCDをここまで大きくした方ですからね。確かにあの当時はレコードやテープが全盛で、CDに変わっていこうとしている、そういう時期で、確か大賀さんは大きなCD工場を作った直後だったんです。それで「まだ工場の償却が済んでないんだよ」と(笑)。まあ、その通りだと思うんですが「そういった話とは少し次元が違うと思うんだけど・・・」と心の中で思っていましたけどね。

──ちなみに盛田さんはOKで大賀さんのところに話に行ったとき、一度は検討していただけたんですか?それとも即断られたんですか?

矢内:その場で断られました。「矢内さんね、盛田にも話してもらっていい話だとは思うんだけど、まあうちの事情を話すとね・・・」って先程のCD工場の話ですよ。だから検討したというようなレベルじゃないと思います。「目の前にあるCDビジネスを大きくしなくてはいけない」「今はこっちがメインなんだ」と、そんな風に僕は受け取りました。

──レコード会社の経営者として、それを許したらどうなっちゃうんだという気持ちもあったんでしょうかね。

矢内:そうかもしれないですね。結局、ソニーはCDで覇権をとりましたけど、そのあとのサブスクには残念ながら乗り遅れた。だから、もし僕が盛田さんのところに持って行った話をやっていたならば、間違いなくネットで配信するという話にスムーズにいって、そうしたら必然的にサブスクへと繋がっていったはずなんですよね。

──ソニーが先手を打つことでスポティファイも誕生できなかった。

矢内:できなかったと思います。だってその話をしていたのはスポティファイが創業する20年以上前ですからね。

──あまりにも早すぎたと。

矢内:そのときのアイデアは「データベースの音楽データをCDに焼く」というわりとアナログとデジタルが混在したやり方だったんですが、大きなデータベースからデータを取り出すことをやり始めたら、そのあとは必ずネット社会と融合して「サブスクをやろう」という話に間違いなくなるだろうと。

──そうなると、ぴあがサブスクをやっていた可能性もあるわけですよね。

矢内:盛田さんとの話がうまく進んでいったら、一緒に乗ってやっていたんでしょうね(笑)。ソニーもCDの次に素早くサブスクへ移行できたでしょうし、ぴあも大きく変わっていたと思います。

 

雑誌『ぴあ』の“あいまい検索”を引き継いだアプリ版

──ぴあは2008年にシステムトラブルに伴う経営危機を迎えますが、このシステムトラブルの原因はなんだったんですか?

矢内:結論から言えばマネジメントができてなかったということです。本当はもっと早いタイミングで状況を把握して対応策を講じなければいけなかったはずでした。でも、それがやれていなかった、やれる体制を作っていなかったのも、これも先程の話ではないですが、僕が任せきりだったというところに起因するわけです。そして、結果的にリストラせざるを得なくなってしまい、3割もの仲間を失うことになります。

そのとき、ぴあの再建を助けるために辞めていくという非常につらい決断をした社員たちがいっぱいいたわけで、本当に申し訳ない気持ちと同時に、残ることを決めた社員もそれはそれで苦渋の決断だったんだろうなと思っています。そういう状況を経営側が作ってしまったという最終責任は僕にありますから痛恨の極みですよね。

──自伝にも書かれていたんですが、悪い情報が矢内さんまで上がってこない感じになっていたと。

矢内:やはり信頼して任せたことが任せきりになっていたという、ここでも同じようなことが起こっているわけです。

──ただ社員は信用して任せてもらえるとやる気も出るでしょうし、その加減が難しいですよね。

矢内:実はシステム開発の現場の社員たちとは、わりとよく飲み会をしていたんですよ。でも、悪い情報がその現場から上司、役員、そして取締役会もしくは私のところまで上がってくるというシステムが機能しなかったんです。

──こちらのオフィス(渋谷ファーストタワー)に来たのは初めてなのですが、矢内さんのデスクも社員のみなさんと一緒の場所に置かれていて、すごく風通しがよさそうなオフィスだなと思いました。これは2008年の反省というか、もっと風通しをよくしていかなくてはいけないというお気持ちの現れなのかなと感じました。

矢内:そうですね。以前の第36興和ビルは縦長いビルで、フロアが細切れに分かれていたので、それは解消したいと思っていました。できれば1フロアがいいなと思っていましたが、1フロアに収めるのはなかなか難しくて、結果2フロアになりました。

──そして2011年7月に雑誌『ぴあ』を黒字のまま休刊したのには驚いたのですが、『ぴあ』のアプリ版が出るのが2018年11月と空白の期間が7年間ありましたよね。私のイメージとして雑誌に代わるものが、すぐネット上に出てくるんだろうと当時思っていたので、その空白期間が意外だったんです。

『ぴあ』最終号表紙

矢内:そうかもしれないですね。当時、僕は雑誌編集に携わった連中がネットでもやれるようになってほしいと思ったんです。でも、それには時間がかかりました。周りのインターネット専門家と言われているような人たちは「インターネットの知識も技術もないのに、そんなことはできない」とみんな言ったんですよ(笑)。でも、僕は「メディアと読者が関係性を築くのに大切なのは、間に介在している技術・テクニックの問題ではなくて、メンタリティであって、それが重要なんだ」とずっと思っていたんです。でも最初、休刊になった後遺症というか、実際編集部門にいた人たちはやはりショックが大きく、そこから立ちあがってくるまでに時間を要しました。

──ネット上の『ぴあ』を作る上で、どういったことを考えられたんですか?

矢内:インターネットの時代になり、紙媒体である『ぴあ』は役割を全うしたからやめたわけですけれども、インターネットの技術を持ってきたら、すぐ『ぴあ』が作れるかといったらそんなことではなくて、やはりインターネットの技術を使った上で、雑誌『ぴあ』の「何を残さなければいけないのか」を考える必要がありました。単純な検索機能だったらグーグルがあれば済んでしまうわけですし、それって『ぴあ』がやってきた検索機能とは全然違うよね、というところから始まっているわけです。

つまり「『ぴあ』の一番コアの部分とは?」という話ですが、グーグルはワード検索で自分が観たい映画のタイトルが分かっている人にとってはワードを入れればすぐに情報が出てきます。でも『ぴあ』はそういう機能ではなく「今週末に何か面白いものはないかな」と思ってペラペラめくっていくと、映画や芝居の情報が出てきて「こんなものもやっているんだ」と出会うことができる、ある種の「あいまい検索」なんです。特定のワードをわかっている人にとってグーグルは便利ですが、そうではなくて「今度の週末になにか面白いことないかな?」と探している人には「あいまい検索」は便利なんです。

──おっしゃる通りです。

矢内:それをインターネットでやるにはどうしたらいいか、ということをさんざん議論したので時間が大分かかってしまって。「これでいけるか?」というところまできても「やっぱりダメだ」とちゃぶ台返しして、もう一度ゼロから作り直すということをやっていましたから。

──結果としてあいまい検索やパーソナライズをまとめたのは素晴らしいと思います。私は、ぴあがレコメンデーションのシステム開発をどのようにやっていくのか注目していたんですが、『ぴあ』アプリは時代に合致したと感じました。

矢内:ただ、あいまい検索って今の若い世代は全然体験していないわけですよ。

──なるほど。雑誌『ぴあ』を体感していないわけですからね。

矢内:『ぴあ』アプリをスタートするときに、極端な話、このアプリ版は中高年しか使ってくれないかもと思ったんです。雑誌『ぴあ』をわかっている世代は「アプリのほうが便利」とわかってくれるだろうけど、若い世代には「どうなんだろう?」と不安もありました。それでアプリを始めて半年ぐらい経った頃にリサーチしてみたら、意外なことにユーザーの半分くらいが若い世代だと分かって、「若い世代も『ぴあ』を認めてくれているんだな」と思い、一安心したということはありましたね。

 

きちんと事業継承することが今後の大きなテーマ

──神奈川・ぴあアリーナMMについて伺いたいのですが、これは劇団四季の浅利慶太さんに矢内さんが「自前の劇場を建てたほうがいいよ」というアドバイスをしたときから、「いつかは」と思っていたことなんですか?

ぴあアリーナMM

矢内:いや、当時はそこまで考えていなかったですね。ただエンターテイメント産業というものの構造を考えていくと、いくつかの要素で組み建っているんです。まずは興行がなければ成立しないですし、それを広めてくれるメディアが必要で、興行をやっていくためのホールとチケッティングシステムと4つぐらいの構成要素があって、それがうまくかみ合って動き始めると、ビジネスとして大きくなっていく。ぴあはそのホール以外は順番にやってきたわけです。まずはメディアから始まり、チケッティングシステムをやり、興行をやり、残っているのがホールでした。なので、このホールをどこかのタイミングで作れば、最後の1ピースが埋まるなと思っていました。

──いざ現実にホールを持ってみていかがですか?

矢内:ホールを持つことで、メディアである『ぴあ』アプリやチケッティング、興行が一体化し、全体として機能し始めているなと感じています。

──将来的にはぴあアリーナを全国展開する予定はありますか?

仙台PIT

豊洲PIT

矢内:仙台PITと豊洲PITはぴあで運営することになりましたので、直営のホールを各地へという流れではあります。そもそも、ぴあアリーナクラスのホールを民間企業が単独で運営するのは、うちが初めてなんですよね。そんなこともあり、各地でいろいろな計画を持っている方たちが視察に来たり、あるいは「一緒にやりたい」という申し入れをしてくれたり、いろいろと話は出ています。ですから、関わるベニューの数が増えていくことはあり得ると思っています。

──矢内さん個人として、これだけは絶対にやっておきたいということはありますか?

矢内:すでに仕掛かっているものもいろいろありますし、具体的なものはないですね。とはいえ僕だって今年73ですから、早くバトンタッチして、ぴあを継承していきたいわけですよ。まあ、それを受けてくれる人がなかなかいなくて、困っているんですけど(笑)。きちんと事業継承することが僕の今後の大きなテーマかと思います。

──矢内さんが次の世代に託されたいこととはなんですか?

矢内:それに関しては、ぴあコーポレートアイデンティティ(CI)という小さな冊子にまとめて社員に配りました。ですが、世の中というのは常に変わっていくわけですから、次の世代がそのCIを金科玉条のごとく守らなければいけないとは思いません。当面は50年で作り上げてきたCIをベースにしつつ、必要があれば、次の世代がそれをひっくり返してくれて構わないと、そんな風に思っています。

──CIを冊子として社員に配って、変化はありましたか?

矢内:これを配っただけではダメなのでね。その中身をみんなで共有し理解する、言ってみれば「腹に落ちる」というところまでいかないといけないと思います。でも、以前に比べれば新規事業など見ても、CIはだいぶ根付いてきているように感じています。

──きっと今回出された矢内さんの自伝も役に立つのではないでしょうか。

矢内:自伝からは CIに書いてある言葉だけじゃなくて、その背景にあるものをより感じ取ってもらうことができると思います。

──最後に、ぴあの企業ページに掲げられている「感動のライフライン」という言葉がとても素敵だと思ったのですが、これが最終的にぴあの目指すところですか?

矢内:そうですね。これからの時代、「感動のライフライン」という言葉は本当に輝いてくるんじゃないかなと思っていますし、実現させていきたいですね。

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