第188回 エディター・ライター 渡辺祐氏【前半】

インタビュー リレーインタビュー

渡辺祐氏

今回の「Musicman’s RELAY」はJ-WAVE 渡邉岳史さんからのご紹介で、エディター・ライター渡辺祐さんのご登場です。中学時代に映画や音楽などにハマり、壁新聞やミニコミ作りに勤しんだ渡辺さんは、バイトとして雑誌『宝島』編集部に入りそのまま社員に。『VOW』を始め数々の企画に携わります。

独立後も音楽、カルチャー全般を中心に守備範囲の広い編集・執筆を続ける傍ら、スペースシャワーTVの立ち上げに関わり、ラジオ・テレビへの出演など多方面でご活躍中です。現在はJ-WAVE土曜午前の番組「Radio DONUTS」のナビゲーターを担当中の渡辺さんに、ご自身の生い立ちから、紙媒体・ラジオに対する想いまで話を伺いました。

(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦 取材日:2021年11月14日)

 

中学時代にサブカル情報を伝える壁新聞を制作

──まず前回ご登場頂いたJ-WAVE渡邉岳史さんとのご関係について伺いたいのですが。

渡辺:J-WAVEで最初に仕事をしたのが実は放送作家としてで、ライターと選曲をしていたんですが、そのときは渡邉さんと面識はありませんでした。恐らく喋るようになったのは、クリス智子さんがデビューした年の翌年95年だったと思います。クリス智子さんが1週間ナビゲーターをやっていて、日替わりのアシスタントを探していたようで、僕は編集の仕事もやりつつ、テレビにも少し出演していたので、その流れでアシスタントに決まりました。

渡邉さんはその後、営業的な仕事もされ、制作に戻り、今は肩書が制作部長になりましたが、着実に実力をつけられた印象ですね。J-WAVEの歴史を尊重しつつ、新しい感覚で番組作りをしていらっしゃると思います。

──わかりました。ここからは渡辺さん自身のことをお伺いしたいのですが、お生まれはどちらですか?

渡辺:神奈川県の相模原です。音楽との関わりでいうと、小さい頃からラジオが好きで、相模原はFENの感度が一番よかったのでよく聴いていました。

──どのようなご家庭だったんでしょうか?

渡辺:父は編集者として小学館に勤めていまして、母とも職場結婚だったんですが、結婚後はいわゆる専業主婦でした。家中に小学館の漫画や本がいっぱいあったので、『少年サンデー』にまつわる単行本とかは買わなくてよかったです。

──自宅が図書館、漫画喫茶のような。

渡辺:僕にとっては漫画学校みたいな感じでしたね。当時、大人向けの漫画、例えば、白土三平さんの『カムイ伝』とかが出始めた頃で、そういった大人向けの作品と子供向けの作品が混在して家にはあったので、分け隔てなく読んでいました。

──渡辺さんはどんな少年だったんでしょうか?

渡辺:ものすごく特徴があったかどうかはわからないですが、正直な話、小中まではまあまあ成績はよかったんです。そのおかげで高校も神奈川県の進学校に進むんですが、中学ぐらいから音楽や映画が好きになり、その中でも一番影響が大きかったのがテレビで、ちょっと大人っぽい番組も観ていました。結果、中学までが学業的な全盛期という(笑)。

──(笑)。

渡辺:中学の間にすっかりシフトチェンジみたいな感じでしたね。今思うとビックリするんですが、中学3年の頃には、もう友だちと自主的に壁新聞を作っているんですよ。例えば「来週の金曜ロードショーで『イージー・ライダー』やるよ」とか、今でいうサブカル情報を同級生に伝える新聞なんですが、学校にたくさんあった模造紙にマジックで適当に線を引いて、手書きで情報を書いたり貼ったりしていました。

──それがそのまま現在のお仕事になっちゃったわけですね。

渡辺:そうなんですよ(笑)。高校時代には学内でミニコミも作っていました。ちょうどボブ・マーリーが流行った頃だったので「ジャマイカにはレゲエって音楽があるらしい」みたいなことを書いたり、友だちの原稿をガリ版で刷ったり。だから中学時代は壁新聞、高校時代はミニコミで(笑)。

──壁新聞やミニコミの評判は?

渡辺:「あいつ、なにやっているんだ」って馬鹿にされていましたよ(笑)。

──(笑)。まさにお父さんのDNAですかね。ちなみにお父さんはどんな雑誌・書籍を作っていたんですか?

渡辺:今はないですけど『ボーイズライフ』という雑誌があって。

──ああ、私読んでいました。

渡辺:その『ボーイズライフ』から『少年サンデー』に行って、あと女性向け漫画誌もやっていましたね。僕が子供の頃は漫画雑誌だったんですが、途中から歴史の全集や辞典系の編集部に移っていきました。

──硬軟併せ持った感じですね。

渡辺:そうですね。後半はわりと固い辞典系の、いわゆるコツコツ作らないといけないやつを何年もかけて作っていたようです。そういう仕事の話を小耳にはさんでは「編集って大変な仕事なんだなあ」と思っていました。会社に行ったことはないので間近で見たわけではないですが。

──でもなんとなく影響を受けていたと。

渡辺:まあ家中に本が多かったということですよね。

──すでに中学時代には大体似たようなことをなさっていたわけですからね。

渡辺:初期設定としては中高ぐらいでもう始まっていましたね。まあ下手くそな素人が作っているだけのものですけど。

 

アメリカ文化とヤンキー文化の狭間で

──学業的なピークを中学で迎え、その勢いで入った進学校での生活はいかがでしたか?

渡辺:入ったんですけど、そこから成績は全然パッとしなかったですね。しかも76〜7年当時って面白いことがいっぱいあったじゃないですか? 雑誌で言えば小さい判型のときの『宝島』や『ガロ』、あと廃刊しちゃいましたけど『ブラックミュージックレビュー』の前身だった『ザ・ブルース』とか、今まで知らなかった世界が高校で一気に開いちゃったんです。

学校は藤沢にあったんですが、当時、藤沢に新しいジャズ喫茶ができて、新しいお店でしたしマスターも若かったので、親近感もあり、そこに通い始めました。また、大和周辺には基地の町としての遊び場がまだいっぱい残っていて、黒人の米兵さんばかり集まるブラックミュージックメインのディスコとか、その近所には一晩中AC/DCばかりかかっているような白人の兵隊さんばかり集まる店もあって、そういうところも探検していましたね。

──基地の街ですよね。

渡辺:厚木には飛行場があって、キャンプもいっぱいありましたから、横須賀に戦艦が着くと海軍系の人たちもバーッと遊びにくるんですよね。上瀬谷には通信基地があって、この前の横浜市長選挙でその跡地どうするか問題になっていましたが、その通信基地というのは工科大学とかを出ているようなインテリの兵隊さんばかりで、彼らはジャズクラブに行くんですよね。そういう状況を見て「兵隊でもなんか違うんだな」「住み分けされているのか」って思っていました。

──リアルな体験ですね。

渡辺:ただ英語がしゃべれるわけじゃないので、コミュニケーションはなかなかとれてなかったですけどね。

──アメリカ文化が身近にあったのと同時に、渡辺さんの時代っていわゆるヤンキー文化全盛ですよね。

渡辺:暴走族が全盛期でしたね。200台ぐらいバイクが連なっているのとかよく見ていましたし、友達の家に遊びに行ったら、ちょっとヤンキーっぽいお兄さんがいるみたいなことは中学時代に散々経験しているので、そういった人たちとの付き合い方は大体分かっているというね(笑)。

──ヤンキー文化に慣れていると。

渡辺:そう、慣れている。ヤンキー的なカルチャーに強いシンパシーはないですが、強い嫌悪感もないというか不思議な感じで付き合っていましたね。ただ、迷惑はこうむっていましたけどね(笑)。イジめられたりカツアゲされたり、そういうことがまだあった時代です。

──そういったヤンキー文化の対局にサブカル系がありますよね。

渡辺:いわゆる文化系というやつですね。実際には運動部にも所属していましたけど。

──運動はなにをしていたんですか?

渡辺:バスケットボールを中学から高校の途中までやっていました。まあ全然うまくならないし、試合にも出られるわけじゃないし、しかも練習がキツかったので途中で辞めました。それで、なにか他に面白いことをやろうと思って始めたのがミニコミ作りです(笑)。

──先ほど高校は進学校だとおっしゃいましたが。そういったコミュニティの中でミニコミを作ったりする行為って、同級生たちの目にはどう映っていたんですか?

渡辺:うちの高校は僕と数名以外は大変頭のいい、いわゆる東大早慶を狙うような真面目な生徒ばかりだったんですよ。多少バンカラな気風としてハメを外すところはあったかもしれないですが、基本的には真面目なんです。ちゃんと将来に向かっている人たちというか、自分の人生をわざと踏み外そうなんて人はいないわけです。まず大学入学という大きい目標をみんな掲げているわけで、その中で僕のように落ちこぼれると、ほっといてくれて楽なんですよね(笑)。

──ほっといてくれる(笑)。

渡辺:「祐はこういう感じなのね」という雰囲気ができて、ほっといてくれる。まあ学校からもほっとかれましたけどね。「進学指導のしがいがない」みたいな(笑)。そんな感じでしたね。

──結局、大学進学はしたんですか?

渡辺:しました。3教科受験でいいという理由で私立しか受けず、色々落ちまして最終的に早稲田の第二文学部に受かりました。今はもうなくなりましたけど、第二文学部って当時は第一文学部の滑り止めという要素もあったので、受験当日の実質の倍率はすごく落ちているんですよ。それでなんとかセーフでした(笑)。

──とはいっても渡辺さんの世代は子どもの人数もたくさんいたでしょうし、それなりの競争率だったんじゃないですか?

渡辺:かもしれないですね。正確なところは忘れちゃいましたけど。浪人して昼間の学部に行くかどうかについては親と多少話しましたが、浪人する気もあまりなかったので、そのまま第二文学部へ進みました。

 

バイトを経て宝島社の社員に

──どんな大学生活を送られたんですか?

渡辺:大学1年の夏から東京で1人暮らしを始めました。実家からも学校へは通えたんですが、授業が夜だったせいもあって「若干遠いな」と思って、一年生の夏休みに旅館の住み込みのバイトで一気に貯めた金で風呂なしトイレ共同の安いアパートを借りました。そこからはもうずっと遊んでいましたね。この「遊んでいる」というのは、映画を二番館で観たり、ライブハウスにライブを観に行ったり、寄席に学生割引で通ったり、そういう遊びです。とにかくバイトして、ちょっとだけ学校へ行き(笑)、バイトの入ってない日は遊びに行くみたいなことを繰り返していました。

──遊ぶといってもアカデミックな感じですね。

渡辺:世間的には遊んでいるってことなんですけどね(笑)。そういう意味でムチャクチャ遊んでいました。本当に観ている数だけはそのときに稼ぎましたからね。あと紀伊国屋ホールとかで芝居を観たり。

──いわゆるカルチャー系は総なめってことですね。

渡辺:そうですね。今考えると、もちろん周りにも音楽好きで話が合うやつもいましたし、お芝居が好きってやつもいましたけど、ここまで360度外交みたいな人は少なかったかもしれないです。

──ちなみにどこで一人暮らしをしていたんですか?

渡辺:最初は学校に歩いて行けるところというので市ヶ谷の方に住んだんですが、そのあと荻窪や阿佐ヶ谷に住んでしました。そこから高円寺にはよく行っていましたね。

──高円寺なんて学生の独り暮らしにとってはすごく楽しい町ですよね。

渡辺:楽しかったですね。高校の同級生がJIROKICHIでバイトし始めたのもあってよく出入りしていました。とにかく4年間学校は行ったり行かなかったりでしたね。

──サークル活動はされたんですか?

渡辺:大学の学園祭でライブを企画したりはしていました。サックスの梅津和時さんがいらっしゃった生活向上委員会というフリージャズ・バンドのライブを学祭のときに教室を借りてやりました。それは友だち有志でなんちゃってサークルを立ち上げて、そのサークル主催ということでやって。それが大学3年のときですかね。

──ライブをやるためにサークルを作った?

渡辺:サークル主催ということにすれば教室が借りられたんですよ。そのライブの前後で生活向上委員会のマネージャーさんと知り合い、マネージャーのアシスタントのバイトをするんです。仕事には楽器運びもあったんですが、楽器の知識はないので、別にもう1人いて、そのもう一人のはのちにアミューズへ入って、サザンとかの楽器担当やるようになりましたね。

そのマネージャーは、東京おとぼけCATSやキーボーディストの難波弘之さんとかがいらっしゃった事務所を間借りしていた関係から、その事務所でも駆り出されるようになって、重いフェンダー・ローズを日比谷野音のステージに上げるとか、東京おとぼけCATSってライブの途中にスイカでベースを弾いたりするので(笑)、その汁がモニターにかからないようにブルーシートを出す係とか、黒子みたいなことをやっていました。

──いわゆるボーヤですね。

渡辺:何でも屋ですよ。「おい祐、あれやってくれ」みたいなやつです。ライブでお客さんの誘導をしたり、ファンクラブの会報誌作ったり、使いっ走り的なことはなんでもやっていて、それが音楽業界との最初の関わりです。そのあと同級生の知り合いの関係で、月刊『宝島』の編集長、といっても当時まだ30ぐらいですけど、その人から「編集部から1人いなくなるのでバイトしない?」と誘われたのが81年、大学4年のときです。

──そういう流れで『宝島』編集部に入られたんですね。

渡辺:バイトとはいえやるのは編集の仕事で、入って引継ぎが2か月ぐらいありましたけど、全くの素人で2号分ぐらい手伝ったあとに、いきなりやることになって大変でしたね。

──そうは言ってもミニコミを作っていらっしゃったわけですよね?

渡辺:いやいや、ちゃんと原稿に赤入れしてとか、ページレイアウトの感覚とか、プロの仕事は全くわからなかったです。「写植ってなに?」というところから始まっていましたから。しかも3人ぐらいの少人数の編集部だったので、いきなり担当を持たされちゃったんですよ。バイトなのに(笑)。

──『宝島』って3人で作っていたんですか!?

渡辺:当時はそうですね。結局、仕事として忙しくなっちゃったんですが、同世代の面白くて、今まで会ったこともないようなクリエイターたちに会えますから、非常に楽しかったですね。当然以前にも増して学校には行かなくなりました。

──両足どっぷり浸かった感じですね。

渡辺:はい。で、バイトを半年続けて、翌年の3月に大学を中退しました。当時の『宝島』はJICCという会社の小さな出版部門という感じで、そこのバイトですから社員なんかになれる待遇ではなかったんですが、なぜか総務部の方から「どうやら社員になれるようだ」とお話をいただき、ありがたいことに社員になりました。多分、少人数の編集部で1人いなくなると大変だ、みたいなことだったのかもしれませんけど(笑)。とにかく今の宝島社と比べたら本当に小ぶりな編集部だったので、融通が利いたのかもしれません。

 

「やってみなきゃわからない」ビートたけしが与えてくれたヒント

──当時、レコード会社にいたような人たちの間でも『宝島』はすごく注目していた媒体でした。

渡辺:本当に偶然なんですが、入社した頃の編集長、今は宝島社の取締役でいらっしゃる関川誠さんが部数を上げていったんです。言ってみれば右肩上がりになった入口ぐらいで入ることができたので「面白い」とか「これが今いいんだよね」みたいなことを、なんでもやらせてもらえたんですよね。

──ちなみに入られる前から『宝島』は読まれていたんですか?

渡辺:はい。読者でした。それで実際に入ってみて編集の仕事の面白さに気づきました。若かったですから若干生意気なところもあり「おお、これいいじゃん」みたいな(笑)。僕は就職活動をしたことがありませんし、うちの父親がたまたま小学館にいたぐらいで、他の出版社の実態は何も知らないわけですよ。

──逆に何の先入観もなく編集という仕事に入っていけたのかもしれませんね。

渡辺:そう、だからすごく宝島に向いている人生ではあったんです。その後、宝島を辞めて外の仕事をフリーでやり始めてから「出版社ってこういうものだったんだ」とやっとわかって(笑)。

──普通の出版社とはやはり違いましたか?

渡辺:いわゆる大手とは環境が全く違いますよね。音楽で言えばインディーズに近いというか。当時『ロッキング・オン』『宝島』『ビックリハウス』『ガロ』『話の特集』とか、勢いはあるけどメジャーではない雑誌って横の繋がりもすごく強くて、それぞれの編集部とも仲良くなったりしていましたし、ちょっとしたことでお使いに行かされたりとかしていたんですよ。

──横の繋がりがあったんですね。

渡辺:細かい話ですが、交換広告という制度があって、例えば1ページの3分の1とかの版下をロッキング・オン用、話の特集用、ビックリハウス用と作って、それをみんなでグルグル回すんですね。だから全部の雑誌に全部の広告が出ていて、その代わり掲載料金はかからないわけです。

──メリットはお互いにタダで広告を載せることができることですか?

渡辺:そうです。その交換広告の版下をロッキング・オン編集部に僕が届けに行って、ロッキング・オンの版下をもらってくるんです。そうすると料金が発生せず、お互いに広告が載るというね。

──当時の『宝島』の記事で印象に残っているものはありますか?

渡辺:僕が入ったときにすでにロングインタビューというその号のメインのインタビューがあって、基本的にはその人が表紙になるんですが、例えば、桑田佳祐さんとか音楽系が多かったんですよ。もちろん誌面には他の情報も出てはいるんですが、やはりロングインタビューに出てくる人というのは基本的に音楽の人が多かったんです。当時サザンはすでに売れていましたし、アンダーグラウンドな存在ではなかったですが、通常『宝島』では他のバンドとは違うエッジを持っているような人を取り上げていました。

それで編集長から「ロングインタビューをやりたい人の名前を出せ」と言われて、当時漫才ブームのすぐあとだったので、企画書に「ビートたけし」って書いていたんですよ。タモリさんも書いていたかもしれないですけど。そうしたら編集長が「無理だよ。テレビに出ている人気者は出ないことが多いんだよ」って1回突っぱねられたんですが、「まあダメ元で電話してみな」って言ってくれたんです。

当時たけしさんは太田プロ所属だったので電話をしたら、だいぶ年上のマネージャーさんは『宝島』の「た」の字も知らないわけですよ。「宝島? 知らないねえ。どういう字? 宝に…ああ「宝石」さん?」って言われて「いや、『宝石』じゃないんです。似ていますけど」みたいな(笑)。

──(笑)。

渡辺:そんな感じですよ。大人の世界では『宝島』は全然知られていない。

──知名度なし。

渡辺:なしですね。「『宝石』だったらすぐに取れたのか…?」ってぐらいの感じだったんです。ところが、その話がたけしさんに伝わって、たけしさんは「『宝島』だったら出たい」って言ってくれたんです。

──素晴らしいですね。

渡辺:でも、ものすごく売れっ子ですから時間がないので「楽屋に来てくれ」と言われて、ライターだった加藤芳一さんと行ったんですが、出番が来るといなくなっちゃうわけですよ。それで、戻ってきて、また出番が来ると出て行っちゃうから、15分ずつぐらいしか取材できなくて、全然ロングインタビューの体を成さなかったんです。そうしたら、たけしさんから「お前ら、これ仕事になってねえだろ?」って言われて「はい、その通りです」と正直に答えたら「俺のオフって今度いつだ?」ってマネージャーさんに聞いてくれて、たまたま夕方から空いている日があったので、飲みに連れて行ってくれたんです。

──おおー。

渡辺:結局そこで2時間インタビューできたんですが、そもそも「あんな売れっ子、うちの雑誌には出てくれない」という基本的なことすら僕は知らなかったわけですよ。出版界や放送業界の常識がないから「え、そういうものなの?」みたいな(笑)。で、たけしさんの取材は忙しすぎて15分ずつしか時間が取れないんだということもやってみて初めて分かったわけです。

──でも、取材を受けてもらえたし、後日、2時間もいただけたわけでラッキーですよね。

渡辺:そうなんです。しかも飲みを奢ってもらえてね(笑)。つまり「やってみないとわからない」ということが、そのときに3つ4ついっぺんに起きたんですよね。それはすごく覚えています。なんかそういうことの繰り返しでしたね。メジャーな雑誌、例えば『POPEYE』や『Hot-Dog PRESS』が恋愛の特集をやっている。しかも、セックスの特集をやっていてこれがウケているようなので、『宝島』でもやろうということになって、僕も参加したんですよ。「で、セックスの特集ってどうやるの?」って感じだったんですけどね(笑)。

──その特集なんとなく覚えています。

渡辺:それが良い出来か悪い出来かと言われれば、多分、そんなに出来はよくないんですけど、『宝島』らしさはあったようで結構評判は良かったんです。それも「やってみないとわからない」ことですよね。

──渡辺さんのそういったチャレンジ精神はビートたけしさんが与えてくれた?

渡辺:与えてくれたというかヒントをくれましたね。やってみなきゃわからないんだ、と。あと人ってちゃんとこっちを見ているんだなというか、機械的に「この雑誌には出る、出ない」「この番組には出る、出ない」とやっているわけじゃなくて、中身を見ているんだということに気づきましたね。

 

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