第167回 サックス奏者 / 作・編曲家 本多俊之氏【前半】

インタビュー リレーインタビュー

本多俊之氏
本多俊之氏

今回の「Musicman’s RELAY」は鳴瀬喜博さんのご紹介で、サックス奏者 / 作・編曲家の本多俊之さんのご登場です。中学1年で手にしたフルートを皮切りに音楽にのめり込んでいった本多さん。楽器をサックスに持ち替え、大学生に混じってジャズのサックス奏者として腕を磨き、大学在学中の1978年、若干21歳でアルバムデビューされます。また、作・編曲家としても、映画『マルサの女』に代表される伊丹十三監督作品の音楽や、テレビ番組『ニュースステーション』のオープニングテーマなど、TVドラマ、CM、映画など数多くの作品を手掛けられました。近年は吹奏楽や室内楽など新たな世界を開拓され、東京藝術大学 非常勤講師として後進の指導にもあたる本多さんにお話を伺いました。

(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)

 

音楽より長い恐竜ファン暦

──前回ご登場頂いた鳴瀬喜博さんと出会われたきっかけはなんだったのでしょうか?

本多:私は20代の最初の頃にBURNING WAVEというバンドをやっていたんですが、そのバンドにいたパーカッションの人が鳴瀬さんと知り合って、それで「鳴瀬さんというすごく面白い人がいる」と誘われて、六本木ピットインで一緒にセッションしたのが最初だと思います。

──六本木ピットインありましたね。

本多:そのあとに、つのだ☆ひろさんがセッション・グランプリというバンドを作ったんですね。メンバーはベースが鳴瀬さん、ギター 山岸潤史さん、パーカッション PECKERさん、オルガンは他界したラッキー川崎さん、それとキーボードがホーン・スペクトラムの奥慶一さん、そしてサックスが私というバンドで、そこから鳴瀬さんとやる機会がかなり増えました。それが83、4年頃でしょうか。

──その頃の鳴瀬さんの印象は?

本多:ものすごく音がデカい人だなと(笑)。「なんて派手なパフォーマンスなんだ!」ということと同時に、すごくお客さんを喜ばすプレイヤーだなと思いました。鳴瀬さんってどんなときでも自分に持っていきますから、そのエネルギーたるやすごいなと感心しました。音のデカさは今でも変わってないですね。いや、多分、今が一番デカいんじゃないかな(笑)。

──ここからは本多さんご自身のことをお伺いしたいんですが、お生まれは東京ですか?

本多:そうです。三鷹です。

──どのような幼少時代でしたか?

本多:私は一人っ子なんですが、小さいころからピアノを無理やり習わされ、小学校6年頃までは習うも全然モノにならなかったんですね。それで中学受験をして、中学から大学まで成蹊というお気楽コースのある種典型みたいな感じで(笑)。

──ピアノは誰の意志で習わされたんですか?

本多:父(ジャズ評論家の本多俊夫氏)です。父はラジオDJになる前はベース弾きで、進駐軍のキャンプでジャズを弾いていたんですが、当時「ベースを弾いています」って言うと「クラシックですか?」って聞かれ「ジャズです」って言うと「あっ…」っていう反応がすごく多かったらしく、それが嫌だったみたいなんですね。だから、私にクラシックを習わせたかったんじゃないかと思うんです。父自身もクラシックを1回習いに行ったみたいなんですよ。でも「こんなんじゃ駄目です」って言われて、喧嘩してすぐ辞めちゃったみたいです(笑)。

──でも小学6年生までやったということは、それなりに頑張っていたんじゃないですか?

本多:いや、幼稚園から小学6年生までやってツェルニーの100番が終わらなかったんですよ。すごいでしょこれ(笑)。それで中学を受験するころに「これは駄目だ」と父が諦めたんじゃないですかね。

──ちなみに小さいときから怪獣がお好きだったそうですね。

本多:いや恐竜です! 怪獣じゃないです(笑)。そこのところ大事ですからね。恐竜は幼稚園のころからずっと好きです。

──失礼いたしました(笑)。恐竜が好きになったきっかけはなんだったんですか?

本多俊之氏

本多:好きになったきっかけは白黒の映画『キングコング』ですね。それを幼稚園のときにおばあちゃんと偶然テレビで観たんですよね。その後、ちょっと上のいとこが山川惣治さんの『少年ケニヤ』を持っていて、まだ字は読めなかったので読んで聞かせてくれたんですが、4巻と5巻のところに恐竜が出てくるんですよ。そこでハマっちゃったんですよ。

昔、日本では恐竜の化石はあんまり出ないと言われていて、恐竜映画はあんまりなくて、『ゴジラ』とか怪獣映画になっちゃうんですよ。でも、外国の映画では、昔から恐竜が出てくる映画がいっぱいあるんですよ。『恐竜100万年』や『恐竜グワンジ』、『キングコング』もそうですね。『ゴジラ』も観に行ったんですが『やっぱり恐竜の方が好きだ』と言うと、母親が親バカなもので、海外の映画を観に連れて行ってくれたんですよ。そもそも特撮の方法が全然違うんですよね。『ゴジラ』は着ぐるみですから、スタイルが人間に似ちゃう。でも向こうの恐竜映画は「ストップモーション」と言って、精巧な人形を作って1コマ1コマ動かす。

──要するにアニメと同じ?

本多:そうです。「モデルアニメーション」と言うんです。だから前脚が本当に小さいし、後ろ脚も逆間接になっている。この逆間接は人間が入るとできませんから。そのリアルさに、子どもながらに感動したんです。

──もしかして音楽より恐竜ファン暦の方が長いですか?

本多:全然恐竜のほうが長いですね。

──恐竜の話題を共有できる人は周囲にいますか?

本多:大人になった今のほうがいますね。『恐竜倶楽部』というクラブがあって、「俺はティラノが好きなんだよ」って言いながら酒を飲んだりしている変わった団体なんですけど、そこに行くと本当にオタクだらけですごいです。

私なんか知識とか足元にも及ばないです。メンバーには歯科医の方などもいるんですが、その人と一緒に博物館へ行くと「あの上の顎、あっちから何番目の歯はおかしい!」とか言うんですよ。「あれはあり得ない」って。話に全然ついていけない。歯医者さんの材料でレプリカみたいな、精巧な恐竜の歯を作っちゃうし、すごいです(笑)。

──そのクラブに入っているだけでも相当すごいです(笑)

 

家にあったフルートで「レットイットビー」をカバー

──やはりジャズとかいっぱい家で流れていたんですか?

本多:はい。家にはレコードの見本盤がいっぱいありました。それで毎日耳に入っていましたね。ただ、小学校の頃にアート・ブレイキーとか「モーニン」とか好きにはなれなかったですし、聴こうとも思わなかったですね(笑)。

──ただ鳴っていた。

本多:そう、ただ鳴っていました。小学校高学年の頃にベンチャーズが流行ったんですよ。それで「勝ち抜きエレキ合戦」とか観ていましたし、学校ではみんなでホウキを持って「テケテケテケテケ」ってやっていましたね。あとグループサウンズのスパイダースやタイガースとか、そういうのはテレビで観ていましたけど、音楽には直結してないんじゃないでしょうかね。

──恐竜好きは置いておいて、ごく普通の子どもですね。

本多:あとプラモデルは好きでしたね。恐竜だけではなくて、第二次世界大戦の戦闘機も作っていました。スピットファイアとメッサーシュミットとか。ちゃんと塗装して、熱した針で機関銃に打たれた跡を空けて、焦げた跡もつけて。今でも時々恐竜のガレージキットは作っています。

──中学から成蹊に進学されたとおっしゃっていましたが、成蹊を選んだのはご実家から近いからですか?

本多:そうですね。まあ親が選んだんですけど。家は三鷹でしたから成蹊にはチャリで行っていました。それで、ちょうど中学に上がるか上がらないかのときに、偶然ミュージカル『ヘアー』の「アクエリアス」という曲を聴いて好きになったんです。「かっこいい曲だな」と思いまして。

──「アクエリアス」はかっこいいですよね。

本多:思い出しましたが5歳のときに、自分からせがんでサントラ盤を買ってもらったんです。それはハワード・ホークス監督、ジョン・ウェイン主演の『ハタリ!』という映画のサントラでした。

──西部劇ですか?

本多:西部劇じゃないんですよ。舞台はアフリカで、サーカスに猛獣を生け捕りして送ることを職業にしている荒くれ男人たちがいて、それを束ねているのがジョン・ウェインで、格好いいんですよ、ジープにのってシマウマとかサイを追いかけて。当時はCGがないですから、2か月ぐらいタンザニアかなんかでロケをしたそうです。

多分試写会の券を父が持っていたんですよね。それで「連れていってくれ」って言ったら「お前はすぐに寝ちゃうから駄目だ」って言われて(笑)。それでも諦めきれずに無理に頼んで母に連れて行ってもらって、観たら目が爛々となっちゃって。音楽はヘンリー・マンシーニで、ものすごく格好いいパーカッションが入っているんですよね。

──5歳のときですか。

本多:5歳。それで公開になってからも4回ぐらい観に行っています。それが1番最初に好きになった音楽で、そのあとかなり経ってから「アクエリアス」ですね。それで偶然、家にある見本盤の中に、『ヘアー』の楽曲をトム・スコットというサックスプレイヤーがカバーしているアルバムがあって、それを偶然聴いちゃったんですね。

──『タクシードライバー』の人ですか?

本多:そうそう!あんなに有名になる前です。「アクエリアス」とか吹いていて「格好いいな」と思って。あとジャズのフルート奏者が「レットイットビー」を吹いているレコードもあって、すごく好きになっちゃったんですよね。

それで中学1年のときに、音楽の授業で「夏休みが明けるまでに、なんでもいいから曲を練習してきなさい」と宿題が出たんですよ。1人でもいいしグループでもいいというので、みんなは歌を歌ったりリコーダーを吹いたりするんですが、私はレコード仲間たちと「なにか格好いいことやりたいね」と話をして、その「レットイットビー」を聴かせたら「いいじゃん!」と。

ちょうど家にフルートがあったので「じゃあ俺フルート吹くからさ」って、全く吹けないんですけど(笑)。「お前ピアノ、お前小太鼓な」とか言って「レットイットビー」を見よう見まねでやったんですよ(笑)。今考えると中1でよくできたなと思いますけどね。

──フルートは独学ですか?

本多:いや、家の近所にシャープス&フラッツのアルト奏者 前川元さんという方が住んでいて、その頃ちょうど父がシャープス&フラッツのコンサートで司会をやっていた関係で、「フルートを吹くんだったら、すぐ近所に前川さんという人が住んでいるぞ」と父に教えてもらって、「この『レットイットビー』のメロディだけでいいから夏休みの終わりまでに吹けるようにしてください」って頼みに行ったんです(笑)。それでなんとか形になって発表したら、女子たちにめちゃくちゃ受けたんですよ。それでやめられなくなったんですね(笑)。

──動機がわかりやすいですね。

本多:わかりやすいでしょう?(笑)

──「『枯葉』1曲だけピアノで弾けるようにしてくれ」ってピアノ教室に来るおじさんみたいな感じですね。

本多:まさにそうです。一緒にやった仲間とは未だに交流があって、先日も同窓会のときにフルートで「レットイットビー」やりましたよ。

 

ジャズ研の大学生との交流からサックスに転向〜高校1年でピットインの舞台に立つ

──サックスとの出会いはいつだったんですか?

本多:フルートは夏休みのそれだけでもちろんやめようと思っていたんですが、演奏するのが面白くなっちゃって、他のレコードを聴いては吹いていたんです。家って父のファンの人が結構入り浸っていたんですが、今みたいに玄関に鍵を閉めたりしていないので、父がいなくても勝手に入ってきてレコードを聴いたりしているお兄ちゃんたちがいて、そういうお兄ちゃんたちはやっぱり楽器をやるわけですよ。

それで父が早く帰ってきたりすると、父がベースを弾いてセッションが始まったりするんですね。小学校の頃は音楽に興味なかったですから関心がなかったんですが、いざ自分が楽器をやりはじめちゃうと、「またあのお兄ちゃんギター弾いている」ってすごく気になっちゃうんですね。それで、そのお兄ちゃんの前でフルートを吹いたのかな? そうしたら「すごいじゃん」って褒められたんですよ。人間って褒められるとやはり嬉しいもので、ますます演奏にのめり込んで、そのお兄ちゃんたちと付き合うようになったんですよね。

──ミュージシャン同士として付き合うようになった?

本多:いや、そこまでは。大学のジャズ研とか合宿に行くことがあったら一緒に連れていってもらったり(笑)。成蹊の制服を着て、青学のジャズ研に入り浸っていたときもありました。で、そういう環境にいると「フルートもいいけど、やっぱりジャズはサックスだな」と思うんですよね。ちょうどその頃チック・コリアの『リターン・トゥ・フォーエヴァー』が出た時期で、「ラ・フィエスタ」という曲のソプラノサックスを聴いて「素敵だな」と思って、中学3年からサックスに変わりました。

──サックスはご両親がすぐ買ってくれたんですか?

本多:いや、最初は前川さんに借りていました。前川さんは何本も持っていますから。それで前川さんのお宅に吹きに行って、そこでは結構ちゃんと教えてもらいました。だから最初のサックスの師匠は前川さんなんですよね。実はフルートも親に無理やりクラシックを習わされに行っているんです。峰岸壮一さんという日本フルート協会の会長というすごい方が先生で、その人と父が知り合いだったんですよね。

それでフルートをがっつり習いに行っていたのが中学2年からで、習っている最中に峰岸さんに内緒でサックスを始めて。そうすると全然くわえ方が違うから、フルートの音も変わっちゃうんですよ。それで「本多君、なにか始めたでしょう?」って(笑)。「バレた!」と思って「はい、サックスを始めました」と言ったら「僕のところでやる気があるんだったら、サックスをやめなさい」って言われて、悩んだ挙句「すみません、サックスをやります」と言って、フルートは辞めちゃったんです。ただ今でも峰岸さんとは交流があって、去年もお会いしに行っています。

──サックスとフルートって両立できないんですか?

本多:ジャズではやるんですよ。フルバンドはサックスの人が持ち替えをやるんです。でもフルート本来の音がしていませんし、本当はやっちゃいけないんです。

サックスはリード楽器ですから。リードを震わせるわけじゃないですか。対して、フルートは唇で音を出すわけで、どちらかと言うとトランペットとかの方が近くて、サックスやクラリネットとの持ち替えは絶対駄目なんです。だからジャズのフルバンドでマルチリード奏者みたいに持ち替えているのは悪しき習慣ですね。

──本多さんは最初がソプラノサックスだったんですか?

本多:そうです。アルトはそのときまだやっていないです。フルート、ソプラノ、そしてアルトとなるわけですね。だから普通とは逆から来ているんですよ。

──確かに最初はアルトから始めて、メインの子がソプラノを持たせてもらったりしますものね。やっぱり1番目立つじゃないですか。

本多:ソプラノは目立ちますね。ただ小さい楽器になればなるほど音程感が難しいですね。これは多分人間の耳の特性なのだと思います。例えば、ベースよりバイオリンの方が音程が悪いと気になるでしょう?だからソプラノサックスはピッチコントロールが難しいんです。

──高校時代はもうサックスにどっぷりですか?

本多:そうですね。高校に入っても、まだ青学のジャズ研のお兄ちゃんたちとは付き合いがあって、ピットインの朝の部のオーディションを受けに行くと言い始めたので「混ぜて!混ぜて!」と言って、一緒にオーディションを受けにいったのが高校1年です。ピットインって2つあったのご存知ですか?

──新宿と六本木ですか?

本多俊之氏

本多:いや、その前に新宿に2つあったんです。新宿通りにもう1つピットインがあって、今はもうないんですが、ランク的に言うと、新宿通りのピットインの昼の部、夜の部、それで今も残るピットインがそのとき3部制で朝、昼、夜って段々ランクアップしていくんですよ。それで、この新宿通りのピットインの夜の部のオーディションを青学の人たちと受けに行って、めでたく合格して、高校1年のときにライブをやらせてもらったんです。

でも、高校1年のときに新宿通りのピットインがなくなっちゃったので、お兄ちゃんたちに「もう一つのピットインの朝の部に出させてくださいって言ってよ」ってお願いしたんですが、「お前が言ってこい」と言われて(笑)、意を決して「出させてください」ってお願いしに行ったんです。そうしたら「高校生なの?」と聞かれて「はい」と答えたら「うーん…じゃあいいよ」って。

──それはすごいですね。

本多:生意気ですよね。「高校生なので日曜日しかできません」とか言って。それで日曜日の朝にやらせてもらったのが現ピットインでやらせてもらえるようになった最初ですね。そのときの従業員の方たちがまだいらっしゃいますからね。だから全然頭が上がらないですよね(笑)。本当にガキンチョだったから。

──ピットインって朝からやっているんですか?

本多:今は昼の部と夜の部で、昼の部は14時からですね。

──その昔は朝でも客が来たんですか?

本多:来ないですよ。12時から始まるんですが、お客さん2人とかそのぐらいで、ギャラが500円出れば御の字。ギャラが出なかったら赤字ですよね。でも不思議なものでみんな出たがるんですよね。役者さんとかと一緒ですよ。

──金のためじゃない。

本多:そう(笑)。本当にもうマインドコントロールみたいなもので、やらなきゃみたいな・・・

──ピットインには今も出続けているわけですよね。

本多:今でも出ていますね。11月の終りに3日間やります。今でも「やんない?」って言われるとやっちゃうという(笑)。

──高校にしてプロですね。

本多:「プロ」って定義が難しいんですよね。私はズルズルいっちゃったクチなんですよね。まあ鳴瀬さんもそうかもしれないですけど(笑)。「はい、ここからプロ!」っていうのがどこからなのかわからないです。例えば、アマチュアでやっていた人が決心して会社を辞めて演奏活動一本にしたら、そこからプロかもしれないですよ。でも我々のように学生からやっていて、そのままズルズル来た身からすると、これがよくわからないんですよ。

 

ミュージシャンになることに最後まで反対だった父

──ピットインの朝の部に出るようになってからは?

本多:ピットインの従業員のお兄さんやお姉さんと知り合いになっちゃって、今度は学校の帰りにジャズ研じゃなくてピットインに入り浸るようになっちゃうんですね。自分が出る日じゃなくても制服で行って。

学校で「お前、ジャズ喫茶みたいなところに行っているの?」と言われたんですが「ジャズ喫茶みたいなところ」という感覚がそのときはわからなかったんです。こっちはミュージシャンと会いたいし、お兄さん、お姉さんと会いたいだけなのに「ジャズ喫茶みたいなところ」という不良感が理解できなかったんですね(笑)。先生にも「君はジャズ喫茶みたいなところに行っているのかい?」って言われるんだけど、何も悪いと思っていないですから「はい、行っています」って。だって行くとスゴい人たちと会えるわけですからね。

──普通の学生にとって図書館や塾に行っているみたいな?

本多:そうなんです。だって朝の部が終わって残っていると昼の部のランクのやつが入ってくるわけでしょう? それが終わって夜までグダグダいると、今度は渡辺貞夫さんたちが入ってきて、知り合いになっちゃうわけです。「まだいたの? おはよう」なんて言われたらもう嬉しくて、嬉しくて(笑)。で、そのうちに「1曲吹く?」とかなるわけですよ。もう天にも昇る気分ですよね。そうすると朝の部をやりながら昼の部のバンドもやるようになり、昼の部もバンドをやりながら夜の部のバンドもやるようになって、一時7個くらいバンドをやっていました。青春ですね(笑)。

──まさに音楽漬けの日々ですね。

本多:どっぷりですね。それで随分後になってからですね「ジャズ喫茶みたいなところ」のニュアンスが理解できたのは(笑)。

──それだけ早熟だったから、21歳でデビューアルバムを出せた?

本多:でも、渡辺香津美さんは17歳ですからね。あの頃はみんなデビューが早いんですよ。香津美さんには今だから冗談めかして言いますけど、私が13歳のときに香津美さんは17歳でデビューアルバムを出しているわけでしょう? 4つ違いって射程距離ですから「ヤバいな、こんな人がいるんだ」と思いましたね。20歳を越えると結構お兄さんですけど、17歳でアルバムを出すギタリストがいるっていうのは結構燃えました。しかも父が「お前な、渡辺香津美っていうのはスゴいぞ!」なんて言うから「クソーッ!」って(笑)。力入りましたね。

──ちなみにお父様はミュージシャンになることには賛成だったんですか?

本多:面白いんですけど、父はものすごく反対だったんですよ。もう最後まで反対でした。大学生のお兄ちゃんと一緒にピットインに出るときは「面白いじゃないか」という感じだったんですが、段々いろいろなバンドに誘われるようになっていくと「プロでやっていくのか…?」という感じになり、大学の頃、ツアーをやるバンドにも入っていたので、その頃には「もう辞めろ」っていう風になりましたね。

──それはなぜですか?

本多:結局、自由業のつらさっていうのは父本人が1番わかっていたんですよね。父もミュージシャンをやっていたんですが、一念発起して大学に行って、途中で仕事を辞めちゃって学校に戻った時期があるみたいで全く収入がなくなり、そのときは母が面倒を見ていたみたいなんですが、そういう経験があるので「音楽は遊びでやるのが1番幸せなんだよ」と。今になると「そうかもしれないな」って思いますけどね(笑)。

──いや、お父さんがやりたかったことを息子である本多さんが果たしたんじゃないですか?

本多:そう思いたいですけどね。結局きちんと許されないまま父は亡くなってしまいましたね。それこそピットインにいると「お前帰ってこい」って言われましたしね。

──ライブを観に来てくれたりとかは?

本多:ピットインには1回も観に来たことはないですね。

──1回もない!?

本多:ないです。晩年にジャズフェスで一緒になったことはありますよ。司会をやっているのが父で(笑)。相当やりにくそうでしたけどね。「渡辺香津美!…本多俊之…」って(笑)。

──(笑)。

本多:ジャズフェスで演奏前から酒を飲んじゃって酔っ払っていると、父親に「息子さん、ベロベロになっていますよ」ってチクる人がいて、寝ちゃっていたら「お前、俺の顔に泥塗るんじゃねえよ!」なんて言われたり(笑)。まあ何回かジャズフェスで会いましたね。

今、ステージパパ、ママが多いですけど、我々のころは反対されるのが当たり前でしたから。だから今のようにあんなに親御さんが応援して「大丈夫なのかな?」って逆に心配しちゃいますよね。一概には言えないですが、恋愛も障害があるから成就するということで(笑)、「愛し合いなさい!」なんて言っていてどうなるのかなと。

──今まで結構ミュージシャンの方にインタビューさせていただいていますが、最後までお父様が認めてくれないみたいな人はほとんどいないですね。大体途中から応援してくれるみたいになるんですが。

本多:もちろん心の中では応援していたのかもしれないですが、最後に出てくる言葉っていうのは「俺は知らんよ」っていう感じでしたから(笑)。

──頑固ですね。

本多:頑固ですよ。だから父の同世代のミュージシャンに説得をしてもらったりね。「あんただって同じだったじゃないの」って言うんだけど「俺は知らん!」って(笑)。母親が「いいじゃないの」って言うと「なにかあったらお前のせいだからな」って言って(笑)。

──お父さんが音楽やジャズの環境を与えてくださったのかとばかり思っていました。

本多:レコードはいっぱいありましたし、音は鳴っていたので環境は与えてくれましたけど、最終的には「やめなさい」でしたね。

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第167回 サックス奏者 / 作・編曲家 本多俊之氏【後半】

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