第166回 ベーシスト 鳴瀬喜博氏【前半】

インタビュー リレーインタビュー

鳴瀬喜博氏

今回の「Musicman’s RELAY」は野呂一生さんのご紹介で、ベーシストの鳴瀬喜博さんのご登場です。大学在学中からディスコを舞台に演奏活動を始めた鳴瀬さんは、その後、カルメン・マキ&OZへの参加を皮切りに、Charとの出会いからスモーキー・メディスン、そして’75年 金子マリ&バックスバニーを結成。同時にスタジオミュージシャンとしても活動を開始します。そして’90年カシオペアに加入後も、代名詞であるチョッパー奏法と多弦ベースを携え、現在も数多くのセッションやライブで大暴れしている鳴瀬さんに、50年にも及ぶミュージシャン生活を振り返って頂きつつ、カシオペアでの活動そして現在まで、たっぷり語って頂きました。

(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)

 

言うことを聞かないお調子者の末っ子

──まず、前回ご登場頂いた野呂一生さんとのご関係からお伺いしたいんですが、もうずいぶん長いお付き合いになりますよね。

鳴瀬:長いんだよ。最初の出会いは77年のヤマハのコンテスト「イーストウエスト」で、俺と四人囃子の岡井大二が渋谷エピキュラス大会の審査員だったのかな。そのときのイーストウエストはまだ呑気で、審査員席にマイクがあって、1バンドずつ講評していたのよ。そのあとの大会はどんどんバンドが多くなっちゃって、パッパパッパやったんだけど。

あの頃の若いバンドは「俺たちがロックだ」みたいな感じで、RCとかいろいろやっていたんだけど、インストバンドっていなかったんだよね。それでカシオペアが出てきて「インストやります」って言って、しかもオリジナルでね。それで興味深く聴いていたんだけど、すごく上手くて、曲もいいし講評もよくて、結局1位になったのかな? それで「もう1曲やれよ」って言ったんだよね。

──アンコールをリクエストした?

鳴瀬:そうそうコンテストでね(笑)。「もう1曲なにかやって」って言ったら野呂が「曲がないんで、同じ曲をやります」とか言ってね。

──77年ということは、野呂さんが19か20歳ということですよね。

鳴瀬:若かったよね。そのあとの中野サンプラザの決勝大会も審査員で行っていて、野呂がギターの個人賞を獲ったんだよね。それで終わったあとにカシオペアの連中と会えて「よかったよ」とか話をしたな。そこら辺から野呂を知ったんだけど、俺はバックスバニーをやりながら、インスト曲をやりたくて「びっくりセッション」というのを始めようと。そのときギターで野呂を呼んだの。

あとで聞いた話なんだけど、そのとき野呂は「バックスバニーの鳴瀬さんから誘われたんだけど、どんな人なんですか?」ってみんなに聞いて回ったらしいんだよね。そこでみんなが「あいつは駄目だよ」と言っていたら、今の付き合いはないわけだよね。だから一応みんな「いいんじゃないの?」と言ってくれたんだと思うんだけど(笑)。

──(笑)。野呂さんは最初に見た瞬間から圧倒的な存在だったんですか?

鳴瀬:うん、すごく上手かった。俺の周りには山岸(潤史)とか、OZの春日(博文)とか、竹田和夫とかさ、すごいギタリストがいっぱいいたんだけど、奴らとはちょっと毛色が違うというか世代が違うから。野呂はジャズもかじっていて、ステージでソロギターとかいろいろやったりしていて、そういうのがすごく新鮮で「わあ、こいついいな!」と。そんな長い付き合い。

──鳴瀬さんにとって野呂さんは友達であり後輩であり、バンドのリーダーっぽい立場でもあり・・・

鳴瀬:いや、カシオペアに関しては、野呂は完全にリーダーの姿勢を貫いている。俺と野呂は東京音大でも先生をやっているんですよ。一応客員教授で、週に一度の授業ですけど90年からずっとやっていて、野呂はああいうところに行くと、進んで口出ししない。でも、カシオペアとなるとすごいよ。3rdの時も始めるときにはもう曲を用意して「こういうやり方でやるんだ」みたいなのを提示するし。

──ちゃんと曲も作ってきて。

鳴瀬:あれは真似できねえなあっていうか、大したもんだと思う。

──ここからは鳴瀬さんご自身のお話をお伺いしたいんですが、お生まれは東京ですか?

鳴瀬:そう、世田谷の東北沢。

──東北沢は実家なんですか?

鳴瀬:実家。駅前で果物屋をやっていてね。今でもぞっとするんだけど、子どものときって、小田急線に囲いがなかったの。だから線路目指して降りてくと、排水のどぶがあって、さらに行くともう線路なんだよね。俺が小学校の上の学年になると、線路脇に「信号所」っていうのができて入れなくなった。でも、それまではそばの踏切のおじさんが踏切を手で操作をやっていて、俺が線路とかに出て見つかると怒られたりしてね。今とは電車の本数が違うけど、急行も走っていたし、ロマンスカーも走っていたし、よく事故が起きなかったなと思う。

──どんな少年だったんですか?

鳴瀬:お調子者。

──小さい頃から和ませ系のキャラだったんですか?(笑)

鳴瀬:そうなんだよなあ(笑)。ずっとお調子者なんだよな。

──ご兄弟は?

鳴瀬:姉、兄、俺で。

──3人兄弟の1番下。

鳴瀬:末っ子の、言うことを聞かないお調子者(笑)。成績表に「授業中、落ち着きがない」とか、3学期全部書かれるわけよ。うちのおふくろがそれを見て「また書かれている」「少し落ち着きなさい」っていつも怒っていたね。

 

クラプトンを弾く仲間と出会ってギターからベースへ転向

──ミュージシャンにつながるようなルーツというか環境はご家庭にありましたか?

鳴瀬:なかったな。兄貴がブラスバンド部で、楽器を持ってきたことはあるけど。でもテレビの音楽の番組は好きだった。初めて買ったレコードが洋楽の「コーヒールンバ」で、あの頃から洋楽志向だったね。そのあとステレオを買ってもらって、小学校のときはクレイジーキャッツとかああいうのが大好きでね。やっぱりお調子者だからさ(笑)。

それで中学校3年生のときに、映画『ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!』を銀座に観に行ったんだよ。公開当時はさ、みんな「かっこいい」って言いながらも静かに観ていたんだよ。でも何ヶ月後かにもう一度観に行ったら「キャーキャー」って本当にすごかった。

──その頃バンドはやっていたんですか?

鳴瀬:全然。中学校3年のときに周りの連中がバンドをやり始めたんだけど、学校では禁止されてたのかな? だからもちろんできないし、まだ、ギターも兄貴から借りてきたやつをポロポロ弾くぐらいでさ。

──エレキが禁止だった?

鳴瀬:確か、そう、区立の中学だしエレキをやると不良になるという理由で駄目だった。それでどっかの教室での練習を見に行くと、先生が怒りに来る。だって学校で洋楽のレコードもかけちゃいけない時代だよー!!

──ビートルズの来日はその頃ですか?

鳴瀬:高校2年の時かな。来日公演は学校のクラブ活動を抜けて観にいったよ。チケットは抽選で、俺はハガキを出して外れたんだけど、兄貴がどこかから「2枚余った」って。それで友達と観に行った。

──学校はずっと公立ですか?

鳴瀬:小、中と区立。で、高校は都立千歳高校というところに行って、1年の時に「バンドやりたいな」とクラシックギターの上手いやつに教わったりしたんだけど、2年のときに陸上部に入っちゃったんでできなくなって、3年になって家でギターで遊んでいたみたいな感じかな。それでコードとかいろいろ覚えていったんだけど、同時に受験勉強もやってね。そのときの彼女が成蹊大学を受けるっていうので「じゃあ俺も受けよう」って。成蹊大学知らないのに(笑)。

──タッチが軽い(笑)。

鳴瀬:そうなんだよ(笑)。それで成蹊だけに受かってそこに行ったんだけど、実は試験前に彼女が「あたし、高校卒業したら就職するから。おじさんが社長の会社で秘書になる」とか言ってさ。それで俺だけ大学に行って、即フラれちゃった。向こうは大人の社会に入っていたけど、俺は子どもだったからね(笑)。

──本格的にバンドをやり始めたのは大学に入ってからですか?

鳴瀬:大学2年からだな。1年のときはフラフラしていて、麻雀をやったりよくある感じ。学校に行かないで小田急に乗って、多摩川でボート乗ったりして(笑)、「することねーな」とか言ってね。なんであんなに時間があったんだろうな…今その時間が欲しいよ。ちゃんと勉強をしていれば、また違う人生を歩んでいたんだろうけど。それで2年になってバンドをやりたいと思って、1年生でギターの上手いやつを紹介してもらって、そのときにベースに転向したわけ。

──その人の方が、ギターが上手かった?

鳴瀬:だって俺CCRしか弾けないのにさ、そいつクリーム弾けるんだもん。エリック・クラプトン(笑)。そりゃもう段違いの上手さで「へへえ、俺ベースやります」って言ってね。ただ、ベースを弾くのは楽しかったよ。3年からは、何年も留年しているボーカルの先輩とバンドをやることになって、いろんなディスコに出るようになった。当時は吉祥寺にもディスコがあったんだよね。でもひどいハコで、大学のバンドをオーディションと言って集めて、ノーギャラでステージをやらせるの。それで終わったら「お前ら全然駄目だ」って言うんだ(笑)。

──タダ働きですか!?(笑)。

鳴瀬:そう。あと3年の終りぐらいから、渋谷のバンとか新宿トレビとかにも出たけど、サンダーバードには出られなかったし、ムゲンも出られなかったね。だからちょっと2流のディスコバンドみたいな感じで、4年からはインチキ事務所だったんだけど所属して、月4万円の給料で演奏していた。

──ダンパ(ダンスパーティー)とかにも出演したりしました?

鳴瀬:うん、いくつか出たよ。千駄ヶ谷のハイウェイホテルでやったダンパに出たんだけど、そのときに青学の上手いバンドが遊びに来ているって聞いて、途中でその連中がやったんだけど、多分、小原礼か(後藤)次利がいたんだよ。

──大学生のバンドマン同士の繋がりってあったんですか?

鳴瀬:あったのかなあ。でもあのころって若いからみんなツッパッてるじゃない?「他のバンドには負けねえぞ」みたいな。

──小原礼さんのほうが若いですよね?

鳴瀬:そうですよね。若いけど上手かった。全然上手かったです。

──ちなみに大学は無事卒業されたんですか?

鳴瀬:一応。よく卒業できたなみたいな。すっげー上手かったんだ、カンニングが(笑)。当時は、70年安保とかでいろいろ騒がしくて、俺もデモに参加したことがあるんだけど、試験の科目によっては、論文を書けみたいなものがあったじゃない? でもなに書いたらいいのかわからないんで「自分のことを書きます」と言って「会社の歯車にはなりたくない」みたいなことを書いて、点数もらった。

──上手いことやりましたね(笑)。

鳴瀬:先生もそんな生徒はうっとおしいからじゃないの? 「またこんな若造が書いている」みたいな。そうやって卒業できたんですけどね。

 

ディスコから始まったバンドマン生活〜カルメン・マキ&OZへ加入

──プロのミュージシャンとして活動するきっかけはなんだったんですか?

鳴瀬:ディスコバンドを3年のときにやり始めて、その3年の夏休みに、逗子海岸に慶応大学の広告研究会のキャンパスストアってところで演奏していたんですよ。学生たちが海の家を建てて、海の家でひと夏、そういう勉強をするんだけど、1週間の予定で俺らの成蹊大学のバンドも出て、居心地がいいんで、結局1か月いたの(笑)。「次のみんな来るまでいるわ」って店を手伝ったりさ。泳げないから、海に入るとおっかねえなって言って店番してた。みんなサーファー…あのころサーファーって言葉なかったですよね?

──波乗り?

鳴瀬:そうそう!(笑)それで夜中にボートを漕いでいたら向こうから店の仲間のサーファー連中が泳いできてひっくり返されてさ、えらい目にあったな。ずうっとその海の家にいたら、初めて家から開放された気分になって、「これだな」と思ってね。甘いでしょう?(笑)。

──(笑)。そこからバンドマン生活が・・・

鳴瀬:始まったね。あの頃のディスコってPAとかないから、バンドがそれぞれボーカルアンプを持っていくんだよね。そうするとアンプ一式から、ドラム、ボーカルアンプと運ばなくちゃいけなくて、終わったあとに片づけるのも俺らじゃない? 若かったからまだやれたけどさ、あれキツかったなあ。

夏休みに船橋ヘルスセンターの昼間のプールサイドで楽器をセットして演奏をやって、その楽器を積んで、あのころ京葉道路の高速はできたばかりで、そのまま新宿に行って、新宿のディスコでやって、片づけて、次の日また船橋のヘルスセンターに行って…(笑)。よくできたなって思うよ。そういうスケジュール帳が全部残っているんだよね。物持ちがいいから。

──全部残っている!それはすごいですね。

鳴瀬:それで大学4年になって親にプロになりたいと話をしたら、「もう出ていけ」みたいな感じになって。俺は親から公認会計士とかになれって言われていたんだよ。果物屋は兄貴も継がないって言って、俺も継ぎたくないから「じゃあ資格を取れ」と言われたんだけど、満員電車に乗るのも嫌だし。万事がそうなの。「理由はなんだ?」って言われたら「満員電車に乗りたくない」「ラッシュアワーが嫌だ」みたいな(笑)。

──あとは「楽しくなさそう」みたいな(笑)。

鳴瀬:そうそう(笑)。あのときはずっと友達の家に逃げていたな。でも、その後に結局親は折れてくれたんだよね。ホッとしたけど急にすごく不安になったワ。それで4年になって、インチキ社長に騙されたんだね。その事務所に入って月々4万円で、新宿、渋谷、青山とかでディスコバンドをやっていたのよ。その内、その社長が怪しいと他のメンバーたちとトラブルになっちゃって、みんなで辞めようということになって、大学卒業と同時にそのバンドも解散しちゃったの。

だから卒業するのはいいんだけど、先が全く決まってなかったの。それでそのときゼミの合宿とかがあって、ゼミは出席を取るんで行ったんですよ。ゼミの合宿に行くと、成蹊は三菱系だかなんかで、そういうところに勤めるやつがいっぱいいたんだけど、俺とカメラマン志望のやつと、落語家志望のやつが車座になって「経済の話はもう止めて、将来の話をしよう」と。そうしたら落語のやつは「俺はやっぱり無理だなあ」とか言って、カメラのやつは「どうかなあ」みたいな感じ。俺は「もうこのまま音楽やるんだ」とか言って。

そのカメラ志望のやつは渡辺達生っていうんだけど、カメラマンになって「GORO」のグラビア撮影で有名になったんだけど、俺のソロアルバムの写真を撮ってもらったりね。「気取ってもしょうがないから」ってパジャマを着せられたり、角砂糖をくわえて写真を撮ったり、無茶苦茶させられたけど、やっぱり天才は違うね、やることが(笑)。

──センスが違いますね(笑)。

鳴瀬:ね(笑)。それで大学を卒業したあと、川上シゲっていうディスコ仲間のベースのやつから電話をもらって、「鳴瀬くん、カルメン・マキが新しいバンドを作るんだけど」って言うんだよ。実はマキはその前に入院していて、スポーツ新聞の取材に「今度バンドを作るからオーディションをやろうかな」っていう話をしていて、俺は「オーディションに行こうかな」「オーディションってどうやって行くんだろう?」って何か月か前に思っていたわけ。

それでシゲはマキに誘われたんだけど、自分のバンドをちょうどやるところで、できないから「鳴瀬くんを紹介する」って。後日、梅が丘駅前の茶店で派手な服を着たマキとロンドンブーツを履いた春日(博文)と樋口晶之と会ったんだよね。それで「俺、みんなより年上だし、大分感じが違うし」とか言ったら「いやいや、その年がいっているプレイをしていただければ」って春日が18、9のくせして一丁前なことを言うのよ(笑)。

──生意気なことを(笑)。

鳴瀬:いやいや、しっかりしてるなぁ~(笑)。それで「分かりました」って。ギターは春日でドラマーの樋口。彼はこの間亡くなっちゃったんだけど、あいつも17、8か。髪がすごく長くてさ、俺もそれから髪の毛を伸ばし始めて。実は大学生のころ髪の毛を伸ばしていたんだけど、うちのおふくろが果物屋で店番をしていて俺が駅から「ただいま」って言うと「喜博、向こう行って! みっともないから」って(笑)。

──要するに、全員カルメン・マキさんみたいなヘアスタイルだったわけですね。

鳴瀬:みんなすごく長かったな。マキがその当時、荒木一郎の事務所に所属していて「バンドごと荒木の事務所でやるから」と。その月給がやっぱり4万円なんだよ(笑)。どこに行っても4万円だなと思って。それで翌日から梅ヶ丘の荒木一郎の実家の応接間で練習でさ。応接間にはマキが買ったSHUREのボーカルアンプがドーンとあって、ギターのアンプが適当に置いてあってね。俺もそのころ持っていたAceToneのアンプを持って行って、そこで音を出していたんだよ。

鳴瀬喜博氏

──近所迷惑になったりしなかったんですか?

鳴瀬:いやあ、大丈夫だったんだよね。

──敷地が広いから?

鳴瀬:そうかもしれない。すごいお屋敷だったから。でも演奏の仕事がキビシくてさ。1972年頃のライブハウスってジャンジャンくらいしかないのよ。まだロフトとかないし。だからジャンジャンでやったり、あとはいろいろなコンサートに出演したりとかしていたんだけど、音量が出せないところばっかしでさ。一回四国のキャバレー回りをやらされそうになったんだけど、初日の高知のキャバレー、1ステージで「音がでかすぎるから」ってクビ(笑)。だって前の日に着いて「仕事場に行ってみよう」ってキャバレーに行ったら、表の看板に「カルメン・マキ来たる。ときには母のない子のように」って書いてあるの。「これヤバいんちゃうか?」って。マキはもうRockだからそういうの歌わないし、しかも爆音のハード・ロックだから。そうしたら案の定ね、1ステージでクビになって。

──向こうが想定していたものと違ったんですね。

鳴瀬:「マネージャーはどういう売り込みしているんだよ!」って。その位、ロックバンドの仕事がない。そこからマネージャーと仲が悪くなって、結局、半年ぐらいでその事務所を辞めちゃった。そこからは自分たちで仕事を取って、やっていたんだよね。

 

金子マリ&バックスバニー結成と同時にスタジオミュージシャンの世界へ

──当時、月給4万で一応暮らしていけたんですか?

鳴瀬:俺は実家にいたからねえ。

──1972年頃の初任給って確か4〜5万円台だったような。

鳴瀬:じゃあ、生活できるな(笑)。家賃も何千円の世界ですもんね。それでOZを辞めたころにCharと知り合って、スモーキー・メディスンをやり始めたんだよね。でも本当に金がなくて、バイトをやりながらで。

──バイトはキャバレー回りとか?

鳴瀬:じゃなくて、四谷三丁目のスナックでしばらく働いていた。有名な幇間(ほうかん)※の息子さんの店で、マスター。業界の人がいっぱいくるところだったの。そのとき俺若いじゃない?NHKのディレクターの女の人から「歌歌える?踊れる?」と聞かれたんだよ。「みんなのうた」とかそういう番組の「オーディションやる?」とか。「いや歌えないから」とか言って、第一そんな世界に行きたくなかったし(笑)。
※宴席やお座敷などの酒席において主や客の機嫌をとり、自ら芸を見せ、さらに芸者・舞妓を助けて場を盛り上げる職業。

──という声がかかるほどの可愛らしい美少年だった?という意味ですね!

鳴瀬:そういうことです(笑)。

──(笑)。ちなみに「ナルチョ」というニックネームはいつから?

鳴瀬:ナルチョはね、スモーキーをやっているときかな。赤坂に「アナグラ」っていうインチキディスコがあったんですよ。外には「連日有名バンド出演!」とか書いてあるんだけど、中に入ると、名もなき俺とか2、3人がいて、お客が入ると演奏をするの。オレがギターでビートルズをやったりとか、ひどいでしょ?昼間にボトルの中身を入れ替えていたり「すげえところだな」と思ったよ。それで1日2・3回ぐらい演奏したかな?終わると上の事務所に行って、社長からお金をもらうわけ。「はい、ご苦労さん」って。別の支配人は事務所に女の子をよく連れ込んでいたよ。

──聞いているだけでロクでもない感じですね。

鳴瀬:(笑)。本当に昔のバンドマンの感じ。それで出番までは楽屋ないし階段で時間をつぶす。話す時に「どうするチョ?」「ごはんを食べにいくチョ?」とか、「チョ言葉」っていうのを流行らした。「疲れたチョ」とか言いながらぼられるお客さんを待ってたワケだ。そこから「ナルチョ」が始まった。最悪なシチュエーションでしょう?

──爛れたバンドマンの生活風景が目に浮かびました(笑)。

鳴瀬:ホントそうだよ。

──名前が売れ出したのはその後ですか?

鳴瀬:そうだね。スモーキーもすぐにダメになって、金子マリのお母さんがやっている「喫茶マリ」っていうのが下北沢の南口にあったんだけど、そこのマスターやってたんですよ。カウンターの中でコーヒーを入れながら、難波(弘之)とかメンバーを見つけて、金子マリ&バックスバニーを作ったの。それで75年にライブを始めて、75年の暮れにレコーディングをしてレコードデビューだったかな。

最初はすごくよかったんだよ。シンコーミュージックに入って、結成の時からのマネージャーもシンコーミュージックに入社。そりゃーいっぱい仕事をやったね。でも、そのマネージャーが会社に来ないわ、遅刻はするし、半年ぐらいで「マネージャーをクビにしたい」とシンコーミュージックから言われてさ。でも一緒にやり始めた仲間だから 「じゃあ、俺らも辞める」とか言っちゃってシンコーを辞めちゃったの。若かったよね(笑)。そこからは、いばらの道をまっしぐら(笑)。

──(笑)。都内の近場に家があってよかったですね。

鳴瀬:本当にそうだよ! 30(歳)すぎて、ようやく食えるようになってから、親をお寿司屋に連れて行って「ありがとうございました」って言ったなあ。ディスコのときの仲間は、地方から来ている人が多かったんで、やっぱり辞めちゃった人が多いもんね。

──その辺の有利不利はありますよね。

鳴瀬:ありますね。だからみんなには申し訳ないんだけど。やっぱり寝る所があるって大きいよ。5千円くらいギャラをもらったら飲みに行ける。100円ぐらい残しておいたら帰れるでしょ?いや、4千円も飲んでねえな。昔だから4千円飲んだら死んでるな。千円、2千円の世界だ(笑)。

──(笑)。バックスバニーで4枚アルバムを出し、同時にスタジオミュージシャンとしての活動も開始されていますね。

鳴瀬:バックスバニーをやっているときにスタジオに呼ばれるようになったんだけど、俺、当時そんなに譜面が読めなかったのよ。大学の終りぐらいに一生懸命音符を書いているノートとかまだ残っていてさ、無茶苦茶書いているんだけど「勉強したい」っていう気持ちはあったみたい。バックスバニーはバンドだし譜面なしで、口伝えでみんなやっていたんだけど、その頃から野呂は譜面を持ってきてたわ。オレも「勉強しなきゃな」と思ったよ。

はじめてスタジオに行った頃なんて、周りの顔色をうかがいながら「ちょっといいですか?」とか言いながら練習して、かろうじてやっている感じ。そうすると段々図々しくなってきて、図々しくなると段々呼ばれなくなると…(笑)。そういう感じです。

──最初はすごく緊張感でしょうね。みんな1発か2発で弾いちゃうし。

鳴瀬:その譜面小僧の頃、ポンタ(村上秀一)と一緒になったとき「これがポンタか」って思ったけど、やっぱり仕事が早いんだ。「え、もう終わり?」みたいな感じ(笑)。あと松木(恒秀)さん。松木さんって歳一緒かな?それで隣になったときに会釈しても全然話さないんだよ。スタジオミュージシャンってそういう感じ。だから「つまんねーところだな」って思ったよね。バンドでワーっとやりながらじゃないからさ。

──でも取っ払いで、参加してお金をもらって帰るという。

鳴瀬:そうなんですよ。でも譜面に関しては三枝(成彰)さんのスタジオに呼んでもらって、鍛えられたね。

──三枝さんとはどういうご関係だったんですか?

鳴瀬:三枝さんはね、難波が三枝さんに可愛がられて、それからこっちにも仕事が来るようになって「譜面が読めないけど面白い」みたいな感じで。あの人、音符いっぱい書いてくるじゃない? 「ベースでこんなの弾けないよ!」っていうのも平気で書いてきて、そういうのは全部キーボードの人に「これシンベ(シンセベース)でやって」とか言って逃げていたんだけど(笑)、ずいぶん鍛えられたな。

 

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第166回 ベーシスト 鳴瀬喜博氏【後半】

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