第164回 ミュージシャン 山本恭司氏【後半】

インタビュー リレーインタビュー

今回の「Musicman’s RELAY」は宮脇精一さんのご紹介で、ミュージシャンの山本恭司さんのご登場です。島根県松江市に生まれた山本さんは、超反抗期の少年時代を経て15歳でギターを始め、18歳でヤマハ・ネム音楽院に入学。その頃より天才ギタリストとして注目され、在学中にBOWWOWのリード・ギタリスト、リード・ヴォーカリストに抜擢。日本のロック・シーンをリードしていきます。その後VOWWOWを結成しロンドンをベースにヨーロッパ、アメリカで約4年間活動、イギリスでチャートインするなど海外での評価も高く、海外の有名アーティストへも影響を与えました。現在も、その幅広い音楽性で、多様なジャンルのアーティストたちとのセッションやライブでリスナーを魅了し続ける山本さんに、43年に及ぶキャリアのお話から、プロとして大切にしている信念までじっくり伺いました。

(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)

 

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第164回 ミュージシャン 山本恭司氏【前半】

 

全く新しいことをやるほうが面白い〜“V”のVOWWOW誕生

──例えば、すぐギターを補充するという考えはなかったんですか?

山本:同じようにギタリストを入れてやるとか色々な選択肢があったんですが、ちょうど僕がその頃、未だに名盤だと思っているソロアルバム『Electric Cinema』というアルバムができたんですね。で、そのアルバムのことを思い出して、同じイメージを求めて半端に行くよりは全く新しいことをやるほうが面白いかもしれないと思って。で、急遽そっちへ向かったんです。

──そこでリードボーカルを入れると。

山本:そうです。自分が歌っていたんですが、リードボーカルを入れることでよりギターに専念して、もっとギター的に面白いこともできたりするといいなと。しかもコーラスだったらバッチリハモれるから、バンドとしてコーラスという強い武器もできる。ちょうどその最後のツアーのときにキーボーディストの厚見玲衣が一緒に回ってくれていたんです。

というのもBOWWOWの最後の方のシングルのときに、テレビの番組の主題歌だったんですがバラードで、キーボードが必要だったので手伝ってもらっていて、ツアーでも何曲かやってもらっていたんです。厚見くんは素晴らしいロックキーボーディストだから彼にも声をかけて、そんなこんなで“V”のVOWWOWの形ができてくるわけです。

──厚見さんがそのときにボーカルの人見元基さんを連れてきた?

山本:カセットを渡してくれたのは厚見くんですね。

──それを聴いた瞬間にどう思いましたか?

山本:まず日本人でこんな歌を歌えるやつがいたのかって。日本人では聞いたことのないスタイルと声と声域でしたね。

──面識はなかったんですか?

山本:声も名前も全く知らなかったです。だから、びっくりしました。そのうちの1曲目の「SHININ’」っていう曲を聴いたときに「SHININ’ SHININ’」って聴いただけで「ええーっ!」と思って。

──そしてすぐ会いたいなっていう話になったんですか?

山本:はい。実際に会って、僕と光浩以外のメンバーとスタジオに入って自由なセッションをやったんですよ。まぁブルースとかも含めてね。元基はすごかったですね。

──どういったところがすごかったんですか?

山本:もうアドリブが完全に外国人って変な言い方ですけど、レッド・ツェッペリンやディープ・パープルのような一流バンドのシンガーと比べても何の引けも取らないアドリブでガンガン炸裂させていたんですよ。それに関しては100点以上、想像以上のすごさがありました。ただ、レコーディングしてみないとわからない人っているんですよ。逆にレコーディングではうまいのに、ライブでは全然ダメみたいな人もいっぱいいますからね。正直言って、どちらかに偏っている人が半分以上を占めているかもしれないと僕は思っちゃっているんですけども(笑)。

で、すぐに彼のために僕が曲を作って、厚見くんにももちろん入ってもらって“V”のVOWWOWの記念すべき初レコーディングをしたんですが、元基はそこでも抜群でした。レコーディングでマイクを通している声も素晴らしかったです。元基にしても「面白いな」「すごいバンドができそうだなぁ」と思ってくれたみたいでね。

──なんか酔わされて気づいたらメンバーにされていたって話も聞きましたが…(笑)。

山本:あれは嘘です(笑)。確かに家で何度も意識がなくなるまで飲んでいたかもしれないですけど、もちろんきちんと確認してね。元基の方が先にメンバーになるって言ってくれたんです、厚見くんよりも。

──躊躇していたんですか?

山本:うん、ライブを何度かしてようやく。大阪かどこかだったか「やっぱり僕も入れてくれる?」って言って。しばらく様子見だったみたいです。

──ちなみに人見さんって生まれつきああいう風に歌えたんですか?

山本:最初は自分でもあんな風に声が出るなんて思わなかったみたいなんですが、なんか高校のときに文化祭でレッド・ツェッペリンの「コミュニケイション・ブレイクダウン」をやるってことになって、最初は「えーっ!」って思ったけど、勢いで声を出したらどこかリミッターが外れて出ちゃったらしいんですよね。「自分でもびっくりした」って言っていました。

──人見さんが普段喋っている声ってごく普通じゃないですか。でも歌うとなんであんな声が出るのかな?って思っていました。

山本:僕は未だに突然変異だと思っているんです。練習とかではなくて、やってみたら出て、あっという間にあの雰囲気を身につけちゃったんですよね、あのブルージーな感じを。

──また山本さんが特訓したとかそういう話はないんですか?

山本:いやもう元基に関してはないですよ(笑)。元基も厚見くんもないです。あの2人は最初からプロフェッショナルでした(笑)。

もちろん僕は“B”のBOWWOWがいまだに大好きですし、別物として魅力があると思っているんですよ。でも“V”で全く違うものすごい世界ができたということなので、そこでさらにポジティブシンキングが自分の中で根付いた感じはありますね。

──なるほど。

山本:全ての出来事には何か意味があると。それをプラスに変える術はあるはずだと。やっぱり「あのときは良かった」なんてずっとくよくよして、似せようとしていたら絶対そこは超えられないです。そこで、まったく新しい考え方でやったほうが良いものが生まれるチャンスはより多いです。だから今はどんなことに関してもそういう考え方になっています。

 

 

イギリス〜LAの海外活動と名プロデューサー ボブ・エズリンとの出会い

 

山本恭司 ライブ

──そしてVOWWOWは拠点をイギリスにされますね。

山本:そうですね。

──それはやっぱりあのボーカルがあってこそのイギリスですか?

山本:それはありますね。当時は事務所も日本でブレイクするには日本語じゃなきゃダメだっていう思いがすごくありまして、当時の社長とかにもすごく説得されたんですよ。で、最初の1枚目は日本語の歌も半分入れたりとかして、そのBOWWOWっぽくじゃないけど、その辺をちょっとだけ妥協して。サウンド面だけは一切妥協はなかったんですけれども。

でも、元基は「やっぱり自分の歌は日本語での表現より、英語の方が節回し的にもブルージーな語尾の処理にしても絶対にそっちの方が得意だし、良い響きが出るから英語でやりたい」と言ったら、事務所の社長が「それだけお前らが言うんだったら、イギリスでやれる自信あるんか?」「海外での自信があるんか?」と。で、正直に言ったら自信はあったんですよね。

──それは渡りに船ですね(笑)。

山本:「ありますよ! 行かしてもらえるんですか?」みたいな(笑)。あの頃はバブルの時代でもあったり、事務所に結構売れているアーティストもいたりとかして、渡英の資金とか出してくれたんですよ(笑)。当時は事務所にしてもレコード会社にしてもまだミュージシャンをちゃんと育てようという想いがあったんですよね。彼らには良い音楽をやっているから育てよう、育ててみようという懐の深さ、広さがありましたよね。

──今でいうベンチャーファンド的なそういう投資をしていましたよね。

山本:そうなんです。今は博打を打つだけでしょう? 最初ポンっとやってダメだったらすぐに契約終了みたいな。レコード会社も事務所も割とそんな感じが多くてね。だから僕らがやれた時期というのはラッキーでしたしとても感謝しています。

──渡英の資金を出してもらえるって本当にラッキーですよね。

山本:それこそ父親が「お前日本一になる自信あるのか?」「ある!」ってネム音楽院の入学資金を出してもらったのに結構近いものがあって、デジャヴみたいな(笑)。それでイギリスのマーキーでの最初のライブからすごい反応でした。それはBの時代の「レディング・フェスティバル」の影響もあったでしょうし、名前もマイナーチェンジしてわかりやすく「あれの延長だよ」ということで“B”のを知っているファンもいっぱい来てくれたんです。

──BOWWOWからVOWWOWってすごく良い改名ですよね。ビクトリーのVですし。

山本:もっと言えば5人がメンバーになりましたからV=5と。さらに僕は姓名判断とかに凝っていまして、ウに点々の「ヴ」ァウワウだったら結構素晴らしい画数なんです(笑)。

──(笑)。イギリスではどんな生活だったんですか?

山本:ライブは日本以上にいっぱいやりましたし、向こうの事務所に入って、あの頃はヘヴィメタルがイギリスですごく盛んだったので雑誌の数も多くてね。だからインタビューも受けたり、もうちょっと後からはラジオやテレビに出演したりしていましたね。

──ちなみにその頃ご家族とかは?

山本:結婚しているメンバーはちゃんと家族で引っ越しましたからね。

──完全に移住だったわけですね。

山本:そうです。そこまでの覚悟があるかというところも事務所にはあったんです。だからイギリスに行って、ライブをやって帰ってきてじゃなくて、イギリスでミュージシャンとして生活すると。だから僕たちも覚悟を決めて引っ越しをしたんです。

──その後、「レディング・フェスティバル」にもう一度出演されていますよね。

山本:そうですね。それはもう向こうのメジャーディールを得てからですね。アリスターUKというメジャーなレコード会社と契約をしてから出ました。

──実際にはロンドンに本拠地を移してから何年いらっしゃったんですか?

山本:約3年半です。その後、ロンドンから荷物を日本にじゃなくてそのままLAに送って、LAに半年いましたから、4年間ほぼ海外でした。当時LAメタルに代表されるように、ロックの本場がイギリスからLAに移ってきていて、イギリスはクラブミュージックが盛んになってきていたので、「早いうちにLAに行ったほうが良いんじゃないか?」って思ったんですよね。

でもそのことでイギリス人のマネージャーとすごく喧嘩をすることになってしまったんですよね。向こうはやっぱり引き止めるわけですよ。「せっかく3年かけてここまでやってきたのに!」って。で、僕が1人でそのマネージャーを「すみません、話があるんで」とパブに呼び出して、彼と話したんですがすごく怒っていましたね。本当に顔真っ赤にして怒っていました。

──今となってはその選択は正しかったんですか?

山本:そこは「たられば」ですから、わからないです。でもLAで素晴らしい経験ができたので正しいと言っていいですね。LAでは成功するとかレコードディールを得るとかそういう結果を得ることは正直できなかったですし、実際にその辺からは“V”のVOWWOWの解散劇につながっていくので、ある人から見ると「LAに行ったことは失敗だった」とみなすかもしれないです。でも個人で見ると、ボブ・エズリンというすごいプロデューサーと偶然知り合って素晴らしいアルバムを作ることができたので良い経験ができたなと思っています。ボブ・エズリンはプロデュースの世界で5本指に入るくらいのプロ中のプロであり、ピンク・フロイドやキッスなど数多くのアーティストたちをプロデュースしているプロデューサーですからね。

──LAで録音したんですか?

山本:LAでやりました。引っ越してからエンジニアをやっているスタン片山というLA在住の日本人エンジニアをコーディネーターが紹介してくれたんです。で、「スタンって今、何やっているの?」「ボブ・エズリンとピンク・フロイドとの仕事をやっている」「えーっ! ボブ・エズリン!?」って(笑)。

僕は“V”のVOWWOWのきっかけになった『Electric Cinema』というソロアルバムを作るときに、「恭司、一緒にやりたいプロデューサーって誰がいる? とりあえず名前を挙げてみて」って言われて、その頃ボブ・エズリンってそれほど日本では有名ではなかったのかもしれないけれど、僕は「ボブ・エズリンとやりたい」って言っていたんですよ。それとロバート・ジョン“マット”ランジ。マット・ランジは、その後デフ・レパードで有名になった人です。その2人が僕は1番好きなプロデューサーで、でも当然彼らはトゥーエクスペンシブで雇えなかったんです。でも「言ってみろ」って言うから僕はその2人しかあげなかったんですよね。

それでスタンが「ボブ・エズリンと会いたいか?」って言うので、彼は雲の上のプロデューサーですけど、「僕はボブ・エズリンの仕事が大好きなんだ」って言ったら、スタンが「じゃあ紹介しようか?」って。いや「もちろん会ってくれるんだったら、ぜひとも会わせてください」ってお願いして、そうしたらボブ・エズリンが「僕の家に来ていいよ」って言ってくれたんです。そこでVOWWOWのアルバム3枚と『Electric Cinema』のCDを持って、メンバーたちと一緒にボブ・エズリンの家に行ったんです。

そこでVOWWOWや『Electric Cinema』をかけながら色々と話をしたら、ボブが興味を持ってくれたんです。当時、VOW WOWは東芝EMIに所属していたので、EMIの人に「ボブ・エズリンが興味を持ってくれた。高いとは思うけどこんなチャンスは二度とない」と言ったんですよ。そうしたら向こうもいろいろ検討してくれて、交渉は僕らの知らないところで行われて、やってもらえることになって。

──夢が叶ったんですね。素晴らしい。

山本:それは『Mountain Top』というVOWWOWにとって最後のアルバムなんですよ。僕にとっても、レコード会社にとっても、事務所にとってもLAに渡った理由は「今度はアメリカでブレイクしたい」という想いがあったんですね。VOWWOWは少なくともイギリスのロックファンならみんな知っているくらいにはなったわけです。今でもバンドでイギリスのミュージシャンズユニオンに入っているのはVOWWOWだけですから。向こうのバンドとして認められて入れてもらっているわけです。

そして、アメリカでボブ・エズリンがついたらどれだけ大きなアドバンテージになるかと。それはそうですよ。それだけのプロデューサーがやっている。で、ボブ・エズリンは当然レコード会社に顔も利くし、メジャーディールも夢じゃないというところで、その辺も全部含めて多少のお金もかかるだろうし、条件面ではバンドの実入りは少ないかもしれないけれど、それでもボブ・エズリンとやる価値は十分すぎるくらいあると思っていました。しかも向こうが興味を持ってくれたわけですからね。
 

自由度が高いワイルドなバンド・WILD FLAGと“プロ中のプロ”矢沢永吉との仕事

 

ミュージシャン 山本恭司

──ボブ・エズリンのプロデュースはいかがでしたか?

山本: やはり素晴らしかったですね。ボブってアレンジとか直感でどんどん変えていくんですが、あの手法を学べただけでも僕の音楽人生にはすごくプラスになっていますし、『Mountain Top』のレコーディングを通じて、プロデュースの手法を覚えちゃいました。実際最後に素晴らしいアルバムを作れて、これからアメリカでやっていこうとボブも色々と動いてくれたりしていたんですよね。でも、アルバムを作った90年、いや89年の終わりくらいにはLAメタルも廃れてきて、だんだんオルタナとかが人気になっていったんです。

──ちょっとタイミング遅かった?

山本:「あと1年、早ければ…!」ってところでしたね。まぁ、それも「たられば」の世界ですから。だからボブと仕事をしても、あのアルバムを持ってしても、メジャーのディールは得られなかったんです。日本でずっと待っていたんですけどね。それでみんな精神的に落ち込んで、そうするとバンドの中は僕を含めてなんですが、色々なエゴが出てくるんですよね。

やはり、あれだけの強力なバンドってそれぞれエゴがあって当然なんです。みんな友達で仲良しで、超ブレイクするっていうのはないですから。やっぱり意識がすごく高いミュージシャンが集まっていたのでね。だからこそ僕は、良い意味でエゴがあったバンドだと思うんですが、そのエゴがそれまでとはちょっとだけ違う方向に出てきた感じはしました。不安になってきたりすると。ちょっと目標が定まらなくなってきましたし、イギリスを飛び出して行き場がなくなったというのもあるかもしれません。もちろん、日本では武道館とかワンマンでやれていましたから、ツアーを回していけば、ブレイクしたかもしれませんが、何か大きな目標を失うと、いろんな意味でぎくしゃくし始めて、結局VOWWOWは解散しました。

──その後、人見さんは学校の先生になっちゃうわけですからね。

山本:元基はまずは大きな進学塾の先生をやって、その後、高校の英語の先生になりました。

──彼の学歴がもうちょい低ければ…。

山本:そうですね(笑)。元基がソロシンガーとして何かやっていれば、日本のロック界、音楽界はもうちょっと違う展開になったかもしれません。

──普通、ロックミュージシャンから高校の先生なんてなれないじゃないですか?

山本:そうですよね。でも元基は外語大ですから。卒業したときにもう教員免許は持っていて。プロのシンガーになるときにやっぱり「家族会議が開かれた」って言っていました。先生として内定していたのにロックバンドをやるということで(笑)。

僕もずっと音楽を教えているんですが、10年くらい前の生徒が「高校のときに軽音楽部で人見先生に習っていました」って(笑)。「元基に習って今度俺のところに来たの?」みたいな(笑)、そういう子がいました。面白いでしょう?(笑)

──それは素敵な話ですね(笑)。その後、WILD FLAGを結成されますね。

山本:WILD FLAGはVOWWOWと正反対のバンドを作りたいなと思ったんです。VOWWOWはもうシンフォニックロックと言っていいぐらいアレンジを緻密に作り上げて、自由なところまで計算しているところがありました。

ですから新しいバンドは、即興性と自由度が高いワイルドなバンドにしたいなと思って、メンバー探しに入るわけですよ。それで僕がたまたま審査員を頼まれたヤマハのバンドコンテストで、ドラムの(満園)英二を見つけたんですよね。彼は普通のドラムじゃなくて、スナッピーも外してドラムを使って太鼓を叩いていたんです。ダンダカダンダンダンダンダンダンダン、ドンドン、ドドンドンって。

使うのはドラムセットですが、もう完全に和太鼓でした。見たことも聞いたこともないサウンドとドラミングスタイルで「こいつ面白い」って。とにかくすごいパワーだったので、「それまでのロックにはなかった新しいことができそうだな」と思って、彼に個人賞をあげて「今度セッションしよう」と電話番号を教えてもらいました。まだ大学生だったんですよ、彼。

で、電話をして「二人でセッションもあれだから、ベースを連れてきて」って言ったら、ちょうどその場に(満園)庄太郎っていう弟がいたんですね。「うちの弟がベースをやっているんで、連れてっていいですか?」「いいよ、いいよー」って。それで庄太郎が同じ部屋で突然「山本恭司かい!」って(笑)。まだ二人とも大学生(笑)。

──いきなりレジェンドからお声が掛かるという(笑)。

山本:で、3人自由な感じでセッションしたらすごく面白かったんですよ。太鼓はもちろん、ベースもハチャメチャなやつだったんですよ。正直最初2人ともリズムはそんなに良くなかったんですが、他の人が持とうとしても持てないもの、それこそ光浩が持っていたようなスター性みたいなものを持っていたんですよね。まぁ、英二はスター性というよりもワイルドを絵に描いたような男でしたが、その二人をバンドに入れて「WILD FLAG」って名付けましたから、僕にはない破天荒さ、ワイルドさを持っていたんですね。

──あと矢沢永吉さんのバックで山本さんがギターを弾かれたときに驚いたんですが、一緒にお仕事をされるきっかけはなんだったんですか?

山本:永ちゃんとはロンドンに住んでいるときから飲んだり食べたりするだけ、音楽は一切関係なしの関係だったんですよ。日本に帰っても「恭司、銀座のクラブに行こう」って言って、天ぷら食べては二人で銀座をぶらぶら。そんな関係が8年くらいありましたね。

──ロンドンで知り合ったわけではなくて?

山本:永ちゃんとは同じレコード会社だったので、ロンドンに住んでいたときに僕と知り合いのEMIのディレクターが永ちゃんのディレクターで「紹介しようか?」って。永ちゃんも海外を目指していたので「『イギリスで今これだけ頑張っているミュージシャンがいるけど、会ってみますか?』って聞いてみる」と言ってくれたので「僕も会ってみたい」と返しました。そうしたら向こうも「じゃあ、会ってみようかな」って言ってくれたんです。だから最初に会ったのはロンドンでしたね。

LAに引っ越してからも電話がかかってきて飲みに行ったりとか、そんなことをしていました。で、8年目くらいに初めて仕事をしたんです。「恭司、アルバムで2曲くらいソロ弾いてくれないか?」って。で、弾いて、「ちょっとツアーもやってくれないか?」と頼まれました。もちろん永ちゃんはプロ中のプロで、周りを固める人もプロ中のプロなのは知っているし、やっぱり永ちゃんの頼みだったからもちろん「イエス」と。そうしたらいきなりバンドリーダーにさせられちゃって。初めてですよ、僕。「恭司、お前リーダーやれ」って(笑)。まぁそんな感じで、今でもたまに紅白歌合戦とか大事な局面では出してもらっているんですよね。

 

音楽に対して誠実であれ

 

山本恭司 ライブ

──山本さんはデビューされてから43年間、ずっと第一線でご活躍しているわけですが、その秘訣は何だとお考えですか? 

山本:少なくとも僕一人の力では絶対できなかったと思います。そこはもう絶対に。バンドを解散しても「恭司だったらなにか面白いことをやってくれるに違いない」と色々な人たちがサポートして、暖かく見守ってくれたわけです。ファンの人はもちろんそうですが、例えば事務所で一緒にやっていたマネージャーたちが僕のことを信じてくれて「俺これやってみたいんだ!」と言ったら力を貸してくれる。一人でポーンと出て「俺はやりたいことをやるんだ!」と言っても、何もできなかったと思います。常に誰かに助けてもらってという。それが一番大きいんですよ。

──なるほど…でも山本さんご自身のエネルギーもすごいと思います。

山本:とにかく僕が常に言っているのは「音楽に誠実であれ」ということです。僕が音楽を裏切ったら全てを裏切ることになりますから、それは人としてやっちゃいけないことだと思っているんです。だからこそ、僕は絶対に進化を止めたくないです。

進化を止めて、過去の財産だけで食べていくということ自体、僕は全然否定しませんが、それにも劣ることをやってしまっている人もいるわけです。あれだけ恰好よくて憧れていた人が、今、当時の曲をやっていても「はぁ、もう二度と聴きたくないな」ということがあったりしますが、正直言って軽蔑に値します。それは彼らが音楽に誠実じゃないからです。本当に誠実だったら、やっぱりちゃんとやらなきゃダメなんですよ。

亡くなった遠藤賢司さんは『ちゃんとやれ!えんけん!』というアルバムを出したんですが、遠藤賢司さんは最後までちゃんとやっていました。「音楽に誠実であれ」とその「ちゃんとやれ」というのは同じ価値観だと思っているんです。先ほど僕の見た目が若いとおっしゃっていただきましたけど、その「期待を裏切っちゃいけない」という思いが無意識のところで作用しているのかもしれません。それこそ20歳の頃に追っかけをしてくれた女子高生が、50歳を超えてまだいろんなところに遠征してくれているんですよ(笑)。それで「30年ぶりに来たら恭司さんが変わっていない」って言われて(笑)。だから、あの頃の気持ちに戻れるって。

──「音楽に誠実であれ」って素晴らしい言葉です。

山本:もちろん腰は悪くしていますし、自分で感じる色々な老化はあります。でも、音楽をやっているときは18歳くらいに戻っちゃうし、疲れたと思ったこともないし、こんな自分の好きなことをやらせてもらっていながら「ちょっと疲れた」とか言ったらバチが当たると思います。自分を支えてくれた色々な人に対して感謝の気持ちを持って生きているので、そこで裏切ったり、音楽に誠実じゃないことをやるのは絶対ダメ。それがパワーになっていると思います。

──現在、年間どのくらいライブをやっているんですか?

山本:一昨年、一昨々年は90本ライブをやったんですね。それは僕の人生の中で一番多い数だったんですが、去年100本やって更新しました。本数が一番多いのは『弾き語り・弾きまくりギター三昧』というライブで、それこそ3、40人入れば一杯の小さな会場から、大きくても120人くらいの会場がメインで、沖縄から北海道まで毎年ずっと回るんですが、もうそれが楽しくて楽しくて!

──『弾き語り・弾きまくりギター三昧』は山本さんにとってライフワークであり、一種の健康法なんですね。

山本:本当にそうですよ。心をどんどん健康に保てますし、「人を幸せにできる」ということがどれだけ尊いことなのか実感できるんです。僕はライブでそして音楽で人を幸せにしたいなと常に思っています。きっとそれがあるからこそ続けられる。で、人を幸せにしないプロはプロじゃないと思っています。プロの絶対的前提条件として人を幸せにしているか、していないか。お金を儲けるかじゃなくて、人を幸せにして、さらにその対価としてお金を貰えるのがプロの本当のあり方だと思います。それはミュージシャンだけの話じゃないです。どんな仕事だろうとプロはそうあるべきだと思っています。

──最後になりますが、今後の展望をお聞かせください。

山本:武道館でライブをやりたいだとか、CDが何万枚売れたいとか、そういう高望みは一切していないです。綺麗ごとを言っているようですが、毎年きちんと進化していることが確認できて、そして人がそれを観て幸せになってくれる。もうそれだけでいいんです。今よりお金が欲しいとか、そういったことも考えていないです。とにかくいい音楽を一人でも多くの人に伝わるように努力したいだけなんです。ですから、是非とも一番新しい山本恭司の音楽を聴いていただき、ライブを観ていただきたいですね。
 

山本恭司 100 YEARS PREMIUM LIVE

 

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