第163回 ゼンハイザージャパン株式会社 代表取締役 宮脇精一氏【前半】

インタビュー リレーインタビュー

今回の「Musicman’s RELAY」は國崎晋さんのご紹介で、ゼンハイザージャパン株式会社 代表取締役 宮脇精一さんのご登場です。高校時代にロックの洗礼を受けた宮脇さんは以後、バンド活動に邁進。大学卒業後に入社されたヤマハでは一貫してプロオーディオに携わられ、「YAMAHA PM3000」や「YAMAHA 02R」など多くの名機とともに歩まれていきます。その後、アメリカ、ドイツでの海外生活、ヤマハサウンドシステム株式会社 代表取締役を経て、現在、ゼンハイザージャパン 代表取締役を務める宮脇さんにご自身のキャリアから、現在も続けるバンド活動についてまでじっくり伺いました。

(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)

 

父親の影響でクラシック小僧に

──前回ご登場頂いた(株)リットーミュージック 國崎晋さんとはいつ頃出会われたんでしょうか? 

宮脇:初めてお会いしたのは國崎さんがリットーミュージックに入って、「サウンド&レコーディング」の編集に携わり始めて間もない頃だったと思います。

その当時、私はヤマハで結構とんがった商品を発表したんです。それが8トラックのデジタルマルチトラックレコーダーミキサーDMR8というレコーダー一体型のミキサーで、ALESIS ADATやTASCAM DA-88とかが出る前だったんです。

──02Rの前ですか?

宮脇: 02Rはさらにあとのミキサーなんですが、ミキサーとレコーダーが一体型で、当時AKAIさんがADAMというビデオ回転ヘッドのデジタルレコーダーをお出しになった頃だと思います。もちろんすでに3324(SONY PCM-3324)はありましたが、ヤマハも是非そういうものは出したいし、出すからにはとてつもない音がするものにしたいと考えていました。

それを全て実現するためにグルグル回すヘッドではダメで、3324とかと同じ固定ヘッドで、16ビットじゃなく20ビットで書き込んで、トラック数はとにかく8。それを複数台リンクしていけば24トラックまでは構築できますと。

それを作るときにやはりヘッドが1番の問題で、デジタルレコーダーのヘッドというのはほとんど半導体みたいなもので、シャープさんの東広島工場で焼いてもらっていたんですが、やってみるとものすごくハードルが高くて歩留まりが悪く、ヘッドだけで狙っていた希望販売価格の半分のコストになってしまったり、色々な要素が重なって残念ながら商品としては全く成功しなかったんです。

話を戻すと、そのDMR8にすごく可能性を感じてくれた人がやはり世の中にいて、その中に当時多くのヒット曲を書いていたユニットで、井上ヨシマサさんと久保幹一郎さんによる音楽ユニット「ATOM」のお2人が実際に導入してくださって、スタジオじゃない空間でマイクを立ててレコーディングをされていたんです。その井上ヨシマサさんの取材に、私はメーカーの立場で行って、そこで初めて國崎さんとお会いしました。それが1989年だったと思います。ただ、その商品は先ほど申しましたように残念ながら成功することもなく、ヤマハは02Rのほうに向かっていくんです。

──出会われて30年になるんですね。

宮脇:そうですね。それからは例えば、商品をプレビューしてもらっていろんなご意見を聞いたり、商品を出すときにきっちりとレビューを書いていただけるような関係を構築したり、デジタルオーディオセミナーのゲストとして来ていただいたり、1980年代後半から2000年代の前半位まで、國崎さんと一緒に色々なことをやらせていただきました。

その後、02Rの第二世代の02R96とかDM2000とかいう96KHzのミキサーを出した後くらいから私は海外の仕事が多くなったりして、國崎さんとはちょっと距離ができたんですが、去年の7月にゼンハイザーへ来てからまた「ヤァヤァ」と(笑)。國崎さんは編集の現場を離れられていましたが、改めてまたよろしくお願いしますねとご挨拶に伺いました。

──御茶ノ水Rittor Baseには行かれましたか?

宮脇:まだ行ってないんですよ。ご挨拶に行ったときはまだ出来上がっていなくて、機器の選定をしているような時期だったので見させていただけるタイミングではなかったんです。

──僕らが國崎さんとお会いしたときは、ほぼその日で機材の搬入が終わるというような状態だったんですが、お1人で作業されているんですよ。「配線が好きなんですよ」とおっしゃって(笑)。

宮脇:(笑)。それはやっぱりお好きだからですね。この世界の人はみんなそういうことがやれれば楽しくてしょうがないんですよ。

──ここからは宮脇さんご自身についてお伺いしたいのですが、お生まれは大阪だそうですね。

宮脇:はい。生まれたのは豊中市で、阪急電鉄宝塚線の岡町駅という豊中市の真ん中あたりが実家です。父は大阪ガスに勤めていたので、転勤することもなく、高校卒業するまでそこから一歩も出たことはありませんでした。

──生粋の関西人ですね。

宮脇:そうですね。ただ父は神戸出身で母親は姫路の人間だったので、両親がしゃべっているのは生粋の大阪弁じゃないんですよね。

──コテコテの感じではない?

宮脇:「ワシゃあのう」とか「ワレ」とか言う人は周りには全然いなかったですね。でも、関東の方がお聞きになったら「あー、大阪弁だ」っていう(笑)。逆に私は初めて東京に出たときに聞こえてくる言葉がきつく感じ「東京の人の会話ってなんでこんなに喧嘩腰なんだろう?」って思いました。

──ご兄弟は?

宮脇:妹が2人います。私が幼稚園の頃に祖父が亡くなり、父親は仕事で不在がちでしたから、家の中は祖母と母親、妹2人と僕という女4対男1の環境だったんですよ。ですから男兄弟がいる友達がすごく羨ましかったですし、きれいなお姉さんを持っている友達も羨ましかったです。もう妹がめんどくさくて(笑)。

──(笑)。今の仕事に結びつくような雰囲気がご家庭にはあったんですか?

宮脇:父親が音楽好きでしたね。基本的にはクラシックが好きで、当時日本ビクターのワンボックスのステレオで聴いていましたが、別にそれを音楽的に勉強しろと言われたわけでもなんでもなくて。

──音楽を習ったりはしていなかった?

宮脇:ヤマハとの最初の接点が、自分の通っていた幼稚園で行われていたヤマハオルガン教室で、1年半くらい通って「茶色の小瓶」とか弾いた覚えがあります。その頃は譜面を読めたんですが、小学校に入ったら「そんなのは男のやるものじゃない」ってわけも分からず反発してやめてしまったんですよね。それで幼稚園のときには読めた譜面が、読めなくなってしまって、のちにすごく後悔しました。ハッと気がついたときには、結構クラシック小僧になっていて、譜面も読めないのに指揮者になりたかったんですよね(笑)。

──ちょっと無理がありますね(笑)。

宮脇:かなり無理があるんですが、自分としては指揮者が譜面を読んでいるとか、そんなことは思わないわけですよ。頭で音楽を覚えてやっているんだろうと。あの指揮棒が欲しくて欲しくて、でもそんなもの当時どこで売っているかわからないので、自分で太めの竹ひごを削って、そこにタコ糸を指揮棒の先のようにうまく巻いて振ったりしていました。そのうちにグループサウンズとか出てきて、ダンボールでギターを作って弾き真似をしたり、最初は割とそういう感じだったんです。

 

 

高校の先輩バンドの演奏でロックに目覚める

──ロックとの出会いはいつ頃ですか?

宮脇:高校時代ですね。大阪府立池田高校に入りまして、1年の秋の文化祭で3年生の先輩がジミ・ヘンドリックスやクリーム、そしてマウンテンという私が今でもハマっているバンドの曲を体育館で演奏していて、本当に上手かったんですよ。

それで「あれはなんだ!?」と。もちろんその前からラジオから流れてくるビートルズなり、ロックなり聴いてはいたんですが、衝撃を受けました。そうしたら同級生が先輩たちが演奏していた曲の入ったアルバム(マウンテン3:ナンタケットスレイライド)を持ってきていたんですよね。それを僕は奪うように家に持って帰って聴いているうちに、「音楽を聴いている場合じゃない! やらなきゃ!」と頭が180度切り変わったんです。

──2つ上の先輩たちの演奏に触発されたんですね。

宮脇:ええ。例えば、小学校の卒業式の謝恩会でも仲間が体育館でグループサウンズを演奏したりとか、中学校のときもプールサイドでローリング・ストーンズとかを演奏したりするのを観ているんですが、そういう衝撃を受けなかったんですよね。

──それほど上手かった?

宮脇:素晴らしい演奏で、いまだにあれは上手かったと思っています。もう本当にプロのような立ち振る舞いでしたね。

──たった2つ上の先輩ができるんなら俺もと?

宮脇:はい。やっぱりパッと見てカッコイイのはギターなんですが、6本も弦があってどうやって押さえればいいのかと(笑)。これは絶対自分は無理だと思って、弦が4本しかないベースならどうにかなるんじゃないかと思ったんですよね。それで、大阪の日本橋に楽器を買いに走って、見よう見まねでベースの演奏を始めました。

高校2年生くらいになると、同級生たちとバンドをやるようになって、昼休みに弁当を食い終わったらこそこそっとドラムやギターアンプ、ベースアンプを出して教室でセッションを毎日やっていたんですよ。

──教室でセッションが許されたんですか?

宮脇:何も言われなかったですね。池田高校ってものすごく自由な学校だったんです。私が入る前に学生運動で制服を廃止にしていましたし。それで、大学に行ったら本来やりたかったギターをやろうと思いまして、大学で北海道に行くことになります。

──北海道大学 水産学部に進学されたそうですが、水産に興味があったのですか?

宮脇:先ほどもお話しましたが、私は生まれた大阪から一歩も外に出たことがなかったので、とにかく一度大阪から離れてみたいと思っていたんですね。あと音楽の趣味以外に魚を飼うことが大好きで、とにかくそういうものに関わるような、例えば、水族館みたいなところで仕事がしたいと思っていたんですよ。

──なるほど。

宮脇:大阪から距離があるところで探していた中で、長崎大学水産学部と北大が候補に挙がりました。実は高校のときにサッカーもやっていまして、そのときのキャプテンのお兄さんが北大水産に行っていたんです。その影響もあって、北海道に心惹かれて、当時は国立一期、二期の時代ですから一期に北大水産学部、二期に帯広畜産大学の願書を出したんです。

それで改めて帯広というところはどういうところなんだろう?と書店の地図コーナーで帯広を見てみたんです。そうしたら帯広駅から目抜き通りが途中まであるんですが、その先は道がほとんどなくなって、牧草みたいなマークがブワーっとあった先には帯広刑務所と畜産大学しかないんですよ(1974年当時の話です)。

──何もない…。

宮脇:さすがに「ここは無理だな…」と思って、北大水産に落ちたら浪人しようと思いました。幸い北大水産に受かったので、帯広畜産大学は受験自体しませんでした。それで大学では「死んでもギターをやる」と決心して、楽器店にギターと「CRY BABY」というワウペダルだけを買いに行って、それを担いで札幌に行きました。

──水産学部も札幌なんですか?

宮脇:水産学部は教養過程だけ札幌で、あとは函館なんですよ。普通、入学試験を受けるときに自分が行く先ってもうちょっと細かく決まるじゃないですか? でも北海道大学は大きな括りしか決まっていなくて、教養過程のときに成績順で行きたい学科を選んでいく仕組みなんです。

自分が唯一水族館への可能性があるなと思った学科が水産増殖学科という要は生き物を本当に扱うところなんですが、そこはやっぱり競争率が高く、全く箸にも棒にもかからずでした。しかもそこで私は2年留年してしまって「大学をやめてPA屋さんに就職する」って父親に言ったら、父親が殴り込みの勢いで北海道に飛んで来まして「お前は何を言っているんだ!」と(笑)。

──(笑)。

宮脇:それで「卒業はします」と約束して、どうにか卒業したんですが、結局行き先が最後に残った漁船工学という学科で、工学ですから授業の中心は物理、乗船実習では1,000トンくらいの船に2週間くらい放り込まれました(笑)。

──就職活動はされたんですか? 

宮脇:就職活動をしたんですが、水族館とかの募集がほとんどなくて。

 

 

ロックンロールの世界でしか役に立たない奴〜ヤマハ入社

 

ゼンハイザージャパン株式会社 代表取締役 宮脇精一氏

──プロのミュージシャンになるとかそういう気持ちはなかったんですか?

宮脇:大学生活の途中まではできればプロになりたいと思っていたんですが、楽譜も読めないし、やっぱり無理だなと思いました。それでもヤマハの『8・8ロックデー(大阪)』や『イーストウエスト(東京)』の北海道版『ステージフライト』で、自分たちのバンドはグランプリを頂いたりもしたんですよ。

──『イーストウエスト』は有名なアーティストを沢山輩出していますよね。

宮脇:そうですね。79年の『イーストウエスト』が終わった次の日にフェスティバルデーという、全国のあちこちのグランプリバンドと、『イーストウエスト』の歴代グランプリバンドが集まって演奏をずっとしていくというイベントに呼んでいただいたんですよ。

79年のグランプリバンドがうじきつよしさんの子供ばんどで、九州の『L-Motion』のグランプリは陣内孝則さんがボーカルのTHE ROCKERSとか、結構面白いバンドがいっぱいいたときなんですよね。歴代グランプリバンドとして、サザンオールスターズもそのときに出ていましたし、ドラムが神保彰さんに変わる前のCASIOPEAも出ていました。

──豪華ですね。

宮脇:そのあたりまでは何とかいけたんですが、その先がないことがわかっていましたし、でも音楽に関わりたいなとも思っていました。大学に入った頃は尖っていて「大企業とか許せない」とか「ヤマハはダメ」だとか真剣にそう思っていたんですが、実際に音楽活動をしていろんなことをやってみると良い意味でヤマハの凄さがすごくわかったんですよね。

自分たちも録音してもらったりしましたし、「ヤマハで仕事したい」と思うようになりました。そういう楽器メーカーとして興味が持てたのはヤマハくらいしかなかったんですよね。あとはまさに音楽業界系で、CBSソニーとトリオ(現JVCケンウッド)も受けました。全然だめでしたけどね。

──トリオ・レコードってありましたね。

宮脇:当時のレコード会社は、メーカーとかと面接のタイミングが違って、マスコミ系とかと一緒のタイミングだったので、ヤマハと両方受けることができたんですが、結果ヤマハに拾ってもらえたんですよ。

──拾ってもらえた、ですか?

宮脇:本当にそうなんですよ。採用面談のときに「宮脇さん、大学のときに何をされたのかご説明ください」「私は軽音楽部をやっておりました」「いやそういうことではなくて」「いや、しかし軽音楽部をやっておりました」「ちょっといい加減にしてください」「本当に申し訳ありません。経歴上は水産学部漁船工学ということになっていますけど」「いやそこで何をやられていたんですか?」「FRP(繊維強化プラスチック)の非破壊実験です…」 「宮脇さん、うちとヤマハ発動機と間違っていませんか?」って(笑)。作っている話じゃなくて本当にこういうやりとりで、面接過程で同じ話を2回くらいする羽目になったんですよね。

それで、たまたま少し多く採用していた年だったらしく、どうにか紛れ込ませてもらったんですが、入社研修を受けていたらピアノの売り上げがガタンと下がったので「大変なことになった」「本当に君たちを採りすぎた」と言われたんです。採りすぎたっていうのを多分僕の顔を見て言っているんじゃないのかなって思うくらい、ロックンロールの世界でしか役に立たない奴を間違えて採っちゃったんですよ。

──そういう意味では、ヤマハは懐深いですね。

宮脇:本当に間違ったんだと思います。ただいわゆるLMと呼んでいた世界のところを「ちゃんとやらなきゃな」という方針はあったようです。

──LMって何の略ですか? 

宮脇:ライトミュージックの略ですね。それはヤマハが軽音楽を勝手に日本語英語にした言葉で、ギター、べース、ドラム、あとシンセサイザーとかクラシカルではない楽器に、プロオーディオも一緒くたにしてLMとまとめていたんですね。

──弦楽器管楽器ピアノ・エレクトーン以外のものということですね。

宮脇:そうです。ですからもうロックンロール系のヤクザな世界をLMとひとくくりにして。

──今思うと軽音楽って失礼な話ですよね(笑)。

宮脇:本当そうですよね。それをまた英語で「ライトミュージック」って、ありえない時代ですよ(笑)。

──最初の配属先はどちらだったんですか? 

宮脇:四国支店・高松店です。私はヤマハ札幌店とか北海道支店にすごくお世話になったので「北海道で勤務したいです」と言ったら反対側に持ってかれて(笑)。当時は今よりも直営店の数も支店の数もずっと多い時代でしたので、本当にどこに行かされるかわからなかったんですよね。浜松が本社ですが基本的に営業は散らばるみたいな。

──同期入社って何人くらいいたんですか?

宮脇:80人くらいですね。もっと多いかもしれないですが、営業だけですとそれくらいだったと思います。

──四国に行かれてどうでした?

宮脇:同期の中では東京の渋谷店とかに配属になる人もいて、最初は「うらやましいな」と思ったんですが、地方にいると入社1年目でいきなり自分が全部やらなきゃいけないような状況に必然的になるんです。そうすると色々なことを全部覚えざるを得なかったんですよね。何がお店の中で起こっていて、経営的にどうなのかとか、自然と全体的に考えるようになるんですね。

──支店長的な?

宮脇:そんな偉そうなものではないんですが、お店って売り場ごとに独立していて、それらが積み上がって成り立っているものですから、大規模なお店だと、ギター担当とかドラム担当とか、商品軸でしか見ないところを、高松店では全部やらせてもらえたんです。

もちろんギター弾きなので最初はギターのことに関わりたかったんですが、仕事をする中で、演奏している立場でギターのことをやるのと全然違うことも気づきましたし、そのまま商品開発に携わったとしても、恐らく売れるものは作れないと思いました。それとともに、PAや録音といったプロオーディオの世界に興味が出てきました。

──四国ではPAや録音に関する売場も担当されたんですか?

宮脇:そうですね。人が少なかったですし、私は大学のサークルでPAや録音をすることもありましたから。ホールがありまして、そこで自分たちがいつもやりとりしている地域のアマチュアの子たちと、それからゲストを呼んだりしてコンサートをするんですが、自分が司会をやりながら卓を握っているみたいなことも、結果的にやらざるを得なくて、そういうことも含めて実地的な体験と勉強もできたんです。

プロのジャズのミュージシャンに「とりあえず音録っておいて」と言われて、録ったやつを聴いてもらったら「なんでドラムのタムにパン振っているんだよ!」とか、軽くかけたつもりのリヴァーブにサックスの方が気づいて「場末のサックス吹きじゃねぇんだよ!」とかボロクソに怒られたり(笑)、そういうことって体験しないとわからないじゃないですか。やってはいけないことが何かを考えてやらなくてはいけないとか、入社して数年のところでそういう失敗経験ができたのはものすごくラッキーだったなと思っています。

──もしかするとヤマハに入社された段階で、LMに関しては高松店の中で一番詳しかった?

宮脇:ロックの楽器を演奏するっていう点では一番詳しかったと思います。当時はやはりピアノとかエレクトーンというのは会社の中では大人気ですし、「お前はLMでもやっとれ」みたいな話だったんですよ。

──そのピアノやエレクトーンと、LM・PAの立場がだんだん逆転していくわけですね。

宮脇:決して逆転していませんが、近づいてはきました。そう考えると、色々な意味でラッキーだったんです。早い段階で自分のやりたいことを見つけることができましたし、退職するまでPAに関わり続けてこられたのは本当にありがたいと思っています。

 

印象に強く残るPM3000シリーズと02R

──ヤマハ時代に印象に残っている商品は何ですか?

宮脇:プロオーディオのすべての範疇をやっていましたので、たくさんあるんですが、大きくは2つ。1つはコンサート用のコンソールでPMシリーズと呼ばれているものなんですが、私が入社するまでにPMシリーズというのは充分エスタブリッシュされていて、世界中で使われていたんです。

それで、1985年夏に高松から大阪に移りまして、業務用の音響機器に本格的に関わるようになったタイミングで、PM3000というコンソールをヤマハは発表したんですが、いきなり私がその商品の発表会に関わることになったんです。それで大阪・名古屋の発表会をわけのわからない状態の中でやらせていただいて、そこからどんどんプロオーディオの世界にはまり込んでいきました。

当時は商品も素晴らしいし、お客さんも素晴らしいし、競合もすごいし、良い時代でしたね。いろんな意味で厳しかったですが、そういう商品に関わることによってどんどん世の中との接点が増えていきました。

──コンサート会場にいらっしゃることも多かったんですか? 

宮脇:そうですね。ヒューイ・ルイス&ザ・ニュースが来日したときに、彼らのエンジニアが「ヤマハのPM3000を使ってみいたいから持って来てくれ」といわれて持って行ったら、VCAを知らなくて説明しても使わなかったりとか(笑)、色々ありましたがPM3000の販売にはかなり深く関わっていました。PM3000の次の世代では、商品開発の段階から色々な意見を言えるような立場になっていきましたから、そうするとより商品への愛がこもっていくんですよね。

2つめの大きなトピックはやはり02Rです。実際ヤマハは、デジタルミキサーを1987年に初めて出して、そのころから継続的に関わっていましたし、先ほどお話したデジタルミキサーレコーダー一体型というものもやりましたし、そういったことを積み重ねて、集大成として出したのが02Rです。ちょうど世の中が大きく変わるときでタイミングが良かったと言いますか、ADATとかDA-88とか、そういう8チャンネル単位のモジュラーマルチトラックレコーダーが個人でも買える値段で世の中に出てきたんですよね。

02Rは初めて「カードスロット」という概念を導入して、世の中の様々なフォーマットがAD/DA変換せずにそのままつながる、というのが非常に画期的でしたので、私は02Rという商品を世の中に出すときに、02Rの話だけをするのではなく、一緒につながるレコーダーを含めたシステム、ソリューションという形でお客様に伝えなくてはいけないと考えました。

具体的に例えばTASCAM DA-88を何台つなげますとか、どうつないでどうなっているのかとか、何をやらなきゃいけないのかとか、ADATを何台つないだときに何が必要で、何をやらなくてはいけないのかとか、具体的に示したいのでDA-88やADATをカタログの中できちんと紹介したいと。それで各社さんにお話に行きまして、ご説明したら、みなさん快く協力してくださって、恐らくヤマハとしては初めてなんですが、堂々と他社さんの商品を三分の一ぐらいのスペースを使って掲載して、実際にどうなるのかご紹介をしたんです。

──素晴らしいですね。

宮脇:ただ、苦労もありましてTASCAMもADATも基本的にはデジタルでミキサーにつなぐことをあまり考えていなかったんですよ。デジタルでつなぐ理由は主としてテープをデュプリケイトするため、つまりバックアップを取るため。ですからDA-88を2台ケーブルでリンクさせて、aからbに全く同じテープをもう一個作っておく、というのがほぼメインの用途でした。

というのはそんなに簡単につながるミキサーというのが当然存在しなかったので、やってみると色々なことが起こるんですよね。デジタルのシンクが取れなくなったり、取扱説明書にも書いていない設定をレコーダー側でしてあげないと繋がらないとか、メーカーさん、代理店の協力を受けながらやっていったんですよね。みなさんの商業スタジオ市場とぶつかるような話だったとは思うんですけど(笑)。

──ですよね(笑)。

宮脇:だからミュージシャンのみなさんも自分たちでどこまでできるかというのを色々模索していた時代で、実際に02Rを3台並べて大きな卓のようにして使っていたところもあったり、本当に面白い時代でした。その頃にオノセイゲンさんが自分のマスタリングスタジオを立ち上げようとして連絡くださったんですよ。

──サイデラ・マスタリングを作る前ですか?

宮脇:はい。セイゲンさんが02Rのことを耳に挟んだらしくて「ちょっと話を聞きたい」とおっしゃるので、お会いして説明したら、セイゲンさんが「僕はこの02Rを核にしてサイデラ・マスタリングというスタジオを立ち上げる」とおっしゃってくれたんですよ。

はっきり言いまして、02Rが一つ売れても大した利益にはならないんですが(笑)、セイゲンさんってものすごいアイデアマンなので、「宮脇さん、こういうことを思いついたんだけど、できないかな?」と提案されたら、02Rのソフトウェアの部門をほぼ仕切っていた人間に「セイゲンさんがこんなこと言っていて、俺はできそうな気がするんだけどこれ、どうかな?」って伝えたら「うーん、できますね」って。そういうことを繰り返したんですよ。

開発する立場としては、機能に何かを加えたときに他のものとぶつかるとか、そういったコンフリクトを嫌がるんですね。幸い当時の僕は頭が良く回ったので(笑)、「こうしたら良いよ」ってすぐ答えられたんですよ。そうしたら「あぁーわかりました。じゃあ、やってみます」という話を朝10時にすると、10時40分くらいには電話が掛かってきて「宮脇さん、実際にソフトに書き込んでみたのでチェックしてください」と。そういう話がセイゲンさんだけではなくて毎日のようにありまして、酒を飲みながら、またお風呂に入りながら、当時はそういうことばっかり考えていたんですよね。

──営業職にも関わらず、技術的なところに踏み込んでいますよね。

宮脇:僕は、ソフトのことはわからないですし、電気のこともわからないですが、商品の扱い方や機能を大枠のところでは掴んでいたので、そういう話は幸いできたんですよね。だから、風呂場で思いついたこととかを、次の朝にソフトウェア部門の彼に言うと、本当に10分くらいの問答で「やってみます」です(笑)。

──そういう時期って面白いですよね。

宮脇:面白かったです。その頃の規模だからできたんですよね。

──02Rって実際にどれくらいの台数が売れたんですか?

宮脇:最終的には何台でしょうかね。数万台ですね。最初は個人のプロジェクトスタジオとかで使われだしたんですが、だんだんライブPAの現場でも使われるようになったんです。

実はヤマハではずっとワールドツアークラスのコンソールも、いつかはデジタルになるはずだと思っていまして、そういう話をライブエンジニアのみなさんに話すと「まだ無理じゃないの?」「だって切り替えたらまたフェーダーがバッと動いて、前にあったやつがどこにいったかわからなくなるやつでしょう?」っていうくらいの認識だったんです。

ところが、02Rがどんどん現場で使われるようになってきて、「これは今やらないとダメだ」と、コンサート用のデジタルコンソールに「PM1D(PMシリーズの第一世代デジタル)」とネーミングして開発を始めました。その頃は色々なことがエキサイティングでしたね。録音スタジオはどんどんデジタル化していって、今度はライブがデジタル化していって。デジタルになれば良いというわけではないですし、デジタルになる弊害もあるでしょうけど、どちらのメリットが大きいかというと、メーカー的視点じゃなくてもデジタルの方が絶対にメリットあったんですよね。

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