第158回 (株)Zeppライブ 執行役員常務 青木聡氏【前半】

インタビュー リレーインタビュー

今回の「Musicman’s RELAY」は音楽プロデューサー 河井留美さんのご紹介で、(株)Zeppライブ執行役員常務 青木聡さんのご登場です。新卒で入社したワーナーからEPIC・ソニーレコード(以下、エピック)に移られた青木さんは、テレビで偶然見かけた元ちとせを育成し、紆余曲折を経て「ワダツミの木」を大ヒットさせます。また、ソニー・クラシカルに在籍時、200万枚を超えるセールスを記録した「イマージュ」や、「ライブ・イマージュ」「情熱大陸ライブ」の企画・立ち上げなど斬新な企画を連発。その後もCrystal Kay、アンジェラ・アキ、中孝介、そして「のだめカンタービレ」のCDなど数多くの作品・アーティストを送り出されました。現在はZeppライブで日々新たなコンサートやイベントを開発されている青木さんにレーベル時代のお話から、自身が考える「ライブ&アート」についてまでお話を伺いました。

(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)

 

卒論のテーマはジェームズ・ブラウン

ーー 前回ご登場頂いた河井留美さんとはどういったきっかけで出会われたんですか?

青木:僕が葉加瀬太郎を担当していたときに、葉加瀬がセリーヌ・ディオンの「TO LOVE YOU MORE」で共演して、セリーヌのアメリカツアーを一緒にまわったんですが、引き続きヨーロッパツアーも一緒にまわるときに、「誰かいいコーディネーターいないか?」と社内で色々聞いて出てきた名前が河井さんだったんです。97、98年だったと思います。

ーー 以来ずっとお付き合いが続いているんですね。

青木:そうですね。クレモンティーヌがひと段落しちゃったときも、「何かいい方法ないか?」と相談をもらって、「邦楽でやってもいいんじゃないの?」と。クレモンティーヌはすでにある程度キャリアを積んでいたんですが、「俺がやるんだったら邦楽的にこういうことをやらせるよ」と、TUBEの「シーズン・イン・ザ・サン」とか童謡の「手のひらを太陽に」とか歌ってもらったんです。多分、河井さんも面食っただろうし、クレモンティーヌ本人も「なんでそんな日本語の歌を翻訳して歌わなきゃいけないの?」と最初は思ったんじゃないかなあ、でもそんな予行練習があって、その後の「バカボン」につながっているから「面白いもんだな」って思うんですけどね(笑)。

ーー 「バカボン」のきっかけは青木さんだったんですね。

青木:それまでクレモンティーヌっておしゃれな渋谷系のイメージだったと思うんですが、「もう少し下世話なこともやろうよ」って言い出したのは僕かもしれないですね。まあ僕のところでやったときは、CD自体はあまり動かなかったんですが、それが「バカボン」みたいな仕事と繋がって、再び注目されたわけですからね。

ーー 撒いた種が今花開いたと。

青木:そうですね。今はクレモンティーヌに関わってないですが、河井さんとはつかず離れず色々なことをやっています。例えば、SCANDALのヨーロッパツアーも河井さんが向こうのプロモーターに繋いでくれて、ツアーを2回やりました。

ーー ここから先は青木さんご自身のことをお伺いしたいのですが、お生まれはどちらですか?

青木:大阪の高槻です。槇原敬之さんと同郷ですね。彼とはワーナーにいたときにそんな話をしました。家も近所でね。

ーー どのようなご家庭だったんですか?

青木:両親ともに教師だったので、すごく堅い家庭でした(笑)。父が高校教師で、母が中学教師で。音楽業界に行くにあたって、父親には「お前、水商売に行く気か」と言われました(爆笑)。

ーー (笑)。

青木:「いや、違うよ」って言ったんですけど(笑)。まあ昭和初期生まれの頭の固い人なので。だから僕は大学で教職免許も一応取りました。それで両親には「教師にはいつでもなれるから大丈夫だよ」と一応安心させた上で(笑)、音楽業界に入りました。

ーー 音楽との関わりは小さいときからあったんですか?

青木:4歳のときからピアノをやっていて、クラシックは好きでした。ただ、よくある話ですがクラシックだけだと面白くなくなっちゃって、中学くらいからポップミュージックに興味を持ち、バンドとかをやっててって感じでしたね。

ーー では、中学に入るまでは結構クラシックを?

青木:ドビュッシーくらいまで弾きましたよ(笑)。コンクールに出るまでは上手くなかったですし、あくまでも趣味の範囲で、プロになる気は全くなかったですけどね。ただ、心のどこかで「音楽に携わる仕事できたらいいな」とずっと思っていました。

ーー 「プロにはならない」というのは、ポップミュージックに対してもですか?

青木:はい。ポップミュージックは中学生くらいからすごく好きになって、ピアノをやっていたので、一番最初にビリー・ジョエルが好きになりました。で、ビリー・ジョエルの中にあるR&Bの要素に惹かれて、そこからブラックミュージックが好きになりました。新卒でワーナーに就職したのも「ブラックミュージックに携わる仕事ができればいいな」と思っていたからなんですよ(笑)。当時のワーナーにはボビー・ブラウンやGUY、テディ・ライリー、あとプリンスとかいましたからね。

ーー 青木さんがブラックミュージック好きだってみなさん知っているんですか?

青木:いや、知らないと思います。多分、みんなクラシックと沖縄音楽が好きな人間だと思っているんじゃないでしょうかね。自分のキャリアの中で、仕事としてブラックミュージック的なものを扱う機会がたまたまなかったんですよね。

ーー アピールしてこなかった?

青木:うーん、そうですね。「好きだからこそやらないほうがいいのかな」みたいところもあったかもしれないですね。

ーー 高槻にはおいくつまでいらっしゃったんですか?

青木:大学を卒業するまでですね。

ーー では、大学まで関西の学校に通われて。

青木:そうですね、なんら特殊なことはないですね(笑)。特殊なことがあるとするならば、僕は大阪大学の文学部美学科音楽学というところを卒業しているんですよ。

ーー 大阪大学にそんな学科があるんですか?(笑)

青木:これがあるんですよ(笑)。文学部の美学科の中に音楽学というのが。で、卒論は「JB(ジェームズ・ブラウン)」について書きました(笑)。

ーー 凄いですね…どんなことを書かれたんですか?

青木:ジェームズ・ブラウンのパフォーマンスにおけるコーラスの社会学的な役割を紐解くみたいな論文で一応卒業したんですよ(笑)。

ーー かなり特殊な学部ですよね。

青木:そうですね。「就職できない」ってすごく言われました(笑)。自分でも「卒業したらどうするんだ?」って思っていましたからね。たまたまワーナーが拾ってくれただけで(笑)。

ーー 楽理的なこととかを勉強するんですか?

青木:楽理的なことももちろんやりますが、「社会と音楽の関わり」みたいなことを中心に勉強していました。例えば、マレーシアの、鳥の鳴き声を言語化して、それを音楽にしてコミュニケーションに使っている部族をフィールドワークで1年研究している、みたいな先輩がいましたね。

ーー (笑)。

青木:すごいでしょう?(笑) ただ、面白そうだけど「それ、辛くないか?」と思ったんですよ。その先輩は本当に現地人と同じ生活をしているわけですよ。風呂も1年入っていないみたいな。そういうフィールドワークをして、帰国して研究している。「すごいな」と思いますけど、「俺の人生の選択としてはないな」と。どうせならもう少しお金があって、楽しく人生を終わりたいな…と思ったんですよね(笑)。

ーー 研究一直線になると本当に大変ですよね。

青木:ただ、僕を担当してくれた山口さんという助教授が幅広い方で、僕が「ジェームズ・ブラウンを卒論にしたい」と言ったら、「じゃあこの本とこの本を読みなさい」ってちゃんと推薦する本を紹介してくれたんですよ。英語の本だったので「これ全部読むんだ…」って思いましたけど(笑)、それを読み解きながら一つの論文に仕立てました。

ーー その学部って何人くらいいるんですか?

青木:研究室は10人くらいだったと思いますね。男3の女7みたいな感じで。

ーー すごくアカデミックですよね。

青木:アカデミックですけど、みんな今どうやって食っているのかなって本当に心配に思いますよ(笑)。

ーー まあ音大・芸大を出てもそうですからね。

青木:でも、音大・芸大はまだスキルがあるじゃないですか? 彼らは弾くとか吹くとかできるけど、僕たちは弾きもしない、吹きもしない、理屈だけで、しかも理屈もなんかこう比較的取ってつけたような…(笑)。

ーー (笑)。では、その学部での教職って音楽の先生なんですか?

青木:いや、社会科なんですよ。僕は教育実習で高校の地理の授業を受け持ったんですが、アメリカの音楽の説明をしながら、「アメリカでは民族が色々混ざり合って」みたいな説明をしたんですが、それはすごく好評でしたね(笑)。

ーー 他の人にはなかなかできない授業ですよね。

青木:そうかもしれないですね。「『テックスメックス』という音楽があって、ロス・ロボスというバンドがいて、これはメキシコ人がアメリカに来たから生まれた音楽なんだ」みたいなことを音楽を聴かせながら授業したんです。みんなすごく楽しんでくれていましたし、指導してくれた先生からの評価も良かったです。だから就職が決まってから半年くらいしたときに、その先生から電話がかかってきて「青木君って本当に教師やる気はないのかな?」って言われて、「すいません、少しだけレコード会社でがんばらせてもらっていいですかね?」って(笑)。「煮詰まったらまた電話します」と言ってお断りしました(笑)。

 

 

洋楽のプロモーションでディスコ・放送局回りをした最後の世代

ーー どのように就職活動はされたんですか?

青木:就職活動は「メディア」と「音楽」に絞って、最終的にはワーナーと集英社が残ったんですよね。それでワーナーの方が先に内定が出て、自分自身を問い詰めたときに「本やマンガよりやっぱり音楽だな」って思ったので、そのままワーナーに決めました。

ーー そして89年にワーナーに入社されて上京されるんですね。

青木:はい。いきなり洋楽の宣伝部に配属されて、洋楽のプロモーションをしていました。

ーー 洋楽のプロモーションマンとして、どのような仕事から始めたんですか?

青木:いわゆるディスコ、ラジオ局回りってやつですよ。

ーー それは昔からあまり変わってないんですね(笑)。

青木:そうですね!(爆笑)僕は本当に古い世代の最後だと思うんですよね。AMまで回っていましたし、深夜放送の立ち会いとかもしました。

ーー 青木さんはそういったことをした最後の世代だと。

青木:だと思います。USENの放送所回りもやりました。ディスコ回りは、当時まだゼノンとかニューヨークニューヨーク、リージェンシ―といった大箱ディスコが残っている時代です。ゴールドとかジュリアナになる一歩手前ですね。

一番面食らったのは、このディスコの仕事でした。「論文仕立てた後で、卒業して、でこれやるんだ」と思って(笑)。ディスコのプロモーションというのは、ディスコのDJの横について、曲がかかるまで待つわけですよ。もし帰ると…。

ーー 「あいつ帰ったな」と?(笑)

青木:そう(笑)。「あいつはそういうやつだ」って100年言われますので(笑)、かけてくれるまで待つわけですよ。そして、かけてくれるのを待つ人に対しては、彼らも誠意を持って対応してくれるんです。かけてくれるまで待つと何があるかっていうと、その日のフロアの状態をみて、1番良いタイミングで持って行った新曲をかけてくれるんですね。そうしたらすぐ結果が見えるんです。ダメな曲は蜘蛛の子を散らすように人がいなくなるし、良い曲は良いタイミングでかけるとそのまま人が残るんです。だからそういう意味で、マーケティングリサーチがすぐできるのですごく勉強になりましたね。

ーー ディスコへ行くときには、どんなファッションで行っていたんですか?

青木:いや、本当に普通の汚い格好で行っていましたよ(笑)。もちろんビシッと決めた人もいました。エイベックスの人たちなんかすごくカッコイイファッションで来ていましたね。僕は松浦さんがプロモーションをしているのを横で見ていましたから。

ーー あ、同じところにいたんですね。

青木:彼らがあんな風になるとは当時全く思わなかったです。後発のレコード会社で頑張ってやっているな、大変だなみたいな(笑)。知名度のないアーティストなのによくやっているなみたいに思っていたんだけど、あっという間に大ヒットを連発して(笑)。

ーー びっくりしますよね(笑)。

青木:ワーナーにはボビー・ブラウンとかビッグネームがいましたけど、それでもずいぶん苦労しました。ご存じの通り、日本のディスコフロアというのはユーロビートマーケットなので、そこでブラックをかけるのって、すごく難しいんですよね。例え、ボビー・ブラウンの「Every Little Step」みたいな名曲でも下手なかけ方をすると人がいなくなっちゃうんですよ。ですからDJも慎重に考えているんですが、そこで僕が偉そうな態度でCDを持って行ったら「は?」って言われたと思うんですよ。

ーー 青木さんは音楽業界の王道の叩き上げって感じですね。

青木:いやいや(笑)。でもすごく勉強になりました。ディスコでDJの話を聞いたり、有線のモニターのお姉さんが「この曲はああだこうだ」言う愚痴を聞いたり、そういうのを聞くのは勉強になりましたね。あとはAMも洋楽にとっては非常に厳しいところじゃないですか。

ーー AMは難しいですよね。トークが中心だったりしますから。

青木:僕も馬鹿だったので、何も考えずに会社の推しものを持って行くじゃないですか。で、「この曲をかけてください」ってそのまま言うわけですよ(笑)。そうしたら当時「松任谷由実のオールナイトニッポン」をやっていた松島さんというプロデューサーが「青木くんさ、うちの番組ちゃんと聞いたことある?」って言われて(笑)、「確かにちゃんと聞いてないな…」と。そのときは「もちろん聞いています!」って言いましたけど(笑)、「そうしたらさ、うちの番組にはどういう曲がいいと思うかも含めてプロモーションして欲しいんだよね」って言われました。

その言葉から「なるほど、プロモーションっていうのは、推しものだけやっていてもダメでコンサルティングなんだな」って学んだんですよね。やっぱり相手のニーズも分からず、一方的に会社の推しものを持って行っても、何もかすらないってことはすごく勉強になりました。その松島さんから言われた一言は、その後のキャリアの中でもすごく大事に思っていることですね。

ーー ソリューションビジネスにしていったってことですね。

青木:まあ、そうですね。ずっとそうかもしれないですね。プロモーションっていうのはソリューションだっていう考え方をしていますね、どちらかというと。

 

 

ワーナーからエピックへ〜報道番組・ワイドショーというブルーオーシャン

 

(株)Zeppライブ 執行役員常務 青木聡氏

ーー そして95年にワーナーを退社されますね。

青木:実はワーナーに入社したときに洋楽のトップが折田育造さんで、折田さんがWEAミュージックに社長として行かれるときに、僕は入社半年だったんですけど、無理矢理一緒に連れていかれたんですよ。「あれ、大会社に入ったつもりだったのに、なんでこんな中小企業に…」みたいな感じだったんですよね(笑)。

その後、折田さんと一緒にワーナーへ戻ったんですが、邦楽担当になって「これは俺が本来求めてやっていたことと違うな」とモヤモヤしていたんです。しかも折田さん1人がユニバーサルに移籍して、僕らは取り残されてしまい…(笑)。その後、折田さんが抜けてから1、2年したところで、当時の上司の丹羽さんという方が「青木、エピックが人を募集しているんだけど」って言うんですよ。

実は丹羽さんがずっと一緒に仕事をしてきたエピックの岸 健二郎さんから「洋楽も邦楽もできる若手で、誰かいいのいないか?」って相談があったらしく、丹羽さんは「若手って言わなきゃ俺が行きたいくらいなんだけどさ」って言いながら「おまえ行った方がいいよ」って紹介してもらったんですよね。

ーー では渡りに船だったんですね。

青木:そうですね。あれ、これって体のいい肩たたき?とも思ったのですが、丹羽さんは信頼できる方だったし、いい話だなって思ったのでもうスパッとワーナーを辞めて(笑)。それでエピックに行ったんですが、当初「アーティスト担当で」と言われていたんですよ。ワーナーではメディア担当は一通りやったので、それよりもアーティスト担当としてプランニングをしたいという思いがすごくあって、エピックの話を受けたところもあったんです。

それで配属されたのはエピックの制作4部というセクションだったんですが、当時、エピックには制作部が4つあったんですね。1部が小坂洋二さんのところで、佐野元春がいて渡辺美里がいてCharaがいてという「THE エピック」な1部。2部はドリカム(DREAMS COME TRUE)とジュディマリ(JUDY AND MARY)。3部がマーチン(鈴木雅之)を筆頭とした部署で、1、2、3部はJ-POP王道のエピックらしいことをやっている。で、4部は何かというと、葉加瀬太郎のクライズラー&カンパニー、ゴンチチ、遊佐三森、あと上々颱風がいるセクションだったんです。

ーー 今からすると面白そうなセクションに感じますけどね。

青木:僕自身も面白そうだなと思いましたし、それで行ったんですが、エピックって1つの大きな宣伝部が全部の部署を見ている状態で、ひどい話なんですが、宣伝部から「4部のものはやらない」と言われたんですよ。

ーー え!?(爆笑)

青木:ひどくないですか?(爆笑) で「青木さんという優秀なプロモーションマンがワーナーから来るらしいから、その人にアーティスト担当兼宣伝をやってもらおう」と。

ーー つまり宣伝も自分でやれと。

青木:そう。「お願いします」ということになって…これはやられたなと思いましたけど(笑)、もう言ってもしょうがないやと思いましたし、当時の制作マンたちも「どうせ宣伝部では何もやってくれない」という認識だったんですね。だから「青木さんが手の回る範囲でやってくれたらいいから」ということで「わかりました」と。でも、ここでの仕事はすごく勉強になりましたね。

ーー でしょうね(笑)。

青木:全部自分で立案し、有効打のあるところだけプロモーションしようと思いました。それでどうしたかと言うと、上司の岸さんのアドバイスもあって、報道番組やワイドショーに行ったんです。普通の歌番組に行っても、芸能プロとの戦いになるじゃないですか。そういうところを開拓しても意味がないので。

ーー 新しいところを開拓するわけですから、文句言う人もいないでしょうしね。

青木:歌番組に行ったって、過当競争にさらされるだけだから、他の場所を探すということでTBSの「NEWS23」であるとか、当時はフジテレビの「ニュースJAPAN」に音楽コーナーがあったりしたので、そういうところに上々颱風を出してもらったりしました。

ーー ブルーオーシャンを探したわけですね。

青木:そうです(笑)。報道セクションとか、ワイドショーの人たちとコミュニケーションがとれて、色々なプロモーションができましたし、その後、業界全体のプロモーションがそっちに軸足を移してきたので、その先鞭を付けられたなって思います。

ーー 青木さんがいち早く目を付けたわけですからすごいですよね。

青木:やむにやまれずでしたが、災い転じて福となったわけです(笑)。4部ではほどほどに良い結果が出たものもあったんですが、それでもなかなか大変だなと思っていて、そんなときに当時の上司の小谷さんという方が座席の後ろに寄ってきて、「青木、オープンプレイスメントシステムという新しいシステムがウチの会社で始まったの知っている?」って聞くんですよ。要はなにかっていうと、社内転職システムなんですが、そういうシステムが97、98年くらいにトライアルになって、「ソニー・クラシカルがさ、募集しているよ」って…(爆笑)。

ーー (笑)。

青木:ワーナーに引き続いて、また上司から肩を叩かれている感じ、みたいな(笑)。そう小谷さんに言ったら「いやいや、青木がいたいんだったら全然いてくれていいんだけど、おまえの指向性を見ていると行った方がいいんじゃないかなって思うんだよね」って言ってくれて。「わかりました。そういうことだったら1回考えさせてもらいます」って言って、結果受けたんですよ。

ーー 元ちとせさんは、ソニー・クラシカルにいるときの仕事だったんですか?

青木:実は、元ちとせはソニー・クラシカルに行く寸前に手を付け始めていたんですけど、これはなかなか時間がかかって。

ーー 元ちとせさんを見つけたのはテレビだったそうですね。

青木:そうなんですよ。テレ朝の「トゥナイト」で「セーラー服の民謡歌手」みたいな企画に元ちとせが出ていて、「すごく良い声だな」と。それまでの仕事を通じて「トゥナイト」のスタッフの連絡先も当然知っていたのですぐ電話して、「あの子すごかったね。連絡先教えてくれない?」って(笑)。当時、個人情報保護法とかない時代なんで、あっという間に電話番号を教えてくれて、それで電話して奄美に行ったんですよ。当時、彼女は高3だったんですが「卒業したら美容師になります」って言うんですよ。

ーー そうだったんですか。

青木:だからそのときは「すみません」って感じだったんですが、「その気になったら電話ちょうだい」って名刺を置いていったんですよ。そうしたら、1年後に電話がかかってきて、実はパーマ液のアレルギーで、美容師が続けられなくなったので、島に戻ろうと思ったんだけど、思い出して1回電話してみましたと。

それですぐに飛んでいって、話を聞いて。僕はいつかオーガスタの森川(欣信)さんと仕事をしたいなと思っていたので、「スガシカオくんのプロデュースでこの子どうですか?」って森川さんに話を持ち込んだんですよ。それで彼女にはしばらくHMVでバイトしてもらいながらデモを録っていこうということになりました。

ーー 育成しようと。

青木:そうです。そこからデビューまで2年半かかってしまって。

ーー そこまで時間がかかった理由は何なんですか?

青木:あの声でしょう? 僕も森川さんも彼女に何を歌わせるべきか正解を見つけるのに時間かかったんですよね。最初のデモでMISIAのデビュー曲「つつみ込むように…」とかも録ったんですが、彼女、そういう歌も滅茶苦茶うまいんですよ。

ーー それは聴いてみたいですね。

青木:それこそ、僕がJB好きとかいうのも、ある種のよくないフィルターになっちゃった気もするんですが、「『安室奈美恵の次は奄美だ!』みたいな感じでデビューさせられたらいいんじゃないか?」って言っていました。でも、そういった系統の歌を録ったデモがどれも彼女のパワーをマスキングしちゃっている感じがするんですよね。

それで、森川さんの発案で、山崎まさよし君のちょっとヨナ抜き和メロの「名前のない鳥」という曲を試しに歌わせてみたら、これがすごくよくて「やっぱり民謡的な素養を活かすものを歌わせないとダメなんだ」と気付いたんですが、そこにたどり着くのに結構時間かかったんですよね。

ーー 素材がよすぎて料理方法に迷ったと。

青木:そうなんです。あと森川さんと僕も忙しかったという理由ありますけど。彼女はHMV 数寄屋橋店でバイトを始めたんですが、どんどん出世しちゃって、バイトチーフまでになっちゃったんですよ(笑)。ただ彼女もツイているんですけど、HMVで僕があずけた店長で小川さんという人がいたんですが、彼がその後販促担当としてヘッドハンティングされて、タワーレコードにいたので、元ちとせのデビューのときは、タワーの販促担当は応援するわ、HMVも「自分のところでバイトしていた女の子」って応援するわ、その両方のチェーンがすごく応援してくれたんですよね。

ーー それは大きいですね。

青木:はい。で、ちょっと戻ると、元ちとせのデモを録りはじめたくらいのタイミングで、小谷さんから異動の話があって、俺は当時、昼間と浜野という2人の友達というか同世代のA&Rに彼女を預けちゃったんですね。昼間と浜野とはその後アンジェラ・アキとかをやることになるんですが、2人ともA&Rとしてすごく優秀な人間ですし、この2人だったら信用できると思って預けたんです。森川さんには「お前ひでえな」ってさんざん言われましたけど(笑)。

 

エピックへ出戻って来た途端、元ちとせが大ヒット

ーー そしてソニー・クラシカルに異動されて。

青木:はい。でもソニー・クラシカルには1年半しかいなかったんですよね。大ヒットした「イマージュ」が面白かった反面、人間関係もふくめてしんどくなっちゃったんですよ。小谷さんに「クラシックセクションの水が合わなかったようなんですが、もう出させてもらっていいですか?」ってお願いしたら「じゃあ戻ってくれば」って(笑)。ソニーミュージックっていい会社ですよね(笑)。

ーー あっさりと(笑)。

青木:「最近ちとせちゃんも良い感じだから戻ってきたら?」みたいな風に小谷さんに言ってもらえて。もちろん裏で色んな人に迷惑かけてたんだと思いますが。2001年、元ちとせのデビューの直前にエピックに戻ってきたんですよ。これは滅茶苦茶ラッキーですよ(笑)。昼間、浜野がずっと仕込んでくれていたことがなんとなく実になり花になりというタイミングで戻って来たわけですからね。

ーー 土台の工事はお2人がすでにやっていて…(笑)。

青木:そうです(笑)。2人は別に部下でもなんでもない、単なる仲間なんですが(笑)、1度出た人間に対して「青木くん、また一緒にやろうよ」って言ってくれて。彼らは制作、僕は宣伝プロデューサーとして陣頭指揮を執って、元ちとせのデビューにたどり着いたんですね。

ーー 元ちとせさんの「ワダツミの木」は衝撃的でした。

青木:そうですよね。「ワダツミの木」を持ってきた森川さんは本当にすごいと思います。「上田現の曲でやるんだ!」と言い切って「ワダツミの木」を持ってくるパワーですよね。僕は自分の判断としてあの曲を選ぶことは、怖くてできなかったと思うんですね。森川さんが「これだ!」と言うから「わかりました。ついて行きます」っていう感じだったので。僕なんか森川さんみたいな真のクリエイターには敵わないなってすごく思いますね。

ーー また青木さんはドリカムとも仕事をしていますよね。

青木:はい。ドリカムの仕事も、エピックを一旦出て行く前に「お前これだけやっていって」と小谷さんに言われた仕事だったんですよ(笑)。ただ、そこでソニーミュージックという大組織を動かす経験を初めてできたんです。

僕はベスト盤「DREAMS COME TRUE GREATEST HITS “THE SOUL”」の宣伝を担当したんですが、実はこれ2枚目のベストなんです。しかも、移籍先のヴァージンとエピック共同で1つのベストを作るという。これイニシャル80万枚からはじめて、300万枚を越える仕事になりました。

ーー 凄いですね。

青木:これは自分の中で、ソニーミュージックの中の組織をどう動かしたら、100万枚というリアリティーにたどり着けるか、特に営業部隊の巻き込み方みたいなことがすごく学べましたね。あともう1つ、あまりアーティストに頼らない形でプロモーションするということもそのときに学べて、これが「イマージュ」のときにすごく生きたんですよ。ドリカムのお二人には一日だけコメント収録をする日をいただいて、それで全てのプロモーションを組み立てるというお仕事だったので。コンピレーションである「イマージュ」ではどういう風に話題作りをして、営業部隊もふくめてどう動かすかみたいなことが重要でしたからね。

ーー 99年から2002年までの間にドリカム300万枚、イマージュ200万枚、元ちとせ100万枚ってすごいですよね。

青木:黄金期ですね、自分で言うのもあれですけど(笑)。

ーー 振れば当たるくらいの。

青木:でも、そんな実感はあまりなかったですけどね。この会社のすごいところなんですが、いずれの仕事もチームプレーなんですよね。元ちとせは引き継いだ人間がきちんと育成してくれていたというのがありますし、やっぱり僕1人でそれをやったということではなくて、チームできちんと動ける環境があるのが、ソニーミュージックのすごいところであり面白いところだなと思いますね。

ーー 同じレコード会社でもワーナーとソニーミュージックってやっぱり違うものなんですか?

青木:全く違いましたね。別世界でした。ソニーミュージックは目的、目標がはっきりしていると思いました。ワーナーで働いていたときは何のために仕事をしているか分からなかったです(笑)。「事務所のため? 売るため? なんなの?」っていうのが特に邦楽ではよく分からなかったんです。あと、今のワーナーはどうか分かりませんが、当時は外資100パーセントになったばかりで、本国が言うことへの忖度がすごくありました。経営者も2年でどんどん変わっていきましたし、残念ながらみんな本国を向いているというか。

ーー なるほど…。

青木:だから、何を言っても通らない。「そんなの無駄」みたいな空気感がありました。ソニーミュージックは「この方が良いでしょう?」って言ったらチームで話し合ってそれを通していける環境があるのがすごいなと思いました。

ーー 2000年には「ライブ・イマージュ」を開催されていますが、これも青木さんの発案なんですか?

青木:はい。僕がオン・ザ・ラインの西さんに持ち込んだ企画です。僕は当初オーチャードホール2日とか3日が限界だろうなと思っていたんですが、やっぱりオン・ザ・ラインの西さんってすごい人で「そんな儲からない仕事、俺はやらないよ」って言うんですよ(笑)。「青木くん、『イマージュ』は200万枚いったんだろう? だったら国際フォーラムAを3日だろ」みたいな(笑)。「えー! そんなに入ります?」みたいな感じだったんですが、西さんはやるっておっしゃって、実際Aホール3日間を売り切ったんですよね。

で、「イマージュ」には情熱大陸の曲を入れていたので、情熱大陸の2代目プロデューサーの毎日放送の中野さんと言う方が「ライブ・イマージュ」を観に来てくれて、その中野さんが帰り際にボソッと「青木さん、情熱大陸でこんなライブできたらいいなと思うんだけど、できないかな?」って言ったので、「葉加瀬が夏にやっているイベントと合体して『情熱大陸』の名前にして始めるのはどうですか?」って提案して、2002年の夏によみうりランドオープンシアターEASTで第1回の「情熱大陸ライブ」ができたんです。

ーー 「情熱大陸ライブ」って今もずっと続けているんですよね?

青木:やっていますね。今年初めて「情熱大陸」が外れて「葉加瀬太郎ライブ」になったんですよ。つまり元に戻ったわけです。

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