第148回 株式会社パインフィールズ 代表取締役 松原 裕 氏【後半】

インタビュー リレーインタビュー

今回の「Musicman’s RELAY」は株式会社ARIGATO MUSIC南部喨炳さんからのご紹介で、株式会社パインフィールズ 代表取締役 松原 裕さんのご登場です。神戸で生まれ育った松原さんは高校時代からライブハウスに魅了され、バンド活動の傍ら、バンドを集めてイベントを企画。その後ライブハウスの店長として数多くのミュージシャンたちと交流する中で、彼らの希望を叶えるためにパインフィールズを設立し、レーベルやスタジオ運営など事業を拡げていきます。そして、阪神・淡路大震災への複雑な想い・罪悪感から2005年に始めた「GOING KOBE」(現「COMIN’KOBE」)は現在大きなイベントに成長しました。現在、ガンと闘いつつ仕事を続ける松原さんに、地元・神戸でじっくり話を伺いました。

(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)

 

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第148回 株式会社パインフィールズ 代表取締役 松原 裕 氏【前半】

 

 

5. 13年間全て1人でやってきた「COMIN’KOBE」

 

 

ーー 松原さんの人生にとって1番大きなイベントはやはり「COMIN’KOBE(旧GOING KOBE)」かと思いますが、どのような経緯で始めることになったんでしょうか?

 

松原:先ほども申し上げましたが、阪神・淡路大震災が起きても、結局僕にとってラッキーなことしか起きなかったので、阪神・淡路大震災がそんなに悲しいものではないという記憶のまま過ごしていたんです。ちょっと自分とは違う世界で起きたことの感覚に近い感じですかね。だから多分熊本の地震とかもテレビで見ていて「こんな状況なんだ」と思っているのと近い。同じ神戸にいるくせに。

 

ーー でも、そこら中、焼け野原になったりしていたでしょう?

 

松原:あまりにも非日常過ぎたんですよね。「ビルが倒れている!」とか「電柱ってこんな折れかたするんだ」とか。妙なテンションだったんですよ。

 

それでよく分からないまま高校でバンドをやって、高校を卒業したタイミングで初めてバンドで関東7箇所を廻るツアーをやったんですが、全箇所のMCで「神戸から来ました」とか言うと終わった後にライブハウスの人とか、あとお客さんからすごく心配されたんです。地震から5年くらい経っていましたが、「あのとき大丈夫でしたか?」とか「あのとき何も協力できなかったから、良かったらご飯をご馳走させてくれ」とライブハウスの人におごってもらったり、家に泊めてもらったりとか、何かすごく優遇されたんです。

 

それで「こんなにみんなが神戸のことを思ってくれていたのに、自分は遊んでばかりだったな」と罪悪感がすごく生まれて、ツアーが終わって神戸に帰って来てから改めて考えたんです。「今自分がやっているこの仕事、ライブハウスが潰れたら、どうやって明日からご飯を食べていくんやろ」とか、なんか単純なことですけど、やっとそこで気付いて「これからは何かしなきゃ」という思いから、震災復興の集いとかに行くようになったんですが、どこもご年配の方ばかりで、若い子が全然いないんですよ。

 

ーー なるほど…。

 

松原:「震災を風化させないように」とか言って集いをやっているんですけど、僕みたいな人間をもっと呼ばなかったら意味ないなと思っていたんです。当時「RUSH BALL」というフェスが神戸で開催されていたんですが、それが2004年を最後に大阪に引っ越しちゃったんですよ。で、神戸に音楽フェスティバルが無くなってしまったので、フェスと震災のイベントを合体したら、若い子も集まるし、僕の仕事にも絶対生きるし、今の自分にとってすごく大事なものになるんじゃないかなと思って、2005年に「GOING KOBE」を立ち上げました。

 

ーー 2004年にバンドは諦められたと仰っていましたが、絶妙なタイミングだったんですね。

 

松原:タイミング的に本当そうですね。バンドから自由になって、心機一転この仕事で頑張ろうと思っているタイミングでした。1年目は徹夜続きでめちゃくちゃしんどかったですが、「これを乗り切ったら何か見えるはず」という思いでやり抜きましたね。おかげで13年間続けることができて。

 

ーー 「COMIN’KOBE」って無料のイベントなんですよね。

 

松原:そうですね。今年は13ステージに130組のアーティストが出演して、3万5千人の動員がありました。

 

ーー この規模に達したのは何年目ですか?

 

松原:この規模に達したのは2008年くらいでしょうか。07年位ぐらいからは2万、3万くらいになりましたね。

 

ーー 3、4年でそこまで行ったんですね。

 

松原:がむしゃらにやっていましたから、気がつけばという感じなんですけどね。でも1年1年にステージでも客席でも色々なドラマがあって、どの年も思い出深いです。

 

ーー 「COMIN’KOBE」は収支を明らかにしていますが、マイナス部分はどうしているんですか?

 

松原:これは僕が持ち出しています。でも、よくできている話なんですが、去年1千万マイナスで今年1千万プラスだったのでチャラになったんですよ。3年前も600万マイナスだったんですが、その次の年にクラウドファンディングをやって、その補填分が集まってチャラになりました。だから赤字が出たら次の年に補填できているんですよ、ずっと。

 

ーー トータルでは損してない?

 

松原:損してないです。不思議なもので。むしろライブハウスに還元されるものがすごく多くて、例えば、このフェスに出たいからってバンドマンが集まってくれるじゃないですか。だから会社としては絶対このイベントのおかげで潤っているところがあります。直接的なものは見えないですけどね。

 

ーー 出演者を見ると改めてすごいですね。

 

松原:ありがとうございます。今年も本当にすごくて、シークレットだったんですがHi-STANDARDに出てもらったり、過去最高の出演者が集まったと思っています。

 

ーー 出演依頼というか交渉もご自分でなさっているんですか?

 

松原:基本的には全部僕がやっています。このイベント自体、スポンサー集めも会場決めも出店のやりとりも全部やっています。これって無料イベントなので誰も雇えないんです。お金が無いので。でも自分が動く分には経費がかからないじゃないかという感覚で、自分1人でやっていました。

 

ーー いやー凄いです。

 

松原:去年、僕のガンが分かってからは、うちのスタッフが手助けしてくれるようになりました。今年に関しては、僕が指示をして報告を受けて決定を出してという作業だけだったので、本当に楽になりました。特に1〜3年目のときはたくさん茶々も入りましたし、騙されそうにもなったし、色々なことがありましたね。めちゃくちゃ悔しい思いもいっぱいしました。

 

ーー それを1人で13年。

 

松原:もう意地でしたけどね。でも本当に震災のとき遊んじゃったという罪悪感がすごくて。なんか良いことをしたいんじゃなくて、学校で宿題を忘れて立たされたり、廊下のぞうきん掛けをさせられているのと一緒で、あのとき反省とか、遊んでしまった中学3年生の自分に対する懺悔・罪滅ぼしでこのイベントをやっているので、そんなに苦じゃなく頑張れるのかもしれません。これがお金のためだったら、ここまで続けられなかったと思うんですね。1年目のあの苦労のときもお金のためだけだったら「もういいや」となっていると思います。

 

ーー 「COMIN’KOBE」は関西地区でやっているイベントの中で、もっとも大きい規模なんですよね。

 

松原:少なくとも無料イベントでこの規模はないです。

 

 

6.「これからは息子たちのために生きよう」〜突然のガン余命宣告

 

ーー ご自身のガンは去年のいつ頃分かったんですか?

 

松原:去年の3月に分かりました。それこそ、「COMIN’KOBE」開催の2か月前に分かったんですよ。

 

ーー 何か兆候があったんですか?

 

松原:血尿が出て「あれ、おかしい」と思ってネットで調べたら、血尿はガンか腎臓結石とあって、結石だったら痛い。で、ガンは痛くないと。それで僕は痛くなかったので、すぐ病院へ行ったんですが「これはうちでは手に負えない」ともっと大きい病院へ行ったら「ステージ4です」と言われて。それで「余命何年ですか?」と訊いたら「まあ2年くらいかな」「5年後の生存率は10%」と言われました。

 

ーー その診断は今も変わってないんですか?

 

松原:変わってないです。僕は翌月の4月には腎臓を1個取ったんですが、肺とリンパ腺にも転移していますし、リンパ腺なんて血液に入っちゃっているのでどこに転移するか分かんないんですよ。ですから、この診断はもう一生変わらないです。でも今1年4か月間生きられているので、2年クリアできそうだなって感じです。

 

ーー 正直、こうやってお会いして、余命宣告されている方には全く見えないです。

 

松原:みんなにそう言われます。でも毎朝抗がん剤治療をやっていますし、今、気管支にガンが侵入しているので咳が出ちゃいます。血も結構吐いていたんですが、今の抗がん剤がすごく効いて、それは止まって咳だけになっている感じですね。ガンのことはもうみんな知っていますし、交通事故でパッと死ぬより、ガンで良かったなと思いますけどね。全社員には僕が死んだあとのことは全部指示していますし。

 

ーー 結構早い段階で周囲には公表されたんですか?

 

松原:はい。手術する2日前にSNSで発表しましたし、新聞やテレビも色々取材してくれましたから。もう、僕のこと知っている人は全員知っていると思います。街を歩いていても「大丈夫ですか」とか言われますもんね。それで「大丈夫ですよ」って答えて。

 

ーー 現状、体調はどうなんですか?

 

松原:最近は調子良いですね。昨日も飲みに行っていましたし。

 

ーー お酒を飲んで良いんですか?

 

松原:ガンとお酒は科学的に因果関係が解明されてないんですよ。だから医者もドクターストップをかけられなくて「ほどほどに」と言うしかできない。言ってもステージ4なので「楽しく生活してもらった方が良い」と医者的にはそういう考え方らしいんですよ。患者さんがやりたいことをやって生きてもらった方が良いみたいな。酒を止めてガンが治るんだったら止めますけど、治るかどうかわからないのだったら、もう飲ませてくれって言っています。それでもセーブはしていますけどね。週1にしたりとか。それでも楽しくやっていますよ。

 

ーー 松原さんはお強いですね。

 

松原:性格的にすぐ受け入れられちゃうんですよね。息子にだけは申し訳ないなと思いますけど。ただ息子が小学生とかだったら辛いですけど、もう高校と中学生なので僕のことは分かっていますし、色々話せたので、いい機会にもなったかなと思いますけどね。

 

ーー では自分のペースで最後の最後まで仕事はするぞという気持ちなんでしょうか?

 

松原:いや、そうじゃないんですよ。2つ選択肢があるじゃないですか? どうなってもいいから、今のペースで仕事を頑張って、社会的に自分という存在を明確にして死ぬか、体のことを優先して仕事をセーブするか。悩んだんですが、僕は息子のために生きようと思って後者の仕事をセーブする方を選びました。だから今は会社に来るのも週1くらいで、ほとんど在宅で、会議なんかはスカイプでやったりしてます。

 

ーー 息子さんがある程度大きく育っていることは救いですね。

 

松原:できれば結婚式に出てあげたいんですよ。だから彼らの結婚式までなんとか生きられたらな、というのが今の目標です。仕事の中でもやりかけの夢は色々あったんですけど、そこはいったんストップしてね。

 

 

7. 今は若い人たちにとってチャンスの時代

 

株式会社パインフィールズ 代表取締役 松原 裕 氏

 

ーー やはりハードワーク過ぎたということなんですかね。

 

松原:どうなんですかね(笑)。でも寝ずにずっと働いていたので負担はかかったのかもしれないですね。ちょうど南部くんとも話していたんでんですけど、ガンがわかるちょっと前に、このまま60歳までこのペースで働き続ける自信ないなと。「しんどいな、早く死んだ方がええんちゃうかな」と思っていたら、その数ヶ月後にガンがわかったので、なんか皮肉なもんだなと思いました。そもそも僕ってセーブできないんですよね。100%で仕事をしないと気持ち悪いんですよ。それが上手くできたらね。もっといいやり方があったんじゃないかなって思いますけどね。

 

ーー 自分でも無理しちゃったなという自覚はある?

 

松原:まあ、振り返ればめちゃくちゃ無理していた自覚はあります。本当に寝ずにやっていたので。平均したら睡眠時間3〜4時間が何年も続いていましたからね。ライブハウスに出て、打ち上げが終わったら夜中の3時とか4時じゃないですか。そこから寝て、子供が7時半とかに起きてくるから、幼稚園のときは送ったりしていましたし、朝ご飯は母親が作ってくれるんですけど、僕が作らないといけないこともあったし、家事もあるし、打ち合わせもあるから9時とか10時には出社していましたから。

 

ーー ライブハウスでもそんなに朝早くから営業しているんですか?

 

松原:イベントをやっていると朝から打ち合わせがあることもしょっちゅうなんですよ。相手の会社は普通に営業していますから。音楽業界だったら早くて打ち合わせは11時からじゃないですか? 一般企業と取引をし始めると早くなりますね。

 

ーー もう病気はなんとかならないものなんですかね。

 

松原:僕も調べれば調べるだけね、リンパ節に転移しているともう無理かなって思いますけどね(笑)。プールの中にこぼした墨汁を拾うくらいの難しさなので、血液に入ったガンは。でも、不思議と息子のこと以外は後悔がなくて、たまに家で寝ていて、パッと目が覚めたときに、あとちょっとで死ねるのかと思うと、気持ち的に楽になるときもあるんです。

 

ーー やはり息子さんという自分の遺伝子が2人残されていることは気持ちとして大きいんでしょうか。

 

松原:大きいです。彼らがいなかったら華麗に花火のように散るようなスタンスになっちゃったと思います。

 

ーー 「COMIN’KOBE」は、命ある限り続けられる予定ですか?

 

松原:そうですね、続けたいと思っていますし、このイベントで自分が本当に大きく成長しましたしね。僕がロックバンドを始めたときは、ロックは市民権を得てなかったと思うんですよ。でもこのイベントをやって、神戸市から文化奨励賞をいただいたり、テレビニュースで報道されたり、世間のロック=不良のようなイメージを払拭できたと思っていますし、ギターを持って家を出たら、近所の人たちから白い目で見られていた時期もあったわけじゃないですか? 今はどうやって街と共存していくかとか、そういったことの1つのモデルになればいいなと思いますし、ライブハウスの御山の大将になっているようなみんなに、もっと広く色々なことをしないとバンドのためにはなれないし、ちょっと言い方は悪いですけど、狭い世界の御山の大将に潰されたたくさんのいいバンドがいると思うんですよ。そうじゃなくて、もっと広い世界があることをみんなに知ってもらうきっかけになったらいいと思います。そういう考えに行き着いたのも、このイベントをやっているからということもあるので、本当に生きがいのようなイベントなんです。

 

ーー 若干25歳で始めたんですものね。

 

松原:やっぱり阪神淡路大震災があったことが1つのアイデンティティになったんだと思います。来年はほとんど動かずに、他のスタッフだけで回せると思うので、そうなってくると、このイベントの魂が、いい意味でも悪い意味でも変わると思います。そのときにどう成長していくか楽しみですけどね。このイベントも若い世代につないでいかないといけませんしね。

 

ーー 音楽業界もだんだん若い人が集まらなくなっていると思うんです。音楽業界に夢を持ち辛くなっているのかわかりませんが、やっぱり減っていると思うんですね。

 

松原:ちょっと語弊があるかもしれないんですが、昔の音楽バブルのときがおかしかったと思うんですよ。あの時代は「この人なんでお金もらっているのかな?」って人がたくさんいましたが、そういう人たちがふるいにかけられて今いないじゃないですか。ですからCDが売れなくなったと言われる時代だからこそ、志があって、熱意とか想いを持って、アーティストのために何かをしてあげたいという人間だけが集まってきてるし、それでいいと思っているので、僕はこの状況がまずいとは思っていません。例えば、今はライブやマーチャンダイジングにお金が流れていっているので、大きな会社で何もせずにお金が入ってくるのを待っていた人たちは、そっちに行っているような感覚があるんですが、そういう甘い汁だけを吸おうとしている人たちは、どんどん消えていってもらいたいなと僕は思いますね。

 

ーー 今は淘汰されている時代だからこそ、逆に若い人にはチャンスだと。

 

松原:絶対にチャンスです。神戸のこんな小さな事務所でもレーベルを始めて、メジャーレコード会社と契約して、タイアップを取って、オリコンの左ページに載るアーティストと仕事もできますし、数万人集まるイベントも作れるんです。本当に今はチャンスの時代だと思うので、意欲のある若い人たちには音楽業界にどんどん入ってきて欲しいですね。

 


プロフィール
松原 裕(まつばら・ゆたか)
株式会社パインフィールズ 代表取締役
1979年6月15日生まれ
1997年7月ライブハウススタークラブ勤務
2004年4月ライブハウススタークラブ店長 就任(〜2010年5月)
2005年8月チャリティーイベントGOING KOBE 実行委員長 就任
(2010年にCOMIN’KOBEと名前を変更)
2006年11月株式会社パインフィールズ代表取締役社長 就任
2011年4月KissFM KOBE 番組審議委員 就任
2014年1月一般社団法人COMIN’KOBE実行委員会 理事 就任
2015年9月平成25 年度神戸市文化奨励賞 受賞
2015年11月学校法人中内学園 流通科学大学 特別講師 就任
2016年6月三宮地下公共空間利活用実行委員 就任

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