第149回 株式会社ジャパンミュージックシステム 専務取締役 鈴木健太郎 氏【前半】

インタビュー リレーインタビュー

今回の「Musicman’s RELAY」は株式会社パインフィールズ 松原 裕さんからのご紹介で、株式会社ジャパンミュージックシステム(JMS) 専務取締役 鈴木健太郎さんのご登場です。基地の街・福生で生まれ育った鈴木さんは小学生の頃からヒットチャートを追いかけ、高校生の頃には音楽業界を志すようになります。そして、大学時代のイベンターでのバイトを経て、新卒でジャパンミュージックシステムに入社。早速、持ち前の行動力を発揮し、レーベル・プロダクション業務、アパレル業務、また現在も続くライブイベント「REDLINE」の開催など、JMSの事業を拡大させていきました。そんな鈴木さんにこれまでのキャリアと、JMSそして「REDLINE」の今後までお話を伺いました。

(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)

 

プロフィール

鈴木健太郎(すずき・けんたろう)

1981年11月16日生まれ
大学卒業後、新卒でジャパンミュージックシステム(JMS)に入社。
イベント事業ではREDLINE TOUR他、弊社所属バンドのツアー、イベント製作などを担当。他にDeviluseというブランドのアパレル事業なども行っている。

 

1. 日本だけど日本っぽくない街・福生に生まれて

 

ーー 前回ご登場頂いたパインフィールズの松原さんとはいつ頃出会われたんですか?

 

鈴木:松原さんと初めてお会いしたのは10年前くらいです。EGG BRAINというアーティストが神戸にいて、そのアーティストがきっかけでした。JMSの仕事で神戸に行ったときにデモ音源をもらって聴いたら、「これは本当に素晴らしいバンドだな」と僕の心の中ですごくヒットして、松原さんにコンタクトを取って会いに行ったのが最初です。まだ松原さんが神戸のスタークラブというライブハウスにいた頃でした。

 

ーー まだ独立前の雇われマネージャーだった頃ですか?

 

鈴木:そうです。そしてEGG BRAINというアーティストを一緒に売って行こうというプロジェクトをきっかけに今に至ります。そこからは松原さんの会社の所属アーティストをJMSでディストリビューションさせてもらったり、プロモーションさせていただいたりと交流が続いています。

 

ーー 松原さんは現在闘病中ですよね。

 

鈴木:はい。本当に心配です。僕が今年36で、松原さんの2個下なんですけど、年齢的には近いので、病気のことを聞いたときはビックリしました。

 

ーー ちょっとショックですよね。

 

鈴木:でも松原さんはバイタリティがすごい方なので、病気に勝ってくれるのを信じて待っていようかなと思っています。最近は現場で会う機会がすごく減っちゃったので寂しいですけど、また現場で会えると信じています。

 

ーー 少し仕事はセーブして、会社は週1くらいかなとは仰っていましたね。「COMIN’KOBE」も初めて人に色々任せて指揮だけ執ったと。

 

鈴木:今は会社一丸となってやっていますよね。

 

ーー その松原さんをご紹介してくださったのが、MAN WITH A MISSIONのマネージメントをされている南部喨炳さんで。

 

鈴木:南部さんも年が近いのですごく仲良いんですよ。あと余談で申し訳ないんですが、アソビシステムの中川(悠介)。彼とは同い年で、大学のサークルも一緒だったんですよ(笑)。

 

ーー ここからは鈴木さんご自身のお話をお伺いしたいのですが、お生まれはどちらですか?

 

鈴木:僕は西東京の福生で生まれて、大学が終わるくらいまではずっと福生にいました。

 

ーー 米軍基地で有名ですよね。

 

鈴木:ええ。横田基地の通りからワンブロック入ったところが実家でした。幼少期や青春時代は常にあの辺の服屋さんとかカルチャーに触れて育ってきました。ほとんど周りは外国人だらけというか、米軍の方が遊ぶところ、例えばクラブやライブハウスもたくさんあって、そういう環境で生活していました。

 

ーー 福生の夜ってどこの国か分からない感じですよね。

 

鈴木:昔は赤線と言われるところもあったりしましたからね。服屋はもちろん、クラブカルチャーやスケーターカルチャーが街に溢れていて、日本なんですが日本っぽくない街ですよね。

 

ーー 米軍ハウスとかにミュージシャンも結構住んでいた印象もあります。

 

鈴木:そうですね。業界の方とかアーティストの方、例えば、大滝詠一さんとか忌野清志郎さんとかも福生に住んでいたり。

 

ーー 何となく今、ワーナーミュージックの鈴木竜馬さんを思い出したんですが、彼も確か福生の方ですよね?

 

鈴木:そうです。今、竜馬さんと一緒に仕事しているんですよ。JMSでyonigeというバンドのマネージメントをしていまして、レコードメーカーが竜馬さんのアンボルデなんです。竜馬さんとは最初から気が合いましたね。やっぱりお互いの空気感が近いと言いますか、メジャーのメーカーの人じゃないみたいな感じでしたね(笑)。

 

ーー (笑)。鈴木さんはどんなご家庭で育ったんですか?

 

鈴木:僕は一人っ子なんですが、両親と祖父母と僕の5人で住んでいました。で、親戚も近所にいたので、いとこと遊んだりしてました。

 

ーー その頃からやはり音楽との接点があったんでしょうか?

 

鈴木:当時から服が大好きで、服屋に行くことが趣味というか、古着屋に行くと、だいたい店内でロックやヘビーミュージックが大音量でかかっているので、いつの間にか音楽も好きになっていました。常に服と音楽がリンクして生まれたカルチャーが体の中に染みついていると言いますかね。漠然と好きなこと両方を仕事にできたらいいなという思いは幼少期からありましたね。

 

 

2. 「今一番好まれている音楽はなんだろう?」ランキングが好きな少年

 

 

ーー 鈴木さんはヒットチャートにはまっている少年だったそうですね。

 

鈴木:そうですね。母親がピアノの教師で、自宅でピアノを教えていたので、幼少期にピアノとか嫌々やらされていたんですが、両親はJ-POPミュージックが好きだったので、親の影響でサザンオールスターズや長渕剛さん、吉田拓郎さんとか聴いたり、あと歌謡曲もすごく好きでした。それで小学校3年生ぐらいからCDレンタルショップに行って、ランキングの1位から10位までの曲を全部借りて、カセットテープに落として聴いていたんですよ。あとオリコンもすごく読んでいました(笑)。

 

ーー 変わった少年ですね(笑)。

 

鈴木:何枚売れてとかそういうのが好きだったんですよね。なんかちょっとおかしな子供だったんですけど。

 

ーー オリコンは駅とかで売っていたやつでチェックしていたんですか?

 

鈴木:そう、オリコンのランキングをトップ20ぐらいから毎週洋楽・邦楽チェックして、それをメモって。

 

ーー トップ20に入っていれば、ジャンルはなんでもよかったんですか?

 

鈴木:ジャンルは何でも良いです。「今一番好まれている音楽はなんだろう?」ということを知るのがすごく好きだったんですよ。

 

ーー マーケティング的観点から音楽を聴いていた?

 

鈴木:とにかくランキングが好きだったんですよ。こういう音楽が今、日本の音楽シーンで流行っているんだとか。僕の子どもの頃で言ったらビーイングですよね。B’zやZARD、WANDSとかがチャートの上位を占めて。

 

ーー 90年代初頭ですね。

 

鈴木:ビーイングさんのアーティストたちがチャートの常連で、すごく好きになりました。特にはまったのがB’zで、今でも大好きなんですが、B’zのファンクラブに入ったりライブに行ったりしていましたね。

 

ーー 小学生にしてランキングが好きって、やっぱり変わった趣味ですよね。

 

鈴木:ちょっとマニアックですよね。同じことをやっている友達なんて全然いなかったですし、孤独にやっていましたね。あと、その頃ってAMのラジオ番組でイントロクイズみたいなコーナーがあって、そのイントロクイズも自分で応募して出たり。自信あったんで。

 

ーー それは何という番組だったんですか?

 

鈴木:文化放送でやっていた斉藤一美さんの「とんかつワイド」という番組があったんですよ。月〜金20時から22時までやっていて、21時くらいからイントロコーナーがあって、電話を繋いでリスナー同士が対決していくんですが、3週勝ち抜きで1万円もらえるんですよ。その頃の1万円ってすごく大金なので、応募して3週勝ち抜いて、殿堂入りしました。

 

ーー ちなみに自分でバンドをやったりはしなかったんですか?

 

鈴木:いや、やろうとも思わなかったですね。なんか裏方志向というか。

 

ーー それは小学校のときから?

 

鈴木:そうです。気になるというか「こういうシーンを自分で作っていきたいな」みたいな壮大なことをぼんやり考えていましたね。もちろん、どう仕掛けるかも全然分からないですし、業界のことも分かっていなかったですけど。

 

ーー なるほど。では中学、高校時代は音楽漬けということですか?

 

鈴木:いや、中、高と部活でバレーボールもずっとやっていました。親父が高校のバレー部の監督だったんですよ。

 

ーー ご両親とも先生なんですか?

 

鈴木:そうなんですよ。親父からは幼少期からバレーボールを教えてもらって、バレーボールははまったんですよ。で、中学から高校まで6年間、かなり本格的にやっていましたね。

 

ーー ご両親からは音楽的な素養と、体育会的な素養の両方を受け継がれたんですね。

 

鈴木:そうですね。両親のエッセンスは確実に入っていますね。

 

3. Musicman-netで見つけたジャパンミュージックシステムへ入社

 

 

株式会社ジャパンミュージックシステム 専務取締役 鈴木健太郎 氏

 

ーー 高校時代は将来に対してどのような考えを持っていましたか?

 

鈴木:高校のときはとにかく部活動に専念していたんですが、自分の好きなことをやりながら大学へ行くのか、大学へ行くのをやめて音楽業界に入るのかというのはずっと考えていました。

 

ーー 音楽業界のことはずっと考えていたんですか?

 

鈴木:ええ。僕は高校1年生くらいから音楽業界に入りたいと思っていたので、自分の道しるべというか、思い描くものはずっとありましたね。例えば、レコードメーカーでA&Rをやりたいとか、新人発掘をやりたいとか、そういう明確な目標はまだなかったですが、音楽業界で働いていきたいという思いはずっとありました。

 

ーー では、もう高校を出るあたりでは完全に「音楽業界で働くぞ」と心に決めていたわけですね。

 

鈴木:はい。それで東洋大学に進学しました。

 

ーー そうしたら中川さんがいたと。

 

鈴木:そうですね。でも直接会って話したりとかはその頃は全然なくて、たまたま音楽系のサークルとかで一緒になるくらいで、当時、仲が良かったわけではないです。

 

ーー それはどこですか?

 

鈴木:大学時代は、警備のバイトをやっていました。それと大学の両立って感じでしたね。音楽業界にいるにはいるけど、コンサート業界でした。

 

ーー 音楽業界に片足をつっこみ始めた感じでしょうか?

 

鈴木:はい。どんな形であれ何かしら突っ込んでおかないと、どういうものか分からないなと思っていましたから。コンサート制作の現場って、身体的にもメンタル的にもとても大変なんですが、ライブハウスだったり、ホールだったり、ディナーショーだったり、色々な現場に行ってたくさんのアーティストのライブを体感して、アーティストの客層がどういう客層なのかを見るというか、そういう経験がしたくて4年間ずっとやっていました。

 

ーー コンサート制作のバイトってやはりハードだったんですか?

 

鈴木:ハードでしたね。例えば、運転して機材を積んで戻って、大学へ行ってまた現場へ行って、夜遅く大学に戻るとか、そんな感じでしたから。その頃は若かったので体力はありましたけど、基本全員先輩なのでやっぱり気も使いますしね。コンサートのイベンターさんって縦社会というか超体育会系なので、そういったところで学んだことも多いですね。

 

ーー バイトと学校のサークルに明け暮れる学生時代を過ごし、いよいよ就職ってことになりますね。

 

鈴木:はい。実は僕はJMSしか受けてないんですよね。

 

ーー JMSのことは以前から知っていたんですか?

 

鈴木:全然知りませんでした。それこそ、僕はMusicman-netでJMSに応募しているんですよ。これは僕が今日一番言いたかったことなんですよ。就職するときに僕はMusicman-netしか見ていなかったですし、きっかけを作ってくれたのは、Musicman-netなんです。これ、嘘じゃないですから。

 

ーー ありがとうございます。本当に嬉しく光栄です。

 

鈴木:イベンターでバイトしていましたから「色々紹介してやるよ」みたいなことは言われるわけですよ。「どんな感じの会社に行きたい?」みたいな。とてもありがたい話なんですが、僕は自分の力で受けたかったんですよね。自分の力で認められて、会社に入って、成果を上げるという。ですから紹介を断って、Musicman-netを見て。それで「経験者優遇」が多い中、JMSだけ「未経験優遇」みたいな感じだったんですよ

 

ーー 「未経験優遇」ってインパクトがありますね(笑)。

 

鈴木:「何この会社」って(笑)。でも新卒じゃないんですよ、別に。職務の内容が「CDのディストリビューション」とあったんですが、意味が分かんなかったんですよね。「ディストリビューションって何?」みたいな。僕はその頃、新人開発とか、自分で好きなバンドを探して、自分でプロデュースして、CDを出して売っていくという仕事を一番したかったんですけどね。

 

ーー 大体みんなそう言いますよね(笑)。

 

鈴木:言いますよね。理想というか。で、JMSが未経験者優遇で、タワーレコードさんやTSUTAYAさん、HMVさんとかに営業してCDを卸す仕事ですみたいなことで、「やったことない仕事だから良いかな」と思って、面接して、運良く拾ってもらって今に至るんですよね。もう13年になります。

 

ーー Musicman-netでこの業界に入りましたという人には今までも結構会ったことはありますが、ついにMusicman-netで業界に入った人が、リレーインタビューに出てくる時代になるとは…。感無量です。

 

4. 自分でJMSのカラーを変えよう

 

 

ーー JMSへ入社してメインの業務はやはりディストリビューションだったんですか?

 

鈴木:メインはディストリビューションですね。

 

ーー おお、繋がってきますね。自分で流通させたいものは自分で探すと。

 

鈴木:はい。自分でJMSのカラーを変えようみたいな気持ちでした。それで出会ったのがEGG BRAINで、そのEGG BRAINの1枚目が運良く売れて、そこから口コミで伸びていったんですよ。それでロックの案件がすごく増えて、一気にJMSのカラーがロックカラーに変わりました。インディーズのロックの流通会社みたいなイメージに。

 

ーー その頃JMSには何人ぐらいいたんですか?

 

鈴木:代表を入れて12人ぐらいですかね。

 

ーー 営業先というのはタワーレコードとかそういうところですか?

 

鈴木:そうです。例えば、タワーレコード渋谷店に何枚入れたとか。タワーレコード大阪に何枚営業して入れられたとか。それは一つの評価の基準でもあったので。

 

ーー バイヤーとは仲良くなりましたか?

 

鈴木:仲良くなりますね。そういうのは得意だったんです。ディストリビューションの営業って結構みんな真面目な方が多いんですよね。でも僕は、悪く言えばチャラチャラしているんですけど、空気感的に入りやすいは入りやすいんだと思います。

 

ーー バイヤーと同じフィーリングで接することができた?

 

鈴木:そうかもしれませんね。ちょっと異質な感じの営業マンだったのかなとは思いますね。

 

ーー 小学校の頃からマーケティングは鍛えていらっしゃいますしね(笑)。

 

鈴木:まあそうですね(笑)。このメロディーは絶対刺さるみたいな。

 

ーー バレーボールで身体も鍛えられていたし。

 

鈴木:縦社会も全然大丈夫ですし、体力もありますし。それまでの経験が全部生かされている感じはしますよね。

 

▼後半はこちらから!

第149回 株式会社ジャパンミュージックシステム 専務取締役 鈴木健太郎 氏【後半】

オススメ