第140回 酒井 政利 氏 音楽プロデューサー
酒井 政利 氏 音楽プロデューサー
今回の「Musicman’s RELAY」は須藤 晃さんからのご紹介で、音楽プロデューサー 酒井政利さんのご登場です。和歌山で青春時代を過ごされた酒井さんは立教大学卒業後、映画制作を目指し松竹入社。その後、音楽業界へ転身され日本コロムビア、CBS・ソニー(現 ソニー・ミュージックエンタテインメント)の音楽プロデューサーとして南沙織、郷ひろみ、山口百恵など数多くのアイドルやアーティスト、そして名曲を送り出してきました。現在もメディアを横断してご活躍されている酒井さんに、その輝かしいキャリアや数々のエピソード、そして、ご自身のプロデュース術まで、じっくりお話を伺いました。
2016年8月17日 掲載
(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)
プロフィール
酒井 政利(さかい・まさとし)
音楽プロデューサー
日本コロムビア、CBS・ソニー(現:株式会社ソニー・ミュージックエンタテインメント)のプロデューサーとして、レコード業界の黄金期を担う。今日まで50年以上のプロデュース活動により、300人余りのアーティストを世に送り出してきた。売上げ累計は約3,500億円にのぼり、「伝説のプロデューサー」の異名をとる。その仕事のフィールドは音楽分野にとどまらず、映画や舞台、TVドラマの企画・制作などにも及ぶ。 (株)ソニー・ミュージックエンタテインメント取締役エグゼクティブプロデューサーを経て、1996年、(株)酒井プロデュースオフィス設立。
一方、心理カウンセラーとしてカウンセリングを行い、TVコメンテーターを務めるなど、芸術・文化・メディアのトータルプロデュースを手掛け、今日に至る。
2005年12月、文化庁より功績が認められ、音楽業界初の文化庁長官表彰を授与される。
1. 池の水面で映像的な思考を養った少年時代
−− 前回ご登場頂いた須藤晃さんとはどのようなご関係なのでしょうか?
酒井:彼はソニー・ミュージックエンタテインメントでの仲間というよりも、触発関係ですよね。彼が何かやると、電気のプラスとマイナスみたいになるんですね。だからすごく刺激を感じたし、それでいてそれほど”なあなあ”の関係にもならなかったですね。どこか異質な世界にいるような、時には同質の世界にドップリいるような。彼もそう思っていたんじゃないかな?
−− 上司と部下という雰囲気でもない?
酒井:上司と部下というよりは、同僚みたいな気分でいました。彼は色の濃い男ですよね。私もどっちかというと色は濃いと思うんですが、だから弾き合うような関係と言いますか、同色にはならないですよね。
−− 須藤さんは今も現役でプロデュースの現場にいらっしゃいますよね。
酒井:彼の感覚は普通ではない天才的ですよね。そして、すごくプロデューサー的なものを「持っている」んだと思います。
−− 今でも時々は会われるんですか?
酒井:ええ。最近は年1、2回会うようになりましたね。会わなきゃ寂しいような感じがします。いるじゃないですか?「常に気になる人」っていうのが。彼はそういう存在ですね。
−− ここからは酒井さんご自身のことを伺いたいんですが、酒井さんは和歌山のご出身で8人兄弟の末っ子だと伺っております。現代からすると大家族ですが、どのようなご家庭だったのでしょうか?
酒井:姉は3人いまして、あとは男ばっかりなんですが、6歳くらいまで男は1人なんだと思っていたんです。兄たちは出兵していたからで、小学校2年か3年のときに戦争が終わるんですが、そうすると兄たちが1人、2人と兵隊から帰ってきたんです。
−− 一番上の兄弟と酒井さんとでは何歳違うのでしょうか?
酒井:20歳くらい離れていました。ですから兄貴が父親代わりみたいなもので、すごく面倒を見てくれました。それで私は世間知らずになってしまったんです。
−− そこまで年が離れていますと可愛がられるでしょうね。
酒井:可愛がられるというか、今でも金銭感覚がダメなんですが、それは当時からずっとつきまとっています。私はよく騙されますよ。でも騙されていることにも気が付かないぐらい、金銭感覚がダメでね(笑)。
−− (笑)。お姉さんたちもお母さんみたいに面倒を見てくださっていたんですか?
酒井:そうですね。でも、そこはやはり母親の力が強かったと思います。だから兄貴が父親役で、母親がいるって感じでした。
−− お兄さんたちは全員ご無事で戦争から帰られたんでしょうか。
酒井:ええ。珍しいんですよね。ご近所では「戻らなかった」なんて話もよく聞きましたけども、とにかく順番に帰ってきまして、「どこに行ってきた人なんだろう?」みたいな対面でした。
−− 幼少期の記憶で印象に残っていることは何ですか?
酒井:これは今まであまり話したことがないんですが、私の家は和歌山有田の保田村というところにあったんですね。そこの一番奥に家がありまして、敷地は300坪くらいで、敷地の上に丘じゃないんですが土手があって、池があるんですね。私はそこによく遊びに行っていたんですが、今から思えばすごい池で、その池が今の仕事に導いてくれたんだと思っています。
−− それは一体どういうことでしょうか?
酒井:その池に遊びに行って、夕方になるまでそこにいると、不思議なものを見たりするんですね。やや霊的なことなのかな? でも現実のことなんです。池には山や風景が逆さに映っていて、それを見ていると、その逆さまの風景からなんか声が聞こえるような気がするんですね。
私は小学校4、5年生の頃まで「映画を観ては駄目だ」と言われていたんですが、うちの姉が嫁いだのが湯浅という町で、そこには映画館があったんです。その頃の映画は3本立てでした。こっそり観たら、ものすごく面白くて映画に夢中になったんですが、池に映る風景も映画のように揺れ動きますから、何となく感じるものがあったんです。恐らく、動くものに惹かれるようになったのは、その池が影響していると思います。風景が逆さに映ったり、波で揺れたりするのを見て「面白いなあ」と。子供心に触れるものがありました。
−− はぁ…。
酒井:これも小学校4年生のときだったと思いますが、絵を提出しなければいけないことがあって、普通なら風景を描くのに、池に写っている逆さまの山を描いたんです。池といっても濁っていますから、緑の山が光線が重なってやや紫っぽく映るんですね。「不思議な色だったなあ」と、それを一生懸命描いたわけです。で、提出しましたら、先生が心配になったんでしょうね、母親が呼びだされたのを覚えています。それで「何かあったんじゃないですか?」と。母親もびっくりして「池を描いたんだと思います」みたいなことを言って、それで先生も納得して、県のコンクールに出品されたら特選に選ばれたんです。それで何となく自信がついて、どんどん絵にハマり、中学・高校と美術部にいました。
2. 松竹から日本コロムビアへの転職で音楽業界へ
−− その後、立教大学に進学されますね。大学生活はどうでしたか?
酒井:ずっと映画が好きだったので、大学2年くらいから「とにかく映画会社の制作部に入りたい」と思って毎日わくわくしていました。かと言って映画研究会とかに入る気は全くなくて。
−− 映画監督になりたいとは思わなかったんですか?
酒井:そういう想いは全然なかったです。要するに映画監督のお話を伺いたい、と。その当時の名作というと小津安二郎や木下惠介とかなんですが、そういう映画はあまり好きじゃなかったんです。なんかかったるくて。それより山本薩夫監督とか、やや社会派なんですけど「迫力があっていいな」と思っていましたし、あと黒澤明監督も好きでした。それで山本薩夫監督に会いに行ったら、何度目かに会っていただけて、事務所に遊びに行ったりしました。山本薩夫監督は松竹の監督だったんですが、その後独立して事務所を構えてらしたんです。それで山本薩夫監督が「そんなに制作をやりたいなら松竹を紹介してあげる」という経緯になるんです。
−− それで松竹に行かれたんですね。
酒井:ええ。松竹に無事入りました。そうすると松竹の先輩が「今頃ここに来るのは不運。もうテレビの時代だよ。映画はもう作らないよ」なんて言うんです。ちょうどテレビが台頭し始めていた時期で、ちょっとガッカリするわけです。その先輩も良い人で「君は音楽とか興味ないの?」と。それで「あんまりないですねぇ」って答えて(笑)。
−− (笑)。実際、音楽にはあまり興味がなかったんですか?
酒井:考えたこともないですね。私は音楽がどうこう、サウンドがどうこうという聴き方はしないで、常に映像ありきで音に入るんです。
−− 音楽を映像的に解釈してしまうと。
酒井:そうです。そういう解釈を人に言うと、みんな笑うんですよ。それでその先輩に「音楽の聴き方もわかりませんし、作り方もわかりません」と言ったんです。でも「今、日本コロムビアが人を探しているんだよ。受けろよ」とアドバイスしてくれて。その中途採用は文芸部採用試験で、その「文芸部」というところに少し惹かれたんですよね。今でいうプロデューサー採用試験なんですが「年齢問わず。大卒から社会人まで」ということで、4,000人も受けに来たみたいですよ。で、2名しか採用されなかった。後の2名は念のためということで、営業部に。「営業部でもOK」と言ったんでしょうね。
−− どんな試験だったんですか?
酒井:簡単な筆記試験があって、その後面接ですよね。最終面接で何百人か残っていたと思うんですが、面接官は吉田雄二郎という名部長と言われた方で、「君はどういう歌が作りたいんだ?」と訊くわけです。私は山本薩夫監督の影響がありますから、映画のことを音楽にすり替えて喋りつつ、「誰にでも故郷があると思うので、そういう歌を作っていきたい」と言ったら、吉田部長が身を乗り出して質問してくるんですよ。こっちは「困ったな」と思いながらも、向こうは乗ってきてくれるし…(笑)。「誰でも自分の故郷がありますから、そういう歌を作ればシリーズになると思う」と話したところ気に入ってくれたみたいで。でも、その企画はコロムビアでは実現できなかったんですね。そんな余裕はなくて。
−− 日本コロムビアに入社されて最初の印象はどうでしたか? やはり映画会社とレコード会社というのは文化とか大きく違うわけですよね。
酒井:コロムビアに入って、「大変なところに来てしまった」と落ち込みました。当時、文芸部の広い部屋には火鉢が置いてあって、それで和服を着てくる先輩もいるくらいなんです。夏は浴衣でね。その人は斎藤昇さんという村田英雄さんや北島三郎さんを担当していた名プロデューサーで、後にクラウンに移って社長になった方です。それで「なんで和服なんだろう?」と思っていたら、デスクにいる女性が「斎藤さんは水虫なんです。靴を履けないから下駄なんですよ」と(笑)。
−− 浮世離れしていますね(笑)。
酒井:そう、浮世離れしている。でも、帽子をかぶって浴衣なんて人は、まだ結構街にもいました。レコード会社の原盤とかジャケットを管理しているセクションにも着物を着た年配の女性がいましたしね。
−− 当時コロムビアってどこにあったんですか?
酒井:内幸町の大蔵ビルです。古風で雰囲気はあるんですが、薄暗いんですよ。もうちょっと明るくならないのかな、と思っていました(笑)。そこに三味線を抱いた人が来たり、着物の人も来るし、作家も古賀政男先生や西条八十先生という巨匠たちですから「なんか違うなあ」という気分になるんです。入社後、2ヶ月間くらい川崎の工場へ研修に行かされて、レコード盤をジャケットに入れたりするんですが、紙で手を切るし、隣に味の素の工場があって悪臭が酷いんですよ。それでことごとくに幻滅しましたね(笑)。でも「文芸部に戻って何かをやらなきゃ」という熱い夢を持っているわけです。
で、文芸部に戻ってきて、しばらく色んな事をするうちに、ときどき会社が空っぽになる気配なんです。あんなにいた先輩たちがどこかに行っている。「会議でもやっているのか?それとも旅にでも出ているのか?」と思っていたんですが、結局「クラウン騒動」が始まっていたわけです。
3. 守屋浩『大学かぞえうた』でプロデューサー・デビュー
−− 「クラウン騒動」とは何でしょうか?
酒井:伊藤正憲さんという専務がいらっしゃったんですね。その方が社長と激突したらしく「辞める!」と。それで新しく作った会社が日本クラウンです。それで斎藤さんとか美空ひばりさんを担当していた馬渕玄三さんとか、そういう名プロデューサーたちが一緒に行ってしまったわけです。私がお世話になっていた上司の長田さんも「行く」とは話してくれなかったのですが、毎日いなくなるんですよ。きっと打ち合わせを重ねていたんでしょうね。それが「クラウン騒動」です。
−− クラウンはコロムビアから別れてできた会社なんですね。
酒井:そうです。この騒動は私にとってショックでもありましたけど、ラッキーなチャンスでもありました。上層部がポンといなくなるから、残った部長が「酒井!あれもやれ!これもやれ!」とアテにされた。とにかくやらせるしかないから。ですからこまどり姉妹も島倉千代子も、って感じだったんですが、私はその頃、こまどり姉妹も島倉千代子も苦手だったんですよ。歌いながらメソッとしているのが考えられないわけです。そんなときに「勉強のために守屋浩もやったらどうだ?」と言われたんですが、「やったらどうだ」と言ってくるのは、全部低迷していた歌手なんですよ。今を思えば、プロダクションの事情で逃げ道を作る感じですね。守屋浩さんというのは『有難や節』とか『僕は泣いちっち』とか大ヒット曲はあったんですけど、当時低迷していたんですね。
先ほど名前が出た馬渕さんという大先輩が結構私の面倒を見てくれたんです。この方は口調が荒いんですが、ポイントを突いたことを言うんですね。「お前会社にいても何にもならないよ。街へ行け! 街へ行って色んな物を見てこい!」と。で、「そりゃそうだよなあ」って気分になるんです。1回出社して会議なんかを終えてからは街に出て、一種のサボりのような状態ですよね。歌声喫茶、今でいうライブハウスのようなものなんですが、そこに行ったりして。まあ仕事にしなきゃいけないので、マネージャーを呼んで「今どんな歌が受けているんですか?」と聞いたり、生意気にもリサーチしていたんですね。そうしたら『大学かぞえうた』というのが受けていると言うんですね。「上手くやれば守屋さんに合うな」と思って、浜口庫之助先生に相談したら「採譜してやるよ」という話になって、やっていただいたんです。ですからあの曲は歌声喫茶から拾って、浜口庫之助さんが譜面に起こして実現したんですね。
−− では、オリジナルの作曲者というのはわからないんですね。
酒井:不詳ですね。不詳ですから少しくらい直してもいい。私の第1回のレコーディング、デビュー作が『大学かぞえうた』なんです。それを上司の長田さんが色々リードしてくれて。「こういうものでいいんだろうか?」と満足はしてないけど、第1回ということで。
それで、いよいよ発売になったんですが、発売して1週間もしないうちに、読売新聞だったんですが「何という歌を発売するんだ!」と。どういうことかというと『大学かぞえうた』というのは、大学名が実名で出てくるんですね。「軟派張る奴ぁ慶大生」とか確かに問題があるんですよ(笑)。でもそこが面白いんです。最初の投稿欄は1通だったんですが、それが100何通にまでなってきた。要するにOBが訴えているんでしょうね。クレームです。で、発売中止になるんです。
−− デビュー作がいきなり発売中止ですか…。
酒井:その頃、北島三郎さんもデビューする頃で『ブンガチャ節』というのがデビュー曲なんですが、『ブンガチャ節』って「ベッドの軋む音」なんですね。それが「卑猥」だと発売中止。続いて『大学かぞえうた』が発売中止。だから部長も大変なショックで、あんまり側に行けない雰囲気でした(笑)。
で、原因を考えてみて「実名が入っているからいけないんだ」と。でも歌声喫茶では決まった実名で楽しんでいるわけでもないし、そこは軽く考えていいんじゃないかと思って、長田さんに相談したら「すぐに守屋呼ぶから、それだけやって再発売したらどうだ」ということになって、再発売になったんです。そうすると「発売禁止になった守屋浩の『大学かぞえうた』再発売」ということで話題になって、ポンっとベストテンに入ったんです。これは今でも忘れられないショックを受けたマスコミ体験ですね。これは大事にしていくべきなんだと実感しました。だからその頃から、どんなマスコミの問い合わせにも答えてきているつもりなんです。
−− ちなみにどうやって実名の部分を誤魔化したんですか?
酒井:「ン」を入れました。「軟派張る奴ぁ“ン”大生」。でも、こっちも面白いんですよ。リスナーたちは自分の知っている大学を入れればいいんですから。それでベストテンには入って守屋さんも復活したという滑り出しだったんです。
−− ちなみに最初の発売にあたって、社内で「まずいんじゃないのか?」という意見はなかったんですか?
酒井:まったくなかったです。「それ行け!」みたいな話でしたから。守屋浩が歌声喫茶で人気の『大学かぞえうた』を取り上げたというので、長田さんが結構マスコミを呼んでくれて、新聞社も何社か来てくれて、記事も大きく出たんですね。で、煽って煽っての発売で、結果、発売中止なので「……」という気分でした。
−− でも結果オーライですよね。波乱のスタートの後は?
酒井:歌謡曲班とポップス班があって、私はポップス班にいたんですが、その頃、弘田三枝子の『ヴァケーション』じゃないですが、洋楽曲ポップスのカバーが堅実に売れるんですね。ですから、色々な音楽出版社へ行って、そういう楽曲を聞いてまわったりしていたんですが、楽しくないんですよ。洋楽曲を聴いて、それを日本語にするって。要するにイメージが広がらないんですね。それで分かったんですが、私は言葉に惹かれる人間なんですね。リズムやサウンドはもちろん大事なんですが、言葉が意味深いほうが、映像的に広がる。そういう性でした。
それで「どうしよう。この退屈さは何なんだろう」と。仕事場には恵まれているんですが、とにかく退屈なんですよね。で、ある日「やっぱり映画を作ればいいんだ」と思ったんです。もちろん映画は作れないんですが、映画を作る妄想ですよね。何か原作を見つけて、キャスティングも決めて、それから音楽。つまり主題歌を作ればいいんだと。そういうつもりでやろうと思ったら、活力が出てきました。それで会社から銀座方面に出て、本屋さんに行くんですね。で、「若者に人気が出そうな本があったら教えてくれませんか?」なんて言って、名刺を置いて帰ったりしていたんです。そうこうしているうちに『愛と死をみつめて』に出会うことになるわけです。
4. メディアミックスの先駆け『愛と死をみつめて』
−− 『愛と死をみつめて』は原作から見つけられたんですか?
酒井:ええ。ですから、TVドラマや映画よりも先です。原作の見本を「今度こういうのが出るから持って帰りなさい」と言ってくれた書店主がいて、感謝ですよね。それで「これ、歌にすると良いかもしれない」と。女子大生がテーマだから、女子大生を呼んで等身大の人に詩を書いてもらおうと。そこでプロの作詞家を呼びたくなかったんですよね。私はものを作るには対等じゃなきゃいけないという気分があるんですね。コロムビアにいると、島倉千代子さんには偉い作家さんがいて、私に「書いてあげたよ」って言うんだけど、なんか違うなと。自分が著作権を持っているわけですから「書いてあげた」っていうのはやはり違う。だから、私は対等な関係で行きたいと常々思っていました。
『愛と死をみつめて』は、大和書房という出版社から出ていたので、そこの社長にも会いに行きました。そうしたら「あなたは課長?」とか聞かれて「いえ。私は新入社員です」と言ったら、「じゃあ独占契約なんて勇気はないだろう」って言うんですよ。私は「独占契約ってなんですか?」って感じだったんですが(笑)、社長さんは「この本は人気が出ると思うよ。独占契約しておけばコロムビアさんだけになるし」と言うんです。「じゃあ下さい」と(笑)。「下さいと言っても条件だよ。少し原作料を高くして…」とおっしゃるので「それは出ないと思いますよ」と。そうしたら「じゃあ安くてもいいから独占契約にしておくから」ということになりまして。
−− それはラッキーですねえ。
酒井:ラッキーというより猪突猛進なんですよ(笑)。
−− (笑)。知らないからこそ恐れ知らずだったと。歌詞を書く女子大生はどうやって探してきたんですか?
酒井:当時「平凡」「明星」という二大雑誌があって、そこに詩を応募してきている人がいると聞いたので、女子大生を紹介して欲しいと編集部に連絡して、2〜3人紹介してもらって、「この本を読んで、あなたの思う主題歌を書いて下さい」と依頼しました。その中で良いかなと思うものがあって、1人採用したんです。
−− 本当の素人だったんですね。
酒井:素人です。私も発売がいつなんて決めていないですから、ゆっくり制作できたんですね。あの作り方が一番楽しかったですね。作曲は、それこそ古賀政男さんから当時新人作曲家の市川昭介さんまでいるので、会社は「専属作家を使え」と言うんですよ。ところがどうもベテランの作曲家は合わないんじゃないかと…(笑)。
−− ピンと来なかった?
酒井:どちらかというとクラシックが好きでしたから、クラシック系の新人がいるんじゃないかと思って、毎日新聞社の知り合いに聞いたら、「大阪のNHKにクラシックを一生懸命やっている奴がいるらしいよ」というので紹介してもらったのが、土田啓四郎さんです。確かにメロディは綺麗でしたね。
それで女子大生の詩ができ上がってから土田さんを呼んで、曲を作ってもらって、「映画の主題歌」ができました。それで青山和子という大部屋歌手を見つけてきて、老けて見えるから髪を切ってもらったりして、女子大生風に見せました。彼女は当時イニシャルが6,000枚も行かない歌手でした。当時6,000枚なんていうのはダメ扱いなんですよ。美空ひばりさんはイニシャル10万、そこから40万まで行くわけです。会議で部長が「じゃあ4,000枚だなあ」と。ところが発売したらボンッと2万くらい跳ね返ってきて、あっという間に10万近くまで行きました。それと同時に本も大評判になりまして…。
−− まさにメディアミックスですね。
酒井:そう、メディアミックスです。さらに運がいいことにTBSの石井ふく子プロデューサーが「酒井くん!あなた独占契約持っているけど、あれってテレビは大丈夫よね?」と。「いや、大丈夫だと思いますよ」と答えると、石井さんが「東芝日曜劇場で、前後編でやる」と言うんです。そして「あなたが作ってくれた歌も使うから」みたいな。こっちも「お願いします」って言っていたんですが、残念ながら曲は使えなかったんです。東芝日曜劇場のワンマンスポンサー 東芝といえばステレオで、コロムビアもステレオでしたから。
−− つまりライバル会社の曲は使えないと。
酒井:あの頃はそういうことにきびしかったんですね。でも、石井プロデューサーは人が良くて「曲を使ったわよ!」って言ってくれるから、第1回の放送を観たら、東芝のステレオのCMコーナーで私の作った『愛と死をみつめて』のイントロだけ流れたんです(笑)。その後、何年も色々なテーマ曲や岸田敏志にまで至るわけですから、石井プロデューサーは私の恩人なんですが、そのきっかけは『愛と死をみつめて』でした。
結局ドラマ化でまた話題になって、80万枚くらいまで行くんですよ。それで年末が近づいた頃に新聞を見たら、「愛と死をみつめて、日活が吉永小百合・浜田光夫のゴールデンコンビで映画化! 主題歌は吉永小百合『愛と死のテーマ』ビクター発売」と出ていて、「吉永小百合さんならイメージもいいなあ」なんて思っていたら、コロムビアの著作権一課が「何言っているんだ、お前。こっちは独占権があるんだから、ビクターに断ってこい」と。独占だからビクターは出せないんです。
−− 独占というのはテレビも映画も全部コロムビアにお金が入るということですか?
酒井:いえ、そういうことではなくて、レコード化権だけです。例えば、映画の中で吉永小百合さんが『愛と死のテーマ』を歌っても全然問題ない。でもビクターでのレコード化はできない。で、そのことをビクターの課長に話に行ったら、翌日発売中止にしました。だから吉永さんの曲は日の目を見なかったんですね。でも「明星」とか「平凡」では、主演女優と歌手の青山和子という形でよく対談が載って、それでミリオンセラーになるんですね。そういう側面攻撃、今でいうマスメディア戦略が、意図したわけではなくて、偶然にもあったんです。最初は、テレビも映画も決まってなかったわけですし、青山和子には、急にスポットライトがあたり始めた感じでした。
−− それがいきなり日本レコード大賞ですよね。すごい…。
酒井:プロデューサーというのは「無心に出す」というのが一番大事で、打算は駄目なんです。かと言って無心にはなかなかなれないんですよ。「そうか。これが無心か」ってのも、もちろん体験しましたけど、それは後の話です。その後、原作から歌にという企画をたくさんやりました。林芙美子と田中澄江でやりましたし、ソニーに入ってからの『ベルサイユのばら』『同棲時代』もそうですね。
−− 大信田礼子さんの『同棲時代』も酒井さんなんですね。
酒井:大信田礼子さんが売れずに苦労していたときに、彼女に『同棲時代』を持っていったら面白いんじゃないかと思ったんですよね。“同棲時代”というテーマが新しいと思ってね。『ベルサイユのばら』も池田理代子さんがまだ千葉のアパートにいる頃で、交渉に行ったら「良いですよ。独占なんて嬉しい」と独占権をもらえたんですね。で、ジャニーズJr.でやったんですが、ミスキャストだったのか、あるいは本もそれほど話題になってないから、6万枚くらいしか売れなくて、オリコンも40何位で終わったんです。それで「あ、こんなもんなんだな」と思って、5〜6年して独占権が切れるかというときに、宝塚が『ベルサイユのばら』を舞台化すると。で、宝塚が調べていくとレコードが出せないということが分かり、全部ソニーに音楽制作を任せてくれて、これが売れたんです。アルバムも売れたし、シングルでは『愛あればこそ』というヒット曲も出ました。
5. 思い立ったら、即走る〜「歌屋論争」とCBS・ソニー移籍
−− 『愛と死をみつめて』の後、酒井さんは時代のフロンティアとして、専属作家や大先生を使わないで音楽制作をしようとして色んな摩擦が起きたと伺っています。
酒井:色々ありましたね。まず専属作家組合から「酒井っていうのはフリーの作家としかやってない」と苦情が来るんですね。それから皆さんはご存じないでしょうけど、日本歌手協会からも苦情を受ける事件が起こるんです。
−− それはどのような事件だったんですか?
酒井:「週刊サンケイ(現 週刊SPA)」が、年末に紅白歌合戦を取材していたんです。そのときに淡谷のり子さんのところに取材へ行って、淡谷のり子さんが色々な歌手をぶった斬りしているんですね。「美空ひばりなんか歌じゃない」「ハートフルじゃない」「村田英雄も歌じゃない」とか。「若手は全部歌屋だ」という侮辱的な表現まで飛び出してね。あの頃は人権意識が緩かったんですね(笑)。歌屋であって歌手ではない、と。それで「歌屋論争」が始まったんです。
それである日、「歌屋論争」をテーマにしたTBSの生番組に淡谷のり子さん、望月衛さんという心理学者、望月優子さんという女優とともに、若い音楽関係者ということで私とキングの長田暁二さんが出たんです。望月優子さんが「皆さんそんなに怒っているわけじゃないですよね?」みたいなことを言うんですが、「いえ、とんでもないことを言われていると思います。若い歌手だって精一杯歌っている。私たちから見たら淡谷先生なんて“養老院歌手”が歌っているとしか思えない」と言った瞬間に、淡谷のり子さんが席立って引っ込むんですが、生番組だから画面が「シャー」となって、何秒か経って音楽が流れました。まあ放送中止事故ですよね(笑)。それこそ翌日から週刊誌のエサでした。
−− テレビでそれを言う勇気というのはすごい。真剣に作っていたからこそ、訳のわからないことを言う人たちが許せなかったということですよね。
酒井:そういうことにしておいてください(笑)。だからよく「養老院歌手」なんて言葉が出てきたな、と。見たまんまを言っただけなんですけどね(笑)。淡谷先生も怒って怒ってね、ずいぶん長い間。でも最終的にNHKラジオのディレクターかプロデューサーに「あいつ呼んで。仲直りしたい」とおっしゃって、仲直りしました。でもちっとも仲直りじゃない(笑)。「歳とってわかったでしょう? 分別がついて」とか淡谷さんは言うんですが、こっちは「歳なんか取ってない!」って感じで(笑)。
−− 「かつての過ち」みたいなことを言われたわけですね。でも「今も全く同じ意見です」とは言えないですよね(笑)。
酒井:それはもう言う必要ないですからね。向こうがそれだけ気にしてくれたということで良いと思うんですよ。あの人は当時、御意見番的な人だったんですが、自分はなんなんですか、ということですよね。
−− 淡谷のり子さんに面と向かってそういうことを言うのはすごいなと思います。我々が思う酒井さんのイメージは穏やかなジェントルマンなんですが…。
酒井:私は周囲からはトラブルメーカーって言われるんですが、本人はそのつもりは全くないんですよね。見逃せばいいことを見逃せず、思うことを言って…でもいつもそういう仕事ぶりだったと思うんですね。私は思い立ったら、即走る方なんです。
−− CBS・ソニーへ移られるきっかけは何だったんですか?
酒井:当時、CBSはコロムビアにあったんですが、洋楽にいた親しい仲間が「今度ソニーにCBSを持って行かれそうなんだよ」と言うんです。それを聞いて、「ソニーで自由に流行歌を作れるようになるんじゃないか?」と虎視眈々と待っていたんです。
それでCBS・ソニーの募集が大々的に出たときに、ニッポン放送の高崎一郎さんに「私が紹介してあげる」と言われたんです。私はニッポン放送の仕事を結構手伝っていたので、高崎さんのことはよく知っていたんですね。でも「私はそういうの苦手ですから、自分で受けに行きます」と断ったんです。そうしたら、高崎さんが大賀典雄さんに連絡して「酒井っていうのは取らないほうが良いですよ」と断っていたんです。それで面接で「君が酒井君か。高崎くんから電話があったよ」「別にお願いしていませんが」と。結果として結構好意的な面談をしてくれたんです。
−− 高崎さんは後押ししてくれていたんじゃなくて足を引っ張っていたわけですか?
酒井:断ったことがカチンと来たんでしょうね。でも面接では、何人かいる面接官の中で大賀さんが色んなことを質問してくれたんですね。レコード大賞を受賞していたのも、大賀さんは気にとめてくれていたようです。私は「偶然みたいなもんです」と言っていたんですが、結局ソニーでも一番最初にレコード大賞を獲ることが出来ました。
−− それぞれの会社にとって最初のレコード大賞を獲ったと。
酒井:そうです。コロムビアもソニーでも私がレコード大賞を受賞したことで、後に社長賞が設定されたんですね。それから面接のときに「ソニーは専属作家制度ですか?」と聞いたんです。そうしたら「ウチはフリーだよ」と。それが決め手となってソニーに入りました。
−− 「それで入った」とおっしゃいますけど、資料によれば7,000人近く受けているわけじゃないですか? 落ちるとは夢にも思わなかったんですか?
酒井:考えもしませんでしたね。ですから、試験を受ける前にコロムビアを辞めてきました。例えば、コロムビアにいたまま、他メーカーを受けたらクビになるんですよ。それは先輩からも聞いていました。クラウンに行った人たちも、設立の前に辞めているんですね。私もその順序を踏んでいたんです。で、寺山修司さんと仕事がしたかったので「受かったら寺山さんを訪ねよう」と思っていました。とにかく自分がソニーに落ちるなんて気持ちは全然なくて、むしろ企画を温めていましたね。コロムビアをやめて空白があるわけですから。
−− 大変失礼な言い方かもしれませんが、酒井さんはものすごく楽観的な性格なんですね。
酒井:そう。楽観的なんですよ! 楽観的でトラブルが多い(笑)。皆さんが考えられないような事件が起きるんですよ(笑)。火の粉を浴びながら自分は面白がっているような…。
6. アイドル路線の第1号=南沙織との出会い
−− ソニーに転職後の経歴は本当に華々しくて、どこからお話を伺えばいいかという感じですね。
酒井:これは面接でも言ったんですが、一番やりたかったことは若い歌手を育成だったんです。それでレーベルの第1号としてフォーリーブスをデビューさせました。
−− ソニーの第1号アーティストってフォーリーブスなんですね。
酒井:そうです。集英社の「セブンティーン」という雑誌の編集長からジャニーズ事務所を紹介されて、第1号はフォーリーブスになりました。そのうち大賀専務が社長になられた頃、私は寺山修司さんと組んでカルメン・マキでミリオンセラーに恵まれるんですね。その褒美なのか「アメリカに3週間行って来い」と。私にとっては初めての海外旅行だったんですが、本当に暢気な旅でしたね。1人でラスベガスに行ってあちこち回ってからニューヨークに行って帰ってくるという。まあ「勉強してこい」ということなんでしょうね。で、向こうで「酒井さん、フランク・シナトラは”アイドル”と呼ばれていたんですよ」と聞かされたんです。アイドルの第1号はフランク・シナトラだと。
−− アイドルはフランク・シナトラから始まったんですね。
酒井:意外ですよね。大御所のイメージですから。それで、戻ってきたときに「アイドル」というものをやってみたいな、と。そこで寺山さんの「酒井さん、作り物は駄目だよ」という言葉が頭に浮かんできたんですね。まあ添加物は駄目だということですね。カルメン・マキは作り物じゃなかったですから。
そして、「こういう女の子を探したい」という想念が湧いてくるんですよ。人間っていうものは探しものをするときに、あてもなく探しても見つからないんですね。想念っていうものを持っていると、それに近い人が登場するんです。それが出会いなんだと思います。沖縄から帰ってきたプロダクションのマネージャーが「こんな女の子を沖縄で見つけて、いい子なんですよ! まだ高校生で、テレビ局でアルバイトしているんです」と。で、見たら本当に可愛いんです。
−− それが南沙織さんですか?
酒井:ええ。とにかく我々が向こうに出向こうと思ったんですが、まだ沖縄返還前なので、沖縄はまだ海外なんです。だから母親と一緒でも来てもらったほうが、経費がかからないですから、スタジオを取って待とうということになりました。それで羽田まで迎えに行きましたら、降りてきたのがまた綺麗な子なんですよ。ちょっとオーバーに言うと「知的すぎるな」って感じなんです。要するに女子アナみたいな感じと言えばいいのかな。着ている洋服のセンスも良いし、私は一目で気に入って「スタジオに行ってください!」と。翌日には帰さなくてはいけなかったですから。
それで筒美京平さんのいるスタジオに行って『ローズガーデン』を歌ったんです。そうしたらリズム感も声もすごく良いんですよ。京平さんも一目惚れ、ソニーの宣伝部も「酒井さんのアイドル路線の第1弾にぴったりかもしれない」と言っていました。もう嘘のように次々と物事が成立していくんですね。会社も写真を見て気に入って、社内から名前を募集することになったんですが、不思議なことに「南」が何十票かあるんですね。沖縄から来たってだけで。で、「南陽子」に一旦決まったんですね。そうしたら作詞家の有馬三恵子さんが「”南陽子”っていうのは野暮ったい。彼女は”沙織”とかそういう感じよ」って言うんです。それで「なるほど。女性の目だなあ」と感心して、「南沙織」になったわけです。彼女は本当に順風満帆のデビューでしたね。それがアイドル路線の第1号です。
−− 「アイドル」という言葉は広がりましたか?
酒井:広がりましたね。南沙織で広がったのもありましたが、その頃に運良く小柳ルミ子が数字的に来ているんですよね。マスコミが「小柳VS南」みたいな感じでライバルとして取り上げて、それでソニーと渡辺プロでは、もう一人天地真理を準備しているんです。渡辺プロでは小柳ルミ子、天地真理、山口いづみの三人娘にしたい。ソニーは南沙織、天地真理ともう一人、奈良富士子を用意していて、これを三人娘にしたい。結局、マスコミが最終的に小柳、南、天地の三人娘にしていくわけですね。その時「マスメディアの選び方は的確だな」と改めて思いましたね。
これを言うと、皆ちっとも意味がわからないらしいんですが、小柳ルミ子というのは「陸」なんですよ。「城下町」とか「瀬戸」とか陸続きなんです。で、天地真理はいつも「空」からのほほえみ。で、南沙織は「海」。この三原色は陸海空だって今でも思っていますよ。テーマがいつもそこから生まれていたんですね。
−− それは深い話ですね。
酒井:そういう発想って自分では「お〜!」って思うんですが、周りからは「変ですよ」って言われる。
−− いや、言われてみれば分かるような気がします。
酒井:揉め事になるときって、違うことを言っていることになって、それで揉めてくんですよ。自己分析すると。
−− 酒井さんの発想についていけないというか、理解できないのかもしれませんね。
酒井:今まで10個のうち7個くらいは何とかなっていますけど、3個くらいは踏み潰されていますね。でも「アイドル路線」を確立できたのはすごく嬉しかったです。小柳ルミ子が歌謡曲的なところで頑張っていた。天地真理は久世光彦さんのTBSドラマ「時間ですよ」に森光子さんが推挙してくれまして、爆発的に売れました。そこで「次は男性だ」ということで郷ひろみにとりかかるんです。
−− 郷ひろみさんを選ばれたのはなぜですか?
酒井:やはり歌もしっかりしてないと駄目だというのは、ヒシヒシ感じていたんですね。やっぱり彼の歌は聴いていて気持ちが良いですからね。でもアイドルで一番大事なのは、持っている「旬」なんですよね。南沙織もすごい「香るような旬」を持っていたし、小柳ルミ子にも「匂う旬」があったと思います。天地真理も例えるなら「ふくよかな旬」を感じていました。
ただ、マスコミも世の中もアイドル路線に対して厳しいんですよ。レコード大賞でもアイドル路線に対しては「酒井さん、アイスクリームのように溶けてしまうんですから」という酷評がありました。要するに歌とは認めてないんですよね。人気歌手とは認めても、作品の評価なんかはしてくれない。だからどこかコンプレックスもあったんです。「アダルトなものも作らなければいけない」と。
それで試みていったのが朝丘雪路であり金井克子です。あと、梓みちよや坂本スミ子、ジュディ・オング、内田あかりも挑戦しました。それを私は「再生路線」と呼んでいるんです。どこかで低迷している歌手を「もう一度」という再生。それが面白くなったんですよ。焼き直すっていうことは、ある意味で初心に戻すということですから。一度でもスターになった人は、「形」だけは持っているんですね。ところが「形」ができているから逆に「旬」を失うんですね。そこで若いときの「旬」を自分なりに取り戻して、ナチュラルに軽く歌うということが再生の秘訣だということでやった路線です。
7. 南太平洋の旅で得た無心と成果〜『時間よ止まれ』『魅せられて』『いい日旅立ち』『異邦人』
−− 酒井さんがおっしゃった「再生路線」はまさにプロデューサーの力ですよね。誰かがそれを見つけてあげないと、本人だけではなかなかできないですよ。
酒井:この仕事にはすごくやりがいを感じていましたね。そんな頃、電通からの電話で、「南太平洋へ行ってくれないか? 向こうで仲間うちの会話をしてくれるだけでいいから」と依頼されたんです。で、期間を聞いたら3週間だと言うので「そんなに休みは取れない」と。そうしたら、さすが大賀さんですよね「それは行くべきだ!」って後押ししてくれたんですね(笑)。「向こうが全て金を持つからですよ」って言う人もいましたが、そうじゃない。大賀さんって目利きなんですよ。この旅はきっと私のプラスになると思われたんでしょうね。
−− 南太平洋って具体的にはどこへ行かれたんですか?
酒井:最初はフィジーに入って、サモア、イースター島ですね。
−− イースター島ってなかなか行けないですよね。
酒井:そこがいわゆるムー大陸で、興味もあったんです。ところが「行きはよいよい」というやつで、フィジーはまだ観光気分で良いんですが、サモアについた途端に、それぞれ一人ずつ酋長の家に預けられるんですね。で、掘っ立て小屋みたいなところに夫婦や子どもがいて、衝立は紙みたいなもの一枚。食事はタロイモと魚を土の中で蒸して食べる。でも空腹というものは強くて、2日目にはちょっと美味しくなるんです。3日目にはやっと馴染んできて、4日目にようやく電通主催のサロンが開かれるんですが、そこに行くとラーメンなんかが出てくるんです(笑)。そしてすっかり和むんですね。最初は池田満寿夫さんが司会で、彼は彼で「美空ひばり論」をどんどん喋っていました。サモアでは2回くらいサロンがあって、イースター島に行ったら「横尾忠則サロン」。私もイースター島で司会をやったのですが、どう言ったら良いのかな…すごく子供のようになってしまうんですね。まるで少年に戻ったかのように。
−− サマーキャンプみたいな感じですね。
酒井:で、気が付いたら「あ、会社勤めしていたんだ」と。電話もない状況ですから、すっかり忘れているんです。で、電通は電通で、全部テープを回して記録をとっているんですね。そうか、人間実験のような話でもあるんだと。俯瞰の図で人々を観察しているんだとも感じました。それで、いよいよイースター島も終えて、東京に帰るわけですが、「そうだ仕事があったんだ」と(笑)。旅を通じて、自分を空っぽにしてしまったので、無心になれたんですね。で、「東京に帰ったらこういうことをしよう」というアイデアが湯水のように湧いてきて、その後、2年ぐらい仕事が本当に無心で楽しかったですね。
−− 帰国されて最初の仕事は何だったんですか?
酒井:第一弾は矢沢永吉です。矢沢のマネージャーが、「矢沢も低迷しているので酒井さん面倒見てくれないですか?」と相談されたんですが、やはり矢沢は“我”が棲んでいて、打ち合わせも弾まないんですよ。でもこっちも空っぽになっているので、彼の言っている主張も良く分かるんですよね。
それでサモアに行ったときに、「まるで時間が止まっているようだ」というのが皆の感想だったので、電通のコピーライターにそのことを話したことから、資生堂のCMキャッチコピーが「時間よ止まれ」に決まったんです。そして「『時間よ止まれ』というテーマで詩を書いてほしい」と山川啓介さんに頼んだら、矢沢は「人の詩は歌いたくない」と言うんです。でも、せっかくテーマもできているし、すごくいい曲だったので何度も説得したら、「条件がある。矢沢、この曲二度と歌わないからね」と。ところがどっこい4〜5年前ですが、NHKに出て歌いましたよね。ファンからの要望が一番多かったらしいですね。
−− 『時間よ止まれ』は名曲ですからね。
酒井:そう思いますよ。矢沢永吉『時間よ止まれ』が1977年。それからジュディ・オング『魅せられて』、山口百恵『いい日旅立ち』、久保田早紀『異邦人』ですね。
−− うわぁ…その名曲4曲は全て南太平洋の成果ですか?
酒井:そうです! 南太平洋シリーズ4部作です。本当に空っぽの中に色んな言葉や映像が回ってくれたんです。まず『時間よ止まれ』、それから『魅せられて』はエーゲ海なんですよ。南太平洋なのにエーゲ海っておかしいでしょう? それは池田満寿夫さんが「ここはエーゲ海ですか?」って文句言いたくなるくらいエーゲ海の話ばかりしていたんですよ(笑)。それで「東京に帰ったら『エーゲ海に捧ぐ』って本を発売するんだ」と。それで芥川賞を獲りましたよね。
ある時、池田満寿夫さんが「『エーゲ海に捧ぐ』を歌にしてよ」と言うから、「エーゲ海は歌にならない」って言い返したんです。「歌っていうのは、少し寂しいとか侘びしいのが良いんですよ。エーゲ海の、白い壁とかリッチな感じというのは歌にならないですよ」と。そうしたら「そういうものかねえ」と怒っていましたけど、私は池田さんの『エーゲ海に捧ぐ』を歌にするつもりはまるでなかったですね。
で、帰国したら東宝東和から「ワコールのCMソングを作ってくれ」という話があって、そこで『エーゲ海に捧ぐ』の女優たちをモデルに使ったんですね。そして「このイメージで曲を作ってくれないか」と言われて、コマーシャルだからというのでその女優たちをイメージしてつくったんですね。
−− それが『魅せられて』ですか。
酒井:そう。『魅せられて』はね、こっちが狙ったところは全然クロースアップされなかったんです。それはどういうことかというと、阿木燿子さんと話して「ジュディ・オングで行きたいと思う。でも相当強烈なプロットを入れないと”エーゲ海”にならないと思いますし、やりすぎると“金持ちの歌”みたいになってイメージが悪い。だからここは“女性の性欲”をテーマにしましょう」と。だから、この歌は“女性の性”がテーマなんです。「好きな男に抱かれても 違う男の夢をみる」と。ところがジュディ・オングが歌っていると、そこに余り引っかからないんですよ。衣装とか曲に気がいってしまう。
−− そして『魅せられて』は訴えられてしまいますね。
酒井:ホリプロもしっかりしているというか、「あれは酒井が池田満寿夫のアイデアを盗んだ」というような趣旨の訴えをしてきたわけです。ソニーはそれに反発して裁判になったんですよ。最終的には勝訴しました。「テーマやイメージには盗むも何もない。私は東宝東和からの依頼で作ったんだ」と、その経緯を説明するために2回くらい裁判に出ましたよ。
−− その裁判で池田満寿夫さんとは気まずい雰囲気にはならなかったんですか?
酒井:いや、池田満寿夫さんとは、南太平洋仲間というか、わかり合った仲ですし、東宝東和との経緯も知っていましたから、それはなかったです。ホリプロは『エーゲ海に捧ぐ』に半分くらい出資していたんです。だから過敏になっていたんでしょうね。
8. 理論的ではなく「想念」に従って仕事をする
−− 『いい日旅立ち』はどういう経緯で生まれた歌なんですか?
酒井:『いい日旅立ち』は決して順風な制作ではなかったですね。あれは私の「わが街」のイントロダクションなんです。これは楽しくできるなと。しかも国鉄のCMだからというので張り切ったんですよ。山口百恵と国鉄って太い路線を感じたんです。これも「男性歌手もプレゼンしてくれ」と言われて、浜田省吾を候補に挙げて、最終的に山口百恵になりました。ただ現実に流れる国鉄のCMって週に1本しかなかったんです。
−− それは少ないですね。
酒井:あの頃の国鉄には、予算がなかったんですね。それで日本旅行社や日立にスポンサーになってもらって、週3〜4本流れるようになったわけです。それで『いい日旅立ち』というタイトルになったんですよ。日本旅行社や日立の社名をパズル式に編み込んで。『いい日旅立ち』の中には「日・旅・立」が入っているでしょう?
−− あっ、入っていますね(笑)。
酒井:『いい日旅立ち』は出資した会社の名前が入ったパズルみたいなタイトルなんです。ほんとの話ですよ。でもCMのスポット時代ですから「週最低3本なきゃ」って必死だったわけです。発売当初は「唱歌みたいで地味だ」なんて言われましたが、年末にリリースして年が明けるとチャートを浮上してきました。今では国民的な歌になりました。
−− 『いい日旅立ち』は音楽の教科書にも載っていますものね。
酒井:新幹線に乗るとあのメロディが必ず流れていますよね。聴くと孫娘が帰ってきたような気分になります(笑)。谷村新司さんの作曲能力は素晴らしい。
−− そして、久保田早紀さんの『異邦人』。これも名曲ですね。
酒井:三洋電気の亀山専務から「『異邦人』というテレビを新発売するから、シルクロードの曲を作ってくれ」と依頼されて、「シルクロードは歌にできないなあ…」と悩みながらやったのが『異邦人』ですね。三洋の亀山専務は、私が尊敬するプロデューサーなんです。昔、フランキー堺さんが主演した『私は貝になりたい』という名作ドラマがあったんですが、そのプロデューサーなんです。それで「新人歌手を使ってくれ」というのが条件だったんですが、これがネックでした。ちょうどソニーのSDオーディションで、グランプリではないんだけど久保田小百合という漢字6文字の新人がいて、その子が歌っていた印象深い曲があって、のちに『異邦人』となる曲だったんです。
−− その頃は別のタイトルだったんですね。
酒井:そうです。「白い朝」でした。そしてメロディも少し手直ししました。で、テープを亀山専務に渡したら大変気に入ってくれて「この部分がスポットにぴったりだ」と。亀山専務は他の業務に追われながら口ずさんだりして…。緊張もしましたが、ラッキーでした。
−− 4曲ともすごい売り上げですよね。
酒井:イースター島の精霊たちに守られたというか、4曲ともミリオンセラーを超していったんですよね。私がソニーの中で一番は『魅せられて』で、あれは300万枚ぐらい売り上げています。
−− 売上だけでなく、それぞれの曲がそれぞれのアーティストにとって重要な曲になっていますよね。
酒井:そうですね。天の配剤みたいに運ばれてきましたね。こっちも「これはこうしたら売れる」という風にやってきた企画ではなくて、妄想と駆けっこでやってきたんですよ。
−− 南太平洋に行った仲間は、旅をきっかけにそれぞれそういう作品を遺したんですか?
酒井:阿久悠さんも一緒だったんですが、見事に実績を残されていますよね。その「南太平洋企画」のプロデューサーは、電通の小谷さんという方だったんですが、南太平洋のOB会で「酒井っていうのはいつもハッキリしなかったけど一番仕事しているな」ってからかわれましたね(笑)。
−− お褒めの言葉ですね(笑)。
酒井:ですね。旅では「ハッキリしないやつ」って思われていたんでしょうね。他の人は理論的なんですが、対して私は幻想を回しているようなところでイメージをつかむくせがありますからね。で「理論的にしなきゃ」と努力したときには失敗するんですよ。だから回線を合わせるのに苦労するんです。
9. 2020年の東京オリンピックまで仕事をしたい
−− 酒井さんはその時々で自分の中に仮想ライバルを置いて、その人に負けないように仕事をしてきたそうですね。
酒井:それはありますね。でも相手はプロデューサーではなかったんです。あるときは谷村新司さんがライバルだと思っていました。「この人、企画力があるな」と思っていたんです。それから大ライバルは阿久悠さんですね。阿久さんも私のことをライバル視していると本に書いてありましたよ。「一緒に仕事をするとうまくいかないのは、お互いに企画を考えすぎるんだ」と(笑)。
−− (笑)。阿久悠さんとの作品はあまりないんですか?
酒井:あまりないどころか、いつも「ベストテン」では阿久作品が雨雲のように上位にいて口惜しがっていたんですよ。森昌子、桜田淳子は阿久さんの作品だったんです。そして中3トリオとして山口百恵が並ぶわけですが、彼女の初期の声には私はコンプレックスがありましたから「作家を変えなきゃ」と、千家和也さんや阿木燿子さん、都倉俊一さん、宇崎竜童さん、谷村新司さんたちをウロウロしていたんですが、これが良かったんだと思うんです。周りは「なんで阿久悠に書かせないんだ? きっと仲が悪いんだ」という決めつけをしていたようですね。
阿久悠さんとのエピソードでは、南太平洋のときも面白いことがありましたよ。イースター島での横尾サロンで、横尾さんが「今日はUFOを呼ぶから!」と言うんですよ。サロンには電通の人を含めると12〜3人いるんですが、半分は「またやってる」みたいな気分だったんですが、私は「これは呼ぶな」と思っていたんです(笑)。そうしたら夜になって本当にきたんですよ(笑)。ビコーンと暗いところで光って、横尾さんは得意満面(笑)。私は今でもあれはUFOだったと思っていますが、阿久悠さんが「あれはUFOじゃない。空港の管制塔が見えたんだ」ときっぱり。すると皆「それもそうか」という気分になって、それで終わったんですね。横ヤリを入れられた横尾さんはすごく沈んでいましたが、翌日の昼に確認したら、そっちに管制塔はなくて反対側だったんです。
−− 本当にUFOだったのかもしれませんね…。
酒井:まあ、それは笑い話で終わったんですが、帰国して、少ししたら阿久さんのピンクレディーの新曲『UFO』が爆発的ヒット(笑)。またまたその雨雲を追い払おうと制作に打ち込んだのを覚えています。
−− (笑)。阿久さんは南太平洋の出来事をヒントに『UFO』を作ったんですかね?
酒井:いや〜阿久さんの客観的な洞察力は凄いですよ。「地球の男に飽きた」ってのは、ああだの、こうだのムダ口を吐いていた我々の描写だと思いますよ。そこに、見事な娯楽作品を作り上げているんだから。
−− 各界の錚々たる方々を集めて1ヶ月も旅行に連れて行って、何もしなくて良いなんて、今を思えばすごく平和というか余裕のある時代だったんですね。
酒井:広告代理店や旅行会社の黄金期ですね。私はもう一度イースター島に行きたいんですが、でも行かないほうが良いんだとも思うんです。あの気分には戻れませんから。本当に空っぽにされましたね。イースター島の霊力をもらってきたみたいな。とにかく仕事には無心に取組むことができました。
−− 酒井さんは色んな人を見て「この人にはこんなことをさせたら面白い」「こんな可能性があるんじゃないか」というのを、全て直感で作り続けて50年経ったってことなんですかね。
酒井:そうですね。理論的に組み立てたってのはないですね。
−− と、いうことは誰にもそれを教えることはできないし、酒井さん以外の人間が、酒井さんに取って代わることはできないですね。
酒井:そうかもしれないですね。伝え方も下手ですからね。
−− 野球で言えば長嶋茂雄みたいな。「パッと来たらカンと打てばいい」みたいな(笑)。まあそうとしか言いようがないんでしょうけど。南沙織さんもおっしゃっていたそうですが「酒井さんが最もアーティスト」という気がします。
酒井:いやいや(笑)。南沙織さんとか百恵さんとか、今でも新年会をしたりしている仲なんですよ。同じ戦場で戦った仲間みたいな気分ですね。みんな戦友です。
−− 酒井さんはプロデュースの極意というのは「苺大福だ」とおっしゃっていますよね。これはすごい言葉だなと思ったんですが。
酒井:プロデュースを一言で表現すると、「混(こん)」ってことだと思うんですよね。テーマにしても、題名にしても、意外なもの同士を組み合わせたものが良いと思うんです。そういうことって日頃からイメージしていないと、すぐには出てこない。例えば、郷ひろみの『よろしく哀愁』。「よろしく」と「哀愁」なんて合わないんですよね。郷ひろみは、まあ「陽」だと思うんです。明るいし陽気ですから「哀愁」という言葉は似合わない。だから新鮮に見える。でもそれだけじゃまだ足りないから「よろしく」って付けたら面白いんじゃないかなと思ったんですね。
−− 「よろしく」じゃない言葉だったら全然違う印象の曲になっちゃうんでしょうね。
酒井:あれは安井かずみさんの歌詞。安井さんに曲を渡して詞を書いてもらっていたんですが、ヨーロッパへ旅行に出ちゃって、未完成のまま連絡が取れなくなったんです。彼女はそういう面白い人だったんです。それで帰ってくるまで待っていると発売に間に合わない。後半なんてなかったんですから。だから「よろしく哀愁」というフレーズはなかったんですね。で、安井さんが帰ってきたら「酒井さんがやってくれるって分かっていたから〜」って(笑)。
そういう意味で「混」って大事だと思うんです。意外なものと意外なものを組み合わせる。「苺大福」って言ったのは、苺と大福を急いで食べたら美味しかったみたいな話だと思うんですが、酸っぱいモノと甘いモノでは合わないはずじゃないですか? でも、やってみたら意外と合った。そういう名プロデュースなんだと思います。
−− また酒井さんは「人間関係の極意は51対49である」とおっしゃっていますね。これはどういうことですか?
酒井:人と人との関係を100とするなら、理想的な割合は「51対49」だと思います。時と場合によりますが、相手を少し立てて自分が49で相手が51です。これが例えば「70対30」で相手を大いに立ててみたらどうなりますか? 一時的に人間関係はスムーズにいくでしょうが、長く続けるうちに「この人はあまり物事を深く考えていないのではないか?」「何か裏があるのでは…」と相手が疑心暗鬼に陥ってしまうと思います。
そんなことにならないようにするためにも、程よい緊張関係で人と対峙して、細胞を活性化させ、自分も相手も輝きを増すように努力すべきなんです。私は様々な経験を経て、タレントや作家たちとの関係において、常に「51対49」を保つように心掛けてきました。相手が年上であっても、年下であっても、このスタンスは変わらないです。それが多くのヒット曲を世に送り出せた力になったと確信しています。
−− 酒井さんは40歳でソニーの取締役になったわけですが、組織の中で出世するということには一切興味がなかったですか?
酒井:制作に夢がありすぎて興味なかったですね。役員というのも周りの目があるから会社はそうせざるを得なかったんだと思う。話を聞いたとき、私の第一声は「もう現場はやれなくなるんですか?」でしたから。「いやいや。今まで通りやってもらうから。酒井のオフィスも作るから」というので、それなら良いかなと思ったんですよね。
私は今年でちょうどプロデューサー生活55年なんですね。一言で言えば「おかげ様」です。本当にプロデューサー人生を満喫しましたね。いつも問題や事件が起きるんですが、いつの間にか好転するんです。雨降ってなんとやらです。今ちょうど80歳ですが、東京オリンピックまでは仕事をしようと思っているんです。『愛と死をみつめて』は、実は前の東京オリンピックのときに立ち上がったんです。だから二度目の東京オリンピックまではゆっくりと仕事していこうと思っています。
−− 素晴らしいですね…最後になりますが、酒井さんの目には今の音楽業界やレコード会社はどう映っていますか?
酒井:何がプロデューサーや制作陣を駄目にしているというか、弱まらせているかというと、一言で言ってデジタル化ですね。情報が過多なんですよ。知るということで満杯にしていて、生で確かめるということはしていない。我々がやってきたのは本当にアナログです。その人に会って、無駄なことでも話して、実態を掴まえていく。でも、今はそういうことをやっている人が少ないですよね。
寺山修司さんの『書を捨てよ町へ出よう』じゃないですが、今なら「スマホを捨てよ町へ出よう」ですね。どこに行っても、みんな二重アゴに指先を動かしている。もちろんデジタルはデジタルで良いんですが、自分も熱く行動するのが一番大事だと思いますね。
−− 本日はお忙しい中、ありがとうございました。酒井さんの益々のご活躍をお祈りしております。